*
瞼をゆっくりと持ち上げた。
いつの間にか自席で眠っていた。まだ意識は微睡み、視界は霞んでいる。
こめかみには濡れた感覚が残っており、指の腹で触れてみると湿りを感じた。涙が伝った跡がしっかりと残されていた。
まだ眠い。最近眠れていないせいで、おかしなタイミングで睡魔に襲われる。
眠っては駄目だと思いながらも重い瞼がうつらうつらと私の視界を隠そうとする。
意識を手放す寸前、ぼやける視界の中で〝それ〟と焦点が合う。一瞬にして目が覚める。上体を起こし、立ち上がった。
一歩一歩と確かな足取りで近寄ると、私はいろんなペンがギュウギュウに入ったペン立ての前で立ち止まった。それをじっと見下ろす。
なぜか生徒はよく保健室にペンを忘れて帰っていく。保健室登校をしている生徒や、体調が悪いけど試験前で勉強はしたいという生徒、図書室の席が空いていないからと自習をしに来る生徒とさまざまな理由でペンは置き去りにされ、いつの間にかペン立てには入りきれないほどのペンが収まっていた。
私は手を伸ばし、その中から一本のペンを抜き取った。見たことがあると思ったらやっぱりそうだった。これは、中津君が盗聴に使っていたペンだ。
ここも中津君に盗聴されていた。全身の毛が逆立つのを感じた。口から洩れる息がわずかに震えている。
これは今も盗聴されているのだろうか。それとも録音されたまま放置されているだけなのだろうか。これはどうやって聴けるのだろうか。
恐怖が全身を這っていた。その瞬間、電話の呼び出し音が保健室内に響き渡る。言わずもがな私の肩は大きく跳ねた。
どこか固定電話にさえ怯えながら恐る恐る近寄り、受話器を握り応答する。
「お疲れ様です。男乕です」
電話に出ると、受話器越しから嗣永先生の声を聞き取る。彼女の丸みを帯びた声に強張った力がスルスルと抜けていくのを感じていたのも束の間、内容が徐々に鋭さを増していく。彼女は冷静にかつ緊急性を要する内容を端的に話していく。私も彼女に倣い落ち着いて、相槌を打ちながら話を聞いた。
「では、引き受けます。失礼します」
すべてを理解し、私は長い息を吐きながら受話器を置いた。
すると、タイミングよく保健室の扉がノックされる。開いた扉の先には、嗣永先生が言っていたとおりの人物が立っていた。
「佐倉さん」
彼女の目には薄らと泣いた跡が残っていた。
「話は聞いています。どうぞ」
いつものような平然さを装い、保健室へと促した。
目の前の佐倉さんは、この世のすべての罪が自分のせいであるかのような重い顔をして座っていた。
私が出した緑茶には手を出さず、自分の膝あたりをじっと見つめたまま一ミリも動かない佐倉さんを私は静かに待つ。静寂が漂い、ゆっくりと時間が流れていく。
嗣永先生から電話で伝えられた内容は、こうしてのんびりと一息できる内容では決してなかった。
夏休み期間に入ったが、佐倉さんは二学期からどうするかを学校側と話し合うため、保護者と一緒に学校に来ていた。その場で佐倉さんは学校を辞めたいとこぼしたのだ。佐倉さんの思いもよらない発言に保護者の母親もひどく困惑していた。佐倉さんの独断で発言したのだと瞬時に理解した佐倉さんの担任が詳しい理由を訊ねると、彼女は「閨谷さんに怪我を負わせたのは私なんです」と声を震わせながら自白したのだ。
どうやら終業式の日に佐倉さんが突然学校に出席したのは、閨谷さんに確認したいことがあったからだったという。佐倉さんは閨谷さんを呼び出したが、閨谷さんは佐倉さんの話に聞く耳も持たず離れようとするので、佐倉さんは咄嗟に腕を掴み、閨谷さんがそれに抵抗し、揉み合いになった拍子に足を滑らせて転落してしまった。それがあの事故の真相だった。
では、事故当日どうして閨谷さんは依田さんのせいにしたのか、どうして依田さんは冤罪だと声を上げてくれなかったのか。その疑問への答えは佐倉さんもわからないと言って、その後は口を閉ざし何も語らなくなった。
佐倉さんの母親はひどく動揺し、何度も頭を下げ謝る姿があまりにも痛々しく、その場にいた教師たちの判断で二人を一旦離したほうがいいという結論に至った。そこで佐倉さんの避難場所に保健室の名が上がったのだった。
私は佐倉さんの正面に座り、窓から見えるグラウンドを憮然と見つめながら緑茶をちびちびと口に入れる。状況とは反して穏やかな時間が流れていた。
「どうして」
先に声にしたのは佐倉さん。
「何も、聞かないんですか?」
「問い質されて説明する話と、自分から話したくてする話では、同じ内容でも少しずつ心理状況が違ってくるそうです。前者は少しずつ自分の想いを捨てていく傾向にあるのだと。それが数字で証明されていなくても、デマであっても、そういう可能性が少しでも残っているのなら私は待ちたいと思います。私が知りたいのは佐倉さんのモノローグのほうですから」
そう言って、また緑茶を啜る。
佐倉さんもグラスを手に取り、恐る恐る緑茶を飲んだ。カランと氷が傾く音が軽快に響いた。
「私も生徒会長みたいに警察に捕まりますか?」
佐倉さんはギュッとグラスを握る。
「閨谷さんが佐倉さんを起訴したら捕まる可能性はあります。でも、あの転落は事故であり、佐倉さん自身に故意がないと証明できれば不起訴になります」
「故意……あったかもしれないです」
閨谷さんに少なからずの怒りや恨みがあったのだろう。ただ、佐倉さん本人も自分の気持ちに断定できない感情があるように見える。
「これ以上、母に迷惑はかけられないってわかってはいるんです。けど、誰かに全部をさらけ出して、この煮詰まった気持ちが消化できるとはどうしても思えないんです」
結局、自分を動かすのは自分で、どう生きるか選ぶのも自分だ。罪も痛みも辛さも向き合わなければいけないのは当然生身の自分だけ。第三者に心の内を打ち明けたとしても救われるとは限らない。
佐倉さんの気持ちが手に取るようにわかる。だからと言って、同じ気持ちだと自惚れてはいけない。人の気持ちは人の分だけある。
