*
夏休み期間に入り教室棟は一気に閑散としたが、職員室に踏み入ればいつも通りの時間が流れていた。
廊下を歩行中に補修組の生徒とすれ違い挨拶を交わすも、頭の中は整理できていない問題でぐちゃぐちゃだった。
終業式に起きた直近の転落事件、突き落とされたとか突き落としていないとか食い違いがあり、問題解消には長引くかと思いきや、意外にもその翌日に終結した。
お昼頃だっただろうか。階段から転落した閨谷さんの保護者から連絡が入ったのだ。
『昨晩、娘と話をしまして、階段で転落したのは娘の不注意で足を滑らせただけだと。ええ、一組の依田麻央さんに突き落とされたと言ったそうなのですが、本当は彼女と喧嘩をしたらしく、その腹いせに嘘を言ってしまったのだと。はい、ええ……本当にご迷惑をおかけしてすみません。娘にはもうきつく叱りつけましたので……はい、もし相手の保護者がご立腹なのであればこちらから謝罪したいと思っています。本当に後先考えない娘なんです、すみませんでした』
電話の向こう側で何度も頭を下げている閨谷さんの保護者が目に浮かんだ。
問題は解決した。閨谷さんが事を大きくしていただけで、原因は一時的な仲違いによる単純なものだった。だけど、スッキリはしなかった。
階段上から見下ろす冷徹な依田さんの目、病院で怒りを露にする閨谷さんの感情的な目、そして、信じ難い光景を目の当たりにしたような怯えた佐倉さんの目。三人の目からはそんな単純でかわいいものを見ている目ではなかった。もっと根深く、重暗いもののような気がした。
ハッと我に返る。
気づけば、私は美術室の前にいた。
扉の小窓から中を覗くと、依田さんが普段と変わらず絵を描いている。誤解が解けた翌日の今日でも、彼女の手は一心不乱にキャンバスへと向いていた。
ドアノブに手を掛け静かに扉を開けるも、微かな音を依田さんの耳は拾う。彼女は静かに振り向き、私を視界に入れた。
普段の冷静沈着である依田さんの顔がそこにあるはずが、今日の顔は違った。
「え、その顔どうしましたか」
「ああ……母に平手打ちされました」
依田さんは赤くなっている左頬を摩った。
「怒られたのですか?」
「まあ、そんな感じです」
「口の中は切っていませんか?」
「大丈夫です」
いつ叩かれたかにもよるが、赤く染まるほどの力は相当なものだ。もしかして、と嫌な予感が脳内に過る。瞬間、依田さんが笑う。
「先生、虐待とか暴行とかじゃないですよ。私が母を怒らせるようなことをしたので、その制裁に叩かれただけです。反発して親の逆鱗に触れて叩かれるくらいありますよね?その程度の親子ケンカですよ」
私の思考を瞬時に読み取り、依田さんは呆れを含んだ笑みで頭を振る。いつもの依田さんだと、もはやこの姿に安堵さえおぼえはじめる。
「そういえば、閨谷さんの怪我はどうでした?」
「足首の骨折で全治三か月です」
「……そうですか」
気にしているのか、一応気にしてみているだけなのか、もう依田さんの表情だけでは判断できなくなっていた。
「何か言いたそうですね」
感情が表情に直結している人間ではないのに、依田さんにはなんでも読まれてしまう。
「普通は目の前で人が階段から転落してしまったら、もっと動揺し、すぐに手を伸ばし駆け寄るはずです。でも、依田さんにそんな素振りは見られませんでした」
「先生がすぐに来たからですよ。その後に先生がそこから動くなって言ったんじゃないですか」
「私が駆けつけたのは二回目の悲鳴を確認した後でした。そんなにすぐだったとは思えません」
依田さんは静かに絵筆を置いた。
「先生は、私を疑っているんですね」
「疑っているわけではありません」
ただ、不可解な点が多いからだ。
「あの日、閨谷さんはあなたに対して激しい怒りを口にしていました。あなたに心当たりのない罪を擦り付けられて口論になり、そのあと後ろから突き落とされたのだと。彼女自身なぜ突き落とされたのかわからないと混乱していました。それを聞いて、私も混乱しました。だけど、ただ一つだけ驚くほどクリアに頭に浮かんだ確信がありました。依田さんはそんなことはしない、ということです」
依田さんの睫毛がピクッと揺れる。
「それは、どうしてですか?」
