傷を舐めてもおいしくない

 翌日、私と嗣永先生は中津君がいる少年鑑別所に向かっていた。

 学校側は、週に一回中津君の健康状態や鑑別所での暮らしで困りごとはないか等の確認のため訪れていた。だが、彼が口を開くことはいまだないそうだ。
 「葛西先生との接触は禁止になっているので、三年のクラスを受け持っている教員で回して様子を見に行っているんです」
 「私は行ってもよかったのでしょうか?」
 「いまだ誰の問いかけにも答えてはいません。いまさら接点がないからという理由で棗先生がNGになることはないです」
 要するに、誰を連れて行っても結果は同じだからということで校長先生からの承認が下りたのだろう。
 「それに、中津君も同じ質問をされて飽き飽きしていると思います。なので、棗先生は好きに訊いてみてください」

 私たちは受付を終えると、鞄やスマホなどの持ち物をすべて置いて、案内された一室に足を踏み入れる。室内は机と椅子だけが置かれており、質素で殺風景な部屋だった。
 私と嗣永先生は椅子に腰かけ、中津君が来るのを静かに待った。
 雨が小窓を叩く音がやけに響いていた。帰る頃には土砂降りになっているだろうなと漫然と思う。
 壁に掛けられた時計の秒針が一周回った時、扉が開き、中津君が中に入って来る。私を視界に入れると、一瞬体を止めた。だが、すぐに歩き出す。
 その時、わずかではあるが中津君に違和感を覚え、眉を顰める。
 中津君は教室での動作を同じように椅子を引き、私たちと向かい合わせで腰かけた。
 まず嗣永先生が中津君に声をかけた。
 「体調は大丈夫? 変わりはない?」
 言われていたとおり、中津君の返答はない。
 「ここでの生活は慣れてきた? 何か欲しい物とか、訊きたい事とかはない?」
 これにも反応を示さない。
 「今日は養護教諭の男乕先生と一緒に来たから、少しでも体調が優れないとかあればなんでも言ってね」
 すると、中津君は小さく笑みを落とした。関係ないだろ、というような嘲笑う反応。
 担任でもなければ、彼の何かの担当教員でもなかった私に対して、中津君がこういう反応をするのは想定内だ。
 「な、棗先生も何か訊きたい事があれば」
 嗣永先生は気まずそうな顔で、早くも私にバトンタッチをした。
 動揺や緊張が読まれないよう静かに息を整える。なるべく冷静さを保った状態で口火を切る。
 「保健室で中津君が所持していた赤いペンを見つけました」
 そう言うと、手元を弄っていた中津君の視線が上がる。
 「勝手ながら中身を開かせてもらいました。七つ音声データが残っており、すべて聴かせてもらったのですが、どれも拍子抜けするほどの無音で、声という声は入っていませんでした。あれは、中津君が置いたペンなのでしょうか」
 中津君は眉を顰め、顎に手を当て沈思したのち「あ」と声を洩らす。
 隣の嗣永先生がわかりやすく背筋を伸ばした。
 「俺ではないです」
 返ってきた答えは真っ向からの否定だった。
 「でも、同じペンだったのよ」
 ペンでもここには持ち込めない。証拠を見せることもできない。
 違うペンだろ、という言い逃れをされる前に嗣永先生が慌てて主張する。
 「多分俺のペンではあると思います。ただ、保健室に置いたのは俺ではないっていう意味です」
 「どういうこと?」
 「櫻間ですよ。櫻間が置いたんだと思います」
 「え?」
 呆気に取られたような声が隣から聞こえた。
 「櫻間って、櫻間真織さんですか?」
 櫻間と言われて思い浮かぶ人物なんて二人も三人もいない。案の定、中津君は「他に誰がいるんですか」と鼻で笑った。
 中津君と櫻間さんは同じクラスだ。接点がなかったわけではない。だけど、もし中津君がもう今ここにはいない人物に罪を擦りつけようとしているのなら、彼の発言はあまりにも不謹慎で恐ろしいものだ。
