みーん、みーん、と耳の奥で溶け出すような蝉の声が朝の静寂を切り裂いていく。カーテンの隙間から差し込む七月の光はすでに容赦のない熱量を帯びて、部屋の床に鋭い幾何学模様を描き出していた。私はベッドからゆっくりと体を起こし、窓の外に広がる白く霞んだ空を見上げた。夏だ。鬱蒼とした緑が生命力を誇示し、アスファルトが陽光を照り返して蜃気楼を揺らめかせる、一年で最も色彩の濃い季節。そして私にとっては一年で最も気配を消すのが難しい季節でもあった。
私の名前は上野栞奈(うえの かんな)。県立高校に通うごく普通の高校二年生。
もし私の存在を誰かに説明するとしたら、それはひどく困難な作業になるだろう。なぜなら私自身が、他人の記憶に残らないよう細心の注意を払って生きてきたからだ。クラスメイトの集合写真を見返しても、私の顔を正確に思い出せる者はほとんどいないはずだ。いつも一番端に俯き加減で写り込み、その表情は前の子の頭で半分隠れている。まるでそこに存在してはいけない心霊写真のように。わざとそうしているのだ。シャッターが切られる瞬間にほんの少しだけ顔を伏せる。それだけで私の存在感は限りなくゼロに近づく。
この歪んだ特技が私の生存戦略になったのには理由がある。
忘れもしない、あれは小学四年生の秋の運動会。あの日の空も今日のように雲一つなく突き抜けるように青かった。クラスで一番速いわけではなかった。ただほんの少しだけ他の女子より足が速いというそれだけの理由で、リレーのアンカーという大役が回ってきたのだ。担任の若い男性教師が笑顔で私の肩を叩いた。「上野さんなら大丈夫だ。みんなの期待を背負ってゴールテープを切ってくれ!」。その言葉にクラス中がわっと沸いた。「すごいね!」「頑張って!」。純粋な応援が、まるで自分が物語の主人公にでもなったかのように心地よかった。生まれて初めて自分が世界の中心にいるような錯覚を覚えた。
しかしその高揚感は、日を追うごとに鉛のような重圧に変わっていった。教室で、廊下で、下校中に会う人誰もがリレーの話をする。「練習見たけど、栞奈めっちゃ速いじゃん」「絶対一位取ってね」。私の足はいつの間にか私だけのものではなくなっていた。朝礼で校長先生が「赤組のアンカー、上野さんの走りに期待しています」と言った日からそれはもう決定的だった。私はクラスの、そして赤組全体の希望の象徴に祭り上げられてしまったのだ。
そして運命の日。心臓が喉から飛び出しそうな緊張の中、私はトップでバトンを受け取った。歓声が地鳴りのように聞こえる。ゴールテープは目前。英雄になれるはずだった。しかし焦りとプレッシャーで硬直した足は無情にも私をもつれさせ、土のトラックに叩きつけた。手のひらから滲む血。擦りむいた膝の燃えるような痛み。土の匂い。遠ざかっていくライバルの背中。そしてゴール後に私を待ち受けていたのは、優しい慰めの言葉ではなかった。
「なんで転んだの?」
「栞奈のせいで負けた」
「あとちょっとだったのに」
悪意のない、あまりにも無邪気で残酷な非難の視線。泣いている私を誰も助けてはくれなかった。担任の先生でさえ「残念だったな。でも、これもいい経験だ」とありきたりな言葉で片付けた。その日から教室の空気は変わった。私は「リレーで転んで負けた子」になった。誰も私を責めなかったけれど、誰も私に話しかけなくなった。まるで失敗がうつるかのように。休み時間に一人で本を読んでいても、隣の席の子は私との間に見えない線を引いているようだった。
中学校に上がってもその経験は私を呪いのように縛り続けた。目立つことへの恐怖は私の行動のすべてを支配した。授業中に手を挙げることもしない。部活にも入らない。美術の授業で風景画を描いた時のことを今でも思い出す。「地元の好きな風景」というテーマで、私は家の近くの誰も通らないような川沿いの小道を描いた。描き上げた絵は驚くほど特徴がなく、色も薄く、まるで霧の中に沈んでいるかのようだった。美術の先生は私の絵をしばらく眺めた後、困ったような、それでいて優しい目で私に言った。
「上野さんはとても丁寧に描くんだな。でももう少し自分が見た感動を色に乗せてもいいんだよ。君はこの風景のどこが一番好きなんだい?」
私は答えられなかった。好きなのではない。ただ誰にも注目されない静かな場所だったから選んだだけだ。先生の言葉は私の心の奥底を見透かしているようで、私は怖くなって俯いてしまった。
そうやって誰の記憶にも残らない、空気のような存在でいること。それが誰も傷つけず、誰にも傷つけられないで済む私の唯一の鎧になったのだ。
終業式が行われる体育館は巨大な蒸し器のようだった。むっとする熱気と大勢の人間の汗の匂い、そして埃っぽさが混じり合って息をするだけで体力を奪われていく。私は学年で指定された区画の一番後ろ、壁際の席に座り、ひたすらこの苦行が終わるのを待っていた。
「ねえ、栞奈。聞いてるってば」
隣に座る親友の「アカリ」こと佐藤あかりが私の肘を小突いた。汗で湿った彼女の茶色い髪が私の肩に触れる。私とは正反対の太陽みたいなアカリ。彼女だけが私が必死に築いた心の壁をいつもあっさりと飛び越えてくる。中学の時、私がクラスで孤立していた時も彼女は「あんたの読んでる本、面白そうじゃん。貸してよ」と屈託なく話しかけてきてくれた。それが私たちの始まりだった。
後になってどうして私に話しかけてくれたのか聞くと、アカリは少し照れたようにこう言った。「だってあんたが読んでる本、めちゃくちゃ面白そうだったんだもん。それに一人でいるのが好きなんじゃなくて、一人でいなきゃいけないって顔してたから、なんか、ほっとけなかった」
その言葉に私がどれだけ救われたか、きっと彼女は知らないだろう。
「校長先生の話、永遠に終わらないループものかよ。……で、夏休みの予定は?まさか今年も図書館に毎日通うとか言わないでよね。たまには海とか行こうよ、海!」
「うん。まあいつも通りかな。市立図書館の新刊、もう予約してあるし。海は日焼けするから……」
「はいはい、図書館詣ででしょ。真-面-目-か」
アカリは唇を尖らせてそう言うと、からかうように私の頬をつついた。でもその目はすぐに楽しそうな色を帯びて、体育館の壇上へと視線を向ける。その瞳がきらりと、まるで宝石でも見つけたかのように輝いた。
「うわ、見て。月島蓮、やっぱりオーラやばい。あそこだけ照明の数違くない?ていうか同じ高校の制服着てるとか、もはや奇跡だよね」
彼女の視線の先には、バスケットボール部の全国大会出場の表彰を受ける、ひときわ眩しい存在がいた。
月島蓮(つきしま れん)くん。
バスケ部の不動のエースで成績は常にトップクラス。次期生徒会長の最有力候補。長い手足にモデルのように整った顔立ち。彼が歩けば女子生徒たちのため息混じりの視線がモーゼの奇跡みたいに道を開ける。太陽という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。彼がいる場所だけ光の量が違うのだ。彼が存在するというだけでこのありふれた県立高校が、まるで少女漫画のきらびやかな舞台のように錯覚してしまう。
私は彼のような人間が苦手だった。彼自身がどうこうというより、彼が存在することによって生まれる周囲の熱狂が私を息苦しくさせるのだ。黄色い歓声、熱っぽい視線、彼の一挙手一投足に一喜一憂する空気。そのすべてが私の静かな世界を侵食してくるノイズのようだった。だから私は彼を視界に入れないように努めてきた。彼がどんな声で話すのか、どんな風に笑うのか、私はほとんど知らなかった。
「同じ人間とは到底思えないよね。私たちみたいなその他大勢の登場人物とは、物語のジャンルが違うっていうか。少女漫画のヒーローと壁の染み、みたいな?」
アカリの言葉に私は静かに頷く。的確すぎる例えに少しだけ胸がチクリと痛んだ。彼女は悪気なく言っているのだろうけど、その「壁の染み」という言葉は私の心の奥の、一番柔らかい場所を的確に抉った。
「栞奈は興味ないの?あの国宝級イケメン」
「ないよ。だって住む世界が違うもん」
それが私の本心だった。彼のような光の中心にいる人間と、教室の隅で壁際に咲く雑草のような私が関わることなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。彼を見ることは自分の惨めさを再認識する行為に他ならなかったからだ。
「以上で、終業式を終わります」
教頭先生の抑揚のない言葉で、体育館に監獄からの解放を喜ぶようなざわめきが広がった。
「やったー!夏休み!」アカリが猫のように大きく伸びをする。「じゃ!私、部活のミーティングがあるから!また後でね!夏休み、絶対遊ぶんだからね!図書館に引きこもってないで、ちゃんと連絡しなさいよ!」
彼女はそう言うと、人の波を器用にかき分けるようにして体育館の出口へと消えていった。
一人になった私はいつものように、誰にも気づかれないように一番最後にゆっくりと立ち上がった。壇上ではまだバスケ部の友人たちに囲まれて、あの完璧な笑顔で何かを話している月島くんがいる。あの光の輪には決して近づいてはいけない。
壁の染みのふりをして体育館の壁際をこそこそと歩き、出口へと向かう。あと数メートルでこの息苦しい空間から解放される。
その時だった。
不意に彼の、その涼しげな目がまっすぐに私を捉えた。
え、と思った。心臓が跳ねて喉がひゅっと鳴る。心臓の音が体育館中に響いているんじゃないかと思うくらいうるさい。気のせいだ。絶対に気のせい。きっと私の後ろにいる可愛い誰かを見ているんだ。
そう思って俯き、足早に通り過ぎようとした。
その時、私の目の前にすっと大きな影が差した。
顔を上げると、月島蓮くんが立っていた。
その瞬間の衝撃を私は多分一生忘れないだろう。時間が止まり音が消え、世界には私と彼だけしか存在しないような錯覚。彼の背後にある体育館の出口から差し込む夏の光が、彼の輪郭を黄金色に縁取っていた。彼の瞳の中に、驚きと混乱で固まっている情けない私の顔がはっきりと映っていた。
彼は確かに私を見ていた。
嘘でしょ、と思った。周りの喧騒がまるで分厚いガラスの向こう側のように遠ざかっていく。私と彼の周りだけスポットライトが当たっているかのように、世界が切り取られていく。
「え、なんで上野さんが?」「あの子、誰?」「二組の地味な子じゃん」「蓮くんと知り合いなの?」
やめて。お願いだから私を見ないで。私は風景なの。あなたたちの物語には登場しない背景の一部なの。足が震えて今にも崩れ落ちそうだった。
「上野栞奈さん、だよね」
彼が私の名前を呼んだ。その声は私が想像していたよりも少しだけ低くて、そして蜂蜜を溶かしたような甘い響きを持っていた。
「……は、はい」
蚊の飛ぶような声で答えるのが精一杯だった。どうして私の名前を?同じクラスになったこともないのに。心臓が肋骨を突き破って飛び出してしまいそうだ。
「ちょっと話があるんだけど。いいかな」
それは疑問形でありながら、拒否を許さない響きを持っていた。彼は私の返事を待つでもなく私の腕を軽く掴むと、体育館の出口へと向かって歩き出した。その動きには一切の躊躇いがなかった。周囲の生徒たちが驚きと好奇に満ちた目で私たちを見ながら、モーゼの海のように割れて道を開ける。その無数の視線がまるで物理的な針のように私の肌に突き刺さる。痛い。熱い。恥ずかしい。今すぐにでもこの場にうずくまって石になってしまいたかった。
私はただ俯くことしかできない。視界に映るのは彼の着ている制服のシャツの広い背中と、私の腕を掴む日に焼けた骨張った手だけ。バスケットボールの練習で鍛えられたのだろう、その手は驚くほど硬く、そして熱かった。その熱が私の薄い制服のブラウスを通してじかに伝わってくる。頭が真っ白になって、ただ引きずられるままについていくしかなかった。アカリがこの光景を見たら一体なんて言うだろう。卒倒するかもしれない。いや、きっと目を輝かせて「少女漫画の始まりじゃん!」とか言うに違いない。そんな親友の顔を思い浮かべようとしても、恐怖で思考がまとまらなかった。
彼が私を連れて行ったのは体育館の裏手にある、人気のない渡り廊下だった。北校舎と武道場を繋ぐその場所は日が当たらず、いつもひんやりとした空気が漂っている。ずらりと並んだ古いスチール製のロッカーには錆が浮き、ところどころへこんでいる。湿ったコンクリートの匂いが私の緊張した鼻腔を支配した。ここは告白や果たし合いのメッカとして、校内では有名な場所だった。もちろん私には生まれてから一度も縁のなかった場所だ。
彼はそこでようやく私の腕を離した。そして私に向き直ると、信じられない言葉を口にした。
「俺と、付き合ってくれない?」
時が止まった。みーん、みーんと遠くで鳴いていた蝉の声がぷつりと途絶えたような錯覚に陥る。
私の頭の中は完全にフリーズしていた。
付き合う?誰が?誰と?私が、月島蓮くんと?
思考が追いつかない。理解ができない。これは手の込んだドッキリか何かだろうか。それとも王様ゲームの罰ゲーム?私のようなクラスでも存在感のない女をからかって、みんなで笑うための。そうだ、きっとそうだ。この渡り廊下のどこかに彼の友人たちが隠れていて、スマホで動画でも撮っているに違いない。そう考えなければこの状況はあまりにも非現実的すぎる。
「……えっと……ごめんなさい、人違い、じゃ……」
声が震える。情けないほどに。
「ううん、上野さんで合ってる」
彼は私の言葉をあっさりと遮った。そして少しだけ困ったように、でもどこか楽しそうに、その完璧な顔を歪めて笑う。その笑顔は学校中の女子生徒を虜にするには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。しかし今の私には悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「もちろん、本気じゃない。―――フリで、いいんだ」
フリ……?その言葉はかろうじて機能していた私の思考回路を、完全にショートさせた。
「ごめん、驚かせたよな。ちゃんと説明するから」
そう彼は言った。その声は先ほどまでの有無を言わさぬ響きとは違い、どこか疲れたような、うんざりしたような色を帯びていた。
「俺さ、正直ちょっと困ってるんだ。次から次に告白されたり、ファンだって言ってくれる子たちに追いかけられたり……。ありがたいんだけど正直いうと少し疲れたんだよね。家のポストに見知らぬ手紙が大量に入ってたり、部活の帰りにつけられたり。正直もう限界なんだ。それに親もうるさくてさ」
彼の声のトーンが少しだけ低くなる。完璧な笑顔にわずかな影が差した。
「昨日も母親に呼ばれてさ。『来週、一条グループの令嬢の一条玲香(いちじょう れいか)さんとの食事会をセッティングしたから、そのつもりでいなさい』って。写真まで見せられて。……そういうの、全部、面倒なんだ。断るためのちゃんとした理由が欲しい。彼女がいる、っていう誰もが納得する理由が」
彼の具体的な話に、私は彼の抱える問題がただの人気者の悩みというわけではないことを理解し始めた。彼のきらきらした世界にも彼なりの息苦しさがあるのだ。星華グループといえば父が経営する町工場がいつもお世話になっている大企業だ。住む世界が違うどころか、次元が違う。そんな世界の令嬢とのお見合い。私には想像もつかない話だ。
しかしそれでも疑問は消えない。
「でも……なんで、私……なの?」
ようやく絞り出した私の声は自分でも驚くほどかすれていた。クラスにはもっと可愛くて、彼の隣にふさわしい女の子がたくさんいるはずなのに。アカリだって私なんかよりずっと明るくて可愛い。なぜよりによって、風景の一部である私を?
「上野さんだから、いいんだよ」
彼は言った。その真っ直ぐな言葉に私の心臓が小さく、しかし確かに跳ねた。
「だって君、俺のこと全然興味ないだろ?」
「え……」
「いつも見てたから分かるよ。みんなが俺のことを見てても君だけはいつも窓の外か本を読んでる。俺と目が合ってもすぐに逸らす。まるで俺が存在しないみたいに。君みたいなタイプが一番信用できるんだ。変に期待させたり、面倒なことになったりしなさそうだから」
彼はじっと私の目を見た。その深い色の瞳がほんの一瞬、私を通り越してどこか遠い過去を見ているような、そんな不思議な色を帯びた。
「……それに」
彼は何かを振り払うように小さく息を吐くと、悪戯っぽく、それでいて残酷なナイフのような言葉を続けた。
「上野さんなら、本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」
その一言は切れ味の鋭い刃物のように、私の胸に深く突き刺さった。ぐさりと音を立てて。
そうだ。その通りだ。私は風景。私は壁紙。恋愛なんていう面倒で、キラキラしていて、そして人を傷つける可能性のあるものからはずっと逃げてきた。小学生のあのトラウマ以来、私は誰かに本気で期待することも期待されることも避けてきたのだ。彼は私のその本質を完璧に見抜いている。私という人間が彼にとってどれほど「安全」で「無害」で「都合のいい」存在であるか、彼は理解した上でこの取引を持ち掛けている。
屈辱だった。同時にあまりにも的確な分析に、反論の言葉一つ出てこなかった。
「契約したいんだ。君と」
彼は私に取引を持ち掛けた。まるで悪魔の囁きのように。
「期間は夏休みが終わるまで。その間俺の偽物の彼女になってほしい。時々デートして、その写真をSNSにアップするだけ。学校で話しかけたりもしない。それ以外は何もしなくていい」
「……」
「その代わり契約が終わったらお礼に君の願い事を何でも一つ叶える。俺にできることなら何でも」
願い事。そんなもの私にはなかった。私が望むのはただ平穏な日常だけだ。そして彼のこの提案は、その私の唯一の望みを根底から覆す、甘くて危険な囁きだった。断るべきだ。絶対に。私の平穏を守るために。
「……ごめんなさい。私には、無理……です」
私は最後の力を振り絞ってそう言った。そしてこの場から逃げ出そうと彼に背を向けた。その時だった。
「蓮くーん!こんな所にいた!」
渡り廊下の向こう側から黄色い歓声と共に、数人の女子生徒がこちらに向かってくるのが見えた。彼の熱心なファンとして有名なグループだった。その中心にいるのは三年の先輩で、彼のファンクラブのリーダー格だと噂されている人だ。
「まずい……!」
月島くんが小さく舌打ちする。そして彼は思いもよらない行動に出た。彼は私の体をぐっと引き寄せると、自分の腕の中に閉じ込めたのだ。そして私の耳元で囁く。
「お願いだ。一瞬でいい。協力してくれ」
彼の胸板が固い。汗と爽やかなシャンプーの香りが私の鼻をくすぐる。頭がくらくらして思考が停止する。女子生徒たちが私たちの目の前で足を止めた。その突き刺すような視線が痛い。
「な、なによ……あんた、誰よ!蓮くんに馴れ馴れしくしないで!」
リーダー格の先輩がヒステリックな声を上げる。
「……ごめん。今、彼女と大事な話してるとこだから」
月島くんが少し低めの甘い声で言った。「彼女」という言葉に女子生徒たちの顔が凍りつく。
「……え……か、彼女って……この地味な子が……?」
信じられない、という声。侮蔑と嫉妬が入り混じった声。
「じゃあ、そういうことで」
月島くんはひらひらと手を振ると、彼女たちに背を向けた。女子生徒たちはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて何かを囁き合いながら悔しそうに去っていった。
嵐が過ぎ去った。彼はそっと私から体を離した。
「……ごめん。でも助かった。ありがとう」
私は何も言えなかった。ただ心臓が破裂しそうだった。そして悟った。もう遅いのだ、と。私がここで彼の提案を断ったとしても、もう私の平穏な日常は二度と戻ってこない。『月島蓮に、体育館裏に呼び出され、抱きしめられた、地味な女』。そして今や『月島蓮が彼女だと庇った女』。そのレッテルは明日には学校中に広まっているだろう。断れば『蓮くんに勘違いして馴れ馴れしくした挙句、振られた痛い女』、受ければ『蓮くんの偽の彼女』。どちらに転んでも私の「風景」としての日常は終わったのだ。ならば…。
ならばいっそこの嵐に飛び込んでしまった方が賢明なのかもしれない。このまま彼の提案を蹴って根も葉もない噂を立てられて惨めな思いをするくらいなら、契約を結んで彼の庇護下に入った方がまだマシなのではないか。そして報酬として「願い事」を叶えてもらえる。
「……分かりました」
私は小さな声で言った。自分でも驚くほど冷静な声が出た。
「やります。偽物の、彼女」
「……本当か!?」
彼の声が子供のように弾んだ。その無邪気な喜色に私の心はまたちくりと痛んだ。
「ただし、条件があります」
私は彼をまっすぐに見上げた。もう後戻りはできないのだから。
「夏休みが終わったらあなたは私と金輪際関わらないこと。私のことをきれいさっぱり忘れること。そして私の願い事として……私が卒業するまで、学校中の誰からも忘れられるようにしてください」
「……忘れられるように?」
彼の眉が不思議そうに寄せられる。
「ええ。私は壁紙に戻りたいんです。風景になりたいんです。もう二度と誰かの期待を背負ったり、注目を浴びたりしたくない。この夏休みの騒動もすべて幻だったかのようにみんなの記憶から消してほしいんです。それができるならあなたの契約、受け入れます」
私のその突拍子もない願いに、彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてくすりと面白そうに笑うと私に手を差し出した。
「分かった。面白い。気に入ったよその願い事。約束する。この夏が終わったら君を完璧な壁紙に戻してやる」
契約が成立し月島くんと別れた後の帰り道、私の足取りはまるで自分の意志とは無関係に動いているかのようだった。駅までの道、見慣れた商店街、アパートへの最後の坂道。風景はいつもと同じはずなのに、その色彩も音も匂いも何も感じられない。私の意識は先ほどの出来事を何度も何度も強迫的に反芻していた。
彼の低い声。私の腕を掴んだ手の熱。渡り廊下の湿った空気。そして「本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」という残酷なほど正確な言葉。あれはすべて現実だったのだ。私は学校で最も輝いている太陽のような男の子と、嘘の恋人になるという馬鹿げた契約を交わしてしまった。
自室のドアを開け、鍵もかけずにベッドへ倒れ込む。どっと鉛のような疲れが全身にのしかかってきた。天井の木目がぐるぐると渦を巻いているように見える。私はこれからどうなるのだろう。いや、どうもしない。夏休みが終わるまでのほんの四十日ほどの辛抱だ。契約通り彼が用意した偽りのデートをこなし、証拠の写真を撮り、やり過ごす。そして夏休みが終われば私は報酬として「誰からも忘れられる権利」を手に入れ、完璧な風景に戻るのだ。そうだ、これは私の平穏な未来を取り戻すための必要悪なのだ。
そう自分に言い聞かせようとしても、心臓は依然として落ち着きなく脈打ち、指先は氷のように冷たいままだった。
枕元に放り出したスマホが、ぶぶ、と短く震えた。画面には彼の名前が表示されている。『月島 蓮』。いつの間にか彼は私の連絡先を自分のスマホから送っていたらしい。その三文字がまるで呪いのように画面上で禍々しく光っているように見えた。私はその通知を消すことも連絡先を登録することもできず、ただ画面をオフにして顔を覆った。
どれくらいそうしていただろうか。再びスマホが激しく震え始めた。今度は画面いっぱいに『アカリ』の文字と、満面の笑みを浮かべた彼女の写真が表示されている。私は深呼吸を一つして覚悟を決めた。この嵐の中で私が唯一助けを求められる相手。
事情をすべて話すと、電話の向こうでアカリは案の定しばらく絶句していた。そして次の瞬間、私の想像を遥かに超えるトーンで叫んだ。
『面白そうじゃん!』
その言葉に重苦しかった私の心は少しだけ、本当に少しだけ軽くなった。私が深刻に悩んでいたことが彼女にとっては少女漫画の一ページのようで、それがなんだかおかしくて少しだけ救われたのだ。
しかし電話を切った後、一人になった部屋で静寂が戻ってくると、自分がとんでもないことに足を踏み入れてしまったという実感がじわじわと全身を蝕んでいく。明日から私は「月島蓮の彼女」という人生で最も似合わない役を演じなければならないのだ。
それは私が最も恐れていた「舞台の真ん中」に、無理やり引きずり出されることと同義だった。
翌朝、私はほとんど眠れないまま重い体で目を覚ました。昨日の出来事が夢ではなかったことを証明するかのように、枕元のスマホが再び短く震える。恐る恐る手に取るとメッセージの送り主は『月島 蓮』だった。
『明日、十時に、駅前の噴水広場。遅れんなよ』
たったそれだけの、絵文字もなければ気遣いのかけらもない無機質な文字列。それが今の私にはありがたかった。そうだ、これは恋じゃない。業務連絡だ。そう思うことでかろうじて平静を保てる。私が「了解です」とだけ返信しようか迷っていると、玄関のインターホンがけたたましい音で鳴り響いた。
「栞奈!生きてるー?電話に出ないから心配したじゃん!」
ドアを開けるとそこにはTシャツにショートパンツというラフな格好のアカリが、コンビニの袋を片手に仁王立ちになっていた。
「ちょ、アカリ、どうして……」
「どうして、じゃないわよ!一大事でしょ!で、初デートはいつなの!?」
彼女は私の返事も待たずずかずかと部屋に上がり込むと、テーブルの上にコンビニで買ってきたらしいお茶やゼリーを並べ始めた。
「あ、月島くんからメッセージ来てるじゃん」
アカリは私が手に持っていたスマホをひょいと取り上げると、画面を覗き込んだ。
「『明日、十時に、駅前の噴水広場』……だって!うわ、ベタ!でも、それがいい!王道デートじゃん!」
一人で興奮しているアカリを前に、私はただ呆然と立ち尽くす。
「さあ、こうしちゃいられない!あんたのクローゼット、見せなさい!」
アカリは宣言すると、私の部屋の小さなクローゼットの扉を勢いよく開けた。そして中にぎっしりと詰まった服を見て三秒ほど固まった後、深いため息をついた。
「……栞奈、あんたさぁ……」
彼女はハンガーにかかった服を一枚一枚、指で弾いていく。ベージュのカーディガン。グレーのパーカー。紺色のワンピース。黒のスカート。白のTシャツ。
「あんたのクローゼット、彩度って概念ある?白黒写真撮るの?モノクロ映画にでも出るつもり?これは風景じゃなくて、もはや無だよ、無!」
アカリの容赦ない言葉に私は何も言い返せない。だってその通りなのだから。目立たないように誰の印象にも残らないように。そうやって選んできた服ばかりがそこにはあった。
「これはダメだ。私の美学に反する。こうなったら私の服を貸すしかない!」
アカリはそう言うと、持ってきたコンビニの袋からゼリーを一つ取り出し「これ食べて待ってなさい!」と言い残して、嵐のように自分の家に帰っていった。
一人残された部屋で私はゼリーを啜りながら途方に暮れていた。アカリの言う通りだ。こんな服であの太陽みたいな月島くんの隣に立てるわけがない。でも彼女が持ってくるであろう華やかできらきらした服を、私が着こなせる自信もなかった。そもそもなぜ私はこんなことをしているのだろう。偽物の彼女を演じる。その先に本当に私の望む「平穏」はあるのだろうか。
そんなことを考えていると一時間もしないうちに、再びインターホンが鳴った。ドアを開けるとそこには巨大なボストンバッグを肩にかけたアカリが立っていた。
「お待たせ!栞奈に似合いそうなやつ、根こそぎ持ってきたから!」
そこから私の部屋はファッションショーのバックステージと化した。アカリが次々とバッグから取り出す服。花柄のスカート、レースのついたブラウス、鮮やかなピンク色のカーディガン。
「はい、まずこれ着てみて!」
「む、無理だよ、こんな可愛いの……」
「いいから着る!これは契約でしょ!仕事なんだからちゃんと衣装を整えなさい!」
アカリに言われるがまま私は次々と服を着せ替えさせられた。鏡に映る自分はまるで知らない誰かのようだった。服が違うだけでこんなにも印象が変わるのか。でもそのどれもが私には似合わない気がした。服だけが浮いていて、中身の私が追いついていない感じ。
「うーん、これも可愛いけど、ちょっと違うかな……」
アカリが腕を組んで唸っている。私ももうへとへとだった。
「やっぱり私には無理だよ。月島くんも私が地味なことくらい分かってて選んだんだし、このままで……」
「ダメ」
私の言葉をアカリは強い口調で遮った。
「栞奈は自分が思ってるよりずっと可愛いんだよ。いつも本の中に隠れてないで、ちゃんと自分の足で立って世界を見なきゃ。月島蓮がそのきっかけになるなら、なんだって利用してやればいいじゃん」
彼女は真剣な目で私を見つめていた。
「これはあんたのための夏休みでもあるんだよ。風景であることをやめて、一人の女の子として夏を楽しむの。たとえそれが嘘から始まった恋だとしても」
その言葉は私の心の奥底にじんわりと染み込んでいった。
最終的にアカリが「これなら!」と自信満々に取り出したのが、淡い水色のワンピースだった。派手な装飾はないけれど風に揺れる柔らかな生地が、上品な雰囲気を出している。私が持っている服の中には絶対にない、優しい色合い。
「これなら今の栞奈でも着れるでしょ。でもちゃんと女の子らしくて可愛い」
私はおずおずとそれに袖を通した。鏡の中の私はまだ見慣れないけれど、でもさっきまでの服よりは少しだけしっくりくるような気がした。
「よし、服は決まり!次はメイク!」
アカリは今度は化粧ポーチを取り出し、私の前に座った。ファンデーション、アイシャドウ、チーク、マスカラ。私が普段使わない魔法の道具たちが次々と私の顔に乗せられていく。
「やめて、そんなに濃くしなくても……」
「大丈夫だって!ナチュラルメイクだから!男子は『すっぴん?可愛いね』とか言うけど、女子の『ナチュラルメイク』がどれだけの手間と計算の上に成り立っているか、あいつらは知らないのよ!」
訳の分からない理屈を並べながらも、アカリの手つきは驚くほど手際が良かった。
すべての準備が終わった時、鏡に映っていたのは本当に私の知らない私だった。少しだけカールした髪。ほんのり色づいた頬と唇。いつもより心なしか大きく見える瞳。
「ほら、見て。超可愛いじゃん」
アカリが得意げに笑う。
「これ、本当に私……?」
「そうだよ。これが本当の栞奈。いつも隠してるだけ」
そこからアカリによる「デート講座」が始まった。
「いい?まずは笑顔!口角!もっと上げて!」「目が笑ってない!楽しそうなことを思い浮かべて!」「会話に詰まったら、とりあえず相手の持ち物を褒めとけ!『そのTシャツ、素敵ですね』とか!」「相槌は『さしすせそ』が基本!『さすがですね!』『知らなかったです!』『すごい!』『センスいいですね!』『そうなんですか!』。はい、復唱!」
私はアカリのスパルタ指導にただただ圧倒されるばかりだった。
その夜、アカリは私の部屋に泊まっていった。二人で並んで布団に入っても私は全く眠れなかった。隣からはすうすうとアカリの寝息が聞こえる。明日、本当に私はあの月島蓮くんとデートをするのだろうか。アカリに作ってもらったこの偽りの姿で。
心臓が早鐘のように鳴っている。それは恐怖だけではないような気がした。未知の世界へ足を踏み入れる前のほんの少しの期待、あるいは好奇心。そんな感情が恐怖と混じり合って私の心をかき乱していた。
デート当日の朝。アラームの音で目を覚ますと、隣で寝ていたはずのアカリがすでに起きて身支度をしていた。
「おはよ、栞奈!さあ、最終準備よ!」
寝ぼけ眼の私を洗面所に追いやり、昨日と同じように完璧なメイクを施していく。そしてあの水色のワンピースに着替えさせられる。
鏡の前でアカリは私の両肩を掴んだ。
「いい?栞奈。これは戦争よ。あんたは壁紙じゃない、一人の女の子として戦場に赴くの。胸を張って行ってきなさい!」
力強く背中を叩かれ、私はよろめきそうになる。
「い、行ってきます……」
玄関で靴を履きながら私は小さな声で呟いた。
「声が小さい!腹から声出さんかー!」
「行ってきます!」
アカリに檄を飛ばされ、私は半ば叫ぶようにそう言った。
アパートの扉を開ける。夏の眩しい光が私の全身に降り注いだ。思わず目を細めながら一歩、外へ踏み出す。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱気。けたたましく鳴り響く蝉時雨。視界のすべてが白っぽく、輪郭が曖昧に揺れている。まるで現実ではないどこか別の世界に迷い込んでしまったかのようだ。
「これは契約。ビジネス。夏休みだけの期間限定の嘘」。
そう自分に何度も言い聞かせる。しかし胸の奥で早鐘を打つ鼓動は、一向に落ち着く気配を見せない。嘘で固めたシンデレラは今から王子様との偽りの舞踏会へと向かうのだ。
駅までの道のりはわずか十分ほどのはずなのに、今日は永遠に続くかのように感じられた。慣れないヒールのあるサンダルが一歩進むごとにカツン、カツンと乾いた音を立てる。その音がまるで私の処刑台への足音のように聞こえて心臓が縮み上がった。道行く人がみんな私のことを見ているような気がする。「あの子、いつもと雰囲気が違う」「どこかに出かけるのかしら」。そんな声が聞こえる幻聴に苛まれ、私はひたすら俯いて歩いた。アカリの「胸を張って!」という言葉はすでに頭の片隅に追いやられていた。
約束の場所である駅前の噴水広場に私は十分前に到着した。待ち合わせ場所としてあまりにも有名で人が多すぎるこの場所を選んだ彼の意図が、私には少しだけ分かったような気がした。人目に付けばつくほど「月島蓮が彼女とデートしている」という事実はまたたく間に拡散されるだろう。彼はこの契約を遂行するために最も効率的で最も効果的な場所を選んだのだ。そこには私の気持ちへの配慮など一欠片も存在しない。改めてこれはビジネスなのだと痛感させられた。
噴水の周りにはたくさんの人がいた。待ち合わせをするカップル、はしゃぐ子供たち、談笑する高校生のグループ。私はその人垣から少し離れた木陰に、そっと身を隠すようにして立った。ここからなら広場全体が見渡せる。彼が来たらすぐに分かるはずだ。
時間が経つのがひどく遅く感じられた。五分が三十分に、一分が十分に。スマホを取り出して時間を確認するたびにまだ針がほとんど進んでいないことに、絶望的な気持ちになる。手汗でスマートフォンの背面がじっとりと湿っていた。
約束の三分前。人垣の向こうにひときわ目立つ姿が現れた。黒いTシャツにダメージの入った細身のジーンズ。ラフな格好なのに彼が着ているとそれだけで計算され尽くしたファッションのように見える。太陽の光を浴びて、彼の少し茶色がかった髪がきらきらと輝いていた。彼がそこにいるだけで雑多な駅前広場がまるで映画のワンシーンのように切り取られる。周りの女の子たちが遠巻きに彼を見てひそひそと囁き合っているのが、ここまで伝わってきた。
「あれ、月島くんじゃない?」
「マジだ!私服、超カッコいい!」
「一人かな?誰かと待ち合わせ?」
私はその光の輪の中へ、震える足で踏み出していかなければならない。深呼吸を一つして私は意を決した。木陰から一歩踏み出し、彼の方へと歩き始める。その数十メートルの距離が果てしなく遠い。
私が近づいていくとスマホを眺めていた彼がふと顔を上げた。そして私の姿を認めると、いつも涼しげなその目をほんの少しだけ、しかしはっきりと見開いた。彼の動きが一瞬、完全に止まったように見えた。
「……お」
彼は何か言いかけて口を噤んだ。そして少しだけ照れくさそうに、気まずそうに自分の首筋を掻く。
「……いや、なんでもない。……いつもと雰囲気違うから……。いや、そのワンピース。似合ってんじゃん、それ」
そのぶっきらぼうな言葉に私の顔がかあっと熱くなる。アカリの得意げな顔が目に浮かんだ。彼のその意外な反応に私の緊張はほんの少しだけ和らいだ。もしかしたらこの偽りのデートも、思っていたよりは苦痛ではないのかもしれない。そんな淡い期待が胸をよぎった。
「じゃ、行こっか」
彼に連れられて着いたのは駅前のシネコンだった。「とりあえず映画でも見るかって。ベタだろ?」彼は悪戯っぽく笑った。その笑顔にまた心臓が跳ねる。
上映中のポスターがずらりと並ぶ中、私はある一つのポスターに目を奪われた。私がずっと見たかったフランスのマイナーな恋愛映画。ミニシアターでしかやらないような地味な映画。監督のファンで、原作の小説も何度も読み返していた。まさかこんな大きなシネコンでやっているなんて。
「何、見たい?」彼が尋ねる。
私は思わずそのポスターを指差しかけて慌てて手を引っ込めた。彼がこんな地味な映画を見たいはずがない。きっと今話題のハリウッドのアクション大作か、人気アニメの劇場版を選ぶだろう。アカリの「相手に合わせるのも大事!」という言葉が頭をよぎる。
「……なんでもいいです。月島くんが見たいもので」
「俺?俺は別に何でもいいよ。こういうの普段見ないし、よく分かんない」
「じゃあ……」
私が迷っていると彼はふう、と小さくため息をついた。そして私の視線の先にあった、あのフランス映画のポスターを指差す。
「……あれ、見たいんだろ?顔に書いてある」
「え……どうして……」
「さっきからそればっか見てるから。いいよ、それで。俺もまあ、たまにはこういうのも悪くないかもだし」
彼はそう言うとさっさとチケット売り場へと向かってしまった。私はその大きな背中を見つめながら呆然と立ち尽くしていた。どうして分かったんだろう。私の心の声が聞こえたのだろうか。それとも私の態度はそんなに分かりやすかったのだろうか。後者だとしたら風景としては失格だ。
映画館の中は外の猛暑が嘘のようにひんやりとしていた。隣の席に彼がいる。その事実だけで私は物語に全く集中できなかった。ふとした拍子に彼と腕が触れ合い、そのたびに心臓が大きく跳ねた。ポップコーンの入った大きな紙のカップを二人の間に置いていたけれど、どちらもそれに手を伸ばすことはなかった。私はただ彼の横顔を盗み見ることで精一杯だった。スクリーンからの淡い光が彼の彫刻のように整った顔立ちを照らし出している。長いまつげが時折伏せられるたびに、その下に小さな影を落とす。彼は物語に深く入り込んでいるようだった。真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。
これは契約。これは嘘。私は何度も心の中で呪文のように唱えた。このドキドキも気のせいだ。慣れないことをしているから緊張しているだけだ。そう自分に言い聞かせなければ、この平常心を装った仮面があっけなく剥がれ落ちてしまいそうだった。
映画が終わり館内が明るくなると、私は夢から覚めたような気分になった。
「……面白かったな」
彼が意外にも満足そうな顔でそう言った。
「え、あ、はい……」
「主人公の気持ち、なんか、分かる気がするわ。周りから色々言われて、本当の自分を見失いそうになるとことか」
彼のその言葉に私は驚いて彼を見つめた。彼もそんな風に感じることがあるのだろうか。完璧で自由で、悩みなど何もないように見える彼も。
映画の余韻に浸る間もなく彼は私を近くのカフェへと連れて行った。これが今日の本当の目的だ。偽物のデートの証拠写真を撮るというミッション。
店内は私たちと同じような高校生や大学生のカップルで賑わっていた。その中で月島くんの存在はやはり際立っていた。店に入った瞬間、何人もの女の子が彼に気づきひそひそと囁き始める。私はその視線から逃れるようにメニュー表に顔を埋めた。
テーブルの上には写真映えする可愛らしいフルーツパフェが二つ。運ばれてきた瞬間、隣の席の女の子たちが「うわ、可愛い!」と声を上げた。彼はまさにその反応を狙っていたのだろう。
彼はスマホを構えると私に言った。
「上野さん、もっとこっち寄って。あと、笑って」
「……笑う、ですか」
「当たり前だろ。デートなんだから。仏頂面でパフェ食うカップルとかいないだろ」
私はぎこちなく口角を上げた。アカリに教わった笑顔の作り方を思い出そうとするが、緊張で顔の筋肉がこわばってうまく動かない。カシャ、と無機質なシャッター音が鳴る。
「……ダメだ、これ。顔、引きつりすぎ。全然楽しそうじゃない。これじゃあ無理やり連れてこられたみたいだ」
彼に言われ私が困っていると、彼は「仕方ねえな」と呟いて席を立ち、私の隣に座った。ソファが彼の重みで少し沈む。そしてぐい、と私の肩を抱き寄せる。
「え……!?」
「こうすれば少しはそれっぽく見えるだろ。ほら、顔、こっち」
彼の腕が熱い。顔が近い。シャンプーの香りがさっきよりも濃く香って頭がくらくらする。心臓が飛び出しそうだった。彼は片手でスマホを構え、もう片方の腕は私の肩に回したまま。その距離感に私の思考は完全に麻痺していた。
「いくぞ。はい、笑って」
私の顔はきっと茹で蛸のように真っ赤になっていただろう。笑うなんて到底無理だった。しかしその時、彼が私の耳元でぽつりと呟いた。
「……君の見てた映画。俺も、原作、好きだったんだ」
その思いがけない一言に、私の口元がふ、と自然に緩んだ。驚きと喜びと、そして彼と秘密を共有できたような、そんな特別な感情が私の表情筋を柔らかく解きほぐしたのだ。
カシャ。
完璧なタイミングでシャッターが切られた。
彼は撮れた写真を見て満足そうに頷く。
「……うん。まあ、これならいいか」
彼は私にもその画面を見せてくれた。そこに写っていたのは肩を寄せ合い、同じパフェを前にしてひどくぎこちないけれど、でも確かに笑っている二人の姿だった。彼の笑顔はいつもの完璧なそれとは少し違う、どこか悪戯っぽい少年のような表情をしていた。そして私の顔。驚くほど自然に、嬉しそうに笑っている。こんな顔、自分でも見たことがなかった。
彼がスマホをテーブルに置いた時、その画面に通知が一瞬見えた。
『玲香さんとの件、どうなっていますか?お母様より』
その冷たい文字を見た瞬間、彼の表情からふっと光が消えたのを私は見逃さなかった。そうだ、これも全部嘘なのだから。私たちのこの穏やかな時間も。この奇跡のような写真も。全部、夏が終わるまでの幻なのだから。その事実が冷たい水のように私の心に染み渡っていく。
パフェはひどく甘いはずなのに、味がしなかった。
その夜、蓮くんのSNSアカウントに私とのツーショットがアップされた。『彼女と初デート。パフェうますぎ』という短いコメントと共に。数分もしないうちにアカリから『見たよ!めっちゃいい感じじゃん!てかコメント欄、地獄絵図w』というメッセージが届いた。私は怖くてその投稿を見ることができなかった。自分の知らない自分が不特定多数の人間の目に晒されている。その事実に胃がぎゅっと縮こまるような思いがした。
これが偽物の彼女を演じるということの、本当の始まりだった。
偽りのデートから一夜が明けた日曜日の朝、私はアラームの音ではなくスマートフォンのひっきりなしの通知音で目を覚ました。ベッドサイドのテーブルに置いたスマホが、ぶぶ、ぶぶ、と断続的に震え続けている。まるで小さな生き物が中で暴れているかのようだ。重いまぶたをこじ開けて画面を見ると、ロック画面が夥しい数の通知で埋め尽くされていた。メッセージアプリのアイコンの右上には、真っ赤な丸の中に「99+」という絶望的な数字が表示されている。
