あまりの衝撃に、その場にしゃがみ込んだ佐和子は、編集部員たちが片付けをするのを、ただ茫然と眺めていた。
マイケルをけしかけて佐和子を襲った神野悪五郎は、一撃の元に消え、今は静寂が戻ってきている。
永徳は多くを語らず、マイケルをともなって部屋の奥に向かっていった。
「驚いたわよね」
「刹那ちゃん……」
気遣わしげな表情で佐和子の手を引き、立たせてくれた彼女は、未だ血飛沫が残る場所から連れ出し、清涼な風が吹く縁側へと誘導してくれた。
「人間を蔑んでいた神野悪五郎は、知らなかったのね。編集長の方が山本五郎左衛門様より強いってこと」
「山本五郎左衛門さんより?」
「人間とあやかしの混血って強いのよ。純粋なあやかしよりもね。さらにあやかしの頭領の血を継いでるわけだから、たぶん、編集長よりも強いあやかしは存在しないでしょうね」
「そう、なんだ……」
「鳥海さん」
いつもの穏やかな口調に戻った永徳が、佐和子の名を呼ぶ。
「今日はこのまま家に帰ったほうがいい」
振り返った先にいたのは、普段と変わらぬ永徳だ。だが、彼のおそろしいあやかしとしての一面を見た今、どうしても表情がこわばってします。
「でも……」
それでもまだ仕事が残っているという思いから、帰ることを否定しようという自分がいた。
「ヴァンパイアが一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいいから……とにかく今は、この場を離れていてほしい」
——人間の血の味……。
先ほどの出来事がフラッシュバックする。
悪五郎に向けられた悪意、殺された人間の血液、マイケルの鋭い牙、食糧として狙われる恐怖。
そして、いとも簡単に悪五郎を消してしまった永徳の力。
指先が冷え、自分の意思とは関係なく体がカタカタと震え出す。
「わかり……ました……」
そのひと言を絞り出すのがやっとだった。
「家まで送るよ」
永徳に肩を貸され、よろよろしながら立ち上がる。
外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。
「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」
「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」
「人間を雇う上で、必要な安全策は講じていたつもりだったんだけど……不十分だった。本当に申し訳ない」
「笹野屋さんが謝ることはなにもありません。私こそ悪五郎さんに襲われた時のこと、報告を怠ってしまい、申し訳ありませんでした……」
お通夜のような沈黙が続く。のどかな街の風景は、あまりにも直面した恐怖とチグハグで。佐和子は夢でもみているのではないかと、自分の頬をつねりたい衝動に駆られた。
「鳥海さん」
「なんでしょうか」
彼は佐和子の方には目を向けず、正面を見たまま、自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだったね」
「……はい」
「でもひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していった」
「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」
「君はヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」
「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」
褒められたことがむず痒くて。恐怖で温度を失っていた頬に、少しだけ赤みが戻る。しかし。
「ただ、あやかしの世界で仕事をするには、やはりさまざまな困難がある。ふたたび命の危険に晒される可能性が、まったくないとは言い切れない」
不穏な言葉選びに、まさか、というおそれが胸を締め付ける。
「……それは、そうですね」
永徳が言わんとすることが、わかってしまう。言いにくそうにする彼の様子を、ただただ見守り、言葉を待つ。
「鳥海さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい? あえてあやかしの世界にとどまる理由は、もうないんじゃないかな」
歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げる。
話の流れから、予測はしていた。
目の当たりにしたことは、未だ消化しきれず、怖いという気持ちもある。
だがその一方で、あやかし瓦版での仕事が、佐和子にとってやりがいのある仕事なのは変わらない。
モヤモヤした気持ちと、寂しい気持ちと、悔しい気持ちがないまぜになる。
——「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。どうして今になって、そんなことを言うんですか?