 「どうして、櫻間さんがあなたのペンを?」
 鳥肌が立っていた。なのに、私は驚くほど冷静に追及していた。
 「取引をしたからです」
 中津君も逃げずに答えた。
 「取引?」
 「櫻間はもういないし、俺の悪事も暴かれたんで、もう時効だと思って話しますけど、櫻間がどうしてそんなことをしたのかっていうのは俺にもわからないんで訊かないでくださいね」
 「わかりました」
 中津君の条件に頷くと、彼は生前の櫻間さんと取引の内容を話しはじめる。

 中津君と櫻間さんが同じクラスになった新学期、今年の四月だった。櫻間さんは中津君が普段から盗聴していることに早々に気づき、放課後に声をかけた。櫻間さんから指摘され、理由を求められた中津君は、葛西先生に恨みや怒りがあることを告げる。生徒会長になったのも、悪事を犯した時に肩書きとなる盾があると便利だからと。盗聴もそれと同じで、自分が不利になった時、証拠となるものがあれば大人にも勝てるからと説明した。
 櫻間さんはそこで中津君が葛西先生を陥れようと計画していることに勘づいた。そして、自分も協力者になると自ら名乗りを挙げてきたのだ。さらに、櫻間さんは中津君にひとつの計画を持ち掛けた。それが盗撮だった。
 去年の冬頃、陸上部員が女子更衣室を盗撮しているかもしれないという話を誰かから聞いたことがあることを櫻間さんは中津君に打ち明けた。それを利用し、盗撮を暴いて、陸上部ごと陥れるのはどうだろうかと提案したのが櫻間さんだった。
 櫻間さんは女子更衣室にカメラを置くというリスクを負う代わりに、中津君に「その赤いペンを一つほしい」という条件で、彼らは取引をした。
 その後、二人は緻密に計画を練った。
 中津君は男子更衣室を盗聴し、盗撮をしている部員を一ヶ月かけてあぶり出し、彼らが盗撮で使っていたビデオカメラを盗んだ。櫻間さんはビデオカメラを女子更衣室に設置し起動させる。盗撮した動画は、中津君が部活中の男子更衣室に忍び入り、加害者生徒二人のスマホにエアドロで転送し、のちの二人にも動揺、欲情、優越感を誘うために加害者生徒のスマホを使ってラインを通して送った。送った形跡は消し、SNSが主導の現代の思春期のバズリ欲、拡散欲を待った。だが結局、この作戦はうまくいかなかった。
 その後、櫻間は事故で亡くなり、中津君が渡した赤いペンも所在不明になり、中津君が男子更衣室から盗んできたビデオカメラも櫻間さんが亡くなったことでどこにあるかわからなくなってしまった。

 中津君は淡々と同じペースで、次から次へと嘘のような内容を明かしていく。
 この話を聞いている嗣永先生は動揺を上手く隠しきれていなかった。
 「これが盗撮に至るまでのすべてです」
 中津くんは手を一叩きし、わかりやすく話に終止符を打った。
 この話を聞いて、すべてを事実だと飲み込むのは難しく、あまりにも危険だということはわかっていた。でも、監視カメラには女子更衣室に入る男子生徒も不審な人物も映されてはいなかったし、実際今年の五月の盗撮動画だけ画角も違っていた。
 おまけに依田さんの発言。
 ────『櫻間真織がこっちを見ています』
 実際に、櫻間さんはカメラのほうに視線を向けていた。
 違和感は複数あった。でも、それらが私の過剰なまでの猜疑心だったらと思うとこれ以上の追及はできなかった。その違和感が今中津君の説明で腑に落ちる。
 ああ、嫌だな。
 「どうして櫻間さんはあなたの行動に加担してくれたのでしょうか。リスクがあまりにも大きすぎませんか?」
 録音付きのペンなんて高性能を求めなければネットで手を出せる金額だ。罪を犯してまで、櫻間さんが加担する意図がわからなかった。他に理由があるはず。
 「だから、そういうのわかんないって。利害でも一致したんじゃないですか?」
