傷を舐めてもおいしくない

 三日後、中津君から私宛に手紙が届く。
 綺麗な字でしたためられた文面は、前向きな単語が頻繁に並べられていた。
 【櫻間以外、親にも誰にも話せなかった。眠れなくなった時、病院の前まで行ったけど中には入れなかった。医師にも話せないと思いました。誰にも話したくなかったから。誰にも俺の痛みを推し量ってほしくなかったから。でも今は、男乕先生に話してよかったと思っています。】
 私に大丈夫だとわかってもらうためにあえて前向きな単語を選んでいるかのようで、安堵が全身を包む。
 だが、扉を叩くノック音でまだ終わっていないのだと引き戻される。
 私は背筋を伸ばし返事をした。

 扉がゆっくり開くと、松葉杖姿の閨谷さんが気だるそうに保健室に入って来る。
 「怪我をしているのに、保健室まで来てくれてありがとうございます」
 閨谷さんに手を貸そうと差し出してみるも、潔いくらいに無視される。慣れない足取りで椅子に向かうと、右足を庇いながらゆっくりと腰かける。
 中津君と話をした日、校長先生に頭を下げ、閨谷さんとの二人きりの面談時間を作ってもらえるように要望をした。保護者と本人の許可を得て、承認が下り、今日二週間ぶりに閨谷さんと顔を合わせる。
 閨谷さんの隈は少しだけ薄くなっていた。
 「その後、どうですか? 眠れていますか?」
 「そういうのいいから。そっちがどうしてもって呼び出したんだから、話をするなら早くはじめてほしいんだけど」
 挑発的な口調で口火を切られる。
 顔色を窺いすぎて、早速閨谷さんの機嫌を損ねてしまった。でも、体調の確認は養護教諭として捨てられない。
 「足の怪我は大丈夫ですか? 悪化とかしていないですか?」
 嫌味を言われても再度確認を取ると、閨谷さんはため息を吐いた。
 「……依田に二度もビンタされて頬のほうが痛かった」
 「依田さんも多少の擦り傷は負ったのでお互い様かと」
 まあね、と閨谷さんは乾いた笑みをこぼす。
 「どうして依田さんに掴みかかったのですか?」
 「どうしてって、私が櫻間の鞄から睡眠薬を盗んでいることを知っていたから。もしかしたら持っているかもって思っただけ」
 やはり依田さんは、櫻間さんが誰に睡眠薬を渡していたのか知っていたのだ。
 「話はそれだけ?」
 「いえ、伺いたいのは櫻間さんのことと、閨谷さんのことです」
 動揺が目に出る。瞬きが増え、息を呑む音が聴こえる。
 「閨谷さんが私を嫌いだと思っていることは気づいています。なので、言いたくないことは話さなくていいです。私も問い詰めたりはしませんので」
 前置きをすると、閨谷さんがほくそ笑む。
 「先生はどうなの? 先生は私のこと嫌いじゃないの?」
 「……すみません。好きではないです。閨谷さんは私を傷つけたので」
 しばらく逡巡したあと、見栄や大人らしい利口さを捨て、私は正直に答えることを選んだ。
 「自己愛すごいんですね」
 「普通じゃなくても自分を愛すると決めたので」
 閨谷さんの嫌味に対抗すると、「うざ」と吐き捨てられる。
 閨谷さんが私と向き合い、話をしてくれている。この方法でいこうと私はさらに彼女を煽る。
 「まず、私に言いたいことはありますか?」
 文句や悪口は舌の滑りをよくする。
 「言いたいこと……ありますよ。山ほど」
 案の定、話に乗っかってくる。
 「女性じゃない人が、被害者である女子生徒の面談をするってセクハラじゃないですか? 先生に女性の痛みや恐怖がわかるんですか?」
 早速くる。
 閨谷さんは止まらずつづける。
 「男性器を取り除いても、胸が大きくなっても、女性ホルモンを注入しても、その体が完璧に女になるわけではないですよね? どんなに綺麗でも、女性にどれだけ近づけても、突然生理がはじまるわけでも、妊娠できるわけでもないですよね? 先生は股から血が流れる恐怖や羞恥、生理の痛みも一生わからない。なのに、女性の立場でいられると思っているところが、私は心底気持ち悪いんです」
 指先が凍る。胃液が込み上げてくる吐き気を感じて、慌てて唾を飲む。
 落ち着け落ち着けと何度も唱え、口を開く。吐いた息がわずかに震えていたが、大きな声でなんとか隠そうと試みる。
