スイッチが切れたように動かなくなった閨谷さんは、その後すぐに意識を手放した。
学校に駆けつけた保護者に状況を説明し、危険な精神状態であることを伝え、すぐにでも病院を受診することを勧めた。
閨谷さんはおそらくここ最近まともに眠れていない。不眠によるストレス。そして、睡眠薬への過剰なまでの精神依存が見受けられた。だが、後者は用法容量を守り、医師の指示に従えば防げるものだった。他人の処方された薬を服用するなんてもってのほかだ。
「首、大丈夫ですか?」
目の前で借りてきた猫のようにおとなしく座っている依田さんに訊ねる。
彼女の首には、閨谷さんが爪で引っ掻いた痕が残っていた。
「大丈夫です」
首元を触りながら言う。その手は絵の具の赤で染まっていた。
「手を洗いますか?」
首を振ると、赤い手を隠すように下ろした。
上司への報告もまだだが、先に依田さんと話をしたいと無理を言って二人きりにさせてもらった。
「先ほどの話を詳しく伺いたいです」
依田さんは目線だけを上げた。
「櫻間さんに貰ったと言った睡眠薬。それは本当に櫻間さんが渡していたのですか?」
痛いくらいの沈黙が脈を速める。
依田さんはふっと視線を逸らすと、手についた赤を指の腹でこすり落とそうと摩りはじめる。強く、強く。摩擦で皮膚が赤くなるほど。
「赤い蝋燭と人魚の童話の話をしたこと憶えていますか?」
不自然に話が飛ぶ。でも、依田さんの中では繋がっている話なのだろうと受け入れる。
「もちろんです。あのあと、その童話を読みましたから」
「さすがですね」
依田さんは笑みをこぼし、話を進める。
「作中の最後に、女性が蝋燭を買いに訪れますよね。その人は、人魚の本当の母親ではないかと言う人もいます。大事な娘を売り飛ばした老夫婦を一目見に来たのかもしれないと。老夫婦に天罰が下るよう、人魚を乗せた船が嵐に見舞われたのも、村に災いが訪れるのも、その最後の女性である人魚の母親がずっと赤い蝋燭を神社に灯しつづけたのではないだろうかって」
作中では、その女性が誰なのかは詳しく綴られてはおらず、最後の着地点は読者側に委ねられている。その女性に意味を持たせるとするなら読者が行き着く最後は、高い確率で人魚の母親だろう。
この世には、因果応報という四字熟語がある。悪事を働けば、それ相応の報いが返ってくるということ。人魚が描いた蝋燭を売って儲けを得た老夫婦が、香具師の吹聴により人魚を信じられずに売り渡してしまう。その裏切りが報いとして返ってきた構図を書き、因果応報はあることを著書は伝えたかったのだろうと、読者が思うのは必然だった。
「でも、本当にそうかなって。村で起こる災いは人魚本人が込めた怨念だって。老夫婦にもですけど、地上に送った人魚の母にも、人魚は恨みや怒りを少なからず持っていたんじゃないか。きっと最後に描いた赤で塗り潰した蝋燭は大人の身勝手な行動による怒りが込められていたのだと。だから、赤い蝋燭が灯る度に災いが起きるようになったのだと。どんなに優しい人魚だって地獄を前にしたら、誰かを傷つけることもできるし、誰かを道連れにすることもできるはずだ、って」
これは依田さんの見解ではない。
「櫻間さんが、言っていたのですか?」
依田さんはしっかりと頷く。
「櫻間も人魚のように睡眠薬に怨念を込めた。薬を渡して、身近な人を狂わせた。自分と同じような、薬がないと生きていけない体にしようとした。これが災いだと言うように」
喉が締まる。本当にそうだとしたら恐ろしい。
「自分がいなくなった学校で、自分が渡した睡眠薬から着火し、学校では次々と災いが起きる。私は、櫻間真織がそういうシナリオを作ったのだと思っています」
「どうして、そう思うのですか?」
「私の知っている櫻間真織はそういう子だったからです。人の痛みに気づきやすくて、そういう人への寄り添い方を熟知している。だからこそ、なんでも手のひらで転がせることができる。あの子は魅力的だけど、一歩間違えれば人を悪い方向へと操ることもできるんです。ずっとどこか危うかったけど、あの手紙を読んで確信しました」
そう言うと、依田さんは摩る手をようやく止める。
櫻間さんの手紙の文面には犯罪行為を思わせるような内容が綴られていた。
【ここ最近、ずっと夢と現実の境目がわからなくて、眠りながら生きているような気がしています。誰かに追いかけられている夢、誰かに見られている夢、自分が罪を犯す夢、それらを交互に見ている。】
ただの夢。でも、依田さんはこの文を読んで確信したのだろう。
「先生は、閨谷さんの話と私の話を聞いて、櫻間真織を犯罪者だと思いますか?」
「え」
「私の考察は間違っていると思いますか?」
依田さんの目が鋭く光る。いつもの見透かそうとする目だ。
「……間違えている、と思いたいです」
「それって、そういう事実になり得るとも思っているということですよね」
私は言い逃れることをやめて正直に頷いた。
「本当に正直ですね。まあ、私が言い出したことなんですけど」
依田さんは笑う。
「でも、一点気になることがあります。仮に依田さんの話の通り櫻間さんが災いを引き起こすために怨念を込めていたとして、それは一体誰に向けているのでしょうか」
因果応報が起こっているのなら、櫻間さんを裏切った火種がいるということになる。
瞬間、依田さんの表情が曇る。
「先生は、心当たりないですか?」