そのほとんどはアカリからのものだった。
『おはよ!昨日はどうだった!?』
『SNS見たよ!写真、超いいじゃん!栞奈、めっちゃ可愛く写ってる!』
『てか、コメント欄やばいことになってるけど大丈夫そ?』
『ファンクラブの先輩たち、絶対キレてるって!』
『学校始まったら、あんた、絶対囲まれるよ!』
『なんかあったら、すぐ私に言うんだからね!』
彼女のメッセージは心配と好奇心と、そして少しの興奮が混じり合ったアカリらしいものだった。その文章の勢いに私は少しだけ笑ってしまったが、すぐに現実に引き戻される。
そうだ。私は昨日、月島蓮とデートをし、その写真が彼のSNSにアップされたのだ。私はもうただの「風景」ではない。「月島蓮の彼女」という巨大で重すぎる看板を背負わされてしまったのだ。
恐る恐る私はSNSのアプリを開いた。彼の投稿はすでに数千の「いいね」と数百のコメントがついていた。スクロールする指が震える。
『おめでとう!彼女さん、めっちゃ可愛い!』
『蓮くんに彼女とか、ショックすぎて学校休みたい……』
『え、誰この子?全然知らないんだけど』
『二組の上野さんだよ。いつも本読んでる地味な子』
『釣り合わなくない?絶対すぐ別れるって』
『てか、蓮くんのタイプ、こういう子だったんだ。意外』
『一条玲香さんはどうなったの!?』
好意、嫉妬、詮索、そして私に対するあからさまな侮蔑。あらゆる感情がスマートフォンの画面の中で渦を巻いていた。顔も知らない人々が私のことを好き勝手に語っている。私の容姿、性格、そして蓮くんとの関係性。その一つ一つの言葉が鋭いガラスの破片となって私の心に突き刺さる。胃がぎゅっと縮こまるような感覚。息がうまくできない。
私は慌ててアプリを閉じた。しかし一度見てしまった光景は脳裏に焼き付いて離れない。「地味な子」「釣り合わない」。分かっていたことだ。私自身が誰よりもそう思っている。でもこうして文字として突きつけられると、その威力は想像以上だった。
これが彼の隣に立つということの代償。これが彼が言っていた「面倒なこと」の一端。私はこの嵐が過ぎ去るのを、夏休みが終わるまでひたすら耐えなければならないのだ。
その日は一日中、私は部屋から一歩も出ることができなかった。カーテンを閉め切り、薄暗い部屋の中でただベッドの上にうずくまっていた。SNSの通知が怖くてスマホの電源も切ってしまった。アカリからの着信にも気づかないふりをした。
月曜日の朝。私は目の下にうっすらと隈を作ったままキッチンに立った。今日からまた図書館に通う日々が始まる。いつも通りの日常に戻るのだ。そうすればこのざわつく心も少しは落ち着くかもしれない。そう信じたかった。
しかしアパートの扉を開けた瞬間から、世界は今までとは全く違う貌(かお)をしていた。告発するような夏の太陽、嘲笑うかのように鳴り響く蝉時雨。そのすべてが私の罪を暴こうとしているように感じられた。駅までのわずか十分の道のりが、永遠に続く拷問のように長い。
駅のホームで電車を待っている時だった。視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に立つ見慣れない制服を着た女子高生のグループが、こちらを指差してひそひそと囁き合っているのが見えた。
「……月島くんの……」
「マジ?あの子?」
「写真より地味じゃない?」
聞こえてきた言葉の断片に心臓が氷の爪で掴まれたように痛んだ。顔から血の気がさあっと引いていく。私は咄嗟に鞄から文庫本を取り出し、顔を隠すように本の影にうずくまった。やめて。見ないで。私は風景なの。あなたたちの物語には登場しないただの背景の一部なの。そう心の中で叫んでも突き刺さる視線が消えることはなかった。風景としての私の存在意義が根底から脅かされている。この恐怖は小学生の時に浴びた非難の視線とはまた違う、じっとりと粘着質で逃げ場のない息苦しさを伴っていた。
やっとの思いでたどり着いた市立図書館。ここだけが私の最後の聖域のはずだった。静寂と古い紙の匂い。そこでは誰も私に注目しない。私はただ無数の物語の中に埋没することができる。
いつものように閲覧室の一番奥の席に向かう。そこは窓から一番遠く、入り口からも死角になる私だけのお気に入りの場所だ。
しかしその日は違った。
私がその席に向かう途中、何人かの女子高生がひそひそと私を見ながら囁き合っているのに気づいてしまった。きっと同じ高校の子たちだろう。彼女たちの視線は明らかに私に向けられていた。
「あの子じゃない?」
「月島くんの……」
嘘でしょ。どうして。ここは学校じゃないのに。
私は慌てて顔を伏せ、足早に自分の席に向かった。心臓がまたうるさく鳴り始める。もうどこにも私の安住の地はないのだろうか。この契約は私の聖域さえも侵食し始めたのだ。
席についてようやく一息ついた時、ポケットの中のスマホが短く震えた。恐る恐る画面を確認するとメッセージアプリに一件の通知。送り主は中学時代の同級生だった。ほとんど話したこともない、クラスの隅にいた私とは対極の明るいグループにいた子からだった。
『上野さん、久しぶり!中学の時一緒だったあおいだよ!元気?いきなりごめんね!月島くんと付き合ってるって本当!?インスタ見てびっくりした!すごいじゃん!』
絵文字がふんだんに使われた悪意のない、純粋な好奇心だけのメッセージ。しかし今の私にはそれが土足で心の中に踏み込んでくるような、暴力的なものに感じられた。私の知らないところで私の物語が勝手に作られ、消費されていく。私はいつの間にか私自身ではなく『月島蓮の彼女』という見世物になっていた。返信などできるはずもなく、私はただ静かにスマホの画面を閉じた。
その日は全く本の内容が頭に入ってこなかった。ページをめくっても文字がただの黒い記号の羅列にしか見えない。周りの視線が気になって何度も顔を上げてしまう。誰も私を見ていなくても見られているような気がして、落ち着かなかった。
結局、私は一冊も読み終えることなく昼過ぎに図書館を後にした。家に帰る気にもなれずあてもなく町をさまよう。そして気がつけば私は近所の神社の前に立っていた。
古い石段を上り境内に入る。ここは子供の頃、よく遊びに来た場所だった。夏になると木陰が涼しくて、一日中ここで本を読んでいたこともある。
誰もいない境内は静かだった。私は拝殿の前のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げた。木々の葉が風に揺れ、太陽の光がキラキラと木漏れ日となって降り注いでくる。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ただ静かに、目立たずに生きていきたかっただけなのに。
膝の上で私は自分の手をぎゅっと握りしめた。その時ポケットに入れていたスマホが、ぶ、と一度だけ短く震えた。
恐る恐る画面を確認すると、そこには『月島 蓮』の名前が表示されていた。
心臓がどきりと跳ねる。昨日以来、初めての彼からの連絡だった。
メッセージは驚くほど短かった。
『昨日はサンキュ』
たったそれだけ。絵文字もスタンプもない。まるで借りたノートを返してもらった時のような事務的なお礼の言葉。
でもその無機質な六文字が私のささくれ立った心を、不思議と凪がせていくのを感じた。
「こちらこそ」と返すべきだろうか。いや、それでは馴れ馴れしいだろうか。「いえいえ」?それも違う気がする。既読だけつけて返信しないのが正解だろうか。
私はたった一言の返信に十分以上も悩み続けた。その行為がひどく馬鹿馬鹿しく思えたけれど、やめられなかった。
結局、私は何も返信することができなかった。
しかしその短いメッセージは私の心に小さな波紋を広げた。彼は私と同じように昨日のことを「業務」として捉えている。そうだ。それでいいのだ。私たちはただの契約相手。それ以上でもそれ以下でもない。そう思うことで私はかろうじて自分の心のバランスを保とうとしていた。
その日から私の夏休みは奇妙な二重生活の様相を呈し始めた。
昼間は図書館に通い、ひたすら物語の世界に没頭しようと努める。しかし集中力は続かず、ふとした瞬間にSNSのコメントや彼のことを考えてしまう。そして夕方になると蓮くんから次の「任務」の連絡が来るのだ。
『今週末、水族館。十時、現地集合』
『来週の火曜、読モの撮影で着る服、選ぶの手伝え』
そのメッセージはいつも唐突で、業務連絡そのものだった。でもそのメッセージが届くたびに私の心臓は律儀に跳ねて、そして次のデートのためにアカリを呼び出してファッションショーを繰り広げるのが、いつしか恒例になっていた。
「今度の水族館は涼しげな感じでいきたいよね!この青いスカートとかどう?」
「撮影現場ならちょっと大人っぽい感じがいいかな。この黒のワンピースとか?」
アカリはまるで自分のことのように楽しそうに私のコーディネートを考えてくれた。彼女のその明るさに私はどれだけ救われただろう。
「栞奈、最近、少し顔つき変わったよね。前よりちょっとだけ明るくなったっていうか」
ある日アカリにそう言われて私はドキリとした。
「そ、そうかな…」
「うん。気のせいかもしれないけど。まあ、いいことだよ!」
私は鏡に映る自分を見つめた。アカリにメイクをされ、いつもとは違う服を着た自分。それはまだ見慣れないけれど、でも以前のような「無」ではない、確かな「色」を持っているように見えた。
デートのない日は不安と自己嫌悪と、そしてほんの少しの期待が入り混じった落ち着かない日々だった。
蓮くんとのメッセージのやり取りは必要最低限。彼からデートの誘い以外の連絡が来ることは一切なかった。
それが契約なのだから当たり前だ。そう分かっていても心のどこかで、彼からほんの少しでもいいから個人的なメッセージが来ないだろうかと期待している自分がいることに気づいてしまう。
例えば「今日、部活疲れた」とか、「この前の映画の原作、ここまで読んだよ」とか。
そんなことを考えては「馬鹿みたい」と頭を振る。私は彼の偽物の彼女。彼の本当の日常に足を踏み入れる資格などないのだ。
夏休みが始まって一週間が経った。
私はこの奇妙な契約にも少しずつ慣れ始めていた。相変わらずSNSの誹謗中傷は怖かったし、街中で高校生に会うとびくびくしてしまう。でも蓮くんとの偽りのデートは、不思議と苦痛ではなかった。
それはきっと彼が私を「上野栞奈」として扱ってくれるから。
「この本面白そうじゃん。今度貸して」
「上野さんって意外と大食いなんだな」
「そのキーホルダー可愛いじゃん」
デート中の彼は時々、そんな風に私自身に関することに触れてきた。それが彼の計算なのか、それとも素の反応なのかは分からない。
でもそのたびに私の心は、小さく、しかし確実に揺れ動いていた。
風景だった私の世界に彼という太陽が、強引に光を投げかけてくる。
その光はあまりにも眩しくて、目を焼かれそうになる。
でも同時にその光が今まで知らなかった色の存在を、私に教えてくれていた。
デートのない日。私は図書館の窓から夏の強い日差しを眺めていた。
次のデートは明後日。水族館。
私は無意識のうちにペンギンのキーホルダーを指でなぞっていた。
そして考えてしまうのだ。
明後日、彼はどんな顔で私を迎えてくれるのだろうか、と。
これは契約なのに。
偽物なのに。
私の心はゆっくりと、しかし確実に彼に侵食され始めていた。
水族館でのデートから数日後の火曜日。その日の朝、私のスマホに届いた蓮くんからのメッセージはいつもとは少し毛色が違っていた。
『今日、午後から時間あるか。読モの撮影で着る服、選ぶの手伝え。原宿に三時』
読者モデル。その言葉を見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。それは彼が「太陽」である理由の一つであり、私が住む世界とは最も遠い場所にあるものだったからだ。正直に言えば行きたくなかった。彼がモデルとしてきらびやかな世界の住人として脚光を浴びている姿を、この目で見たくなかった。それは彼と私の間にある決して埋まらない溝を、改めて見せつけられることに他ならなかったからだ。
しかしこれは契約だ。「偽物の彼女」として彼の頼みを断ることはできない。それに彼がわざわざ私を呼ぶのには何か理由があるのかもしれない。玲香さんや彼の母親の目を欺くために、私が彼の「彼女」としてそういった場に顔を出す必要があるのだろう。私は「業務の一環です」と自分に言い聞かせ、重い指で『行けます』と返信した。
約束の時間少し前に原宿駅に着くと、その人の多さに私は圧倒されそうになった。夏休みの竹下通りは地方からの観光客や、色とりどりの髪をした若者たちでごった返している。クレープの甘い匂い、大音量で流れるJ-POP、客引きの甲高い声。そのすべてが混じり合い巨大なエネルギーの渦となって私に襲いかかってくる。まっすぐに歩くことさえ困難な人混みの中を私は必死で彼との待ち合わせ場所である、少し裏手に入ったカフェへと向かった。ショーウィンドウに映る自分の姿は、この街の色彩の洪水の中ではあまりにも無力で色褪せて見えた。アカリが選んでくれたお洒落なブラウスも、まるで借り物の衣装のように体に馴染まない。私は完全に場違いだった。今すぐ踵を返していつもの図書館の静寂の中に逃げ込みたかった。
カフェのテラス席に彼はいた。サングラスをかけ、雑誌から抜け出してきたような雰囲気でコーヒーを飲んでいる。その姿は完全にこの街の風景に溶け込んでいた。私が恐る恐る近づくと彼は私に気づき、サングラスを少しずらして片目をのぞかせた。
「よお。時間通りだな」
「こんにちは……」
「とりあえず中入れよ。暑いだろ」
彼はそう言うと私を店内に促した。冷房の効いた涼しい空間にほっと息をつく。
「急に悪かったな。今日、秋服の撮影なんだけど、スタイリストさんが用意した服がどうもしっくりこなくてさ。上野さんの意見も聞いてみようかと思って」
「私の、意見……?」
「ああ。この前の映画の時もそうだったけど、君、なんか、俺の好み、分かってる気がするから」
彼のその言葉に私はどう反応していいか分からなかった。私に分かるはずがない。あなたのことなんて、何も。そう言いたかったけれど喉の奥で言葉が詰まって出てこない。
撮影が行われるスタジオはカフェから歩いて数分の場所にある、お洒落なビルのワンフロアにあった。白い壁に大きな窓。たくさんの機材や衣装が並び、スタッフらしき大人たちが忙しそうに行き来している。それは私が今まで足を踏み入れたことのない全くの異世界だった。
「月島くん、お疲れ様です!こちらが彼女さん?」
ヘアメイクの女性がにこやかに話しかけてくる。
「ああ。ちょっと見学に」
蓮くんは私のことを「彼女」だとごく自然に紹介した。その度に私の心臓はぎゅっと締め付けられる。スタッフの人たちは私に興味深そうに、しかし好意的な視線を向けてきた。学校の生徒たちから向けられる嫉妬や詮索の視線とは違う。彼らにとって私は「月島蓮の彼女」という記号でしかないのだ。それが逆に私を少しだけ安心させた。
蓮くんはスタイリストが用意したいくつかのコーディネートに着替え、私の前に立った。
「で、どっちがいいと思う?」
彼は雰囲気の違うシャツを二枚持って私に尋ねる。一つは派手な柄の入ったシルクのようなシャツ。もう一つはシンプルな生成り色のリネンシャツ。
「え……と、どっちも素敵、ですけど……」
「そういう答えは求めてない」
私はおずおずと生成り色のリネンシャツを指差した。
「……こっちの方が、月島くんの、その……優しい雰囲気に合うかなって。派手な服も似合うと思うけど、こういうシンプルな方が月島くん自身の格好良さが引き立つ気がします」
自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきた。私の言葉を聞いて蓮くんは少し意外そうな顔をしたが、まんざらでもない様子でそのシャツを受け取った。
「……ふーん。そうか。じゃあこっちにする」
隣にいたスタイリストの男性が「なるほどね。確かにこっちの方が彼の素の魅力が出るかも。彼女さん、センスいいね!」と感心したように言った。その言葉に私の顔が熱くなるのを感じた。
撮影が始まると蓮くんの雰囲気は一変した。カメラマンの要求に応え次々とポーズを決めていく。その表情は私が知っている高校生の「月島蓮」ではなかった。プロのモデルの顔だった。ファインダーの向こうで彼は完璧な光の住人として輝いている。私はスタジオの隅の椅子に座り、ただその光景を黙って見つめていた。眩しくて直視できない。彼と私の間にある距離が絶望的なほどに遠く感じられた。
撮影が中盤に差し掛かった頃、スタジオの入り口が不意に開いた。
そしてそこに立っていたのは私が最も会いたくない人物だった。
「あら、蓮さん。撮影中でしたの?お疲れ様ですわ」
優雅な声と共に現れたのは一条玲香さんだった。彼女はシャネルのツイードのセットアップにハイブランドのバッグという、高校生とは思えない完璧な出で立ちだった。その場にいたスタッフたちが一瞬息を飲むのが分かった。スタジオの空気が彼女の登場によって一瞬にして張り詰める。それはまるで絶対的な女王が降臨したかのようだった。
「玲香さん、どうしてここに……」
蓮くんが撮影の合間に、困惑した表情で彼女に近づく。
「お父様から蓮さんのお仕事を見学してくるようにと仰せつかったものですから。差し入れも持ってまいりましたのよ」
彼女は持っていた高級洋菓子の紙袋を、近くのスタッフににこやかに手渡した。その振る舞いは完璧で隙がない。
そして彼女の視線がスタジオの隅に座っていた私を捉えた。完璧な微笑みを浮かべていたがその目は笑っていなかった。そして私のことを頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように一瞥した。
「こちらが噂の『彼女』?」
「ああ」
蓮くんは私の元へ歩いてくると、私の肩をぐっと引き寄せた。
「俺の彼女の上野栞奈だ。栞奈、一条さん」
「……どうも」
私は小さく頭を下げることしかできなかった。心臓が恐怖で凍りつきそうだった。
「……ふぅん」
玲香さんは面白そうに目を細めた。
「ずいぶんと……地味な方なのね。蓮さん、こういうのがお好みだったとは存じませんでしたわ。まあ、お母様が何とおっしゃるか…見ものですわね」
その言葉は静かなスタジオの中に鋭く響き渡った。刺すような見下すような言葉。しかし蓮くんは動じなかった。
「悪いけどこれからデートの続きがあるんで。撮影終わったらすぐ帰るから」
彼はそう言って玲香さんから私を庇うように、半歩前に立った。その大きな背中が私を彼女の冷たい視線から守ってくれている。でも私は少しも安心できなかった。むしろ彼のその行動が玲香さんのプライドをさらに傷つけているのが、手に取るように分かったからだ。
玲香さんは一瞬だけ悔しそうに唇を噛んだが、すぐに完璧な笑顔に戻った。
「そうですの。ではお邪魔にならないように、こちらで見学させていただきますわ」
彼女はそう言うと悠然と私から一番遠い席に腰を下ろした。しかしその視線は、ずっと私と蓮くんに注がれていた。それはまるで獲物を狙う蛇のような、冷たく執拗な視線だった。
蓮が撮影に戻った後、私はお手洗いに行くふりをして席を立った。玲香さんの視線から一秒でも逃れたかった。化粧室の鏡に映った自分の顔は血の気が引いて真っ青だった。冷たい水で顔を洗い深呼吸を繰り返す。大丈夫。これは契約。夏休みが終わればすべて終わる。
そう自分に言い聞かせ個室から出た、その瞬間だった。
入り口に玲香さんが腕を組んで立っていた。
「少し、よろしいかしら。上野さん」
「……!」
心臓が飛び跳ねた。二人きりだ。逃げ場はない。
「あなた、自分がどういう立場か理解していらっしゃる?」
彼女は冷たい声で言った。化粧室の白い照明が彼女の顔を青白く照らし出し、まるで能面のようだった。
「蓮さんは優しい方だからあなたのことを見捨てたりはしないでしょう。でもね、あなたは彼の隣に立つべき人間ではないの」
「……」
「彼には彼の世界がある。彼が背負っているものの重さをあなたに理解できる?彼の両親の期待、一条グループとの繋がり、将来のことも。あなたはただの高校生かもしれないけれど彼は違う。彼の行動一つ一つが多くの人間の利害に影響するの。そんな彼の隣にあなたのような…何も持たない、ただ地味なだけの女の子がいることが、どれだけ彼にとってマイナスになるか考えたことはあるのかしら?」
彼女の言葉は正論だった。正論だからこそ私の心を容赦なく抉っていく。
「私はね、蓮さんのことが好きよ。昔からずっと。だからこそ彼に相応しい人間になりたくて必死に努力してきた。勉強もマナーも、すべて。彼を支えるために。あなたにその覚悟がある?」
「私……は……」
「ないでしょうね。あなたはただ彼の優しさに甘えているだけ。彼の一時的な気まぐれに付き合っているだけ。でもね、その気まぐれが彼の未来を傷つけることになるのよ。本当に彼のことを思うなら身を引くべきだわ。それがあなたにできる唯一の、彼への誠意というものよ」
玲香さんはそう言うとふ、と嘲るように笑った。「まあ偽物の彼女に、誠意なんてもの期待するだけ無駄かしら」
彼女は私に背を向け悠々と化粧室を出て行った。
私はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。足が震えて力が入らない。
スタジオに戻ると蓮くんが心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「……大丈夫」
私はそう答えるのが精一杯だった。
その後の撮影の間、私は生きた心地がしなかった。玲香さんの言葉が呪いのように頭の中で繰り返される。
「あなたは彼の隣に立つべき人間ではない」。
蓮くんも玲香さんと私の間の険悪な空気を察しているのか、どこか動きが硬いように見えた。スタジオの中の空気は目に見えない火花が散っているかのように、張り詰めていた。
ようやく撮影が終わり私たちはスタジオを後にした。ビルを出た瞬間、夏のむっとした空気が私たちを包み込む。
「……ごめん。嫌な思いさせた」
蓮くんが申し訳なさそうに言った。
「ううん、平気……」
強がってはみたものの心は冷たく凍り付いていた。住む世界が違う。それは紛れもない事実だった。一条玲香という存在はそれを私に容赦なく突きつけてきた。
私たちはその後、ほとんど口を利かずに原宿の駅まで歩いた。雑踏の中、彼と私の間には気まずい沈黙が流れていた。
「じゃあ今日は助かった。ありがと」
駅の改札前で彼はそう言って私に背を向けた。その背中はどこかいつもより小さく、そして疲れているように見えた。
私は反対方向の電車に乗るためにホームのベンチに腰を下ろした。さっきまでの出来事がまるで悪い夢のようだ。目を閉じると玲香さんの冷たい瞳と、蓮くんの困ったような顔が浮かんでくる。
偽物の彼女を演じることはただデートをして写真を撮るだけの、簡単な「業務」ではなかった。彼の世界に足を踏み入れるということは彼の抱える問題や複雑な人間関係にも、否応なく触れてしまうということなのだ。
私にその覚悟はあっただろうか。
いや、なかった。私はただ自分の平穏が脅かされることだけを恐れていた。
電車がホームに入ってくる。その轟音に私ははっと我に返った。
ポケットの中でスマホが震えた。アカリからだった。
『撮影どうだった?』
私は今日の出来事を彼女にどう説明すればいいのか分からなかった。玲香さんのこと、蓮くんの疲れた顔のこと。そして玲香さんに言われた、あまりにも正しくて残酷な言葉のこと。
私はただ一言『疲れた』とだけ返信した。
窓の外を流れていく景色を眺めながら私はぼんやりと考えていた。
この契約が終わるまであと一ヶ月弱。
私はこの役を演じきることができるのだろうか。
それともその前に彼の世界の重さに耐えきれず、潰されてしまうのだろうか。
今日の出来事は私に、この「嘘」が決して甘いものではないということを改めて思い知らせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。風景でいることはなんて楽だったのだろう。誰からも期待されず、誰からも何も求められない世界はなんて安全だったのだろう。
私は今、嵐の真ん中にたった一人で立たされていた。
原宿での一件以来、私の心は厚い鉛色の雲に覆われていた。一条玲香さんに言われた言葉が壊れたレコードのように頭の中で何度も何度も繰り返される。「あなたは彼の隣に立つべき人間ではないの」。その言葉は私が心の奥底でずっと感じていた、しかし見て見ぬふりをしてきた事実を冷たい刃物のように突きつけてきた。それはあまりにも正しく、反論の余地すらなかった。私は彼の隣に立つための資格を何一つ持っていない。
あの日から三日間、蓮くんからの連絡はぱったりと途絶えた。それが私をさらに深い不安の沼へと引きずり込んでいった。スマホの画面を意味もなく何度もスライドさせる。メッセージアプリを開き、彼の名前が一番上にあることを確認してはため息をつく。もしかしたら彼も玲香さんと同じことを考えているのではないか。私のような地味で何も持たない女を「偽物の彼女」にしたことを後悔しているのではないか。あの撮影現場で玲香さんの隣に立つ私を見て、その「不釣り合いさ」に改めて気づいてしまったのではないか。彼からの連絡が途絶えたのは、この契約を静かに終わらせるための彼なりのサインなのではないか。そんな考えがぐるぐると頭の中を巡り、私は夜もよく眠れなかった。
アカリには玲香さんと会ったこと、そして彼女に言われたことを正直に話した。もちろんアカリは電話の向こうで烈火のごとく怒った。
「はぁ!?何様なのよ、その女!家柄がいいからって何言ってもいいと思ってんの!?てか蓮くんも蓮くんだよ!なんでそんなこと言わせてんのよ!」
「……でも彼女の言ってることは、間違ってないと思う…」
「何言ってんの!栞奈は栞奈だよ!誰かと比べる必要なんてないじゃん!それに蓮くんだってあんたがいいって言ったんでしょ!?」
アカリの言葉はいつもみたいに力強くて、ありがたかった。でも今の私の心にはその言葉はうまく染み込んでこなかった。玲香さんの言葉はあまりにも重く、そして正しかったからだ。アカリとの電話を切った後、私はベッドの上で膝を抱えた。もうやめてしまおうか。この馬鹿げた契約を今すぐ終わりにしようと彼にメッセージを送ろうか。そうすればこれ以上傷つくこともない。元の静かな「風景」に戻れる。
しかし指は動かなかった。ここで逃げ出したら私は本当に玲香さんの言う通りの「彼の優しさに甘えているだけ」の惨めな女の子になってしまう。それは嫌だ。たとえ偽物でも代用品でも、私はこの契約を最後までやり遂げる。それがこんな私を選んでくれた彼に対する、そして何より自分自身に対する最低限の意地だった。
そんな風に私が一人で暗い思考の海に沈んでいた金曜日の夕方。ポケットの中のスマホが久しぶりにぶ、と短く震えた。画面に表示された『月島 蓮』の文字に、私の心臓は大きく、痛いほどに跳ねた。
『今週末、水族館。十時、現地集合』
いつもと同じ、業務連絡のような短いメッセージ。でもそのメッセージを見た瞬間、私は安堵からか涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。契約はまだ終わっていなかった。彼はまだ私を「必要」としてくれている。たとえそれが偽物の関係だとしても。
私は震える指で『了解です』とだけ返信した。
デート当日。私はアカリが「水族館なら深海魚みたいな暗い顔してちゃダメでしょ!」と言って半ば強引に選んだ、海を思わせるような青いグラデーションのスカートを履いて家を出た。電車に揺られながら窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。住宅街が過ぎビルが並び、そして遠くにきらきらと光る海が見えてくる。その景色と自分の心境が重なって見えた。蓮くんと会うのは少し怖い。また彼の世界の重さを見せつけられるかもしれないから。でも同時にほんの少しだけ、彼に会いたいと思っている自分もいた。あの静かでどこか寂しそうな横顔を、もう一度見たい、と。
水族館は駅から少し離れた海沿いの公園の中にある。潮の香りが混じった風が私の髪を優しく揺らした。
水族館の入り口で彼は待っていた。白いTシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけ大人びた格好だった。私の姿を認めると彼は少しだけ気まずそうに、でもどこかほっとしたような表情で言った。
「よお。……この前は、悪かったな」
「ううん、別に……」
「あいつの言ったこと、気にしてないか?」
「……気にしてないよ」
私は嘘をついた。本当は気にしていないどころか、その言葉の棘がずっと心に刺さったままだ。でもそんなことを彼に言うことはできなかった。
彼は私の嘘を見抜いているのかいないのか、ふう、と小さく息を吐いた。
「まあ今日はそういうの全部忘れて楽しもうぜ。……いや、楽しんでくれ。契約だから」
彼は最後の言葉を慌てて付け足した。そのぎこちなさに私は少しだけ笑ってしまった。
水族館の中は薄暗い青い光に満ちていた。外の喧騒が嘘のように静かで幻想的な空間。巨大な水槽の中を色とりどりの魚たちが優雅に、そして自由に泳いでいる。その光景を見ていると私のささくれ立っていた心が、少しずつ凪いでいくのを感じた。
「……きれい」
私がぽつりと呟くと、隣で彼が言った。
「……だな」
その声はいつもより少しだけ穏やかに聞こえた。今日の彼は少し様子が違った。いつも周りに振りまいているあの完璧な笑顔はない。ただ静かに水槽の中を見つめている。その横顔は光の当たらない深海魚のように、どこか寂しそうに見えた。
「なんで、水族館に?」
私は思い切って尋ねてみた。
彼は少し驚いたように私を見ると、照れくさそうに頭を掻いた。
「……別に。なんとなく静かな場所がいいかなって。君も、俺も」
最後の「俺も」という言葉が私の胸に小さく響いた。彼もまたあの原宿での一件で疲れていたのかもしれない。玲香さんと私の間で板挟みになって。そう思うと彼に対して初めて「可哀想」という感情が芽生えた。
「……魚、見てると落ち着くんだ」
彼が言った。
「何も考えなくていいから。あいつらただ生きてるだけだろ。誰にどう見られるかとか、親の期待とか、そういうの一切気にしないでただ泳いでるだけ。……羨ましいよな」
その言葉は彼の心の奥底から漏れた本音のように聞こえた。いつも大勢の視線に晒されている彼。その彼が唯一安らげるのがこの誰にも何も求められない、静かな水槽の中なのかもしれない。玲香さんの言葉が再び私の頭をよぎる。「彼が背負っているものの重さを、あなたに理解できる?」。今ならその重さの、ほんの一端が分かるような気がした。
私たちはトンネル状になった大水槽の下をゆっくりと歩いた。頭上を巨大なエイやサメが、滑るように通り過ぎていく。青い光と水の揺らめきがまるで海の中にいるような錯覚を起こさせる。
「なあ」
彼が不意に立ち止まった。
「上野さんってさ、どうしてそんなに風景になりたいんだ?」
唐突な質問だった。私はどう答えるべきか言葉に詰まった。
「……目立つのが、嫌いだから」
「どうして?」
「……期待されるのが、怖いから」
「期待されるのが、怖い?」
彼は不思議そうに私を見た。彼にとって期待されることはきっと当たり前の日常なのだろう。
私は小学生の時の、あのリレーの話をした。転んでみんなに責められて、それ以来目立つことが怖くなったこと。私の拙い話が終わるまで彼は黙って真剣な顔で聞いてくれた。
「……そうか。そんなことがあったのか」
彼は何かを考えるようにしばらく黙り込んだ。そしてぽつりと言った。
「俺とは、逆だな」
「え?」
「俺は期待されないのが怖かった。親父にもオフクロにも。ずっといい子で優秀で、自慢の息子でいなきゃいけないって思ってた。期待に応えられない俺には価値がないって。だからずっと期待される自分を演じ続けてきた」
彼のその言葉は静かな水槽の中に重く響いた。
彼も私と同じだったのかもしれない。違うのは私が「消えること」を選び、彼が「演じること」を選んだということだけ。私たちは同じコインの裏と表だったのかもしれない。初めて彼との間に何か共通のものを見つけたような気がした。
私たちはペンギンのコーナーで足を止めた。よちよちと歩くその姿、水の中を弾丸のように泳ぐそのギャップが可愛らしくて、私は思わずふふ、と笑ってしまった。玲香さんのことも契約のことも一瞬だけ忘れられた、心からの笑いだった。
すると彼が私の方を見て言った。
「……やっと笑った」
「え……」
「君さ、今日ずっと何か我慢してる、みたいな顔してたから。玲香のこと、やっぱり気にしてたんだろ」
「……そんなこと、ないです」
「あるよ。俺、結構君のこと見てるから」
その言葉に私の心臓が大きく跳ねた。見てる?彼が?この私を?
今日のミッションである証拠写真の撮影。彼はいつものようにスマホを取り出した。
彼は私の肩に手を回しぐいと自分の方に引き寄せた。ペンギンの水槽を背景に。そして私の耳元で囁く。
「上野さん、ペンギン、好きだろ」
「……どうして、それを」
「だって君の筆箱にペンギンのキーホルダー、ついてる。入学した時からずっと」
ああ、そうだ。このキーホルダーは中学の時にアカリが誕生日プレゼントにくれたものだ。私が初めて心から「嬉しい」と思ってずっと大切にしている宝物。そんな私の個人的なことを彼が知っていた。その事実に私の胸は驚きと、そしてどうしようもない喜びで満たされた。
彼は続けた。どこか遠い目をして。
「……昔、知ってた奴もペンギンが好きだったんだ。そいつもここのペンギン見て、君みたいに嬉しそうに笑ってた。あいつ、いつも本ばっかり読んでて静かな奴だったけど、ペンギンの前だと子供みたいにはしゃぐんだ。そのギャップが、なんか、可愛くてさ……」
カシャ。
シャッター音が鳴る。
彼の言葉の意味を私は一瞬、理解できなかった。昔知ってた奴って誰?その疑問が胸に浮かんだが、すぐに掻き消えてしまった。
彼は撮れた写真を見て満足そうに頷く。
「……うん。今日のは結構いい感じじゃん。自然に笑ってる」
私はその写真を見ることができなかった。だってきっと、また私はあの時と同じ顔をしていたに違いないから。困ったように、でもどうしようもなく嬉しそうに笑っている、私の知らない私の顔。
それと同時に彼の言葉が小さな棘のように、心の隅に刺さったままだった。「君みたいに笑ってた」。その言葉はつまり、彼は私の笑顔の向こうに別の誰かを見ているということではないのだろうか。私の喜びは彼の過去の思い出を呼び覚ますための、きっかけに過ぎなかったのではないだろうか。
水族館を出ると外はもう夕暮れに差し掛かっていた。西日が海をオレンジ色に染めている。私たちは海沿いの遊歩道をあてもなく歩いた。
「なあ、上野さん」
彼がぽつりと言った。
「君の願い事、『忘れられること』だろ。それって俺のことも忘れたいってことか?」
「え……」
「この夏休みのことも、全部。なかったことにしたい?」
その問いに私はすぐに答えることができなかった。
契約を始めた当初はそう思っていた。一刻も早くこの悪夢が終わって元の静かな日常に戻りたい、と。
でも今は。
映画館で同じ本が好きだと知った時のこと。夏祭りの夜、人混みの中で掴まれた手のこと。そして今日の水族館でのこと。
偽物のはずの思い出が私の心の中で、本物の輝きを放ち始めていた。
これをすべて、なかったことになんてできるのだろうか。
「……分からない」
私は正直にそう答えた。
「そっか」
彼はそれ以上は何も聞かなかった。
波打ち際まで歩いていくと彼は立ち止まり、砂浜に何かを書き始めた。それは私の名前『栞奈』という二文字だった。そしてすぐに波がそれをさらっていく。
「……なあ、この契約、やっぱりやめとくか?」
彼が海を見つめたまま呟いた。
「え……?」
「君の願い事を俺は本当に叶えていいのか、分からなくなった。君を『忘れさせる』ことなんて、俺にできるのかな」
彼のその言葉は告白でも何でもない。ただの独り言のようなものだったかもしれない。でもその言葉はこの日、私が見たどんな魚よりもどんなペンギンよりも、私の心を深く、そして強く揺さぶった。
彼の周りを漂う空気がいつもよりずっと優しく、そして切なく感じられたのは、きっと夕暮れの海のせいだけではなかっただろう。
私の偽物の恋は静かに、そして確実に複雑な様相を呈し始めていた。
それはもうただの「契約」という言葉だけでは、割り切れないものに変わりつつあった。
※
自室のベッドに身を投げ出し、月島蓮は深く長い溜息をついた。
窓の外はすでに深い藍色に染まり、部屋の中は間接照明の微かな光だけが支配している。モデルルームのように整然とした、しかしどこか人間味のないこの空間は、彼が普段演じている「完璧な月島蓮」という虚像そのもののようだった。
「…………」
無言のまま彼はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラロールを開く。指が滑るように画面をスクロールし、そして今日撮った一枚の写真で動きを止めた。
ペンギンの水槽を背景に、驚きと困惑と、そしてどうしようもないほどの喜びが混じり合った複雑な表情で笑う少女。上野栞奈。
(……なんだよ、この顔……)
蓮は無意識のうちに指でその写真を拡大していた。
彼女の少しだけ潤んだ瞳。ほんのりと赤く染まった頬。ぎこちなく、しかし確かに綻んでいる唇。
それは彼が今まで見てきたどんな作り笑いとも違う、無防備であまりにも生々しい、本当の笑顔だった。
水族館での自分の言葉を思い出す。
『君みたいに、嬉しそうに笑ってた』
あの時は本気でそう思っていた。ペンギンを見て無邪気にはしゃぐ栞奈の姿が記憶の中の「みゆ」と重なったのだ。いつも本の影に隠れていた少女が唯一見せてくれた、屈託のない笑顔。俺は、その笑顔に会いたくてずっと彼女の幻影を追い求めてきたのだと、そう信じていた。
しかし今、この静かな部屋で一人、栞奈の写真を見つめていると、蓮の心に確かな違和感が生まれていた。
本当に同じだっただろうか。
彼は必死に記憶の引き出しを探り、セピア色の思い出の中にいる「みゆ」の笑顔を思い浮かべようとした。それは確かに愛おしい記憶だった。守ってやりたいと思わせる儚い少女の笑顔。
だが栞奈の笑顔はそれとは全く質が違った。
彼女の笑顔は守ってやりたい、などという庇護欲を掻き立てるものではない。むしろ逆だ。その笑顔を見ているとがんじがらめになっている自分の心が、解き放たれていくような感覚に陥る。息苦しい現実の中でほんの一瞬、呼吸が楽になる。救われるのは彼女ではなく、俺の方なのだ。
(似ている、と思っていた。でも、違う。全然、違う……)
栞奈はみゆの代用品などではなかった。彼女は上野栞奈という唯一無二の存在として、静かに、しかし確実に俺の心のテリトリーを侵食し始めていた。
彼女のあのリレーの話を聞いた時もそうだ。期待されることの重圧に潰されたという彼女の痛々しい告白は、期待に応え続けることで自分を保ってきた俺の生き方とは正反対だった。だがその根底にある「他人の視線に縛られている」という苦しみは驚くほど似ていた。俺は初めて本当の意味で他人に共感し、その傷に触れたいと思ったのかもしれない。
そこまで考えた時、スマートフォンの画面が切り替わり一件のメッセージ通知が表示された。
送り主は『母』。
『蓮。来週の星華グループ主催のパーティーの件、どうなっていますか。玲香さんとご一緒するのが筋でしょう。お父様もそうおっしゃっています』
その冷たく有無を言わさぬ文面を見た瞬間、栞奈の写真を見て温かくなっていた蓮の心は急速に冷えていった。まるで温かい部屋にいたのに突然、極寒の屋外に放り出されたかのようだ。
そうだ。これだ。これが俺の現実。
親の期待、家柄、将来。見えない鎖が彼の四肢に絡みつき、締め上げてくる。
彼はこの息苦しさから逃れるための「盾」として、栞奈を利用したのだ。
(最低の男だ、俺は……)
自己嫌悪が黒い泥のように心の底から湧き上がってくる。
彼女のあの純粋な瞳を思い出す。嘘や計算とは無縁の、ただ静かに世界を見つめているあの瞳。そんな彼女を俺は自分の都合で汚している。
蓮はスマートフォンの画面を消し、乱暴にベッドサイドに放り投げた。もう彼女の写真を見る資格すらないように思えた。
彼は天井を仰いだまま目を閉じた。
契約が終わったら彼女の願い通り、全てを忘れさせ完璧な壁紙に戻してやる。それが俺にできる唯一の償いだ。そう自分に言い聞かせる。
しかし彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、もうセピア色の思い出の中にいる少女の姿ではなかった。
今、この瞬間を生きる、不器用で儚くて、そして誰よりも強い光を放つ一人の少女の姿だった。
(……あのペンギン、あいつ、ちゃんと部屋に飾ってんのかな……)
そんな契約とは何の関係もない他愛もないことを考えている自分に気づき、蓮は自嘲するように小さく息を吐いた。
※
水族館でのデートから数日後。蓮からの連絡は、彼の内面を吐露するような短いメッセージが時折届く以外、途絶えていた。私はその静かな時間を、彼の心の揺れ動きの表れなのだろうかと、淡い期待と不安の入り混じった気持ちで過ごしていた。
そんな水曜日の夜、私のスマホがけたたましく鳴った。表示されたのは『月島 蓮』の文字。メッセージではなく着信だった。心臓が跳ね上がり私は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『……上野さんか?俺だ』
電話の向こうから聞こえてくる彼の声はいつもよりずっと低く、張り詰めていた。
『緊急事態だ。今週末の土曜、夜、空けられるか』
「え……?う、うん。大丈夫だけど……」
『悪い。詳しいことは後で話す。とにかく絶対に空けといてくれ。……頼む』
それはいつものデートの誘いとは明らかに違う、切羽詰まった響きを持っていた。頼む、と最後に付け加えられたその言葉が彼の状況の深刻さを物語っているようだった。
翌日、彼は学校の昼休みに人気のない中庭のベンチで私を待っていた。そして重い口を開いた。
「今週末、親父が院長やってる病院のチャリティーパーティーがあるんだ」
彼は忌々しげにそう言った。
「毎年恒例の地元の名士とか取引先とかが集まる、クソつまんない見本市みたいなもんだ。で、オフクロが…一条玲香を俺のパートナーとして連れてくるようにって、勝手に話を進めてやがった」
その名前に私の心臓がちくりと痛んだ。原宿でのあの冷たい瞳が蘇る。
「断った。『俺には付き合ってる人がいるから、その人を連れて行く』って。そしたらオフクロ、『じゃあ、その方をぜひご紹介いただきたいわ』だってよ。完全に俺を試してるんだ」
彼の話を聞いて血の気が引いていくのが分かった。つまり私は彼の両親や一条玲香がいる、まさに敵の総本山とも言える場所に「彼女」として乗り込まなければならないということ……?
