おそるおそる薄目を開ける。目に入ってきたのは薄墨色の羽織の袖。視線をそのまま上に上げれば、山高帽を被った癖のある黒髪が目に入る。
「笹野屋さん、どうしてここに」
見れば彼はトンカチを持った河童の腕をしっかりと掴んでいる。雪崩の如く倒れてきたはずのあやかしの一団は忽然と消えていて、なぜか土俵下で皆尻もちをついていた。
——これは、笹野屋さんが能力を使ったの……かな?
「お陰様で……ありがとうございます。あっでも、宗太郎さんが」
「おや、宗太郎に何かあったのかい?」
そう言いながら、永徳は華麗に関節技を決めると、河童の腕を後ろ手に捻り、動けないようにした。身長は高いが、黒羽のように恵まれた体躯はしていない。どこにそんな力を隠し持っていたというのだろうかと、事情を説明しつつも、あまりに軽々と河童の体の自由を奪った永徳の姿に感心していた。
「なるほど。尻子玉を抜かれたのか。たぶんこいつの仕業だろうな。どれどれ」
「放しやがれ! い、いてててて!」
「君は黙っていたほうが得だと思うね」
永徳は河童が腰につけていた巾着の中を探ると、緑色の玉を取り出した。どうやらそれが尻子玉らしい。
「尻子玉っていうのは、河童が悪戯で体から抜くと言われているものでね。これを抜かれると、腑抜けになって動けなくなってしまうのだよ」
永徳の解説で、ようやく尻子玉について理解した佐和子は、大きく頷いた。
「なるほど。それで、宗太郎さんは体が動かなかったんですね……」
「なんだ、なにがあったんだ」
周りの群衆から頭ひとつ分大きな黒羽が顔を出した。どうやら佐和子がなかなか戻ってこないのを心配して追ってきたらしい。
「黒羽。君はここでなにをしているんだい」
「相撲見物に来ていたのだが。我の婚約者殿が困っていたようだったのでな。ちと手助けをしておった」
「聞き捨てならないね。鳥海さんは『俺の』婚約者だよ」
両者の背後からモヤのようなものが立ち上る。これが妖気というものなのだろうか。ビリビリとした空気感に気圧されつつも、佐和子は慌てて仲裁に入る。
「あの! もうすぐ決勝戦がはじまりそうです。今の騒ぎでズレてしまったビデオカメラの位置も直さなきゃいけませんし、一眼レフでの撮影もしなければなりません」
「……ああ、そうだったね。ちょっと君に頼むのは気が進まないが、仕方がない。黒羽、鳥海さんを守ってやってくれ。また今みたいなことがないとも言えないし。俺は尻子玉を宗太郎に戻してくるよ。動けるようになれば、あとの撮影は宗太郎がやるだろう」
「あいわかった。戻ってこなくとも良いぞ」
永徳は佐和子から一眼レフを受け取ると、ちらちらとこちらを伺いながら、片手で襲撃犯を捕まえたまま、宗太郎のいる前列の方へ向かっていった。
直後、話し声で満ちていた会場がふたたびひとつになって歓声を上げた。潮騒と津野山が土俵に上がったのだ。それから間を置かずして、元気に動き回っている緑の甲羅が見えたので、どうやら宗太郎は復活したらしい。佐和子はほっと胸を撫で下ろし、試合の観戦に専念することにした。
力強い張り手と土俵際でのせめぎ合いを繰り返し、手に汗握る展開が続く。回しをとられてはとり返し、一瞬の油断も許されない勝負の行方は、もはや誰にも予想がつかない。
隙をついた潮騒が津野山の片腕をつかんで懐に入り込む。文句の付け所のない鮮やかな投げ技が、二人の勝負に決着をつけた。
紫色の座布団が舞う。割れんばかりの拍手喝采に答えるように、潮騒は勝利の雄叫びをあげた。
名勝負の余韻に浸り、満足げに観客が席をあとにする中、佐和子は深呼吸をする。
——なんとかなって、よかった……。
結局自分の力だけでは、どうにもならなかった。きっと黒羽が手伝ってくれなければ、上手に写真も撮れなかっただろう。永徳がいなければ、ビデオカメラも守れなかったし、最悪死んでいたかもしれない。
「なにを思い詰めた表情をしているのだ」
