*
「一学期はいろんなことがあり、心休まらない時間が多かったと思います。明日から夏休みに入りますが、くれぐれも自分の足を引っ張ることのないよう節度と常識を持って────」
こんな状況で、学校は夏休み期間に入る。
ちょうど一週間前、中津君も家庭裁判所へと送致された。
早速学校に家庭裁判所調査官が現れ、事件の背景や、加害者生徒の学校生活や素行を詳しく調査していた。調査の結果次第では、加害者生徒の反省や更生の意思、それらを明確に示すことができれば審判を受けずに不起訴処分になる可能性もあるらしい。
問題は、中津君だ。彼の行動心理は極めて悪質であり、審判は免れないだろう。
あれから私は中津君のことをずっと考えている。葛西先生に対する膨れ上がった憎しみは、どこからはじまったのだろうかと。
婉曲の言い方で生徒たちに圧をかけている校長先生の長話を聞き流していると、四組の担任をしている山城先生から「男乕先生」と小声で呼びかけられる。
「すみません、今佐倉一花の保護者から電話があって、終業式に出ると言って家を出たらしくもうそろそろ着く頃だろうと言われました。男乕先生、対応してもらえませんか。もし教室に来られそうであれば連絡がほしいです」
「わかりました」
対応を任され、私は静かに体育館を退室する。
盗撮騒動で疎かになっていたが、佐倉さんとも話をしなければいけないと思っていた。話すなら今日しかない。
意気込みが足に出る。気づけば、早足で廊下を歩いていた。
ふと廊下の窓に目を向けると、雨粒が窓を叩きはじめていた。十時頃から天気が崩れると、テレビの奥にいるお天気お姉さんが言っていたのを思い出す。
一瞬、雷が落ちたのかと思って足を止める。その雷が、誰かの悲鳴の声だと気づいたのは、もう一度廊下の奥から悲鳴が轟いたからだ。
すぐさま方向転換し、声のしたほうへと足を進めると、階段下で佐倉さんが口を開けて上を見上げていた。
「佐倉さん?」
声をかけると、佐倉さんはゆっくりと首を捻り私を視界に入れた。顔面蒼白だった。
嫌な予感が一気に全身を駆け巡る。動悸もしてきた。
走って来たせいで横髪は乱れていた。数あるコンプレックスの一つでもある骨ばった輪郭が露見していたが、気にせず佐倉さんに近づく。
佐倉さんが見つめていた先へと視線を配ると、階段の踊り場に女子生徒が横たわっているのを見つける。
「大丈夫ですか!」
慌てて駆け寄る。
階段から転倒したのか、女子生徒は左足を押さえながら悶絶の表情を浮かべていた。
出血箇所はない。骨折はしていないだろうか。すぐに病院に連れて行かなければ。冷静に、まずは落ち着いて。
「大丈夫ですからね。今、他の先生を呼んで……」
立ち上がると、目の端に人影がチラついた。さらに顔を上げると、階段上で誰かがこの光景を見下ろしていた。
「……依田さん?」
目を凝らす。視界を疑い、さらに目を細める。
それでも、彼女は立っていた。色のない目で私たちを静観していた。表情はいつもと変わらず読めない。
「───されたんです」
「……え?」
状況に困惑していると、蹲っている生徒が震える声を出した。ひどく怯えている様子から剣吞な雰囲気を感じ取る。
彼女は手をつき上半身を起こしながら、顔を捻って依田さんの姿を捉えた。そして、今度はしっかりと口にした。
「突き落とされたんです、あの子に」
息が乱れていた。彼女のか、私のか、もう何がなんだかわからなかった。
階段から転倒した生徒の名前は、閨谷伊月。彼女とは盗撮の被害者生徒として一度面談をしていて、面識があった。
立ち尽くす私に、閨谷さんの悶絶する声で引き戻される。
とりあえず措置をしなければ。
「佐倉さん、体育館にいる教員を誰でもいいので呼んできてもらえますか」