「む、無理だよ!そんな場所……!私みたいなのが行けるわけない……!」
私は思わず立ち上がっていた。ドレスコードは?テーブルマナーは?大人たちの値踏みするような視線の中で、私はきっと石のように固まってしまう。
「頼む、上野さん」
彼は私の腕を掴んだ。その手は少しだけ震えていた。
「君がいないと俺は、あそこでまた『完璧な月島家の跡取り』を演じなきゃいけなくなる。玲香を隣に置いて愛想笑いを振りまいて……。考えただけで窒息しそうなんだ。君が隣にいてくれるだけでいい。ただそこにいてくれるだけで、俺は息ができる」
その声はあまりにも切実で悲痛だった。彼は私を「盾」として必要としている。でもそれだけではない、心の底からのSOSが聞こえたような気がした。私は彼の助けを求めるような瞳から、目を逸らすことができなかった。
もちろんその日の放課後、私はアカリに泣きついた。
「……というわけで私、処刑台に上ることになりました……」
事情を聞いたアカリは最初こそ「はぁ!?何考えてんのよ月島蓮!あんたを矢面に立たせる気!?」と激怒していたが、やがてその瞳に好戦的な光を宿した。
「……上等じゃない。行ってやろうじゃないの、ガラスの城の舞踏会に!あんたをただの壁紙だと思ってる奴らの度肝、抜いてやろうよ!」
その週末、私の部屋はまたしてもアカリの持ち込んだ服や化粧品で戦場のようになった。
「あんたのクローゼットにあるような地味な服じゃ門前払いよ!」
アカリが最終的に選んだのは彼女が自分の姉から借りてきたという、一着のドレスだった。夜空のような深いネイビーブルーのシンプルなデザイン。派手な装飾はないけれど、動くたびに上品な光沢を放つシルクの生地が私の肌をいつもより白く見せた。
「これならあんたの雰囲気も殺さないし、でもちゃんと『彼の隣に立つ女性』に見える。……いい?栞奈。あんたは月島蓮が選んだ女なの。胸張りなさい。あんたは風景なんかじゃないんだから」
鏡に映る知らない自分。アカリに施されたナチュラルながらも華やかなメイクと上品なドレス。それは偽りの姿かもしれない。でもアカリの力強い言葉が私の背中をほんの少しだけ押してくれた。
パーティー会場のホテルに到着すると、その絢爛豪華な雰囲気に私は息を飲んだ。高い天井にはシャンデリアが輝き、クラシックの生演奏が流れ、着飾った紳士淑女たちがグラスを片手に談笑している。それは私が今まで生きてきた世界とは完全に断絶された異次元空間だった。
入り口で待っていた蓮は黒のタキシードに身を包んでいた。いつもよりずっと大人びて、近寄りがたいほどのオーラを放っている。しかし彼は私の姿を認めると一瞬、息を飲むように目を見開き、そして驚きと感嘆の入り混じった表情で言った。
「……上野さん……。すごく、きれいだ」
その心からの言葉に私の顔がかあっと熱くなる。彼にエスコートされ会場に足を踏み入れる。その瞬間から無数の視線が私たちに突き刺さった。
すぐに一条玲香がシャンパンゴールドのドレスを身にまとって優雅に近づいてきた。
「まあ、蓮さん。こちらが例の『彼女』?……ずいぶんと頑張っていらっしゃったのね。そのドレス、どこかのレンタルかしら?」
相変わらずの見下すような物言い。私が何も言えずにいると、蓮が私の前に半歩出て冷たい声で言った。
「玲香。彼女は俺が招待したゲストだ。失礼な口を利くのはやめろ」
その時だった。私たちの背後から穏やかだが威圧感のある声がした。
「蓮。その方を、紹介してくれないか」
振り返るとそこにいたのは蓮とよく似た顔立ちの、しかしもっと厳格な雰囲気を持つ紳士と、上品な着物を着こなした貴婦人だった。蓮の両親だ。
「父さん、母さん。こちらは上野栞奈さん。俺の、大切な人だ」
蓮は私の腰をぐっと引き寄せそう紹介した。彼の母親はにこやかに微笑みながらも、私を頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように見ていた。そして父親に至っては私に一瞥をくれただけで、興味なさそうに蓮に言った。
「お前もいつまでも遊び惚けていないで、自分の立場というものを考えなさい。隣に立つべき相手は誰なのか。星華グループとの繋がりは我々にとって、そしてお前にとっても将来を左右する重要なことだ。…くだらない感傷で道を誤るな」
その言葉は私という存在を完全に無視した、冷たい宣告だった。空気が凍りつく。私がその場に崩れ落ちそうになった、その時。
「父さん」
蓮が今まで聞いたこともないような、静かで、しかし燃えるような怒りを込めた声で言った。
「こちらは俺が俺自身の意志で選んだ人です。俺の生き方に口出しするのはやめていただきたい。それに……彼女のことを、あなたに悪く言われる筋合いはない」
それは完璧な「優等生」である彼が初めて見せた、はっきりとした反抗だった。彼の父親は驚いたように目を見開き、そして不快そうに顔を歪めた。
「……いいだろう。好きにするがいい。だが後悔するのはお前自身だ」
そう言い残し彼の両親は去っていった。
嵐が過ぎ去った後、蓮は「行こう」とだけ言って私の手を引いてその場を抜け出した。
ホテルの外のテラスは嘘のように静かだった。私たちはしばらく黙って遠くに見える街の夜景を眺めていた。
「……ごめん。最低の夜に付き合わせた」
彼が申し訳なさそうに呟いた。
「ううん……」
「でもありがとう。君がいてくれなかったら俺はまた、あの場所で『いい息子』を演じ続けて息ができなくなってた。…なんだか君が隣にいると本当の自分でいられる気がするんだ。君が俺を人間に戻してくれる」
その言葉はどんな甘い愛の囁きよりも、私の心に深く、そして温かく染み渡った。私は彼の世界の息苦しさを、そしてその中で必死にもがく彼の本当の姿を垣間見た気がした。
この人は太陽なんかじゃない。ガラスの城に囚われた孤独な王子様なんだ。
そして私はそんな彼の隣に、もう少しだけいたい。たとえそれが偽りの関係だとしても。
そう強く思ってしまった。
水族館で交わした最後の会話が私の心にさざ波のように広がり続けていた。「君を『忘れさせる』ことなんて、俺にできるのかな」。彼のあの呟きは一体どういう意味だったのだろう。契約の撤回を示唆する言葉だったのか、それとももっと別の、私にはまだ理解できない感情が込められていたのか。考えても答えは出ない。ただあの日の夕暮れの海と、彼の寂しげな横顔がまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
気づいたら蓮くんとのメッセージのやり取りにほんの少しだけ変化が生まれていた。相変わらず業務連絡が基本であることに変わりはない。でも時々、本当にごく稀に、彼の日常のかけらが垣間見えるようなメッセージが届くようになったのだ。
『部活の練習、きつすぎ。死ぬ』
『この前見てた映画の原作、やっと読み終わった。やっぱ、ラストは本の方が好きだわ』
そんな短い他愛もないメッセージが届くたびに私の心臓は律儀に跳ねた。そしてどんな言葉を返せばいいのか三十分以上も悩むことになる。「お疲れ様」では素っ気ないだろうか。「私もです」と共感を示すべきか。結局気の利いた返信などできるはずもなく、いつも当たり障りのないスタンプを一つ送るのが精一杯だった。それでも彼が私に契約とは関係のない言葉を送ってくれるという事実そのものが、私の心をじんわりと温かくした。
そんなやり取りが数回続いた八月の初めの週。彼から次の任務指令が届いた。
『今週末、神社で夏祭りあるらしい。行くぞ。写真映えしそうだから』
夏祭り。その言葉を見た瞬間、私の頭に浮かんだのは色とりどりの浴衣を着て楽しそうに笑い合うクラスメイトたちの姿だった。私は今まで夏祭りというものにまともに行ったことがない。小学生の頃に親に連れられて行ったきりだ。人混みが苦手だし一緒に行く友達もアカリ以外にはいなかったから。アカリに誘われたこともあったけれど、いつも適当な理由をつけて断っていた。きらきらした楽しそうな場所に行けば行くほど、自分の「風景」としての存在が際立って惨めになるのが怖かったのだ。
『浴衣、持ってんの?』
続けて届いたメッセージに私はどきりとした。
『持ってません』
嘘だ。タンスの奥に母が私のために仕立ててくれた浴衣が一枚、眠っている。白地に紺色の朝顔が描かれた少し古風なデザインのものだ。中学の時に一度だけ袖を通したが、似合わない気がしてそれ以来ずっと仕舞い込んだままだった。
『そっか。まあ、私服でいいや』
彼のその返信に私はなぜか少しだけがっかりしている自分に気づいた。
もちろんこの一連のやり取りはすぐにアカリの知るところとなった。
「はぁ!?夏祭り!?青春ラブコメの王道イベント、キター!」
アカリは私の部屋に駆け込んでくるなりそう叫んだ。
「しかも浴衣!?絶対に着ていくしかないでしょ!」
「でも、私服でいいって……」
「馬鹿!男子の言う『私服でいい』は社交辞令!あれは『浴衣とか着てきてくれたら、めっちゃ嬉しいな』っていう願望の裏返しなの!ここで浴衣を着ていかない女はモテないのよ!」
アカリの断定的な物言いに私はぐうの音も出ない。
「それに、あんたのお母さんが作ってくれた浴衣、あるでしょ!あの朝顔のやつ!めっちゃ可愛いじゃん!あれを着ないでどうすんの!」
「でももう何年も着てないし、着付けもできないし……」
「私がやってあげる!任せなさい!」
そして祭り当日。私の部屋はまたしてもアカリの私物で溢れかえっていた。
アカリは慣れない手つきながらも一生懸命に私に浴衣を着付けてくれた。きつく締められた帯に息が少し苦しい。
「まあ、あんたらしいっちゃあんたらしいけどさ。もうちょっと色気があってもいいんじゃないの?」
アカリは私の姿を見て呆れながらも、私の髪を器用に結い上げうなじに少しだけおくれ毛を残して、完璧な「やまとなでしこ」に変身させてくれた。鏡に映る自分の姿はまだ見慣れないけれど、でも悪くないかもしれないと少しだけ思った。
神社の鳥居の下。慣れない下駄に足を取られ鼻緒が擦れて痛い。約束の時間に少し遅れてしまった。彼を待たせてしまっただろうか。すでに大勢の人で賑わう境内。その人混みの中、彼の姿を探す。
「……悪い、待った?」
背後から声をかけられ振り返ると、そこにいたのは紺色の甚平を着た月島くんだった。髪も少しだけセットしていて、いつもより少しだけ幼くそして無防備に見える。彼は私の姿を認めるといつも涼しげなその目をほんの少しだけ見開いて、そして固まった。
「……お」
彼は何か言いかけてやめた。そして少しだけ照れくさそうにごしごしと頭を掻く。
「……甚平とか着てくんの俺だけかと思って、ちょっと恥ずかしかったわ。……でも、まあ、お前も似合ってんじゃん、それ」
その言葉は彼なりの最上級の褒め言葉なのだろうか。私の顔がかあっと熱くなる。「お前」といういつもと違う呼び方にも心臓が大きく跳ねた。
人混みの中を私たちは肩が触れ合うか触れ合わないかの距離で並んで歩く。浴衣の袖が時々彼の腕に触れるたびに心臓が大きく跳ねた。射的、金魚すくい、りんご飴。私たちはまるで本物の恋人同士のように夏祭りを楽しんだ。いや、楽しんでいるフリをした。でもその「フリ」があまりにも楽しくて、私はこれが嘘だということを忘れそうになっていた。
射的の屋台で彼が冗談半分でコルク銃を構えた。「見てろよ、上野。あのデカい景品、取ってやっから」と言って狙いを定めたが、弾は明後日の方向に飛んでいった。屋台のおじさんに笑われ彼は「くそっ!」と本気で悔しがっている。その子供みたいな姿がなんだかとても可愛らしく思えた。
金魚すくいでは私が思ったよりもうまくて三匹もすくうことができた。蓮くんは一匹もすくえずにあっという間にポイを破ってしまう。「なんでだよ!?」と本気で首を傾げる彼に私は思わず笑ってしまった。「貸してみ」と言って私のポイを奪おうとする彼と、小さな水槽の前でじゃれ合う。その瞬間、周りの喧騒も契約のこともすべてが遠くに消えていった。
「お、月島じゃん!」
不意に後ろから大きな声で呼び止められた。振り返るとそこにいたのはバスケ部の友人、ケンタくんだった。
「何、お前、彼女とデート?うわ、マジじゃん!」
彼は私を上から下まで値踏みするようにじろじろと見た。
「へえ、こういうのがタイプだったんだ。意外。まあ地味だけど浴衣着てると、結構可愛いんじゃん?」
その無遠慮な言葉と視線に私の顔から血の気が引いた。さっきまでの楽しい気分が一瞬にして冷めていく。やめて。そんな風に見ないで。
「……うるせえな、ケンタ」
月島くんが地を這うような低い声で言った。その瞬間、彼は私の前に庇うように半歩足を踏み出した。そして私の腕を掴むとぐいと自分の方に引き寄せ、その場から足早に立ち去った。
「あ、わりい、わりい!邪魔して悪かったな!」
ケンタくんの悪びれない笑い声が背後から聞こえてくる。私は彼の大きな背中を見つめることしかできなかった。
「……ごめん」
少し歩いたところで彼がぽつりと言った。「あいつ、ああいうノリなんだ。悪気はないから気にしないで」
「……はい」
「……それに、あいつの言うこと、全部嘘だから」
「え?」
「俺のタイプとか、あいつ全然分かってねえし」
彼はそう言って少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。その意外な表情に私は思わずふふ、と笑ってしまった。
「……なんだよ」
「いえ……月島くんもそういう顔するんだなって。なんだか可愛いです」
「……うるさい」
彼はそう言ってぷいと前を向いてしまった。その耳が少しだけ赤くなっているように見えたのは、きっと祭りの提灯の光のせいだ。
私たちは神社の境内から少し離れた、喧騒の届かない石段の上に腰を下ろした。ここからは街の夜景と、これから打ち上げられるであろう花火がよく見えるらしい。
「……夏祭りとか、いつ以来だろ」
彼がぽつりと呟いた。
「昔は親に無理やり連れてこられてたけどな。地元の名士との顔合わせ、とか言ってさ。全然楽しくなかった。お前といる方がよっぽどマシだ」
その横顔はいつも学校で見せる完璧な笑顔とは違う、どこか寂しげな表情をしていた。太陽みたいに見える彼にも誰にも見せない影の部分があるのかもしれない。そう思うと少しだけ彼との距離が縮まったような気がした。
ヒュ〜〜〜、ドン!
遠くで音がして夜空に大きな光の花が咲いた。花火が始まったのだ。
赤、青、緑、金。次々と打ち上げられる光の大輪に私はただ黙って空を見上げていた。隣で彼も同じように空を見上げている。その横顔が花火の光に照らされて一瞬、一瞬、違う色に染まっていく。きれいだ、と、思った。夜空に咲く大輪の花火よりも、ずっと。
その時だった。彼が不意にこちらを向いた。そして私の頬にそっと手を伸ばす。
「……髪に、ゴミ、ついてる」
彼はそう言って私の髪についた小さな木の葉を取ってくれた。その長い指先が私の頬をゆっくりと、優しくかすめる。その感触に私の思考は完全に停止した。
ドン!とひときわ大きな花火が打ち上がる。その音と光に紛れて私は彼に吸い寄せられるように顔を近づけてしまいそうになった。
まずい。これは嘘。これは契約。私は本気になんて、なっちゃいけないのに。
私がパニックになっていると彼がはっと我に返ったようにスマホを取り出した。
「……あ、今の結構いい感じじゃん。撮るぞ」
その声はいつものクールな彼の声に戻っていた。
「はい、こっち見て、笑って」
カシャ。
シャッター音が鳴る。さっきまでのあの甘い雰囲気はすべて消え去っていた。そうだ。これも全部契約のため。偽物の思い出を作るための、ただの作業。
写真の中の私はきっとひどく情けない顔をしていただろう。泣き出しそうなのを必死に堪えて、無理やり笑っている嘘つきな私の顔。
花火が終わり帰り道。私たちはまたほとんど口を利かなかった。しかしその沈黙は今までのどんな沈黙よりも重く、そして甘く感じられた。さっきの彼の指の感触が、まだ私の頬に熱く残っている。
駅の改札で別れる時、彼は何かを言いたそうにしばらく私を見つめていた。しかし結局何も言わずに、「じゃあな」とだけ言って人混みの中に消えていった。
家に帰り浴衣を脱いで一人になると、祭りの喧騒が嘘のように静かだった。
スマホを開くと蓮くんがさっき撮った写真をSNSにアップしていた。
『#夏祭り #花火 #来年も』
その最後のハッシュタグが鋭い刃物のように私の心を突き刺した。
来年なんてない。
私たちの関係の余命はあと三週間。
夜空に咲いては消えていく花火のように。
この恋もどきも夏休みが終われば、すべて跡形もなく消えてしまう儚い幻なのだ。
私はスマホを握りしめたままその場にうずくまった。胸が痛くて苦しくて、たまらなかった。
これは偽物の恋のはずなのに。
どうしてこんなに心が痛むのだろう。
夏祭りの夜が明けてから私の日常は静かな熱病に浮かされているかのようだった。彼の指先が頬をかすめた感触。耳元で囁かれた言葉。そしてSNSに残された『#来年も』という残酷なハッシュタグ。それらが私の頭の中で飽きもせずリフレインし、そのたびに私の心は甘く、そして鋭く痛んだ。偽物だと分かっているのに本物の思い出のようにきらきらと輝いて、私の心を蝕んでいく。風景でいることに安住していたはずの私の世界は、彼という太陽によってその静かな均衡を完全に崩されていた。
彼からの連絡は以前よりも少しだけ頻繁になった。相変わらず業務連絡が主であることに変わりはないが、その行間にほんのわずかながら個人的な感情が滲んでいるように感じられるようになったのだ。
『昨日のテレビ、面白かったな。お笑い芸人のやつ』
『今日、練習で監督にめちゃくちゃ怒られた。最悪』
そんなメッセージが届くたび私はスマホを握りしめ、返信に三十分以上も頭を悩ませた。なんと返せば彼の心を少しでも軽くできるだろうか。どんな言葉を選べばこの偽物の関係に亀裂を入れずに、彼に寄り添うことができるだろうか。結局いつも送れるのは気の利かないスタンプだけだったけれど、そのやり取り自体が私の日常の中で大きな意味を持つようになっていた。
アカリはそんな私の変化を敏感に察知していた。
「あんた、最近、スマホ見てニヤニヤしてること増えたよね」
ある日私の部屋に遊びに来た彼女が、じっと私の顔を覗き込んで言った。
「そ、そんなことないよ!」
「あるね。絶対ある。……もしかしてあんた、本気で月島くんのこと……」
「違う!」
私は食い気味に否定した。その声が自分でも驚くほど大きくて必死だった。アカリはそれ以上は何も言わず、ただ「そっか」とだけ言って少し寂しそうに笑った。彼女にはきっとお見通しなのだろう。私がこの契約という名の沼に足を取られて溺れかけていることを。
夏休みが半分を過ぎた八月も半ばに差しかかった頃だった。
その日も私はいつものように市立図書館の二階、閲覧室の一番奥の席で本を読んでいた。しかし全く集中できない。物語の活字は目の上を滑っていくだけ。私の意識は次に彼からいつ連絡が来るかということだけに、囚われていた。
その時ポケットの中のスマホが、ぶ、と震えた。慌てて画面を確認するとそこには『月島 蓮』の文字。
『明日、図書館。課題、手伝え』
図書館。デートの場所としてはあまりにも地味で、ロマンチックさのかけらもない。でも私にとってはそこは世界で一番落ち着ける私の聖域だった。そんな場所に彼が来る。それがなぜかひどく特別なことに思えて、私の心は期待に震えた。彼と静かな場所で二人きりで過ごせる。ただそれだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
翌日、私は少しだけお洒落をして図書館へ向かった。アカリに言わせれば「相変わらず地味」なのだろうけれど、私にとっては精一杯の勇気だった。
閲覧室の一番奥の席。そこは私の聖域だったはずなのに、彼はその場所に当たり前のような顔をして座っていた。参考書やノートを広げているがその目は少しも集中していない。私が近づくと彼は顔を上げた。
「よお。悪いな、急に」
「ううん。課題、終わってないの?」
「まあな。てか、お前、いつもここにいるよな」
「うん。静かだから」
私たちは小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。聞こえてくるのはページをめくるかすかな音と、クーラーの静かな作動音だけ。その穏やかで静かな時間が私にはひどく心地よかった。華やかな場所よりも賑やかなイベントよりも、こうして静かな場所で彼と二人きりでいる時間の方がずっと満たされているような気がした。私は自分の参考書を開き、彼は彼のノートに視線を落とす。会話はない。でもすぐそこに彼がいる。その気配を感じられるだけで心が温かくなる。この時間がずっと続けばいいのに。偽物の恋人としてではなく、ただのクラスメイトとしてでもなく、もっと違う名前のない穏やかな関係で彼の隣にいられたら。そんな叶うはずのない願いが、胸の奥で芽生え始めていた。
しかし私はすぐに彼の様子がおかしいことに気づいた。彼が見ていたのは受験勉強の参考書ではなく、この街の古い住宅地図や数年前の卒業アルバムだった。住宅地図には赤や青のペンで、いくつかの場所に印がつけられている。
「……何してるんですか?」
私が尋ねると彼は一瞬気まずそうな顔をして、慌ててアルバムを閉じようとした。
「……いや、別に。ちょっと調べ物」
「調べ物……?契約の一部ですか?私の願い事と、何か関係が……」
私の願い事。「忘れられること」。それを叶えるために何か特殊な方法でも調べているのだろうか。そう言った瞬間、彼の肩の力がふ、と抜けた。まるで重い荷物を下ろしたかのように。
「……まあ、そんなとこ」
彼は観念したように小さなため息をついて言った。
「いや、君の願い事とは関係ない。俺個人の問題だ。実はさ、俺、人、探してんだ」
人?
その言葉に私は首を傾げた。
「昔、この街に住んでた女の子。俺が、小学校の頃の初恋の相手」
初恋。その甘酸っぱい響きの言葉が静かな図書館の中に、不釣り合いに響いた。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。心臓がちくりと小さな音を立てた。
彼はそう言って一枚の色褪せた写真をアルバムから取り出した。集合写真の切り抜きだろうか。そこに写っていたのは眼鏡をかけて分厚い本を胸に抱えた、一人の少女だった。俯きがちで少し寂しそうに笑っている。長く伸ばした髪が顔の半分を隠していた。その少女のどこか儚げな雰囲気が今の私に少しだけ似ている、と思った。いや、似ているというより、まるで私が目指している「風景」の理想形がそこにあるかのようだった。
「こいつ、急に引っ越しちゃってさ。それっきり連絡取れなくなった。俺、親の都合で転校多かったから友達作るのずっと苦手だったんだけど、こいつだけは特別だったんだ。……どうしてももう一度会って話がしたくて」
彼は続けた。その声には切実な響きがこもっていた。彼の瞳は目の前にいる私ではなく、写真の中の少女を、そしてその向こうにある遠い過去を見ていた。
「俺がこの高校に来たのも、こいつがこの街にいるかもしれないって思ったからなんだ。親にはこの辺りで一番進学校だからって言ったけど、本当の理由はそれだけ」
彼の衝撃的な告白が私の頭の中で何度も反響する。彼がこの高校を選んだ本当の理由。それがこの写真の女の子のためだったなんて。
「……なんで、その話を、私に……」
「上野さんなら何か知ってるかなって」
彼は言った。その目は真剣だった。
「君、ずっとこの街に住んでるんだろ?それに君、あいつに雰囲気が似てるから。本が好きで、静かなとこが、すごく……」
ああ。
そうか。
その瞬間、私の頭の中で今までバラバラだったパズルのピースが、パチリ、パチリと音を立ててはまっていった。
どうして彼が、風景でしかなかった私に声をかけたのか。
どうして彼が、私の好きな映画を知っていたのか。
どうして彼が、私の持っているペンギンのキーホルダーに気づいたのか。
そしてどうして私が、彼の「偽物の彼女」として選ばれたのか。
全てのピースが、一つの残酷な絵を完成させた。そして私の心は音もなく粉々に砕け散った。
彼が私を選んだ、本当の理由。
私が「安全」だからではなかった。「本気で彼を好きにならない」と思ったからではなかった。
私が彼の探している初恋の少女の、「代用品」としてちょうどよかったからだ。
雰囲気が似ているから。ただ、それだけの理由で。
私が今まで感じていたすべてのドキドキが急速に色を失っていく。彼が私を見てくれていたのではなかった。彼は私の向こう側にずっと別の誰かを見ていたのだ。私の好きな映画も。私のペンギンのキーホルダーも。そのすべてが彼にとってはあの少女の面影を探すための、手がかりに過ぎなかったのだ。水族館でペンギンを見て笑う私に「君みたいに笑ってた」と言った彼の言葉が、今、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。あの時の彼の目は私ではなく、私に重なる「昔知ってた奴」を見ていたのだ。
彼は私の心の崩壊になど全く気づかず、無邪気に思い出話を続けた。
「あいつ、鈴木みゆって言うんだ。みゆはさ、いつも図書室の隅で難しい本ばっか読んでてさ。俺が話しかけても最初は全然目も合わせてくれなかった。でも俺がしつこく話しかけてるうちに、少しずつ笑ってくれるようになって…。あいつが読んでた本、俺も無理して読んでみたりしてさ。この前君と見た映画の原作も、実はみゆに教えてもらった本なんだ。懐かしいな……」
その言葉がとどめだった。血の気がさあっと引いていく。耳の奥でキーンという高い音が鳴り響き、彼の声が遠くなる。私は彼のゴーストを見ていたのではない。私自身が彼の初恋の相手の、ゴーストだったのだ。
「……ごめんなさい」
私はか細い声で言った。声が震えるのを止められなかった。
「私、その人のこと、知らないです」
「……そっか。まあ、だよな。急に悪かった」
彼は心からがっかりしたように力なく笑った。その顔が私にはもう見れなかった。
嘘つきな君。そう思っていた。でも本当に嘘つきだったのは私の方だったのかもしれない。これは偽物の恋だと自分に言い聞かせながら、いつの間にか本気で君に惹かれていた愚かで惨めな私。
彼はがっかりした様子を隠そうともせず、広げていた地図やアルバムを片付け始めた。その間、私たちは一言も口を利かなかった。気まずい沈黙が図書館の静寂の中で、異常なほど重く感じられた。
彼が私の心をこれっぽっちも理解していないことが、ひどく悲しかった。彼は自分の初恋の話を無邪気に私に語っただけなのだ。その言葉が私をどれだけ深く傷つけたか、彼は想像すらしていないだろう。
だって私は彼にとって、本気で恋をすることのない安全な代用品なのだから。
「じゃあ俺、もう行くわ。今日は悪かったな、付き合わせちまって」
彼はそう言うと逃げるように席を立った。私は彼の背中を見送ることしかできなかった。
彼の姿が見えなくなってから私は机の上に突っ伏した。麻痺していた感覚がゆっくりと痛みを取り戻していく。堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出てくる。静かな閲覧室で声を殺して泣いた。本のページのインクの匂いがやけに鼻についた。
私の淡く愚かな初恋は、その本当の始まりを知る前に終わりを告げたのだ。
夏祭りの夜のあの甘い時間も。水族館での静かな心の交流も。彼が送ってくれた他愛のないメッセージも。そのすべてが彼にとっては「みゆ」の面影を追うための行為だったのだ。そう再解釈された途端、きらきらと輝いて見えた思い出たちは一瞬にして色褪せたガラクタに変わってしまった。
風景に戻りたいと願ったはずなのに。私はいつの間にか誰かの物語の、都合のいい登場人物に成り下がってしまっていた。しかも主役の代用品という、最も惨めな役柄で。これ以上の屈辱があるだろうか。
図書館の高い天井から傾きかけた西日が差し込んでいた。その光がまるで私たちの夏休みの終わりと、私のこの惨めな初恋の葬儀を同時に執り行っているかのようだった。
私はその日、閉館時間まで図書館の席を立つことができなかった。
ただ泣き続けた。
粉々に砕け散った心が、もう二度と元には戻らないことを悟りながら。
図書館の重厚な木製の扉を押し開けると、むっとするような生温かい夜の空気が涙で冷え切った私の頬を容赦なく撫でた。閉館時間を知らせる「蛍の光」のメロディがまるで遠い世界の出来事のように、頭の中でぼんやりと反響している。自分がどうやって閲覧室の席を立ち、螺旋階段を下り、この場所までたどり着いたのか、記憶は曖昧だった。私の意識はいまだにあの静かな閲覧室の、あのテーブルに縫い付けられたままだ。彼の言葉によって粉々に砕け散った心がそこに散らばっている。
帰り道、足はまるで自分の意志とは無関係に、プログラムされた機械のようにただ前へ進んでいた。駅前のロータリー。蛍光灯が白々しく光るコンビニ。時折すれ違う車のヘッドライトが涙で滲んだ視界の中で、歪んだ光の筋となって流れていく。いつもと同じ帰り道のはずなのに、すべての音が遠く、すべての光が現実感を失っていた。私の周りには分厚いガラスの壁でもあるかのように、世界との間に決定的な隔たりがあった。現実感がない。
私は「代用品」だった。
その事実だけが巨大な鉄槌のように、私の頭の中で何度も何度も振り下ろされる。
映画館で「原作が好きだ」と言った彼の言葉も。
水族館で私のキーホルダーに気づいてくれたことも。
夏祭りの夜、「似合ってる」と褒めてくれたことも。
そのすべてが彼にとっては「鈴木みゆ」という亡霊の面影を追うための行為だったのだ。そう再解釈された途端、きらきらと輝いて見えた思い出たちは一瞬にして色褪せたガラクタに変わってしまった。楽しかった記憶であればあるほど、今は鋭い破片となって私の心を深く傷つける。私は彼の思い出作りのための小道具に過ぎなかった。彼の初恋物語を美しく彩るための都合のいい背景だったのだ。
ショーウィンドウに映った自分の姿を見て吐き気がした。水色のワンピースを着て少しだけお洒落をした、愚かな女。彼に「雰囲気が似ている」と言われた空っぽの人形。私は私ではなかった。この夏、私が経験したすべてのことは鈴木みゆという少女の影をなぞるための、滑稽な茶番劇だったのだ。
アパートの古びた鉄製の階段を、一歩一歩、鉛を引きずるように上る。鍵穴に鍵を差し込む。その単純な動作ですら指が震えてうまくいかない。何度か鍵を落としそうになりながら、ようやく自室のドアを開けた。
真っ暗な部屋の中に私は吸い込まれるように足を踏み入れる。電気もつけず制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。マットレスが私の体を深く、どこまでも深く受け止める。天井の木目が暗闇の中でうっすらと見えた。
涙はもう出なかった。図書館で、すべて枯れ果ててしまったようだった。代わりに体の芯がまるで氷漬けにでもされたかのように、どんどん冷えていくのを感じる。寒い。八月の熱帯夜のはずなのに寒い。私はベッドの上で体育座りをし、自分の膝をぎゅっと抱きしめた。小さく、できるだけ小さく。まるでこの世界から消えてしまいたいと願うように。
暗闇の中で思考だけが、狂ったように回り続ける。
なぜ私は本気になってしまったのだろう。「風景」でいるという長年かけて築き上げた私の哲学は、どこへ行ってしまったのだろう。彼のほんの少しの優しさにありえない期待を抱いてしまった愚かな自分への、激しい自己嫌悪が黒い泥のように心の底から湧き上がってくる。
「君なら、本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」
契約の日の彼の言葉が蘇る。彼は正しかった。彼は私の本質を完璧に見抜いていた。そして私はその彼の期待を、見事に裏切ってしまったのだ。
ただの「興味のない女」ならまだよかった。しかし私は「誰かの代わり」だった。その他大勢ですらない、特定の誰かの影武者。その事実が私のプライドという、かろうじて残っていた最後の砦を根こそぎ破壊していった。「私は私ではなかった」。その認識は自分の存在そのものが否定されるような、絶望的な感覚だった。
暗闇の中で不意に彼に渡されたペンギンのぬいぐるみが目に入った。『水族館の帰りにゲーセンで取った。…やるよ』。そう言って少し照れくさそうに差し出されたあのぬいぐるみ。あれもきっと「ペンギンが好きだったみゆ」を思い出させるアイテムだったから、私に押し付けただけなのだろう。私があの時感じた胸が温かくなるような喜びは、すべて残酷な勘違いだったのだ。そう思うと今まで宝物のように感じていたその存在が、急に醜悪で忌まわしいものに見えてきた。
私はそのぬいぐるみを掴むと部屋の隅にあるゴミ箱に向かって、ありったけの力で投げつけた。ぬいぐるみはぽす、と間の抜けた音を立てて雑誌の束の上に落ちた。
それでも私の心は少しも晴れなかった。むしろ虚しさが募るばかりだ。ぬいぐるみを捨てるという行為は、この偽りの恋心を殺そうとする無駄で滑稽な儀式に過ぎなかった。捨てた後も暗闇の中で、ゴミ箱の中のペンギンがそのつぶらな瞳でじっと私を見つめているような気がして、さらに苦しくなった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
静寂を破って枕元のスマホが震えた。画面には『アカリ』の文字。
出るべきか迷った。今の私のこの惨めな姿を彼女に見せたくなかった。心配をかけたくなかった。アカリは私の唯一の光だ。その光を私のこのどす黒い絶望で曇らせてはいけない。そう思った。
しかしスマホは執拗に震え続ける。このまま一人でいたら私は本当に壊れてしまいそうだった。誰かに助けてほしかった。ここにいるよと叫びたかった。
私は震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、栞奈?大丈夫?今日、なんか元気なかったって図書館の司書さんが言ってたけど…。さっきから電話しても出ないし…」
電話の向こうから聞こえてくるアカリの心配そうな声。そのいつもと変わらない太陽のような声を聞いた瞬間、枯れたはずの涙腺がまた決壊した。
「……アカリ……」
声にならない声が喉から漏れた。
「どうしたの!?何があったの!?泣いてるの!?」
私は嗚咽を漏らしながら今日あったことのすべてを話した。彼が初恋の人を探していたこと。その相手が鈴木みゆという名前であること。そして私がその少女の「代用品」として選ばれたらしいこと。言葉は途切れ途切れで自分でも何を言っているのか分からないほどだったけれど、アカリはただ黙って私の言葉を辛抱強く聞いてくれていた。そしてすべてを話し終えると、電話の向こうで彼女が息を飲む音が聞こえた。
『……はあ!?』
次の瞬間、アカリの怒りに満ちた声が私の鼓膜を突き破った。
『何それ!最低じゃん、月島蓮!あんたのこと、なんだと思ってんのよ!人の心をもてあそんで!私、絶対許せない!明日、学校行ってあいつにガツンと言ってやる!』
「……ううん、いいの」
私はか細い声で答えた。
「私が勝手に勘違いしてただけだから……悪いのは私だから……」
『よくないわよ!なんであんたが謝るの!悪いのは100パーセント、あいつでしょ!人の気持ちに気づかないふりして、自分の都合のいいように利用するなんて人として最低だよ!』
「でも彼は悪気があってやったんじゃないと思う……」
『悪気がないのが一番タチ悪いの!無自覚な刃物が一番人を傷つけるんだよ!』
アカリの言葉は正しかった。でも私はどうしても彼のことを心の底から憎むことができなかった。彼のあの寂しげな横顔を思い出してしまうから。彼もまた親の期待や過去に縛られて苦しんでいるのだと、分かってしまっていたから。
そして何より、そんな彼に本気で惹かれてしまった自分が一番愚かで惨めだったから。
「……もう、いいんだ。もう終わりにしようと思う」
私はぽつりと呟いた。
「この契約、もうやめる。彼にもそう伝える」
『……うん。それがいいよ。あんたがこれ以上傷つくの、私は見たくない』
電話の向こうでアカリの声が少しだけ優しくなった。その優しさがまた私の涙を誘った。
「ありがとう、アカリ。話、聞いてくれて」
「当たり前でしょ。私たちは親友なんだから。……辛くなったら、いつでも電話してきなさいよ。夜中でも、朝方でも。いい?」
「うん……」
アカリとの電話を切った後、私はスマホのメッセージアプリを開いた。そして『月島 蓮』とのトーク画面を表示させる。
『契約の件ですが、やはり私には荷が重すぎるので、終わりにしてください』
そこまで打ち込んで指が止まった。送信ボタンが押せない。
今これを送ってしまえば私はまた元の灰色の壁紙に戻れる。これ以上傷つくこともない。分かっているのに。
でもできなかった。
ここで契約を破棄することは逃げることだ。玲香さんの言った通り「彼の優しさに甘えていただけ」の弱い自分を認めることになる。そして何より彼が探している「鈴木みゆ」という少女に、完膚なきまでに敗北することを意味する。
彼の思い出の中で美化された会ったこともない少女の亡霊に、私は負けたくなかった。
私は打ちかけたメッセージをすべて消去した。
そして代わりにアカリにメッセージを送った。
『ごめん、アカリ。やっぱり私、この契約、続ける』
すぐにアカリから電話がかかってきた。
『どういうこと!?やっぱりあんた、まだあいつのこと……』
「違う」
私は先ほどよりも少しだけ強い声で言った。
「これは恋じゃない。これは私のプライドの問題」
『プライド……?』
「うん。ここで逃げたら私は本当にただの惨めな女の子で終わっちゃう。玲香さんの言う通り、彼の優しさに甘えてただけの人形になっちゃう。それだけは嫌なの」
私はベッドから起き上がり窓を開けた。夜の生温かい風が部屋の中に流れ込んでくる。その風が私の涙の跡を優しく乾かしていく。
「私、決めたんだ」
私は涙をぐいと拭って言った。声は震えていたけれど覚悟は決まっていた。
「最後までこの役を演じきる。偽物の彼女として彼のそばにいて、彼が本当のお姫様を見つけ出すのを手伝ってあげる。それがこのみっともない恋心に、私が与えることができる唯一の弔い方だから。代用品なら代用品らしく、完璧に演じてみせる。そして契約が終わった時、私は胸を張って『風景』に戻るの」
電話の向こうでアカリが息を飲む気配がした。
しばらくの沈黙の後、彼女は深いため息をついた。
『……栞奈……あんた、本当に馬鹿だよ』
その声は怒っているようで、泣いているようにも聞こえた。
『……でも、そういう頑固で不器用なとこが、あんたなんだよね』
「アカリ……」
『……分かった。あんたがそれでいいなら私は何も言わない。でも一つだけ約束して。辛くなったら、いつでも私に言うこと。一人で抱え込まないこと。分かった?』
「うん。……ありがとう、アカリ」
親友のその温かい言葉が凍てついていた私の心に、小さな火を灯してくれた。
電話を切った後、私は静かになった部屋で自分の決意を反芻した。
そしてゴミ箱に投げ捨てたペンギンのぬいぐるみを拾い上げた。その埃を優しく手で払ってやる。
ごめんね。八つ当たりして。
あなたには罪はないのに。
私はそのぬいぐるみをもう一度、机の上の、一番よく見える場所に置いた。
これは戒めだ。
私がただの「代用品」であることを決して忘れないための。そしてこの不器用な戦いを最後まで戦い抜くという、私の決意の証だ。
窓の外が少しずつ白み始めていた。眠れないまま朝を迎えてしまったようだ。
鏡に映った自分の顔はひどいものだった。目は腫れ上がり顔色も悪い。
でもその瞳の奥には昨日まではなかった、微かでしかし確かな光が宿っているような気がした。
それは絶望の淵から這い上がることを決意した人間の、覚悟の光だったのかもしれない。
私はこの夏嘘つきなシンデレラを演じきる。
そして王子様が本当のお姫様と結ばれるのをすぐそばで見届けるのだ。
たとえその結末が私の心を粉々に砕き散らすことになったとしても。
それが私が私であるためのたった一つの戦い方なのだから。
眠れないまま迎えた朝の光はやけに白々しく私の部屋の壁に投げかけられた影をくっきりと浮かび上がらせていた。窓の外からはけたたましいほどの蝉時雨が容赦なく降り注ぎまるで世界の終わりを告げる警鐘のようにも聞こえた。昨夜アカリとの電話を切った後私は一睡もできなかった。暗闇の中で天井の木目をただ見つめながらこれから自分が成すべきこと演じきるべき役柄について何度も何度もシミュレーションを繰り返していた。
ベッドからゆっくりと体を起こす。軋む関節、鉛のように重い四肢。まるで自分のものではない体を無理やり操っているかのようだ。シャワーを浴びるためにふらつく足でユニットバスへ向かう。蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく飛び出しタイルを打つ音が狭い空間に響き渡った。その冷水を頭からかぶり昨夜の熱っぽい絶望を無理やり洗い流そうと試みる。しかし冷たさは肌の表面を滑っていくだけで心の芯で凍りついた感情を溶かすには至らない。むしろ感覚を麻痺させていくようだった。それでいいと私は思った。感情などない方がいい。これからの私には邪魔になるだけだ。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら鏡の前に立つ。そこに映っていたのはひどい顔をした女だった。泣き腫らした目は赤く血の気の引いた唇は青白い。目の下には深い隈が影のように刻まれている。これではダメだと私は首を振った。こんな顔では彼に同情されてしまう。私が欲しいのは同情ではない。私が演じなければならないのは彼の「有能な協力者」であり彼の思い出話に静かに耳を傾ける「都合のいい代用品」なのだから。
私は鏡の中の自分に向かって意識的に「無表情」を作る練習を始めた。まず眉の力を抜く。次に口角の角度を水平に保つ。視線はどこか遠くを見るように焦点を合わせない。感情の痕跡を一つ一つ自分の顔から消していく。それはまるで自分が「人形」になるための冷静で狂気じみた儀式だった。何度も繰り返すうちに鏡の中の私の顔は能面のように感情を失っていった。よしこれでいい。
クローゼットを開け一番当たり障りのないベージュのコットンシャツと紺色のロングスカートを選んだ。風景になるための私の戦闘服だ。着替えを終えた時テーブルの上に置いたスマホがぶと短く震えた。画面には『月島 蓮』の文字。心臓が条件反射でどきりと大きく跳ねる。しかし私はその動揺を深く深く心の底に押し込めた。鏡で練習したあの無表情を顔に貼り付ける。
『今週末、時間あるか』
メッセージはそれだけだった。おそらくあの「鈴木みゆ」という少女を探すための誘いだ。昨日の今日で彼のその無神経さにはもはや怒りすら湧いてこなかった。彼はただ自分の目的に向かって純粋なだけなのだ。その純粋さが人を傷つけることに気づかないほどに。以前の私ならこの短いメッセージにどう返信すべきか何十分も悩んだだろう。しかし今の私は違った。
『はい、あります。何かお手伝いできることはありますか?』
間髪入れず完璧な「協力者」としての返信を送る。句読点の打ち方一つにも私情を挟まないよう細心の注意を払った。送信ボタンを押した指先は少しも震えていなかった。その自分の変化に私自身が少しだけ驚きそして底なしの寂しさを感じた。
土曜日の昼下がり。私たちは駅前のカフェで向かい合っていた。ガラス張りの店内からは夏の強い日差しに満ちた街路樹が見える。私は店に入る前に一度だけ大きく深呼吸をした。大丈夫。私は人形。心なんてない。蓮くんはあの日の図書館と同じようにテーブルの上に古い住宅地図と卒業アルバムを広げた。その光景を見ても私の心はもうほとんど揺れなかった。私はただのビジネスパートナーとして彼の話を聞く準備ができていた。
「急に悪かったな。でもやっぱり一人じゃ限界があってさ。上野さんの力を貸してほしい」
「力なんて。私にできることがあるなら何でも言ってください」
私は練習してきた完璧な笑顔を顔に貼り付けてそう言った。その笑顔がひどく歪んでいることに彼は気づかない。彼は私の言葉を聞いて心から嬉しそうに笑った。
「ありがとう。助かるよ」
その屈託のない笑顔を見るたびに私の胸は錆びたナイフで抉られるように痛んだ。しかし私はその痛みを意識の彼方へと追いやった。これは任務なのだから。
彼はアルバムの中のあの色褪せた写真を指差した。
「これがみゆ。鈴木みゆっていうんだ」
「……はい。存じております」