「誰かに伝えただけでは消化は難しいかと。楽になれるのは伝えたその時だけだと私は思います。相手があなたのことを考えて、あなたの側で寄り添ってくれる時間は確かに救われるでしょう。でも、あの時感じた痛みも、負った傷も、犯した過ちも、すべて記憶されて残っているので、喪失に似た孤独感は一人になった瞬間暴力的に襲ってきます。それに、さらけ出したとして相手が助けてくれるとも限らないですから」
「……現実的ですね」
その現実を佐倉さんはわかっている。彼女は自嘲するように乾いた笑みをこぼした。
「だから、こう思うのはどうでしょう」
私は一つの提案をした。
「押しつけがましい善意を利用する気持ちで話すのです」
「利用?」
「痛みを押しつけるのです。話してほしいという第三者に痛みを共有してもらう。大事な人に本心を伝えることは難しいです。下手したら、大事な人まで道連れに落ちてしまうかもしれない。だから、私のような道連れしてもいい大人に話して、相手の善意を利用して救ってもらうのです。救ってくれなかったら切り捨てればいい。あくまでも、佐倉さんが利用する立場で話すことが大事です」
「……先生がそんなこと教えていいんですか?」
「正しいは正義じゃないです」
大人はずるい。いずれ佐倉さんたちも大人になる。ずる賢く生きる術を教えて何が悪い。
「傷の舐めあいはおいしくないです。傷は、正義を振りかざす大人に舐めてもらうのです」
ずる賢く生きて、明日も生きていってほしい。
佐倉さんは、私の目をじっと見つめたままおもむろに口を開いた。
「真織ちゃんが生きていた時、一度だけ男乕先生の話になったことがありました」
「え?」
「男乕先生のことをどう思うかって訊かれたことがあって、真織ちゃんは先生のことを〝信じてみてもいいかなって思わせてくれる人〟と言っていました」
櫻間さんと話したのは、震災の日のあの一度きりだった。彼女の優しさを怒って拒絶した立場なのに、彼女は私に嬉しい評価をくれていた。思いもしなかった言葉にじんわりと温かさが広がる。
「佐倉さんは、櫻間さんと面識があったのですね」
「はい」
佐倉さんは誤魔化すことなく頷いた。
「真織ちゃんは私の救いでした」
〝救い〟
「どうしたらいいのかわからなくて自暴自棄になっていた私を、真織ちゃんだけが気づいてくれたんです。私も同じだよって真織ちゃんの世界に入れてくれたんです。真織ちゃんは、私のたった一人の替えの利かない特別な存在でした」
櫻間さんは心の内で泣いている人を見抜ける特別な人だったのかもしれない。
「男乕先生」
「はい」
「私の全部、押し付けてもいいですか」
「もちろん」
私は間髪入れずに頷いた。
佐倉さんは深く深呼吸をすると、ゆっくりと話しはじめる。
「真織ちゃんに男乕先生のことをどう思うか訊かれた時、私は『わからない人』って答えたんです」
「確かに、よくわからないですよね」
私みたいな人間は特に説明が難しいだろう。
そう言う意味でのわからないだと思ったが、佐倉さんは「そうじゃないです」と首を振った。つづけて付言する。
「昔の私だったら、綺麗な人だとか温厚そうな先生だとか言っていたと思うんです。でももう自分の言葉が信じられなくて……私の口から出た声は私の声のはずなのに、全部嘘なんじゃないかって疑ってしまうんです。この気持ちも本音も全部、綺麗ごとで、全部を肯定できる自分でいたいがために偽っている言葉なんじゃないかって。漂白して無理やり真っ白に戻しただけで、本当の自分はずるくて汚いんじゃないかって」
佐倉さんの顔が顰めっ面に歪んでいる。まるで嫌いな人を見るような顔だった。
「私、震災の日に自分がどれだけ偽善に満ちた人間なのか気づいてしまったんです」
佐倉さんのカサカサな唇がわずかに震えていた。よく見れば、重い前髪の奥の額には汗が付着していた。自分の心の傷痕を開示することは、実際に傷をつけられるより痛いことだってある。彼女は今その痛みと闘っているのだ。
「本を読めなくなったんです」
その台詞に驚きはなかった。小野寺君が言っていたから。
本。佐倉さんの好きなもの。小野寺君が言うには、昔は本を肌身離さず持っていたという。
「毎日気づいたら本を読んでいて、母子家庭で友達作りも下手で、いつも一人ぼっちだったけど、本さえあれば私は少しも寂しくなかったんです。地震が起きた日もそうでした。電気も点かなくて、部屋の家具も倒れて、本棚も倒れて、本も全部床に落ちて、怖かったけど、真夜中に母と二人で夜が明けるまで本を読んで心を落ち着かせました。朝になって、看護師の母は病院に行きました。また一人になるのかって内心不安だったけど、読みはじめた本が面白くて一人でも大丈夫だって思ったんです。母が家を出た一時間後、学校から休校のメールが来ました」
佐倉さんの指が落ち着きなくもぞもぞと動いている。
言うべきか迷っているのだろうか。しばらくの静寂のあと、彼女は意を決したように口を開いた。
「メールを見て、私〝ヤッター〟って思っちゃったんです」
私は冷静さを保とうと、唾を飲んだ。
「休校が嬉しかったってことですか?」
佐倉さんは私の問いに恐る恐る頷く。
「この地震で受けた被害とか、学校がどうなっているとか、水道も電気もこんなに止まってしまうとか、そんなの考えもせずに、ただこの本の続きが読めるって嬉しくなったんです。そう思ってしまった自分に心底絶望しました」
たったわずかな一瞬の気持ちのずれが、自分の中にある正しさや尊さを壊す。
「その日までの自分は、理解できる側の人間だとどこかで自負していました。小説にはいろんな人がいて、いろんな価値観や世界観がある。ありとあらゆる本を読んでそれを知っている私は、他の人よりも他人の見ている景色そのものを肯定して理解できるはずで、きっと私の価値はそこにあるんだって思っていました。人の痛みとか辛さを前にして、自分の気持ちよりも先に周りの人を考えられる優しさがあるはずだって信じていました。でも、実際は自分のことしか考えていなかった。震災が起きたのに、私の身近の誰かがどこかで傷ついているかもしれないのに、私はあの瞬間自分のことしか考えなかった。自分の好きなことしか考えていなかったんです」