「依田さんは冷静に物事を俯瞰して見ることができます。あなたの行動の先は私にはまだわかりません。でも、繊細で緻密に計算されていることだけはなんとなくわかるのです。だからこそ、あなたが感情的になって人に危害を加えることは、普段のあなただったらやらないと思いました」
依田さんの放つ言葉には殺傷能力があった。常に刃先を向けられ頸動脈を狙われているような息を呑む恐ろしさに、私は常に身構えていた。でも振り返れば、いまだ一度もその刃先が首に触れて血が出たことはない。
双方逸らさない視線から先に外れたのは依田さんのほうだった。
「先生はまだまだ甘いです。私のことをまるでわかっていない」
ため息をつきながら立ち上がり、私の中までも覗くかのような目でまた見つめ直す。
「クラスマッチの日、女子更衣室にカメラを置いたのは私です」
「……え」
今、なんて。
「私が、女子更衣室にビデオカメラを設置して録画ボタンを押しました」
でもそれは、違うはずだ。やったのは中津君のはずで、彼自身も罪は認めている。
「どうして、そんな嘘を」
「嘘ではないです。嘘をついたのは中津君です。実際、防犯カメラに男子生徒が女子更衣室に入る姿は映されていませんよね?」
依田さんの言うとおり、女子更衣室付近の防犯カメラには男子生徒が入り込む姿も不審な人影が紛れ込む姿も映り込んではいなかった。
「もし仮に依田さんが設置したとして」
「だから私なんですって」
「あなただったとして、どうしてそれを私に打ち明けたのですか」
この事実を私に握らせて、一体どうしろと。
「先生が私のことを見くびっているからですよ」
依田さんは清廉潔白のような目で私を見つめる。
「言いましたよね?私の優越感は、誰かの心を傷つける快感から生まれるものだと。私だって、いつでもどこでも誰かを傷つけることができるんです」
そんな自慢顔をして言う台詞ではなかった。
罪を自白する依田さんはあっさりした顔をしているのに、何もしていない私のほうが追い詰められたように息を殺す。
「本当に、認めるんですか」
強情なフリをした。
「はい。でも、先生にだけです」
「……は?」
「今、先生だけが私の過ちを知っています。それは私が先生の前でだけ自白したからです。他の人の前で罪を公表するつもりはありません。私に罪を償ってほしければ、先生が証明するしかないということになります。先生は、私をどうしますか?」
また、試される。依田さんは、私にどうしてほしいのだろうか。
答えられないまま時計の秒針が一周する。
やがて、痺れを切らした依田さんがまた絵筆を握った。それを、筆洗バケツに放り込む。透明な水は一瞬にして赤へと染まった。
「先生は、赤い蝋燭と人魚の童話を知っていますか?」
「え?」
突然、脈絡のない話を振られ戸惑いの声が洩れる。
依田さんは勝手にあらすじを話しはじめた。
「人魚である母親が人間の優しい心を信じて、人魚の娘を陸に産み落とすんです。賑やかで広い世界で生きてほしいと願って。老夫婦に拾われた人魚は、少しでも役に立とうと蠟燭に絵を描くんです。人魚の描いた絵はとてもきれいで、そして特別だった。その蝋燭は人魚のおかげで繁盛するようになり、巷ではその蝋燭が話題にもなった。でも、老夫婦は自分たちのさらなる利益のために人魚の娘を手放すことにしたんです。人魚は赤い絵具で塗りつぶした蝋燭を数本置いて、悪い人に連れて行かれてしまいます」
依田さんの描いた毒々しい赤が私をじっと見つめる。彼女はつづける。
「人魚がいなくなっても老夫婦は儲けがほしくて人魚が置いていった蝋燭を売ったんです。だけど、蝋燭はもう特別ではなくなってしまった。その赤い蝋燭に火が灯るとたちまち悪い事が起きるようになり、最後は町ごと滅びてしまうっていう話です」
赤い蝋燭と人魚という童話の題名は聞いたことあったが、内容はまったく憶えていなかった。小学生の時には感じなかった日本童話は、大人になって読むと内容が結構重たい。
「どうして、今この童話の話を?」
「赤い蝋燭が灯っているんですよ。それはいずれいろんなところに燃え移り、大きい炎に変わる。燃やしたいものを確実に焼き尽くす」
「それは、依田さんが赤い蝋燭を灯したということですか?」
依田さんがどうして今この話をしたのか、この童話を通して何を伝えたいのか、それは私には読めない。ただ、今の状況と通ずるものがあることだけはわかる。
依田さんは、人魚の母親なのだろうか。─────だとしたら、人魚は誰?