「こいつとなよく遊んだんだよ。小学校の頃。俺んち親が厳しくてさあんまり外で遊ばせてもらえなかったんだけどみゆの家だけはなぜか許されてた。あいつんちこの地図で言うとこの辺にあったはずなんだ」
彼は赤ペンで印をつけたあたりを指差す。
「みゆはいつも本ばっかり読んでて静かな奴だったけどここの公園のブランコだけはなぜか好きでさ。俺が遊びに行くといつも一人で静かにブランコ漕いでた。俺もよく隣で漕いだっけな……」
彼の言葉の一つ一つが私の心に見えない棘となって突き刺さる。彼の思い出の中の楽しそうな二人の姿が幻のように目の前に浮かんでくるようだ。でも私は決して表情には出さない。ただ完璧な聞き役として穏やかに相槌を打つ。私はテーブルの上のアイスコーヒーのグラスに視線を落とした。水滴がグラスの表面を伝ってコースターに小さな染みを作っている。まるで私の心が流している見えない涙のようだった。
「それでその公園は今もあるんですか?」
私は彼の思い出話を業務的な口調で遮った。彼は少し驚いたように私を見ると
「ああ、そうだな」
と我に返った。
「この辺の地域俺も久しぶりで土地勘がなくてさ。一緒に歩いて俺の記憶が合ってるか確認してくれないか。何か新しい手がかりが見つかるかもしれないし」
「分かりました。行きましょう」
私はすぐに立ち上がった。これ以上このカフェで彼の思い出話を聞かされるのは限界だったからだ。彼の思い出を聞けば聞くほど私という存在がどんどん透明になって消えてしまいそうだった。
夏の強い日差しが照りつける中私たちは古い住宅街を歩き始めた。蝉の声がまるで耳鳴りのように頭の中で反響している。アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませる。蓮くんは子供の頃に戻ったかのようにきょろきょろと周りを見渡しながら歩いていた。
「あ、この坂道! 懐かしいな。ここでみゆが自転車の練習したんだ。あいつ全然乗れなくて半ベソかいてたな……。俺が後ろ持ってやらないとすぐ転ぶんだ」
「この角のポストも変わってない。ここで俺が転校するってあいつに打ち明けたんだ。そしたらあいつ何も言わないでただ俯いてて……。俺なんて声かければいいか分からなくてそのまま逃げるように帰っちまったんだ。今でも後悔してる」
彼の口から紡がれるのはすべて私とは関係のない二人の物語。私はその物語のただの幽霊のような同行者だった。彼の隣を歩きながら私はそこにいるはずのない「みゆ」という少女の幻影を見ていた。私のすぐ隣で蓮くんの話を聞いてはにかむように笑っている彼女の姿を。
最初に訪れたのは彼が言っていた駄菓子屋だった。しかしそこはもうシャッターが固く閉ざされその上には「テナント募集」の寂しい貼り紙があった。シャッターにはスプレーで意味のない落書きがされ郵便受けは錆びついて蜘蛛の巣が張っていた。
「……そっか。もうなくなっちゃったのか」
蓮くんはがっかりしたように呟いた。その肩が小さく落ちている。私は何と声をかければいいのか分からなかった。
次に私たちは公園へと向かった。そこは彼の記憶通りひっそりと存在していた。古びたジャングルジムと錆びついた滑り台。そして二台のブランコ。夏草が生い茂り訪れる人もいないのか公園全体がどこか寂しい雰囲気に包まれていた。
「……あった」
彼は子供のように駆け寄るとブランコの一つに触れた。ぎいと錆びた音が鳴る。
「ここでいつもみゆが本を読んでたんだ。俺が話しかけても全然顔を上げなくてさ。でも俺が背中を押してやると嬉しそうに笑うんだ」
彼はそう言って遠い目をした。そして不意に私の方を振り返った。
「なあ上野さん。乗ってみろよ。俺が押してやるから」
その言葉に私の体は凍り付いた。
乗れと彼は言うのか。このブランコに。鈴木みゆの代わりに。
それは私が最も恐れていたことだった。彼女の影をなぞり彼女の代わりを演じること。
私の最後のプライドがそれを拒絶した。彼にとっては何気ない一言だろう。でも私にとってはそれは私の存在そのものを否定する最後の引き金だった。彼の思い出を汚したくないという歪んだ献身と私が彼女の代わりになることなど絶対にできないという最後の抵抗。その二つの感情が私の中で激しくぶつかり合った。
「……私はいいです」
私はきっぱりと言った。自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「え……?」
蓮くんは意外そうな顔で私を見た。
「どうして? 楽しいぜブランコ」
「……そういう気分ではないので」
私はそう言って彼から視線を逸らした。蓮くんは私のその頑なな態度の真意に気づかないまま不思議そうに首を傾げていた。その鈍感さが私をさらに苛立たせた。
そして最後に訪れたのは鈴木みゆの家があったはずの場所だった。
しかしそこに広がっていたのはただ夏草が茫々と生い茂る空き地だけだった。家の痕跡はどこにもない。ただ古いブロック塀の一部だけが辛うじて残っている。
「……嘘だろ」
蓮くんは呆然と呟いた。その声は絶望に染まっていた。「もう何の手がかりもないのか…」
彼はその場に立ち尽くしただ空き地を見つめていた。その背中はひどく頼りなくそして孤独に見えた。私はそんな彼に何と声をかければいいのか分からなかった。「協力者」として何か励ましの言葉をかけるべきなのだろう。でもどんな言葉も今の彼には届かないような気がした。
諦めて帰ろうとしたその時だった。空き地の隣の家の玄関が開き腰の曲がったおばあさんが出てきた。買い物かごを手に持っている。
蓮くんは何かに吸い寄せられるようにそのおばあさんに駆け寄った。
「あのすみません! 人を探してるんですが!」
彼はカバンから例の色褪せた写真を取り出しおばあさんに見せた。
「この子知りませんか? 昔この隣に住んでた……」
おばあさんはその写真をしわくちゃの手で受け取ると目を細めた。
「……ああこれ……」
おばあさんの顔がぱあっと明るくなる。
「みゆちゃんじゃないか。鈴木さんちのみゆちゃん! 懐かしいねえ」
その言葉に蓮くんの顔に一筋の光が差した。
「よかった……! あの、みゆちゃんは今どこにいるかご存じですか……」
彼が前のめりに尋ねる。しかしおばあさんは少し悲しそうに首を横に振った。
「……あの子たちはねえお父さんの会社が倒産しちゃって…大変だったんだよ。ある晩荷物をまとめて挨拶もなしにどこかへ行ってしまってねえ。夜逃げ同然だったんだよ。それ以来どこにいるんだかさっぱり……」
蓮くんの顔が再び絶望に染まっていく。彼が知っていたのは楽しかった思い出だけ。彼女が抱えていたであろう苦しみや悲しみについては何も知らなかったのだ。その事実に彼自身がショックを受けているのが隣にいて分かった。
私がそんな彼に何と声をかければいいのか迷っているとおばあさんが何かを思い出したようにポンと手を叩いた。
「……ああでもね」
おばあさんは言った。その一言が私たちの運命を大きく変えることになる。
「みゆちゃん毎年一回だけこの街に帰ってくるんだよ」
「え……!?」
「お盆の時期にな。あの子ここの高台にあるお寺に眠ってるおばあちゃんのこと大好きだったから。おばあちゃんのお墓参りに毎年必ず一人で来てるんだよ。今年ももうすぐじゃないかねえ」
お盆。それはもう来週に迫っていた。
私たちは何度も頭を下げてその場を後にした。帰り道彼はうっと黙っていた。しかしその横顔は先ほどまでの絶望ではなく確かな希望の光に満ちていた。もうすぐ会える。長年探し続けた初恋の人に。
私は彼の隣を歩きながら心の中で静かに計算していた。
お盆まであと一週間。
それが私たちの恋の本当の余命。
偽物の恋人として彼の隣にいられる最後の一週間。
私の「代用品」としての役目が終わる運命の日。
心臓が氷水に浸されたように痛い。でも私は笑った。彼に向かってできるだけ明るく完璧な「協力者」の笑顔で笑いかけた。
「よかったですね月島くん。もうすぐ会えますね」
その私の笑顔の裏で心がどれだけ泣いていたかきっと彼は最後まで気づかないだろう。
それでいいのだ。
それが私が決めた私の矜持なのだから。
彼の幸せな結末を見届ける。それが私の最後の任務だった。
運命の宣告を受けた翌日の朝私は奇妙なほどの静けさの中で目を覚ました。あれほど泣き絶望したというのに心はまるで凪いだ湖面のように静まり返っていた。それは諦観にも似た感情の死だったのかもしれない。お盆まであと七日。私の偽りの恋人としての役目そして私の淡い初恋の命日は明確に定められたのだ。終わりが見えるということはある意味でとても楽なことだった。もうありもしない期待に心を揺さぶられることもない。ただ定められた結末に向かって自分の役を完璧に演じきるだけでいい。
ベッドから起き上がりカーテンを開けると夏の強い日差しが容赦なく部屋に差し込んできた。机の上に置かれたペンギンのぬいぐるみと目が合う。それは私が「代用品」であることを忘れないための戒めの証。タンスの奥には母が作ってくれた朝顔の浴衣が眠っている。あれは私が本物の恋をしていたら着ることができたかもしれない叶わなかった未来の象徴。そして私の本棚には現実から逃避するための無数の物語が並んでいる。この小さな六畳の部屋は私の心の縮図そのものだった。
その時スマホが震えた。アカリからだった。
「もしもし栞奈? ……大丈夫?」
電話の向こうから聞こえる声はいつもの太陽のような明るさを潜めひどく心配そうだった。
「うん。大丈夫だよ」
私は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。
「……昨日蓮くんと会って分かったんだ。彼が会えることになったってお盆に」
『……そっか』
アカリはそれ以上何も言わなかった。しかしその短い沈黙の中に彼女の痛いほどの優しさが詰まっているのが分かった。『…あんた本当にそれでいいの? 今からでもやめなって言えるんだよ』
「うん。いいの。私が決めたことだから」
私は窓の外のどこまでも青い空を見上げながら言った。
『……分かった。でも何かあったら絶対絶対に電話してきなさいよ。あんたが泣きたい時は私がいくらでも話聞くし腹が立ったら代わりに月島蓮を殴りに行ってやるから!』
「ふふっ。ありがとうアカリ」
親友の言葉に死んでいたはずの心が少しだけ温かくなった。
火曜日の昼下がり。図書館で本を読んでいると蓮くんからメッセージが届いた。
『今週末最後にどっか行かね?』
その文面に私の指は止まった。「最後」という言葉がやけに強調されているように見えた。これはどういう意味だろう。お盆の前に契約上のアリバイ作りのためのデートをもう一度ということか。それとも彼の中にも何かこの偽りの関係を終わらせることへの名残惜しさのようなものがあるのだろうか。
期待してはいけない。私の頭の中で冷静な自分が警鐘を鳴らす。彼はもうすぐ本物の「お姫様」に会うのだ。この誘いはきっと最後の業務報告かあるいは私という協力者への労いのつもりなのだろう。
「期待しちゃダメだ」と忠告する自分と「もしかしたら彼も何かを感じているのかも」と淡い夢を見てしまう弱い自分が心の中でせめぎ合う。
私はその不毛な内的対話に終止符を打つように息を止めて返信を打った。
『はい。どこへ行きますか?』
あくまで彼の指示を待つ受動的な協力者として。私には何も望む権利などないのだから。
すぐに彼から返信が来た。
『海。……静かなとこがいい』
その短い言葉に私はまた胸の奥をかき乱された。なぜ海なのだろう。なぜ静かな場所を望むのだろう。彼らしくないその選択の裏に何か特別な意味を探してしまう自分を私は止められなかった。
そして週末がやってきた。最後になるかもしれないデートの日。
アカリはいつものように私の部屋にやってきた。
「最後のデートなんでしょ……。どんな顔して行けばいいのよもう……」
彼女は私以上にこの状況に心を痛めてくれているようだった。
「最高の姿で行って月島蓮に後悔させてやんなさい! あんたをただの代用品としてしか見れなかった自分の目の節穴さを!」
そう言ってアカリはクローゼットから彼女が以前持ってきてくれた華やかな服を引っ張り出そうとした。
しかし私は静かに首を振った。
「ううん。いつもの私でいい。……ううん一番『風景』みたいな服で行く」
「栞奈……?」
「これが本当の私だから。彼が見ているのはどうせ私じゃない。だったら私は最初から最後までただの風景でいればいいの」
それは私の悲壮な決意表明だった。私は自分のクローゼットの中から最も色が無く最も目立たない白に近いグレーのワンピースを選んだ。それは私が「風景に戻る」という決意の象徴だった。
アカリは何も言えなかった。ただ悔しそうに唇を噛み締めながら私の髪をいつもよりずっと優しく丁寧に梳かしてくれた。
電車を乗り継いで向かったのは観光客もまばらな寂れた海水浴場だった。夏の盛りだというのに海の家は一軒しか開いておらず砂浜には私たち以外に数組のカップルがいるだけだった。
車窓からきらきらと光る海が見えてきた時も私たちはほとんど話さなかった。ただ時折電車の連結部分がガタンと音を立てるたびに私たちの肩がほんの少しだけ触れ合う。その微かな接触だけが私たちが同じ空間にいることを証明しているかのようだった。
砂浜に並んで座り私たちはただ寄せては返す波を眺めていた。ざあという波の音と遠くで鳴く海鳥の声だけが二人の間の沈黙を埋めていた。
しばらくして彼がぽつりと呟いた。
「……ガキの頃よく親父に連れてこられたんだ。ここの海」
彼はどこか遠くを見つめながら語り始めた。
「仕事ばっかりで全然家にいなかった親父が年に一回だけ俺のために時間作ってくれるのがこの海だった。……でも結局ここでも仕事の電話ばっかりしててさ。俺は一人でずっと砂遊びしてた。親父に褒めてほしくてでっかい城作るんだけどあいつは電話が終わったら『おおすごいな』って一言言うだけで全然見てくれないんだ。あんまいい思い出じゃねえけどな」
彼の家族の話を私は初めて聞いた。彼の完璧な笑顔の下には私の知らない満たされない子供時代の物語が隠されているのだろう。
「俺には自由がないんだ。昔からずっと」
彼は砂の上に指で『じゆう』と書いた。
「医者の家系でさ。親父もおじいちゃんもみんな医者。俺も当然そのレールの上を歩くもんだと思われてる。バスケも勉強も読者モデルも全部親が喜ぶから俺の経歴に箔がつくからやってるだけ。本当は全部辞めちまいたい」
その衝撃的な告白に私は言葉を失った。太陽みたいに輝いて見えた彼が本当はがんじがらめに縛られて息苦しさを感じていたなんて。
「みゆは自由だったんだ」
彼は続けた。その声は少年のような響きをしていた。
「あいつの家貧乏だったけどいつも楽しそうだった。くだらないことで腹抱えて笑ってさ。俺はそんなあいつが羨ましかった。そして好きだった。あいつといる時だけ俺は月島家の跡取りでも優等生でもなくただの『蓮』でいられたから。……だから探してたのかもしれない。みゆをっていうよりあの頃の自由だった自分を」
彼はそこで言葉を切ると私の方をまっすぐに見た。
「……でもこの夏お前といるとかなんかそれとは違う意味で息がしやすかった。演じなくていいっていうか……。君の前だと格好つけなくていいっていうか……楽なんだ。なんでだろうな」
彼のその言葉は私にとって最も甘くそして最も残酷な言葉だった。私の心は喜びと悲しみでぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。彼の特別な存在に少しだけなれているのかもしれないという喜び。でもそれは彼が本当に求めている「みゆ」とは違うのだというどうしようもない悲しみ。
夕暮れが浜辺をオレンジ色と紫色に染め上げていく。私たちは波打ち際をゆっくりと歩いた。
彼が立ち止まり砂浜に何かを書き始めた。それは私の名前『栞奈』という二文字だった。そしてすぐに寄せてきた波がその文字を跡形もなくさらっていった。まるで私の存在そのものを消し去るかのように。
「……なあこの契約やっぱりやめとくか?」
彼が海を見つめたまま呟いた。それは水族館の時よりもずっと切実な響きを持っていた。
「君の願い事を俺は本当に叶えていいのか分からなくなった。君を『忘れさせる』ことなんて多分俺には無理だ。それに……」
彼は一度言葉を切りそして決心したように続けた。
「……俺が忘れたくないのかもしれない。君のことを」
その言葉に私の心臓は大きく痛いほどに跳ね上がった。全身の血が沸騰するかのようだ。それはほとんど告白に近い言葉だった。
期待してはいけない。舞い上がってはいけない。私の頭の中で最後の理性が警鐘を鳴らす。彼はもうすぐ本物の初恋の人に会うのだ。これはきっとその前に生まれたただの迷い。私という代用品への哀れみか同情か。
私はここで彼の迷いを断ち切らなければならない。彼が罪悪感なくまっすぐに「みゆ」さんの元へ行けるように。それが私が演じると決めた「完璧な代用品」の最後の役目なのだから。
それは彼に対する私なりの最後の優しさでありそして私自身の恋心を殺すための儀式だった。
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「契約は最後まで。それが私たちの約束ですから。月島くんはあなたの初恋の人に会うべきです。そして私も私の願いをあなたに叶えてもらわなければなりません」
私はできるだけ事務的に感情を殺してそう言った。
彼の言葉を聞いて彼はひどく傷ついたような顔をした。そして何かを諦めたように
「……そうか。そうだな。契約だもんな」
と力なく笑った。
最後の帰り道電車の中私たちはもう話さなかった。しかしその沈黙は言葉以上に多くの感情を含んでいた。窓ガラスに映る自分の顔はひどくやつれていた。隣に座る彼の横顔を盗み見る。彼はただ暗い窓の外をじっと見つめていた。
私はこれが彼と二人きりで過ごす最後の時間だと悟っていた。彼の横顔、窓に映る自分の顔、電車の揺れ。そのすべてを目に体に焼き付けようとした。
駅の改札で別れる時彼は私に背を向けたまま小さな声で言った。
「じゃあな」
「……はいさようなら」
それが私たちの最後の挨拶だった。何の変哲もないいつもの挨拶。しかし二人ともそれが永遠の別れになるかもしれないことを心のどこかで理解していた。
彼の背中が雑踏の中に消えていくのを私はいつまでも見つめていた。
これで私の夏は終わったのだ。
あとは運命の日を静かに待つだけだった。
お盆の日曜日。私のそして私の淡い恋の命日。
アラームが鳴るよりずっと早く午前四時半私は目を覚ました。窓の外はまだ深い藍色に沈みひんやりとした夜の名残が部屋の空気に溶けている。けたたましく鳴いていたはずの蝉の声も今は嘘のように静まり返っていた。世界が活動を始める前の束の間の静寂。私はその静寂の中でじっと天井の木目を見つめていた。
昨夜も眠れなかった。目を閉じるとこの夏に起こった出来事がとりとめもなく浮かんでは消えていく。初めて彼に腕を掴まれた体育館裏の感触。映画館の暗闇で感じた彼の気配。夜空を彩った花火の光と私の頬をかすめた彼の指先の熱。それらは偽物だと分かっていてもあまりにも鮮やかで甘美でそして今はひどく痛ましい思い出だった。
奇妙なことに私の心は凪いでいた。あれほど私を苛んだ絶望や自己嫌悪は嵐が過ぎ去った後のように今は静まっている。それは諦観にも似た感情の死だったのかもしれない。今日すべてが終わる。結末が分かっている物語を読むのはとても楽なことだ。もうありもしない期待に心を揺さぶられることもない。ただ定められた最後のページに向かって自分の役を完璧に演じきるだけでいい。死刑執行を待つ囚人の朝はきっとこんな感じなのだろうと場違いなことを思った。
ゆっくりと体を起こす。軋む関節、鉛のように重い四肢。まるで自分のものではない体を無理やり操っているかのようだ。シャワーを浴びるためにふらつく足でユニットバスへ向かう。蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく飛び出しタイルを打つ音が狭い空間に響き渡った。その冷水を頭からかぶり昨夜の熱っぽい絶望を無理やり洗い流そうと試みる。しかし冷たさは肌の表面を滑っていくだけで心の芯で凍りついた感情を溶かすには至らない。むしろ感覚を麻痺させていくようだった。それでいいと私は思った。感情などない方がいい。これからの私には邪魔になるだけだ。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら鏡の前に立つ。そこに映っていたのはひどい顔をした女だった。泣き腫らした目は赤く血の気の引いた唇は青白い。目の下には深い隈が影のように刻まれている。これではダメだと私は首を振った。こんな顔では彼に同情されてしまう。私が欲しいのは同情ではない。私が演じなければならないのは物語の結末を静かに見届ける名もなき観測者なのだから。
私はクローゼットを開けた。そこには先日アカリが「最後のデートだから」と言って半ば強引に置いていった華やかなワンピースがいくつか掛かっていた。しかし私はそれに目もくれず一番奥に押し込んでいた一枚のワンピースを手に取った。白に近い薄いグレーの何の飾り気もないシンプルなワンピース。私が持っている服の中で最も色が無く最も「風景」に近い服。これは私の弔い服だ。この夏ほんの少しだけ色づいてしまった心を殺し元の灰色の壁紙に戻るための決意の儀式だった。
それに袖を通しバッグに荷物を詰めていく。いつも読んでいる文庫本。財布とハンカチ。そして机の上に置いてあったペンギンのぬいぐるみをそっと手に取った。このぬいぐるみはこの夏の嘘で塗り固められた出来事の中で唯一彼が「私自身」を見てくれた(と私が愚かにも勘違いした)瞬間の証だ。この恋の始まりから終わりまでを最後まで見届ける義務がこの子にはあるような気がした。私はその小さな体をバッグの奥深くにしまい込んだ。
玄関のドアノブに手をかける。ひやりとした金属の感触。その向こう側には今日の運命の舞台が待っている。本当に、行くのか?今からでも引き返せる。この部屋に閉じこもってすべてが終わるのを待つこともできる。私の心の中で臆病な自分が最後の抵抗を試みる。しかし私はその声を振り払うようにゆっくりとドアノブを回した。行かなければならない。この目で結末を見届けなければ私はこの夏を永遠に終わらせることができないだろうから。
扉を開けると夏の生温かい空気が私の肌を撫でた。じりじりと肌を焼く太陽の光がやけに眩しい。今日この世界で一つの恋が終わりそして一つの恋が始まるのだ。その壮大な物語の中で私はただの名もなき観測者に過ぎない。
電車に揺られながら窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。住宅街が過ぎビルが並び子供たちの声が響く公園が見える。夏休みの家族連れ楽しそうに笑い合うカップル。そのすべてが私とは違う世界の住人のように見えた。私は透明な壁で隔てられた水槽の中から外の世界を眺めている深海魚のようだった。
私の頭の中ではこの夏休みの記憶が痛みを伴いながら次々とフラッシュバックしていた。カフェの窓から見えた街路樹が今日の景色と重なる。あの時彼は私の好きな本を知っていると言った。それは彼ではなく「みゆ」が知っていたことだったのに。水族館へ向かう時に見た海が車窓の向こうに広がる。あの時「静かな場所がいい」と言ったのはきっと私にではなく思い出の中の「みゆ」に語りかけていたのだろう。夏祭りの夜の喧騒が今日の電車の静寂の中で幻聴のように蘇る。花火の光に照らされた彼の横顔。あの時彼は私の向こうに誰を見ていたのだろう。
一つ一つの思い出を私は心の中で丁寧に冷徹に「殺して」いく。そうしなければ私は今日のこの残酷な結末を正気で見届けることができないだろうから。
駅からお寺へと続く長く急な坂道を一歩一歩踏みしめるように登る。心臓がまるで鉛の振り子のように重くそして大きく揺れていた。蝉の声がまるで耳鳴りのように頭の中で反響している。じっとりとした汗が首筋を伝いワンピースの襟を湿らせた。風に乗って線香の匂いが微かに鼻をかすめた。死と再生の匂い。今日という日にあまりにもふさわしい。この坂道はまるで私の恋心の断頭台へと続く道のようだった。
境内に到着したのは約束の時間の三十分も前だった。お盆の日曜日ということもあり境内にはちらほらと墓参りに来た人々の姿があった。私は誰にも見つからないように墓地全体を見渡せる大きな銀杏の木の影にそっと身を潜めた。ここが私の「最後の観客席」。ここからなら墓地へと続く一本道がよく見える。太い幹に背中を預けるとごつごつとした樹皮の感触が薄いワンピース越しに伝わってきた。土の匂いと木々の葉が揺れる音だけが私の周りの世界を構成していた。
時間がひどくゆっくりと流れていく。一秒が一分のように長い。心臓の鼓動だけがやけに大きくそして早く私の耳の奥で鳴り響いていた。何度ももう帰ってしまおうかという衝動に駆られた。こんな残酷なショーをわざわざ最前列で見届ける必要などない。でも足は地面に根が生えたように動かなかった。私はこの物語の結末を見届けなければならない。それが「完璧な代用品」としての私の最後の任務なのだから。私は物語の結末を見届けるためのただの語り部に過ぎない。
そして正午。お寺の鐘がごおんと重々しく鳴り響き時間の到来を告げた。その瞬間私の心臓も鐘の音に合わせて大きく脈打った。
彼が現れた。
白いシャツに黒いスラックス。いつもよりずっと大人びて見えるその出で立ち。彼は墓地へと続く道の入り口に立ち落ち着かない様子で何度も腕時計を確認したり道の向こうに視線をやったりしている。彼が腕時計を見るたびにその長い指が夏の光を反射してきらりと光る。彼は無意識に自分の髪を何度もかきあげていた。それは彼の緊張と期待の表れなのだろう。彼がどれほどこの再会を待ち望んでいたか。その純粋な想いが痛いほどに伝わってくる。
時間が一分また一分と過ぎていく。彼は次第に焦りの色を顔に浮かべ始めた。もしかしたら彼女は来ないのかもしれない。そんな考えが私の頭をよぎる。もしそうなったらこの物語はどうなるのだろう。彼の初恋は永遠に思い出のまま完結しないのだろうか。それは彼にとって幸せなことなのだろうかそれとも…。
その時だった。
道の向こうから一人の女の子がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
白い風に揺れるワンピース。陽光を反射して艶やかに輝く長い黒髪。肩には小さなショルダーバッグをかけている。間違いない。写真で見た鈴木みゆさんだ。
彼女はどこか儚げで知的な雰囲気をまとっていた。しかしその足取りはしっかりとしており凛とした佇まいは彼女がただのか弱い少女ではないことを示している。私にはないもの。私が持ちえなかったもの。そのすべてを彼女は持っているように見えた。彼女こそが「本物」なのだ。
彼女も誰かを探しているようにきょろきろと周りを見渡している。やがて彼女の視線が月島くんの姿を捉えた。彼女の目が大きく見開かれる。足がぴたりと止まった。
「……蓮くん……?」
か細いしかし凛とした声が風に乗ってここまで聞こえてきたような気がした。
月島くんも彼女に気づいた。彼は息を飲んだまま固まっている。
「……みゆ……?」
時が止まった。蝉の声も風の音も墓参りに来た人々の話し声もすべてが消え去ったようだった。世界にはただ二人だけしか存在しない。
二人は吸寄せられるように互いに歩み寄っていく。そして数メートルの距離で足を止めた。
何を話しているのかは聞こえない。
でも私には見えた。
彼の顔が今まで私には一度も見せたことのない心からの魂が解放されたような表情で綻んでいくのを。それは学校で見せる完璧な王子の笑顔でも読者モデルとして作るプロの笑顔でもそして私といる時に時折見せた悪戯っぽい少年のような笑顔でもなかった。まるで失われた半身を見つけ出したかのような絶対的な安堵と純粋な喜びに満ちた本当の笑顔。
彼女の顔も同じだった。驚きと懐かしさとそして再会できたことへの喜びがその表情をきらきらと輝かせている。
二人の周りだけ空気が違う色をしていた。物語の中の奇跡のワンシーンのようだった。王子様とお姫様の再会。完璧なハッピーエンド。
ああやっぱり彼の本当の居場所はあそこだったんだ。
私がいた場所なんて最初からどこにもなかったんだ。
彼のあの笑顔を見た瞬間私がこの夏必死に築き上げてきた覚悟の壁は音を立てて崩れ落ちた。堪えていた涙が堰を切ったように静かに頬を伝っていく。感情を殺したはずなのに体は正直に反応していた。涙は熱くそしてしょっぱかった。
もう見ていられなかった。
胸が張り裂けそうだった。
私の役目は終わった。これ以上ここにいてはいけない。シンデレラは魔法が解ける前に舞踏会を去らなければならないのだ。
私は誰にも気づかれないようにそっとその場から踵を返した。木の幹を伝うように音を殺してゆっくりと。
涙で視界が歪む中お寺の長い石段を駆け下りる。下駄ではないのに足がもつれて何度も転びそうになった。
さようなら月島くん。
さようなら私の嘘つきな夏休み。
そう心の中で何度も何度も別れを告げた。
どこへ行くあてもなく私はただバス停で最初に来たバスに飛び乗った。窓の外を流れていく景色を涙で濡れた瞳でただぼんやりと眺める。気がつけばバスは市立図書館の前に停まっていた。そうだここが私の聖域。私の本当の居場所。ここでならまた元の壁紙に戻れる。
閲覧室の一番奥の席。私の定位置に亡霊のように静かに座る。バッグからあのペンギンのぬいぐるみを取り出しぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿だな私……」
声にならない声で呟いた。
期待なんてするんじゃなかった。本気になんてなるんじゃなかった。
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて机の上に小さな染みを作っていく。もう彼が私を見つけてくれることはない。これで本当に本当に終わりなんだ。
私の夏は今日この場所で静かに終わった。
あとは灰色の日常がまた始まるだけだ。
そう思っていた。
その瞬間までは。
※
目の前にみゆが立っていた。
何年も何年も夢にまで見た光景。俺の記憶の中のあの俯きがちだった少女が少し大人びた顔立ちになってそこにいた。白いワンピースが夏の強い日差しを反射して彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。
「……蓮くん……?」
その声は記憶の中のそれよりも少しだけ低く落ち着いていた。でも間違いなく彼女の声だった。
「……みゆ……?」
俺は自分の口から掠れた声が出たのを聞いた。心臓が早鐘を打っている。やっと会えた。この夏俺がずっと追い求めてきた俺の初恋の亡霊に。
私たちはぎこちなく歩み寄り数メートルの距離で立ち尽くした。何を話せばいいのか分からなかった。あまりにも長い時間が私たちの間に横たわっている。
「久しぶり。元気だった?」
先に口を開いたのはみゆの方だった。
「ああ。……みゆも」
「うん。……大きくなったね蓮くん。背すごく伸びたんじゃない?」
「まあな。バスケやってるから」
「そっか。バスケ続けてるんだ。すごいね」
彼女は昔と変わらない穏やかな笑顔でそう言った。その笑顔を見た瞬間俺の心の中に温かいものがじわりと広がるのを感じた。そうだ。俺はこの笑顔に会いたかったんだ。
私たちは近くの木陰に並んで腰を下ろしぽつりぽつりと失われた時間を埋めるように話し始めた。彼女が引っ越した後のこと、新しい学校でのこと、そして今彼女がどんな夢を持っているか。彼女は俺が知らない間にたくさんの経験をして強くそして美しい女性になっていた。
俺も自分の話をした。バスケのこと、学校のこと。そして親との確執のこと。誰にも話したことのなかった俺の心の奥底にある息苦しさをなぜか彼女の前では素直に話すことができた。
「……そっか。蓮くんも大変だったんだね」
みゆは静かに相槌を打ちながら俺の話を聞いてくれた。その優しさがひどく心地よかった。
しかし話せば話すほど俺は心の中に奇妙な違和感が生まれているのを感じていた。
目の前にいるみゆは確かに俺がずっと探していた女の子だ。でも何かが違う。俺の心は再会の喜びに満たされているはずなのにどこか冷静でそして満たされない部分があった。目の前の彼女と話していても頭の片隅で別の誰かの顔がちらつくのだ。いつも困ったように眉を下げてでも芯の強い目で俺を見るあの横顔が。
その答えは不意に全く別の形で俺の前に現れた。
「そういえば蓮くん」
みゆが不意に言った。
「さっきあそこの木の陰に女の子がいなかった?蓮くんが私に気づく前にさっと隠れたみたいだったけど」
「え……?」
その言葉に俺の心臓はどきりと大きく跳ねた。まさか。そんなはずはない。
「白いグレーっぽいワンピースを着てて……。髪の長いすごく儚げな感じの子。蓮くんのお友達?」
上野さんだ。
なぜ彼女がここに?
その問いが遅ればせながら雷のように俺の頭を撃ち抜いた。
俺に会いに来たのか?違う。俺は彼女を呼んでいない。
まさか。
まさか彼女は俺がみゆと会うのを知っていてここに来たのか?
どうして。
いや違う。俺が彼女をここに連れてきてしまったのだ。俺の初恋の物語の残酷な結末をその目で見届けさせるために。
血の気がさあっと引いていくのが分かった。全身の毛が逆立つような悪寒が走る。
あの海での最後のデートの光景が脳裏に鮮明に蘇る。
『契約は最後まで。それが私たちの約束ですから』
そう言って悲しいくらいに完璧な笑顔で俺を突き放した彼女。あの時俺は彼女の心の奥にある悲鳴に気づかないふりをした。自分の弱さから目を逸らした。彼女のあの言葉は俺を気遣っての最後の優しさだったのだ。俺が罪悪感なくみゆとの再会を果たせるように。
俺はなんて馬鹿なことをしたんだ。
彼女はどんな気持ちで俺とみゆが再会するのをあの木の陰から見ていたのだろう。彼女の優しさを俺は土足で踏みにじったのだ。
「くそっ……!」
俺は自分の髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
すぐにスマホを取り出し履歴から『上野栞奈』の名前を探す。指が震えてうまくタップできない。三度目の試みでようやく発信ボタンを押した。
耳に当てたスマホから無機質な呼び出し音が響く。
一回。
二回。
頼む出てくれ。
三回。
四回。
ぶつりと音が切れ留守番電話サービスに接続されたことを告げる冷たいアナウンスが流れた。
「ちくしょう……!」
もう一度かける。結果は同じだった。
メッセージアプリを開き必死で文字を打つ。
『どこにいる?』
『さっきは悪かった』
『話がしたい。頼むから連絡してくれないか』
送信ボタンを押すがメッセージの横にはいつまで経っても「既読」の文字がつかない。彼女は俺からの連絡を完全に拒絶している。
その事実が俺の焦りをさらに煽った。
俺は境内をむやみやたらに走り回った。本堂の裏、手水舎の陰、駐車場。しかしあの儚げなグレーのワンピースの姿はどこにもなかった。蝉の声がやけにうるさく聞こえる。夏の熱気が今はひどく息苦しい。じっとりとした汗が背中を伝っていく。それは暑さのせいだけではなかった。
どうすればいい。彼女はどこへ行ってしまったんだ。
このまま彼女を失ってしまうのか。
あの静かな瞳もはにかむような笑顔も俺だけに見せてくれたあの不器用な優しさも。すべて。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その時俺の脳裏に一つの名前が閃光のように浮かんだ。
佐藤あかり。
彼女のたった一人の親友。彼女なら何か知っているかもしれない。
俺はバスケ部のマネージャーに無理を言って聞き出した彼女の番号を震える指で呼び出した。これが最後の望みだった。
数回のコールの後電話は繋がった。
『もしもし?』
警戒心に満ちた快活な声。
俺はぜえぜえと切れる息を整えながら叫ぶように言った。
「月島だ。佐藤さんか?上野のことなんだが……!」
『……あんたが栞奈に何の用?』
電話の向こうで彼女の声が一瞬にして氷点下にまで下がったのが分かった。
「いなくなったんだ!さっきまで近くにいたはずなのに!どこに行ったか知らないか!?」
『はぁ!?』
アカリさんの声が怒りで震えている。
『あんたのせいでしょ!全部!あの子がどんな思いであんたの茶番に付き合ってたかあんたに分かるわけないよね!代用品にされてボロボロになるまで傷つけられて!それでもあんたのために健気に振る舞って!そんな子をあんたは最後の最後まで踏みにじったわけ!?』
「代用品」。
その言葉がアカリさんの口から明確な非難として突きつけられた瞬間俺は自分が犯した罪の重さを本当の意味で理解した。俺は彼女の存在そのものを自分の都合のいいように利用し踏みにじったのだ。
俺は何も言い返せなかった。アカリさんの言う通りだったからだ。
「……悪かった」
俺の口から漏れたのはそんなありきたりな言葉だけだった。
「俺が全部馬鹿だった。だから……だから会って謝りたいんだ。それだけじゃ許されないって分かってる。でも伝えなきゃいけないことがあるんだ。頼む。あいつが一人でいそうな場所どこか心当たりはないか……」
俺はプライドも何もかも捨てて彼女に懇願した。
電話の向こうで長い長い沈黙が流れた。アカリさんが葛藤しているのが伝わってくる。
やがて彼女は深いため息と共に吐き捨てるように言った。
『……あんたみたいな自己中男に本当は教えたくないけど…』
「……」
『あの子が本当に独りになりたい時に還る場所なんてもう一つしかないじゃない。あんたがズカズカと踏み荒らしたあの子のたった一つの聖域よ』
聖域。その言葉に俺は息を飲んだ。
『……図書館。市立図書館の二階の一番奥の席。……もうあんたのせいでそこも聖域じゃなくなったかもしれないけどね!』
ガチャンと一方的に電話は切られた。
俺はスマホを握りしめたままその場に立ち尽くした。
アカリさんの言葉が脳内で何度も反響する。「聖域」「踏み荒らした」。
そうだ。俺は彼女の世界に土足で踏み込んだのだ。彼女が必死で守ってきた静かで穏やかな世界を。
後悔が津波のように押し寄せてくる。でも今はそれに浸っている時間はない。
図書館。
その言葉だけを道しるべに俺は再び走り出した。
お寺の石段を二段飛ばしで駆け下りる。
待っててくれ上野さん。
俺がどれだけ愚かで馬鹿だったか。そして俺の本当の気持ちがどこにあるのか。
今から伝えに行くから。
絶対に君を一人にはしない。
アカリさんのその言葉だけを道しるべに俺は全力で走り出していた。お寺の長く急な石段を二段飛ばしで駆け下りる。足がもつれて転びそうになるのも構わずただ前へ前へと体を押し進めた。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱気。肺が焼け付くような痛み。心臓が肋骨の内側で狂ったように暴れ回っている。バスケの試合で走り込むのとは訳が違う。あれは勝利という明確な目標に向かうための計算された疾走だ。しかし今の俺はただ焦燥と後悔に突き動かされるまま無様にがむしゃらに走っているだけだった。
街の風景が猛烈な速さで後ろへと流れていく。蝉の声、車のクラクション、商店街のスピーカーから流れる安っぽい音楽。それらすべてが俺の耳には届いていなかった。俺の頭の中ではただ一つの名前が何度も何度も反響していた。
上野さん。栞奈。
俺はこの夏彼女の名前を心の中で一体何回呼んだだろう。そしてそのどれもが本当の彼女を見ていなかった。
最初に駆け抜けたのは古い住宅街だった。狭い路地、日に焼けたトタン屋根、軒先に並んだ植木鉢。見覚えのある風景。そうだここは数週間前彼女と一緒にみゆの家を探して歩いた場所だ。
角を曲がるとあの公園が見えてきた。錆びついたジャングルジムと二台のブランコ。夏草が生い茂り今はもう誰も遊んでいない。
俺は思わず足が止まりそうになるのを必死でこらえた。
鮮明にあの日の光景が蘇る。
『なあ上野さん。乗ってみろよ。俺が押してやるから』
そう言って無邪気に彼女を誘った愚かな俺。
彼女はひどく傷ついたようなそれでいてすべてを諦めたような目で静かに首を振った。
『……私はいいです』
『どうして? 楽しいぜブランコ』
『……そういう気分ではないので』
あの時俺は彼女のその頑なな態度の意味が全く分からなかった。ただ少し機嫌が悪いのかなくらいにしか思っていなかった。
馬鹿だ。俺は本当に救いようのない馬鹿だ。
彼女は拒絶していたのだ。俺が彼女をみゆの「代用品」として扱おうとしたことを。彼女の最後のプライドをかけて俺の無神経な要求を全身全霊で拒んでいたのだ。その悲痛な叫びに俺は気づくことすらできなかった。
後悔が鋭いガラスの破片となって心臓に突き刺さる。ごめん。ごめん上野さん。俺は走りながら声にならない声で謝罪を繰り返した。
公園を抜け大通りに出る。息が切れ足が鉛のように重い。しかし止まるわけにはいかなかった。
ふと視線の先に大きな神社の鳥居が見えた。夏祭りの夜。あの日の記憶が鮮やかな色彩と共に脳裏に蘇る。
人混みの中はぐれないようにと咄嗟に掴んだ彼女の華奢な腕。その驚いたような感触。
慣れない下駄で歩く小さな後ろ姿。
金魚すくいに夢中になって子供のようにはしゃぐ横顔。
そして花火。
夜空に咲く大輪の光に照らされた彼女の浴衣姿。うなじに残されたおくれ毛がやけに艶めかしくて目を逸らせなかったこと。
髪についた木の葉を取ってやろうとしてその指先が彼女の柔らかい頬に触れてしまったあの瞬間。
どきりと心臓が大きく跳ねた。それはみゆへの郷愁とは全く違う未知のそして抗いがたい引力だった。俺はあの時確かに彼女に惹かれていた。でもその正体不明の感情に動揺し怖くなって咄嗟にスマホを取り出して写真撮影という「業務」の裏に隠れてしまったのだ。
『#来年も』
SNSに何の気なしにつけたあのハッシュタグ。来年なんてあるはずもないのに。俺は自分の心に芽生え始めた感情から目を逸らすために無意識にこの偽りの関係が続くことを望んでしまっていたのかもしれない。そしてその軽率な言葉が彼女をどれだけ傷つけたことか。
「くそっ……!」
俺は走りながら自分のこめかみを殴りつけた。
どうしてもっと早く気づかなかったんだ。自分の本当の気持ちに。
駅前のロータリーが見えてきた。もう図書館まではあと少しだ。
駅ビルの側面には巨大なシネコンの看板が掲げられている。初デートの場所。
あの日のことも昨日のことのようにはっきりと覚えている。
『……あれ見たいんだろ? 顔に書いてある』
そう言って彼女が見つめていたフランス映画のチケットを買った時のこと。正直俺はああいう地味な恋愛映画には全く興味がなかった。でも彼女がどんな物語を好きなのか知りたかったのだ。
映画館の暗闇の中隣に座る彼女の緊張した気配。ふとした瞬間に触れ合った腕。その度に俺の心臓はうるさいくらいに鳴っていた。
そしてカフェでのあの写真。
『……君の見てた映画。俺も原作好きだったんだ』
それは嘘ではなかった。偶然にもその本は昔みゆに勧められて読んだことがあったのだ。でもあの時俺がその事実を口にしたのはみゆの思い出を語りたかったからじゃない。ただ目の前で緊張で顔をこわばらせている彼女を笑わせてやりたかった。その一心だった。
そして俺の言葉に彼女がふと花が綻ぶように笑ったあの瞬間。
俺は生まれて初めて誰かの笑顔をこんなにも愛おしいと思った。
あの写真に写っていたのは偽物の恋人なんかじゃなかった。ぎこちなくでも確かに心を寄せ合い始めた二人の男女の姿だったのだ。
あの写真。そうだあの写真は母親や玲香を欺くためのただのアリバイ工作ではなかった。あれは俺にとっての宝物だった。スマホの待ち受けには設定できないけれどフォトフォルダの一番奥にしまい込んで夜中に一人で何度も何度も見返していた。彼女のあのはにかむような笑顔を。
そうだ。俺は最初から気づいていたのかもしれない。
彼女がただの「代用品」ではないことに。
彼女の静かな瞳の奥にある強さと優しさに。
俺はずっと惹かれていたのだ。
でも俺はそれを認めるのが怖かった。親の期待、玲香のこと、そしてみゆという過去の亡霊。それらすべてから逃げるために俺は無意識に彼女を「都合のいい契約相手」という箱の中に閉じ込め自分の本当の気持ちに蓋をしていたのだ。
図書館のガラス張りの入り口が見えてきた。
最後の力を振り絞りラストスパートをかける。
胸が張り裂けそうだ。足がもう感覚がない。
でもそんなことはどうでもよかった。
間に合ってくれ。
まだそこにいてくれ。
もし彼女がいなかったら?もし彼女がもう二度と俺の前に現れてくれなかったら?