隣に立っていた黒羽にそう言われ、佐和子は苦笑いをする。
「いえ、頑張らなきゃな、と思っていただけです」
「あやかしの中にひとり飛び込んで、仕事をする人間など聞いたことがない。十分頑張っている方だと思うが」
「そんなことないんです……本当に未熟で」
「あまり思い詰めてもいいことはないぞ。困ったときは我を頼れ。いつでも力になる」
「あの、お気持ちだけ頂いておきます」
——早く一人前になって、実績を残さなきゃ。今度こそ、ちゃんと。
そんな思いが渦巻いて。追い立てるような焦燥感が胸の中を支配していた。
「今度こそ鶴見に会いにいく」と言い残し、黒羽は仲間達とともに去っていった。永徳は不届き者の河童を会場の警備員に突き出したあと、優勝者インタビューを終えた宗太郎とともに、佐和子のいる場所へ戻ってきた。
「宗太郎、鳥海さんになにか言うことがあるんじゃないか」
「……いや、その」
「もとはと言えば、君が蒔いた種だろう。あの河童に聞いたけど、去年の大会の場所取りのときにかなり横暴をしたみたいだね。仕返しをする方もする方だが、宗太郎も反省すべきところはあるだろう。そのせいで、鳥海さんは命を取られそうになったんだぞ」
いつも温厚な永徳の言葉には、怒りがこもっている。
「う……」
「さあ、宗太郎。鳥海さんに言うことは」
両手でカメラを握りしめ、俯きがちながらも。宗太郎は上目がちに佐和子の方を見て、言葉を絞り出す。
「……悪かったよ。俺のせいで怖い思いをさせて。あと……仕事を手伝ってくれて、助かった。……ありがとう」
こわばっていた肩から力が抜ける。その言葉を聞いて、佐和子は少しだけ報われた気がした。
「いいえ、どういたしまして。またお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃってください」
焦りはある。編集部員としてまだまだ学ばなければいけないことは多い。しかし不格好ながらも頑張ったことで、宗太郎と打ち解けるきっかけを作ることができた。また自分は、一つ前に進めたのだ。
「ところで鳥海さん」
「なんでしょう?」
「君、今根付を持っているかい?」
永徳に突然そう問われ、佐和子は慌ててポケットを探る。
「持っていますよ、ほら」
「ちょっと借りてもいいかい」
差し伸ばされた手のひらの上に、赤い縮緬をまとった貝の根付をのせる。永徳はまじまじとそれを観察したかと思うと、首を傾げる。
「これには守りのまじないをかけてあってね。鳥海さんに悪意を持って危害を加えようとするあやかしを退けるようにしてあるんだけど。将棋倒しが起きた時、なにも起こらなかった?」
笹野屋の屋敷の近くで、幽霊のような何かに襲われたときのことが思い出された。あのときは襲われそうになってすぐに熱を帯び、煙のようなものが飛び出したが。言われてみれば今回は熱くなる気配さえなかった。
「反応はなかったです。あれは観客が能動的に私を傷つけようとしたわけではなくて、想定外の事故ですから。それで何も反応がなかったんじゃないでしょうか」
「そう……だとすると、取材に行くペアは、よく考えないといけないなぁ。偶発的な事故にまで対応するような術はかけられないし。ごめんね、危ない目に合わせて」
「いえ、気にしないでください。人間世界の仕事だって、百パーセント安全な仕事なんてありませんし。多少の危険は覚悟の上です」
「君は本当に真面目だねえ。しかしもう少し自分を大事にしたほうがいい」
永徳はそう言って笑ったが、その表情には心配の色が残っている。
佐和子の視界の端、永徳の背中側で、カラスのように黒い服に、純白の頭髪を持ったあやかしが飛び去っていった。
「笹野屋さん、どうしてここに」
見れば彼はトンカチを持った河童の腕をしっかりと掴んでいる。雪崩の如く倒れてきたはずのあやかしの一団は忽然と消えていて、なぜか土俵下で皆尻もちをついていた。
——これは、笹野屋さんが能力を使ったの……かな?