 「利害?」
 「たとえば、俺と同じように誰かを陥れたかった、とか」
 〝誰か〟
 中津君の陥れたかった誰かはわかっている。じゃあ、櫻間さんは誰を陥れたかったのか。
 その後もいくつか質問をしたが、中津君は「さあ?」と言って首を竦めるだけだった。
 櫻間さんの行動の意図は一つもわからないまま、「あと五分です」と面会の終了時間が迫る。
 「中津君」
 「今度はなんですか」
 最後に、と付言し訊ねる。
 「足は、大丈夫ですか?」
 瞬間、中津君が目を見張った。
 面会部屋に入った直後、中津君は右足を若干引きずっていた。今日は雨だからだろう。気圧が下がると過去に負った傷が痛みだす人もいる。
 「足?」と嗣永先生は気づいていないようだった。
 私の思い違いかと話を流そうとした時、嗣永先生が「そういえば」と話を掘る。
 「一年の頃に怪我をしていたね。後遺症とかあるの?」
 嗣永先生が心配な面持ちで中津君の顔を覗いた。
 中津君は首を振り、「なんともないです」と素直に答える。
 「癖で、たまに怪我した右足を引きずってしまうだけです」
 〝癖〟という単語に引っかかった。
 「それは、トラウマになっていませんか?」
 嗣永先生につづいて問うと、中津君はあからさまに顔を顰めた。
 「なんでですか?」
 「雨も水ですから連想して痛みを思い出してしまうのかと。癖と言うので事故のことがトラウマになっているのかと勝手に思ってしまいました。気に障ったのなら謝ります」
 中津君の表情の曇り方に、本人にとっては触れてはいけないセンシティブなことだったのかもと慌てて詫びる。
 「そうじゃなくて、なんでそんなことわざわざ訊いたんですか?」
 私は首を傾けた。質問の意味がわからなかったからだ。
 「なんでって……右足の怪我は、震災後の学校の室内プールでしたので」
 震災後、避難所になった学校で中津君は右足を骨折していた。
 怪我の原因は、学校の室内のプールサイドで人とぶつかり、足を捻ってしまったことによる不慮の怪我だった。中津君はそのあと大きくよろけて、そのままプールの中に落ちてしまった。足を痛めたことにより自由が利かなくなり、中津君はプールの水で溺れた。あの日は冬の寒い日で、水も冷たかった。さぞ怖かっただろう。
 「あーそっか、先生だから一応は知ってるのか。俺の怪我の理由なんて地震のせいで忘れられているかと思った」
 そうぼやいて立ち上がろうとする。
 「何言ってるの」
 乾いた笑みをこぼす中津君に対して、嗣永先生は怪訝な顔で割って入る。
 「忘れるも何も中津君が溺れた時、助けてくれたのは男乕先生だったじゃない。先生が忘れられるわけないでしょ」
 「……え」
 それを聞いて、動きを止めた。中津君はゆっくりと視線を私に向き直す。初めて目が合ったような気がした。
 「男の先生かと思ってました」
 疑うような目を向けられ、私は小さく笑みをこぼす。
 「元は男ですから」
 勘違いされても無理はない。身長や体格は嗣永先生とは変わらないが、力は彼女の倍はあるだろう。
 「痛むようであればちゃんとケアしてもらってくださいね」
 念を押すように言った。
 私は嗣永先生と目を合わせ、そろそろ出ようかと意思疎通を図る。
 「じゃあ」と嗣永先生が椅子を引いた時だった。
 「櫻間は、俺と同じだって言ってました」
 中津君は雨音に紛れるように小さな声で落とした。
 嗣永先生はそっと椅子に座り直す。
 「多分、恨んでいる対象が同じだったから、俺に協力してくれたんだと思います」
 「それは、葛西先生のことですか?」
 中津君は頷く代わりに、結んだ唇をさらに緩める。
 「あの人は、俺たちのことなんて何も見てない。自分の思想を愛しているだけで、俺たちの声を聞いたことなんて一度だってない」