現在、生徒の目に付く場所を避けて出席している佐倉さんに頼むのは酷だが、頼める人が今は彼女しかいない。
一瞬、佐倉さんの不安の色が膨張するが、依田さんと閨谷さんを交互に見返し、佐倉さんなりにこの状況が深刻だと理解したのか覚悟を決めて頷いてくれた。
佐倉さんの慌ただしい足音が遠ざかるのを聞きながら、私は顔を上げ依田さんを捉える。
「あなたは動かないで。そこにいなさい」
はなから動くつもりなんてないのか、私をその場から見下ろすだけで一言も発さない。
数分経つと、複数の足音が近づいてくる。
「男乕先生!」
数人の教員が姿を見せ、私たちを取り囲むように駆け寄ってくる。
閨谷さんにちゃんとした意識はあるが、頭を打った可能性を懸念して救急車を呼ぶことにした。十分も経たずしてサイレンの音は消した救急車両が学校内に入って来る。終業式まで騒ぎになるのを避けたい教員の配慮だろう。
私も同行し、車内で足の様子を見せてもらった。押さえていた箇所はすでに腫れ上がっており、捻挫の軽傷では済まないことが見てとれる。
救急車から下りると閨谷さんはすぐに病院内に運び込まれ、診察が行われる。
症状は足首の骨折と言われ、全治三か月の診断を受ける。痛みは足首にしか表れていない様子だったが、階段からの転倒ということもあり念のためMRI検査を行うことになった。不幸中の幸いで、脳や脊髄といった場所からの異変は見られずに日帰りでの処置で済んだ。
やがて処置が終わった閨谷さんが現れ、一緒に待合室で待機することになった。
一緒に同行した閨谷さんの担任は、学校への報告と彼女の保護者への連絡で長らく席を外している。
「明日から夏休みなのに、最悪なんだけど」
閨谷さんは固定具と包帯で巻かれた足を見下ろしながら気落ちしていた。
「閨谷さん、さっき階段下で言っていたことは本当なのですか?」
確かに閨谷さんは『突き落とされた』と依田さんを見ながら言っていた。あの構図と光景を見れば、依田さんが閨谷さんを突き落とした判断せざるを得ないが、本人も大きな動揺と痛みで混乱していた可能性もある。確認のためもう一度訊ねたのだが、彼女の気に障ったのか舌打ちで返される。
「まさか、私が嘘ついているって言いたいんですか」
「そういうことではなくて、詳しく聞きたいのでまずは状況の確認をと思い……」
「だからさっきも言ったじゃん。あの女に突き落とされたんだって」
明らかに彼女の機嫌は悪かった。そもそも彼女は私の存在を疎ましく思っている一人だ。
今ここで訊くのは得策ではないかもしれない。また日を改めた落ち着いた状態の時に訊ねるべきでは。……ああ、わからない。
私が迷っている間にも、閨谷さんは話をつづける。
「突然呼び出されて、なんか変なこと言われたからムカついて言い返したら急に背中を押されたの。マジ意味わかんないんだけど」
「変なこと?」
「なんか……櫻間真織を殺したのは私なんじゃないかって」
「……え?」
物騒な言葉が飛んできて耳を疑う。
「ど、どうして、依田さんがそんなことを?」
「知らないし。櫻間さんとは一年の頃同じクラスだったけど、全然話したこともなかったしそもそもグループも違ったんで、マジは?って感じですよ。てか、櫻間さんって事故だったんですよね。あの子頭大丈夫ですか?それに、なんで私が犯人扱いされないといけないんですか」
閨谷さんは当然怒っていた。彼女の言っていることが本当だしたら、腹が立ってあの場で言い返したくなる気持ちもわかる。でも、あの怜悧な依田さんが言い返されて頭に血が上ったからという理由で、閨谷さんを故意で突き落とすとは思えない。私が見てきた今までの依田さんは、鋭くて危うい雰囲気を持っていたが、常に冷静に客観視できる子だった。
「依田さんは、他に何か言っていませんでしたか?」
