長いようであっという間だった夏休みが終わり……学校では二学期が始まってすぐ、文化祭の準備も始まった。
と言っても、それは一年生と二年生の話。
うちの高校では受験に集中するため、九月の文化祭に三年生は基本的に参加しない。有志企画で何か披露したい場合は三年生にも申し込む権利があるし、開催当日に客として遊びに行くのも自由だが、勉強優先で当日も含めてノータッチ、という人も少なくない。
もちろん僕らはノータッチ勢だ。後輩たちが青春を謳歌する中、僕らは夏の東大模試の結果を受け取り、今日も今日とて己の成績と向き合わなければならない。
「よし、見るぞ。せーのっ」
模試結果返却後、恒例のイベント。
龍と吉峰と集まって、せーので自身の結果を確認する。

「……!」
やっと……初めてのB判定。前回の同日模試と比べるとどの教科も点数が上がっていて、全体的にバランス良く成長を感じられる。
「よし、A判A判」
僕がB判定の喜びを静かに噛み締めていたというのに、「冷静を装っているが自慢したい気持ちが滲み出ている声」が横から飛んでくる。
「吉峰……成績見せろや」
「どうぞ、好きなだけ」
ウザッ、と小声だが聞こえるように言ってから、吉峰の結果用紙を受け取る。

クソ、全科目こいつの方が上かい。総合点はまあ負けてるだろうと思ってたけど、一科目くらいは勝ってやりたかったぜ。国語と理科は二点差だからなおさら悔しい……。
「……ぃ」
「ん、龍なんか言った?」
「……い」
「何? てかお前はどうだっ――」
「やばい! 啓ちゃん、見て!」
「うおっ」
龍が俺の目の前に突きつけてきた紙には……。
「っ、龍、C判定!? ついにE判定卒業じゃん!」

全科目、半年前の同日模試より高い点を取れている。特に理科に関しては、地道なハイレベル演習が数字にも反映され始めていると思われる。
「やばい、かなり嬉しい……けど、本番でこれだったら逆の意味でやばい!」
「ったく、まだ九月だぞ。焦りすぎるのも良くない。しっかり喜んで、今日もしっかり勉強しろ」
龍は調子に乗らないよう自分で気をつけているみたいだったが、その表情は、内から溢れ出す喜びを抑えきれない、といった様子だ。
もちろん龍の言う通り、僕らの現時点での点数は本番で通用するものではないけれど、そんなのは当然だ。夏に既に仕上がってる受験生なんてそうそういない。焦らず、油断せず、喜ぶときも反省するときも全力で――そんな風に僕は生きていきたい。
「さて、早速この放課後からまた東大に向けて……と、言いたいところだが。龍、来月は何がある?」
「来月は中間テストと……ああっ! 早慶の模試!」
「だな。正確には、慶應は十一月の初めだけど」
そう、毎年秋には、駿台と代ゼミが共催する早慶模試があるのだ。早稲田、慶應それぞれ実際の入試問題の形式で問題を作成してくれるから、かなり本番に近い条件で練習をすることができる。
「あれ、よっしーは受けるの?」
「受けねーよ、本番も受けねーし」
やはり吉峰は受けない、か……お兄さんが私立に行って余裕がないから、親から国立に行ってほしいと言われているんだもんな。
「今のところ、吉峰はどういう出願予定なんだ?」
「前期東大、後期横国、以上」
まあ、そうなるよな。
早慶受験は本命のプレッシャーを軽減してくれるものではあるが、同時に時間も体力もそれなりに奪われる。元々は経済的理由とはいえ、吉峰の性質的に東大(ほぼ)一本集中スタイルも合っているような……なんて、他人のことならなんとでも言えるか。
「よっしー、なんで後期横国にするの?」
「募集ある学科多いし、あとはまあ、お前らみんな上京するだろうから関東で……って、何ニヤニヤしてんだテメェはよぉ」
「ふふふ、よっしーは大学生になっても俺たちといっぱい遊びたいってことね!」
「ふん、俺は東大で勉学に励む予定だからな。お前と遊ぶ暇はねーかもな」
まあどうしてもって言うなら遊んでやっても……などと吉峰がツンデレムーブをかましていたら昼休みが終わった。龍は慌てて「放課後にまた図書室で!」と、自分の教室へ走っていった。
そういえば僕らの次の授業は、生徒指導の先生が担当……廊下で龍とすれ違うのでは……と密かに心配しつつ、僕は単語帳を開いた。
◇
「でさぁ、角を曲がった瞬間センセーとぶつかって! 少女漫画みたいじゃね!?」
「食パン咥えとけば完璧だったな」
「ま、軽く怒られたけどっ」
「恋は始まらなかったか」
「残念ながら……って、あれ、俺たち何の話してたっけ」
「模試!!」
放課後、図書室のいつもの席。模試の話をしていたはずなのに、いつのまにか龍と生徒指導教員の少女漫画的な出会いについて語ってしまっていた。
