傷を舐めてもおいしくない

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 目の前の嗣永先生は薬でも飲むかのような顔で水を飲んだ。
 「私は、今の十代の子の繊細さを甘く見過ぎていたのかもしれません」
 嗣永先生が声を落とした。
 ほんの一瞬、かけ離れた感情を抱くだけで佐倉さんは自分の根底まで疑った。本当の自分は善良ではないのかもしれないと、眠れなくなるまで考えて自分を追い詰めていた。私たちはそれにまったく気づけなかった。
 「佐倉さんと話をして、約束をしました」
 「約束?」
 「櫻間さんの死と向き合うことを。だから、もう少しここで頑張りたいと思います。嗣永先生、私と一緒に向き合ってもらえないでしょうか」
 「それはもちろん」と嗣永先生は一つ返事で頷いた。
 私は安堵につき、ようやく水を口に含む。
 「でも、佐倉さんの話を聞いて、ますます依田さんの意図がわからなくなりました。どうして依田さんは、突き落としていないのだと否定しなかったのでしょうか」
 そう疑問に思うのも無理はない。
 「閨谷さんが怪我をした時のことも佐倉さんに訊きました」
 私はそのことも嗣永先生に説明する。

 終業式の日、悲鳴を聞きつけてあの場に向かったのは私だけではなかった。最初に駆けつけたのが依田さんだったのだ。階段下で蹲る閨谷さんと、青ざめた表情で気が動転して震えていた佐倉さんを見て、依田さんは瞬時に察した。彼女は、早足で閨谷さんに駆け寄ると、顔を近づけて何かを耳打ちした。その後、また階段を上り、今度は佐倉さんに「なにもわからないフリして下で立ってて」と指示した。気が動転して、どうしたらいいのかわからなかった佐倉さんは言われるがまま階段を下りた。準備が整ったことを確認して今度は依田さんが悲鳴を上げた。その二回目の悲鳴で駆けつけたのが私だった。

 「他の先生を呼びに行って戻って来たら、依田さんが連れていかれていて、担任の山城先生から依田さんが突き落としたのか、状況は見てなかったか、と訊ねられたそうですが、怖くなってわからないと言って逃げてしまったそうです」
 「依田さんは、閨谷さんになんて耳打ちを?」
 「それは佐倉さんもわからないそうです」
 嗣永先生はわかりやすく頭を抱えた。
 「閨谷さんが本当のことを今も言っていないということは、依田さんは閨谷さんを縛るようなことを言ったということでしょうか?」
 「そうだと思います」
 「でも、おかしくないですか? 自分が不利になってしまう局面だったらわかりますけど、閨谷さんの怪我は依田さんには関係ないですよね?」
 そう、関係ないのだ。でも、私が知っている依田さんなら、この状況をさらにおいしく調理して楽しむ可能性も考えられなくはない。
 「依田さんについて、何か他におかしな点があるんですか?」
 私が考え込んだせいで、嗣永先生は他にも心当たりがあるのだと察する。

 数秒の逡巡の後、私は嗣永先生を信じてこれまでの依田さんの言動について話をした。
 佐倉さんが図書本を破っていたことを報告した生徒が依田さんであり、小野寺君を利用し本性を吐かせたのも彼女の仕業であったこと。
 中津君の件でも、クラスマッチの日に女子更衣室に起動させたカメラを設置したのは依田さんだと自ら自供したこと。
 そして、依田さんが言った優越感に浸るために誰かの秘密を暴いたという発言も、すべて包み隠さず話した。

 静かに聞いていた嗣永先生の表情はどんどんと曇っていき、話し終えた頃には怒りや恐怖、悲しみ、混乱を入り混ぜたような感情で綺麗な顔がこれまでにないほどに歪んでいた。
 「なんていうか……信じられないです。事実だと思いたくないですね」
 言葉を探っても選びとれないというような気持ちが掠れた声に出ていた。
 「依田さんの言動にはいつも頭を悩ませています。でも、時々気づかされることもあります」
 「それは、何か気づいてほしいんでしょうか」
 「え?」
 「ただ依田さんに敵対心を向けられているのかと思ったんですが、棗先生にだけ伝えていて、先生だけにはいまだ危害を加えていないのだとしたら、何か気づいてほしいことがあってアクションを起こしているようにも見てとれます」
 そうだとしたら、どうしてこんな回りくどいことをしているのか。
 「何はともあれ、これからも依田さんには注意して見ていてください。私も心得ておきますので」
 「はい、ありがとうございます」
 すると、どちらからともなく長い息を吐き、張り詰めていた緊張を解いた。
 嗣永先生は水を一気に飲み、私は立ち上がりデスクの引き出しに入れておいた赤いペンを慎重に取り出した。
 グラスに入れていた氷をガシガシ噛み砕いている嗣永先生の前にそのペンを置いた。ペンと視線が合った時、彼女の口が止まる。
 「それと、保健室のペン立てにこれが置かれていました。中津君が所持していたペンと同じですよね?」
 録音機能が搭載された赤いペン。それを嗣永先生は人差し指と親指でつまんで丁寧に持ち上げ、まじまじと見て確認する。
 「確かに同じですね」
 「……やっぱり」
 「これ、聴きましたか?」
 私は首を振る。
 「聴いてみませんか? ここでの声も中津君に録音されていたとしたら、上司に報告する前に聴いておいたほうがいいと思います」
 仕事中にいかがわしい会話をしているつもりはないが、私のプライバシーに関する内容が録音されていたら困るのはもちろん私だ。上司に渡る前に確認する行為は、自分を守るためでもある。そう言い聞かせ、私は頷いた。
 ペンを解体し中からSDカードを取り出す。カードリーダーに挿し込み、パソコンに読み込ませると、日付の古い順にデータが七つ表示された。録音され、残っている音声は七つということになる。
 「私は席を外しましょうか?」
 「大丈夫です。一緒に聴いてください」
 嗣永先生の気遣いに感謝し、それでも共に聴くことを提案する。
 「再生ボタン押しますね」
 恐る恐るエンターキーを押した。
 再生バーが動き出し、微かにガサガサという物音が聴こえる。私たちはパソコンに耳を傾け、音量を上げる。だが、誰の声も聴こえず、二十秒ほどガサガサという服が擦れるような音が流れるだけで、気づいたら音声は終わっていた。その次も、その次の音声も、無音に近い音声が流れるだけ。
 七つすべての音声を確認したが、声という声は一つも入っていなかった。
 「なんだこれ」
 お互い顔を見合わせ、拍子抜けする。
 何もないのならよかったと肩を落とす私に、嗣永先生は背もたれに背中を豪快に預け、「あーーー」と唸る。弄ばれた気がして腹が立ったのだろう。
 「でもよかったです。何も録音できていなかったってことは、不良品だったのかもしれません」
 嗣永先生は「いや」と居住まいを正す。
 「まだわかりません。なので、確認しに行きませんか?」
 「……それは、どうやって」
 「明日中津君に会いに行きます。一緒に行きませんか?」
 その手があったと、私は嗣永先生の提案に便乗した。