 中津君が、自分の内にある感情を話すのは彼の悪事がバレた日以来だった。
 葛西先生の前で『やっと、あんたを底に落とせる』と言った目が今もここにある。憎んで、怒って、苦しんで、泣いている目。
 「自分は理解ある人間だって驕っているだけ。わかってるような顔をして、公正平等の言葉を振りかざして、俺たち生徒を利用しているだけ。俺は、あの人がしぬほど嫌いなんです。だから、あの人の大切にしているもの全部を壊してやりたかった。それを櫻間に言ったら、『一緒に壊そう』って言ってくれたんだ。『壊れる前に壊してやろう』って」
 櫻間さんが中津君を焚きつけたわけでも、中津君が櫻間さんを利用したわけでもない。二人は痛みを共有したことで共鳴したのだ。
 「何があったんですか? 葛西先生は中津君に何をしたんですか?」
 そう尋ねた時、職員から「お時間です」と伝えられる。
 中津君はその声に従い、素早く立ち上がった。あっさりと私たちに背中を向ける。その背中がボロボロのように見えて、私は彼の名前を呼んだ。
 「私たちは、櫻間さんと向き合いたいと思っています」
 振り返り、首を傾ける。
 「今さらですか?」
 もっともなことを言われる。言い訳も弁明も口にしてはならない。
 中津君にとってはもう触れてほしくないことだろう。そっとしておくべきかもしれない。
 それでも、
 「はい」
 返事をした。
 「だから、また来ます」
 中津君は私たちに軽く会釈をして、面会室から出て行った。
 日常の音が一気に戻ってくる。雨音が轟音のように鼓膜を叩いていた。


 私たちは、そのままの足で学校へと向かった。
 「今日はありがとうございます。中津君がこんなにも話をしてくれるとは思いませんでした。やっぱり棗先生を連れて行ってよかったです。今日の報告は私からしておきます」
 「よろしくお願いします」
 駐車場で嗣永先生と会釈を交わし、私たちはそれぞれの持ち場へと戻る。
 中津君が自分の想いを話した。事件の真相もさらに明らかになるだろう。今後どういう審判が行われ、中津君の処罰がどう下るのかはわからない。見届けなければいけない。面識がなかったからと言って、責任が私にないわけではないから。
 靴箱でスリッパに履き替え、保健室までの廊下を歩く。雨は止まず、いまだ降りつづけている。
 こんな雨の日でも、依田さんは絵を描きに登校しているのだろうか。
 ふと依田さんの赤が頭に過った。気づいたら、私は階段を上っていた。
 薄暗い廊下を歩き、教室棟よりも少し古びた棟へと踏み入れる。その一番奥に美術室はある。その【美術室】と書かれた表札を目前にした時だった。
 「早くしてよ!」
 叫び声が聞こえた。
 驚いて、足を止める。耳を澄まさずとも、確かに美術室からは揉み合っている声が聞こえていた。私は慌てて美術室の扉を開けた。
 「何やっているんですか」
 そこには、いつもと変わらずに絵を描きに来たであろう依田さんと、彼女の襟元を掴み覆い被さる閨谷さんがいた。二人は私に気づき、視線を向ける。野獣のような閨谷さんの目と合う。
 周囲を見渡した。床には真っ赤に染まる依田さんの作品が転がっていた。夏休み中に完成させたのだろう。ど黒い赤たちが真っ赤な海を演出する。その不気味さと、閨谷さんの血走った目に背筋が凍った。
 気づいたら一歩後退ろうとしていた足を、依田さんの手から放たれたパチンという軽快な音でなんとか留まる。
 私の乱入によって閨谷さんの意識に緩みが生じた。その一瞬の隙で、依田さんは閨谷さんの頬に平手打ちをし、閨谷さんの右足の怪我なんてお構いなしに力いっぱいに押し退けた。頬の痛みと横からの衝撃に耐えられなかった閨谷さんが豪快に床に転がる。瞬時に依田さんは体を起こし、閨谷さんから距離をとる。
 これは、どういう状況なのか。ただのケンカにしては殺気が立ちすぎている。