「そうそう、模試模試、もしもし〜? なんつって」
「……」
「……啓ちゃん……俺泣いちゃう」
「面白かったよ。で、早慶の模試についてだな」
龍が「ぴえん」と泣きそうな表情になったが、その目は全く潤んでいなかったので話を続ける。
「早慶は僕たちにとってはあくまで滑り止め。とは言っても、同じような東大志望や早慶本命で対策してる奴らと競うわけだから、もちろんのこと厳しい戦いを強いられる。その戦いに備えて、早慶対策をこの模試に合わせて短期集中で行いたい」
「ふむふむ。問題のレベルは東大とどのくらい違うんだろ」
「僕もまだお試しで一年分しかやったことがないんだけど、そりゃあもう違うさ。やはり東大の方が二段階くらい難しいと感じる」
「ほぇ、そんなに〜」
「でも、入試で重要なのは問題レベルだけじゃない。早慶くらいだと、体感では“ちょっと時間をかけたら解ける問題”がゴロゴロ転がってる。じゃあどこで差がつくのかって言ったら制限時間だろ? 平等に与えられた試験時間の中で、点数を少しでも多く稼ぐ……そういう勝負だ」
「ふむ。つまり、点を取りやすい問題からどんどん解いていくってことね!」
「そうだ。特に英語! 東大と同じように、事前に問題形式を把握し、解く大問の順番まで決めておけ。バカ素直に第一問、第二問……なんて前から順に解いてたらオワリだからな」
家から持ってきた早慶の英語の問題を机上に置き、龍に見せながら説明する。
「まずは早稲田から。とりあえず……パラパラめくってみろ」
「どれどれ……え゙っ、なんこれ、英語だらけ! てかなになに、これどっからどこまでが第一問!? 問題文も英語だし、日本語がどこにもない……初見じゃ怖すぎる!」
「だろ? まあ落ち着いて見てみろ、どの問題が解きやすいか分かると思うよ」
「そうだな……なんか最後は語彙問題っぽいから取りかかりやすそう……第二問も並べ替えだからやりやすそうだな。第三問も第四問も……いや、これさ、第一問だけ長すぎるだろ!!」
そうなのである。早稲田理工の英語は第一問がものすごく長い。そのため、順番通り第一問から真面目にやろうとすると泥沼にハマる。(まあ、帰国子女ならどこから解こうが関係なく高得点を取れるのかもしれないが)
一方、以降の第二問から第五問は比較的時間をかけずに解ける問題が多い。特に第五問は語彙問題のため、最初に解くことで確実な得点源とすることができる。
「よし、俺はね〜……五、二、四、三、一の順で解く!」
「お、僕と一緒だ。まあ、一旦その順番で試しに過去問解いてみてから決めればいい」
続いて慶應。こちらもまずはサラッと見てみろ、と龍に過去問のコピーを渡す。
「ああ……問題文はほぼ日本語だ……早稲田見たあとだと視覚的に易しく見える……」
「こっちも大体何から解けば良さそうか分かるだろ?」
「うん! 第一問と第二問は長文だから後回しだな〜。第三問から第五問はどれも取りかかりやすそうだけど……まあ俺的には四、五、三、一、二、かな」
「これも僕と一緒だな」
第四問は文法・語彙、第五問は和文英訳、第三問は会話文。まず第四問で頭のウォーミングアップをしてから、短い和文英訳、そして会話文、長文へ……と考えると、個人的には最適な順番だと思う。
「とまあ、こんな感じで、英語はもちろん他の科目も入試問題っていうのは大学ごとに形式が違う。きっと本番が近づくほど本命以外に時間を割くのは億劫になるし、この模試の機会に一度ちゃんと過去問を見て、自分なりの戦略を立てておくと安心だと思うよ」
「そうだな! 二月の自分のためにしっかり戦略立てて、ノートにメモしとこっと」
私立受験に向けた話をしたあと、龍は早速早慶の過去問を解いていた。英語が得意だからか、たまに唸りながらも楽しそうにペンを動かしていたのが印象的だった。数学や理科も、東大に比べたら簡単だから、解いてみたら結構気持ちいいんじゃないかなぁと思う。
「いやー他の大学の過去問解くのも楽しいね」
案の定、龍は自分が早慶の過去問をまあまあ解けると知って喜び、僕が帰る支度を進める中、しばらくニマニマと余韻に浸っていた。
「楽しいのは何よりだが、十一月は東大模試もあるからな。あくまで僕らの本命はそっち」
ああ、また僕はこうやって、龍がせっかく嬉しそうに笑っているのにすぐ釘を刺してしまう。つい子どもに口うるさくなる親の気持ちが分かるような気がする……。
「そうだよな〜東大模試もあるんだよなぁ。ほんと忙しい! でも、啓ちゃんと一緒だから頑張れる!」
「っ……ほら帰るぞ」
龍はいつも無邪気な笑顔でこそばゆいことを言う。吉峰がいるときはあいつが先に照れ始めるから気が紛れるが、二人だと僕が照れるしかないじゃないか!
