翌日以降、私の生活に不安と恐怖が混ざり始めました。
 例のお辞儀をする男とたびたび遭遇するようになったのです。
 場所は大学や自宅周辺、スーパー、映画館、ショッピングモール等、特に規則性はありません。
 男はふとした瞬間に遠くに立っており、こちらに背を向けて頭を揺らしているのです。

 気になるのは、男がだんだんと私に近付いていることでしょうか。
 常に距離が短くなっているわけではないのですが、たまに十メートルほどの場所にいたりするのです。

 さすがに怖くなった私は、大学で日奈子に相談しました。
 日奈子は眉間に皺を寄せて唸ります。

「やばいね。警察に相談した?」

「したけど今の時点では動けないって」

「何それ。全然役に立たないじゃん」

 日奈子は不満そうに頬を膨らませて、ため息を吐きました。
 それから彼女は気を取り直して私に尋ねます。

「どれくらいの頻度で遭遇するの?」

「三日に一回くらい……? 一日に何回か会う時もあるけど」

「うっわ、完全に監視されてるね。それで警察が動かないんだ」

「実害が出ていないから厳しいって」

「何のための警察だよ」

 頬杖をつく日奈子は、足をばたばたと動かしてテーブルに突っ伏しました。
 それから顔だけ私に向けて提案します。

「危なそうだし、うち泊まる?」

「いやいや、迷惑だよ。日奈子に危害がいくかもだし」

「あたし空手やってたから返り討ちにするよ。このまま何もしない方が心配だからさ、ね?」

「うーん……」

 日奈子を巻き込むのは躊躇しましたが、これ以上一人でいるのが不安だったので、私は彼女の提案に甘えることにしました。
 夕食後、日奈子の家に一緒に帰りました。
 気を紛らわせるため、ゲームをしながら時間を潰します。
 途中、日奈子がニヤニヤしながら言います。

「ホラー映画でも観る?」

「さすがに今はちょっと……」

「だよねー」

 いつの間にか日付が変わっていたので、私達は布団に入りました。
 ゲームの途中から酒を飲んでいたせいか、日奈子はすぐに寝息を立て始めました。
 私はというと、少し目が冴えてしまい、なかなか寝付けません。
 物音で日奈子を起こしてしまうのも申し訳ないため、じっと天井を見つめたまま眠気が来るのを待っていました。

 布団に入って三十分が経過した頃でしょうか。
 ベランダ側の窓から何かがぶつかる音がしました。
 その音は一定の間隔で鳴り続けています。
 私は布団を頭で被ると、イヤホンを着けて大音量の音楽で誤魔化して眠りました。

 そして翌朝。
 私は少し焦った様子の日奈子に起こされました。

「ねえ、美琴。起きて。起きてってば」

「何? どうしたの」

「窓。見て」

 日奈子がベランダのカーテンを開けました。
 窓の一か所に小さな亀裂が入り、少量の血が付いていました。
 私はその光景に固まってしまいました。

(昨日の音って……)

 日奈子は窓を開けてベランダを確認した後、自信なさげに呟きました。

「カラスとか雀がぶつかったのかな、たぶん。死骸は落ちてないけど」

 私の脳裏を過ぎったのは、例のストーカーです。
 でもそれは絶対にありえません。
 日奈子の部屋はマンションの七階にあるからです。
 人間がベランダまで侵入するのは困難でしょう。

 結局、明確な答えが出ることなく、私達は大学に向かいました。
 電車に揺られる間、頭の中では昨晩の窓の音が延々と繰り返されていました。