「……知らない。何か言っていた気もするけどムカついててあんまり憶えてない」
「そうですか」
「櫻間さんが亡くなったあと、櫻間さんの引き出しに遺書が入っていたんですよね?それを読み上げたのは依田さんだって他の子から聞きました。それで、気が動転しているんじゃないんですか。事故だと言われていたのに、遺書見つかって自殺だったって知ったから。依田さん、櫻間さんと仲良かったから自殺だって思いたくないんですよ。誰かが殺したって思っていたほうが救われるんじゃないですか」
脳が大きく揺れ動いているかのような混乱状態に陥っていた。
閨谷さんの発言が右から左へと流されていくのを必死で追っている中で、いろいろおかしい事実が紛れ込んでいることに気づく。なんとか拾い上げ、私は一旦冷静になるためその疑問を飲んだ。
まず、遺書ではなく手紙だ。これは、事実とは異なる形をして噂になっていることは教員も知っていたが、私たちは手紙のこと自体を表沙汰にするつもりはなく、櫻間さんを静かに送ってあげるべきだとしてわざわざ噂の否定はしていなかった。閨谷さんが勘違いしているのは仕方ないことだ。そこが問題ではない。その先だった。
「ほら、悲しみより怒りのほうが生きる原動力になるって聞くし。可哀想な話ですけど」
閨谷さんはペラペラと依田さんに対しての同情心を語っていた。私は、それを聞き流しながら静かに回顧していた。
以前、私は依田さんと櫻間さんとの関係について訊ねたことがあった。依田さんは、曇りなき目で『ただのクラスメイトです』とハッキリ答えていた。さらに『仲がいいとは言えないと思います』と付言し断固として否定していた。
あれは嘘だったというのか。私はまた、依田さんの手のひらで転がされていたのか。
「本当にどうして閨谷さんを疑ったのでしょうか」
引っかかる疑問は一つや二つじゃない。
そもそも、どうして閨谷さんだったのだろう。彼女が怪しいと裏付ける証拠でも持っているのか。
「……知らないですよ、そんなの」
私の漠然とした疑問に、閨谷さんは自分の顔を隠すように俯いて答えた。
数分経って、担任と一緒に閨谷さんの保護者が現れた。娘の怪我を心配して気が動転している保護者を必死に宥め、事故の経緯を説明するべく一旦病院の外に出る。
今回の騒動について担任が話始めようとした矢先、閨谷さんが先行して口を開いた。
「階段で踏み外して落ちたの。その近くに人がいただけで、別に喧嘩とかして揉み合って落ちたわけじゃないよ。お母さん、もう疲れたから帰りたい」
先ほど話してくれた事実とは異なることを閨谷さんは口にした。
「閨谷?」
「先生たちも病院への送迎ありがとうございました。じゃあ、また二学期に」
納得していない親を置き去りにして、閨谷さんは慣れない松葉杖で歩きはじめる。
「すみません、帰ってから本人と話してみます」
今日のところはこれで、と慌てて娘の後を追う保護者に私たちは戸惑いながらも一礼した。
依田さんのことを庇ったわけではない。閨谷さんは間違いなく依田さんに怒りを覚えていた。突き落とされたことが本当なら、怒りに任せ言及するはずだ。それをせずに曖昧に濁した。その行為はあまのじゃくで、私たちはさらにわからなくなった。
学校に戻り、その後の依田さんの状況を他の教員に訊ねると、彼女は一貫して「突き落としていない」と主張していたことを聞く。双方の主張が食い違っていた。
教員は他にも質問を投げかけたが、口を縫い付けられたかのように開かなかったという。
しばらくして依田さんの保護者も顔を出し、教員と同様な質問を訊ねるも彼女は黙秘を貫いた。これでは時間だけが過ぎ埒が明かないので、依田さんの方でも一旦家族と話し合う方向で問題を持ち帰ってもらい、今日のところはなんとか無理やり収めたらしい。
「山城先生、佐倉さんは?」