「うおー、久々にSNS開いたら結構遊んでる友達いる!」
龍は器用に靴を履き替えながら、片手でスマホ画面をスクロールしている。
「指定校組か」
「そうだね〜もう受験終わった人もいるのか……」
うちの高校には、早慶をはじめ様々な大学の指定校推薦枠がある。この指定校推薦枠で大学に出願するには、まず校内選考を突破しなければならない。校内選考では、評定をメインに生徒会や部活での活動なども含めて総合的に評価が行われ、推薦するにふさわしい生徒が選出される。その後、選ばれた生徒は大学へ出願し、秋ごろに面接や小論文の試験を受けるが、そこで落とされることは基本的にない。つまり、校内選考を通過した人間はその時点でほぼ合格が決まったようなものであるため、この時期から羽を伸ばして遊ぶ人たちも一定数いるようだ。
「啓ちゃんはさ、指定校組のことどう思ってるの? ムカつくっていう人も多いみたいだけど」
「まあ、気持ちは分かるけど……。でも、僕にだって指定校を選ぶ権利はあったし、あえて一般入試の道に進んだのは自分の意思だし。自分で一般選んだくせに、ムカつくって変な話じゃねーか? って思う。逆に、指定校が良かったのに親の都合で選べなかった人とか、校内選考で落ちた人とか……そういう人が言うなら分かるけどな」
「だよねー。なんかさぁ、指定校の人って勉強も他の活動も要領よくやらなきゃだし、間違いなく努力はしてるのに、色々言われることがあるっぽいから」
「誰かを妬む時間があるなら勉強しろよと思うけど……でも、指定校組から一般組に喧嘩売ることもあるし、互いにリスペクトは忘れちゃいけないね。何かを本気で頑張ったことがある人は、常に他人にリスペクトの気持ちを持ってるもんだよ」
指定校推薦という制度が良いのか悪いのか、もっと言えば日本の受験システム全体に改善点はないのか……ちっぽけな高校生の僕らには、そんな議題に立ち向かう地位も権力もない。
よって、大学受験とは、あくまで現在の受験制度に則った戦いだ。ルールの中にあるものは何でも利用していい。指定校推薦を受け付けているのは大学側の方針であり、その方針に対してムカつくって言うんなら、その大学とは意見が合わないんだから入らなきゃいい。それでも入りたいなら、つべこべ言わず自分がやるべきことをやるしかないのだ。
◇
中間テストと模試があり忙しくしていたら、いつのまにか十月が終わっていた。受験までの貴重な一ヶ月があっという間に過ぎていくことに少々焦りを感じるが、一日一日できることをやっているのは紛れもなく事実。焦りを感じるのは当たり前、感情と事実を区別し、冷静に受け入れて過ごすしかない。
十一月の第一週目、慶應模試の翌日。
登校すると、吉峰がズンズンと僕の席まで近寄ってきた。
「おい門田、早慶模試はできたのか」
「おいじゃなくておはような」
「おはよう」
「まあ現時点での実力は出せたかな。結果は東大模試と同じくらいに返ってくる予定」
「ふん、そろそろ東大に頭切り替えろよ」
「言われなくても切り替えてるわ」
いつも通り吉峰と軽い口喧嘩をしていると、これまたいつも通りスポーツ科の棟からやってきた龍が教室に入ってきた。
「おっはよー! 二人とも今日も仲良しだね!」
「龍、おはよ。昨日ぶりだな」
「だね。やっと慶應模試終わって〜……来週末は東大だな!」
来週末は、僕たちが受ける最後の東大模試がある。この模試が終わったら、いよいよ今度は模試ではなく本番の入試が始まるのだ。これまで何年も勉強をしてきて、様々な模試を何回も受けてきたから、この先は全部が最後なんだと思うと不思議な感覚だ。
「来週末、俺らも頑張るけど、駿太は本番の二次だよ」
「っ、そうじゃん、駿太……緊張してるだろうな」
駿太は、春休みに裕輔くんに話していた通り、早稲田のスポーツ科学部の自己推薦入試を受けている。先月、僕らが早稲田の模試を受けていた頃に書類選考の合格発表があったのだが、見事、駿太は合格をもらい次の二次選考に進んだのだ。
スポーツ推薦の詳細や対策は、僕には未知の領域だ。ただ、倍率がかなり高いということくらいは知っている。駿太の高校には同じルートで進学した先輩が何人かいるようで、その先輩たちに相談しながら準備を進めてきたと聞いたが……駿太が実力を発揮して合格できることを祈るしかない。
「……駿太のこと応援しつつ、僕たちも頑張らなきゃだな」
「……だな!」
かつてのライバルがスポーツの分野で難関大学に挑む姿を見て、龍も良い刺激をもらっているように見える。
共テ本番まであと二ヶ月。この勢いのまま、僕も龍も吉峰もみんな一緒に駆け抜けたい――。
だけど、ここまで頑張ってきたからって、そんな簡単に乗り越えられるものではないのが現実だ。
◇
十二月上旬、早慶模試と東大模試の成績が一気に返却された。
早慶模試では、僕も龍もA判定を取ることができて、本番前の練習として安心感のある結果を出すことができた。
でも……。
「龍、いつまでそこにいんだよ」