 「あーもう! 邪魔しないでよ!」
 痛いはずなのにアドレナリンで痛みを感じていないのか、閨谷さんはゆらゆらと立ち上がる。
 「何があったんですか」
 状況を理解しようと依田さんに問うが、彼女は閨谷さんをきつく睨んだまま何も話さない。
 「持ってるんでしょ!? ねえ!」
 また閨谷さんは声を荒げ、右足を引きずりながら依田さんに掴みかかろうとする。急いで彼女の両肩を掴んで止めると、「触んないで!」と全身を使って振り払う。
 「あんた、男か女かわかんなくてきもいんだよ!」
 続けざまに強い拒絶と差別を受ける。
 急な刃物に一瞬動揺したのも束の間、依田さんがもう一度閨谷さんの頬は叩く。
 「依田さん!」
 「自分の不都合を先生に八つ当たりしないで」
 依田さんは怒りの感情のまま、閨谷さんを強く叱責する。
 彼女の強さに驚いていると、閨谷さんは頭をガシガシ搔きながら叫ぶ。
 「だったら渡してよ! 持ってるんでしょ!」
 「だから持ってないって! しつこい!」
 「だって、あんた櫻間と仲良かったじゃん! 貰ってないわけないじゃん!」
 二人はさっきから同じ主張をし、押し問答していた。
 「もう限界なんだよ、苦しいの、お願いたすけて……」
 今度は猫のように依田さんに縋りつく閨谷さん。彼女の目にはひどい隈ができていた。
 「櫻間さんは、あなたたちに何かを渡していたのですか?」
 二人に一歩一歩近寄り、恐る恐る尋ねる。
 すると、閨谷さんが込み上げてきた笑みを悪びれるようにこぼす。
 「そっか。何も知らないんだもんね、大人は」
 含みを持った嫌な言い方だった。
 閨谷さんは、私に憐みの目を向けると、依田さんの「やめて」という静止を無視して、口に含んだ飴を舌で転がし弄ぶように言った。
 「睡眠薬だよ」
 閨谷さんは狂ったようにつづける。
 「アイツ、自分を慕っている同級生に睡眠薬を配ってたんだよ」
 声が出ない。
 「優等生な顔して犯罪に手染めてたんだよ! 先生知らなかったでしょ!?」
 待って。
 「アイツ、自分と同じ境遇を増やそうとしてたんだよ。睡眠薬を手放せない体だからって、私たちも同じ目にしてやろうってさ。だから、私がアイツの睡眠薬盗んでも何も怒らなかったんだ。それよりか自殺なんかしたりして、自分はさっさと一抜けしてんの。キモすぎんだろ」
 一気に言い切ると、閨谷さんは脱力する。そのまま床に座り込み電池切れのロボットのように動かなくなる。
 「本当なんですか?」
 依田さんに問う。嘘であってくれと願いながら。
 「それって、どこまでの質問ですか?」
 質問を質問で返された。
 そういえば、と思い出す。私が依田さんを認識したのは、廊下で睡眠薬を拾った日からだった。あの睡眠薬は、即効性が強く、依存性の高い危険な薬だった。
 「依田さんが所持していた睡眠薬は、もしかして櫻間さんから貰ったものですか?」
 あの日の依田さんは確かに自分のものだと言っていた。過去に通院履歴があり、休薬して今は治っていると。あの睡眠薬はお守りのように持ち歩いているだけなのだと。
 「はい。あの睡眠薬は、櫻間真織から受け取りました」
 祈りに反して、真実はあっという間に開示された。
 依田さんの手で赤がぶちまけられる。
 真実は綺麗な色をしていない。嘘で塗り固められた真実は深く、硬い。掘り起こすには手のひらを血だらけにしないといけない。
 ふと、私は櫻間さんの手紙の一節を思い出していた。
 【ここ最近、ずっと夢と現実の境目がわからなくて、眠りながら生きているような気がしています。誰かに追いかけられている夢、誰かに見られている夢、自分が罪を犯す夢、それらを交互に見ている。】
 櫻間さんは、本当に夢と現実の区別がついていなかったのかもしれない。