状況が切迫していて、すっかり頭から抜けていた佐倉さんの存在を思い出したのは一息ついた時だった。
「とても動揺している様子だったので、今日は帰らせました」
「そうですか」
また後回しになってしまった。……いや違う、後回しにしてしまったんだ。
「男乕先生もお疲れだと思うので、少しお休みになっては?」
「お気遣いありがとうございます」
職員室を後にし、保健室に戻ってくる。
椅子に腰かけると、長い息が洩れた。思ったより自分の心が憔悴していることに気づく。
ピコン───。
その時、スマホからはカレンダーに入れていた予定の通知が鳴る。
【18時 クリニック】
よりによって今日か、と落胆する。
二週間に一回、私は自分を新たに形成している。私の一部が抜けていくわけでも、足元から崩れていっているわけでもない。ただ、そうしなければ他人に認めてもらえない気がするからだ。
退勤後、学校からそのまま車で直行し通院しているクリニックに向かった。
いつもの定期診察を終え、お腹に注射をするだけで病院での用事は終わる。
「お疲れみたいですね」
看護師にも指摘されるほど、今の私の顔はひどく疲れ切っているらしい。
「女性ホルモンを注射したあとは精神的にブレてしまう方もいらっしゃるので、この後はゆっくりしてよく眠って下さい」
「はい、そうします」
素直に頷き、捲ったブラウスの裾を丁寧にズボンにしまった。
会計を済ませ、もうお互い見慣れた受付の人に会釈をしてから病院を後にする。
車内に乗り込み、エンジンをかける。ハンドルを持つが、アクセルは踏めない。頭が重たくてハンドルに額を乗せると顔を上げられなくなった。その状態で、吐き切れなくなるまで息を吐く。みるみる濁っていく。重たい煙のような空気が車内に充満する。
────『先生に、私たちの気持ちがわかるとは思えないです。だって先生は、元々特別枠の人間じゃないですか』
頭を空っぽにすると、面談中に言われた閨谷さんの言葉が浮かび上がる。
誰かが川に落としてしまったボールのように、知らぬ存ぜぬでプカプカと浮いている。誰かに拾われることもなく、破裂して消えてなくなることもない。
“特別枠”というのは、閨谷さんで言う“普通ではない人”ということだ。
間違っていない。私は男として産み落とされ、今は女性という形を医療に頼ってなんとか輪郭を模っているトランスジェンダーで、普通ではない人間だ。
私みたいな人間が普通の社会人として生きることで軽蔑や好奇の視線に晒されることはわかっていた。わかっていて、覚悟を決めて学校の養護教諭として働くことを決めたつもりだった。でも、今心が折れそうだ。すべてを投げ捨てて逃げ出してしまいたくなる。
高校の養護教諭を志望したのは、大人よりも学生の方が色眼鏡で見ないと思ったからだ。
広く周知されているLGBTに最近はQIAがプラスされるようになり、いろんな性的指向、性自認が肯定されつつある。行き場のなかったマイノリティーに居場所のような名前がつき、それはいろんなコンテンツで名前が上がるようにもなった。新たな視点をいつでもどこでも見聞きすることができる世界は、確実に生きやすさを膨張させている。
それらを後押しするのが若者で、学生たちだろう。生徒たちは、マイノリティーや多様性を、新しい漢字を覚えるように咀嚼する。それが嬉しかった。
私は確かに生徒たちに救われていた。私を女性として扱い、私のことなどお構いなしに自分のことをキラキラした目で話す生徒たちに勇気や元気を貰った。
でも、そういうものばかりではないことに私は少しずつ気づきはじめていた。
学校も所詮は大人たちが作り出している世界であり、ここが“特別”を“普通”にする世界だということを私は今さら思い出してしまった。
この学校は、人の凹凸をならそうとする場所だ。
