咲希が暮らし始めた居室は、優しい作りものに満ちている。
 たとえば小さくて可愛らしい毬、格子模様の窓、ひな人形の小道具。どれも宮様が咲希に贈ってくれたものだ。
 咲希はそういった作りものの一つ一つに愛おしさを感じた。宮様の優しい人柄を映すように、宮の人々も穏やかな人たちで、咲希もそんな白嶺宮が好きだった。
 あるとき咲希は宮様と散策していて、足を止めた。
「ここも樹にまつわる手仕事をされているんですか?」
 宮様と儀式の合間、ゆったりと屋敷の中を歩くのが咲希の楽しみだった。
 宮様は微笑んで咲希に言う。
「そう。樹は僕の生涯の友なんだよ。入ってみる?」
 宮様にそう誘われて、咲希はのれんをくぐって庵の中に入った。
 そこは古びた庵で、座敷には小花細工の茶碗が置かれていた。入口は狭かったが奥行きはあるらしかった。
 庵の中は色とりどりの花で満ちていた。咲希が驚いたのは、そこが植物のことを知り尽くした温かさで、緑の蔓が鉢植えからあふれんばかりに伸びているところだった。
 季節はじきに夏で、植物に理想的な温かさが手伝ってか、咲希は肌ににじんでいく汗を感じた。
 宮様は咲希がうつむいたのに気づいたのか、心配そうにたずねる。
「咲希、暑い?」
「あ、いいえ」
 咲希は宮様を安心させるように笑おうとしたが、宮様はそっと咲希の額に手を当てる。
「熱はないようだけど、ずいぶん汗をかいているね」
「お、お手を汚して。ご、ごめんなさい」
 咲希は恥ずかしくなって離れようとした。けれど宮様は咲希の頬を手で包んで言う。
「謝ることなんかない。出ようか?」
「お心遣い、ありがとうございます……。大丈夫です、もう少し」
 咲希はうなずいて、一息つく。
 宮様はそんな咲希の様子を見ながら問いかける。
「最近、咲希は疲れやすい気がする。夜は眠れている?」
 その問いには、咲希はとっさに嘘をつくことができなかった。勘のいい宮様はその沈黙の意味に気づいたようで、目を細める。
 咲希はため息をついて言う。
「……夢を見るんです」
「どんな夢?」
「どこか遠い街で、周りの人たちに蔑まれながら病を抱えていて」
 つらい記憶のような夢に、夜中に目覚めてしまう。咲希がそう宮様に打ち明けたら、彼は咲希を引き寄せて腕に包んだ。
「み、宮様?」
「つらかったね。でもそれは夢だよ」
 宮様は咲希の背をさすって、優しく声をかけた。
「咲希、息を吸ってごらん。ここは怖い夢の中なんかじゃないよ」
 咲希は子どものように言う通りにしていた。宮様の腕の中で、そっと息を吸う。
 宮様はいつも風雅な香りをまとっている。その腕の中は温かくて、呼吸のたびに咲希の体を楽にしてくれた。
 ふと心地よい香りに気づいて、咲希はそれを言葉にする。
「ここ……桜の香りがします」
「そうだよ。白嶺領は隅々まで桜が守ってくれている」
 馴染んだ水の音がどこかで聞こえていて、次第にいつものように桜の世話をしている気分に落ち着いていく。
 宮様は咲希が落ち着いたのを見て、庵から一つの香り袋を探してくる。
「桜の香りだよ。枕元に置けば、きっとよく眠れる」
 宮様はそう言ってから、いたずらっぽく付け加える。
「後は……夜中に目覚めてしまったら、ぎゅっと僕を抱くといい。不安なんて忘れさせてあげるから」
 咲希は顔を赤くして、宮様、と困ったようにつぶやいた。
 宮様はくすくすと笑って、咲希の手を取って口づけた。