天才棋士との結婚――そして苦悩

 その翌日。

 「僕は、将棋をする資格はない。将棋をさぼるとはそう言う事なんだ」

 そう、呟いた彼はそのまま「僕は将棋をしなければならない」そう言ってまた行こうとする。だけど、行かせることが出来ない。

 「ああ、僕は僕は僕は僕は!!!!!!!!!!」

 彼は一思いにに自身の腕を噛み、そのまま壁に頭をぶつけていく。これはまずい。
 やはり、鬱感情が壮大化している。
 数日間、落ち着いていた。
 だから少し安心していたけど、やっぱり辛いんだ。

 「勇人君!!」

 私は彼の手をがしっとつかんで、後ろに回して拘束する。

 「勇人君は何も悪くないんだよ。そう、何も悪くないんだよ」
 「でも、僕は……」

 あくまでも、言い訳を始めようとする彼に対して、昨日美晴から教わった弁論を試みる。
 もう、勇人君が自分を責めるのは見たくないのだから。

 勇人君は何も悪くない。


 「いや、それは違う」

 だが、伝え終わった後、はっきりと否定された。

 あれ、美晴。話が違うよ。

 「僕はただの社会人とは違うんだ。僕は、ファンから間接的にお金を得ている。ファンが新聞を買い、その新聞社やニュースが僕に連盟を通じてお金を払う。そう、考えたら僕は辞められないんだ」

 それは違う。絶対に違う。

 「それは違うよ、勇人君。それを言ったらブラック企業の社員が上司が辞めないでと頼んでいるから辞められないと言っているのと似たようなものだよ。勇人君最優先でいいんだよ。何より私は苦しんでいる勇人君は見たくない」
 「いや、僕は待っている人たちのためにも辞める訳にはいかない」

 埒が明かない。

 「はあ、もういいわ!」

 私はそう言ってそばのスマホで羽田さんに連絡した。美晴でもいいが、内情をよく知っていて共通の友人である羽田さんの方が適切だと判断した。
 羽田勲という、勇人君が時代を作る前の一時代を気づいていた元最強の棋士に。

 彼なら、今の勇人君が担ってる苦しみをきっと分かってくれるだろう。

 すぐに、羽田さんは出てくれた。
 連絡するのは久しぶりだったから少し怖かったけど、すぐに出てくれてよかった。


 「彼が心配なんです。私は彼をもう助けることが出来ない」

 すぐにそう言った。そして、「彼は、一人で暗い部屋でじっとしていたりとか、発狂したりとかして、兎に角心配です」

 それ鵜を聞き、羽田さんが「ほう」と言った。

 「という事は前回の欠場は」
 「精神的にやばかったので、私が止めました」

 もう彼は正気じゃない。このままだとメンタルが壊れる。
 彼には将棋以外の道だってあるはずなのだ。

 「私が行こう」

 そう、羽田さんは強く言った。

 そう、羽田さんが家に来ることを約束した。その日も欠場の連絡をして、彼を休ませた。

 すぐさまニュースになった。渡部八冠、またまた欠場。体調不良がそこまでひどいのかというニュースだ。SNSを見るとまたもや勇人君を苦しめそうなニュースが書いてある。

 (体調管理すらできないなんて、なんてプロだ。引退しちまえ)(どうせ、仮病だろ)(こいつ、将棋が面白くないんだよ。八百長疑惑あったし)(他の棋士に失礼だろ)(この前八尾崎七段は体調不良でも来てたし、インフルじゃなかったら来れるだろ)(体調悪いなら、そのままタヒんでくれ)そんな投稿が多々ある。こんなの彼には到底見せられないなと思った。

 勿論、勇人君を応援する声が多数派だが、勇人君を中傷する投稿にもそこそこのいいねがついていて、見ていて気分が悪い。吐きそうになった。


 そんな中、羽田さんが来た。
 私たちの家に。

 「失礼するよ」

 そう言いながら家の中に入ってくる。そして、勇人君を見た瞬間彼は驚きの表情をしていた。

 今の勇人君は、活力にかけている状態だ。

 羽田さんはすぐに一言「決めなければならないね」と言った。

 「君が、将棋界を引退するか、それか我慢しながらずっとプロの世界で戦っていくかだ」

 その言葉は冷たく感じた。そばで聞いていた私にとっても。

 「私は君を責めているわけじゃない。ただ、半端じゃダメなんだ」

 そう、楽になるには決めるしかない。

 半端では苦しいだけだ。そう羽田さんは言いたいのだろう。
 将棋をやるにしても、将棋以外の道は閉ざさないといけないし、将棋をやめるにしても、正式にやめるという事を申し出ないといけない。
 その選択は、必須なものとなる。いくら、勇人君がそれを拒んだとしても。
 重くのしかかってくるのだ。

