傷を舐めてもおいしくない

 *

 閨谷さんはその日のうちに病院を受診し、極度の不眠症とパニック障害の診断結果に、一時的な療養が必要だと報告を受けた。
 そして、閨谷さんは櫻間さんの鞄から睡眠薬を盗んだことを自白した。

 「今日は同行、よろしくお願いします」
 助手席に乗り込むと、山城先生から丁重な挨拶を受ける。
 これから佐倉さんの家に訪問する。
 夏休み期間だが、早急に話をしたいと無理を言って保護者に時間を作ってもらったのだ。
 隣でハンドルを持つ山城先生はやや緊張を隠しきれていない様子で頻繁に咳き込んだり、曲がる交差点を間違えたりしていた。彼が緊張している理由はなんとなくわかる。
 閨谷さんの発言と依田さんの証言で、生前櫻間さんが睡眠薬を数人の生徒に配っていたことがわかった。
 そして、依田さんはこれらを櫻間さんが込めた怨念による災いなのだと言った。この学校で最近起きた問題が災いだとしたら、佐倉さんも中津君も櫻間さんの怨念に充てられている可能性が高い。その可能性を確かめるため、私たちは今から本人に直接確認をしに行く。山城先生は、その結果を知るのが怖いのだろう。

 佐倉さんの家に到着後、佐倉さんと保護者を交えて事の経緯を話す。
 山城先生はしどろもどろになりながらも言葉をできるだけ包んで、佐倉さんを傷つけないよう、責め立てる構図にならないよう慎重に確認を取る。
 すべてを聞き終えた佐倉さんは、おもむろに立ち上がり、私たちの元から消える。だが、すぐに戻って来て、彼女はテーブルの上に薬を置いた。それは、櫻間さんが所持していた睡眠薬と同じものだった。
 佐倉さんは確かに受け取ったことを認めた。服用は一度だけ。即効性が怖くて、戻れなくなったら思うとそれからは飲めなかったという理由で二度目の服用はしていなかった。ただ、櫻間さんがくれた物だったから持っていると安心できてなかなか打ち明けられなかったと話す。
 「不眠症だということを母には話しています。病院にも受診して、今は処方された薬を貰って、飲むようになってからは少しずつ眠れるようになりました」
 つづけて、佐倉さんは黙っていたことを謝罪した。そして、櫻間さんは私を想って睡眠薬をくれたのだと弁明し、決して櫻間さんを悪くは言わなかった。
 「自分で打ち明けたことは、佐倉さんの大きな一歩です」
 そう伝えると、佐倉さんは仄かに口角を上げた。佐倉さんの前向きな姿勢に安堵する。
 私たちは、櫻間さんの睡眠薬を受け取り、佐倉さんの家を去る。
 「閨谷さんの混乱を見たので少し佐倉さんに会うのが怖かったのですが、何事もなくてよかったです」
 大仕事を終えたように脱力して、片手ハンドルで運転している山城先生が高らかに声にする。その態度が気に障った。
 「大事です」
 「へ?」
 「危険だとわかっていながらも他人の処方された薬を飲んだ時点で十分大事です。たったの一度でも、それに頼らないといけないほど追い詰められていたということですから。それに気づけなかった私たちが、何事もなくてよかったと安堵するのは大間違いですよ」
 つい冷静さを欠いて、強く否定してしまう。
 一瞬にして、気まずい空気が充満する。山城先生のゴクリと唾を飲む音が車内で響いた。
 三つほど交差点を通過したあたりで、スマートフォンから着信音が流れる。
 「男乕先生の携帯じゃないですか?」
 確認すると、嗣永先生からの着信だった。素早く出る。
 現在、嗣永先生は教頭先生と一緒に中津君に会いに行っていた。佐倉さんと並行して睡眠薬所持の件を確認するためだった。だが、電話越しでの嗣永先生の説明だと本人からの応えは貰えなかったようだ。でも、中津君は言った。────「男乕先生になら話します」


 後日、私は一人で少年鑑別所に出向き、一人で面会室に座り、中津君を待つ。
