傷を舐めてもおいしくない

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 私のデスクの引き出しには、常に退職届が控えていた。その時がいつ来てもいいように、この場所をすぐに去れるように。

 日はすっかり暮れていた。最近になって学校周辺にいくつか外灯が設置され、僅かに足場が見えやすくなった駐車場につづく砂利道を歩く。
 「棗先生!」
 車の鍵を開錠した時、背後から名前を呼ばれる。振り返ると、嗣永先生が小走りで駆け寄って来る。
 「お疲れ様です、どうかしましたか?」
 「お疲れ様です。突然のお誘いで申し訳ないのですが、今からご飯行きませんか?」
 なぜ突然私と? と不審に思うも、あまり意味などなさそうな嗣永先生の天真爛漫な笑顔を見て、この人はむやみに詮索しないタイプの人だという最初の直感を信じ、一つ返事で頷いた。

 いつも徒歩で出勤している嗣永先生を助手席に乗せ、彼女行きつけの韓国料理店に向かう。
 「急に誘ってすみません」
 「いえ、大丈夫です」
 「最近一人で食べるご飯が味気なくて、誰か誘って外食しようかと考えていたところにちょうど棗先生の姿が見えたので誘っちゃいました」
 「嬉しいです。誘われることあまりないので」
 「まぁそうですよね。教員が早く帰れることなんて早々ないですから」
 私が誘われない理由はもっと他にあるが、おそらく嗣永先生は気づかないフリをしてくれている。
 十分も走行しないうちに韓国料理店に着く。想像よりもこじんまりした店で、店内は四人掛けのテーブル席が二つと、カウンター席が六席程度だった。私たちは当然カウンター席に案内された。
 「何食べますか。おすすめは海鮮チヂミです。ここのは大きいんですよ」
 「じゃあ、それで」
 嗣永先生はおしぼりで手を拭きながら、大きい声で店員を呼ぶ。一声で厨房まで届く声帯をしていて、一卓に必ず嗣永先生がいたら便利だろうなと想像する。
 「海鮮チヂミとキムチチヂミはハーフで、あとトッポギ辛さマックスでお願いします。棗先生飲み物は?」
 「烏龍茶で」
 「烏龍茶一つと、ジンジャーエール一つお願いします」
 常連さながらの軽やかな注文を終えると、メニュー表を閉じる。
 「飲んでもよかったですよ?」
 「いえ、明日朝イチで部活の合同練習が入っているので」
 嗣永先生は隣の卓の生ビールを物欲しそうな目で眺めながら長い息を吐く。
 まず飲み物が到着し、私たちは控えめの乾杯をした。それから、嗣永先生おすすめのチヂミがテーブルに置かれる。教室に立て掛けられた時計の大きさくらいある、本当に大きいチヂミに圧倒される。「食べられなかったら包んでもらえるので」と教えてくれた。
 「いただきます」
 特性タレにつけてチヂミを口の中に放り込む。外側はカリッと焼けていて芳ばしくゴマ油が香る。だけど、中はたこ焼きの生地みたいに滑らかだった。エビやホタテといった食感のいい海鮮と青いネギやニラといった具材がゴロゴロいて、食べ応えもありとても美味しい。
 「チヂミは具材が大事ですから。ここは具材たくさん詰まっていて最高です」
 嗣永先生はじっくりと咀嚼しながら親指を立てた。
 しばらくは食事を楽しむ時間が流れ、嗣永先生が二杯目のジンジャーエールを頼んだあたりから一対一の対話がはじまる。
 「男乕先生は、どうして養護教諭になったんですか?」
 「……急ですね」
 「確かに急でした。でも、ずっと訊いてみたいと思っていたので」
 すみませんと付言し、嗣永先生は真っ赤に染まったトッポギに箸をつける。
 謝るということは、この質問が嗣永先生の興味本位の質問であり、無礼に値する内容だと思って訊いてきたのだと理解する。
 「その質問は、私に訊いていますか? それとも性転換した人間に訊いていますか?」
 意地悪い質問で返した。
 嗣永先生は私の目を見ながらトッポギをちゅるっと口に入れた。人食いのように、唇についた赤いソースを舌で拭う。