それは、依田さんは答えを知っているということだろうか。
「……ないです」
「そうですか。残念です」
依田さんのペースに飲まれては駄目だ。そう強く決め込んでいても、心は揺れる。気づかないうちにもしかしたら私が櫻間さんを追い詰めていたかもしれないというフェーズに入ってしまう。不安や恐怖に襲われ、息がしづらい。
「閨谷さん以外にもいるかもしれないですね。櫻間の睡眠薬で精神依存を患ってしまった子とか」
「……依田さんは、大丈夫ですか?」
そう訊ねると、依田さんは目を瞬かせ、唾を吐くように笑みを落とす。
「見るからに大丈夫そうでしょ。私はそもそも閨谷さんみたいな自覚を持つほどの不眠症を持っているわけではなかったので、全然大丈夫です」
そう言って肩を竦める。
「じゃあ、どういう経緯で櫻間さんから睡眠薬を受け取るようになったのですか?」
「たまに眠れない夜があるってこぼしただけです。不眠症を持っていた櫻間にとっては大事だと思ったんじゃないですか? 話した時に櫻間がくれました。限界が来たら飲んだらいいって。まあ、人の薬なんて怖くて飲めたものじゃないので、一度も飲んではないですけど。あー、あとまたほしかったら言ってねとも言われましたね」
人を常に疑う依田さんの性格で服用は避けられたものの、安堵はできなかった。
要するに、櫻間さんにとって睡眠薬を渡す行為はお菓子を分け与えるほどの身軽さで、その行為に一つの罪悪感も持ち合わせていなかったことになる。
「櫻間、全然悪気なさそうでしたよ。犯罪だとも思っていないようなケロッとした表情でした」
「犯罪だってわかっていなかったのでしょうか」
「それはないです。犯罪だよね? って聞いたので」
「……なんて?」
「そうだよって楽観的に返されました。櫻間にも裏の顔があるんだってちょっと意外だったけど、同時に安心もしました」
「安心?」
「人はみんな善良じゃないってことに」
常に笑顔でいた櫻間さんと、依田さんから聞く櫻間さんは別人のように結びつかない。
私は何を見ていたのだろう。櫻間さんの何を見て大丈夫だと目を逸らしたのだろう。
「やはり、櫻間さんと親しい関係ではあったのですよね?」
「んー、親しかったのかな」
櫻間さんが睡眠薬を渡すということは、それなりの関係を築いていたことになる。
曖昧に濁そうとする依田さんを今度は私が視線を追いかけ捕まえる。
逃げられないと悟ったのか、ため息を吐き、背もたれにドシッと体を預けた。
「私が櫻間真織と話すようになったのは、彼女が私の描いた絵を真っ赤なペンキで塗り潰した日でした」
依田さんの描く赤を見る度に思い出す光景があった。
一年半前、依田さんが一年の頃に描いた絵が受賞された。理事長はえらく感銘を受け、昇降口の壁に立て掛けた。だが、それは一週間もせずに誰かのいたずらで赤く汚されてしまった。犯人は名乗り出ず、すぐに撤去された。その犯人が櫻間さんだったと依田さんは言う。
「私もあの絵が嫌いだったので、汚してもらってせいせいしたっていうか。だから最後のトドメみたいに一緒になって赤く汚したんです。そうしたら私のことをなんか気に入ったみたいで、時折美術室に来ては生産性のない話をペラペラ喋って、喋り疲れたらさっさと出て行ったり、机に突っ伏して眠ったり、自分勝手に美術室に居座るようになりました。私はというと、彼女の話に適当に相槌を打つだけでした。たまに邪魔だなとかも思っていたし、なんでこの人友達いっぱいいるのにわざわざ私に会いに来るんだろうって鬱陶しくも思っていました。だから、親しい関係って言うのはちょっと違う気がします」
いつになく依田さんは素直に話す。その淡々とした声を聞いていると、この事実が全部依田さんの作り話かもと疑ってしまう。
「櫻間さんはどうして依田さんの絵にイタズラをしたのでしょうか?」
「イタズラ」と依田さんは馬鹿にするように笑う。
「私の絵が気に食わなかったんだと思います。まあ、それが理由ならイタズラのようなものですよね」
「依田さんもあの絵は嫌いだったのですか?」
「描けって言われて描いたものなので。知ってました? あの時の絵画コンクール、復興を応援するような絵ばかりが受賞したんです」
震災後のコンクールで依田さんが描いた赤い一輪の花の絵は、本当に咲いている花のように細微まで繊細に描かれていて美しかった。
「あの花、キョウチクトウって言うんですよ。広島の復興の花らしいです。たまたま広島出身の人が審査員だったらしくて、全然そんなつもりじゃなかったけど復興を応援する絵としてはふさわしい花だったとかなんとか言われて、勝手に昇華されて、なんか適当に選んで嫌々描いた作品なのに、賞なんかとっちゃって心苦しかったんですよね。私が描きたかった絵は、あんな映える赤じゃなかった」
依田さんが描いている赤はもっとずっと毒々しかった。きっと彼女から見えている赤は綺麗ではないのかもしれない。人の本質も、物事の本質、すべてが綺麗に見えるものはないのかもしれない。
「櫻間真織は、私の絵を好きだって言ってくれたんです。私が描きたい絵を、不気味で怖いけど、嘘がなくて好きだって。たとえあの子の選択が犯罪だったとしても、私にとってはどうでもいいです。ありのままを理解してくれる人だったから、どうにかしようなんて思わなかった」
最後に「死ぬなんても、思わなかったけど」と消え入りそうな声で吐いた。