佐倉さんの読書感想文を思い出していた。
【たとえこの主人公が、どれだけの本を読んでいて、どれだけの活字を愛していて、どれだけの物語と出会い、いくつもの価値観を得たとして、それでも人は簡単に言葉で人を殺すことができる。それを主人公は知っておくべきだと思いました】
この一節は、佐倉さんが震災の日に知ってしまった自分の醜さを綴っていたのだ。
読書感想文は佐倉さんのSOSではなかった。彼女自身が自分と向き合うために書いた自分に向けた刃物だった。戒めで、激しい自己嫌悪だった。
「その日から大好きな本を読めなくなりました。何を読んでも、いろんな登場人物の気持ちに触れても、この本に対して抱く自分の感情が全部嘘なんじゃないかって気持ち悪くなって……私はまた一人になりました」
人は絶対に孤独とは共存できない。誰だって何かに依存しないと生きていけない。
佐倉さんは本に依存し、孤独という空虚を埋めてきたのだろう。
「一人になって、怖くて、眠れなくて、気づいたら本を傷つけるようになりました。好きなものを奪われたような被害者面で、読めないならいっそのこと壊してしまえばいいって思ったんだと思います」
佐倉さんの瞳に張った膜が崩壊し、堪えきれなかった涙が次から次へとテーブルの上に水滴を作る。それでも構わず佐倉さんは打ち明けていく。
「真織ちゃんが話を聞いてくれて、側にいてくれるようになってからは自分を保てられるようになりました。もう間違わずにすむって思った矢先に、真織ちゃんもいなくなっちゃって、どうしたらいいのかわからなくて、また本を破って、小野寺君にも迷惑かけてしまいました」
佐倉さんはずっと櫻間さんの亡骸のようなものを探しつづけていた。自分の大事なものを壊しながら、自分の心が壊れていっていることにも気づかず一人で悼んでいた。
佐倉さんは小さな体を縮こませて泣きつづける。でも、私には慟哭のように全身で泣き叫んでいるように見えた。櫻間さんからは彼女がどう映っていたのだろうか。
「話してくれてありがとうございます。今さら、私が何を言っても佐倉さんには遅すぎるのだとわかっています。それでも、私の想いを話してもいいですか」
濡れた睫毛をあげて佐倉さんが私を視界に入れる。それを承諾と受け取る。
「震災の日に場違いにもヤッターと思ってしまったこと、私は間違っているとも最低だとも思いませんでした」
「……え」
「人は本来、不安や恐怖といった精神的なストレスに直面した時、自分を守ろうという防御反応が働きます。おそらく、また一人になってしまった不安と、震災後という目の前の惨状に恐怖を抱き、佐倉さんは自分を守るために思考を本へと向けたのだと思います。好きな本がたくさんの物語へ連れて行ってくれたように、あの日も連れて行ってほしいとただそれだけを強く願ったことで救われようとしたのでしょう。ただ、それが逆に真面目な佐倉さんを罪悪感で縛りつけてしまったのかもしれません」
私もそうだった。男として生きていた時は、外に出る度に強いストレスに晒され、帰って来たらストレスを発散するように好きな食べ物で暴飲暴食をした。でもそれらが体の成長へと供給されていることに気づき、大きくなる身長や増す筋肉に嫌悪感で吐き戻しを繰り返していた。
性転換しても恐怖やストレスは拭い去れなかった。好きだった化粧に依存し、自分の顔立ちがわからなくなるような化粧で自分を隠し、本来の自分を粗かのように必死に塗り潰した。整形美容に手を出そうとした時、恩師のツテでやっと就職先が決まりなんとか踏み留まることができた。
真面目で正直者で純粋な人こそ依存先で溺れてしまう。自分を一度疑いだすと根っこの部分まで問い詰めようとしてしまう。自分を信じられなくなる。わかる感情だった。
「私は、傷つけられたのが本でよかったと思いました」
「え」
「佐倉さんが自分の体を傷つけなくてよかったと心底ホッとしています。本はずっと佐倉さんを守ってくれていたのですね」
私はたくさん自分を傷つけてきてしまった。佐倉さんがそういう道筋を辿らずにすんでよかった。
「気づかなかった大人が言える立場ではないですけど」
佐倉さんが大きくかぶりを振る。
「先生は気づいてくれました。読書感想文、読んでくれたんですよね? 私があの時逃げたりせずにちゃんと先生に相談できていたら、もう少し冷静に閨谷さんとも向き合えていたかもしれない……」
「感情が昂ってしまったのですね」
「感情のコントロールができなかったっていうよりも……私、多分全部を誰かのせいにしたかったんです。閨谷さんのせいにして、怒って恨んでいれば変な想像をしなくてよかったから」
佐倉さんは手の甲で雑に涙を拭った。もう逃げないという意思を表情から感じ取る。
「終業式の日、私が閨谷さんに確かめたかったのは真織ちゃんが亡くなった日のことです」
気持ちをなんとか落ち着かせようと、佐倉さんはまた深く深呼吸をした。私も彼女に倣ってゆっくりと息を吐いた。
そして、言い淀みながらも佐倉さんはあの日の真相を包み隠さず話しはじめる。
「真織ちゃんが亡くなった日、真織ちゃんに閨谷さんに会う予定があるから今日は図書室に行けないって言われたんです。真織ちゃんは人気者だったから図書室に来るのは不定期で、私もその日は図書委員の仕事がなかったのですぐに学校を出ました。電車を待っている間、ふと向かいのホームに視線を移した時、早足で階段を駆け下りている閨谷さんを見つけたんです。閨谷さんはそのままちょうど来た電車に飛び乗るように入って行きました。どこか焦っているような顔で車両内を移動していて、まるで誰かから隠れているみたいな、変な様子で人ごみに紛れて見えなくなりました。その翌日、真織ちゃんが事故で死んだって報せを受けて、哀しみと同時にパッと頭に浮かんだのはあの時の閨谷さんでした」