「一学期はいろんなことがあり、心休まらない時間が多かったと思います。明日から夏休みに入りますが、くれぐれも自分の足を引っ張ることのないよう節度と常識を持って────」
こんな状況で、学校は夏休み期間に入る。
ちょうど一週間前、中津君も家庭裁判所へと送致された。
早速学校に家庭裁判所調査官が現れ、事件の背景や、加害者生徒の学校生活や素行を詳しく調査していた。調査の結果次第では、加害者生徒の反省や更生の意思、それらを明確に示すことができれば審判を受けずに不起訴処分になる可能性もあるらしい。
問題は、中津君だ。彼の行動心理は極めて悪質であり、審判は免れないだろう。
あれから私は中津君のことをずっと考えている。葛西先生に対する膨れ上がった憎しみは、どこからはじまったのだろうかと。
婉曲の言い方で生徒たちに圧をかけている校長先生の長話を聞き流していると、四組の担任をしている山城先生から「男乕先生」と小声で呼びかけられる。
「すみません、今佐倉一花の保護者から電話があって、終業式に出ると言って家を出たらしくもうそろそろ着く頃だろうと言われました。男乕先生、対応してもらえませんか。もし教室に来られそうであれば連絡がほしいです」
「わかりました」
対応を任され、私は静かに体育館を退室する。
盗撮騒動で疎かになっていたが、佐倉さんとも話をしなければいけないと思っていた。話すなら今日しかない。
意気込みが足に出る。気づけば、早足で廊下を歩いていた。
ふと廊下の窓に目を向けると、雨粒が窓を叩きはじめていた。十時頃から天気が崩れると、テレビの奥にいるお天気お姉さんが言っていたのを思い出す。
一瞬、雷が落ちたのかと思って足を止める。その雷が、誰かの悲鳴の声だと気づいたのは、もう一度廊下の奥から悲鳴が轟いたからだ。
すぐさま方向転換し、声のしたほうへと足を進めると、階段下で佐倉さんが口を開けて上を見上げていた。
「佐倉さん?」
声をかけると、佐倉さんはゆっくりと首を捻り私を視界に入れた。顔面蒼白だった。
嫌な予感が一気に全身を駆け巡る。動悸もしてきた。
走って来たせいで横髪は乱れていた。数あるコンプレックスの一つでもある骨ばった輪郭が露見していたが、気にせず佐倉さんに近づく。
佐倉さんが見つめていた先へと視線を配ると、階段の踊り場に女子生徒が横たわっているのを見つける。
「大丈夫ですか!」
慌てて駆け寄る。
階段から転倒したのか、女子生徒は左足を押さえながら悶絶の表情を浮かべていた。
出血箇所はない。骨折はしていないだろうか。すぐに病院に連れて行かなければ。冷静に、まずは落ち着いて。
「大丈夫ですからね。今、他の先生を呼んで……」
立ち上がると、目の端に人影がチラついた。さらに顔を上げると、階段上で誰かがこの光景を見下ろしていた。
「……依田さん?」
目を凝らす。視界を疑い、さらに目を細める。
それでも、彼女は立っていた。色のない目で私たちを静観していた。表情はいつもと変わらず読めない。
「───されたんです」
「……え?」
状況に困惑していると、蹲っている生徒が震える声を出した。ひどく怯えている様子から剣吞な雰囲気を感じ取る。
彼女は手をつき上半身を起こしながら、顔を捻って依田さんの姿を捉えた。そして、今度はしっかりと口にした。
「突き落とされたんです、あの子に」
息が乱れていた。彼女のか、私のか、もう何がなんだかわからなかった。
階段から転倒した生徒の名前は、閨谷伊月。彼女とは盗撮の被害者生徒として一度面談をしていて、面識があった。
立ち尽くす私に、閨谷さんの悶絶する声で引き戻される。
とりあえず措置をしなければ。
「佐倉さん、体育館にいる教員を誰でもいいので呼んできてもらえますか」