「私がいなくなっても、問題ないってことですか」
思わず、反抗するような態度をとってしまう。口にしてしまったことを後悔したが、一度出た言葉は引っ込めることができない。永徳の言い分はわからなくもない。優しい彼のことだから、佐和子の身を案じての発言だというのも理解できる。それでも永徳の言葉は、深く佐和子を傷つけた。
「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽みたいな事業なわけだから」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになる。
自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。そう言われてしまった気がして。
『君が辞めたら困る』
いつか自分の今後について相談するときが来たとしたら。佐和子は、永徳にそう言ってもらえることを心のどこかで期待していた。
自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。
「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」
——ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。
「そうか」
「でも……あの」
「やってみたい仕事なのかい?」
「興味が、ある仕事……ではあります」
——私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。
「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」
「引き止めて、くれないんですか」
駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。
——だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。婚約者だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今、そんなふうに、突き放そうとするんですか。
佐和子は心の中でそう叫んだ。
しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。
「君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」
いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。
「……そうですよね」
——どうしよう。
「おっしゃる通りだと思います」
——泣きそうだ。
「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ」
藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまう。取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。
マイケルをけしかけて佐和子を襲った神野悪五郎は、一撃の元に消え、今は静寂が戻ってきている。
永徳は多くを語らず、マイケルをともなって部屋の奥に向かっていった。
「驚いたわよね」
「刹那ちゃん……」
気遣わしげな表情で佐和子の手を引き、立たせてくれた彼女は、未だ血飛沫が残る場所から連れ出し、清涼な風が吹く縁側へと誘導してくれた。
「人間を蔑んでいた神野悪五郎は、知らなかったのね。編集長の方が山本五郎左衛門様より強いってこと」
「山本五郎左衛門さんより?」
「人間とあやかしの混血って強いのよ。純粋なあやかしよりもね。さらにあやかしの頭領の血を継いでるわけだから、たぶん、編集長よりも強いあやかしは存在しないでしょうね」
「そう、なんだ……」
「鳥海さん」
いつもの穏やかな口調に戻った永徳が、佐和子の名を呼ぶ。
「今日はこのまま家に帰ったほうがいい」
振り返った先にいたのは、普段と変わらぬ永徳だ。だが、彼のおそろしいあやかしとしての一面を見た今、どうしても表情がこわばってします。
「でも……」
それでもまだ仕事が残っているという思いから、帰ることを否定しようという自分がいた。
「ヴァンパイアが一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいいから……とにかく今は、この場を離れていてほしい」
——人間の血の味……。
先ほどの出来事がフラッシュバックする。
悪五郎に向けられた悪意、殺された人間の血液、マイケルの鋭い牙、食糧として狙われる恐怖。
そして、いとも簡単に悪五郎を消してしまった永徳の力。
指先が冷え、自分の意思とは関係なく体がカタカタと震え出す。
「わかり……ました……」
そのひと言を絞り出すのがやっとだった。
「家まで送るよ」
永徳に肩を貸され、よろよろしながら立ち上がる。
外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。
「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」
「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」
「人間を雇う上で、必要な安全策は講じていたつもりだったんだけど……不十分だった。本当に申し訳ない」
「笹野屋さんが謝ることはなにもありません。私こそ悪五郎さんに襲われた時のこと、報告を怠ってしまい、申し訳ありませんでした……」
お通夜のような沈黙が続く。のどかな街の風景は、あまりにも直面した恐怖とチグハグで。佐和子は夢でもみているのではないかと、自分の頬をつねりたい衝動に駆られた。
「鳥海さん」
「なんでしょうか」
彼は佐和子の方には目を向けず、正面を見たまま、自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだったね」
「……はい」
「でもひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していった」
「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」
「君はヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」
「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」
褒められたことがむず痒くて。恐怖で温度を失っていた頬に、少しだけ赤みが戻る。しかし。
「ただ、あやかしの世界で仕事をするには、やはりさまざまな困難がある。ふたたび命の危険に晒される可能性が、まったくないとは言い切れない」
不穏な言葉選びに、まさか、というおそれが胸を締め付ける。
「……それは、そうですね」
永徳が言わんとすることが、わかってしまう。言いにくそうにする彼の様子を、ただただ見守り、言葉を待つ。
「鳥海さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい? あえてあやかしの世界にとどまる理由は、もうないんじゃないかな」
歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げる。
話の流れから、予測はしていた。
目の当たりにしたことは、未だ消化しきれず、怖いという気持ちもある。
だがその一方で、あやかし瓦版での仕事が、佐和子にとってやりがいのある仕事なのは変わらない。
モヤモヤした気持ちと、寂しい気持ちと、悔しい気持ちがないまぜになる。
——「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。どうして今になって、そんなことを言うんですか?
「私がいなくなっても、問題ないってことですか」
思わず、反抗するような態度をとってしまう。口にしてしまったことを後悔したが、一度出た言葉は引っ込めることができない。永徳の言い分はわからなくもない。優しい彼のことだから、佐和子の身を案じての発言だというのも理解できる。それでも永徳の言葉は、深く佐和子を傷つけた。
「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽みたいな事業なわけだから」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになる。
自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。そう言われてしまった気がして。
『君が辞めたら困る』
いつか自分の今後について相談するときが来たとしたら。佐和子は、永徳にそう言ってもらえることを心のどこかで期待していた。
自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。
「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」
——ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。
「そうか」
「でも……あの」
「やってみたい仕事なのかい?」
「興味が、ある仕事……ではあります」
——私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。
「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」
「引き止めて、くれないんですか」
駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。
——だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。婚約者だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今、そんなふうに、突き放そうとするんですか。
佐和子は心の中でそう叫んだ。
しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。
「君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」
いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。
「……そうですよね」
——どうしよう。
「おっしゃる通りだと思います」
——泣きそうだ。
「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ」
藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまう。取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。