 「確かに経験していないことは私にもわからないです」
 だが、思ったよりも喉が締まって声が小さくなった。でも、止まってはいられないと自分を奮い立たせて自分の内側を開示する。
 「一時期生理の憧れというものを抱いたこともあります。ナプキンを買ってみたり、実際につけてみたりしたこともあります。男性器を取る手術をした時、初めて股から血が出ました。……充足感を感じました」
 閨谷さんは憚ることなく顔を歪め「きも」と洩らす。
 「でも、私は努力をしました。女性になるために、化粧もダイエットも声も体も、すべてにお金と労力を注ぎました。それに伴って、家族や友達、居場所を失いました。女性の体を得るために男乕棗という尊厳を失いました。それは私が望んだことなので、もちろん後悔はありません。後悔はないけど、満たされることもありませんでした。今もずっと、歪で、欠陥品で、足りないと思いながら生きています」
 大きく息を吸って、勢いのまま話す。
 「あなたにも私の痛みはわからないと思います。同じ人間なのに私の尊厳だけは守られていないのです。歩いているだけで、声を発するだけで、生きているだけで、刃物が私の体に刺さりつづけるんです。そんな痛みに比べれば、生理の痛みなんて私には痒みでしかないと思っています」
 「でも、それは先生が選んだ道でしょ。私はこの体で生まれることを望んでいない!」
 「それは私も、です。私も男に生まれることを望んだわけではありません」
 どちらも疲弊するような言い合いをする。
 閨谷さんは唇を噛み、次に向ける刃物を探していた。
 どうしてここまで私を批判するのだろう。どうして私を真っ向から否定するのだろう。関係ないと思って知らないフリをすれば無害なはずなのに、こうも突っかかるということは閨谷さんの中で自分と関係がある何かを抱えているのかもしれない。
 「確かに、閨谷さんの言うとおり私が女性の立場になってカウンセリングを行うことが正しいかと問われると頷くことはできません」
 「だったらなんで女性につくんですか」
 「私が私自身を女だと思っているからです」
 私の切実な声に、閨谷さんの瞳が揺れる。
 「そう見ることは難しいと思うけど、私は女なのです。自分は女だと思って行動した結果だったのですよ」
 悔しかった。悔しくて涙が一粒落ちた。泣いているとバレないよう一瞬で落ちる。涙も必死だった。
 「……先生も泣いたりするんだ」
 「私も閨谷さんと一緒ですよ」
 「一緒……先生は自分とみんなを一緒だって思っているんだね」
 「はい。みんな赤い血が流れているから同じ人種です」
 「人種って」と呆れ交じりに小さくこぼすと、今度は口を閉じ大人しくなる。悄然とした面持ちで、デスクの模様を漫然と見つめる。
 この前の我を忘れた閨谷さんを思い出し、今の起伏の上下に不安を覚えつつも言葉を待った。その間に、私も閨谷さんに抱いた違和感を整理していた。
 閨谷さんは、私を傷つけているようでありながら、どこか切実に答えを求めているような問いをしていた。そして、私への嫌悪感や不信感と一緒に現れる、私が女性として生きる道を選択したことへの理解できないという解せない目。まるで、閨谷さん自身が女性として生きることへの違和感を抱いているようだった。
 極めつけには、閨谷さんは〝この体で生まれることを望んでいない〟と言った。〝女の体〟ではなく〝この体〟と、自身の体ごと全否定した。
 整理したら、閨谷さんの覚束なかった輪郭が少しずつ見えはじめた。
 おそらく、彼女は私と似ている。正確に言えば、自分の体と心の辻褄が合っていないような乖離する感覚を知っている人。
 すると、やっと閨谷さんが私を見据えた。
 「私はまだ先生みたいには思えないです」
 閨谷さんの肩がスッと落ちる気がした。
 「私も、先生みたいに自分がこうだって決められていたら、こんな風に間違ったりしなかったのかな」
 切なげに声が落ちる。
 まるで今までの自分のどっちつかずさが間違いだったかのように吐露する。
 「決めなくてもいいのです」
 震えは止まり、スッと思いのままに言葉をかけていた。
 閨谷さんの可愛くて丸い瞳がいつになく揺れている。
 「決めないことも生きていく手段になります」