その想像が恐怖となって俺の全身を駆け巡る。
失って初めて気づく。彼女が俺にとってどれだけ大きな存在になっていたか。
風景なんかじゃない。彼女は俺の世界の中心だった。
自動ドアをてこじ開けるようにして館内になだれ込む。
「走らないでください!」
受付の司書の制止の声が聞こえる。でも俺はそれを無視して閲覧室へと続く階段を駆け上がった。
二階の一番奥の席。
アカリさんが言っていた彼女の聖域。
そこに彼女はいた。
机の上に突っ伏して小さな背中をか細く震わせている。
その姿を見た瞬間俺の心は安堵とそしてどうしようもないほどの罪悪感でぐちゃぐちゃになった。
俺はこの世界でたった一つの聖域をめちゃくちゃに踏み荒らしてしまったのだ。
ごめん。
ごめん上野さん。
でももう逃げない。
俺は震える足で彼女の元へと最後の一歩を踏み出した。
一歩また一歩と彼女に近づいていく。閲覧室の静寂の中で俺の革靴の音だけがやけに大きく響いた。彼女の席まであと数メートル。机の上には読みかけで伏せられた文庫本と彼女の小さな筆箱が見える。そして彼女のバッグの中からあの俺が渡したペンギンのぬいぐるみが顔を半分だけ覗かせていた。その光景がまるで鋭いナイフのように俺の胸を突き刺した。彼女は俺が「代用品」として渡したと知っているかもしれないあのぬいぐるみをそれでも捨てずに持っていてくれたのだ。
彼女の肩が嗚咽を殺すように小さく不規則に揺れている。その背中はあまりにも華奢で頼りなくて今にも消えてしまいそうだった。俺が彼女をここまで追い詰めた。俺の身勝手な契約が俺の鈍感さが彼女の心を粉々にしてしまったのだ。
謝罪の言葉も言い訳の言葉も喉の奥で塊になって出てこない。ただ胸を締め付けるような痛みと彼女を失いたくないという本能的な恐怖だけが俺の全身を支配していた。
俺は彼女の隣に立つと震える手を彼女の肩に伸ばしかけた。
しかしその指先が触れる寸前で俺は手を引っ込めた。
今の俺に彼女に触れる資格などない。
代わりに俺の口から飛び出したのは自分でも思ってもみなかった怒鳴り声にも似た叫びだった。
「馬鹿! 勝手にいなくなるなよ!」
その声は静かな閲覧室に不釣り合いに大きく響き渡った。怒っているようで泣きそうにも聞こえるひどく情けない声だった。
彼女の背中の震えがぴたりと止まる。
ゆっくりと本当にゆっくりと彼女が顔を上げた。
そして俺は息を飲んだ。
彼女の顔は涙と絶望でぐしゃぐしゃだった。赤く泣き腫らした瞳、血の気の引いた唇。その瞳には俺の姿が映っているはずなのにまるで何も見えていないかのように焦点が合っていなかった。ただ深い底なしの虚無だけがそこにあった。
「……どうして私がここにいるって……」
か細い掠れた声が彼女の唇から漏れた。
その問いが俺の心に突き刺さった最後の理性の楔を粉々に砕いた。
「わかるに決まってんだろ!」
俺は彼女の机に両手をつき身を乗り出した。机がガタンと大きな音を立てる。
「俺が俺がこの夏ずっと見てたのは誰だと思ってんだよ!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。
「忘れられるわけないだろ! 俺が好きになったのは過去の思い出なんかじゃなくて今目の前にいるお前なんだってなんでわかんないんだよ!」
※
その必死の叫び。
それは私が今まで聞いたどんな言葉よりも甘くそして切ない告白だった。
私の頭の中は真っ白だった。
「みゆには全部話した。お前のことも俺の本当の気持ちも。そしたらあいつ笑ってこう言ったんだ。『今の蓮くんすごくいい顔してる。その子絶対に離しちゃダメだよ。昔の私じゃなくて今の蓮くんを幸せにしてくれるのはその子だよ』って」
彼は私の両肩を掴んだ。その手は熱く震えていた。
「だからお願いだ。どこにも行くな。俺のそばからいなくなるな……! 俺の隣で笑ってくれ……!」
嘘つきな彼からのたった一つの本当の言葉。
その言葉が私の心の一番深い場所にすとんと落ちてきた。
ずっと灰色の世界に一人で蹲っていた私を見つけ出してくれた。その温かい喜びに涙が溢れて止まらなかった。
「……私も」
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のままそれでも必死に彼を見て言った。
「私も蓮くんが好きです」
その言葉を口にした瞬間私の灰色の世界が一瞬にして鮮やかな色に包まれていくようだった。
「……じゃあ契約成立だな」
彼が悪戯っぽく涙の跡が残る顔で笑う。
「え……?」
「君の願い事まだ聞いてない。最後の、一番大事な契約が残ってる」
そうだ。忘れていた。契約の最後の条項。
「……じゃあ」
私は言った。私のたった一つの本当の願い事。
「私の願い事は…私が卒業するまで学校中の誰よりも私のことを見つけ出してください」
「……見つけ出す?」
「はい。私はもう壁紙じゃありません。風景でもありません。上野栞奈です。だから蓮くんが毎日私を見つけて私の名前を呼んでください。それが私の願い事です」
彼は一瞬きょとんとした顔をしたがやがてくしゃりと顔を綻ばせた。それは私が今まで見たどの笑顔よりもずっと素敵で本当の笑顔だった。
「……なんだよそれ。簡単な願い事だな」
彼はそう言うと私の手を強く固く握りしめた。
「約束する。毎日必ず君を見つける。世界のどこにいても」
八月三十一日。
長くそして短かった夏休みが終わる日。
私はアラームが鳴るよりもずっと早く部屋に差し込む柔らかな朝の光で目を覚ました。昨日までのすべてを焼き尽くすかのような猛烈な日差しではなくどこか優しく新しい季節の訪れを予感させるような穏やかな光だった。窓の外からはあれほどけたたましく鳴り響いていた蝉の声に代わって涼やかな風が木々の葉を揺らす音が聞こえる。
昨日の出来事がまだ夢の中の出来事のように私の意識の周りをふわふわと漂っていた。
図書館のあの静寂。司書の驚いた顔。そして息を切らし汗だくで感情をむき出しにして私の名前を叫んだ彼の姿。
『俺が好きになったのは過去の思い出なんかじゃなくて今目の前にいるお前なんだ』
あの言葉が私の耳の奥で何度も何度も優しいこだまのように繰り返される。そのたびに私の心臓はきゅっと甘く締め付けられ頬が熱くなるのを感じた。
私はゆっくりと体を起こし机の上に置かれたペンギンのぬいぐるみを手に取った。昨日までは私を縛り付ける「戒めの証」だったこのぬいぐるみ。でも今は違う。そのつぶらな瞳はまるで「よかったね」と私に微笑みかけてくれているようだった。これはこの夏の嘘で塗り固められた出来事の中で彼が初めて私自身に向けてくれたたった一つの「真実」の贈り物だったのだ。私はその小さな体をぎゅっと胸に抱きしめた。
ベッドの脇に脱ぎ捨てられた昨日のグレーのワンピースが目に入る。私の弔い服。風景に戻るための儀式の衣装。もうこの服を着ることはないだろう。私はそのワンピースを丁寧に畳むとクローゼットの一番奥にそっとしまった。さようなら昨日の私。
その時枕元のスマホがぶぶと優しく震えた。
画面に表示された『月島 蓮』の文字に私の心臓は昨日とは全く違う意味で大きく跳ねた。
恐る恐るメッセージを開くとそこには短い言葉が並んでいた。
『今日、会える?』
たったそれだけの六文字。
これまでの業務連絡のような命令形ではない。私の都合を尋ねる優しい疑問形。その単純な事実が私の心をどうしようもなくときめかせた。私たちの関係が本当に変わったのだということを何よりも雄弁に物語っていた。
以前の私ならこのメッセージにどう返信すべきか何時間も悩んだだろう。でも今は違った。私は微笑みながらためらうことなく指を動かした。
『はい。会いたいです』
送信ボタンを押した瞬間すぐに既読の文字がつき返信が来た。
『じゃあ十一時にいつもの場所で』
『いつもの場所』。その言葉が私たちの間に生まれた新しい合言葉のように思えて私はまた一人で顔を赤らめた。
支度を始めていると今度はアカリから電話がかかってきた。
『もしもーし! シンデレラはお目覚めかな!?』
電話の向こうから聞こえてくる声はいつもの太陽のような明るさに満ちていた。
「アカリ……おはよう」
『おはよー! てかもう聞いたからね! 昨日の夜月島くんからわざわざお礼と報告の電話があったんだから! 全く律儀な王子様なんだから!』
「えそうなの!?」
『そうよ! あんたのことよろしく頼むってさ! 私あんたの親友っていうか、もはやお母さんの気分よ!』
アカリは電話の向こうで泣き真似を始めた。
「ああうちの栞奈がやっと……!」
その大げさな振る舞いに私は思わず笑ってしまった。
『よかったね栞奈。本当に、よかった……!』
一転して彼女の声が涙で震えているのが分かった。
「うん……。ありがとうアカリ。今までずっと支えてくれて」
『当たり前でしょ! 私たち親友なんだから! ……で? 今日会うんでしょ?』
「うん。十一時に」
『よーっし! じゃあ今日はどんな服着てく!? 最高のやつ選んでや……』
「ううん」
私は彼女の言葉を優しく遮った。
「今日は自分で選ぶ。……ありがとうアカリ」
電話の向こうでアカリが息を飲むのが分かった。そして一瞬の沈黙の後彼女は本当に嬉しそうにこう言った。
『……うん! 行ってきなさい栞奈!』
クローゼットを開ける。そこには相変わらず色のない服とアカリが置いていってくれたカラフルな服が混在していた。私はその中から一枚の白いコットンワンピースを手に取った。それは夏休みの初めにアカリが「これなら栞奈でも着れるでしょ」と言って半ば無理やり買わされたものだった。その時は自分には似合わないと思っていたけれど今の私にはこの真っ白なワンピースが一番しっくりくるような気がした。
新しい物語を始めるのにふさわしい色だと思ったから。
約束の場所である駅前の噴水広場。
夏休みの初めに私が震える足で偽りのデートのために訪れたあの場所。
私が着くと彼はもう噴水の縁に腰掛けて待っていた。黒いTシャツにダメージジーンズ。あの日と同じ格好。でも彼の雰囲気はあの時とは全く違って見えた。
彼をいつも取り巻いていた人を寄せ付けないような「完璧な王子様」のオーラが今は消えている。サングラスもかけていない。ただ少しだけ緊張した面持ちでぼんやりと噴水の水しぶきを眺めていた。その姿はどこにでもいる普通の男の子に見えた。
私が近づいていくと彼は私に気づき立ち上がった。そしてはにかむように少しだけ照れたように笑った。
それは私が今まで見た彼のどの笑顔よりもずっと素敵でそして本当の笑顔だった。
「よお。……待った?」
「ううん今来たとこ」
私たちは、ぎこちなく、そんなありふれた会話を交わした。何を話せばいいのか、お互いに分からなかった。偽物の恋人として過ごした時間は、決して短くはなかったはずなのに、本当の恋人として向き合う、この最初の数秒間は、まるで初めて会った時のように、ぎこちなくて、新鮮だった。
「……行くか」
彼が、そう言って、私に手を差し出した。
私は、一瞬ためらった後、おずおずと、その手に自分の手を重ねた。彼の大きな手が、私の手を、優しく、しかし、力強く包み込む。指が、ゆっくりと絡み合う。その温かさが、私の心に、じんわりと広がっていく。私たちは、手をつないだまま、あてもなく、歩き始めた。
私たちは、ただ、歩いた。駅前の喧騒を抜け、川沿いの遊歩道へ。
会話は、途切れ途切れだった。でも、その沈黙は、少しも気まずくなかった。ただ、隣に彼がいること、彼の手の温かさを感じられること。それだけで、私の心は満たされていた。
しばらく歩いた後、彼が、ぽつりと言った。
「……悪かったな。この夏、ずっと」
「ううん……」
「俺、本当に、馬鹿だった。自分のことばっかりで、お前が、どんな思いで俺に付き合ってくれてたか、全然、分かってなかった」
「……私も、悪かったところ、いっぱいあるよ。もっと早く、自分の気持ち、ちゃんと言えばよかった」
「言えるわけないだろ。あんな状況で」
彼は、そう言って、私の手を、さらに強く握りしめた。
「本当に、ごめん」
その声は、心からの、謝罪の響きを持っていた。私は、首を振った。
「もう、いいの。全部、終わったことだから」
「……そうだな」
彼は、そう言って、少しだけ、寂しそうに笑った。
私たちは、近くの公園のベンチに腰を下ろした。それは、夏祭りの夜に、私たちが花火を見た、あの神社の近くの公園だった。
彼は、近くの自動販売機で、缶コーヒーを二つ買ってきた。
「ほら」
渡された、微糖のコーヒー。それは、カフェで飲んだ、お洒落なパフェなんかより、ずっと、ずっと、美味しく感じられた。
私たちは、しばらく、子供たちがはしゃぐ声を遠くに聞きながら、黙ってコーヒーを飲んでいた。
「明日から、どうする?」
彼が、不意に、そう切り出した。
「え?」
「学校。……気まずいだろ、色々」
彼の言う通りだった。明日から、学校が始まる。私たちの関係は、学校中に知れ渡っている。そして、そのほとんどは、悪い噂だ。私が、蓮くんをたぶらかした、とか。どうせすぐ別れる、とか。その視線の嵐の中に、また戻らなければならないのかと思うと、正直、怖かった。
私の不安を見透かしたように、彼は言った。
「俺が、お前を見つけるから。毎日。だから、もう隠れなくていい」
「……でも」
「約束だろ? それが、お前の、新しい願い事なんだから」
彼は、そう言って、悪戯っぽく笑った。
「朝、教室まで迎えに行く。昼休みは、屋上で一緒に弁当食おう。帰りも、一緒に帰る。文句、あるか?」
「……それは、目立ちすぎるよ……」
「いいんだよ、目立って。もう、お前を、風景になんてさせてやらない。俺の彼女なんだから、堂々としてろ」
その、少し強引で、でも、不器用な優しさに、私の胸は熱くなった。
「私の夏休みは、今日で終わり」
夕日が、公園の木々を、オレンジ色と紫色に染めていく。私たちは、帰り道、もう一度、手をつないでいた。
「でも、」
私は、彼の顔を見上げて、続けた。
「私たちの物語は、今日から始まるんだね」
私の言葉に、彼は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、くしゃりと顔を綻ばせた。
「……ああ。そうだな」
私たちは、駅の改札で別れた。
「じゃあ、また明日。学校で」
「うん。また明日」
それは、夏祭りの夜の、あの切ない別れとは全く違う、温かくて、確かな、未来への約束だった。
家に帰り着き、自分の部屋の窓から、夕焼け空を眺める。
私の灰色の世界は、彼と出会って、鮮やかな色に染め上げられた。
風景だった私は、もういない。
ここにいるのは、月島蓮くんの、本当の彼女になった、上野栞奈だ。
明日から始まる、新しい物語。きっと、また、傷つくこともあるだろう。面倒なこともあるに違いない。
でも、もう、私は一人じゃない。
彼の隣でなら、きっと、どんな嵐も乗り越えていける。
私は、机の上のペンギンのぬいぐるみに、そっと微笑みかけた。
私たちの、嘘から始まった夏休みは、終わった。
そして、本当の恋が、今、始まったのだ。
永遠に、続いていく、私たちの物語が。
私の名前は上野栞奈(うえの かんな)。県立高校に通うごく普通の高校二年生。
もし私の存在を誰かに説明するとしたら、それはひどく困難な作業になるだろう。なぜなら私自身が、他人の記憶に残らないよう細心の注意を払って生きてきたからだ。クラスメイトの集合写真を見返しても、私の顔を正確に思い出せる者はほとんどいないはずだ。いつも一番端に俯き加減で写り込み、その表情は前の子の頭で半分隠れている。まるでそこに存在してはいけない心霊写真のように。わざとそうしているのだ。シャッターが切られる瞬間にほんの少しだけ顔を伏せる。それだけで私の存在感は限りなくゼロに近づく。
この歪んだ特技が私の生存戦略になったのには理由がある。
忘れもしない、あれは小学四年生の秋の運動会。あの日の空も今日のように雲一つなく突き抜けるように青かった。クラスで一番速いわけではなかった。ただほんの少しだけ他の女子より足が速いというそれだけの理由で、リレーのアンカーという大役が回ってきたのだ。担任の若い男性教師が笑顔で私の肩を叩いた。「上野さんなら大丈夫だ。みんなの期待を背負ってゴールテープを切ってくれ!」。その言葉にクラス中がわっと沸いた。「すごいね!」「頑張って!」。純粋な応援が、まるで自分が物語の主人公にでもなったかのように心地よかった。生まれて初めて自分が世界の中心にいるような錯覚を覚えた。
しかしその高揚感は、日を追うごとに鉛のような重圧に変わっていった。教室で、廊下で、下校中に会う人誰もがリレーの話をする。「練習見たけど、栞奈めっちゃ速いじゃん」「絶対一位取ってね」。私の足はいつの間にか私だけのものではなくなっていた。朝礼で校長先生が「赤組のアンカー、上野さんの走りに期待しています」と言った日からそれはもう決定的だった。私はクラスの、そして赤組全体の希望の象徴に祭り上げられてしまったのだ。
そして運命の日。心臓が喉から飛び出しそうな緊張の中、私はトップでバトンを受け取った。歓声が地鳴りのように聞こえる。ゴールテープは目前。英雄になれるはずだった。しかし焦りとプレッシャーで硬直した足は無情にも私をもつれさせ、土のトラックに叩きつけた。手のひらから滲む血。擦りむいた膝の燃えるような痛み。土の匂い。遠ざかっていくライバルの背中。そしてゴール後に私を待ち受けていたのは、優しい慰めの言葉ではなかった。
「なんで転んだの?」
「栞奈のせいで負けた」
「あとちょっとだったのに」
悪意のない、あまりにも無邪気で残酷な非難の視線。泣いている私を誰も助けてはくれなかった。担任の先生でさえ「残念だったな。でも、これもいい経験だ」とありきたりな言葉で片付けた。その日から教室の空気は変わった。私は「リレーで転んで負けた子」になった。誰も私を責めなかったけれど、誰も私に話しかけなくなった。まるで失敗がうつるかのように。休み時間に一人で本を読んでいても、隣の席の子は私との間に見えない線を引いているようだった。
中学校に上がってもその経験は私を呪いのように縛り続けた。目立つことへの恐怖は私の行動のすべてを支配した。授業中に手を挙げることもしない。部活にも入らない。美術の授業で風景画を描いた時のことを今でも思い出す。「地元の好きな風景」というテーマで、私は家の近くの誰も通らないような川沿いの小道を描いた。描き上げた絵は驚くほど特徴がなく、色も薄く、まるで霧の中に沈んでいるかのようだった。美術の先生は私の絵をしばらく眺めた後、困ったような、それでいて優しい目で私に言った。
「上野さんはとても丁寧に描くんだな。でももう少し自分が見た感動を色に乗せてもいいんだよ。君はこの風景のどこが一番好きなんだい?」
私は答えられなかった。好きなのではない。ただ誰にも注目されない静かな場所だったから選んだだけだ。先生の言葉は私の心の奥底を見透かしているようで、私は怖くなって俯いてしまった。
そうやって誰の記憶にも残らない、空気のような存在でいること。それが誰も傷つけず、誰にも傷つけられないで済む私の唯一の鎧になったのだ。
終業式が行われる体育館は巨大な蒸し器のようだった。むっとする熱気と大勢の人間の汗の匂い、そして埃っぽさが混じり合って息をするだけで体力を奪われていく。私は学年で指定された区画の一番後ろ、壁際の席に座り、ひたすらこの苦行が終わるのを待っていた。
「ねえ、栞奈。聞いてるってば」
隣に座る親友の「アカリ」こと佐藤あかりが私の肘を小突いた。汗で湿った彼女の茶色い髪が私の肩に触れる。私とは正反対の太陽みたいなアカリ。彼女だけが私が必死に築いた心の壁をいつもあっさりと飛び越えてくる。中学の時、私がクラスで孤立していた時も彼女は「あんたの読んでる本、面白そうじゃん。貸してよ」と屈託なく話しかけてきてくれた。それが私たちの始まりだった。
後になってどうして私に話しかけてくれたのか聞くと、アカリは少し照れたようにこう言った。「だってあんたが読んでる本、めちゃくちゃ面白そうだったんだもん。それに一人でいるのが好きなんじゃなくて、一人でいなきゃいけないって顔してたから、なんか、ほっとけなかった」
その言葉に私がどれだけ救われたか、きっと彼女は知らないだろう。
「校長先生の話、永遠に終わらないループものかよ。……で、夏休みの予定は?まさか今年も図書館に毎日通うとか言わないでよね。たまには海とか行こうよ、海!」
「うん。まあいつも通りかな。市立図書館の新刊、もう予約してあるし。海は日焼けするから……」
「はいはい、図書館詣ででしょ。真-面-目-か」
アカリは唇を尖らせてそう言うと、からかうように私の頬をつついた。でもその目はすぐに楽しそうな色を帯びて、体育館の壇上へと視線を向ける。その瞳がきらりと、まるで宝石でも見つけたかのように輝いた。
「うわ、見て。月島蓮、やっぱりオーラやばい。あそこだけ照明の数違くない?ていうか同じ高校の制服着てるとか、もはや奇跡だよね」
彼女の視線の先には、バスケットボール部の全国大会出場の表彰を受ける、ひときわ眩しい存在がいた。
月島蓮(つきしま れん)くん。
バスケ部の不動のエースで成績は常にトップクラス。次期生徒会長の最有力候補。長い手足にモデルのように整った顔立ち。彼が歩けば女子生徒たちのため息混じりの視線がモーゼの奇跡みたいに道を開ける。太陽という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。彼がいる場所だけ光の量が違うのだ。彼が存在するというだけでこのありふれた県立高校が、まるで少女漫画のきらびやかな舞台のように錯覚してしまう。
私は彼のような人間が苦手だった。彼自身がどうこうというより、彼が存在することによって生まれる周囲の熱狂が私を息苦しくさせるのだ。黄色い歓声、熱っぽい視線、彼の一挙手一投足に一喜一憂する空気。そのすべてが私の静かな世界を侵食してくるノイズのようだった。だから私は彼を視界に入れないように努めてきた。彼がどんな声で話すのか、どんな風に笑うのか、私はほとんど知らなかった。
「同じ人間とは到底思えないよね。私たちみたいなその他大勢の登場人物とは、物語のジャンルが違うっていうか。少女漫画のヒーローと壁の染み、みたいな?」
アカリの言葉に私は静かに頷く。的確すぎる例えに少しだけ胸がチクリと痛んだ。彼女は悪気なく言っているのだろうけど、その「壁の染み」という言葉は私の心の奥の、一番柔らかい場所を的確に抉った。
「栞奈は興味ないの?あの国宝級イケメン」
「ないよ。だって住む世界が違うもん」
それが私の本心だった。彼のような光の中心にいる人間と、教室の隅で壁際に咲く雑草のような私が関わることなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。彼を見ることは自分の惨めさを再認識する行為に他ならなかったからだ。
「以上で、終業式を終わります」
教頭先生の抑揚のない言葉で、体育館に監獄からの解放を喜ぶようなざわめきが広がった。
「やったー!夏休み!」アカリが猫のように大きく伸びをする。「じゃ!私、部活のミーティングがあるから!また後でね!夏休み、絶対遊ぶんだからね!図書館に引きこもってないで、ちゃんと連絡しなさいよ!」
彼女はそう言うと、人の波を器用にかき分けるようにして体育館の出口へと消えていった。
一人になった私はいつものように、誰にも気づかれないように一番最後にゆっくりと立ち上がった。壇上ではまだバスケ部の友人たちに囲まれて、あの完璧な笑顔で何かを話している月島くんがいる。あの光の輪には決して近づいてはいけない。
壁の染みのふりをして体育館の壁際をこそこそと歩き、出口へと向かう。あと数メートルでこの息苦しい空間から解放される。
その時だった。
不意に彼の、その涼しげな目がまっすぐに私を捉えた。
え、と思った。心臓が跳ねて喉がひゅっと鳴る。心臓の音が体育館中に響いているんじゃないかと思うくらいうるさい。気のせいだ。絶対に気のせい。きっと私の後ろにいる可愛い誰かを見ているんだ。
そう思って俯き、足早に通り過ぎようとした。
その時、私の目の前にすっと大きな影が差した。
顔を上げると、月島蓮くんが立っていた。
その瞬間の衝撃を私は多分一生忘れないだろう。時間が止まり音が消え、世界には私と彼だけしか存在しないような錯覚。彼の背後にある体育館の出口から差し込む夏の光が、彼の輪郭を黄金色に縁取っていた。彼の瞳の中に、驚きと混乱で固まっている情けない私の顔がはっきりと映っていた。
彼は確かに私を見ていた。
嘘でしょ、と思った。周りの喧騒がまるで分厚いガラスの向こう側のように遠ざかっていく。私と彼の周りだけスポットライトが当たっているかのように、世界が切り取られていく。
「え、なんで上野さんが?」「あの子、誰?」「二組の地味な子じゃん」「蓮くんと知り合いなの?」
やめて。お願いだから私を見ないで。私は風景なの。あなたたちの物語には登場しない背景の一部なの。足が震えて今にも崩れ落ちそうだった。
「上野栞奈さん、だよね」
彼が私の名前を呼んだ。その声は私が想像していたよりも少しだけ低くて、そして蜂蜜を溶かしたような甘い響きを持っていた。
「……は、はい」
蚊の飛ぶような声で答えるのが精一杯だった。どうして私の名前を?同じクラスになったこともないのに。心臓が肋骨を突き破って飛び出してしまいそうだ。
「ちょっと話があるんだけど。いいかな」
それは疑問形でありながら、拒否を許さない響きを持っていた。彼は私の返事を待つでもなく私の腕を軽く掴むと、体育館の出口へと向かって歩き出した。その動きには一切の躊躇いがなかった。周囲の生徒たちが驚きと好奇に満ちた目で私たちを見ながら、モーゼの海のように割れて道を開ける。その無数の視線がまるで物理的な針のように私の肌に突き刺さる。痛い。熱い。恥ずかしい。今すぐにでもこの場にうずくまって石になってしまいたかった。
私はただ俯くことしかできない。視界に映るのは彼の着ている制服のシャツの広い背中と、私の腕を掴む日に焼けた骨張った手だけ。バスケットボールの練習で鍛えられたのだろう、その手は驚くほど硬く、そして熱かった。その熱が私の薄い制服のブラウスを通してじかに伝わってくる。頭が真っ白になって、ただ引きずられるままについていくしかなかった。アカリがこの光景を見たら一体なんて言うだろう。卒倒するかもしれない。いや、きっと目を輝かせて「少女漫画の始まりじゃん!」とか言うに違いない。そんな親友の顔を思い浮かべようとしても、恐怖で思考がまとまらなかった。
彼が私を連れて行ったのは体育館の裏手にある、人気のない渡り廊下だった。北校舎と武道場を繋ぐその場所は日が当たらず、いつもひんやりとした空気が漂っている。ずらりと並んだ古いスチール製のロッカーには錆が浮き、ところどころへこんでいる。湿ったコンクリートの匂いが私の緊張した鼻腔を支配した。ここは告白や果たし合いのメッカとして、校内では有名な場所だった。もちろん私には生まれてから一度も縁のなかった場所だ。
彼はそこでようやく私の腕を離した。そして私に向き直ると、信じられない言葉を口にした。
「俺と、付き合ってくれない?」
時が止まった。みーん、みーんと遠くで鳴いていた蝉の声がぷつりと途絶えたような錯覚に陥る。
私の頭の中は完全にフリーズしていた。
付き合う?誰が?誰と?私が、月島蓮くんと?
思考が追いつかない。理解ができない。これは手の込んだドッキリか何かだろうか。それとも王様ゲームの罰ゲーム?私のようなクラスでも存在感のない女をからかって、みんなで笑うための。そうだ、きっとそうだ。この渡り廊下のどこかに彼の友人たちが隠れていて、スマホで動画でも撮っているに違いない。そう考えなければこの状況はあまりにも非現実的すぎる。
「……えっと……ごめんなさい、人違い、じゃ……」
声が震える。情けないほどに。
「ううん、上野さんで合ってる」
彼は私の言葉をあっさりと遮った。そして少しだけ困ったように、でもどこか楽しそうに、その完璧な顔を歪めて笑う。その笑顔は学校中の女子生徒を虜にするには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。しかし今の私には悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「もちろん、本気じゃない。―――フリで、いいんだ」
フリ……?その言葉はかろうじて機能していた私の思考回路を、完全にショートさせた。
「ごめん、驚かせたよな。ちゃんと説明するから」
そう彼は言った。その声は先ほどまでの有無を言わさぬ響きとは違い、どこか疲れたような、うんざりしたような色を帯びていた。
「俺さ、正直ちょっと困ってるんだ。次から次に告白されたり、ファンだって言ってくれる子たちに追いかけられたり……。ありがたいんだけど正直いうと少し疲れたんだよね。家のポストに見知らぬ手紙が大量に入ってたり、部活の帰りにつけられたり。正直もう限界なんだ。それに親もうるさくてさ」
彼の声のトーンが少しだけ低くなる。完璧な笑顔にわずかな影が差した。
「昨日も母親に呼ばれてさ。『来週、一条グループの令嬢の一条玲香(いちじょう れいか)さんとの食事会をセッティングしたから、そのつもりでいなさい』って。写真まで見せられて。……そういうの、全部、面倒なんだ。断るためのちゃんとした理由が欲しい。彼女がいる、っていう誰もが納得する理由が」
彼の具体的な話に、私は彼の抱える問題がただの人気者の悩みというわけではないことを理解し始めた。彼のきらきらした世界にも彼なりの息苦しさがあるのだ。星華グループといえば父が経営する町工場がいつもお世話になっている大企業だ。住む世界が違うどころか、次元が違う。そんな世界の令嬢とのお見合い。私には想像もつかない話だ。
しかしそれでも疑問は消えない。
「でも……なんで、私……なの?」
ようやく絞り出した私の声は自分でも驚くほどかすれていた。クラスにはもっと可愛くて、彼の隣にふさわしい女の子がたくさんいるはずなのに。アカリだって私なんかよりずっと明るくて可愛い。なぜよりによって、風景の一部である私を?