「先生」
依田さんが私を見つめる。彼女の手は赤い絵具で真っ赤に汚れていた。
「先生は、櫻間真織が死んだって聞いた時、どう思いましたか?」
〝櫻間真織〟。その羅列が声になった時、疑問や違和感、喉まで出かかった興味が一瞬にして奪われる。頭が真っ白になる。
「事故死だって思いましたか?」
眉根を寄せる。
「依田さんは、事故死だとは思っていないのですか?」
「……わかりません」
「櫻間さんは事故ですよ。不運にも訪れてしまったしまった事故です」
事実を口にするだけだというのになぜか声が震えた。
「そう信じたいですよね。そう信じたら先生自身は救われるし、誰のせいでもないって都合よく思えて、誰のことも責めずにいられるから。でも、櫻間真織の引き出しから手紙が見つかって、彼女が何かに苦しんでいたことを知ってしまった。もう考えずにはいられないじゃないですか」
櫻間さんが綴った手紙の内容を知っている者からすれば、事故死では片付けられない。でも、もう死因は転落による事故死として調査は終わっている。これ以上何かが出てくることはないし、櫻間さんが亡くなった後で真実を知る術ももうない。
「私も考えます。櫻間さんが思いつめていたことに気づけていたら事故は防げたのではないかって、苦しくなります。だからこそ、もう二度と櫻間さんのような子を増やしてはいけないと思っています」
櫻間さんが書いたと思われる記録紙の裏面の名前を、思い出しては捲って、何度もなぞった。その度に誓っている。櫻間さんの死を忘れないでおこうと。
「なんか、ただの追悼みたいですね」
「……ただの」
「追悼なんて意味ないです。そんなもの、いつかは忘れていく」
そんなのは考えるというより思い出しているだけだと言うように嘲弄され、もういいと唾棄される。
依田さんは私を見捨てるように背中を向けると、また絵筆を手にした。
もう十分真っ赤な赤をさらに血黒い赤で重ね塗りしていく。
言い返すことも弁明することもできないまま、私は依田さんの背中を憮然に見つめていた。
いつ美術室を退室したのかはわからない。考え事をしていたら、あてもなく廊下をグルグルと回っていた。途方に暮れ、散々な自分の人生を振り返り、心機一転だと養護教諭になった自分を悔いていた。
『救われる人は必ずいる』
いつかの生徒に吐いた言葉だ。反芻してみると、厚みや重みが一切感じられない、当たり障りのない言葉だったのだと今さら気づく。
救ったことなんてないくせに、救われようと願う人間の言葉なんて所詮は夢物語の薄っぺらさでしかない。
結局のところ救われる人はずっと救われている。差し伸べられる手が等間隔でぶら下がっていて、タイミングよくその手を握れるかどうかの話なだけで、逃しても次の手が控えていたりする。
ずるいな。死ぬか生きるかは確率論なのに、救われるか救われないかは恵まれた環境で決まるなんて意味わからないよね。
妬み、嫉み、僻み、すべての嫉妬の感情を私は一通り感じてきた。そんな奴が、純粋無垢な生徒を相手にできるわけがなかった。こんな奴の言葉なんて生徒に響かなくて当然だ。
どれだけ強く、ありのままの姿で生きようとも現実は襲ってくる。
人が人を傷つけるという現実ではない。私が今の私を疑うという現実だ。
夏休み期間に入り教室棟は一気に閑散としたが、職員室に踏み入ればいつも通りの時間が流れていた。
廊下を歩行中に補修組の生徒とすれ違い挨拶を交わすも、頭の中は整理できていない問題でぐちゃぐちゃだった。
終業式に起きた直近の転落事件、突き落とされたとか突き落としていないとか食い違いがあり、問題解消には長引くかと思いきや、意外にもその翌日に終結した。
お昼頃だっただろうか。階段から転落した閨谷さんの保護者から連絡が入ったのだ。