現在、生徒の目に付く場所を避けて出席している佐倉さんに頼むのは酷だが、頼める人が今は彼女しかいない。
一瞬、佐倉さんの不安の色が膨張するが、依田さんと閨谷さんを交互に見返し、佐倉さんなりにこの状況が深刻だと理解したのか覚悟を決めて頷いてくれた。
佐倉さんの慌ただしい足音が遠ざかるのを聞きながら、私は顔を上げ依田さんを捉える。
「あなたは動かないで。そこにいなさい」
はなから動くつもりなんてないのか、私をその場から見下ろすだけで一言も発さない。
数分経つと、複数の足音が近づいてくる。
「男乕先生!」
数人の教員が姿を見せ、私たちを取り囲むように駆け寄ってくる。
閨谷さんにちゃんとした意識はあるが、頭を打った可能性を懸念して救急車を呼ぶことにした。十分も経たずしてサイレンの音は消した救急車両が学校内に入って来る。終業式まで騒ぎになるのを避けたい教員の配慮だろう。
私も同行し、車内で足の様子を見せてもらった。押さえていた箇所はすでに腫れ上がっており、捻挫の軽傷では済まないことが見てとれる。
救急車から下りると閨谷さんはすぐに病院内に運び込まれ、診察が行われる。
症状は足首の骨折と言われ、全治三か月の診断を受ける。痛みは足首にしか表れていない様子だったが、階段からの転倒ということもあり念のためMRI検査を行うことになった。不幸中の幸いで、脳や脊髄といった場所からの異変は見られずに日帰りでの処置で済んだ。
やがて処置が終わった閨谷さんが現れ、一緒に待合室で待機することになった。
一緒に同行した閨谷さんの担任は、学校への報告と彼女の保護者への連絡で長らく席を外している。
「明日から夏休みなのに、最悪なんだけど」
閨谷さんは固定具と包帯で巻かれた足を見下ろしながら気落ちしていた。
「閨谷さん、さっき階段下で言っていたことは本当なのですか?」
確かに閨谷さんは『突き落とされた』と依田さんを見ながら言っていた。あの構図と光景を見れば、依田さんが閨谷さんを突き落とした判断せざるを得ないが、本人も大きな動揺と痛みで混乱していた可能性もある。確認のためもう一度訊ねたのだが、彼女の気に障ったのか舌打ちで返される。
「まさか、私が嘘ついているって言いたいんですか」
「そういうことではなくて、詳しく聞きたいのでまずは状況の確認をと思い……」
「だからさっきも言ったじゃん。あの女に突き落とされたんだって」
明らかに彼女の機嫌は悪かった。そもそも彼女は私の存在を疎ましく思っている一人だ。
今ここで訊くのは得策ではないかもしれない。また日を改めた落ち着いた状態の時に訊ねるべきでは。……ああ、わからない。
私が迷っている間にも、閨谷さんは話をつづける。
「突然呼び出されて、なんか変なこと言われたからムカついて言い返したら急に背中を押されたの。マジ意味わかんないんだけど」
「変なこと?」
「なんか……櫻間真織を殺したのは私なんじゃないかって」
「……え?」
物騒な言葉が飛んできて耳を疑う。
「ど、どうして、依田さんがそんなことを?」
「知らないし。櫻間さんとは一年の頃同じクラスだったけど、全然話したこともなかったしそもそもグループも違ったんで、マジは?って感じですよ。てか、櫻間さんって事故だったんですよね。あの子頭大丈夫ですか?それに、なんで私が犯人扱いされないといけないんですか」
閨谷さんは当然怒っていた。彼女の言っていることが本当だしたら、腹が立ってあの場で言い返したくなる気持ちもわかる。でも、あの怜悧な依田さんが言い返されて頭に血が上ったからという理由で、閨谷さんを故意で突き落とすとは思えない。私が見てきた今までの依田さんは、鋭くて危うい雰囲気を持っていたが、常に冷静に客観視できる子だった。
「依田さんは、他に何か言っていませんでしたか?」
「……知らない。何か言っていた気もするけどムカついててあんまり憶えてない」