「お陰様で……ありがとうございます。あっでも、宗太郎さんが」
「おや、宗太郎に何かあったのかい?」
そう言いながら、永徳は華麗に関節技を決めると、河童の腕を後ろ手に捻り、動けないようにした。身長は高いが、黒羽のように恵まれた体躯はしていない。どこにそんな力を隠し持っていたというのだろうかと、事情を説明しつつも、あまりに軽々と河童の体の自由を奪った永徳の姿に感心していた。
「なるほど。尻子玉を抜かれたのか。たぶんこいつの仕業だろうな。どれどれ」
「放しやがれ! い、いてててて!」
「君は黙っていたほうが得だと思うね」
永徳は河童が腰につけていた巾着の中を探ると、緑色の玉を取り出した。どうやらそれが尻子玉らしい。
「尻子玉っていうのは、河童が悪戯で体から抜くと言われているものでね。これを抜かれると、腑抜けになって動けなくなってしまうのだよ」
永徳の解説で、ようやく尻子玉について理解した佐和子は、大きく頷いた。
「なるほど。それで、宗太郎さんは体が動かなかったんですね……」
「なんだ、なにがあったんだ」
周りの群衆から頭ひとつ分大きな黒羽が顔を出した。どうやら佐和子がなかなか戻ってこないのを心配して追ってきたらしい。
「黒羽。君はここでなにをしているんだい」
「相撲見物に来ていたのだが。我の婚約者殿が困っていたようだったのでな。ちと手助けをしておった」
「聞き捨てならないね。鳥海さんは『俺の』婚約者だよ」
両者の背後からモヤのようなものが立ち上る。これが妖気というものなのだろうか。ビリビリとした空気感に気圧されつつも、佐和子は慌てて仲裁に入る。
「あの! もうすぐ決勝戦がはじまりそうです。今の騒ぎでズレてしまったビデオカメラの位置も直さなきゃいけませんし、一眼レフでの撮影もしなければなりません」
「……ああ、そうだったね。ちょっと君に頼むのは気が進まないが、仕方がない。黒羽、鳥海さんを守ってやってくれ。また今みたいなことがないとも言えないし。俺は尻子玉を宗太郎に戻してくるよ。動けるようになれば、あとの撮影は宗太郎がやるだろう」
「あいわかった。戻ってこなくとも良いぞ」
永徳は佐和子から一眼レフを受け取ると、ちらちらとこちらを伺いながら、片手で襲撃犯を捕まえたまま、宗太郎のいる前列の方へ向かっていった。
直後、話し声で満ちていた会場がふたたびひとつになって歓声を上げた。潮騒と津野山が土俵に上がったのだ。それから間を置かずして、元気に動き回っている緑の甲羅が見えたので、どうやら宗太郎は復活したらしい。佐和子はほっと胸を撫で下ろし、試合の観戦に専念することにした。
力強い張り手と土俵際でのせめぎ合いを繰り返し、手に汗握る展開が続く。回しをとられてはとり返し、一瞬の油断も許されない勝負の行方は、もはや誰にも予想がつかない。
隙をついた潮騒が津野山の片腕をつかんで懐に入り込む。文句の付け所のない鮮やかな投げ技が、二人の勝負に決着をつけた。
紫色の座布団が舞う。割れんばかりの拍手喝采に答えるように、潮騒は勝利の雄叫びをあげた。
名勝負の余韻に浸り、満足げに観客が席をあとにする中、佐和子は深呼吸をする。
——なんとかなって、よかった……。
結局自分の力だけでは、どうにもならなかった。きっと黒羽が手伝ってくれなければ、上手に写真も撮れなかっただろう。永徳がいなければ、ビデオカメラも守れなかったし、最悪死んでいたかもしれない。
「なにを思い詰めた表情をしているのだ」
隣に立っていた黒羽にそう言われ、佐和子は苦笑いをする。
「いえ、頑張らなきゃな、と思っていただけです」