『昨晩、娘と話をしまして、階段で転落したのは娘の不注意で足を滑らせただけだと。ええ、一組の依田麻央さんに突き落とされたと言ったそうなのですが、本当は彼女と喧嘩をしたらしく、その腹いせに嘘を言ってしまったのだと。はい、ええ……本当にご迷惑をおかけしてすみません。娘にはもうきつく叱りつけましたので……はい、もし相手の保護者がご立腹なのであればこちらから謝罪したいと思っています。本当に後先考えない娘なんです、すみませんでした』
電話の向こう側で何度も頭を下げている閨谷さんの保護者が目に浮かんだ。
問題は解決した。閨谷さんが事を大きくしていただけで、原因は一時的な仲違いによる単純なものだった。だけど、スッキリはしなかった。
階段上から見下ろす冷徹な依田さんの目、病院で怒りを露にする閨谷さんの感情的な目、そして、信じ難い光景を目の当たりにしたような怯えた佐倉さんの目。三人の目からはそんな単純でかわいいものを見ている目ではなかった。もっと根深く、重暗いもののような気がした。
ハッと我に返る。
気づけば、私は美術室の前にいた。
扉の小窓から中を覗くと、依田さんが普段と変わらず絵を描いている。誤解が解けた翌日の今日でも、彼女の手は一心不乱にキャンバスへと向いていた。
ドアノブに手を掛け静かに扉を開けるも、微かな音を依田さんの耳は拾う。彼女は静かに振り向き、私を視界に入れた。
普段の冷静沈着である依田さんの顔がそこにあるはずが、今日の顔は違った。
「え、その顔どうしましたか」
「ああ……母に平手打ちされました」
依田さんは赤くなっている左頬を摩った。
「怒られたのですか?」
「まあ、そんな感じです」
「口の中は切っていませんか?」
「大丈夫です」
いつ叩かれたかにもよるが、赤く染まるほどの力は相当なものだ。もしかして、と嫌な予感が脳内に過る。瞬間、依田さんが笑う。
「先生、虐待とか暴行とかじゃないですよ。私が母を怒らせるようなことをしたので、その制裁に叩かれただけです。反発して親の逆鱗に触れて叩かれるくらいありますよね?その程度の親子ケンカですよ」
私の思考を瞬時に読み取り、依田さんは呆れを含んだ笑みで頭を振る。いつもの依田さんだと、もはやこの姿に安堵さえおぼえはじめる。
「そういえば、閨谷さんの怪我はどうでした?」
「足首の骨折で全治三か月です」
「……そうですか」
気にしているのか、一応気にしてみているだけなのか、もう依田さんの表情だけでは判断できなくなっていた。
「何か言いたそうですね」
感情が表情に直結している人間ではないのに、依田さんにはなんでも読まれてしまう。
「普通は目の前で人が階段から転落してしまったら、もっと動揺し、すぐに手を伸ばし駆け寄るはずです。でも、依田さんにそんな素振りは見られませんでした」
「先生がすぐに来たからですよ。その後に先生がそこから動くなって言ったんじゃないですか」
「私が駆けつけたのは二回目の悲鳴を確認した後でした。そんなにすぐだったとは思えません」
依田さんは静かに絵筆を置いた。
「先生は、私を疑っているんですね」
「疑っているわけではありません」
ただ、不可解な点が多いからだ。
「あの日、閨谷さんはあなたに対して激しい怒りを口にしていました。あなたに心当たりのない罪を擦り付けられて口論になり、そのあと後ろから突き落とされたのだと。彼女自身なぜ突き落とされたのかわからないと混乱していました。それを聞いて、私も混乱しました。だけど、ただ一つだけ驚くほどクリアに頭に浮かんだ確信がありました。依田さんはそんなことはしない、ということです」
依田さんの睫毛がピクッと揺れる。
「それは、どうしてですか?」
「依田さんは冷静に物事を俯瞰して見ることができます。あなたの行動の先は私にはまだわかりません。でも、繊細で緻密に計算されていることだけはなんとなくわかるのです。だからこそ、あなたが感情的になって人に危害を加えることは、普段のあなただったらやらないと思いました」
依田さんの放つ言葉には殺傷能力があった。常に刃先を向けられ頸動脈を狙われているような息を呑む恐ろしさに、私は常に身構えていた。でも振り返れば、いまだ一度もその刃先が首に触れて血が出たことはない。