今、屋上のベンチで仰向けになって空を眺めている龍は、喜ぶどころか魂が抜けかけたような表情をしている。瞳に宿る炎はいつもの勢いを失い、少し息を吹きかけたら消えてしまいそうなくらい弱々しい。
「……俺、このままだったらどうしよう」
「……」
「三ヶ月前とほぼ変わってないって……このまま三ヶ月後も同じだったらさ、落ちるってことだよね」
「ほぼ変わってないって言うけど、五点上がっただろ」
「啓ちゃんもよっしーも、今の点でも合格する可能性あるけど、俺はない。あと二ヶ月しかないのにな」
龍みたいに明るく楽観的な人間も、人生のかかった局面で厳しい結果を突きつけられるとこんな風に萎むんだな……と思いつつ、ここまで来たくせに弱音吐いてんじゃねぇよと活を入れたくなる。
「……お前、自分が天才にでもなったつもりだったのか?」
「へ?」
「高二の途中から急に勉強始めて、みるみるうちに成績が伸びて、余裕で東大に合格! なんてドラマみたいに簡単にいくわけねーだろ。まあドラマなら理科三類に主席合格したり、日本出てハーバードに行ったりするくらいはインパクトほしいけど」
「……自分が天才じゃないなんて、陸上のときから知ってるよ」
「でも、ここまでのお前は『壁』を知らなかった。結局さ、勉強でもスポーツでも芸術でも、才能にはある程度限界があるんだよ。その限界を小学生のときから感じるのか、大学生になってから感じるのか……時期が人それぞれなだけだよ。たいていの人間は天才じゃないから、上には上がいるってどこかで必ず知るときが来る」
小学生のときに絵が上手いともてはやされた子どもは、高校生になる頃には大ヒット作を生む漫画家にはなれないと気づくし、メジャーリーガーになれるという希望を持っていた子どもは、甲子園に出ることすら難しいと気づく。
そういう「壁」がいつまでも現れず、オリンピックで世界記録を出したりノーベル賞を受賞したりしたのなら、そういう人間こそ本当の天才なのだと僕は思う。
「……そっか、俺、今初めて勉強の『壁』に出会ったんだね。駿太に追いつけなくなったときみたいだ」
「そうかもな。せっかくならその経験を生かせよ」
「生かす……んー……あのときは焦って、冷静になれなくて、無闇に練習増やして、怪我して……だから……」
「……だから?」
「だから、今は……冷静になって、改めて自分を分析して、計画立てて勉強する……しかないのか、結局は」
「そうだな……今、日本全国で、同じように自分の成績と向き合って、気分が落ち込んでる奴がたくさんいる。僕だって慣れただけで、不安や焦りがないわけじゃない。やっと付き合い方が分かってきただけだ」
僕は生まれたときから凡人だし、兄ちゃんがいたから自分が天才だという勘違いすらできなかった。でもそれはある種の幸運だったのかもしれない。「自分ってたいしたことないんだ」という事実を、もうずっと昔に自然と受け入れていたから、成績が急上昇しなくたって特進で最下位になったって、淡々と勉強を続けられてきたんだ。
「……じゃあ、啓ちゃんはさ、もう頑張れないかもって思ったこと一度もないの?」
「……あるよ」
「いつ? どんなとき? なんでそこからまた前を向けたの?」
龍は身体を起こしたかと思えば、ベンチから立ち上がり、柵にもたれていた僕のもとへ勢いよく詰め寄ってくる。壁ドンならぬ柵ドン……全然キュンとしないけど……。
「ったく、近いわ……ていうか、今の質問の答えは、お前が一番よく知ってるだろ」
「はぇ? なにそれ、全然知らないんだけど!?」
「っ、あーもう鈍いな、お前そんなんじゃモテないぞ……」
「え゙、なんでそうなんの!」
「はぁ……だから……僕がここまで勉強頑張れてるのは、お前と出会ったからだって言ってんの!!」
「っ……!」
思ってもみなかった……みたいな顔してんじゃねぇよ。
「……僕もさ、高校に入ってから、いよいよ受験が迫ってきて、東大は無理なんじゃないかって思ったことがあるわけ。分析も計画もしてるつもりなのに、前に進んでる感じがしなくて……そんなとき、お前が突然話しかけてきたんだろ」
“俺を東大に連れていってくれ!”
忘れたとは言わせない。あんなに衝撃的な出会いは、多分この先の人生でも二度とないだろうと思う。
「まあ最初はムカついたし、なんだこいつって思ってたけど……お前と関わる中で、一人じゃ気づけなかった自分の弱点とか思考の癖にも気づけるようになって」
そして、何より――。
「……何より、お前と出会ってから……僕は、っ、なんでもない毎日が、すげー楽しくなったんだよ」
「……啓ちゃん……」
ああ、もう、なんで僕が泣いてるんだ。
落ち込んでた奴に涙を拭ってもらうとか意味が分からん。
「勉強漬けの学生生活を楽しむなんて発想、どこにもなかったのに。放課後が楽しいなんて感情、知らなかったのに。お前が……お前が僕の世界に入ってきてから、この日々の全部が愛おしくて堪らないんだよ!」
なぜかとめどなく溢れてくる涙に背中を押され、普段は恥ずかしくて言えないことも、何もかもぶつけてやったら――。
「っ、啓ちゃん、」
「……なに抱きしめてんだよ……」