「上野さんだから、いいんだよ」
彼は言った。その真っ直ぐな言葉に私の心臓が小さく、しかし確かに跳ねた。
「だって君、俺のこと全然興味ないだろ?」
「え……」
「いつも見てたから分かるよ。みんなが俺のことを見てても君だけはいつも窓の外か本を読んでる。俺と目が合ってもすぐに逸らす。まるで俺が存在しないみたいに。君みたいなタイプが一番信用できるんだ。変に期待させたり、面倒なことになったりしなさそうだから」
彼はじっと私の目を見た。その深い色の瞳がほんの一瞬、私を通り越してどこか遠い過去を見ているような、そんな不思議な色を帯びた。
「……それに」
彼は何かを振り払うように小さく息を吐くと、悪戯っぽく、それでいて残酷なナイフのような言葉を続けた。
「上野さんなら、本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」
その一言は切れ味の鋭い刃物のように、私の胸に深く突き刺さった。ぐさりと音を立てて。
そうだ。その通りだ。私は風景。私は壁紙。恋愛なんていう面倒で、キラキラしていて、そして人を傷つける可能性のあるものからはずっと逃げてきた。小学生のあのトラウマ以来、私は誰かに本気で期待することも期待されることも避けてきたのだ。彼は私のその本質を完璧に見抜いている。私という人間が彼にとってどれほど「安全」で「無害」で「都合のいい」存在であるか、彼は理解した上でこの取引を持ち掛けている。
屈辱だった。同時にあまりにも的確な分析に、反論の言葉一つ出てこなかった。
「契約したいんだ。君と」
彼は私に取引を持ち掛けた。まるで悪魔の囁きのように。
「期間は夏休みが終わるまで。その間俺の偽物の彼女になってほしい。時々デートして、その写真をSNSにアップするだけ。学校で話しかけたりもしない。それ以外は何もしなくていい」
「……」
「その代わり契約が終わったらお礼に君の願い事を何でも一つ叶える。俺にできることなら何でも」
願い事。そんなもの私にはなかった。私が望むのはただ平穏な日常だけだ。そして彼のこの提案は、その私の唯一の望みを根底から覆す、甘くて危険な囁きだった。断るべきだ。絶対に。私の平穏を守るために。
「……ごめんなさい。私には、無理……です」
私は最後の力を振り絞ってそう言った。そしてこの場から逃げ出そうと彼に背を向けた。その時だった。
「蓮くーん!こんな所にいた!」
渡り廊下の向こう側から黄色い歓声と共に、数人の女子生徒がこちらに向かってくるのが見えた。彼の熱心なファンとして有名なグループだった。その中心にいるのは三年の先輩で、彼のファンクラブのリーダー格だと噂されている人だ。
「まずい……!」
月島くんが小さく舌打ちする。そして彼は思いもよらない行動に出た。彼は私の体をぐっと引き寄せると、自分の腕の中に閉じ込めたのだ。そして私の耳元で囁く。
「お願いだ。一瞬でいい。協力してくれ」
彼の胸板が固い。汗と爽やかなシャンプーの香りが私の鼻をくすぐる。頭がくらくらして思考が停止する。女子生徒たちが私たちの目の前で足を止めた。その突き刺すような視線が痛い。
「な、なによ……あんた、誰よ!蓮くんに馴れ馴れしくしないで!」
リーダー格の先輩がヒステリックな声を上げる。
「……ごめん。今、彼女と大事な話してるとこだから」
月島くんが少し低めの甘い声で言った。「彼女」という言葉に女子生徒たちの顔が凍りつく。
「……え……か、彼女って……この地味な子が……?」
信じられない、という声。侮蔑と嫉妬が入り混じった声。
「じゃあ、そういうことで」
月島くんはひらひらと手を振ると、彼女たちに背を向けた。女子生徒たちはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて何かを囁き合いながら悔しそうに去っていった。
嵐が過ぎ去った。彼はそっと私から体を離した。
「……ごめん。でも助かった。ありがとう」
私は何も言えなかった。ただ心臓が破裂しそうだった。そして悟った。もう遅いのだ、と。私がここで彼の提案を断ったとしても、もう私の平穏な日常は二度と戻ってこない。『月島蓮に、体育館裏に呼び出され、抱きしめられた、地味な女』。そして今や『月島蓮が彼女だと庇った女』。そのレッテルは明日には学校中に広まっているだろう。断れば『蓮くんに勘違いして馴れ馴れしくした挙句、振られた痛い女』、受ければ『蓮くんの偽の彼女』。どちらに転んでも私の「風景」としての日常は終わったのだ。ならば…。
ならばいっそこの嵐に飛び込んでしまった方が賢明なのかもしれない。このまま彼の提案を蹴って根も葉もない噂を立てられて惨めな思いをするくらいなら、契約を結んで彼の庇護下に入った方がまだマシなのではないか。そして報酬として「願い事」を叶えてもらえる。
「……分かりました」
私は小さな声で言った。自分でも驚くほど冷静な声が出た。
「やります。偽物の、彼女」
「……本当か!?」
彼の声が子供のように弾んだ。その無邪気な喜色に私の心はまたちくりと痛んだ。
「ただし、条件があります」
私は彼をまっすぐに見上げた。もう後戻りはできないのだから。
「夏休みが終わったらあなたは私と金輪際関わらないこと。私のことをきれいさっぱり忘れること。そして私の願い事として……私が卒業するまで、学校中の誰からも忘れられるようにしてください」
「……忘れられるように?」
彼の眉が不思議そうに寄せられる。
「ええ。私は壁紙に戻りたいんです。風景になりたいんです。もう二度と誰かの期待を背負ったり、注目を浴びたりしたくない。この夏休みの騒動もすべて幻だったかのようにみんなの記憶から消してほしいんです。それができるならあなたの契約、受け入れます」
私のその突拍子もない願いに、彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてくすりと面白そうに笑うと私に手を差し出した。
「分かった。面白い。気に入ったよその願い事。約束する。この夏が終わったら君を完璧な壁紙に戻してやる」
契約が成立し月島くんと別れた後の帰り道、私の足取りはまるで自分の意志とは無関係に動いているかのようだった。駅までの道、見慣れた商店街、アパートへの最後の坂道。風景はいつもと同じはずなのに、その色彩も音も匂いも何も感じられない。私の意識は先ほどの出来事を何度も何度も強迫的に反芻していた。
彼の低い声。私の腕を掴んだ手の熱。渡り廊下の湿った空気。そして「本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」という残酷なほど正確な言葉。あれはすべて現実だったのだ。私は学校で最も輝いている太陽のような男の子と、嘘の恋人になるという馬鹿げた契約を交わしてしまった。
自室のドアを開け、鍵もかけずにベッドへ倒れ込む。どっと鉛のような疲れが全身にのしかかってきた。天井の木目がぐるぐると渦を巻いているように見える。私はこれからどうなるのだろう。いや、どうもしない。夏休みが終わるまでのほんの四十日ほどの辛抱だ。契約通り彼が用意した偽りのデートをこなし、証拠の写真を撮り、やり過ごす。そして夏休みが終われば私は報酬として「誰からも忘れられる権利」を手に入れ、完璧な風景に戻るのだ。そうだ、これは私の平穏な未来を取り戻すための必要悪なのだ。
そう自分に言い聞かせようとしても、心臓は依然として落ち着きなく脈打ち、指先は氷のように冷たいままだった。
枕元に放り出したスマホが、ぶぶ、と短く震えた。画面には彼の名前が表示されている。『月島 蓮』。いつの間にか彼は私の連絡先を自分のスマホから送っていたらしい。その三文字がまるで呪いのように画面上で禍々しく光っているように見えた。私はその通知を消すことも連絡先を登録することもできず、ただ画面をオフにして顔を覆った。
どれくらいそうしていただろうか。再びスマホが激しく震え始めた。今度は画面いっぱいに『アカリ』の文字と、満面の笑みを浮かべた彼女の写真が表示されている。私は深呼吸を一つして覚悟を決めた。この嵐の中で私が唯一助けを求められる相手。
事情をすべて話すと、電話の向こうでアカリは案の定しばらく絶句していた。そして次の瞬間、私の想像を遥かに超えるトーンで叫んだ。
『面白そうじゃん!』
その言葉に重苦しかった私の心は少しだけ、本当に少しだけ軽くなった。私が深刻に悩んでいたことが彼女にとっては少女漫画の一ページのようで、それがなんだかおかしくて少しだけ救われたのだ。
しかし電話を切った後、一人になった部屋で静寂が戻ってくると、自分がとんでもないことに足を踏み入れてしまったという実感がじわじわと全身を蝕んでいく。明日から私は「月島蓮の彼女」という人生で最も似合わない役を演じなければならないのだ。
それは私が最も恐れていた「舞台の真ん中」に、無理やり引きずり出されることと同義だった。
翌朝、私はほとんど眠れないまま重い体で目を覚ました。昨日の出来事が夢ではなかったことを証明するかのように、枕元のスマホが再び短く震える。恐る恐る手に取るとメッセージの送り主は『月島 蓮』だった。
『明日、十時に、駅前の噴水広場。遅れんなよ』
たったそれだけの、絵文字もなければ気遣いのかけらもない無機質な文字列。それが今の私にはありがたかった。そうだ、これは恋じゃない。業務連絡だ。そう思うことでかろうじて平静を保てる。私が「了解です」とだけ返信しようか迷っていると、玄関のインターホンがけたたましい音で鳴り響いた。
「栞奈!生きてるー?電話に出ないから心配したじゃん!」
ドアを開けるとそこにはTシャツにショートパンツというラフな格好のアカリが、コンビニの袋を片手に仁王立ちになっていた。
「ちょ、アカリ、どうして……」
「どうして、じゃないわよ!一大事でしょ!で、初デートはいつなの!?」
彼女は私の返事も待たずずかずかと部屋に上がり込むと、テーブルの上にコンビニで買ってきたらしいお茶やゼリーを並べ始めた。
「あ、月島くんからメッセージ来てるじゃん」
アカリは私が手に持っていたスマホをひょいと取り上げると、画面を覗き込んだ。
「『明日、十時に、駅前の噴水広場』……だって!うわ、ベタ!でも、それがいい!王道デートじゃん!」
一人で興奮しているアカリを前に、私はただ呆然と立ち尽くす。
「さあ、こうしちゃいられない!あんたのクローゼット、見せなさい!」
アカリは宣言すると、私の部屋の小さなクローゼットの扉を勢いよく開けた。そして中にぎっしりと詰まった服を見て三秒ほど固まった後、深いため息をついた。
「……栞奈、あんたさぁ……」
彼女はハンガーにかかった服を一枚一枚、指で弾いていく。ベージュのカーディガン。グレーのパーカー。紺色のワンピース。黒のスカート。白のTシャツ。
「あんたのクローゼット、彩度って概念ある?白黒写真撮るの?モノクロ映画にでも出るつもり?これは風景じゃなくて、もはや無だよ、無!」
アカリの容赦ない言葉に私は何も言い返せない。だってその通りなのだから。目立たないように誰の印象にも残らないように。そうやって選んできた服ばかりがそこにはあった。
「これはダメだ。私の美学に反する。こうなったら私の服を貸すしかない!」
アカリはそう言うと、持ってきたコンビニの袋からゼリーを一つ取り出し「これ食べて待ってなさい!」と言い残して、嵐のように自分の家に帰っていった。
一人残された部屋で私はゼリーを啜りながら途方に暮れていた。アカリの言う通りだ。こんな服であの太陽みたいな月島くんの隣に立てるわけがない。でも彼女が持ってくるであろう華やかできらきらした服を、私が着こなせる自信もなかった。そもそもなぜ私はこんなことをしているのだろう。偽物の彼女を演じる。その先に本当に私の望む「平穏」はあるのだろうか。
そんなことを考えていると一時間もしないうちに、再びインターホンが鳴った。ドアを開けるとそこには巨大なボストンバッグを肩にかけたアカリが立っていた。
「お待たせ!栞奈に似合いそうなやつ、根こそぎ持ってきたから!」
そこから私の部屋はファッションショーのバックステージと化した。アカリが次々とバッグから取り出す服。花柄のスカート、レースのついたブラウス、鮮やかなピンク色のカーディガン。
「はい、まずこれ着てみて!」
「む、無理だよ、こんな可愛いの……」
「いいから着る!これは契約でしょ!仕事なんだからちゃんと衣装を整えなさい!」
アカリに言われるがまま私は次々と服を着せ替えさせられた。鏡に映る自分はまるで知らない誰かのようだった。服が違うだけでこんなにも印象が変わるのか。でもそのどれもが私には似合わない気がした。服だけが浮いていて、中身の私が追いついていない感じ。
「うーん、これも可愛いけど、ちょっと違うかな……」
アカリが腕を組んで唸っている。私ももうへとへとだった。
「やっぱり私には無理だよ。月島くんも私が地味なことくらい分かってて選んだんだし、このままで……」
「ダメ」
私の言葉をアカリは強い口調で遮った。
「栞奈は自分が思ってるよりずっと可愛いんだよ。いつも本の中に隠れてないで、ちゃんと自分の足で立って世界を見なきゃ。月島蓮がそのきっかけになるなら、なんだって利用してやればいいじゃん」
彼女は真剣な目で私を見つめていた。
「これはあんたのための夏休みでもあるんだよ。風景であることをやめて、一人の女の子として夏を楽しむの。たとえそれが嘘から始まった恋だとしても」
その言葉は私の心の奥底にじんわりと染み込んでいった。
最終的にアカリが「これなら!」と自信満々に取り出したのが、淡い水色のワンピースだった。派手な装飾はないけれど風に揺れる柔らかな生地が、上品な雰囲気を出している。私が持っている服の中には絶対にない、優しい色合い。
「これなら今の栞奈でも着れるでしょ。でもちゃんと女の子らしくて可愛い」
私はおずおずとそれに袖を通した。鏡の中の私はまだ見慣れないけれど、でもさっきまでの服よりは少しだけしっくりくるような気がした。
「よし、服は決まり!次はメイク!」
アカリは今度は化粧ポーチを取り出し、私の前に座った。ファンデーション、アイシャドウ、チーク、マスカラ。私が普段使わない魔法の道具たちが次々と私の顔に乗せられていく。
「やめて、そんなに濃くしなくても……」
「大丈夫だって!ナチュラルメイクだから!男子は『すっぴん?可愛いね』とか言うけど、女子の『ナチュラルメイク』がどれだけの手間と計算の上に成り立っているか、あいつらは知らないのよ!」
訳の分からない理屈を並べながらも、アカリの手つきは驚くほど手際が良かった。
すべての準備が終わった時、鏡に映っていたのは本当に私の知らない私だった。少しだけカールした髪。ほんのり色づいた頬と唇。いつもより心なしか大きく見える瞳。
「ほら、見て。超可愛いじゃん」
アカリが得意げに笑う。
「これ、本当に私……?」
「そうだよ。これが本当の栞奈。いつも隠してるだけ」
そこからアカリによる「デート講座」が始まった。
「いい?まずは笑顔!口角!もっと上げて!」「目が笑ってない!楽しそうなことを思い浮かべて!」「会話に詰まったら、とりあえず相手の持ち物を褒めとけ!『そのTシャツ、素敵ですね』とか!」「相槌は『さしすせそ』が基本!『さすがですね!』『知らなかったです!』『すごい!』『センスいいですね!』『そうなんですか!』。はい、復唱!」
私はアカリのスパルタ指導にただただ圧倒されるばかりだった。
その夜、アカリは私の部屋に泊まっていった。二人で並んで布団に入っても私は全く眠れなかった。隣からはすうすうとアカリの寝息が聞こえる。明日、本当に私はあの月島蓮くんとデートをするのだろうか。アカリに作ってもらったこの偽りの姿で。
心臓が早鐘のように鳴っている。それは恐怖だけではないような気がした。未知の世界へ足を踏み入れる前のほんの少しの期待、あるいは好奇心。そんな感情が恐怖と混じり合って私の心をかき乱していた。
デート当日の朝。アラームの音で目を覚ますと、隣で寝ていたはずのアカリがすでに起きて身支度をしていた。
「おはよ、栞奈!さあ、最終準備よ!」
寝ぼけ眼の私を洗面所に追いやり、昨日と同じように完璧なメイクを施していく。そしてあの水色のワンピースに着替えさせられる。
鏡の前でアカリは私の両肩を掴んだ。
「いい?栞奈。これは戦争よ。あんたは壁紙じゃない、一人の女の子として戦場に赴くの。胸を張って行ってきなさい!」
力強く背中を叩かれ、私はよろめきそうになる。
「い、行ってきます……」
玄関で靴を履きながら私は小さな声で呟いた。
「声が小さい!腹から声出さんかー!」
「行ってきます!」
アカリに檄を飛ばされ、私は半ば叫ぶようにそう言った。
アパートの扉を開ける。夏の眩しい光が私の全身に降り注いだ。思わず目を細めながら一歩、外へ踏み出す。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱気。けたたましく鳴り響く蝉時雨。視界のすべてが白っぽく、輪郭が曖昧に揺れている。まるで現実ではないどこか別の世界に迷い込んでしまったかのようだ。
「これは契約。ビジネス。夏休みだけの期間限定の嘘」。
そう自分に何度も言い聞かせる。しかし胸の奥で早鐘を打つ鼓動は、一向に落ち着く気配を見せない。嘘で固めたシンデレラは今から王子様との偽りの舞踏会へと向かうのだ。
駅までの道のりはわずか十分ほどのはずなのに、今日は永遠に続くかのように感じられた。慣れないヒールのあるサンダルが一歩進むごとにカツン、カツンと乾いた音を立てる。その音がまるで私の処刑台への足音のように聞こえて心臓が縮み上がった。道行く人がみんな私のことを見ているような気がする。「あの子、いつもと雰囲気が違う」「どこかに出かけるのかしら」。そんな声が聞こえる幻聴に苛まれ、私はひたすら俯いて歩いた。アカリの「胸を張って!」という言葉はすでに頭の片隅に追いやられていた。
約束の場所である駅前の噴水広場に私は十分前に到着した。待ち合わせ場所としてあまりにも有名で人が多すぎるこの場所を選んだ彼の意図が、私には少しだけ分かったような気がした。人目に付けばつくほど「月島蓮が彼女とデートしている」という事実はまたたく間に拡散されるだろう。彼はこの契約を遂行するために最も効率的で最も効果的な場所を選んだのだ。そこには私の気持ちへの配慮など一欠片も存在しない。改めてこれはビジネスなのだと痛感させられた。
噴水の周りにはたくさんの人がいた。待ち合わせをするカップル、はしゃぐ子供たち、談笑する高校生のグループ。私はその人垣から少し離れた木陰に、そっと身を隠すようにして立った。ここからなら広場全体が見渡せる。彼が来たらすぐに分かるはずだ。
時間が経つのがひどく遅く感じられた。五分が三十分に、一分が十分に。スマホを取り出して時間を確認するたびにまだ針がほとんど進んでいないことに、絶望的な気持ちになる。手汗でスマートフォンの背面がじっとりと湿っていた。
約束の三分前。人垣の向こうにひときわ目立つ姿が現れた。黒いTシャツにダメージの入った細身のジーンズ。ラフな格好なのに彼が着ているとそれだけで計算され尽くしたファッションのように見える。太陽の光を浴びて、彼の少し茶色がかった髪がきらきらと輝いていた。彼がそこにいるだけで雑多な駅前広場がまるで映画のワンシーンのように切り取られる。周りの女の子たちが遠巻きに彼を見てひそひそと囁き合っているのが、ここまで伝わってきた。
「あれ、月島くんじゃない?」
「マジだ!私服、超カッコいい!」
「一人かな?誰かと待ち合わせ?」
私はその光の輪の中へ、震える足で踏み出していかなければならない。深呼吸を一つして私は意を決した。木陰から一歩踏み出し、彼の方へと歩き始める。その数十メートルの距離が果てしなく遠い。
私が近づいていくとスマホを眺めていた彼がふと顔を上げた。そして私の姿を認めると、いつも涼しげなその目をほんの少しだけ、しかしはっきりと見開いた。彼の動きが一瞬、完全に止まったように見えた。
「……お」
彼は何か言いかけて口を噤んだ。そして少しだけ照れくさそうに、気まずそうに自分の首筋を掻く。
「……いや、なんでもない。……いつもと雰囲気違うから……。いや、そのワンピース。似合ってんじゃん、それ」
そのぶっきらぼうな言葉に私の顔がかあっと熱くなる。アカリの得意げな顔が目に浮かんだ。彼のその意外な反応に私の緊張はほんの少しだけ和らいだ。もしかしたらこの偽りのデートも、思っていたよりは苦痛ではないのかもしれない。そんな淡い期待が胸をよぎった。
「じゃ、行こっか」
彼に連れられて着いたのは駅前のシネコンだった。「とりあえず映画でも見るかって。ベタだろ?」彼は悪戯っぽく笑った。その笑顔にまた心臓が跳ねる。
上映中のポスターがずらりと並ぶ中、私はある一つのポスターに目を奪われた。私がずっと見たかったフランスのマイナーな恋愛映画。ミニシアターでしかやらないような地味な映画。監督のファンで、原作の小説も何度も読み返していた。まさかこんな大きなシネコンでやっているなんて。
「何、見たい?」彼が尋ねる。
私は思わずそのポスターを指差しかけて慌てて手を引っ込めた。彼がこんな地味な映画を見たいはずがない。きっと今話題のハリウッドのアクション大作か、人気アニメの劇場版を選ぶだろう。アカリの「相手に合わせるのも大事!」という言葉が頭をよぎる。
「……なんでもいいです。月島くんが見たいもので」
「俺?俺は別に何でもいいよ。こういうの普段見ないし、よく分かんない」
「じゃあ……」
私が迷っていると彼はふう、と小さくため息をついた。そして私の視線の先にあった、あのフランス映画のポスターを指差す。
「……あれ、見たいんだろ?顔に書いてある」
「え……どうして……」
「さっきからそればっか見てるから。いいよ、それで。俺もまあ、たまにはこういうのも悪くないかもだし」
彼はそう言うとさっさとチケット売り場へと向かってしまった。私はその大きな背中を見つめながら呆然と立ち尽くしていた。どうして分かったんだろう。私の心の声が聞こえたのだろうか。それとも私の態度はそんなに分かりやすかったのだろうか。後者だとしたら風景としては失格だ。
映画館の中は外の猛暑が嘘のようにひんやりとしていた。隣の席に彼がいる。その事実だけで私は物語に全く集中できなかった。ふとした拍子に彼と腕が触れ合い、そのたびに心臓が大きく跳ねた。ポップコーンの入った大きな紙のカップを二人の間に置いていたけれど、どちらもそれに手を伸ばすことはなかった。私はただ彼の横顔を盗み見ることで精一杯だった。スクリーンからの淡い光が彼の彫刻のように整った顔立ちを照らし出している。長いまつげが時折伏せられるたびに、その下に小さな影を落とす。彼は物語に深く入り込んでいるようだった。真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。
これは契約。これは嘘。私は何度も心の中で呪文のように唱えた。このドキドキも気のせいだ。慣れないことをしているから緊張しているだけだ。そう自分に言い聞かせなければ、この平常心を装った仮面があっけなく剥がれ落ちてしまいそうだった。
映画が終わり館内が明るくなると、私は夢から覚めたような気分になった。
「……面白かったな」
彼が意外にも満足そうな顔でそう言った。
「え、あ、はい……」
「主人公の気持ち、なんか、分かる気がするわ。周りから色々言われて、本当の自分を見失いそうになるとことか」
彼のその言葉に私は驚いて彼を見つめた。彼もそんな風に感じることがあるのだろうか。完璧で自由で、悩みなど何もないように見える彼も。
映画の余韻に浸る間もなく彼は私を近くのカフェへと連れて行った。これが今日の本当の目的だ。偽物のデートの証拠写真を撮るというミッション。
店内は私たちと同じような高校生や大学生のカップルで賑わっていた。その中で月島くんの存在はやはり際立っていた。店に入った瞬間、何人もの女の子が彼に気づきひそひそと囁き始める。私はその視線から逃れるようにメニュー表に顔を埋めた。
テーブルの上には写真映えする可愛らしいフルーツパフェが二つ。運ばれてきた瞬間、隣の席の女の子たちが「うわ、可愛い!」と声を上げた。彼はまさにその反応を狙っていたのだろう。
彼はスマホを構えると私に言った。
「上野さん、もっとこっち寄って。あと、笑って」
「……笑う、ですか」
「当たり前だろ。デートなんだから。仏頂面でパフェ食うカップルとかいないだろ」
私はぎこちなく口角を上げた。アカリに教わった笑顔の作り方を思い出そうとするが、緊張で顔の筋肉がこわばってうまく動かない。カシャ、と無機質なシャッター音が鳴る。
「……ダメだ、これ。顔、引きつりすぎ。全然楽しそうじゃない。これじゃあ無理やり連れてこられたみたいだ」
彼に言われ私が困っていると、彼は「仕方ねえな」と呟いて席を立ち、私の隣に座った。ソファが彼の重みで少し沈む。そしてぐい、と私の肩を抱き寄せる。
「え……!?」
「こうすれば少しはそれっぽく見えるだろ。ほら、顔、こっち」
彼の腕が熱い。顔が近い。シャンプーの香りがさっきよりも濃く香って頭がくらくらする。心臓が飛び出しそうだった。彼は片手でスマホを構え、もう片方の腕は私の肩に回したまま。その距離感に私の思考は完全に麻痺していた。
「いくぞ。はい、笑って」
私の顔はきっと茹で蛸のように真っ赤になっていただろう。笑うなんて到底無理だった。しかしその時、彼が私の耳元でぽつりと呟いた。
「……君の見てた映画。俺も、原作、好きだったんだ」
その思いがけない一言に、私の口元がふ、と自然に緩んだ。驚きと喜びと、そして彼と秘密を共有できたような、そんな特別な感情が私の表情筋を柔らかく解きほぐしたのだ。
カシャ。
完璧なタイミングでシャッターが切られた。
彼は撮れた写真を見て満足そうに頷く。
「……うん。まあ、これならいいか」
彼は私にもその画面を見せてくれた。そこに写っていたのは肩を寄せ合い、同じパフェを前にしてひどくぎこちないけれど、でも確かに笑っている二人の姿だった。彼の笑顔はいつもの完璧なそれとは少し違う、どこか悪戯っぽい少年のような表情をしていた。そして私の顔。驚くほど自然に、嬉しそうに笑っている。こんな顔、自分でも見たことがなかった。
彼がスマホをテーブルに置いた時、その画面に通知が一瞬見えた。
『玲香さんとの件、どうなっていますか?お母様より』
その冷たい文字を見た瞬間、彼の表情からふっと光が消えたのを私は見逃さなかった。そうだ、これも全部嘘なのだから。私たちのこの穏やかな時間も。この奇跡のような写真も。全部、夏が終わるまでの幻なのだから。その事実が冷たい水のように私の心に染み渡っていく。
パフェはひどく甘いはずなのに、味がしなかった。
その夜、蓮くんのSNSアカウントに私とのツーショットがアップされた。『彼女と初デート。パフェうますぎ』という短いコメントと共に。数分もしないうちにアカリから『見たよ!めっちゃいい感じじゃん!てかコメント欄、地獄絵図w』というメッセージが届いた。私は怖くてその投稿を見ることができなかった。自分の知らない自分が不特定多数の人間の目に晒されている。その事実に胃がぎゅっと縮こまるような思いがした。
これが偽物の彼女を演じるということの、本当の始まりだった。
偽りのデートから一夜が明けた日曜日の朝、私はアラームの音ではなくスマートフォンのひっきりなしの通知音で目を覚ました。ベッドサイドのテーブルに置いたスマホが、ぶぶ、ぶぶ、と断続的に震え続けている。まるで小さな生き物が中で暴れているかのようだ。重いまぶたをこじ開けて画面を見ると、ロック画面が夥しい数の通知で埋め尽くされていた。メッセージアプリのアイコンの右上には、真っ赤な丸の中に「99+」という絶望的な数字が表示されている。
そのほとんどはアカリからのものだった。
『おはよ!昨日はどうだった!?』
『SNS見たよ!写真、超いいじゃん!栞奈、めっちゃ可愛く写ってる!』
『てか、コメント欄やばいことになってるけど大丈夫そ?』
『ファンクラブの先輩たち、絶対キレてるって!』
『学校始まったら、あんた、絶対囲まれるよ!』
『なんかあったら、すぐ私に言うんだからね!』
彼女のメッセージは心配と好奇心と、そして少しの興奮が混じり合ったアカリらしいものだった。その文章の勢いに私は少しだけ笑ってしまったが、すぐに現実に引き戻される。
そうだ。私は昨日、月島蓮とデートをし、その写真が彼のSNSにアップされたのだ。私はもうただの「風景」ではない。「月島蓮の彼女」という巨大で重すぎる看板を背負わされてしまったのだ。
恐る恐る私はSNSのアプリを開いた。彼の投稿はすでに数千の「いいね」と数百のコメントがついていた。スクロールする指が震える。
『おめでとう!彼女さん、めっちゃ可愛い!』
『蓮くんに彼女とか、ショックすぎて学校休みたい……』
『え、誰この子?全然知らないんだけど』
『二組の上野さんだよ。いつも本読んでる地味な子』
『釣り合わなくない?絶対すぐ別れるって』
『てか、蓮くんのタイプ、こういう子だったんだ。意外』
『一条玲香さんはどうなったの!?』
好意、嫉妬、詮索、そして私に対するあからさまな侮蔑。あらゆる感情がスマートフォンの画面の中で渦を巻いていた。顔も知らない人々が私のことを好き勝手に語っている。私の容姿、性格、そして蓮くんとの関係性。その一つ一つの言葉が鋭いガラスの破片となって私の心に突き刺さる。胃がぎゅっと縮こまるような感覚。息がうまくできない。
私は慌ててアプリを閉じた。しかし一度見てしまった光景は脳裏に焼き付いて離れない。「地味な子」「釣り合わない」。分かっていたことだ。私自身が誰よりもそう思っている。でもこうして文字として突きつけられると、その威力は想像以上だった。
これが彼の隣に立つということの代償。これが彼が言っていた「面倒なこと」の一端。私はこの嵐が過ぎ去るのを、夏休みが終わるまでひたすら耐えなければならないのだ。
その日は一日中、私は部屋から一歩も出ることができなかった。カーテンを閉め切り、薄暗い部屋の中でただベッドの上にうずくまっていた。SNSの通知が怖くてスマホの電源も切ってしまった。アカリからの着信にも気づかないふりをした。
月曜日の朝。私は目の下にうっすらと隈を作ったままキッチンに立った。今日からまた図書館に通う日々が始まる。いつも通りの日常に戻るのだ。そうすればこのざわつく心も少しは落ち着くかもしれない。そう信じたかった。
しかしアパートの扉を開けた瞬間から、世界は今までとは全く違う貌(かお)をしていた。告発するような夏の太陽、嘲笑うかのように鳴り響く蝉時雨。そのすべてが私の罪を暴こうとしているように感じられた。駅までのわずか十分の道のりが、永遠に続く拷問のように長い。
駅のホームで電車を待っている時だった。視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に立つ見慣れない制服を着た女子高生のグループが、こちらを指差してひそひそと囁き合っているのが見えた。
「……月島くんの……」
「マジ?あの子?」
「写真より地味じゃない?」
聞こえてきた言葉の断片に心臓が氷の爪で掴まれたように痛んだ。顔から血の気がさあっと引いていく。私は咄嗟に鞄から文庫本を取り出し、顔を隠すように本の影にうずくまった。やめて。見ないで。私は風景なの。あなたたちの物語には登場しないただの背景の一部なの。そう心の中で叫んでも突き刺さる視線が消えることはなかった。風景としての私の存在意義が根底から脅かされている。この恐怖は小学生の時に浴びた非難の視線とはまた違う、じっとりと粘着質で逃げ場のない息苦しさを伴っていた。
やっとの思いでたどり着いた市立図書館。ここだけが私の最後の聖域のはずだった。静寂と古い紙の匂い。そこでは誰も私に注目しない。私はただ無数の物語の中に埋没することができる。
いつものように閲覧室の一番奥の席に向かう。そこは窓から一番遠く、入り口からも死角になる私だけのお気に入りの場所だ。
しかしその日は違った。
私がその席に向かう途中、何人かの女子高生がひそひそと私を見ながら囁き合っているのに気づいてしまった。きっと同じ高校の子たちだろう。彼女たちの視線は明らかに私に向けられていた。
「あの子じゃない?」
「月島くんの……」
嘘でしょ。どうして。ここは学校じゃないのに。
私は慌てて顔を伏せ、足早に自分の席に向かった。心臓がまたうるさく鳴り始める。もうどこにも私の安住の地はないのだろうか。この契約は私の聖域さえも侵食し始めたのだ。
席についてようやく一息ついた時、ポケットの中のスマホが短く震えた。恐る恐る画面を確認するとメッセージアプリに一件の通知。送り主は中学時代の同級生だった。ほとんど話したこともない、クラスの隅にいた私とは対極の明るいグループにいた子からだった。
『上野さん、久しぶり!中学の時一緒だったあおいだよ!元気?いきなりごめんね!月島くんと付き合ってるって本当!?インスタ見てびっくりした!すごいじゃん!』
絵文字がふんだんに使われた悪意のない、純粋な好奇心だけのメッセージ。しかし今の私にはそれが土足で心の中に踏み込んでくるような、暴力的なものに感じられた。私の知らないところで私の物語が勝手に作られ、消費されていく。私はいつの間にか私自身ではなく『月島蓮の彼女』という見世物になっていた。返信などできるはずもなく、私はただ静かにスマホの画面を閉じた。
その日は全く本の内容が頭に入ってこなかった。ページをめくっても文字がただの黒い記号の羅列にしか見えない。周りの視線が気になって何度も顔を上げてしまう。誰も私を見ていなくても見られているような気がして、落ち着かなかった。
結局、私は一冊も読み終えることなく昼過ぎに図書館を後にした。家に帰る気にもなれずあてもなく町をさまよう。そして気がつけば私は近所の神社の前に立っていた。
古い石段を上り境内に入る。ここは子供の頃、よく遊びに来た場所だった。夏になると木陰が涼しくて、一日中ここで本を読んでいたこともある。
誰もいない境内は静かだった。私は拝殿の前のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げた。木々の葉が風に揺れ、太陽の光がキラキラと木漏れ日となって降り注いでくる。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ただ静かに、目立たずに生きていきたかっただけなのに。
膝の上で私は自分の手をぎゅっと握りしめた。その時ポケットに入れていたスマホが、ぶ、と一度だけ短く震えた。
恐る恐る画面を確認すると、そこには『月島 蓮』の名前が表示されていた。
心臓がどきりと跳ねる。昨日以来、初めての彼からの連絡だった。
メッセージは驚くほど短かった。
『昨日はサンキュ』
たったそれだけ。絵文字もスタンプもない。まるで借りたノートを返してもらった時のような事務的なお礼の言葉。
でもその無機質な六文字が私のささくれ立った心を、不思議と凪がせていくのを感じた。
「こちらこそ」と返すべきだろうか。いや、それでは馴れ馴れしいだろうか。「いえいえ」?それも違う気がする。既読だけつけて返信しないのが正解だろうか。
私はたった一言の返信に十分以上も悩み続けた。その行為がひどく馬鹿馬鹿しく思えたけれど、やめられなかった。
結局、私は何も返信することができなかった。
しかしその短いメッセージは私の心に小さな波紋を広げた。彼は私と同じように昨日のことを「業務」として捉えている。そうだ。それでいいのだ。私たちはただの契約相手。それ以上でもそれ以下でもない。そう思うことで私はかろうじて自分の心のバランスを保とうとしていた。
その日から私の夏休みは奇妙な二重生活の様相を呈し始めた。
昼間は図書館に通い、ひたすら物語の世界に没頭しようと努める。しかし集中力は続かず、ふとした瞬間にSNSのコメントや彼のことを考えてしまう。そして夕方になると蓮くんから次の「任務」の連絡が来るのだ。
『今週末、水族館。十時、現地集合』
『来週の火曜、読モの撮影で着る服、選ぶの手伝え』
そのメッセージはいつも唐突で、業務連絡そのものだった。でもそのメッセージが届くたびに私の心臓は律儀に跳ねて、そして次のデートのためにアカリを呼び出してファッションショーを繰り広げるのが、いつしか恒例になっていた。
「今度の水族館は涼しげな感じでいきたいよね!この青いスカートとかどう?」
「撮影現場ならちょっと大人っぽい感じがいいかな。この黒のワンピースとか?」
アカリはまるで自分のことのように楽しそうに私のコーディネートを考えてくれた。彼女のその明るさに私はどれだけ救われただろう。
「栞奈、最近、少し顔つき変わったよね。前よりちょっとだけ明るくなったっていうか」
ある日アカリにそう言われて私はドキリとした。
「そ、そうかな…」
「うん。気のせいかもしれないけど。まあ、いいことだよ!」
私は鏡に映る自分を見つめた。アカリにメイクをされ、いつもとは違う服を着た自分。それはまだ見慣れないけれど、でも以前のような「無」ではない、確かな「色」を持っているように見えた。
デートのない日は不安と自己嫌悪と、そしてほんの少しの期待が入り混じった落ち着かない日々だった。
蓮くんとのメッセージのやり取りは必要最低限。彼からデートの誘い以外の連絡が来ることは一切なかった。
それが契約なのだから当たり前だ。そう分かっていても心のどこかで、彼からほんの少しでもいいから個人的なメッセージが来ないだろうかと期待している自分がいることに気づいてしまう。
例えば「今日、部活疲れた」とか、「この前の映画の原作、ここまで読んだよ」とか。
そんなことを考えては「馬鹿みたい」と頭を振る。私は彼の偽物の彼女。彼の本当の日常に足を踏み入れる資格などないのだ。
夏休みが始まって一週間が経った。
私はこの奇妙な契約にも少しずつ慣れ始めていた。相変わらずSNSの誹謗中傷は怖かったし、街中で高校生に会うとびくびくしてしまう。でも蓮くんとの偽りのデートは、不思議と苦痛ではなかった。
それはきっと彼が私を「上野栞奈」として扱ってくれるから。
「この本面白そうじゃん。今度貸して」
「上野さんって意外と大食いなんだな」
「そのキーホルダー可愛いじゃん」
デート中の彼は時々、そんな風に私自身に関することに触れてきた。それが彼の計算なのか、それとも素の反応なのかは分からない。
でもそのたびに私の心は、小さく、しかし確実に揺れ動いていた。
風景だった私の世界に彼という太陽が、強引に光を投げかけてくる。
その光はあまりにも眩しくて、目を焼かれそうになる。
でも同時にその光が今まで知らなかった色の存在を、私に教えてくれていた。
デートのない日。私は図書館の窓から夏の強い日差しを眺めていた。
次のデートは明後日。水族館。
私は無意識のうちにペンギンのキーホルダーを指でなぞっていた。
そして考えてしまうのだ。
明後日、彼はどんな顔で私を迎えてくれるのだろうか、と。
これは契約なのに。
偽物なのに。
私の心はゆっくりと、しかし確実に彼に侵食され始めていた。
水族館でのデートから数日後の火曜日。その日の朝、私のスマホに届いた蓮くんからのメッセージはいつもとは少し毛色が違っていた。
『今日、午後から時間あるか。読モの撮影で着る服、選ぶの手伝え。原宿に三時』
読者モデル。その言葉を見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。それは彼が「太陽」である理由の一つであり、私が住む世界とは最も遠い場所にあるものだったからだ。正直に言えば行きたくなかった。彼がモデルとしてきらびやかな世界の住人として脚光を浴びている姿を、この目で見たくなかった。それは彼と私の間にある決して埋まらない溝を、改めて見せつけられることに他ならなかったからだ。
しかしこれは契約だ。「偽物の彼女」として彼の頼みを断ることはできない。それに彼がわざわざ私を呼ぶのには何か理由があるのかもしれない。玲香さんや彼の母親の目を欺くために、私が彼の「彼女」としてそういった場に顔を出す必要があるのだろう。私は「業務の一環です」と自分に言い聞かせ、重い指で『行けます』と返信した。
約束の時間少し前に原宿駅に着くと、その人の多さに私は圧倒されそうになった。夏休みの竹下通りは地方からの観光客や、色とりどりの髪をした若者たちでごった返している。クレープの甘い匂い、大音量で流れるJ-POP、客引きの甲高い声。そのすべてが混じり合い巨大なエネルギーの渦となって私に襲いかかってくる。まっすぐに歩くことさえ困難な人混みの中を私は必死で彼との待ち合わせ場所である、少し裏手に入ったカフェへと向かった。ショーウィンドウに映る自分の姿は、この街の色彩の洪水の中ではあまりにも無力で色褪せて見えた。アカリが選んでくれたお洒落なブラウスも、まるで借り物の衣装のように体に馴染まない。私は完全に場違いだった。今すぐ踵を返していつもの図書館の静寂の中に逃げ込みたかった。
カフェのテラス席に彼はいた。サングラスをかけ、雑誌から抜け出してきたような雰囲気でコーヒーを飲んでいる。その姿は完全にこの街の風景に溶け込んでいた。私が恐る恐る近づくと彼は私に気づき、サングラスを少しずらして片目をのぞかせた。
「よお。時間通りだな」
「こんにちは……」
「とりあえず中入れよ。暑いだろ」
彼はそう言うと私を店内に促した。冷房の効いた涼しい空間にほっと息をつく。
「急に悪かったな。今日、秋服の撮影なんだけど、スタイリストさんが用意した服がどうもしっくりこなくてさ。上野さんの意見も聞いてみようかと思って」
「私の、意見……?」
「ああ。この前の映画の時もそうだったけど、君、なんか、俺の好み、分かってる気がするから」
彼のその言葉に私はどう反応していいか分からなかった。私に分かるはずがない。あなたのことなんて、何も。そう言いたかったけれど喉の奥で言葉が詰まって出てこない。
撮影が行われるスタジオはカフェから歩いて数分の場所にある、お洒落なビルのワンフロアにあった。白い壁に大きな窓。たくさんの機材や衣装が並び、スタッフらしき大人たちが忙しそうに行き来している。それは私が今まで足を踏み入れたことのない全くの異世界だった。
「月島くん、お疲れ様です!こちらが彼女さん?」
ヘアメイクの女性がにこやかに話しかけてくる。
「ああ。ちょっと見学に」
蓮くんは私のことを「彼女」だとごく自然に紹介した。その度に私の心臓はぎゅっと締め付けられる。スタッフの人たちは私に興味深そうに、しかし好意的な視線を向けてきた。学校の生徒たちから向けられる嫉妬や詮索の視線とは違う。彼らにとって私は「月島蓮の彼女」という記号でしかないのだ。それが逆に私を少しだけ安心させた。
蓮くんはスタイリストが用意したいくつかのコーディネートに着替え、私の前に立った。
「で、どっちがいいと思う?」
彼は雰囲気の違うシャツを二枚持って私に尋ねる。一つは派手な柄の入ったシルクのようなシャツ。もう一つはシンプルな生成り色のリネンシャツ。
「え……と、どっちも素敵、ですけど……」
「そういう答えは求めてない」
私はおずおずと生成り色のリネンシャツを指差した。
「……こっちの方が、月島くんの、その……優しい雰囲気に合うかなって。派手な服も似合うと思うけど、こういうシンプルな方が月島くん自身の格好良さが引き立つ気がします」
自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきた。私の言葉を聞いて蓮くんは少し意外そうな顔をしたが、まんざらでもない様子でそのシャツを受け取った。
「……ふーん。そうか。じゃあこっちにする」
隣にいたスタイリストの男性が「なるほどね。確かにこっちの方が彼の素の魅力が出るかも。彼女さん、センスいいね!」と感心したように言った。その言葉に私の顔が熱くなるのを感じた。
撮影が始まると蓮くんの雰囲気は一変した。カメラマンの要求に応え次々とポーズを決めていく。その表情は私が知っている高校生の「月島蓮」ではなかった。プロのモデルの顔だった。ファインダーの向こうで彼は完璧な光の住人として輝いている。私はスタジオの隅の椅子に座り、ただその光景を黙って見つめていた。眩しくて直視できない。彼と私の間にある距離が絶望的なほどに遠く感じられた。
撮影が中盤に差し掛かった頃、スタジオの入り口が不意に開いた。
そしてそこに立っていたのは私が最も会いたくない人物だった。
「あら、蓮さん。撮影中でしたの?お疲れ様ですわ」
優雅な声と共に現れたのは一条玲香さんだった。彼女はシャネルのツイードのセットアップにハイブランドのバッグという、高校生とは思えない完璧な出で立ちだった。その場にいたスタッフたちが一瞬息を飲むのが分かった。スタジオの空気が彼女の登場によって一瞬にして張り詰める。それはまるで絶対的な女王が降臨したかのようだった。
「玲香さん、どうしてここに……」
蓮くんが撮影の合間に、困惑した表情で彼女に近づく。
「お父様から蓮さんのお仕事を見学してくるようにと仰せつかったものですから。差し入れも持ってまいりましたのよ」
彼女は持っていた高級洋菓子の紙袋を、近くのスタッフににこやかに手渡した。その振る舞いは完璧で隙がない。
そして彼女の視線がスタジオの隅に座っていた私を捉えた。完璧な微笑みを浮かべていたがその目は笑っていなかった。そして私のことを頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように一瞥した。
「こちらが噂の『彼女』?」
「ああ」
蓮くんは私の元へ歩いてくると、私の肩をぐっと引き寄せた。
「俺の彼女の上野栞奈だ。栞奈、一条さん」
「……どうも」
私は小さく頭を下げることしかできなかった。心臓が恐怖で凍りつきそうだった。
「……ふぅん」
玲香さんは面白そうに目を細めた。
「ずいぶんと……地味な方なのね。蓮さん、こういうのがお好みだったとは存じませんでしたわ。まあ、お母様が何とおっしゃるか…見ものですわね」
その言葉は静かなスタジオの中に鋭く響き渡った。刺すような見下すような言葉。しかし蓮くんは動じなかった。
「悪いけどこれからデートの続きがあるんで。撮影終わったらすぐ帰るから」
彼はそう言って玲香さんから私を庇うように、半歩前に立った。その大きな背中が私を彼女の冷たい視線から守ってくれている。でも私は少しも安心できなかった。むしろ彼のその行動が玲香さんのプライドをさらに傷つけているのが、手に取るように分かったからだ。
玲香さんは一瞬だけ悔しそうに唇を噛んだが、すぐに完璧な笑顔に戻った。
「そうですの。ではお邪魔にならないように、こちらで見学させていただきますわ」
彼女はそう言うと悠然と私から一番遠い席に腰を下ろした。しかしその視線は、ずっと私と蓮くんに注がれていた。それはまるで獲物を狙う蛇のような、冷たく執拗な視線だった。
蓮が撮影に戻った後、私はお手洗いに行くふりをして席を立った。玲香さんの視線から一秒でも逃れたかった。化粧室の鏡に映った自分の顔は血の気が引いて真っ青だった。冷たい水で顔を洗い深呼吸を繰り返す。大丈夫。これは契約。夏休みが終わればすべて終わる。
そう自分に言い聞かせ個室から出た、その瞬間だった。
入り口に玲香さんが腕を組んで立っていた。
「少し、よろしいかしら。上野さん」
「……!」
心臓が飛び跳ねた。二人きりだ。逃げ場はない。
「あなた、自分がどういう立場か理解していらっしゃる?」
彼女は冷たい声で言った。化粧室の白い照明が彼女の顔を青白く照らし出し、まるで能面のようだった。
「蓮さんは優しい方だからあなたのことを見捨てたりはしないでしょう。でもね、あなたは彼の隣に立つべき人間ではないの」
「……」
「彼には彼の世界がある。彼が背負っているものの重さをあなたに理解できる?彼の両親の期待、一条グループとの繋がり、将来のことも。あなたはただの高校生かもしれないけれど彼は違う。彼の行動一つ一つが多くの人間の利害に影響するの。そんな彼の隣にあなたのような…何も持たない、ただ地味なだけの女の子がいることが、どれだけ彼にとってマイナスになるか考えたことはあるのかしら?」
彼女の言葉は正論だった。正論だからこそ私の心を容赦なく抉っていく。
「私はね、蓮さんのことが好きよ。昔からずっと。だからこそ彼に相応しい人間になりたくて必死に努力してきた。勉強もマナーも、すべて。彼を支えるために。あなたにその覚悟がある?」
「私……は……」
「ないでしょうね。あなたはただ彼の優しさに甘えているだけ。彼の一時的な気まぐれに付き合っているだけ。でもね、その気まぐれが彼の未来を傷つけることになるのよ。本当に彼のことを思うなら身を引くべきだわ。それがあなたにできる唯一の、彼への誠意というものよ」
玲香さんはそう言うとふ、と嘲るように笑った。「まあ偽物の彼女に、誠意なんてもの期待するだけ無駄かしら」
彼女は私に背を向け悠々と化粧室を出て行った。
私はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。足が震えて力が入らない。
スタジオに戻ると蓮くんが心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「……大丈夫」
私はそう答えるのが精一杯だった。
その後の撮影の間、私は生きた心地がしなかった。玲香さんの言葉が呪いのように頭の中で繰り返される。
「あなたは彼の隣に立つべき人間ではない」。
蓮くんも玲香さんと私の間の険悪な空気を察しているのか、どこか動きが硬いように見えた。スタジオの中の空気は目に見えない火花が散っているかのように、張り詰めていた。
ようやく撮影が終わり私たちはスタジオを後にした。ビルを出た瞬間、夏のむっとした空気が私たちを包み込む。
「……ごめん。嫌な思いさせた」
蓮くんが申し訳なさそうに言った。
「ううん、平気……」
強がってはみたものの心は冷たく凍り付いていた。住む世界が違う。それは紛れもない事実だった。一条玲香という存在はそれを私に容赦なく突きつけてきた。
私たちはその後、ほとんど口を利かずに原宿の駅まで歩いた。雑踏の中、彼と私の間には気まずい沈黙が流れていた。
「じゃあ今日は助かった。ありがと」
駅の改札前で彼はそう言って私に背を向けた。その背中はどこかいつもより小さく、そして疲れているように見えた。
私は反対方向の電車に乗るためにホームのベンチに腰を下ろした。さっきまでの出来事がまるで悪い夢のようだ。目を閉じると玲香さんの冷たい瞳と、蓮くんの困ったような顔が浮かんでくる。
偽物の彼女を演じることはただデートをして写真を撮るだけの、簡単な「業務」ではなかった。彼の世界に足を踏み入れるということは彼の抱える問題や複雑な人間関係にも、否応なく触れてしまうということなのだ。
私にその覚悟はあっただろうか。
いや、なかった。私はただ自分の平穏が脅かされることだけを恐れていた。
電車がホームに入ってくる。その轟音に私ははっと我に返った。
ポケットの中でスマホが震えた。アカリからだった。
『撮影どうだった?』
私は今日の出来事を彼女にどう説明すればいいのか分からなかった。玲香さんのこと、蓮くんの疲れた顔のこと。そして玲香さんに言われた、あまりにも正しくて残酷な言葉のこと。
私はただ一言『疲れた』とだけ返信した。
窓の外を流れていく景色を眺めながら私はぼんやりと考えていた。
この契約が終わるまであと一ヶ月弱。
私はこの役を演じきることができるのだろうか。
それともその前に彼の世界の重さに耐えきれず、潰されてしまうのだろうか。
今日の出来事は私に、この「嘘」が決して甘いものではないということを改めて思い知らせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。風景でいることはなんて楽だったのだろう。誰からも期待されず、誰からも何も求められない世界はなんて安全だったのだろう。
私は今、嵐の真ん中にたった一人で立たされていた。
原宿での一件以来、私の心は厚い鉛色の雲に覆われていた。一条玲香さんに言われた言葉が壊れたレコードのように頭の中で何度も何度も繰り返される。「あなたは彼の隣に立つべき人間ではないの」。その言葉は私が心の奥底でずっと感じていた、しかし見て見ぬふりをしてきた事実を冷たい刃物のように突きつけてきた。それはあまりにも正しく、反論の余地すらなかった。私は彼の隣に立つための資格を何一つ持っていない。
あの日から三日間、蓮くんからの連絡はぱったりと途絶えた。それが私をさらに深い不安の沼へと引きずり込んでいった。スマホの画面を意味もなく何度もスライドさせる。メッセージアプリを開き、彼の名前が一番上にあることを確認してはため息をつく。もしかしたら彼も玲香さんと同じことを考えているのではないか。私のような地味で何も持たない女を「偽物の彼女」にしたことを後悔しているのではないか。あの撮影現場で玲香さんの隣に立つ私を見て、その「不釣り合いさ」に改めて気づいてしまったのではないか。彼からの連絡が途絶えたのは、この契約を静かに終わらせるための彼なりのサインなのではないか。そんな考えがぐるぐると頭の中を巡り、私は夜もよく眠れなかった。
アカリには玲香さんと会ったこと、そして彼女に言われたことを正直に話した。もちろんアカリは電話の向こうで烈火のごとく怒った。
「はぁ!?何様なのよ、その女!家柄がいいからって何言ってもいいと思ってんの!?てか蓮くんも蓮くんだよ!なんでそんなこと言わせてんのよ!」
「……でも彼女の言ってることは、間違ってないと思う…」
「何言ってんの!栞奈は栞奈だよ!誰かと比べる必要なんてないじゃん!それに蓮くんだってあんたがいいって言ったんでしょ!?」
アカリの言葉はいつもみたいに力強くて、ありがたかった。でも今の私の心にはその言葉はうまく染み込んでこなかった。玲香さんの言葉はあまりにも重く、そして正しかったからだ。アカリとの電話を切った後、私はベッドの上で膝を抱えた。もうやめてしまおうか。この馬鹿げた契約を今すぐ終わりにしようと彼にメッセージを送ろうか。そうすればこれ以上傷つくこともない。元の静かな「風景」に戻れる。
しかし指は動かなかった。ここで逃げ出したら私は本当に玲香さんの言う通りの「彼の優しさに甘えているだけ」の惨めな女の子になってしまう。それは嫌だ。たとえ偽物でも代用品でも、私はこの契約を最後までやり遂げる。それがこんな私を選んでくれた彼に対する、そして何より自分自身に対する最低限の意地だった。
そんな風に私が一人で暗い思考の海に沈んでいた金曜日の夕方。ポケットの中のスマホが久しぶりにぶ、と短く震えた。画面に表示された『月島 蓮』の文字に、私の心臓は大きく、痛いほどに跳ねた。
『今週末、水族館。十時、現地集合』
いつもと同じ、業務連絡のような短いメッセージ。でもそのメッセージを見た瞬間、私は安堵からか涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。契約はまだ終わっていなかった。彼はまだ私を「必要」としてくれている。たとえそれが偽物の関係だとしても。
私は震える指で『了解です』とだけ返信した。
デート当日。私はアカリが「水族館なら深海魚みたいな暗い顔してちゃダメでしょ!」と言って半ば強引に選んだ、海を思わせるような青いグラデーションのスカートを履いて家を出た。電車に揺られながら窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。住宅街が過ぎビルが並び、そして遠くにきらきらと光る海が見えてくる。その景色と自分の心境が重なって見えた。蓮くんと会うのは少し怖い。また彼の世界の重さを見せつけられるかもしれないから。でも同時にほんの少しだけ、彼に会いたいと思っている自分もいた。あの静かでどこか寂しそうな横顔を、もう一度見たい、と。
水族館は駅から少し離れた海沿いの公園の中にある。潮の香りが混じった風が私の髪を優しく揺らした。
水族館の入り口で彼は待っていた。白いTシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけ大人びた格好だった。私の姿を認めると彼は少しだけ気まずそうに、でもどこかほっとしたような表情で言った。
「よお。……この前は、悪かったな」
「ううん、別に……」
「あいつの言ったこと、気にしてないか?」
「……気にしてないよ」
私は嘘をついた。本当は気にしていないどころか、その言葉の棘がずっと心に刺さったままだ。でもそんなことを彼に言うことはできなかった。
彼は私の嘘を見抜いているのかいないのか、ふう、と小さく息を吐いた。
「まあ今日はそういうの全部忘れて楽しもうぜ。……いや、楽しんでくれ。契約だから」
彼は最後の言葉を慌てて付け足した。そのぎこちなさに私は少しだけ笑ってしまった。
水族館の中は薄暗い青い光に満ちていた。外の喧騒が嘘のように静かで幻想的な空間。巨大な水槽の中を色とりどりの魚たちが優雅に、そして自由に泳いでいる。その光景を見ていると私のささくれ立っていた心が、少しずつ凪いでいくのを感じた。
「……きれい」
私がぽつりと呟くと、隣で彼が言った。
「……だな」
その声はいつもより少しだけ穏やかに聞こえた。今日の彼は少し様子が違った。いつも周りに振りまいているあの完璧な笑顔はない。ただ静かに水槽の中を見つめている。その横顔は光の当たらない深海魚のように、どこか寂しそうに見えた。
「なんで、水族館に?」
私は思い切って尋ねてみた。
彼は少し驚いたように私を見ると、照れくさそうに頭を掻いた。
「……別に。なんとなく静かな場所がいいかなって。君も、俺も」
最後の「俺も」という言葉が私の胸に小さく響いた。彼もまたあの原宿での一件で疲れていたのかもしれない。玲香さんと私の間で板挟みになって。そう思うと彼に対して初めて「可哀想」という感情が芽生えた。
「……魚、見てると落ち着くんだ」
彼が言った。
「何も考えなくていいから。あいつらただ生きてるだけだろ。誰にどう見られるかとか、親の期待とか、そういうの一切気にしないでただ泳いでるだけ。……羨ましいよな」
その言葉は彼の心の奥底から漏れた本音のように聞こえた。いつも大勢の視線に晒されている彼。その彼が唯一安らげるのがこの誰にも何も求められない、静かな水槽の中なのかもしれない。玲香さんの言葉が再び私の頭をよぎる。「彼が背負っているものの重さを、あなたに理解できる?」。今ならその重さの、ほんの一端が分かるような気がした。
私たちはトンネル状になった大水槽の下をゆっくりと歩いた。頭上を巨大なエイやサメが、滑るように通り過ぎていく。青い光と水の揺らめきがまるで海の中にいるような錯覚を起こさせる。
「なあ」
彼が不意に立ち止まった。
「上野さんってさ、どうしてそんなに風景になりたいんだ?」
唐突な質問だった。私はどう答えるべきか言葉に詰まった。
「……目立つのが、嫌いだから」
「どうして?」
「……期待されるのが、怖いから」
「期待されるのが、怖い?」
彼は不思議そうに私を見た。彼にとって期待されることはきっと当たり前の日常なのだろう。
私は小学生の時の、あのリレーの話をした。転んでみんなに責められて、それ以来目立つことが怖くなったこと。私の拙い話が終わるまで彼は黙って真剣な顔で聞いてくれた。
「……そうか。そんなことがあったのか」
彼は何かを考えるようにしばらく黙り込んだ。そしてぽつりと言った。
「俺とは、逆だな」
「え?」
「俺は期待されないのが怖かった。親父にもオフクロにも。ずっといい子で優秀で、自慢の息子でいなきゃいけないって思ってた。期待に応えられない俺には価値がないって。だからずっと期待される自分を演じ続けてきた」
彼のその言葉は静かな水槽の中に重く響いた。
彼も私と同じだったのかもしれない。違うのは私が「消えること」を選び、彼が「演じること」を選んだということだけ。私たちは同じコインの裏と表だったのかもしれない。初めて彼との間に何か共通のものを見つけたような気がした。
私たちはペンギンのコーナーで足を止めた。よちよちと歩くその姿、水の中を弾丸のように泳ぐそのギャップが可愛らしくて、私は思わずふふ、と笑ってしまった。玲香さんのことも契約のことも一瞬だけ忘れられた、心からの笑いだった。
すると彼が私の方を見て言った。
「……やっと笑った」
「え……」
「君さ、今日ずっと何か我慢してる、みたいな顔してたから。玲香のこと、やっぱり気にしてたんだろ」
「……そんなこと、ないです」
「あるよ。俺、結構君のこと見てるから」
その言葉に私の心臓が大きく跳ねた。見てる?彼が?この私を?