 しばらくすると、扉が開き、中津君が入って来る。彼は軽く私に会釈をしてから座った。
 「昨日の今日ですみません」
 「いえ」
 疲れていないかと顔を窺うが、顔を伏せていて表情がよく見えない。
 「私になら話すと言ったことを聞きました。どうして私を?」
 直々に指名されるとは思わなかった。その理由も知りたかった。
 「プールに入ってくれたのが男乕先生だってわかったからです」
 と中津君は答える。
 「絶対にプールなんか入らなそうなのに、俺のこと助けてくれたから。あの人は飛び込みもしなかった」
 中津君の〝あの人〟が、プール前で躊躇する葛西先生とリンクする。
 「えっと、なんでしたっけ。あ、そうだ、睡眠薬の話でしたよね。櫻間から睡眠薬を受け取っていたかっていうやつ」
 「中津君」
 「確かに櫻間に睡眠薬は貰っていました。服用もしていました。月に二回くらいの頻度で何錠ほしいって言えばその数くれました」
 中津君はあっさりと認め、受け取り方まで教えてくれた。
 でも、今知りたいのは事実よりも中津君が睡眠薬を受け取るにあたった経緯だ。中津君の痛み。
 「中津君」
 「睡眠薬はもう手元にはありません。もう全部飲んじゃって……」
 「避難所生活は苦しかったですか?」
 その問いに、中津君の口に急ブレーキがかかったように言葉が止まる。
 そっと顔を上げ、私を静かに見つめる。
 「人手が足りなくて、半強制的にボランティア要員として動いていましたよね? 陸上部員は葛西先生の指示でかなり動いていた記憶があります」
 「……」
 「冬の寒い中、体育館内に段ボールで区画を作って、炊き出しに、物資の移動、あとは水洗トイレを流すためにプールの水を持ってトイレまで何往復もしていましたよね」
 震災後、学校には想像の倍の避難民が押し寄せ、明らかに人手不足だった。葛西先生は、当時陸上部員だった中津君を含めた生徒を引き留め、彼らにボランティアを要求した。初めは物資の移動だけだったが、次から次へと作業は増えていき、気づくと休む暇もなく動いていた。
 「しんどくないわけないです。休みたかったはずです」
 陸上部の副顧問だった葛西先生は、陸上部員で頼みやすいということもあり彼らに幾度となく作業を要求した。あんな逆境の中で断れる生徒なんていなかった。
 中津君が怪我をし、救急車で運ばれている最中に中津君の体温が高いことを知った。熱があった状態でプールとトイレの往復をしていたのだ。
 「当時、中津君の足の怪我はプール内への転落事故として扱われました。言わば、中津君の不注意でした。その後、中津君は怪我のこともあって陸上部を辞めていますよね。まだ一年生だったのに、諦めるには早すぎる決断だと思っていました。でも、本当は諦めたのではなくて、許せなかったのではないですか?」
 中津君は、葛西先生に対する不満を何度も並べていた。相当な恨みがあったのだと思う。
 対して、葛西先生は中津君を信頼しきっていた。むしろ、陸上部以外の生徒会という居場所を作ったのは自分であり、中津君も感謝しているという自負さえ持っていた。彼にとっては、葛西先生の信頼は反吐が出るほど不愉快だっただろう。
 中津君を見ると、あの日を思い出すように静かに泣いていた。
 「熱があるから休みたいって言えなかった俺にも悪いところはありました。だから、気づいてあげられなくてごめんって一言言ってくれたら許せると思ってた。でも、待っても待ってもあの人から謝罪の言葉はありませんでした」
 何度期待して、何度絶望してきたのだろう。
 「働きすぎじゃないかって心配してくれる大人はいたけど、あの人は『勝手がわかる人の方が俊敏に動けますから。大丈夫ですよ。元気な若者が動いた方が、活気が湧くでしょう』って言って清々しく笑ったんです。俺も避難民だったんだけどなって悲しくなりました」