「あやかしの中にひとり飛び込んで、仕事をする人間など聞いたことがない。十分頑張っている方だと思うが」
「そんなことないんです……本当に未熟で」
「あまり思い詰めてもいいことはないぞ。困ったときは我を頼れ。いつでも力になる」
「あの、お気持ちだけ頂いておきます」
——早く一人前になって、実績を残さなきゃ。今度こそ、ちゃんと。
そんな思いが渦巻いて。追い立てるような焦燥感が胸の中を支配していた。
「今度こそ鶴見に会いにいく」と言い残し、黒羽は仲間達とともに去っていった。永徳は不届き者の河童を会場の警備員に突き出したあと、優勝者インタビューを終えた宗太郎とともに、佐和子のいる場所へ戻ってきた。
「宗太郎、鳥海さんになにか言うことがあるんじゃないか」
「……いや、その」
「もとはと言えば、君が蒔いた種だろう。あの河童に聞いたけど、去年の大会の場所取りのときにかなり横暴をしたみたいだね。仕返しをする方もする方だが、宗太郎も反省すべきところはあるだろう。そのせいで、鳥海さんは命を取られそうになったんだぞ」
いつも温厚な永徳の言葉には、怒りがこもっている。
「う……」
「さあ、宗太郎。鳥海さんに言うことは」
両手でカメラを握りしめ、俯きがちながらも。宗太郎は上目がちに佐和子の方を見て、言葉を絞り出す。
「……悪かったよ。俺のせいで怖い思いをさせて。あと……仕事を手伝ってくれて、助かった。……ありがとう」
こわばっていた肩から力が抜ける。その言葉を聞いて、佐和子は少しだけ報われた気がした。
「いいえ、どういたしまして。またお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃってください」
焦りはある。編集部員としてまだまだ学ばなければいけないことは多い。しかし不格好ながらも頑張ったことで、宗太郎と打ち解けるきっかけを作ることができた。また自分は、一つ前に進めたのだ。
「ところで鳥海さん」
「なんでしょう?」
「君、今根付を持っているかい?」
永徳に突然そう問われ、佐和子は慌ててポケットを探る。
「持っていますよ、ほら」
「ちょっと借りてもいいかい」
差し伸ばされた手のひらの上に、赤い縮緬をまとった貝の根付をのせる。永徳はまじまじとそれを観察したかと思うと、首を傾げる。
「これには守りのまじないをかけてあってね。鳥海さんに悪意を持って危害を加えようとするあやかしを退けるようにしてあるんだけど。将棋倒しが起きた時、なにも起こらなかった?」
笹野屋の屋敷の近くで、幽霊のような何かに襲われたときのことが思い出された。あのときは襲われそうになってすぐに熱を帯び、煙のようなものが飛び出したが。言われてみれば今回は熱くなる気配さえなかった。
「反応はなかったです。あれは観客が能動的に私を傷つけようとしたわけではなくて、想定外の事故ですから。それで何も反応がなかったんじゃないでしょうか」
「そう……だとすると、取材に行くペアは、よく考えないといけないなぁ。偶発的な事故にまで対応するような術はかけられないし。ごめんね、危ない目に合わせて」
「いえ、気にしないでください。人間世界の仕事だって、百パーセント安全な仕事なんてありませんし。多少の危険は覚悟の上です」
「君は本当に真面目だねえ。しかしもう少し自分を大事にしたほうがいい」
永徳はそう言って笑ったが、その表情には心配の色が残っている。
佐和子の視界の端、永徳の背中側で、カラスのように黒い服に、純白の頭髪を持ったあやかしが飛び去っていった。