 「どっちもです」
 「辛っ」と顔を顰めながらも美味しそうに咀嚼する嗣永先生の顔をまじまじと見つめる。彼女はゴクリと飲み込むと、勢いよくグラスを手に取りジンジャーエールで喉を鳴らす。
 何も変化が見られない普通の食事の動向を、私は静かに見つめていた。
 「辛いの大丈夫ですか?」
 「あ、はい」
 「結構辛いので無理しないでくださいね」
 そう言って、また手を伸ばす。
 嗣永先生との会話は心地よかった。それは、彼女が人を選別し、色分けするような人ではないことを知ったからだ。でも、この質問は確かに区別されたものだった。私は防衛本能で口を軽く結ぶ。
 「私にも同性が恋愛対象の友人がいます。友人は、大事な人にだけカミングアウトしています。一時期両親ともギクシャクしていましたが、和解して、今では一番の理解者になってくれています。友人は、自分の性自認に悪戦苦闘しながらも普通の生活を送ってきました。普通っていうのは、一般的な社会人と同じです。平日に八時間労働して、土日は好きな人と過ごす、普通の暮らしです。でも、男乕先生は友人とはまた違うと思っています。普通に生活を送ることの困難は計り知れない。想像もできないから訊いてみたかったんです。どうして、見られる仕事に就いたのか」
 グラスに入った氷が傾く。私の烏龍茶は半分も減っていない。取り皿はあまり汚れておらず、箸が進んでいないことは明らかだ。
 私は強情なフリをしていた。嗣永先生を助手席に乗せている間も、今もずっと緊張していて脇あたりが蒸れている。気持ち悪い。女性といる時の自分は気持ち悪い気がしてくる。
 烏龍茶を一口飲んで、バクバク食べている嗣永先生を横目にそっと口を開いた。
 「特に、大それた決意とかはありませんでした」
 舐めた動機に、嗣永先生の箸が止まる。
 「自分が男であることが心底気持ち悪いと思いはじめた頃から、私はずっと女になりたかったんです。将来の夢とかやりたい事とかなくて、ずっと〝女になりたい〟それだけでした。手術して、性転換して、戸籍変えて、なりたい自分になれた時、そこから何も見えなくなりました。したいことがなくて自分でも驚いたんです。それは絶句に近い感情でした」
 手術はしんどかった。痛みや腫れ、痺れが二年はつづいていたと思う。感染症のリスクもあり、術後も不安は拭えなかった。でも、先を見据えていなかったこれからの自分のほうがよっぽど不安だったのを憶えている。
 「とりあえず、休学していた大学に復学しようと思いました。二年も休学していたので、就活は不利になるのではと不安で、特に興味もない学部だったのもあり、教員免許でも取っておこうと軽い気持ちで教育学部に転部しました。実際就活はうまくいかず、先生に勧められて教育実習を受けてみたのがきっかけです。実習中、教員に好奇な目を向けられることは毎日のようにありましたが、生徒の私への興味はすぐに薄れて移り変わりました。そこが、気が楽だなと思ったんです。養護教諭を志願したのは、保健室が昔も今も落ち着く場所だと気づいたからです。学生の時みたいに、ここにいたいと思いました」
 養護教諭を選んだわけではなく、昔いた居心地のいい場所に帰って来たかっただけ。ここなら頑張れるのではないかと、どこか腑に落ちたような気がしたのだ。
 「今思えば安易な考え方でした。養護教諭がトランスジェンダーだなんて、まずどこの学校にも煙たがられましたし、人のつてを借りてようやく赴任先が決まっても、心休まる時間なんて来ませんでした。今、正直辞めようかと考えています」
 「え」
 「気づいたんです。保健室は確かに居心地のいい場所だったけど、それはそうしてくれる人が保健室を守っていたからで、いざ守る側になると心はひとときも休まらないってことに。私は、どうしても私を守ることに必死になってしまう。生徒たちを守ることは、私には荷が重かったんです」
 自分を盾に生徒たちを守る度胸は私にはない。そもそも盾にできるほど私は頑丈ではないのだから、突かれれば身を縮こまらせて自分を守るだろう。