閨谷さんへの不信感が佐倉さんの顔に滲み出る。
「あの日、会わずに帰ったんじゃないかって確認したかったんです。会っていたら、真織ちゃんの体の異変とかに気づけていたはずなのに、真織ちゃんを置き去りにして帰ったことが許せなかったんです。優しい真織ちゃんのことだから、体調が悪い中ずっと閨谷さんを待っていたと思うんです。せめて暗くならない時間帯に帰っていたら、もっと発見も早くて助かっていたんじゃないかって……一度モヤモヤしはじめたらずっとそのモヤモヤが頭に残って、気づいたらパンパンに膨れ上がっていて、本人に直接確認しないと私自身真織ちゃんの死を受け入れられないと思ったんです」
私が口を挟まなくても、佐倉さんはわかっている。こんな他責思考で閨谷さんのせいにするのは間違っていることくらい、賢い彼女は理解している。それでも、誰かのせいにしたかったのだ。
「ちゃんと事故だって思いたかったから。会ったのなら、本当に体調が悪かったのか、最期の真織ちゃんはどんな様子だったのか確認したかったんです」
わずかな動揺すら悟られないよう、静かに息を呑む。
「真織ちゃんが自殺じゃないっていう証明がほしかったんです。」
「警察の調査の結果、事故死だと暫定されました」
「あとから出てきた真織ちゃんの遺書の存在を知って、あんな外側から見た結果だけで事故死だってどう信じろと? 無理に決まっています。私は、私の中にある憶測を拭い去るくらいの信ぴょう性がほしかったんです」
佐倉さんは涙を乱暴に拭うと、私と真正面から対峙する。胸辺りのシャツを掴んで、必死に爆発しそうな感情を抑えて声にする。
「先生たちも本当は事故じゃないかもって思っていますよね?」
喉がキュッと締まった。
一瞬チカチカと視界が光り、めまいがした。このまま倒れてしまえば今のこの状況から逃げられるのに、と一瞬軽薄な想像をした。そんな自分の弱さを断ち切るように爪が食い込むほどの力で拳を握る。
「佐倉さんはあの手紙を読んで、事故じゃないかもしれないと疑っているんですか?」
佐倉さんは首を振った。
「真織ちゃんがいなくなってから、真織ちゃんの意思というものを私は一度も感じたことがなかったってことに気づいたんです」
「意思?」
「なんていうか……スライムみたいにフニャフニャだったんです。私が弱音を吐くと、真織ちゃんはいつも〝一緒に〟っていう言葉を使って慰めてくれました。行きたいところあったら一緒に行こうとか、バレたら一緒に怒られようとか、泣きたくなったら一緒に泣こうとか……私はそれが嬉しかった。この人はどんなことがあっても私の味方なんだって心地よさみたいなのを感じていました。スライムみたいに私の型にはまってくれて、そうやって寄り添ってくれました。だけど、それって誰の型にもはまりやすいってことですよね。そのまま誰かにくっついて絡んだまま、一緒にどこかに行っちゃう可能性だってあるってことですよね。……私が連れて行っちゃう可能性だってあったかもしれない」
そんなことないとか、その考え方は間違っているとか、相手を否定する発言は精神的に落ち込んでいる相手をさらに追い詰めてしまう可能性がある。それこそ希死念慮を持った人には寄り添って肯定する言葉をあえて選んだほうが望ましいだのなんだの言われている。でも、人はマイナス感情こそ影響されやすい。櫻間さんがかけた正しい言葉は、佐倉さんの心を救っていたかもしれないが、同時に櫻間さんの感情を制限させてしまっていたかもしれない。
「私は、本当に何もわかっていなかったんです。震災の日も、真織ちゃんの側にいた時も、終業式の日も、自分のことでいっぱいいっぱいでした。誰のことも見えていなくて、真織ちゃんのことも何も見ていませんでした。自分が救われることに精一杯だったから。だからこそ知りたいんです。今さらだし、もう遅すぎるけど、でもやっぱり全部を知りたい。私は、真織ちゃんが自殺じゃないって信じたいんです」
「……私も同じです」
舌を滑るように口からこぼれた同意。
いつかの日、櫻間さんは事故だと依田さんに啖呵を切る勢いで断言した日を思い出す。
過去の保健室利用者記録紙のファイルを広げては、櫻間さん本人が書いたと思われる【櫻間真織】の字を戒めのように何度もなぞったのは、佐倉さんと一緒で信じたかったからだ。
全部、全部、自分に言い聞かせるためだった。〝自殺〟という二文字を打ち消すための自己防衛だった。
本当ならば、私たち教師が、大人が、佐倉さんの異変に気づいて声をかけるべきだった。気づける大人であるべきだった。櫻間さんだけに佐倉さんの痛みを背負わせてしまった。
どうして私たちは、彼女たちが目の前で涙を流すまで気づけないのだろう。壊れてからようやく足を止めたってもう遅いのに。
「先生。私ちゃんと、母とも閨谷さんとも自分とも向き合うつもりです。だから、先生も真織ちゃんと向き合ってほしいんです。教えてほしいんです。真織ちゃんの気持ちはもう聞けないけど、先生を通してでいいから真織ちゃんの本心を聞きたいんです」
ハッとした。
自責の念に駆られ落ちていた思考が一瞬でクリアになる。
今からでもできることはあるはずだ。後悔と反省を繰り返す前に、押し付けられた痛みを請け負って、私の持っている善意で佐倉さんを守らないといけない。傷を舐めたからには最後まで佐倉さんの痛みに向き合い、背負わせてしまった櫻間さんの心を紐解く責任がある。
佐倉さんの双眸を強く見つめる。
彼女たちのまっすぐで小さい瞳に映る自分が、学生の時になりたかった自分の姿で映っていた。私はその姿を見て、いつも自分の存在を確かめていた。私は生きている。きっと彼女たちに生かされている。
逃げる選択肢はもうとっくに消えていた。
佐倉さんの意志に、私は噛みしめるように力強く頷いた。
「引き受けます」
ようやく佐倉さんは安堵したように肩を落とした。