背の高い龍にハグされてさ、これじゃあ僕が慰めてもらったみたいじゃないか。
「啓ちゃん……ありがとう。ほんとに、ありがと……」
「っ、別に、思ったこと言っただけだし」
「……俺、弱気になってた。こんなに最高の友達がいるのに、頑張れないわけないじゃんか」
「そ、そう、だろ?」
「うん……当たり前になりかけてたのが怖い。ここまで成績伸ばせて、晴れの日も雨の日も一緒に頑張る仲間がいてくれて……こんなに幸せすぎる奇跡、自ら手放すなんて絶対嫌だ」
「……なんか曲の歌詞みたいだな」
「曲にしたら聴いてくれる?」
「気が向いたらな」
その放課後は、離せと言っても龍はしばらく離れてくれなかった。諦めて抱きしめられたまま図書室へ戻ると、僕らを心配して待ってくれていた吉峰に変な目で見られた。龍はそのあと吉峰にもすり寄っていったが、案の定すぐに追い払われていた。
と言っても、それは一年生と二年生の話。
うちの高校では受験に集中するため、九月の文化祭に三年生は基本的に参加しない。有志企画で何か披露したい場合は三年生にも申し込む権利があるし、開催当日に客として遊びに行くのも自由だが、勉強優先で当日も含めてノータッチ、という人も少なくない。
もちろん僕らはノータッチ勢だ。後輩たちが青春を謳歌する中、僕らは夏の東大模試の結果を受け取り、今日も今日とて己の成績と向き合わなければならない。
「よし、見るぞ。せーのっ」
模試結果返却後、恒例のイベント。
龍と吉峰と集まって、せーので自身の結果を確認する。

「……!」
やっと……初めてのB判定。前回の同日模試と比べるとどの教科も点数が上がっていて、全体的にバランス良く成長を感じられる。
「よし、A判A判」
僕がB判定の喜びを静かに噛み締めていたというのに、「冷静を装っているが自慢したい気持ちが滲み出ている声」が横から飛んでくる。
「吉峰……成績見せろや」
「どうぞ、好きなだけ」
ウザッ、と小声だが聞こえるように言ってから、吉峰の結果用紙を受け取る。

クソ、全科目こいつの方が上かい。総合点はまあ負けてるだろうと思ってたけど、一科目くらいは勝ってやりたかったぜ。国語と理科は二点差だからなおさら悔しい……。
「……ぃ」
「ん、龍なんか言った?」
「……い」
「何? てかお前はどうだっ――」
「やばい! 啓ちゃん、見て!」
「うおっ」
龍が俺の目の前に突きつけてきた紙には……。
「っ、龍、C判定!? ついにE判定卒業じゃん!」

全科目、半年前の同日模試より高い点を取れている。特に理科に関しては、地道なハイレベル演習が数字にも反映され始めていると思われる。
「やばい、かなり嬉しい……けど、本番でこれだったら逆の意味でやばい!」
「ったく、まだ九月だぞ。焦りすぎるのも良くない。しっかり喜んで、今日もしっかり勉強しろ」
龍は調子に乗らないよう自分で気をつけているみたいだったが、その表情は、内から溢れ出す喜びを抑えきれない、といった様子だ。
もちろん龍の言う通り、僕らの現時点での点数は本番で通用するものではないけれど、そんなのは当然だ。夏に既に仕上がってる受験生なんてそうそういない。焦らず、油断せず、喜ぶときも反省するときも全力で――そんな風に僕は生きていきたい。
「さて、早速この放課後からまた東大に向けて……と、言いたいところだが。龍、来月は何がある?」
「来月は中間テストと……ああっ! 早慶の模試!」
「だな。正確には、慶應は十一月の初めだけど」
そう、毎年秋には、駿台と代ゼミが共催する早慶模試があるのだ。早稲田、慶應それぞれ実際の入試問題の形式で問題を作成してくれるから、かなり本番に近い条件で練習をすることができる。
「あれ、よっしーは受けるの?」
「受けねーよ、本番も受けねーし」
やはり吉峰は受けない、か……お兄さんが私立に行って余裕がないから、親から国立に行ってほしいと言われているんだもんな。
「今のところ、吉峰はどういう出願予定なんだ?」
「前期東大、後期横国、以上」
まあ、そうなるよな。
早慶受験は本命のプレッシャーを軽減してくれるものではあるが、同時に時間も体力もそれなりに奪われる。元々は経済的理由とはいえ、吉峰の性質的に東大(ほぼ)一本集中スタイルも合っているような……なんて、他人のことならなんとでも言えるか。
「よっしー、なんで後期横国にするの?」
「募集ある学科多いし、あとはまあ、お前らみんな上京するだろうから関東で……って、何ニヤニヤしてんだテメェはよぉ」
「ふふふ、よっしーは大学生になっても俺たちといっぱい遊びたいってことね!」
「ふん、俺は東大で勉学に励む予定だからな。お前と遊ぶ暇はねーかもな」
まあどうしてもって言うなら遊んでやっても……などと吉峰がツンデレムーブをかましていたら昼休みが終わった。龍は慌てて「放課後にまた図書室で!」と、自分の教室へ走っていった。
そういえば僕らの次の授業は、生徒指導の先生が担当……廊下で龍とすれ違うのでは……と密かに心配しつつ、僕は単語帳を開いた。
◇
「でさぁ、角を曲がった瞬間センセーとぶつかって! 少女漫画みたいじゃね!?」