双方逸らさない視線から先に外れたのは依田さんのほうだった。
「先生はまだまだ甘いです。私のことをまるでわかっていない」
ため息をつきながら立ち上がり、私の中までも覗くかのような目でまた見つめ直す。
「クラスマッチの日、女子更衣室にカメラを置いたのは私です」
「……え」
今、なんて。
「私が、女子更衣室にビデオカメラを設置して録画ボタンを押しました」
でもそれは、違うはずだ。やったのは中津君のはずで、彼自身も罪は認めている。
「どうして、そんな嘘を」
「嘘ではないです。嘘をついたのは中津君です。実際、防犯カメラに男子生徒が女子更衣室に入る姿は映されていませんよね?」
依田さんの言うとおり、女子更衣室付近の防犯カメラには男子生徒が入り込む姿も不審な人影が紛れ込む姿も映り込んではいなかった。
「もし仮に依田さんが設置したとして」
「だから私なんですって」
「あなただったとして、どうしてそれを私に打ち明けたのですか」
この事実を私に握らせて、一体どうしろと。
「先生が私のことを見くびっているからですよ」
依田さんは清廉潔白のような目で私を見つめる。
「言いましたよね?私の優越感は、誰かの心を傷つける快感から生まれるものだと。私だって、いつでもどこでも誰かを傷つけることができるんです」
そんな自慢顔をして言う台詞ではなかった。
罪を自白する依田さんはあっさりした顔をしているのに、何もしていない私のほうが追い詰められたように息を殺す。
「本当に、認めるんですか」
強情なフリをした。
「はい。でも、先生にだけです」
「……は?」
「今、先生だけが私の過ちを知っています。それは私が先生の前でだけ自白したからです。他の人の前で罪を公表するつもりはありません。私に罪を償ってほしければ、先生が証明するしかないということになります。先生は、私をどうしますか?」
また、試される。依田さんは、私にどうしてほしいのだろうか。
答えられないまま時計の秒針が一周する。
やがて、痺れを切らした依田さんがまた絵筆を握った。それを、筆洗バケツに放り込む。透明な水は一瞬にして赤へと染まった。
「先生は、赤い蝋燭と人魚の童話を知っていますか?」
「え?」
突然、脈絡のない話を振られ戸惑いの声が洩れる。
依田さんは勝手にあらすじを話しはじめた。
「人魚である母親が人間の優しい心を信じて、人魚の娘を陸に産み落とすんです。賑やかで広い世界で生きてほしいと願って。老夫婦に拾われた人魚は、少しでも役に立とうと蠟燭に絵を描くんです。人魚の描いた絵はとてもきれいで、そして特別だった。その蝋燭は人魚のおかげで繁盛するようになり、巷ではその蝋燭が話題にもなった。でも、老夫婦は自分たちのさらなる利益のために人魚の娘を手放すことにしたんです。人魚は赤い絵具で塗りつぶした蝋燭を数本置いて、悪い人に連れて行かれてしまいます」
依田さんの描いた毒々しい赤が私をじっと見つめる。彼女はつづける。
「人魚がいなくなっても老夫婦は儲けがほしくて人魚が置いていった蝋燭を売ったんです。だけど、蝋燭はもう特別ではなくなってしまった。その赤い蝋燭に火が灯るとたちまち悪い事が起きるようになり、最後は町ごと滅びてしまうっていう話です」
赤い蝋燭と人魚という童話の題名は聞いたことあったが、内容はまったく憶えていなかった。小学生の時には感じなかった日本童話は、大人になって読むと内容が結構重たい。
「どうして、今この童話の話を?」
「赤い蝋燭が灯っているんですよ。それはいずれいろんなところに燃え移り、大きい炎に変わる。燃やしたいものを確実に焼き尽くす」
「それは、依田さんが赤い蝋燭を灯したということですか?」
依田さんがどうして今この話をしたのか、この童話を通して何を伝えたいのか、それは私には読めない。ただ、今の状況と通ずるものがあることだけはわかる。
依田さんは、人魚の母親なのだろうか。─────だとしたら、人魚は誰?