瞼をゆっくりと持ち上げた。
いつの間にか自席で眠っていた。まだ意識は微睡み、視界は霞んでいる。
こめかみには濡れた感覚が残っており、指の腹で触れてみると湿りを感じた。涙が伝った跡がしっかりと残されていた。
まだ眠い。最近眠れていないせいで、おかしなタイミングで睡魔に襲われる。
眠っては駄目だと思いながらも重い瞼がうつらうつらと私の視界を隠そうとする。
意識を手放す寸前、ぼやける視界の中で〝それ〟と焦点が合う。一瞬にして目が覚める。上体を起こし、立ち上がった。
一歩一歩と確かな足取りで近寄ると、私はいろんなペンがギュウギュウに入ったペン立ての前で立ち止まった。それをじっと見下ろす。
なぜか生徒はよく保健室にペンを忘れて帰っていく。保健室登校をしている生徒や、体調が悪いけど試験前で勉強はしたいという生徒、図書室の席が空いていないからと自習をしに来る生徒とさまざまな理由でペンは置き去りにされ、いつの間にかペン立てには入りきれないほどのペンが収まっていた。
私は手を伸ばし、その中から一本のペンを抜き取った。見たことがあると思ったらやっぱりそうだった。これは、中津君が盗聴に使っていたペンだ。
ここも中津君に盗聴されていた。全身の毛が逆立つのを感じた。口から洩れる息がわずかに震えている。
これは今も盗聴されているのだろうか。それとも録音されたまま放置されているだけなのだろうか。これはどうやって聴けるのだろうか。
恐怖が全身を這っていた。その瞬間、電話の呼び出し音が保健室内に響き渡る。言わずもがな私の肩は大きく跳ねた。
どこか固定電話にさえ怯えながら恐る恐る近寄り、受話器を握り応答する。
「お疲れ様です。男乕です」
電話に出ると、受話器越しから嗣永先生の声を聞き取る。彼女の丸みを帯びた声に強張った力がスルスルと抜けていくのを感じていたのも束の間、内容が徐々に鋭さを増していく。彼女は冷静にかつ緊急性を要する内容を端的に話していく。私も彼女に倣い落ち着いて、相槌を打ちながら話を聞いた。
「では、引き受けます。失礼します」
すべてを理解し、私は長い息を吐きながら受話器を置いた。
すると、タイミングよく保健室の扉がノックされる。開いた扉の先には、嗣永先生が言っていたとおりの人物が立っていた。
「佐倉さん」
彼女の目には薄らと泣いた跡が残っていた。
「話は聞いています。どうぞ」
いつものような平然さを装い、保健室へと促した。
目の前の佐倉さんは、この世のすべての罪が自分のせいであるかのような重い顔をして座っていた。
私が出した緑茶には手を出さず、自分の膝あたりをじっと見つめたまま一ミリも動かない佐倉さんを私は静かに待つ。静寂が漂い、ゆっくりと時間が流れていく。
嗣永先生から電話で伝えられた内容は、こうしてのんびりと一息できる内容では決してなかった。
夏休み期間に入ったが、佐倉さんは二学期からどうするかを学校側と話し合うため、保護者と一緒に学校に来ていた。その場で佐倉さんは学校を辞めたいとこぼしたのだ。佐倉さんの思いもよらない発言に保護者の母親もひどく困惑していた。佐倉さんの独断で発言したのだと瞬時に理解した佐倉さんの担任が詳しい理由を訊ねると、彼女は「閨谷さんに怪我を負わせたのは私なんです」と声を震わせながら自白したのだ。
どうやら終業式の日に佐倉さんが突然学校に出席したのは、閨谷さんに確認したいことがあったからだったという。佐倉さんは閨谷さんを呼び出したが、閨谷さんは佐倉さんの話に聞く耳も持たず離れようとするので、佐倉さんは咄嗟に腕を掴み、閨谷さんがそれに抵抗し、揉み合いになった拍子に足を滑らせて転落してしまった。それがあの事故の真相だった。
では、事故当日どうして閨谷さんは依田さんのせいにしたのか、どうして依田さんは冤罪だと声を上げてくれなかったのか。その疑問への答えは佐倉さんもわからないと言って、その後は口を閉ざし何も語らなくなった。
佐倉さんの母親はひどく動揺し、何度も頭を下げ謝る姿があまりにも痛々しく、その場にいた教師たちの判断で二人を一旦離したほうがいいという結論に至った。そこで佐倉さんの避難場所に保健室の名が上がったのだった。
私は佐倉さんの正面に座り、窓から見えるグラウンドを憮然と見つめながら緑茶をちびちびと口に入れる。状況とは反して穏やかな時間が流れていた。
「どうして」
先に声にしたのは佐倉さん。
「何も、聞かないんですか?」
「問い質されて説明する話と、自分から話したくてする話では、同じ内容でも少しずつ心理状況が違ってくるそうです。前者は少しずつ自分の想いを捨てていく傾向にあるのだと。それが数字で証明されていなくても、デマであっても、そういう可能性が少しでも残っているのなら私は待ちたいと思います。私が知りたいのは佐倉さんのモノローグのほうですから」
そう言って、また緑茶を啜る。
佐倉さんもグラスを手に取り、恐る恐る緑茶を飲んだ。カランと氷が傾く音が軽快に響いた。
「私も生徒会長みたいに警察に捕まりますか?」
佐倉さんはギュッとグラスを握る。
「閨谷さんが佐倉さんを起訴したら捕まる可能性はあります。でも、あの転落は事故であり、佐倉さん自身に故意がないと証明できれば不起訴になります」
「故意……あったかもしれないです」
閨谷さんに少なからずの怒りや恨みがあったのだろう。ただ、佐倉さん本人も自分の気持ちに断定できない感情があるように見える。
「これ以上、母に迷惑はかけられないってわかってはいるんです。けど、誰かに全部をさらけ出して、この煮詰まった気持ちが消化できるとはどうしても思えないんです」
結局、自分を動かすのは自分で、どう生きるか選ぶのも自分だ。罪も痛みも辛さも向き合わなければいけないのは当然生身の自分だけ。第三者に心の内を打ち明けたとしても救われるとは限らない。
佐倉さんの気持ちが手に取るようにわかる。だからと言って、同じ気持ちだと自惚れてはいけない。人の気持ちは人の分だけある。