「食パン咥えとけば完璧だったな」
「ま、軽く怒られたけどっ」
「恋は始まらなかったか」
「残念ながら……って、あれ、俺たち何の話してたっけ」
「模試!!」
放課後、図書室のいつもの席。模試の話をしていたはずなのに、いつのまにか龍と生徒指導教員の少女漫画的な出会いについて語ってしまっていた。
「そうそう、模試模試、もしもし〜? なんつって」
「……」
「……啓ちゃん……俺泣いちゃう」
「面白かったよ。で、早慶の模試についてだな」
龍が「ぴえん」と泣きそうな表情になったが、その目は全く潤んでいなかったので話を続ける。
「早慶は僕たちにとってはあくまで滑り止め。とは言っても、同じような東大志望や早慶本命で対策してる奴らと競うわけだから、もちろんのこと厳しい戦いを強いられる。その戦いに備えて、早慶対策をこの模試に合わせて短期集中で行いたい」
「ふむふむ。問題のレベルは東大とどのくらい違うんだろ」
「僕もまだお試しで一年分しかやったことがないんだけど、そりゃあもう違うさ。やはり東大の方が二段階くらい難しいと感じる」
「ほぇ、そんなに〜」
「でも、入試で重要なのは問題レベルだけじゃない。早慶くらいだと、体感では“ちょっと時間をかけたら解ける問題”がゴロゴロ転がってる。じゃあどこで差がつくのかって言ったら制限時間だろ? 平等に与えられた試験時間の中で、点数を少しでも多く稼ぐ……そういう勝負だ」
「ふむ。つまり、点を取りやすい問題からどんどん解いていくってことね!」
「そうだ。特に英語! 東大と同じように、事前に問題形式を把握し、解く大問の順番まで決めておけ。バカ素直に第一問、第二問……なんて前から順に解いてたらオワリだからな」
家から持ってきた早慶の英語の問題を机上に置き、龍に見せながら説明する。
「まずは早稲田から。とりあえず……パラパラめくってみろ」
「どれどれ……え゙っ、なんこれ、英語だらけ! てかなになに、これどっからどこまでが第一問!? 問題文も英語だし、日本語がどこにもない……初見じゃ怖すぎる!」
「だろ? まあ落ち着いて見てみろ、どの問題が解きやすいか分かると思うよ」
「そうだな……なんか最後は語彙問題っぽいから取りかかりやすそう……第二問も並べ替えだからやりやすそうだな。第三問も第四問も……いや、これさ、第一問だけ長すぎるだろ!!」
そうなのである。早稲田理工の英語は第一問がものすごく長い。そのため、順番通り第一問から真面目にやろうとすると泥沼にハマる。(まあ、帰国子女ならどこから解こうが関係なく高得点を取れるのかもしれないが)
一方、以降の第二問から第五問は比較的時間をかけずに解ける問題が多い。特に第五問は語彙問題のため、最初に解くことで確実な得点源とすることができる。
「よし、俺はね〜……五、二、四、三、一の順で解く!」
「お、僕と一緒だ。まあ、一旦その順番で試しに過去問解いてみてから決めればいい」
続いて慶應。こちらもまずはサラッと見てみろ、と龍に過去問のコピーを渡す。
「ああ……問題文はほぼ日本語だ……早稲田見たあとだと視覚的に易しく見える……」
「こっちも大体何から解けば良さそうか分かるだろ?」
「うん! 第一問と第二問は長文だから後回しだな〜。第三問から第五問はどれも取りかかりやすそうだけど……まあ俺的には四、五、三、一、二、かな」
「これも僕と一緒だな」
第四問は文法・語彙、第五問は和文英訳、第三問は会話文。まず第四問で頭のウォーミングアップをしてから、短い和文英訳、そして会話文、長文へ……と考えると、個人的には最適な順番だと思う。
「とまあ、こんな感じで、英語はもちろん他の科目も入試問題っていうのは大学ごとに形式が違う。きっと本番が近づくほど本命以外に時間を割くのは億劫になるし、この模試の機会に一度ちゃんと過去問を見て、自分なりの戦略を立てておくと安心だと思うよ」
「そうだな! 二月の自分のためにしっかり戦略立てて、ノートにメモしとこっと」
私立受験に向けた話をしたあと、龍は早速早慶の過去問を解いていた。英語が得意だからか、たまに唸りながらも楽しそうにペンを動かしていたのが印象的だった。数学や理科も、東大に比べたら簡単だから、解いてみたら結構気持ちいいんじゃないかなぁと思う。
「いやー他の大学の過去問解くのも楽しいね」
案の定、龍は自分が早慶の過去問をまあまあ解けると知って喜び、僕が帰る支度を進める中、しばらくニマニマと余韻に浸っていた。
「楽しいのは何よりだが、十一月は東大模試もあるからな。あくまで僕らの本命はそっち」
ああ、また僕はこうやって、龍がせっかく嬉しそうに笑っているのにすぐ釘を刺してしまう。つい子どもに口うるさくなる親の気持ちが分かるような気がする……。
「そうだよな〜東大模試もあるんだよなぁ。ほんと忙しい! でも、啓ちゃんと一緒だから頑張れる!」
「っ……ほら帰るぞ」
龍はいつも無邪気な笑顔でこそばゆいことを言う。吉峰がいるときはあいつが先に照れ始めるから気が紛れるが、二人だと僕が照れるしかないじゃないか!