 確かにボランティア要員は足りていなかったけど、手伝ってくれる男性が、大人がいなかったわけではない。ただ、何かを取って来てほしい時、どれかを持って行ってほしい時、勝手がわかっている生徒の方が声だけの指示で済んで楽だったのだろう。本校の生徒だとなお気兼ねなく声をかけられる。その結果、必要以上に働かせすぎてしまった。
 教員の明らかなる失態だった。
 「トイレ掃除もきつかった。プールから持ってきたバケツの水が一瞬でなくなるのも結構しんどかった。余震も怖かった。……ただ、家族と一緒にいたかった」
 申し訳なくて涙がこぼれた。
 「プールに落ちた時、落ちる前に足を捻ったせいで痛くて動かせなくて、水も冷たくて、なんか海底みたいに暗いような気がして怖かった。溺れて、苦しくて、もがいている中、プールサイドに立っている葛西先生が見えました。落ち着いて、って安全なところから声をかけていたんです。躊躇されたって思いました」
 「……」
 「だから、男乕先生には感謝しています。学校でも、避難所でも、先生の肩身が狭かったこと知ってたから、きっと水なんか入ったらみんなの見世物になったはずなのに、それでも引き上げてくれた。嬉しかったです」
 私は強く首を振った。
 「あのあと、水が出て、電気が通って、親も会社に出勤するようになって、一ヶ月後に学校もはじまって、少しずつ日常に戻ろうとしていたけど、俺の足はまだ治らなかった。高校総体には調子を戻したくてリハビリ頑張ろうって思ってたんです。なのに、あの人の避難時の臨機応援な対応を学校側が評価したと聞いて、なんかもうどうでもよくなりました。だけど、あの人は待ってるからとか、リハビリして前みたいな記録を出せるように手伝うからとか、謎に上から目線で、配慮してますーみたいな、優遇していますーみたいな態度取られて腹が立ちました。だから、陸上部を辞めました」
 中津君は陸上部を辞める決断をしたわけではなく、ここにはいられないと線を引いたのだ。
 そして、葛西先生に絶望した悲しみは、葛西先生が学校で生き生きする姿を見る度に許せないに変わっていった。
 「どうして自分は奪われた側なのに、こんなに肩身の狭い思いをしなければいけないのか。あの時の記憶や感情が何日経っても忘れられなくて、ふと思い出しては眠れない日もありました」
 だけど、何も知らない葛西先生はそのあと中津君を生徒会長に推薦した。彼女にとっては、中津君の新たな居場所を作った気でいたが、中津君にとっては傷口を抉られたに等しい行為だった。
 「生徒会長に推薦された時、この人はどこまでも自分の価値や評価を上げたいんだってわかったんです。だから、生徒会長になりました。生徒会長になって、いろんな大人から信頼を得られる絶対的ポストを手に入れて、あの人に信頼してもらって、そのあとに落としてやろうって。本気であの人を傷つけたかった。そのためなら捕まってもいいって思いました」
 高校生がそんな全財産投げ打って、復讐を考えるなんて馬鹿にも程がある。
 気づけていたら、守れていたら、きっとこんなことにはならなかっただろう。
 嗣永先生が言っていた。
 『彼らは、自分を守る方法を知らないんです。傷つけ方はSNSを見ればそこら中に転がっているけど、自分の守り方は誰も教えてはくれないから』
 本当にそうだ。痛感させられる。
 「櫻間は、そんな俺に気づいてくれたただ一人でした。共感して、話を聞いてくれて、協力してくれた。作戦が失敗に終わった時、これでよかったのかもってなんかホッとした自分もいたんです。でも、櫻間が死んだって聞いて、櫻間のためにも俺たちが許せないって思っていることをどうにか伝えないといけないって思ったんです」
 「……伝えてくれてありがとうございます」
 佐倉さんも、中津君も、もしかしたら伝えない選択肢もあっただろう。それでも、こんな形でも、こんな場所でも伝えてくれてありがとうと思う。知らないよりはずっといい。