「そうですか」
「櫻間さんが亡くなったあと、櫻間さんの引き出しに遺書が入っていたんですよね?それを読み上げたのは依田さんだって他の子から聞きました。それで、気が動転しているんじゃないんですか。事故だと言われていたのに、遺書見つかって自殺だったって知ったから。依田さん、櫻間さんと仲良かったから自殺だって思いたくないんですよ。誰かが殺したって思っていたほうが救われるんじゃないですか」
脳が大きく揺れ動いているかのような混乱状態に陥っていた。
閨谷さんの発言が右から左へと流されていくのを必死で追っている中で、いろいろおかしい事実が紛れ込んでいることに気づく。なんとか拾い上げ、私は一旦冷静になるためその疑問を飲んだ。
まず、遺書ではなく手紙だ。これは、事実とは異なる形をして噂になっていることは教員も知っていたが、私たちは手紙のこと自体を表沙汰にするつもりはなく、櫻間さんを静かに送ってあげるべきだとしてわざわざ噂の否定はしていなかった。閨谷さんが勘違いしているのは仕方ないことだ。そこが問題ではない。その先だった。
「ほら、悲しみより怒りのほうが生きる原動力になるって聞くし。可哀想な話ですけど」
閨谷さんはペラペラと依田さんに対しての同情心を語っていた。私は、それを聞き流しながら静かに回顧していた。
以前、私は依田さんと櫻間さんとの関係について訊ねたことがあった。依田さんは、曇りなき目で『ただのクラスメイトです』とハッキリ答えていた。さらに『仲がいいとは言えないと思います』と付言し断固として否定していた。
あれは嘘だったというのか。私はまた、依田さんの手のひらで転がされていたのか。
「本当にどうして閨谷さんを疑ったのでしょうか」
引っかかる疑問は一つや二つじゃない。
そもそも、どうして閨谷さんだったのだろう。彼女が怪しいと裏付ける証拠でも持っているのか。
「……知らないですよ、そんなの」
私の漠然とした疑問に、閨谷さんは自分の顔を隠すように俯いて答えた。
数分経って、担任と一緒に閨谷さんの保護者が現れた。娘の怪我を心配して気が動転している保護者を必死に宥め、事故の経緯を説明するべく一旦病院の外に出る。
今回の騒動について担任が話始めようとした矢先、閨谷さんが先行して口を開いた。
「階段で踏み外して落ちたの。その近くに人がいただけで、別に喧嘩とかして揉み合って落ちたわけじゃないよ。お母さん、もう疲れたから帰りたい」
先ほど話してくれた事実とは異なることを閨谷さんは口にした。
「閨谷?」
「先生たちも病院への送迎ありがとうございました。じゃあ、また二学期に」
納得していない親を置き去りにして、閨谷さんは慣れない松葉杖で歩きはじめる。
「すみません、帰ってから本人と話してみます」
今日のところはこれで、と慌てて娘の後を追う保護者に私たちは戸惑いながらも一礼した。
依田さんのことを庇ったわけではない。閨谷さんは間違いなく依田さんに怒りを覚えていた。突き落とされたことが本当なら、怒りに任せ言及するはずだ。それをせずに曖昧に濁した。その行為はあまのじゃくで、私たちはさらにわからなくなった。
学校に戻り、その後の依田さんの状況を他の教員に訊ねると、彼女は一貫して「突き落としていない」と主張していたことを聞く。双方の主張が食い違っていた。
教員は他にも質問を投げかけたが、口を縫い付けられたかのように開かなかったという。
しばらくして依田さんの保護者も顔を出し、教員と同様な質問を訊ねるも彼女は黙秘を貫いた。これでは時間だけが過ぎ埒が明かないので、依田さんの方でも一旦家族と話し合う方向で問題を持ち帰ってもらい、今日のところはなんとか無理やり収めたらしい。
「山城先生、佐倉さんは?」