「うおー、久々にSNS開いたら結構遊んでる友達いる!」
龍は器用に靴を履き替えながら、片手でスマホ画面をスクロールしている。
「指定校組か」
「そうだね〜もう受験終わった人もいるのか……」
うちの高校には、早慶をはじめ様々な大学の指定校推薦枠がある。この指定校推薦枠で大学に出願するには、まず校内選考を突破しなければならない。校内選考では、評定をメインに生徒会や部活での活動なども含めて総合的に評価が行われ、推薦するにふさわしい生徒が選出される。その後、選ばれた生徒は大学へ出願し、秋ごろに面接や小論文の試験を受けるが、そこで落とされることは基本的にない。つまり、校内選考を通過した人間はその時点でほぼ合格が決まったようなものであるため、この時期から羽を伸ばして遊ぶ人たちも一定数いるようだ。
「啓ちゃんはさ、指定校組のことどう思ってるの? ムカつくっていう人も多いみたいだけど」
「まあ、気持ちは分かるけど……。でも、僕にだって指定校を選ぶ権利はあったし、あえて一般入試の道に進んだのは自分の意思だし。自分で一般選んだくせに、ムカつくって変な話じゃねーか? って思う。逆に、指定校が良かったのに親の都合で選べなかった人とか、校内選考で落ちた人とか……そういう人が言うなら分かるけどな」
「だよねー。なんかさぁ、指定校の人って勉強も他の活動も要領よくやらなきゃだし、間違いなく努力はしてるのに、色々言われることがあるっぽいから」
「誰かを妬む時間があるなら勉強しろよと思うけど……でも、指定校組から一般組に喧嘩売ることもあるし、互いにリスペクトは忘れちゃいけないね。何かを本気で頑張ったことがある人は、常に他人にリスペクトの気持ちを持ってるもんだよ」
指定校推薦という制度が良いのか悪いのか、もっと言えば日本の受験システム全体に改善点はないのか……ちっぽけな高校生の僕らには、そんな議題に立ち向かう地位も権力もない。
よって、大学受験とは、あくまで現在の受験制度に則った戦いだ。ルールの中にあるものは何でも利用していい。指定校推薦を受け付けているのは大学側の方針であり、その方針に対してムカつくって言うんなら、その大学とは意見が合わないんだから入らなきゃいい。それでも入りたいなら、つべこべ言わず自分がやるべきことをやるしかないのだ。
◇
中間テストと模試があり忙しくしていたら、いつのまにか十月が終わっていた。受験までの貴重な一ヶ月があっという間に過ぎていくことに少々焦りを感じるが、一日一日できることをやっているのは紛れもなく事実。焦りを感じるのは当たり前、感情と事実を区別し、冷静に受け入れて過ごすしかない。
十一月の第一週目、慶應模試の翌日。
登校すると、吉峰がズンズンと僕の席まで近寄ってきた。
「おい門田、早慶模試はできたのか」
「おいじゃなくておはような」
「おはよう」
「まあ現時点での実力は出せたかな。結果は東大模試と同じくらいに返ってくる予定」
「ふん、そろそろ東大に頭切り替えろよ」
「言われなくても切り替えてるわ」
いつも通り吉峰と軽い口喧嘩をしていると、これまたいつも通りスポーツ科の棟からやってきた龍が教室に入ってきた。
「おっはよー! 二人とも今日も仲良しだね!」
「龍、おはよ。昨日ぶりだな」
「だね。やっと慶應模試終わって〜……来週末は東大だな!」
来週末は、僕たちが受ける最後の東大模試がある。この模試が終わったら、いよいよ今度は模試ではなく本番の入試が始まるのだ。これまで何年も勉強をしてきて、様々な模試を何回も受けてきたから、この先は全部が最後なんだと思うと不思議な感覚だ。
「来週末、俺らも頑張るけど、駿太は本番の二次だよ」
「っ、そうじゃん、駿太……緊張してるだろうな」
駿太は、春休みに裕輔くんに話していた通り、早稲田のスポーツ科学部の自己推薦入試を受けている。先月、僕らが早稲田の模試を受けていた頃に書類選考の合格発表があったのだが、見事、駿太は合格をもらい次の二次選考に進んだのだ。
スポーツ推薦の詳細や対策は、僕には未知の領域だ。ただ、倍率がかなり高いということくらいは知っている。駿太の高校には同じルートで進学した先輩が何人かいるようで、その先輩たちに相談しながら準備を進めてきたと聞いたが……駿太が実力を発揮して合格できることを祈るしかない。
「……駿太のこと応援しつつ、僕たちも頑張らなきゃだな」
「……だな!」
かつてのライバルがスポーツの分野で難関大学に挑む姿を見て、龍も良い刺激をもらっているように見える。
共テ本番まであと二ヶ月。この勢いのまま、僕も龍も吉峰もみんな一緒に駆け抜けたい――。
だけど、ここまで頑張ってきたからって、そんな簡単に乗り越えられるものではないのが現実だ。
◇
十二月上旬、早慶模試と東大模試の成績が一気に返却された。
早慶模試では、僕も龍もA判定を取ることができて、本番前の練習として安心感のある結果を出すことができた。
でも……。
「龍、いつまでそこにいんだよ」
今、屋上のベンチで仰向けになって空を眺めている龍は、喜ぶどころか魂が抜けかけたような表情をしている。瞳に宿る炎はいつもの勢いを失い、少し息を吹きかけたら消えてしまいそうなくらい弱々しい。
「……俺、このままだったらどうしよう」
「……」
「三ヶ月前とほぼ変わってないって……このまま三ヶ月後も同じだったらさ、落ちるってことだよね」
「ほぼ変わってないって言うけど、五点上がっただろ」
「啓ちゃんもよっしーも、今の点でも合格する可能性あるけど、俺はない。あと二ヶ月しかないのにな」