 中津君は目を見張ると、吹き出すように笑みをこぼす
 「それ、文脈的には合ってても内容的には変ですよ」
 「……そうですよね。すみません」
 それで中津君の気が一気に抜けたのか、わかりやすく肩を落とす。
 「櫻間の罪は全部俺が持っていきます」
 私は言下に否定する。
 「罪には名前があります。中津君が犯した罪にも名前があって、櫻間さんが犯した罪にも当然名前があります。罪の名前は、犯した人間が償ってはじめて知ることができるものです。中津君が櫻間さんの代わりに背負う罪はただの自己満足にすぎないのですよ」
 「じゃあ、もうここにいない人はどう償うんですか。死ぬことが償いですか?」
 「櫻間さんの保護者や私たち教員、大人が償います」
 櫻間さんを知っている大人が、櫻間さんの罪に関係ないとは言わせない。
 「中津君は自分の罪の名前を知ってください。知って、よく理解して、後悔して、一度すべてをゼロにしてください。そしてまた、夢を見つけてください」
 「……夢?」
 「どんな小さなことでもいいです。すぐにでも叶えられそうな夢でも十分です。夢を持って、自分を信じてみることからはじめてください。そのお手伝いなら私の手足をいくらでも貸します」
 「先生はずっとあの学校にいるんですか? 俺がもし少年院入って、戻って来てもいてくれるんですか?」
 「それはわかりません。契約満了になったらいないかもしれないです。でも、私は中津君を忘れずに見ています。大丈夫です。私は中津君を信じています」
 だから、私を信じて。
 職員が「そろそろです」と声をかける。
 中津君は「先生、最後に」と身を乗り出した。
 「櫻間は俺たちを自分と同じように薬がないと眠れない体にしようと考えていたかもしれないと聞きました」
 「誰に」
 「教頭先生が言っていました」
 どうして不安になるようなことをまたペラペラと……。
 思わず舌打ちが出そうになる。
 「櫻間はそんなことしない。はなからそんなことを考えていた奴だったら、こんな俺のバカげた復讐にここまで協力してくれるとはどうしても思えないからです」
 真実は櫻間さんの中にある。そうですねと安易には頷けない。
 私の渋い顔を察し、中津君は恐る恐る声を上げる。
 「クラスマッチの日、カメラを設置したのは依田だと思います」
 「……まさか、依田さんが設置するところを見ていたの?」
 「見てないです。でも、その反応は依田がそう言っていたということですよね?」
 「それは……」
 中津君はさらに詰め寄る。
 「授業中でも櫻間は依田のことを気にしていました。きっと依田に弱みとかを握られていたのかもしれない」
 一つの声で、依田さんに対する見え方がまた変わる。
 「男乕先生」
 「はい」
 「櫻間のこと調べているって言ってましたよね? 何か進展あったら俺にも教えてほしいです。お願いします」
 「……わかりました」
 頷くと、中津君は頭を下げ、面会室から出て行った。
 私はやっと背もたれに背中を預け、深く息を吐く。一人になり落ち着いてくると頭が正常に働きはじめる。
 依田さんは櫻間さんに気に入られていた(・・・・・・・・)と言っていた。でも、中津君からの視点では櫻間さんが依田さんを気にしていた(・・・・・・)ように映っていた。前者と後者は似ているようで、意味合いはまったくの逆だ。
 そもそも依田さんと櫻間さんの出会いは歪ではあった。たとえ描いた本人が気に入っていない絵だったとしても、賞を取った絵を他人に赤いペンキで汚されて一ミリも腹を立てないことができるのだろうか。
 今までの依田さんだったら、それを弱みに握って、櫻間さんを操るほうが腑に落ちる。
 駄目だ。確証もないのに、疑いだけを深めていくのはよくない。
 私は勢いよくかぶりを振り、面会室を出た。