 「この問題は君の問題だ。私には何もしてやることが出来ん。私はカウンセリングの先生じゃないからな。確かに将棋界は苦しく孤独な世界だ。野球やサッカーのようにチームメートなどいない。周りの人全員が敵。君の気持ちは分かる。ただ、君と私は違う。だからこそ、君は決断せねばならない」

 その言葉に勇人君は黙り込んだ。

 「言っておくが、引退は逃げではないからな」
 「……それは分かっています」
 「だから今ここで選ぶんだ。少なくとも」

 そう、名人戦が始まってしまったら面倒くさいことになるだろう。
 名人戦中に引退を決意しても、それはすぐには申し出れなくなる。

 名人戦中に引退宣言すると、名人戦が無に帰す。
 それを避けるため。いや、もう遅いかもしれない。
 けれど、早い方がいいのは、間違いないだろう。


 「さて、私は別の部屋に行く。今日の六時までに結論を出してくれ」

 そう言って羽田さんは私に一言告げて、客間に行った。
 自分がいない方が、決断がしやすいとでも考えたのだろう。

 「どうしたらいいんだ?」

 そう、私を見て勇人君が呟く。

 「僕は将棋を引退した方がいいのか?」

 勇人君が私の肩をがしっとつかむ。その顔からは焦っている様子が見受けられる。

 「僕は、僕は、僕は、僕はあ!!」

 先程までの押し黙った状態から、発狂モードに入った。

 「勇人君落ち着いて。勇人君はどう思ってるの? これですべてが決まるわけじゃないから、とりあえず今の自分の気持ちを聞かせて?」
 「僕は……僕は……将棋を辞めたい。もう、将棋をしたくないんだ」

 そう、苦しい顔で言う勇人君。

 「っでも、僕が辞めたら逃げという人が出てくるんじゃないか? さらに叩かれるんじゃないか? 僕を育ててくれた将棋界への裏切りになるんじゃないか? そう思うと怖いんだ」

 そう、勇人君は口早に言う。

 「なら辞めたらいいじゃん。もう、そんなアンチの声も辞めたらすぐに収まるよ。大丈夫。私がついてるから!!」

 そう勇人君を抱き寄せると、勇人君は泣きながら、「僕は、将棋をしなくてもいいのか? 僕は将棋をやめてもいいのか?」そう呟いた。
 私はしがみついてくる彼の頭を優しく撫でた。

 「大丈夫だよ。羽田さんもああいってくれてる。だから、もう大丈夫。私と一緒に普通の生活をしよ?」

 それに対して彼はただ、頷いた。

 「結論が出ました」勇人君は羽田さんに力強く、「僕は将棋界を引退します」そう言った。
 勇人君がそう言い切った瞬間、気のせいか彼の表情が明るくなった気がした。

 「そうか……」そう呟いて「私から言っておこう」

 そして、その二日後、「渡部八冠引退」そのニュースがほとんどのニュース紙で一面となった。
 そして、多くのSNSでトレンド入りを果たした。
 私は軽くSNSを触った。そこの意見は賛否両論と言ったところだった。

 勇人君を心配する声や、その逆。勇人君を中傷する声もあった。

 一応表側では、持病の悪化という事にしてある。
 過去に、腰や膝が痛く、欠場を繰り返す棋士や、脳卒中で余儀なく引退をさせられた棋士もいる。

 しかし、アンチの声は大きい。

 名人戦数日前に引退とはどういうことだという声が。

 (A級順位戦の中頃に言ってたら、特別措置ができたかもしれないのに)とか(なんか。怪しくね)とか、そんなものが。

 一応引退理由は嘘ではある。
 誹謗中傷を避けるためだ。

 しかし、やはり悪口は止まらない。
 きっと彼らは、誰かを叩きたいだけだろう。

 これは勇人君には見せられない。見せられるはずがない。
 私はそれからしばらく勇人君に寄り添う。
 一人にさせてはいけない。そう思ったからだ。
 引退したからといって、完全に気分が落ち着くとは限らないのだから。