「誰かに伝えただけでは消化は難しいかと。楽になれるのは伝えたその時だけだと私は思います。相手があなたのことを考えて、あなたの側で寄り添ってくれる時間は確かに救われるでしょう。でも、あの時感じた痛みも、負った傷も、犯した過ちも、すべて記憶されて残っているので、喪失に似た孤独感は一人になった瞬間暴力的に襲ってきます。それに、さらけ出したとして相手が助けてくれるとも限らないですから」
「……現実的ですね」
その現実を佐倉さんはわかっている。彼女は自嘲するように乾いた笑みをこぼした。
「だから、こう思うのはどうでしょう」
私は一つの提案をした。
「押しつけがましい善意を利用する気持ちで話すのです」
「利用?」
「痛みを押しつけるのです。話してほしいという第三者に痛みを共有してもらう。大事な人に本心を伝えることは難しいです。下手したら、大事な人まで道連れに落ちてしまうかもしれない。だから、私のような道連れしてもいい大人に話して、相手の善意を利用して救ってもらうのです。救ってくれなかったら切り捨てればいい。あくまでも、佐倉さんが利用する立場で話すことが大事です」
「……先生がそんなこと教えていいんですか?」
「正しいは正義じゃないです」
大人はずるい。いずれ佐倉さんたちも大人になる。ずる賢く生きる術を教えて何が悪い。
「傷の舐めあいはおいしくないです。傷は、正義を振りかざす大人に舐めてもらうのです」
ずる賢く生きて、明日も生きていってほしい。
佐倉さんは、私の目をじっと見つめたままおもむろに口を開いた。
「真織ちゃんが生きていた時、一度だけ男乕先生の話になったことがありました」
「え?」
「男乕先生のことをどう思うかって訊かれたことがあって、真織ちゃんは先生のことを〝信じてみてもいいかなって思わせてくれる人〟と言っていました」
櫻間さんと話したのは、震災の日のあの一度きりだった。彼女の優しさを怒って拒絶した立場なのに、彼女は私に嬉しい評価をくれていた。思いもしなかった言葉にじんわりと温かさが広がる。
「佐倉さんは、櫻間さんと面識があったのですね」
「はい」
佐倉さんは誤魔化すことなく頷いた。
「真織ちゃんは私の救いでした」
〝救い〟
「どうしたらいいのかわからなくて自暴自棄になっていた私を、真織ちゃんだけが気づいてくれたんです。私も同じだよって真織ちゃんの世界に入れてくれたんです。真織ちゃんは、私のたった一人の替えの利かない特別な存在でした」
櫻間さんは心の内で泣いている人を見抜ける特別な人だったのかもしれない。
「男乕先生」
「はい」
「私の全部、押し付けてもいいですか」
「もちろん」
私は間髪入れずに頷いた。
佐倉さんは深く深呼吸をすると、ゆっくりと話しはじめる。
「真織ちゃんに男乕先生のことをどう思うか訊かれた時、私は『わからない人』って答えたんです」
「確かに、よくわからないですよね」
私みたいな人間は特に説明が難しいだろう。
そう言う意味でのわからないだと思ったが、佐倉さんは「そうじゃないです」と首を振った。つづけて付言する。
「昔の私だったら、綺麗な人だとか温厚そうな先生だとか言っていたと思うんです。でももう自分の言葉が信じられなくて……私の口から出た声は私の声のはずなのに、全部嘘なんじゃないかって疑ってしまうんです。この気持ちも本音も全部、綺麗ごとで、全部を肯定できる自分でいたいがために偽っている言葉なんじゃないかって。漂白して無理やり真っ白に戻しただけで、本当の自分はずるくて汚いんじゃないかって」
佐倉さんの顔が顰めっ面に歪んでいる。まるで嫌いな人を見るような顔だった。
「私、震災の日に自分がどれだけ偽善に満ちた人間なのか気づいてしまったんです」
佐倉さんのカサカサな唇がわずかに震えていた。よく見れば、重い前髪の奥の額には汗が付着していた。自分の心の傷痕を開示することは、実際に傷をつけられるより痛いことだってある。彼女は今その痛みと闘っているのだ。
「本を読めなくなったんです」
その台詞に驚きはなかった。小野寺君が言っていたから。
本。佐倉さんの好きなもの。小野寺君が言うには、昔は本を肌身離さず持っていたという。
「毎日気づいたら本を読んでいて、母子家庭で友達作りも下手で、いつも一人ぼっちだったけど、本さえあれば私は少しも寂しくなかったんです。地震が起きた日もそうでした。電気も点かなくて、部屋の家具も倒れて、本棚も倒れて、本も全部床に落ちて、怖かったけど、真夜中に母と二人で夜が明けるまで本を読んで心を落ち着かせました。朝になって、看護師の母は病院に行きました。また一人になるのかって内心不安だったけど、読みはじめた本が面白くて一人でも大丈夫だって思ったんです。母が家を出た一時間後、学校から休校のメールが来ました」
佐倉さんの指が落ち着きなくもぞもぞと動いている。
言うべきか迷っているのだろうか。しばらくの静寂のあと、彼女は意を決したように口を開いた。
「メールを見て、私〝ヤッター〟って思っちゃったんです」
私は冷静さを保とうと、唾を飲んだ。
「休校が嬉しかったってことですか?」
佐倉さんは私の問いに恐る恐る頷く。
「この地震で受けた被害とか、学校がどうなっているとか、水道も電気もこんなに止まってしまうとか、そんなの考えもせずに、ただこの本の続きが読めるって嬉しくなったんです。そう思ってしまった自分に心底絶望しました」
たったわずかな一瞬の気持ちのずれが、自分の中にある正しさや尊さを壊す。
「その日までの自分は、理解できる側の人間だとどこかで自負していました。小説にはいろんな人がいて、いろんな価値観や世界観がある。ありとあらゆる本を読んでそれを知っている私は、他の人よりも他人の見ている景色そのものを肯定して理解できるはずで、きっと私の価値はそこにあるんだって思っていました。人の痛みとか辛さを前にして、自分の気持ちよりも先に周りの人を考えられる優しさがあるはずだって信じていました。でも、実際は自分のことしか考えていなかった。震災が起きたのに、私の身近の誰かがどこかで傷ついているかもしれないのに、私はあの瞬間自分のことしか考えなかった。自分の好きなことしか考えていなかったんです」