 自分がそういう人間だと知るのも怖い。逃げる後ろ姿を見られるくらいなら、さっさと消えたほうがいい。
 「棗先生」
 嗣永先生が箸をようやく置いた。
 「私は必要だと思います」
 まっすぐな目だった。二重線がくっきりと伸び、睫毛の生え際が見えた。
 「この国の学生は賢いです。人の傷つけ方をよく知っています。同時に傷ついていないという顔も得意なんです。平気だという顔の薄皮を一枚被って、傷つけられたらまた被る。そうやって何枚も何十枚も被って、破れないようにとどんどん皮は厚くなっていく。限界が来る頃には何層にも覆われた皮で息ができなくなる」
 いつもは目尻にできる皺が、今は眉間に刻まれている。嗣永先生の顔が崩れていく。
 「彼らは、自分を守る方法を知らないんです。傷つけ方はSNSを見ればそこら中に転がっているけど、自分の守り方は誰も教えてはくれないから」
 「そうですね……」
 「だから棗先生が必要なんです」
 下がる頭が嗣永先生の食い気味の主張で反射的に上がる。
 どうしてこの人はこんなにも必死になって、私の存在価値を示してくれるのだろう。
 何度もいらないと言われてきたし、何度も否定されてきた。私の価値は確実に他人から見たら無価値だった。
 「あの日のこと、たまに思い出すんです」
 「あの日?」
 「櫻間さんに怒った時のことを」
 ああ、と思う。ブワァと昔の記憶が懐古する。
 「私も、あの場にいたんです。騒ぎを聞きつけて、でも止めなかった。仕方ないことだと思ったから。でも、櫻間さんだけは棗先生の盾になった」
 「……そうですね、小さな盾でした」
 「そんな櫻間さんを棗先生は叱った」
 「はい。彼女には申し訳ないことをしました」
 「違います。多分、櫻間さんは嬉しかったと思うんです」
 「嬉しい?」
 「彼女はいつも誰かの味方でした。優等生で、正義そのもので、泣いている人を優しく包み込むベールのような真っ白な子でした。それは彼女の優しさであり、強さでした。でも同時に、負わなくてもいい傷を負ってしまっていたと思うんです。それに最初に気づいたのは棗先生でした」
 「気づいたなんて、私は当時櫻間さんのことを全然知らなかったですし、彼女がどういう人かも知らなかったので……」
 首を振ると、嗣永先生は力なく笑った。
 「櫻間さん泣いていました。自分が泣いていることもわかっていないくらい、静かに泣いて、去っていく棗先生の後ろ姿をじっと見ていました」
 私の知らない視点がそこにはあった。
 「きっと、嬉しかったんだと思うんです」
 嗣永先生は顔を伏せて、おしぼりを目元に押し当てる。
 「櫻間さんが亡くなったと聞かされ、不眠症を患っていたことが公になった時、あの日の櫻間さんに声を掛けておくべきだったと心底後悔しました」
 「……後悔」
 口にすると嗚咽が出そうになった。どんなに口をゆすいでも、舌に残りつづけていく嫌な味。
 「こういう子がここ(学校)にはたくさんいるんだと思うと怖くて、最近廊下で足が竦むんです。私はまた気づけないのではないか、後悔ばかりを繰り返していくのではないかって、自分のことを信じられなくなります。だけど、逃げたくない。諦めたくない。だから、一緒に見つけてほしいんです」
 天真爛漫な笑顔の裏には、押しつぶされそうな後悔と罪悪感で苦しんでいる嗣永先生がいた。
 嗣永先生が顔を上げると、案の定目は真っ赤に染まっていた。〝赤〟に思い出すのは、依田さんのそばにずっとある赤だった。
 「見つけるって、何を」
 「櫻間さんのように苦しんでいる子を」
 そう言うと、嗣永先生は鞄から何かを取り出した。
 「……え」
 思わず声が洩れた。
 テーブルの上にそっと置かれた物は、葛西先生が紛失させてしまった手紙だった。
 「嗣永先生が持っていたんですか?」
 「私が、葛西先生の机から抜き取りました」
 何の悪びれもなく嗣永先生は自白した。
 真っ白な封筒は、櫻間さんが書いたと思われる手紙で間違いなかった。