状況が切迫していて、すっかり頭から抜けていた佐倉さんの存在を思い出したのは一息ついた時だった。
「とても動揺している様子だったので、今日は帰らせました」
「そうですか」
また後回しになってしまった。……いや違う、後回しにしてしまったんだ。
「男乕先生もお疲れだと思うので、少しお休みになっては?」
「お気遣いありがとうございます」
職員室を後にし、保健室に戻ってくる。
椅子に腰かけると、長い息が洩れた。思ったより自分の心が憔悴していることに気づく。
ピコン───。
その時、スマホからはカレンダーに入れていた予定の通知が鳴る。
【18時 クリニック】
よりによって今日か、と落胆する。
二週間に一回、私は自分を新たに形成している。私の一部が抜けていくわけでも、足元から崩れていっているわけでもない。ただ、そうしなければ他人に認めてもらえない気がするからだ。
退勤後、学校からそのまま車で直行し通院しているクリニックに向かった。
いつもの定期診察を終え、お腹に注射をするだけで病院での用事は終わる。
「お疲れみたいですね」
看護師にも指摘されるほど、今の私の顔はひどく疲れ切っているらしい。
「女性ホルモンを注射したあとは精神的にブレてしまう方もいらっしゃるので、この後はゆっくりしてよく眠って下さい」
「はい、そうします」
素直に頷き、捲ったブラウスの裾を丁寧にズボンにしまった。
会計を済ませ、もうお互い見慣れた受付の人に会釈をしてから病院を後にする。
車内に乗り込み、エンジンをかける。ハンドルを持つが、アクセルは踏めない。頭が重たくてハンドルに額を乗せると顔を上げられなくなった。その状態で、吐き切れなくなるまで息を吐く。みるみる濁っていく。重たい煙のような空気が車内に充満する。
────『先生に、私たちの気持ちがわかるとは思えないです。だって先生は、元々特別枠の人間じゃないですか』
頭を空っぽにすると、面談中に言われた閨谷さんの言葉が浮かび上がる。
誰かが川に落としてしまったボールのように、知らぬ存ぜぬでプカプカと浮いている。誰かに拾われることもなく、破裂して消えてなくなることもない。
“特別枠”というのは、閨谷さんで言う“普通ではない人”ということだ。
間違っていない。私は男として産み落とされ、今は女性という形を医療に頼ってなんとか輪郭を模っているトランスジェンダーで、普通ではない人間だ。
私みたいな人間が普通の社会人として生きることで軽蔑や好奇の視線に晒されることはわかっていた。わかっていて、覚悟を決めて学校の養護教諭として働くことを決めたつもりだった。でも、今心が折れそうだ。すべてを投げ捨てて逃げ出してしまいたくなる。
高校の養護教諭を志望したのは、大人よりも学生の方が色眼鏡で見ないと思ったからだ。
広く周知されているLGBTに最近はQIAがプラスされるようになり、いろんな性的指向、性自認が肯定されつつある。行き場のなかったマイノリティーに居場所のような名前がつき、それはいろんなコンテンツで名前が上がるようにもなった。新たな視点をいつでもどこでも見聞きすることができる世界は、確実に生きやすさを膨張させている。
それらを後押しするのが若者で、学生たちだろう。生徒たちは、マイノリティーや多様性を、新しい漢字を覚えるように咀嚼する。それが嬉しかった。
私は確かに生徒たちに救われていた。私を女性として扱い、私のことなどお構いなしに自分のことをキラキラした目で話す生徒たちに勇気や元気を貰った。
でも、そういうものばかりではないことに私は少しずつ気づきはじめていた。
学校も所詮は大人たちが作り出している世界であり、ここが“特別”を“普通”にする世界だということを私は今さら思い出してしまった。
この学校は、人の凹凸をならそうとする場所だ。