佐倉さんの読書感想文を思い出していた。
【たとえこの主人公が、どれだけの本を読んでいて、どれだけの活字を愛していて、どれだけの物語と出会い、いくつもの価値観を得たとして、それでも人は簡単に言葉で人を殺すことができる。それを主人公は知っておくべきだと思いました】
この一節は、佐倉さんが震災の日に知ってしまった自分の醜さを綴っていたのだ。
読書感想文は佐倉さんのSOSではなかった。彼女自身が自分と向き合うために書いた自分に向けた刃物だった。戒めで、激しい自己嫌悪だった。
「その日から大好きな本を読めなくなりました。何を読んでも、いろんな登場人物の気持ちに触れても、この本に対して抱く自分の感情が全部嘘なんじゃないかって気持ち悪くなって……私はまた一人になりました」
人は絶対に孤独とは共存できない。誰だって何かに依存しないと生きていけない。
佐倉さんは本に依存し、孤独という空虚を埋めてきたのだろう。
「一人になって、怖くて、眠れなくて、気づいたら本を傷つけるようになりました。好きなものを奪われたような被害者面で、読めないならいっそのこと壊してしまえばいいって思ったんだと思います」
佐倉さんの瞳に張った膜が崩壊し、堪えきれなかった涙が次から次へとテーブルの上に水滴を作る。それでも構わず佐倉さんは打ち明けていく。
「真織ちゃんが話を聞いてくれて、側にいてくれるようになってからは自分を保てられるようになりました。もう間違わずにすむって思った矢先に、真織ちゃんもいなくなっちゃって、どうしたらいいのかわからなくて、また本を破って、小野寺君にも迷惑かけてしまいました」
佐倉さんはずっと櫻間さんの亡骸のようなものを探しつづけていた。自分の大事なものを壊しながら、自分の心が壊れていっていることにも気づかず一人で悼んでいた。
佐倉さんは小さな体を縮こませて泣きつづける。でも、私には慟哭のように全身で泣き叫んでいるように見えた。櫻間さんからは彼女がどう映っていたのだろうか。
「話してくれてありがとうございます。今さら、私が何を言っても佐倉さんには遅すぎるのだとわかっています。それでも、私の想いを話してもいいですか」
濡れた睫毛をあげて佐倉さんが私を視界に入れる。それを承諾と受け取る。
「震災の日に場違いにもヤッターと思ってしまったこと、私は間違っているとも最低だとも思いませんでした」
「……え」
「人は本来、不安や恐怖といった精神的なストレスに直面した時、自分を守ろうという防御反応が働きます。おそらく、また一人になってしまった不安と、震災後という目の前の惨状に恐怖を抱き、佐倉さんは自分を守るために思考を本へと向けたのだと思います。好きな本がたくさんの物語へ連れて行ってくれたように、あの日も連れて行ってほしいとただそれだけを強く願ったことで救われようとしたのでしょう。ただ、それが逆に真面目な佐倉さんを罪悪感で縛りつけてしまったのかもしれません」
私もそうだった。男として生きていた時は、外に出る度に強いストレスに晒され、帰って来たらストレスを発散するように好きな食べ物で暴飲暴食をした。でもそれらが体の成長へと供給されていることに気づき、大きくなる身長や増す筋肉に嫌悪感で吐き戻しを繰り返していた。
性転換しても恐怖やストレスは拭い去れなかった。好きだった化粧に依存し、自分の顔立ちがわからなくなるような化粧で自分を隠し、本来の自分を粗かのように必死に塗り潰した。整形美容に手を出そうとした時、恩師のツテでやっと就職先が決まりなんとか踏み留まることができた。
真面目で正直者で純粋な人こそ依存先で溺れてしまう。自分を一度疑いだすと根っこの部分まで問い詰めようとしてしまう。自分を信じられなくなる。わかる感情だった。
「私は、傷つけられたのが本でよかったと思いました」
「え」
「佐倉さんが自分の体を傷つけなくてよかったと心底ホッとしています。本はずっと佐倉さんを守ってくれていたのですね」
私はたくさん自分を傷つけてきてしまった。佐倉さんがそういう道筋を辿らずにすんでよかった。
「気づかなかった大人が言える立場ではないですけど」
佐倉さんが大きくかぶりを振る。
「先生は気づいてくれました。読書感想文、読んでくれたんですよね? 私があの時逃げたりせずにちゃんと先生に相談できていたら、もう少し冷静に閨谷さんとも向き合えていたかもしれない……」
「感情が昂ってしまったのですね」
「感情のコントロールができなかったっていうよりも……私、多分全部を誰かのせいにしたかったんです。閨谷さんのせいにして、怒って恨んでいれば変な想像をしなくてよかったから」
佐倉さんは手の甲で雑に涙を拭った。もう逃げないという意思を表情から感じ取る。
「終業式の日、私が閨谷さんに確かめたかったのは真織ちゃんが亡くなった日のことです」
気持ちをなんとか落ち着かせようと、佐倉さんはまた深く深呼吸をした。私も彼女に倣ってゆっくりと息を吐いた。
そして、言い淀みながらも佐倉さんはあの日の真相を包み隠さず話しはじめる。
「真織ちゃんが亡くなった日、真織ちゃんに閨谷さんに会う予定があるから今日は図書室に行けないって言われたんです。真織ちゃんは人気者だったから図書室に来るのは不定期で、私もその日は図書委員の仕事がなかったのですぐに学校を出ました。電車を待っている間、ふと向かいのホームに視線を移した時、早足で階段を駆け下りている閨谷さんを見つけたんです。閨谷さんはそのままちょうど来た電車に飛び乗るように入って行きました。どこか焦っているような顔で車両内を移動していて、まるで誰かから隠れているみたいな、変な様子で人ごみに紛れて見えなくなりました。その翌日、真織ちゃんが事故で死んだって報せを受けて、哀しみと同時にパッと頭に浮かんだのはあの時の閨谷さんでした」