今日のミッションである証拠写真の撮影。彼はいつものようにスマホを取り出した。
彼は私の肩に手を回しぐいと自分の方に引き寄せた。ペンギンの水槽を背景に。そして私の耳元で囁く。
「上野さん、ペンギン、好きだろ」
「……どうして、それを」
「だって君の筆箱にペンギンのキーホルダー、ついてる。入学した時からずっと」
ああ、そうだ。このキーホルダーは中学の時にアカリが誕生日プレゼントにくれたものだ。私が初めて心から「嬉しい」と思ってずっと大切にしている宝物。そんな私の個人的なことを彼が知っていた。その事実に私の胸は驚きと、そしてどうしようもない喜びで満たされた。
彼は続けた。どこか遠い目をして。
「……昔、知ってた奴もペンギンが好きだったんだ。そいつもここのペンギン見て、君みたいに嬉しそうに笑ってた。あいつ、いつも本ばっかり読んでて静かな奴だったけど、ペンギンの前だと子供みたいにはしゃぐんだ。そのギャップが、なんか、可愛くてさ……」
カシャ。
シャッター音が鳴る。
彼の言葉の意味を私は一瞬、理解できなかった。昔知ってた奴って誰?その疑問が胸に浮かんだが、すぐに掻き消えてしまった。
彼は撮れた写真を見て満足そうに頷く。
「……うん。今日のは結構いい感じじゃん。自然に笑ってる」
私はその写真を見ることができなかった。だってきっと、また私はあの時と同じ顔をしていたに違いないから。困ったように、でもどうしようもなく嬉しそうに笑っている、私の知らない私の顔。
それと同時に彼の言葉が小さな棘のように、心の隅に刺さったままだった。「君みたいに笑ってた」。その言葉はつまり、彼は私の笑顔の向こうに別の誰かを見ているということではないのだろうか。私の喜びは彼の過去の思い出を呼び覚ますための、きっかけに過ぎなかったのではないだろうか。
水族館を出ると外はもう夕暮れに差し掛かっていた。西日が海をオレンジ色に染めている。私たちは海沿いの遊歩道をあてもなく歩いた。
「なあ、上野さん」
彼がぽつりと言った。
「君の願い事、『忘れられること』だろ。それって俺のことも忘れたいってことか?」
「え……」
「この夏休みのことも、全部。なかったことにしたい?」
その問いに私はすぐに答えることができなかった。
契約を始めた当初はそう思っていた。一刻も早くこの悪夢が終わって元の静かな日常に戻りたい、と。
でも今は。
映画館で同じ本が好きだと知った時のこと。夏祭りの夜、人混みの中で掴まれた手のこと。そして今日の水族館でのこと。
偽物のはずの思い出が私の心の中で、本物の輝きを放ち始めていた。
これをすべて、なかったことになんてできるのだろうか。
「……分からない」
私は正直にそう答えた。
「そっか」
彼はそれ以上は何も聞かなかった。
波打ち際まで歩いていくと彼は立ち止まり、砂浜に何かを書き始めた。それは私の名前『栞奈』という二文字だった。そしてすぐに波がそれをさらっていく。
「……なあ、この契約、やっぱりやめとくか?」
彼が海を見つめたまま呟いた。
「え……?」
「君の願い事を俺は本当に叶えていいのか、分からなくなった。君を『忘れさせる』ことなんて、俺にできるのかな」
彼のその言葉は告白でも何でもない。ただの独り言のようなものだったかもしれない。でもその言葉はこの日、私が見たどんな魚よりもどんなペンギンよりも、私の心を深く、そして強く揺さぶった。
彼の周りを漂う空気がいつもよりずっと優しく、そして切なく感じられたのは、きっと夕暮れの海のせいだけではなかっただろう。
私の偽物の恋は静かに、そして確実に複雑な様相を呈し始めていた。
それはもうただの「契約」という言葉だけでは、割り切れないものに変わりつつあった。
※
自室のベッドに身を投げ出し、月島蓮は深く長い溜息をついた。
窓の外はすでに深い藍色に染まり、部屋の中は間接照明の微かな光だけが支配している。モデルルームのように整然とした、しかしどこか人間味のないこの空間は、彼が普段演じている「完璧な月島蓮」という虚像そのもののようだった。
「…………」
無言のまま彼はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラロールを開く。指が滑るように画面をスクロールし、そして今日撮った一枚の写真で動きを止めた。
ペンギンの水槽を背景に、驚きと困惑と、そしてどうしようもないほどの喜びが混じり合った複雑な表情で笑う少女。上野栞奈。
(……なんだよ、この顔……)
蓮は無意識のうちに指でその写真を拡大していた。
彼女の少しだけ潤んだ瞳。ほんのりと赤く染まった頬。ぎこちなく、しかし確かに綻んでいる唇。
それは彼が今まで見てきたどんな作り笑いとも違う、無防備であまりにも生々しい、本当の笑顔だった。
水族館での自分の言葉を思い出す。
『君みたいに、嬉しそうに笑ってた』
あの時は本気でそう思っていた。ペンギンを見て無邪気にはしゃぐ栞奈の姿が記憶の中の「みゆ」と重なったのだ。いつも本の影に隠れていた少女が唯一見せてくれた、屈託のない笑顔。俺は、その笑顔に会いたくてずっと彼女の幻影を追い求めてきたのだと、そう信じていた。
しかし今、この静かな部屋で一人、栞奈の写真を見つめていると、蓮の心に確かな違和感が生まれていた。
本当に同じだっただろうか。
彼は必死に記憶の引き出しを探り、セピア色の思い出の中にいる「みゆ」の笑顔を思い浮かべようとした。それは確かに愛おしい記憶だった。守ってやりたいと思わせる儚い少女の笑顔。
だが栞奈の笑顔はそれとは全く質が違った。
彼女の笑顔は守ってやりたい、などという庇護欲を掻き立てるものではない。むしろ逆だ。その笑顔を見ているとがんじがらめになっている自分の心が、解き放たれていくような感覚に陥る。息苦しい現実の中でほんの一瞬、呼吸が楽になる。救われるのは彼女ではなく、俺の方なのだ。
(似ている、と思っていた。でも、違う。全然、違う……)
栞奈はみゆの代用品などではなかった。彼女は上野栞奈という唯一無二の存在として、静かに、しかし確実に俺の心のテリトリーを侵食し始めていた。
彼女のあのリレーの話を聞いた時もそうだ。期待されることの重圧に潰されたという彼女の痛々しい告白は、期待に応え続けることで自分を保ってきた俺の生き方とは正反対だった。だがその根底にある「他人の視線に縛られている」という苦しみは驚くほど似ていた。俺は初めて本当の意味で他人に共感し、その傷に触れたいと思ったのかもしれない。
そこまで考えた時、スマートフォンの画面が切り替わり一件のメッセージ通知が表示された。
送り主は『母』。
『蓮。来週の星華グループ主催のパーティーの件、どうなっていますか。玲香さんとご一緒するのが筋でしょう。お父様もそうおっしゃっています』
その冷たく有無を言わさぬ文面を見た瞬間、栞奈の写真を見て温かくなっていた蓮の心は急速に冷えていった。まるで温かい部屋にいたのに突然、極寒の屋外に放り出されたかのようだ。
そうだ。これだ。これが俺の現実。
親の期待、家柄、将来。見えない鎖が彼の四肢に絡みつき、締め上げてくる。
彼はこの息苦しさから逃れるための「盾」として、栞奈を利用したのだ。
(最低の男だ、俺は……)
自己嫌悪が黒い泥のように心の底から湧き上がってくる。
彼女のあの純粋な瞳を思い出す。嘘や計算とは無縁の、ただ静かに世界を見つめているあの瞳。そんな彼女を俺は自分の都合で汚している。
蓮はスマートフォンの画面を消し、乱暴にベッドサイドに放り投げた。もう彼女の写真を見る資格すらないように思えた。
彼は天井を仰いだまま目を閉じた。
契約が終わったら彼女の願い通り、全てを忘れさせ完璧な壁紙に戻してやる。それが俺にできる唯一の償いだ。そう自分に言い聞かせる。
しかし彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、もうセピア色の思い出の中にいる少女の姿ではなかった。
今、この瞬間を生きる、不器用で儚くて、そして誰よりも強い光を放つ一人の少女の姿だった。
(……あのペンギン、あいつ、ちゃんと部屋に飾ってんのかな……)
そんな契約とは何の関係もない他愛もないことを考えている自分に気づき、蓮は自嘲するように小さく息を吐いた。
※
水族館でのデートから数日後。蓮からの連絡は、彼の内面を吐露するような短いメッセージが時折届く以外、途絶えていた。私はその静かな時間を、彼の心の揺れ動きの表れなのだろうかと、淡い期待と不安の入り混じった気持ちで過ごしていた。
そんな水曜日の夜、私のスマホがけたたましく鳴った。表示されたのは『月島 蓮』の文字。メッセージではなく着信だった。心臓が跳ね上がり私は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『……上野さんか?俺だ』
電話の向こうから聞こえてくる彼の声はいつもよりずっと低く、張り詰めていた。
『緊急事態だ。今週末の土曜、夜、空けられるか』
「え……?う、うん。大丈夫だけど……」
『悪い。詳しいことは後で話す。とにかく絶対に空けといてくれ。……頼む』
それはいつものデートの誘いとは明らかに違う、切羽詰まった響きを持っていた。頼む、と最後に付け加えられたその言葉が彼の状況の深刻さを物語っているようだった。
翌日、彼は学校の昼休みに人気のない中庭のベンチで私を待っていた。そして重い口を開いた。
「今週末、親父が院長やってる病院のチャリティーパーティーがあるんだ」
彼は忌々しげにそう言った。
「毎年恒例の地元の名士とか取引先とかが集まる、クソつまんない見本市みたいなもんだ。で、オフクロが…一条玲香を俺のパートナーとして連れてくるようにって、勝手に話を進めてやがった」
その名前に私の心臓がちくりと痛んだ。原宿でのあの冷たい瞳が蘇る。
「断った。『俺には付き合ってる人がいるから、その人を連れて行く』って。そしたらオフクロ、『じゃあ、その方をぜひご紹介いただきたいわ』だってよ。完全に俺を試してるんだ」
彼の話を聞いて血の気が引いていくのが分かった。つまり私は彼の両親や一条玲香がいる、まさに敵の総本山とも言える場所に「彼女」として乗り込まなければならないということ……?
「む、無理だよ!そんな場所……!私みたいなのが行けるわけない……!」
私は思わず立ち上がっていた。ドレスコードは?テーブルマナーは?大人たちの値踏みするような視線の中で、私はきっと石のように固まってしまう。
「頼む、上野さん」
彼は私の腕を掴んだ。その手は少しだけ震えていた。
「君がいないと俺は、あそこでまた『完璧な月島家の跡取り』を演じなきゃいけなくなる。玲香を隣に置いて愛想笑いを振りまいて……。考えただけで窒息しそうなんだ。君が隣にいてくれるだけでいい。ただそこにいてくれるだけで、俺は息ができる」
その声はあまりにも切実で悲痛だった。彼は私を「盾」として必要としている。でもそれだけではない、心の底からのSOSが聞こえたような気がした。私は彼の助けを求めるような瞳から、目を逸らすことができなかった。
もちろんその日の放課後、私はアカリに泣きついた。
「……というわけで私、処刑台に上ることになりました……」
事情を聞いたアカリは最初こそ「はぁ!?何考えてんのよ月島蓮!あんたを矢面に立たせる気!?」と激怒していたが、やがてその瞳に好戦的な光を宿した。
「……上等じゃない。行ってやろうじゃないの、ガラスの城の舞踏会に!あんたをただの壁紙だと思ってる奴らの度肝、抜いてやろうよ!」
その週末、私の部屋はまたしてもアカリの持ち込んだ服や化粧品で戦場のようになった。
「あんたのクローゼットにあるような地味な服じゃ門前払いよ!」
アカリが最終的に選んだのは彼女が自分の姉から借りてきたという、一着のドレスだった。夜空のような深いネイビーブルーのシンプルなデザイン。派手な装飾はないけれど、動くたびに上品な光沢を放つシルクの生地が私の肌をいつもより白く見せた。
「これならあんたの雰囲気も殺さないし、でもちゃんと『彼の隣に立つ女性』に見える。……いい?栞奈。あんたは月島蓮が選んだ女なの。胸張りなさい。あんたは風景なんかじゃないんだから」
鏡に映る知らない自分。アカリに施されたナチュラルながらも華やかなメイクと上品なドレス。それは偽りの姿かもしれない。でもアカリの力強い言葉が私の背中をほんの少しだけ押してくれた。
パーティー会場のホテルに到着すると、その絢爛豪華な雰囲気に私は息を飲んだ。高い天井にはシャンデリアが輝き、クラシックの生演奏が流れ、着飾った紳士淑女たちがグラスを片手に談笑している。それは私が今まで生きてきた世界とは完全に断絶された異次元空間だった。
入り口で待っていた蓮は黒のタキシードに身を包んでいた。いつもよりずっと大人びて、近寄りがたいほどのオーラを放っている。しかし彼は私の姿を認めると一瞬、息を飲むように目を見開き、そして驚きと感嘆の入り混じった表情で言った。
「……上野さん……。すごく、きれいだ」
その心からの言葉に私の顔がかあっと熱くなる。彼にエスコートされ会場に足を踏み入れる。その瞬間から無数の視線が私たちに突き刺さった。
すぐに一条玲香がシャンパンゴールドのドレスを身にまとって優雅に近づいてきた。
「まあ、蓮さん。こちらが例の『彼女』?……ずいぶんと頑張っていらっしゃったのね。そのドレス、どこかのレンタルかしら?」
相変わらずの見下すような物言い。私が何も言えずにいると、蓮が私の前に半歩出て冷たい声で言った。
「玲香。彼女は俺が招待したゲストだ。失礼な口を利くのはやめろ」
その時だった。私たちの背後から穏やかだが威圧感のある声がした。
「蓮。その方を、紹介してくれないか」
振り返るとそこにいたのは蓮とよく似た顔立ちの、しかしもっと厳格な雰囲気を持つ紳士と、上品な着物を着こなした貴婦人だった。蓮の両親だ。
「父さん、母さん。こちらは上野栞奈さん。俺の、大切な人だ」
蓮は私の腰をぐっと引き寄せそう紹介した。彼の母親はにこやかに微笑みながらも、私を頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように見ていた。そして父親に至っては私に一瞥をくれただけで、興味なさそうに蓮に言った。
「お前もいつまでも遊び惚けていないで、自分の立場というものを考えなさい。隣に立つべき相手は誰なのか。星華グループとの繋がりは我々にとって、そしてお前にとっても将来を左右する重要なことだ。…くだらない感傷で道を誤るな」
その言葉は私という存在を完全に無視した、冷たい宣告だった。空気が凍りつく。私がその場に崩れ落ちそうになった、その時。
「父さん」
蓮が今まで聞いたこともないような、静かで、しかし燃えるような怒りを込めた声で言った。
「こちらは俺が俺自身の意志で選んだ人です。俺の生き方に口出しするのはやめていただきたい。それに……彼女のことを、あなたに悪く言われる筋合いはない」
それは完璧な「優等生」である彼が初めて見せた、はっきりとした反抗だった。彼の父親は驚いたように目を見開き、そして不快そうに顔を歪めた。
「……いいだろう。好きにするがいい。だが後悔するのはお前自身だ」
そう言い残し彼の両親は去っていった。
嵐が過ぎ去った後、蓮は「行こう」とだけ言って私の手を引いてその場を抜け出した。
ホテルの外のテラスは嘘のように静かだった。私たちはしばらく黙って遠くに見える街の夜景を眺めていた。
「……ごめん。最低の夜に付き合わせた」
彼が申し訳なさそうに呟いた。
「ううん……」
「でもありがとう。君がいてくれなかったら俺はまた、あの場所で『いい息子』を演じ続けて息ができなくなってた。…なんだか君が隣にいると本当の自分でいられる気がするんだ。君が俺を人間に戻してくれる」
その言葉はどんな甘い愛の囁きよりも、私の心に深く、そして温かく染み渡った。私は彼の世界の息苦しさを、そしてその中で必死にもがく彼の本当の姿を垣間見た気がした。
この人は太陽なんかじゃない。ガラスの城に囚われた孤独な王子様なんだ。
そして私はそんな彼の隣に、もう少しだけいたい。たとえそれが偽りの関係だとしても。
そう強く思ってしまった。
水族館で交わした最後の会話が私の心にさざ波のように広がり続けていた。「君を『忘れさせる』ことなんて、俺にできるのかな」。彼のあの呟きは一体どういう意味だったのだろう。契約の撤回を示唆する言葉だったのか、それとももっと別の、私にはまだ理解できない感情が込められていたのか。考えても答えは出ない。ただあの日の夕暮れの海と、彼の寂しげな横顔がまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
気づいたら蓮くんとのメッセージのやり取りにほんの少しだけ変化が生まれていた。相変わらず業務連絡が基本であることに変わりはない。でも時々、本当にごく稀に、彼の日常のかけらが垣間見えるようなメッセージが届くようになったのだ。
『部活の練習、きつすぎ。死ぬ』
『この前見てた映画の原作、やっと読み終わった。やっぱ、ラストは本の方が好きだわ』
そんな短い他愛もないメッセージが届くたびに私の心臓は律儀に跳ねた。そしてどんな言葉を返せばいいのか三十分以上も悩むことになる。「お疲れ様」では素っ気ないだろうか。「私もです」と共感を示すべきか。結局気の利いた返信などできるはずもなく、いつも当たり障りのないスタンプを一つ送るのが精一杯だった。それでも彼が私に契約とは関係のない言葉を送ってくれるという事実そのものが、私の心をじんわりと温かくした。
そんなやり取りが数回続いた八月の初めの週。彼から次の任務指令が届いた。
『今週末、神社で夏祭りあるらしい。行くぞ。写真映えしそうだから』
夏祭り。その言葉を見た瞬間、私の頭に浮かんだのは色とりどりの浴衣を着て楽しそうに笑い合うクラスメイトたちの姿だった。私は今まで夏祭りというものにまともに行ったことがない。小学生の頃に親に連れられて行ったきりだ。人混みが苦手だし一緒に行く友達もアカリ以外にはいなかったから。アカリに誘われたこともあったけれど、いつも適当な理由をつけて断っていた。きらきらした楽しそうな場所に行けば行くほど、自分の「風景」としての存在が際立って惨めになるのが怖かったのだ。
『浴衣、持ってんの?』
続けて届いたメッセージに私はどきりとした。
『持ってません』
嘘だ。タンスの奥に母が私のために仕立ててくれた浴衣が一枚、眠っている。白地に紺色の朝顔が描かれた少し古風なデザインのものだ。中学の時に一度だけ袖を通したが、似合わない気がしてそれ以来ずっと仕舞い込んだままだった。
『そっか。まあ、私服でいいや』
彼のその返信に私はなぜか少しだけがっかりしている自分に気づいた。
もちろんこの一連のやり取りはすぐにアカリの知るところとなった。
「はぁ!?夏祭り!?青春ラブコメの王道イベント、キター!」
アカリは私の部屋に駆け込んでくるなりそう叫んだ。
「しかも浴衣!?絶対に着ていくしかないでしょ!」
「でも、私服でいいって……」
「馬鹿!男子の言う『私服でいい』は社交辞令!あれは『浴衣とか着てきてくれたら、めっちゃ嬉しいな』っていう願望の裏返しなの!ここで浴衣を着ていかない女はモテないのよ!」
アカリの断定的な物言いに私はぐうの音も出ない。
「それに、あんたのお母さんが作ってくれた浴衣、あるでしょ!あの朝顔のやつ!めっちゃ可愛いじゃん!あれを着ないでどうすんの!」
「でももう何年も着てないし、着付けもできないし……」
「私がやってあげる!任せなさい!」
そして祭り当日。私の部屋はまたしてもアカリの私物で溢れかえっていた。
アカリは慣れない手つきながらも一生懸命に私に浴衣を着付けてくれた。きつく締められた帯に息が少し苦しい。
「まあ、あんたらしいっちゃあんたらしいけどさ。もうちょっと色気があってもいいんじゃないの?」
アカリは私の姿を見て呆れながらも、私の髪を器用に結い上げうなじに少しだけおくれ毛を残して、完璧な「やまとなでしこ」に変身させてくれた。鏡に映る自分の姿はまだ見慣れないけれど、でも悪くないかもしれないと少しだけ思った。
神社の鳥居の下。慣れない下駄に足を取られ鼻緒が擦れて痛い。約束の時間に少し遅れてしまった。彼を待たせてしまっただろうか。すでに大勢の人で賑わう境内。その人混みの中、彼の姿を探す。
「……悪い、待った?」
背後から声をかけられ振り返ると、そこにいたのは紺色の甚平を着た月島くんだった。髪も少しだけセットしていて、いつもより少しだけ幼くそして無防備に見える。彼は私の姿を認めるといつも涼しげなその目をほんの少しだけ見開いて、そして固まった。
「……お」
彼は何か言いかけてやめた。そして少しだけ照れくさそうにごしごしと頭を掻く。
「……甚平とか着てくんの俺だけかと思って、ちょっと恥ずかしかったわ。……でも、まあ、お前も似合ってんじゃん、それ」
その言葉は彼なりの最上級の褒め言葉なのだろうか。私の顔がかあっと熱くなる。「お前」といういつもと違う呼び方にも心臓が大きく跳ねた。
人混みの中を私たちは肩が触れ合うか触れ合わないかの距離で並んで歩く。浴衣の袖が時々彼の腕に触れるたびに心臓が大きく跳ねた。射的、金魚すくい、りんご飴。私たちはまるで本物の恋人同士のように夏祭りを楽しんだ。いや、楽しんでいるフリをした。でもその「フリ」があまりにも楽しくて、私はこれが嘘だということを忘れそうになっていた。
射的の屋台で彼が冗談半分でコルク銃を構えた。「見てろよ、上野。あのデカい景品、取ってやっから」と言って狙いを定めたが、弾は明後日の方向に飛んでいった。屋台のおじさんに笑われ彼は「くそっ!」と本気で悔しがっている。その子供みたいな姿がなんだかとても可愛らしく思えた。
金魚すくいでは私が思ったよりもうまくて三匹もすくうことができた。蓮くんは一匹もすくえずにあっという間にポイを破ってしまう。「なんでだよ!?」と本気で首を傾げる彼に私は思わず笑ってしまった。「貸してみ」と言って私のポイを奪おうとする彼と、小さな水槽の前でじゃれ合う。その瞬間、周りの喧騒も契約のこともすべてが遠くに消えていった。
「お、月島じゃん!」
不意に後ろから大きな声で呼び止められた。振り返るとそこにいたのはバスケ部の友人、ケンタくんだった。
「何、お前、彼女とデート?うわ、マジじゃん!」
彼は私を上から下まで値踏みするようにじろじろと見た。
「へえ、こういうのがタイプだったんだ。意外。まあ地味だけど浴衣着てると、結構可愛いんじゃん?」
その無遠慮な言葉と視線に私の顔から血の気が引いた。さっきまでの楽しい気分が一瞬にして冷めていく。やめて。そんな風に見ないで。
「……うるせえな、ケンタ」
月島くんが地を這うような低い声で言った。その瞬間、彼は私の前に庇うように半歩足を踏み出した。そして私の腕を掴むとぐいと自分の方に引き寄せ、その場から足早に立ち去った。
「あ、わりい、わりい!邪魔して悪かったな!」
ケンタくんの悪びれない笑い声が背後から聞こえてくる。私は彼の大きな背中を見つめることしかできなかった。
「……ごめん」
少し歩いたところで彼がぽつりと言った。「あいつ、ああいうノリなんだ。悪気はないから気にしないで」
「……はい」
「……それに、あいつの言うこと、全部嘘だから」
「え?」
「俺のタイプとか、あいつ全然分かってねえし」
彼はそう言って少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。その意外な表情に私は思わずふふ、と笑ってしまった。
「……なんだよ」
「いえ……月島くんもそういう顔するんだなって。なんだか可愛いです」
「……うるさい」
彼はそう言ってぷいと前を向いてしまった。その耳が少しだけ赤くなっているように見えたのは、きっと祭りの提灯の光のせいだ。
私たちは神社の境内から少し離れた、喧騒の届かない石段の上に腰を下ろした。ここからは街の夜景と、これから打ち上げられるであろう花火がよく見えるらしい。
「……夏祭りとか、いつ以来だろ」
彼がぽつりと呟いた。
「昔は親に無理やり連れてこられてたけどな。地元の名士との顔合わせ、とか言ってさ。全然楽しくなかった。お前といる方がよっぽどマシだ」
その横顔はいつも学校で見せる完璧な笑顔とは違う、どこか寂しげな表情をしていた。太陽みたいに見える彼にも誰にも見せない影の部分があるのかもしれない。そう思うと少しだけ彼との距離が縮まったような気がした。
ヒュ〜〜〜、ドン!
遠くで音がして夜空に大きな光の花が咲いた。花火が始まったのだ。
赤、青、緑、金。次々と打ち上げられる光の大輪に私はただ黙って空を見上げていた。隣で彼も同じように空を見上げている。その横顔が花火の光に照らされて一瞬、一瞬、違う色に染まっていく。きれいだ、と、思った。夜空に咲く大輪の花火よりも、ずっと。
その時だった。彼が不意にこちらを向いた。そして私の頬にそっと手を伸ばす。
「……髪に、ゴミ、ついてる」
彼はそう言って私の髪についた小さな木の葉を取ってくれた。その長い指先が私の頬をゆっくりと、優しくかすめる。その感触に私の思考は完全に停止した。
ドン!とひときわ大きな花火が打ち上がる。その音と光に紛れて私は彼に吸い寄せられるように顔を近づけてしまいそうになった。
まずい。これは嘘。これは契約。私は本気になんて、なっちゃいけないのに。
私がパニックになっていると彼がはっと我に返ったようにスマホを取り出した。
「……あ、今の結構いい感じじゃん。撮るぞ」
その声はいつものクールな彼の声に戻っていた。
「はい、こっち見て、笑って」
カシャ。
シャッター音が鳴る。さっきまでのあの甘い雰囲気はすべて消え去っていた。そうだ。これも全部契約のため。偽物の思い出を作るための、ただの作業。
写真の中の私はきっとひどく情けない顔をしていただろう。泣き出しそうなのを必死に堪えて、無理やり笑っている嘘つきな私の顔。
花火が終わり帰り道。私たちはまたほとんど口を利かなかった。しかしその沈黙は今までのどんな沈黙よりも重く、そして甘く感じられた。さっきの彼の指の感触が、まだ私の頬に熱く残っている。
駅の改札で別れる時、彼は何かを言いたそうにしばらく私を見つめていた。しかし結局何も言わずに、「じゃあな」とだけ言って人混みの中に消えていった。
家に帰り浴衣を脱いで一人になると、祭りの喧騒が嘘のように静かだった。
スマホを開くと蓮くんがさっき撮った写真をSNSにアップしていた。
『#夏祭り #花火 #来年も』
その最後のハッシュタグが鋭い刃物のように私の心を突き刺した。
来年なんてない。
私たちの関係の余命はあと三週間。
夜空に咲いては消えていく花火のように。
この恋もどきも夏休みが終われば、すべて跡形もなく消えてしまう儚い幻なのだ。
私はスマホを握りしめたままその場にうずくまった。胸が痛くて苦しくて、たまらなかった。
これは偽物の恋のはずなのに。
どうしてこんなに心が痛むのだろう。
夏祭りの夜が明けてから私の日常は静かな熱病に浮かされているかのようだった。彼の指先が頬をかすめた感触。耳元で囁かれた言葉。そしてSNSに残された『#来年も』という残酷なハッシュタグ。それらが私の頭の中で飽きもせずリフレインし、そのたびに私の心は甘く、そして鋭く痛んだ。偽物だと分かっているのに本物の思い出のようにきらきらと輝いて、私の心を蝕んでいく。風景でいることに安住していたはずの私の世界は、彼という太陽によってその静かな均衡を完全に崩されていた。
彼からの連絡は以前よりも少しだけ頻繁になった。相変わらず業務連絡が主であることに変わりはないが、その行間にほんのわずかながら個人的な感情が滲んでいるように感じられるようになったのだ。
『昨日のテレビ、面白かったな。お笑い芸人のやつ』
『今日、練習で監督にめちゃくちゃ怒られた。最悪』
そんなメッセージが届くたび私はスマホを握りしめ、返信に三十分以上も頭を悩ませた。なんと返せば彼の心を少しでも軽くできるだろうか。どんな言葉を選べばこの偽物の関係に亀裂を入れずに、彼に寄り添うことができるだろうか。結局いつも送れるのは気の利かないスタンプだけだったけれど、そのやり取り自体が私の日常の中で大きな意味を持つようになっていた。
アカリはそんな私の変化を敏感に察知していた。
「あんた、最近、スマホ見てニヤニヤしてること増えたよね」
ある日私の部屋に遊びに来た彼女が、じっと私の顔を覗き込んで言った。
「そ、そんなことないよ!」
「あるね。絶対ある。……もしかしてあんた、本気で月島くんのこと……」
「違う!」
私は食い気味に否定した。その声が自分でも驚くほど大きくて必死だった。アカリはそれ以上は何も言わず、ただ「そっか」とだけ言って少し寂しそうに笑った。彼女にはきっとお見通しなのだろう。私がこの契約という名の沼に足を取られて溺れかけていることを。
夏休みが半分を過ぎた八月も半ばに差しかかった頃だった。
その日も私はいつものように市立図書館の二階、閲覧室の一番奥の席で本を読んでいた。しかし全く集中できない。物語の活字は目の上を滑っていくだけ。私の意識は次に彼からいつ連絡が来るかということだけに、囚われていた。
その時ポケットの中のスマホが、ぶ、と震えた。慌てて画面を確認するとそこには『月島 蓮』の文字。
『明日、図書館。課題、手伝え』
図書館。デートの場所としてはあまりにも地味で、ロマンチックさのかけらもない。でも私にとってはそこは世界で一番落ち着ける私の聖域だった。そんな場所に彼が来る。それがなぜかひどく特別なことに思えて、私の心は期待に震えた。彼と静かな場所で二人きりで過ごせる。ただそれだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
翌日、私は少しだけお洒落をして図書館へ向かった。アカリに言わせれば「相変わらず地味」なのだろうけれど、私にとっては精一杯の勇気だった。
閲覧室の一番奥の席。そこは私の聖域だったはずなのに、彼はその場所に当たり前のような顔をして座っていた。参考書やノートを広げているがその目は少しも集中していない。私が近づくと彼は顔を上げた。
「よお。悪いな、急に」
「ううん。課題、終わってないの?」
「まあな。てか、お前、いつもここにいるよな」
「うん。静かだから」
私たちは小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。聞こえてくるのはページをめくるかすかな音と、クーラーの静かな作動音だけ。その穏やかで静かな時間が私にはひどく心地よかった。華やかな場所よりも賑やかなイベントよりも、こうして静かな場所で彼と二人きりでいる時間の方がずっと満たされているような気がした。私は自分の参考書を開き、彼は彼のノートに視線を落とす。会話はない。でもすぐそこに彼がいる。その気配を感じられるだけで心が温かくなる。この時間がずっと続けばいいのに。偽物の恋人としてではなく、ただのクラスメイトとしてでもなく、もっと違う名前のない穏やかな関係で彼の隣にいられたら。そんな叶うはずのない願いが、胸の奥で芽生え始めていた。
しかし私はすぐに彼の様子がおかしいことに気づいた。彼が見ていたのは受験勉強の参考書ではなく、この街の古い住宅地図や数年前の卒業アルバムだった。住宅地図には赤や青のペンで、いくつかの場所に印がつけられている。
「……何してるんですか?」
私が尋ねると彼は一瞬気まずそうな顔をして、慌ててアルバムを閉じようとした。
「……いや、別に。ちょっと調べ物」
「調べ物……?契約の一部ですか?私の願い事と、何か関係が……」
私の願い事。「忘れられること」。それを叶えるために何か特殊な方法でも調べているのだろうか。そう言った瞬間、彼の肩の力がふ、と抜けた。まるで重い荷物を下ろしたかのように。
「……まあ、そんなとこ」
彼は観念したように小さなため息をついて言った。
「いや、君の願い事とは関係ない。俺個人の問題だ。実はさ、俺、人、探してんだ」
人?