龍みたいに明るく楽観的な人間も、人生のかかった局面で厳しい結果を突きつけられるとこんな風に萎むんだな……と思いつつ、ここまで来たくせに弱音吐いてんじゃねぇよと活を入れたくなる。
「……お前、自分が天才にでもなったつもりだったのか?」
「へ?」
「高二の途中から急に勉強始めて、みるみるうちに成績が伸びて、余裕で東大に合格! なんてドラマみたいに簡単にいくわけねーだろ。まあドラマなら理科三類に主席合格したり、日本出てハーバードに行ったりするくらいはインパクトほしいけど」
「……自分が天才じゃないなんて、陸上のときから知ってるよ」
「でも、ここまでのお前は『壁』を知らなかった。結局さ、勉強でもスポーツでも芸術でも、才能にはある程度限界があるんだよ。その限界を小学生のときから感じるのか、大学生になってから感じるのか……時期が人それぞれなだけだよ。たいていの人間は天才じゃないから、上には上がいるってどこかで必ず知るときが来る」
小学生のときに絵が上手いともてはやされた子どもは、高校生になる頃には大ヒット作を生む漫画家にはなれないと気づくし、メジャーリーガーになれるという希望を持っていた子どもは、甲子園に出ることすら難しいと気づく。
そういう「壁」がいつまでも現れず、オリンピックで世界記録を出したりノーベル賞を受賞したりしたのなら、そういう人間こそ本当の天才なのだと僕は思う。
「……そっか、俺、今初めて勉強の『壁』に出会ったんだね。駿太に追いつけなくなったときみたいだ」
「そうかもな。せっかくならその経験を生かせよ」
「生かす……んー……あのときは焦って、冷静になれなくて、無闇に練習増やして、怪我して……だから……」
「……だから?」
「だから、今は……冷静になって、改めて自分を分析して、計画立てて勉強する……しかないのか、結局は」
「そうだな……今、日本全国で、同じように自分の成績と向き合って、気分が落ち込んでる奴がたくさんいる。僕だって慣れただけで、不安や焦りがないわけじゃない。やっと付き合い方が分かってきただけだ」
僕は生まれたときから凡人だし、兄ちゃんがいたから自分が天才だという勘違いすらできなかった。でもそれはある種の幸運だったのかもしれない。「自分ってたいしたことないんだ」という事実を、もうずっと昔に自然と受け入れていたから、成績が急上昇しなくたって特進で最下位になったって、淡々と勉強を続けられてきたんだ。
「……じゃあ、啓ちゃんはさ、もう頑張れないかもって思ったこと一度もないの?」
「……あるよ」
「いつ? どんなとき? なんでそこからまた前を向けたの?」
龍は身体を起こしたかと思えば、ベンチから立ち上がり、柵にもたれていた僕のもとへ勢いよく詰め寄ってくる。壁ドンならぬ柵ドン……全然キュンとしないけど……。
「ったく、近いわ……ていうか、今の質問の答えは、お前が一番よく知ってるだろ」
「はぇ? なにそれ、全然知らないんだけど!?」
「っ、あーもう鈍いな、お前そんなんじゃモテないぞ……」
「え゙、なんでそうなんの!」
「はぁ……だから……僕がここまで勉強頑張れてるのは、お前と出会ったからだって言ってんの!!」
「っ……!」
思ってもみなかった……みたいな顔してんじゃねぇよ。
「……僕もさ、高校に入ってから、いよいよ受験が迫ってきて、東大は無理なんじゃないかって思ったことがあるわけ。分析も計画もしてるつもりなのに、前に進んでる感じがしなくて……そんなとき、お前が突然話しかけてきたんだろ」
“俺を東大に連れていってくれ!”
忘れたとは言わせない。あんなに衝撃的な出会いは、多分この先の人生でも二度とないだろうと思う。
「まあ最初はムカついたし、なんだこいつって思ってたけど……お前と関わる中で、一人じゃ気づけなかった自分の弱点とか思考の癖にも気づけるようになって」
そして、何より――。
「……何より、お前と出会ってから……僕は、っ、なんでもない毎日が、すげー楽しくなったんだよ」
「……啓ちゃん……」
ああ、もう、なんで僕が泣いてるんだ。
落ち込んでた奴に涙を拭ってもらうとか意味が分からん。
「勉強漬けの学生生活を楽しむなんて発想、どこにもなかったのに。放課後が楽しいなんて感情、知らなかったのに。お前が……お前が僕の世界に入ってきてから、この日々の全部が愛おしくて堪らないんだよ!」
なぜかとめどなく溢れてくる涙に背中を押され、普段は恥ずかしくて言えないことも、何もかもぶつけてやったら――。
「っ、啓ちゃん、」
「……なに抱きしめてんだよ……」
背の高い龍にハグされてさ、これじゃあ僕が慰めてもらったみたいじゃないか。
「啓ちゃん……ありがとう。ほんとに、ありがと……」
「っ、別に、思ったこと言っただけだし」
「……俺、弱気になってた。こんなに最高の友達がいるのに、頑張れないわけないじゃんか」
「そ、そう、だろ?」
「うん……当たり前になりかけてたのが怖い。ここまで成績伸ばせて、晴れの日も雨の日も一緒に頑張る仲間がいてくれて……こんなに幸せすぎる奇跡、自ら手放すなんて絶対嫌だ」
「……なんか曲の歌詞みたいだな」
「曲にしたら聴いてくれる?」
「気が向いたらな」
その放課後は、離せと言っても龍はしばらく離れてくれなかった。諦めて抱きしめられたまま図書室へ戻ると、僕らを心配して待ってくれていた吉峰に変な目で見られた。龍はそのあと吉峰にもすり寄っていったが、案の定すぐに追い払われていた。