閨谷さんへの不信感が佐倉さんの顔に滲み出る。
「あの日、会わずに帰ったんじゃないかって確認したかったんです。会っていたら、真織ちゃんの体の異変とかに気づけていたはずなのに、真織ちゃんを置き去りにして帰ったことが許せなかったんです。優しい真織ちゃんのことだから、体調が悪い中ずっと閨谷さんを待っていたと思うんです。せめて暗くならない時間帯に帰っていたら、もっと発見も早くて助かっていたんじゃないかって……一度モヤモヤしはじめたらずっとそのモヤモヤが頭に残って、気づいたらパンパンに膨れ上がっていて、本人に直接確認しないと私自身真織ちゃんの死を受け入れられないと思ったんです」
私が口を挟まなくても、佐倉さんはわかっている。こんな他責思考で閨谷さんのせいにするのは間違っていることくらい、賢い彼女は理解している。それでも、誰かのせいにしたかったのだ。
「ちゃんと事故だって思いたかったから。会ったのなら、本当に体調が悪かったのか、最期の真織ちゃんはどんな様子だったのか確認したかったんです」
わずかな動揺すら悟られないよう、静かに息を呑む。
「真織ちゃんが自殺じゃないっていう証明がほしかったんです。」
「警察の調査の結果、事故死だと暫定されました」
「あとから出てきた真織ちゃんの遺書の存在を知って、あんな外側から見た結果だけで事故死だってどう信じろと? 無理に決まっています。私は、私の中にある憶測を拭い去るくらいの信ぴょう性がほしかったんです」
佐倉さんは涙を乱暴に拭うと、私と真正面から対峙する。胸辺りのシャツを掴んで、必死に爆発しそうな感情を抑えて声にする。
「先生たちも本当は事故じゃないかもって思っていますよね?」
喉がキュッと締まった。
一瞬チカチカと視界が光り、めまいがした。このまま倒れてしまえば今のこの状況から逃げられるのに、と一瞬軽薄な想像をした。そんな自分の弱さを断ち切るように爪が食い込むほどの力で拳を握る。
「佐倉さんはあの手紙を読んで、事故じゃないかもしれないと疑っているんですか?」
佐倉さんは首を振った。
「真織ちゃんがいなくなってから、真織ちゃんの意思というものを私は一度も感じたことがなかったってことに気づいたんです」
「意思?」
「なんていうか……スライムみたいにフニャフニャだったんです。私が弱音を吐くと、真織ちゃんはいつも〝一緒に〟っていう言葉を使って慰めてくれました。行きたいところあったら一緒に行こうとか、バレたら一緒に怒られようとか、泣きたくなったら一緒に泣こうとか……私はそれが嬉しかった。この人はどんなことがあっても私の味方なんだって心地よさみたいなのを感じていました。スライムみたいに私の型にはまってくれて、そうやって寄り添ってくれました。だけど、それって誰の型にもはまりやすいってことですよね。そのまま誰かにくっついて絡んだまま、一緒にどこかに行っちゃう可能性だってあるってことですよね。……私が連れて行っちゃう可能性だってあったかもしれない」
そんなことないとか、その考え方は間違っているとか、相手を否定する発言は精神的に落ち込んでいる相手をさらに追い詰めてしまう可能性がある。それこそ希死念慮を持った人には寄り添って肯定する言葉をあえて選んだほうが望ましいだのなんだの言われている。でも、人はマイナス感情こそ影響されやすい。櫻間さんがかけた正しい言葉は、佐倉さんの心を救っていたかもしれないが、同時に櫻間さんの感情を制限させてしまっていたかもしれない。
「私は、本当に何もわかっていなかったんです。震災の日も、真織ちゃんの側にいた時も、終業式の日も、自分のことでいっぱいいっぱいでした。誰のことも見えていなくて、真織ちゃんのことも何も見ていませんでした。自分が救われることに精一杯だったから。だからこそ知りたいんです。今さらだし、もう遅すぎるけど、でもやっぱり全部を知りたい。私は、真織ちゃんが自殺じゃないって信じたいんです」
「……私も同じです」
舌を滑るように口からこぼれた同意。
いつかの日、櫻間さんは事故だと依田さんに啖呵を切る勢いで断言した日を思い出す。
過去の保健室利用者記録紙のファイルを広げては、櫻間さん本人が書いたと思われる【櫻間真織】の字を戒めのように何度もなぞったのは、佐倉さんと一緒で信じたかったからだ。
全部、全部、自分に言い聞かせるためだった。〝自殺〟という二文字を打ち消すための自己防衛だった。
本当ならば、私たち教師が、大人が、佐倉さんの異変に気づいて声をかけるべきだった。気づける大人であるべきだった。櫻間さんだけに佐倉さんの痛みを背負わせてしまった。
どうして私たちは、彼女たちが目の前で涙を流すまで気づけないのだろう。壊れてからようやく足を止めたってもう遅いのに。
「先生。私ちゃんと、母とも閨谷さんとも自分とも向き合うつもりです。だから、先生も真織ちゃんと向き合ってほしいんです。教えてほしいんです。真織ちゃんの気持ちはもう聞けないけど、先生を通してでいいから真織ちゃんの本心を聞きたいんです」
ハッとした。
自責の念に駆られ落ちていた思考が一瞬でクリアになる。
今からでもできることはあるはずだ。後悔と反省を繰り返す前に、押し付けられた痛みを請け負って、私の持っている善意で佐倉さんを守らないといけない。傷を舐めたからには最後まで佐倉さんの痛みに向き合い、背負わせてしまった櫻間さんの心を紐解く責任がある。
佐倉さんの双眸を強く見つめる。
彼女たちのまっすぐで小さい瞳に映る自分が、学生の時になりたかった自分の姿で映っていた。私はその姿を見て、いつも自分の存在を確かめていた。私は生きている。きっと彼女たちに生かされている。
逃げる選択肢はもうとっくに消えていた。
佐倉さんの意志に、私は噛みしめるように力強く頷いた。
「引き受けます」
ようやく佐倉さんは安堵したように肩を落とした。