「先生」
依田さんが私を見つめる。彼女の手は赤い絵具で真っ赤に汚れていた。
「先生は、櫻間真織が死んだって聞いた時、どう思いましたか?」
〝櫻間真織〟。その羅列が声になった時、疑問や違和感、喉まで出かかった興味が一瞬にして奪われる。頭が真っ白になる。
「事故死だって思いましたか?」
眉根を寄せる。
「依田さんは、事故死だとは思っていないのですか?」
「……わかりません」
「櫻間さんは事故ですよ。不運にも訪れてしまったしまった事故です」
事実を口にするだけだというのになぜか声が震えた。
「そう信じたいですよね。そう信じたら先生自身は救われるし、誰のせいでもないって都合よく思えて、誰のことも責めずにいられるから。でも、櫻間真織の引き出しから手紙が見つかって、彼女が何かに苦しんでいたことを知ってしまった。もう考えずにはいられないじゃないですか」
櫻間さんが綴った手紙の内容を知っている者からすれば、事故死では片付けられない。でも、もう死因は転落による事故死として調査は終わっている。これ以上何かが出てくることはないし、櫻間さんが亡くなった後で真実を知る術ももうない。
「私も考えます。櫻間さんが思いつめていたことに気づけていたら事故は防げたのではないかって、苦しくなります。だからこそ、もう二度と櫻間さんのような子を増やしてはいけないと思っています」
櫻間さんが書いたと思われる記録紙の裏面の名前を、思い出しては捲って、何度もなぞった。その度に誓っている。櫻間さんの死を忘れないでおこうと。
「なんか、ただの追悼みたいですね」
「……ただの」
「追悼なんて意味ないです。そんなもの、いつかは忘れていく」
そんなのは考えるというより思い出しているだけだと言うように嘲弄され、もういいと唾棄される。
依田さんは私を見捨てるように背中を向けると、また絵筆を手にした。
もう十分真っ赤な赤をさらに血黒い赤で重ね塗りしていく。
言い返すことも弁明することもできないまま、私は依田さんの背中を憮然に見つめていた。
いつ美術室を退室したのかはわからない。考え事をしていたら、あてもなく廊下をグルグルと回っていた。途方に暮れ、散々な自分の人生を振り返り、心機一転だと養護教諭になった自分を悔いていた。
『救われる人は必ずいる』
いつかの生徒に吐いた言葉だ。反芻してみると、厚みや重みが一切感じられない、当たり障りのない言葉だったのだと今さら気づく。
救ったことなんてないくせに、救われようと願う人間の言葉なんて所詮は夢物語の薄っぺらさでしかない。
結局のところ救われる人はずっと救われている。差し伸べられる手が等間隔でぶら下がっていて、タイミングよくその手を握れるかどうかの話なだけで、逃しても次の手が控えていたりする。
ずるいな。死ぬか生きるかは確率論なのに、救われるか救われないかは恵まれた環境で決まるなんて意味わからないよね。
妬み、嫉み、僻み、すべての嫉妬の感情を私は一通り感じてきた。そんな奴が、純粋無垢な生徒を相手にできるわけがなかった。こんな奴の言葉なんて生徒に響かなくて当然だ。
どれだけ強く、ありのままの姿で生きようとも現実は襲ってくる。
人が人を傷つけるという現実ではない。私が今の私を疑うという現実だ。