 「……でも、決めないといけないじゃないですか」
 「どうして? 誰かに何か言われたのですか?」
 閨谷さんは首を振る。
 「髪の毛の長さ、ランドセルの色、上履きの色、男か女かに丸をつけるチェックシート」
 「……」
 「いつも答えが決まっているものが私を急かしてきました。わかんないとかどっちでもいいって選択肢はないじゃないですか。みんななんでもなさそうな顔で、一瞬で決めていく。渡された色に違和感も持たない。でも私は、なんでこの色なんだろう、どうして選べるんだろうって思って生きてきた」
 静かに腑に落ちていく。
 「二年前、この避難所で先生が大人たちに白い目を向けられているのを見た時、怖くなった」
 二年前、震災後の避難所での出来事だった。トランスジェンダーの私が女子トイレに並んでいることを大人に責められるところを閨谷さんは見ていたのだ。
 「あれ見て、間違えることもダメなんだって気づいて、ますます焦った。早く自分が何者なのか、男なのか女なのか選ばないと、今度は私が刺されると思った。あの日から焦燥感に駆られて眠れなくなって……」
 閨谷さんの眠れなくなった理由に触れて、他人事ではない気持ちで胸が締めつけられる。
 「自分を疑いつづけるとずっと苦しいままですよ」
 首を絞められるような苦しさを知っている。
 「決められないことを今すぐに決めなくてもいいのです。私は、百回壁にぶち当たったら一つを選択してきました。選ぶということは選ばなかったものを捨てるということです。捨てる覚悟が出来ている時に決めてください」
 「……九十九回目で心が折れるかもしれない」
 私は首を振った。
 「百も壁にぶち当たれば、必ず閨谷さんを見つけてくれる人が現れます。この世界は自分の都合よくは回っていないけど、閨谷さんを目の敵にする人ばかりがいるわけではありません」
 耳を疑っているだろう。信じられないだろう。でも、私は生かされてきた。
 もう駄目かもしれないと思いながらも、気づいたらここで養護教諭をしている。
 「少なくとも、私は閨谷さんの味方です」
 「……なんで、先生が」
 「私が先生で、閨谷さんが生徒だからです」
 「それだけ?」
 「それだけです。それだけの関係だから味方だって信じるしかないのです」
 「先生は……私のこと信じられるの?」
 「私は私の選択を信じると決めました。もう閨谷さんの味方でいる自分を信じています」
 閨谷さんがほろほろと泣く。決壊したように涙は次から次へと頬を濡らしていく。
 「男乕先生」
 閨谷さんは涙で溺れそうな目を向ける。
 「私、自分の体を受け入れられないんです」
 突然のカミングアウト。なんとなく勘づいていたけど、本人の口から聞くと胸が締めつけられる。
 閨谷さんの緊張や動揺が伝わってくるようで、私は自然と歯を食いしばっていた。
 「自分が、女でいることも気持ち悪くて、じゃあ男になりたいのかって言われるとわからないんです」
 それに近いマイノリティーの名前を知っている。
 「ずっと自分が何者なのかわからなくて、でも私の体は確かに女だから、鏡に映る自分はどんどん女性になっていく。周りの女の子は、胸の大きさがどうとか、恋愛がどうとか、生理痛がどうとか言ってて……私はまだ、股から血が出ることも受け入れられていないのに」
 女性になりたくてもがく私と、自分の性別がわからない閨谷さん。私たちは似ているようでやっぱり別物だ。でも、自分の体なのに好きになりきれない苦しみは同じ。
 苦しいんだと涙を流す閨谷さんを見て、当時の自分と重なり、小さな肩を震わせて耐える彼女を抱きしめたくなった。でも、できない。私がどんなに体を作り変えても、閨谷さんと同じ女性になることは叶わないから。
 「今は、そういうマイノリティーに理解がある時代になったってことは知っています。きっと私が友達にこのことを打ち明けても変わらず友達のままでいてくれる人はいると思います。でも、どうしてか女性として生きていくことを必死で受け止めようとしてしまうんです。髪の毛伸ばして、メイクして、スカート履いて、可愛い下着買って、誤魔化そうとしてしまうんです」
 閨谷さんの気持ちが痛いほどわかる。
 私も誤魔化したこと山ほどある。気のせいだって自分に嘘をつく度にどこもかしこも痛かった。
 「誰だって、できることならありのままの自分を好きでいたいはずです」
 そして、ありのままの自分を好きになってもらいたい。
 「……櫻間もそうだったのかな」
 閨谷さんの吐いた息は床を軋ませるほど重かった。
 「私、櫻間にひどいこと言った。なんでそんな女として真っ当に生きられるのって。迷惑なんだけどって、最低なこと言っちゃった……」
 過去の自分を思い返し、その軽率で幼稚な発言をした自分を悔いる。贖罪のように唇を強く噛み、閨谷さんは静かに涙を流した。
 「櫻間に劣等感を抱いていました。この顔で笑っとけば人生イージーって思っているんだろうなって勝手に決めつけて、櫻間が上品に笑って、女の子らしく品行よく振る舞う度に自分が惨めに思えて、嘲笑われているように感じて、勘違いして、勝手に苛立って……櫻間がいなくなってからも、そんな自分の過ちを受け入れられなくて、全部櫻間のせいにしようとした。櫻間が私たちを狂わせたなんて言いがかり並べて……ほんと最低だ」
 私も同じだ。無償化されたような櫻間さんの笑顔に頼りきりだった。笑顔の裏側を知ろうともせずに、優等生な彼女なら大丈夫だと勝手に信じた。今さら臍を噛んでも、もう櫻間さんの声を聞く術はない。
 「ねえ先生、私かな?」
 声を震わせ、私に問う。
 「私が、櫻間を追い詰めたのかな。私が殺しちゃったのかな」
 「閨谷さん」
 「依田にも言われた。私が睡眠薬を盗んだから、櫻間は睡眠不足で階段から落ちたんだって。私のせいだって」
 おそらく閨谷さんが階段から落ちた時、依田さんが彼女に耳打ちした内容はこれだったのだろう。だから、閨谷さんは本当のことを話さなかった。
 依田さんは彼女の過ちを脅しの道具としたのだ。
 「私が櫻間の睡眠薬を盗んだりしなければ、私があんなこと言わなければ、櫻間は死んだりしなかったのかな」
 言葉が詰まる。
 櫻間さんは事故だったの。あなたのせいじゃない。
 前までは不慮の事故の一点張りでかわして、櫻間さんの死から逃げることができた。でも、佐倉さんと約束した。中津君に頼まれた。櫻間さんの死に向き合うことは、彼女たちと向き合うことにも繋がってくる。
 「閨谷さん」
 閨谷さんの涙はなかなか止まってはくれなかった。
 「櫻間さんのこと、知りたくないですか?」
 「え」
 「何を見て、何に触れて、何を思っていたのか、考えてみませんか?」
 「……今さら」
 「亡くなってからじゃ遅いのでしょうか。どこか遠くに行ってしまったとしても、伸ばした手が届かなくても、櫻間さんを探すことは無意味なのでしょうか」
 櫻間さんの名前はこれからも絶対に忘れない。その確信はあっても、彼女の顔は十年後も二十年後も憶えているとは限らない。もしかしたら、彼女がどんな生徒だったかも忘れてしまうかもしれない。そうならないために、私は櫻間さんの本当の姿を探したいのだ。
 「亡くなってしまった人とは繋がれないのでしょうか」
 「私も、今になってもっと話してみればよかったって思った」
 閨谷さんは涙を拭う。
 人は大事なものを失った時に、ああしていればこうしていたらと、たらればを繰り返す。相手と向き合うことから逃げた分、後悔や未練はわだかまりとなって残りつづけていく。それをわかっていても、私たちは何度も同じことを繰り返していく。他者と向き合うことが怖かったから。自分の内側を開示することに不安だったから。
 「私、どこかで櫻間に気づいてほしいって思ってた。盗んでいることを指摘してほしかった」
 見世物にされたくはなかった。でも、関心ないフリして見えていないもののように目を逸らされることもまた同等に傷ついた。
 「ずっと誰かに聞いてほしかった。私のこと知ってほしかった」
 人ごみの中でいつも孤独を感じていた。誰でもいいから、私の内側に響くほどの強さで叩いてほしいと願う自分もいた。
 人はめんどくさい。内側に籠るくせに、こじ開けてほしいとも思う。ないものねだり。
 「……せ、先生?」
 閨谷さんが心配そうに私の顔を覗く。
 目の前にいる大の大人が大粒の涙を流して泣いていたら誰だってその反応になる。
 「すみません。私もずっとそう思っていたなって、思い出してしまって……」
 私はティッシュを箱ごと持って来て、鼻水を思いっきりかむ。
 閨谷さんはその光景に目を見張る。
 「先生の上品じゃないところを見るのって、何気はじめて」
 「必死で取り繕っていましたから」
 「え、なんで?」
 閨谷さんが首を傾ける。
 「第一印象から女性として見られる完璧な女性になりたかったのです」
 私も閨谷さんと一緒で劣等感を抱いていた。
 女性といると、自分の粗が目立つような気がして怖かった。品のない会話や所作を見ると、ドロドロした感情が湧いた。いつも手抜きの女性に優しく笑いかけられると、せっかくの女の子なのにと嫉妬した。
 「櫻間さんも私たちと同じで、見つけてほしかったのかもしれません」
 「……そうだったのかも。だから、わざと誰もいない教室に鞄を置き去りにしてくれていたのかも」
 「え?」
 「私が声をかけるのを待っていたのかな。それなのに私、櫻間が見て見ぬふりしてくれるから、その優しさに甘えて何度も鞄を漁って、何度も盗んだ」
 閨谷さんの懺悔の声が徐々に耳から遠のいていく。
 私は、佐倉さんの発言を思い出していた。
 ────『真織ちゃんが亡くなった日、真織ちゃんに閨谷さんに会う予定があるから今日は図書室に行けないって言われたんです』
 閨谷さんの言うとおり、櫻間さんは彼女が睡眠薬を盗んでいたことを知っていた。知っていて、わざと定期的に鞄を置き去りにしていたのだろう。
 それは、閨谷さんの言う、見て見ぬふりをした優しさだったのかもしれない。
 でも、櫻間さんは指摘することなく閨谷さんを野放しにしたとも言える。わざわざ放課後残って、睡眠薬を盗むようにわざと鞄を置いた。促すように。
 そういう思考を持つと、櫻間さんが意図的に睡眠薬を服用させているようにも見えてしまう。
 「……先生?」
 突然心ここに在らずな顔で沈思する私に、閨谷さんが心配そうに窺う。
 おかしくないだろうか。
 櫻間さんが複数人の生徒に睡眠薬を渡したら、当然自分の服用する睡眠薬は無くなる。それで極度の睡眠不足に襲われていては、自分の首も一緒に絞めているのと同じだ。
 もしも、櫻間さんは普段から睡眠薬を服用していなかったとしたら。
 服用していれば、薬は渡した分早く無くなり、通院頻度も増える。薬の量がこれ以上増えたら、さすがに櫻間さんの保護者に医師から話がいかないわけない。
 医師にも親にも気づかれないように過ごすためには、櫻間さん本人が服用しないか、櫻間さんがもう服用する体ではなかったかの二択になる。
 さすがに前者は体調や顔色でバレるはずだ。医者も馬鹿ではない。
 「先生、大丈夫?」
 「あの、閨谷さんはそもそも、櫻間さんが睡眠薬を服用していることをどこで知ったのですか?」
 そう尋ねた時、閨谷さんの顔色が曇る。
 「話したくなかったら無理には……」
 「櫻間が葛西先生に言っているところを聞いたの」
 葛西先生?
 「避難所になったここで、櫻間が『不眠症で眠れていないから一晩だけでも保健室のベッドを貸してほしい』って」
 初耳だった。
 「あの頃、ベッドはみんな体の不自由なお年寄りが使ってた」
 「そうですね」
 よく知っている。当時、保健室には三つのベッドしかなく、足腰の悪い年配の方たちが気遣いながら使っていた。
 「その時たまたま聞いて、櫻間が不眠症持ちだって知ったんです。その場で葛西先生は断っていました。あなただけ特別扱いはできないからって」
 「……特別扱い」
 「櫻間の家、一部だけ崩れたらしくて、余震とかでさらに崩れる可能性もあるから学校に避難してきていて、水とか電気が通っても結構長く避難所生活だったみたい」
 だとすれば、葛西先生だけは櫻間さんの不眠症を知っていたことになる。
 でも確かに、櫻間さんの不眠症は誰も知らなかった。───隠していた?
 「特別扱いしているのはどっちだよって。いかにも偽善的なあの人が言いそうなこと」
 閨谷さんは辛辣に吐き捨てた。
 彼女たちの話を聞いていて、依田さんの名前と同じくらい葛西先生の名前が出ていることに気づく。
 私は、もしかしたら目を向ける方向を間違えているのかもしれない。何か大事なものを取りこぼしているのかもしれない。