その言葉に私は首を傾げた。
「昔、この街に住んでた女の子。俺が、小学校の頃の初恋の相手」
初恋。その甘酸っぱい響きの言葉が静かな図書館の中に、不釣り合いに響いた。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。心臓がちくりと小さな音を立てた。
彼はそう言って一枚の色褪せた写真をアルバムから取り出した。集合写真の切り抜きだろうか。そこに写っていたのは眼鏡をかけて分厚い本を胸に抱えた、一人の少女だった。俯きがちで少し寂しそうに笑っている。長く伸ばした髪が顔の半分を隠していた。その少女のどこか儚げな雰囲気が今の私に少しだけ似ている、と思った。いや、似ているというより、まるで私が目指している「風景」の理想形がそこにあるかのようだった。
「こいつ、急に引っ越しちゃってさ。それっきり連絡取れなくなった。俺、親の都合で転校多かったから友達作るのずっと苦手だったんだけど、こいつだけは特別だったんだ。……どうしてももう一度会って話がしたくて」
彼は続けた。その声には切実な響きがこもっていた。彼の瞳は目の前にいる私ではなく、写真の中の少女を、そしてその向こうにある遠い過去を見ていた。
「俺がこの高校に来たのも、こいつがこの街にいるかもしれないって思ったからなんだ。親にはこの辺りで一番進学校だからって言ったけど、本当の理由はそれだけ」
彼の衝撃的な告白が私の頭の中で何度も反響する。彼がこの高校を選んだ本当の理由。それがこの写真の女の子のためだったなんて。
「……なんで、その話を、私に……」
「上野さんなら何か知ってるかなって」
彼は言った。その目は真剣だった。
「君、ずっとこの街に住んでるんだろ?それに君、あいつに雰囲気が似てるから。本が好きで、静かなとこが、すごく……」
ああ。
そうか。
その瞬間、私の頭の中で今までバラバラだったパズルのピースが、パチリ、パチリと音を立ててはまっていった。
どうして彼が、風景でしかなかった私に声をかけたのか。
どうして彼が、私の好きな映画を知っていたのか。
どうして彼が、私の持っているペンギンのキーホルダーに気づいたのか。
そしてどうして私が、彼の「偽物の彼女」として選ばれたのか。
全てのピースが、一つの残酷な絵を完成させた。そして私の心は音もなく粉々に砕け散った。
彼が私を選んだ、本当の理由。
私が「安全」だからではなかった。「本気で彼を好きにならない」と思ったからではなかった。
私が彼の探している初恋の少女の、「代用品」としてちょうどよかったからだ。
雰囲気が似ているから。ただ、それだけの理由で。
私が今まで感じていたすべてのドキドキが急速に色を失っていく。彼が私を見てくれていたのではなかった。彼は私の向こう側にずっと別の誰かを見ていたのだ。私の好きな映画も。私のペンギンのキーホルダーも。そのすべてが彼にとってはあの少女の面影を探すための、手がかりに過ぎなかったのだ。水族館でペンギンを見て笑う私に「君みたいに笑ってた」と言った彼の言葉が、今、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。あの時の彼の目は私ではなく、私に重なる「昔知ってた奴」を見ていたのだ。
彼は私の心の崩壊になど全く気づかず、無邪気に思い出話を続けた。
「あいつ、鈴木みゆって言うんだ。みゆはさ、いつも図書室の隅で難しい本ばっか読んでてさ。俺が話しかけても最初は全然目も合わせてくれなかった。でも俺がしつこく話しかけてるうちに、少しずつ笑ってくれるようになって…。あいつが読んでた本、俺も無理して読んでみたりしてさ。この前君と見た映画の原作も、実はみゆに教えてもらった本なんだ。懐かしいな……」
その言葉がとどめだった。血の気がさあっと引いていく。耳の奥でキーンという高い音が鳴り響き、彼の声が遠くなる。私は彼のゴーストを見ていたのではない。私自身が彼の初恋の相手の、ゴーストだったのだ。
「……ごめんなさい」
私はか細い声で言った。声が震えるのを止められなかった。
「私、その人のこと、知らないです」
「……そっか。まあ、だよな。急に悪かった」
彼は心からがっかりしたように力なく笑った。その顔が私にはもう見れなかった。
嘘つきな君。そう思っていた。でも本当に嘘つきだったのは私の方だったのかもしれない。これは偽物の恋だと自分に言い聞かせながら、いつの間にか本気で君に惹かれていた愚かで惨めな私。
彼はがっかりした様子を隠そうともせず、広げていた地図やアルバムを片付け始めた。その間、私たちは一言も口を利かなかった。気まずい沈黙が図書館の静寂の中で、異常なほど重く感じられた。
彼が私の心をこれっぽっちも理解していないことが、ひどく悲しかった。彼は自分の初恋の話を無邪気に私に語っただけなのだ。その言葉が私をどれだけ深く傷つけたか、彼は想像すらしていないだろう。
だって私は彼にとって、本気で恋をすることのない安全な代用品なのだから。
「じゃあ俺、もう行くわ。今日は悪かったな、付き合わせちまって」
彼はそう言うと逃げるように席を立った。私は彼の背中を見送ることしかできなかった。
彼の姿が見えなくなってから私は机の上に突っ伏した。麻痺していた感覚がゆっくりと痛みを取り戻していく。堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出てくる。静かな閲覧室で声を殺して泣いた。本のページのインクの匂いがやけに鼻についた。
私の淡く愚かな初恋は、その本当の始まりを知る前に終わりを告げたのだ。
夏祭りの夜のあの甘い時間も。水族館での静かな心の交流も。彼が送ってくれた他愛のないメッセージも。そのすべてが彼にとっては「みゆ」の面影を追うための行為だったのだ。そう再解釈された途端、きらきらと輝いて見えた思い出たちは一瞬にして色褪せたガラクタに変わってしまった。
風景に戻りたいと願ったはずなのに。私はいつの間にか誰かの物語の、都合のいい登場人物に成り下がってしまっていた。しかも主役の代用品という、最も惨めな役柄で。これ以上の屈辱があるだろうか。
図書館の高い天井から傾きかけた西日が差し込んでいた。その光がまるで私たちの夏休みの終わりと、私のこの惨めな初恋の葬儀を同時に執り行っているかのようだった。
私はその日、閉館時間まで図書館の席を立つことができなかった。
ただ泣き続けた。
粉々に砕け散った心が、もう二度と元には戻らないことを悟りながら。
図書館の重厚な木製の扉を押し開けると、むっとするような生温かい夜の空気が涙で冷え切った私の頬を容赦なく撫でた。閉館時間を知らせる「蛍の光」のメロディがまるで遠い世界の出来事のように、頭の中でぼんやりと反響している。自分がどうやって閲覧室の席を立ち、螺旋階段を下り、この場所までたどり着いたのか、記憶は曖昧だった。私の意識はいまだにあの静かな閲覧室の、あのテーブルに縫い付けられたままだ。彼の言葉によって粉々に砕け散った心がそこに散らばっている。
帰り道、足はまるで自分の意志とは無関係に、プログラムされた機械のようにただ前へ進んでいた。駅前のロータリー。蛍光灯が白々しく光るコンビニ。時折すれ違う車のヘッドライトが涙で滲んだ視界の中で、歪んだ光の筋となって流れていく。いつもと同じ帰り道のはずなのに、すべての音が遠く、すべての光が現実感を失っていた。私の周りには分厚いガラスの壁でもあるかのように、世界との間に決定的な隔たりがあった。現実感がない。
私は「代用品」だった。
その事実だけが巨大な鉄槌のように、私の頭の中で何度も何度も振り下ろされる。
映画館で「原作が好きだ」と言った彼の言葉も。
水族館で私のキーホルダーに気づいてくれたことも。
夏祭りの夜、「似合ってる」と褒めてくれたことも。
そのすべてが彼にとっては「鈴木みゆ」という亡霊の面影を追うための行為だったのだ。そう再解釈された途端、きらきらと輝いて見えた思い出たちは一瞬にして色褪せたガラクタに変わってしまった。楽しかった記憶であればあるほど、今は鋭い破片となって私の心を深く傷つける。私は彼の思い出作りのための小道具に過ぎなかった。彼の初恋物語を美しく彩るための都合のいい背景だったのだ。
ショーウィンドウに映った自分の姿を見て吐き気がした。水色のワンピースを着て少しだけお洒落をした、愚かな女。彼に「雰囲気が似ている」と言われた空っぽの人形。私は私ではなかった。この夏、私が経験したすべてのことは鈴木みゆという少女の影をなぞるための、滑稽な茶番劇だったのだ。
アパートの古びた鉄製の階段を、一歩一歩、鉛を引きずるように上る。鍵穴に鍵を差し込む。その単純な動作ですら指が震えてうまくいかない。何度か鍵を落としそうになりながら、ようやく自室のドアを開けた。
真っ暗な部屋の中に私は吸い込まれるように足を踏み入れる。電気もつけず制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。マットレスが私の体を深く、どこまでも深く受け止める。天井の木目が暗闇の中でうっすらと見えた。
涙はもう出なかった。図書館で、すべて枯れ果ててしまったようだった。代わりに体の芯がまるで氷漬けにでもされたかのように、どんどん冷えていくのを感じる。寒い。八月の熱帯夜のはずなのに寒い。私はベッドの上で体育座りをし、自分の膝をぎゅっと抱きしめた。小さく、できるだけ小さく。まるでこの世界から消えてしまいたいと願うように。
暗闇の中で思考だけが、狂ったように回り続ける。
なぜ私は本気になってしまったのだろう。「風景」でいるという長年かけて築き上げた私の哲学は、どこへ行ってしまったのだろう。彼のほんの少しの優しさにありえない期待を抱いてしまった愚かな自分への、激しい自己嫌悪が黒い泥のように心の底から湧き上がってくる。
「君なら、本気で俺のこと好きになったりしないだろ?」
契約の日の彼の言葉が蘇る。彼は正しかった。彼は私の本質を完璧に見抜いていた。そして私はその彼の期待を、見事に裏切ってしまったのだ。
ただの「興味のない女」ならまだよかった。しかし私は「誰かの代わり」だった。その他大勢ですらない、特定の誰かの影武者。その事実が私のプライドという、かろうじて残っていた最後の砦を根こそぎ破壊していった。「私は私ではなかった」。その認識は自分の存在そのものが否定されるような、絶望的な感覚だった。
暗闇の中で不意に彼に渡されたペンギンのぬいぐるみが目に入った。『水族館の帰りにゲーセンで取った。…やるよ』。そう言って少し照れくさそうに差し出されたあのぬいぐるみ。あれもきっと「ペンギンが好きだったみゆ」を思い出させるアイテムだったから、私に押し付けただけなのだろう。私があの時感じた胸が温かくなるような喜びは、すべて残酷な勘違いだったのだ。そう思うと今まで宝物のように感じていたその存在が、急に醜悪で忌まわしいものに見えてきた。
私はそのぬいぐるみを掴むと部屋の隅にあるゴミ箱に向かって、ありったけの力で投げつけた。ぬいぐるみはぽす、と間の抜けた音を立てて雑誌の束の上に落ちた。
それでも私の心は少しも晴れなかった。むしろ虚しさが募るばかりだ。ぬいぐるみを捨てるという行為は、この偽りの恋心を殺そうとする無駄で滑稽な儀式に過ぎなかった。捨てた後も暗闇の中で、ゴミ箱の中のペンギンがそのつぶらな瞳でじっと私を見つめているような気がして、さらに苦しくなった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
静寂を破って枕元のスマホが震えた。画面には『アカリ』の文字。
出るべきか迷った。今の私のこの惨めな姿を彼女に見せたくなかった。心配をかけたくなかった。アカリは私の唯一の光だ。その光を私のこのどす黒い絶望で曇らせてはいけない。そう思った。
しかしスマホは執拗に震え続ける。このまま一人でいたら私は本当に壊れてしまいそうだった。誰かに助けてほしかった。ここにいるよと叫びたかった。
私は震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、栞奈?大丈夫?今日、なんか元気なかったって図書館の司書さんが言ってたけど…。さっきから電話しても出ないし…」
電話の向こうから聞こえてくるアカリの心配そうな声。そのいつもと変わらない太陽のような声を聞いた瞬間、枯れたはずの涙腺がまた決壊した。
「……アカリ……」
声にならない声が喉から漏れた。
「どうしたの!?何があったの!?泣いてるの!?」
私は嗚咽を漏らしながら今日あったことのすべてを話した。彼が初恋の人を探していたこと。その相手が鈴木みゆという名前であること。そして私がその少女の「代用品」として選ばれたらしいこと。言葉は途切れ途切れで自分でも何を言っているのか分からないほどだったけれど、アカリはただ黙って私の言葉を辛抱強く聞いてくれていた。そしてすべてを話し終えると、電話の向こうで彼女が息を飲む音が聞こえた。
『……はあ!?』
次の瞬間、アカリの怒りに満ちた声が私の鼓膜を突き破った。
『何それ!最低じゃん、月島蓮!あんたのこと、なんだと思ってんのよ!人の心をもてあそんで!私、絶対許せない!明日、学校行ってあいつにガツンと言ってやる!』
「……ううん、いいの」
私はか細い声で答えた。
「私が勝手に勘違いしてただけだから……悪いのは私だから……」
『よくないわよ!なんであんたが謝るの!悪いのは100パーセント、あいつでしょ!人の気持ちに気づかないふりして、自分の都合のいいように利用するなんて人として最低だよ!』
「でも彼は悪気があってやったんじゃないと思う……」
『悪気がないのが一番タチ悪いの!無自覚な刃物が一番人を傷つけるんだよ!』
アカリの言葉は正しかった。でも私はどうしても彼のことを心の底から憎むことができなかった。彼のあの寂しげな横顔を思い出してしまうから。彼もまた親の期待や過去に縛られて苦しんでいるのだと、分かってしまっていたから。
そして何より、そんな彼に本気で惹かれてしまった自分が一番愚かで惨めだったから。
「……もう、いいんだ。もう終わりにしようと思う」
私はぽつりと呟いた。
「この契約、もうやめる。彼にもそう伝える」
『……うん。それがいいよ。あんたがこれ以上傷つくの、私は見たくない』
電話の向こうでアカリの声が少しだけ優しくなった。その優しさがまた私の涙を誘った。
「ありがとう、アカリ。話、聞いてくれて」
「当たり前でしょ。私たちは親友なんだから。……辛くなったら、いつでも電話してきなさいよ。夜中でも、朝方でも。いい?」
「うん……」
アカリとの電話を切った後、私はスマホのメッセージアプリを開いた。そして『月島 蓮』とのトーク画面を表示させる。
『契約の件ですが、やはり私には荷が重すぎるので、終わりにしてください』
そこまで打ち込んで指が止まった。送信ボタンが押せない。
今これを送ってしまえば私はまた元の灰色の壁紙に戻れる。これ以上傷つくこともない。分かっているのに。
でもできなかった。
ここで契約を破棄することは逃げることだ。玲香さんの言った通り「彼の優しさに甘えていただけ」の弱い自分を認めることになる。そして何より彼が探している「鈴木みゆ」という少女に、完膚なきまでに敗北することを意味する。
彼の思い出の中で美化された会ったこともない少女の亡霊に、私は負けたくなかった。
私は打ちかけたメッセージをすべて消去した。
そして代わりにアカリにメッセージを送った。
『ごめん、アカリ。やっぱり私、この契約、続ける』
すぐにアカリから電話がかかってきた。
『どういうこと!?やっぱりあんた、まだあいつのこと……』
「違う」
私は先ほどよりも少しだけ強い声で言った。
「これは恋じゃない。これは私のプライドの問題」
『プライド……?』
「うん。ここで逃げたら私は本当にただの惨めな女の子で終わっちゃう。玲香さんの言う通り、彼の優しさに甘えてただけの人形になっちゃう。それだけは嫌なの」
私はベッドから起き上がり窓を開けた。夜の生温かい風が部屋の中に流れ込んでくる。その風が私の涙の跡を優しく乾かしていく。
「私、決めたんだ」
私は涙をぐいと拭って言った。声は震えていたけれど覚悟は決まっていた。
「最後までこの役を演じきる。偽物の彼女として彼のそばにいて、彼が本当のお姫様を見つけ出すのを手伝ってあげる。それがこのみっともない恋心に、私が与えることができる唯一の弔い方だから。代用品なら代用品らしく、完璧に演じてみせる。そして契約が終わった時、私は胸を張って『風景』に戻るの」
電話の向こうでアカリが息を飲む気配がした。
しばらくの沈黙の後、彼女は深いため息をついた。
『……栞奈……あんた、本当に馬鹿だよ』
その声は怒っているようで、泣いているようにも聞こえた。
『……でも、そういう頑固で不器用なとこが、あんたなんだよね』
「アカリ……」
『……分かった。あんたがそれでいいなら私は何も言わない。でも一つだけ約束して。辛くなったら、いつでも私に言うこと。一人で抱え込まないこと。分かった?』
「うん。……ありがとう、アカリ」
親友のその温かい言葉が凍てついていた私の心に、小さな火を灯してくれた。
電話を切った後、私は静かになった部屋で自分の決意を反芻した。
そしてゴミ箱に投げ捨てたペンギンのぬいぐるみを拾い上げた。その埃を優しく手で払ってやる。
ごめんね。八つ当たりして。
あなたには罪はないのに。
私はそのぬいぐるみをもう一度、机の上の、一番よく見える場所に置いた。
これは戒めだ。
私がただの「代用品」であることを決して忘れないための。そしてこの不器用な戦いを最後まで戦い抜くという、私の決意の証だ。
窓の外が少しずつ白み始めていた。眠れないまま朝を迎えてしまったようだ。
鏡に映った自分の顔はひどいものだった。目は腫れ上がり顔色も悪い。
でもその瞳の奥には昨日まではなかった、微かでしかし確かな光が宿っているような気がした。
それは絶望の淵から這い上がることを決意した人間の、覚悟の光だったのかもしれない。
私はこの夏嘘つきなシンデレラを演じきる。
そして王子様が本当のお姫様と結ばれるのをすぐそばで見届けるのだ。
たとえその結末が私の心を粉々に砕き散らすことになったとしても。
それが私が私であるためのたった一つの戦い方なのだから。
眠れないまま迎えた朝の光はやけに白々しく私の部屋の壁に投げかけられた影をくっきりと浮かび上がらせていた。窓の外からはけたたましいほどの蝉時雨が容赦なく降り注ぎまるで世界の終わりを告げる警鐘のようにも聞こえた。昨夜アカリとの電話を切った後私は一睡もできなかった。暗闇の中で天井の木目をただ見つめながらこれから自分が成すべきこと演じきるべき役柄について何度も何度もシミュレーションを繰り返していた。
ベッドからゆっくりと体を起こす。軋む関節、鉛のように重い四肢。まるで自分のものではない体を無理やり操っているかのようだ。シャワーを浴びるためにふらつく足でユニットバスへ向かう。蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく飛び出しタイルを打つ音が狭い空間に響き渡った。その冷水を頭からかぶり昨夜の熱っぽい絶望を無理やり洗い流そうと試みる。しかし冷たさは肌の表面を滑っていくだけで心の芯で凍りついた感情を溶かすには至らない。むしろ感覚を麻痺させていくようだった。それでいいと私は思った。感情などない方がいい。これからの私には邪魔になるだけだ。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら鏡の前に立つ。そこに映っていたのはひどい顔をした女だった。泣き腫らした目は赤く血の気の引いた唇は青白い。目の下には深い隈が影のように刻まれている。これではダメだと私は首を振った。こんな顔では彼に同情されてしまう。私が欲しいのは同情ではない。私が演じなければならないのは彼の「有能な協力者」であり彼の思い出話に静かに耳を傾ける「都合のいい代用品」なのだから。
私は鏡の中の自分に向かって意識的に「無表情」を作る練習を始めた。まず眉の力を抜く。次に口角の角度を水平に保つ。視線はどこか遠くを見るように焦点を合わせない。感情の痕跡を一つ一つ自分の顔から消していく。それはまるで自分が「人形」になるための冷静で狂気じみた儀式だった。何度も繰り返すうちに鏡の中の私の顔は能面のように感情を失っていった。よしこれでいい。
クローゼットを開け一番当たり障りのないベージュのコットンシャツと紺色のロングスカートを選んだ。風景になるための私の戦闘服だ。着替えを終えた時テーブルの上に置いたスマホがぶと短く震えた。画面には『月島 蓮』の文字。心臓が条件反射でどきりと大きく跳ねる。しかし私はその動揺を深く深く心の底に押し込めた。鏡で練習したあの無表情を顔に貼り付ける。
『今週末、時間あるか』
メッセージはそれだけだった。おそらくあの「鈴木みゆ」という少女を探すための誘いだ。昨日の今日で彼のその無神経さにはもはや怒りすら湧いてこなかった。彼はただ自分の目的に向かって純粋なだけなのだ。その純粋さが人を傷つけることに気づかないほどに。以前の私ならこの短いメッセージにどう返信すべきか何十分も悩んだだろう。しかし今の私は違った。
『はい、あります。何かお手伝いできることはありますか?』
間髪入れず完璧な「協力者」としての返信を送る。句読点の打ち方一つにも私情を挟まないよう細心の注意を払った。送信ボタンを押した指先は少しも震えていなかった。その自分の変化に私自身が少しだけ驚きそして底なしの寂しさを感じた。
土曜日の昼下がり。私たちは駅前のカフェで向かい合っていた。ガラス張りの店内からは夏の強い日差しに満ちた街路樹が見える。私は店に入る前に一度だけ大きく深呼吸をした。大丈夫。私は人形。心なんてない。蓮くんはあの日の図書館と同じようにテーブルの上に古い住宅地図と卒業アルバムを広げた。その光景を見ても私の心はもうほとんど揺れなかった。私はただのビジネスパートナーとして彼の話を聞く準備ができていた。
「急に悪かったな。でもやっぱり一人じゃ限界があってさ。上野さんの力を貸してほしい」
「力なんて。私にできることがあるなら何でも言ってください」
私は練習してきた完璧な笑顔を顔に貼り付けてそう言った。その笑顔がひどく歪んでいることに彼は気づかない。彼は私の言葉を聞いて心から嬉しそうに笑った。
「ありがとう。助かるよ」
その屈託のない笑顔を見るたびに私の胸は錆びたナイフで抉られるように痛んだ。しかし私はその痛みを意識の彼方へと追いやった。これは任務なのだから。
彼はアルバムの中のあの色褪せた写真を指差した。
「これがみゆ。鈴木みゆっていうんだ」
「……はい。存じております」
「こいつとなよく遊んだんだよ。小学校の頃。俺んち親が厳しくてさあんまり外で遊ばせてもらえなかったんだけどみゆの家だけはなぜか許されてた。あいつんちこの地図で言うとこの辺にあったはずなんだ」
彼は赤ペンで印をつけたあたりを指差す。
「みゆはいつも本ばっかり読んでて静かな奴だったけどここの公園のブランコだけはなぜか好きでさ。俺が遊びに行くといつも一人で静かにブランコ漕いでた。俺もよく隣で漕いだっけな……」
彼の言葉の一つ一つが私の心に見えない棘となって突き刺さる。彼の思い出の中の楽しそうな二人の姿が幻のように目の前に浮かんでくるようだ。でも私は決して表情には出さない。ただ完璧な聞き役として穏やかに相槌を打つ。私はテーブルの上のアイスコーヒーのグラスに視線を落とした。水滴がグラスの表面を伝ってコースターに小さな染みを作っている。まるで私の心が流している見えない涙のようだった。
「それでその公園は今もあるんですか?」
私は彼の思い出話を業務的な口調で遮った。彼は少し驚いたように私を見ると
「ああ、そうだな」
と我に返った。
「この辺の地域俺も久しぶりで土地勘がなくてさ。一緒に歩いて俺の記憶が合ってるか確認してくれないか。何か新しい手がかりが見つかるかもしれないし」
「分かりました。行きましょう」
私はすぐに立ち上がった。これ以上このカフェで彼の思い出話を聞かされるのは限界だったからだ。彼の思い出を聞けば聞くほど私という存在がどんどん透明になって消えてしまいそうだった。
夏の強い日差しが照りつける中私たちは古い住宅街を歩き始めた。蝉の声がまるで耳鳴りのように頭の中で反響している。アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませる。蓮くんは子供の頃に戻ったかのようにきょろきょろと周りを見渡しながら歩いていた。
「あ、この坂道! 懐かしいな。ここでみゆが自転車の練習したんだ。あいつ全然乗れなくて半ベソかいてたな……。俺が後ろ持ってやらないとすぐ転ぶんだ」
「この角のポストも変わってない。ここで俺が転校するってあいつに打ち明けたんだ。そしたらあいつ何も言わないでただ俯いてて……。俺なんて声かければいいか分からなくてそのまま逃げるように帰っちまったんだ。今でも後悔してる」
彼の口から紡がれるのはすべて私とは関係のない二人の物語。私はその物語のただの幽霊のような同行者だった。彼の隣を歩きながら私はそこにいるはずのない「みゆ」という少女の幻影を見ていた。私のすぐ隣で蓮くんの話を聞いてはにかむように笑っている彼女の姿を。
最初に訪れたのは彼が言っていた駄菓子屋だった。しかしそこはもうシャッターが固く閉ざされその上には「テナント募集」の寂しい貼り紙があった。シャッターにはスプレーで意味のない落書きがされ郵便受けは錆びついて蜘蛛の巣が張っていた。
「……そっか。もうなくなっちゃったのか」
蓮くんはがっかりしたように呟いた。その肩が小さく落ちている。私は何と声をかければいいのか分からなかった。
次に私たちは公園へと向かった。そこは彼の記憶通りひっそりと存在していた。古びたジャングルジムと錆びついた滑り台。そして二台のブランコ。夏草が生い茂り訪れる人もいないのか公園全体がどこか寂しい雰囲気に包まれていた。
「……あった」
彼は子供のように駆け寄るとブランコの一つに触れた。ぎいと錆びた音が鳴る。
「ここでいつもみゆが本を読んでたんだ。俺が話しかけても全然顔を上げなくてさ。でも俺が背中を押してやると嬉しそうに笑うんだ」
彼はそう言って遠い目をした。そして不意に私の方を振り返った。
「なあ上野さん。乗ってみろよ。俺が押してやるから」
その言葉に私の体は凍り付いた。
乗れと彼は言うのか。このブランコに。鈴木みゆの代わりに。
それは私が最も恐れていたことだった。彼女の影をなぞり彼女の代わりを演じること。
私の最後のプライドがそれを拒絶した。彼にとっては何気ない一言だろう。でも私にとってはそれは私の存在そのものを否定する最後の引き金だった。彼の思い出を汚したくないという歪んだ献身と私が彼女の代わりになることなど絶対にできないという最後の抵抗。その二つの感情が私の中で激しくぶつかり合った。
「……私はいいです」
私はきっぱりと言った。自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「え……?」
蓮くんは意外そうな顔で私を見た。
「どうして? 楽しいぜブランコ」
「……そういう気分ではないので」
私はそう言って彼から視線を逸らした。蓮くんは私のその頑なな態度の真意に気づかないまま不思議そうに首を傾げていた。その鈍感さが私をさらに苛立たせた。
そして最後に訪れたのは鈴木みゆの家があったはずの場所だった。
しかしそこに広がっていたのはただ夏草が茫々と生い茂る空き地だけだった。家の痕跡はどこにもない。ただ古いブロック塀の一部だけが辛うじて残っている。
「……嘘だろ」
蓮くんは呆然と呟いた。その声は絶望に染まっていた。「もう何の手がかりもないのか…」
彼はその場に立ち尽くしただ空き地を見つめていた。その背中はひどく頼りなくそして孤独に見えた。私はそんな彼に何と声をかければいいのか分からなかった。「協力者」として何か励ましの言葉をかけるべきなのだろう。でもどんな言葉も今の彼には届かないような気がした。
諦めて帰ろうとしたその時だった。空き地の隣の家の玄関が開き腰の曲がったおばあさんが出てきた。買い物かごを手に持っている。
蓮くんは何かに吸い寄せられるようにそのおばあさんに駆け寄った。
「あのすみません! 人を探してるんですが!」
彼はカバンから例の色褪せた写真を取り出しおばあさんに見せた。
「この子知りませんか? 昔この隣に住んでた……」
おばあさんはその写真をしわくちゃの手で受け取ると目を細めた。
「……ああこれ……」
おばあさんの顔がぱあっと明るくなる。
「みゆちゃんじゃないか。鈴木さんちのみゆちゃん! 懐かしいねえ」
その言葉に蓮くんの顔に一筋の光が差した。
「よかった……! あの、みゆちゃんは今どこにいるかご存じですか……」
彼が前のめりに尋ねる。しかしおばあさんは少し悲しそうに首を横に振った。
「……あの子たちはねえお父さんの会社が倒産しちゃって…大変だったんだよ。ある晩荷物をまとめて挨拶もなしにどこかへ行ってしまってねえ。夜逃げ同然だったんだよ。それ以来どこにいるんだかさっぱり……」
蓮くんの顔が再び絶望に染まっていく。彼が知っていたのは楽しかった思い出だけ。彼女が抱えていたであろう苦しみや悲しみについては何も知らなかったのだ。その事実に彼自身がショックを受けているのが隣にいて分かった。
私がそんな彼に何と声をかければいいのか迷っているとおばあさんが何かを思い出したようにポンと手を叩いた。
「……ああでもね」
おばあさんは言った。その一言が私たちの運命を大きく変えることになる。
「みゆちゃん毎年一回だけこの街に帰ってくるんだよ」
「え……!?」
「お盆の時期にな。あの子ここの高台にあるお寺に眠ってるおばあちゃんのこと大好きだったから。おばあちゃんのお墓参りに毎年必ず一人で来てるんだよ。今年ももうすぐじゃないかねえ」
お盆。それはもう来週に迫っていた。
私たちは何度も頭を下げてその場を後にした。帰り道彼はうっと黙っていた。しかしその横顔は先ほどまでの絶望ではなく確かな希望の光に満ちていた。もうすぐ会える。長年探し続けた初恋の人に。
私は彼の隣を歩きながら心の中で静かに計算していた。
お盆まであと一週間。
それが私たちの恋の本当の余命。
偽物の恋人として彼の隣にいられる最後の一週間。
私の「代用品」としての役目が終わる運命の日。
心臓が氷水に浸されたように痛い。でも私は笑った。彼に向かってできるだけ明るく完璧な「協力者」の笑顔で笑いかけた。
「よかったですね月島くん。もうすぐ会えますね」
その私の笑顔の裏で心がどれだけ泣いていたかきっと彼は最後まで気づかないだろう。
それでいいのだ。
それが私が決めた私の矜持なのだから。
彼の幸せな結末を見届ける。それが私の最後の任務だった。
運命の宣告を受けた翌日の朝私は奇妙なほどの静けさの中で目を覚ました。あれほど泣き絶望したというのに心はまるで凪いだ湖面のように静まり返っていた。それは諦観にも似た感情の死だったのかもしれない。お盆まであと七日。私の偽りの恋人としての役目そして私の淡い初恋の命日は明確に定められたのだ。終わりが見えるということはある意味でとても楽なことだった。もうありもしない期待に心を揺さぶられることもない。ただ定められた結末に向かって自分の役を完璧に演じきるだけでいい。
ベッドから起き上がりカーテンを開けると夏の強い日差しが容赦なく部屋に差し込んできた。机の上に置かれたペンギンのぬいぐるみと目が合う。それは私が「代用品」であることを忘れないための戒めの証。タンスの奥には母が作ってくれた朝顔の浴衣が眠っている。あれは私が本物の恋をしていたら着ることができたかもしれない叶わなかった未来の象徴。そして私の本棚には現実から逃避するための無数の物語が並んでいる。この小さな六畳の部屋は私の心の縮図そのものだった。
その時スマホが震えた。アカリからだった。
「もしもし栞奈? ……大丈夫?」
電話の向こうから聞こえる声はいつもの太陽のような明るさを潜めひどく心配そうだった。
「うん。大丈夫だよ」
私は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。
「……昨日蓮くんと会って分かったんだ。彼が会えることになったってお盆に」
『……そっか』
アカリはそれ以上何も言わなかった。しかしその短い沈黙の中に彼女の痛いほどの優しさが詰まっているのが分かった。『…あんた本当にそれでいいの? 今からでもやめなって言えるんだよ』
「うん。いいの。私が決めたことだから」
私は窓の外のどこまでも青い空を見上げながら言った。
『……分かった。でも何かあったら絶対絶対に電話してきなさいよ。あんたが泣きたい時は私がいくらでも話聞くし腹が立ったら代わりに月島蓮を殴りに行ってやるから!』
「ふふっ。ありがとうアカリ」
親友の言葉に死んでいたはずの心が少しだけ温かくなった。
火曜日の昼下がり。図書館で本を読んでいると蓮くんからメッセージが届いた。
『今週末最後にどっか行かね?』
その文面に私の指は止まった。「最後」という言葉がやけに強調されているように見えた。これはどういう意味だろう。お盆の前に契約上のアリバイ作りのためのデートをもう一度ということか。それとも彼の中にも何かこの偽りの関係を終わらせることへの名残惜しさのようなものがあるのだろうか。
期待してはいけない。私の頭の中で冷静な自分が警鐘を鳴らす。彼はもうすぐ本物の「お姫様」に会うのだ。この誘いはきっと最後の業務報告かあるいは私という協力者への労いのつもりなのだろう。
「期待しちゃダメだ」と忠告する自分と「もしかしたら彼も何かを感じているのかも」と淡い夢を見てしまう弱い自分が心の中でせめぎ合う。
私はその不毛な内的対話に終止符を打つように息を止めて返信を打った。
『はい。どこへ行きますか?』
あくまで彼の指示を待つ受動的な協力者として。私には何も望む権利などないのだから。
すぐに彼から返信が来た。
『海。……静かなとこがいい』
その短い言葉に私はまた胸の奥をかき乱された。なぜ海なのだろう。なぜ静かな場所を望むのだろう。彼らしくないその選択の裏に何か特別な意味を探してしまう自分を私は止められなかった。
そして週末がやってきた。最後になるかもしれないデートの日。
アカリはいつものように私の部屋にやってきた。
「最後のデートなんでしょ……。どんな顔して行けばいいのよもう……」
彼女は私以上にこの状況に心を痛めてくれているようだった。
「最高の姿で行って月島蓮に後悔させてやんなさい! あんたをただの代用品としてしか見れなかった自分の目の節穴さを!」
そう言ってアカリはクローゼットから彼女が以前持ってきてくれた華やかな服を引っ張り出そうとした。
しかし私は静かに首を振った。
「ううん。いつもの私でいい。……ううん一番『風景』みたいな服で行く」
「栞奈……?」
「これが本当の私だから。彼が見ているのはどうせ私じゃない。だったら私は最初から最後までただの風景でいればいいの」
それは私の悲壮な決意表明だった。私は自分のクローゼットの中から最も色が無く最も目立たない白に近いグレーのワンピースを選んだ。それは私が「風景に戻る」という決意の象徴だった。
アカリは何も言えなかった。ただ悔しそうに唇を噛み締めながら私の髪をいつもよりずっと優しく丁寧に梳かしてくれた。
電車を乗り継いで向かったのは観光客もまばらな寂れた海水浴場だった。夏の盛りだというのに海の家は一軒しか開いておらず砂浜には私たち以外に数組のカップルがいるだけだった。
車窓からきらきらと光る海が見えてきた時も私たちはほとんど話さなかった。ただ時折電車の連結部分がガタンと音を立てるたびに私たちの肩がほんの少しだけ触れ合う。その微かな接触だけが私たちが同じ空間にいることを証明しているかのようだった。
砂浜に並んで座り私たちはただ寄せては返す波を眺めていた。ざあという波の音と遠くで鳴く海鳥の声だけが二人の間の沈黙を埋めていた。
しばらくして彼がぽつりと呟いた。
「……ガキの頃よく親父に連れてこられたんだ。ここの海」
彼はどこか遠くを見つめながら語り始めた。
「仕事ばっかりで全然家にいなかった親父が年に一回だけ俺のために時間作ってくれるのがこの海だった。……でも結局ここでも仕事の電話ばっかりしててさ。俺は一人でずっと砂遊びしてた。親父に褒めてほしくてでっかい城作るんだけどあいつは電話が終わったら『おおすごいな』って一言言うだけで全然見てくれないんだ。あんまいい思い出じゃねえけどな」
彼の家族の話を私は初めて聞いた。彼の完璧な笑顔の下には私の知らない満たされない子供時代の物語が隠されているのだろう。
「俺には自由がないんだ。昔からずっと」
彼は砂の上に指で『じゆう』と書いた。
「医者の家系でさ。親父もおじいちゃんもみんな医者。俺も当然そのレールの上を歩くもんだと思われてる。バスケも勉強も読者モデルも全部親が喜ぶから俺の経歴に箔がつくからやってるだけ。本当は全部辞めちまいたい」
その衝撃的な告白に私は言葉を失った。太陽みたいに輝いて見えた彼が本当はがんじがらめに縛られて息苦しさを感じていたなんて。
「みゆは自由だったんだ」
彼は続けた。その声は少年のような響きをしていた。
「あいつの家貧乏だったけどいつも楽しそうだった。くだらないことで腹抱えて笑ってさ。俺はそんなあいつが羨ましかった。そして好きだった。あいつといる時だけ俺は月島家の跡取りでも優等生でもなくただの『蓮』でいられたから。……だから探してたのかもしれない。みゆをっていうよりあの頃の自由だった自分を」
彼はそこで言葉を切ると私の方をまっすぐに見た。
「……でもこの夏お前といるとかなんかそれとは違う意味で息がしやすかった。演じなくていいっていうか……。君の前だと格好つけなくていいっていうか……楽なんだ。なんでだろうな」
彼のその言葉は私にとって最も甘くそして最も残酷な言葉だった。私の心は喜びと悲しみでぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。彼の特別な存在に少しだけなれているのかもしれないという喜び。でもそれは彼が本当に求めている「みゆ」とは違うのだというどうしようもない悲しみ。
夕暮れが浜辺をオレンジ色と紫色に染め上げていく。私たちは波打ち際をゆっくりと歩いた。
彼が立ち止まり砂浜に何かを書き始めた。それは私の名前『栞奈』という二文字だった。そしてすぐに寄せてきた波がその文字を跡形もなくさらっていった。まるで私の存在そのものを消し去るかのように。
「……なあこの契約やっぱりやめとくか?」
彼が海を見つめたまま呟いた。それは水族館の時よりもずっと切実な響きを持っていた。
「君の願い事を俺は本当に叶えていいのか分からなくなった。君を『忘れさせる』ことなんて多分俺には無理だ。それに……」
彼は一度言葉を切りそして決心したように続けた。
「……俺が忘れたくないのかもしれない。君のことを」
その言葉に私の心臓は大きく痛いほどに跳ね上がった。全身の血が沸騰するかのようだ。それはほとんど告白に近い言葉だった。
期待してはいけない。舞い上がってはいけない。私の頭の中で最後の理性が警鐘を鳴らす。彼はもうすぐ本物の初恋の人に会うのだ。これはきっとその前に生まれたただの迷い。私という代用品への哀れみか同情か。
私はここで彼の迷いを断ち切らなければならない。彼が罪悪感なくまっすぐに「みゆ」さんの元へ行けるように。それが私が演じると決めた「完璧な代用品」の最後の役目なのだから。
それは彼に対する私なりの最後の優しさでありそして私自身の恋心を殺すための儀式だった。
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「契約は最後まで。それが私たちの約束ですから。月島くんはあなたの初恋の人に会うべきです。そして私も私の願いをあなたに叶えてもらわなければなりません」
私はできるだけ事務的に感情を殺してそう言った。
彼の言葉を聞いて彼はひどく傷ついたような顔をした。そして何かを諦めたように
「……そうか。そうだな。契約だもんな」
と力なく笑った。
最後の帰り道電車の中私たちはもう話さなかった。しかしその沈黙は言葉以上に多くの感情を含んでいた。窓ガラスに映る自分の顔はひどくやつれていた。隣に座る彼の横顔を盗み見る。彼はただ暗い窓の外をじっと見つめていた。
私はこれが彼と二人きりで過ごす最後の時間だと悟っていた。彼の横顔、窓に映る自分の顔、電車の揺れ。そのすべてを目に体に焼き付けようとした。
駅の改札で別れる時彼は私に背を向けたまま小さな声で言った。
「じゃあな」
「……はいさようなら」
それが私たちの最後の挨拶だった。何の変哲もないいつもの挨拶。しかし二人ともそれが永遠の別れになるかもしれないことを心のどこかで理解していた。
彼の背中が雑踏の中に消えていくのを私はいつまでも見つめていた。
これで私の夏は終わったのだ。
あとは運命の日を静かに待つだけだった。
お盆の日曜日。私のそして私の淡い恋の命日。
アラームが鳴るよりずっと早く午前四時半私は目を覚ました。窓の外はまだ深い藍色に沈みひんやりとした夜の名残が部屋の空気に溶けている。けたたましく鳴いていたはずの蝉の声も今は嘘のように静まり返っていた。世界が活動を始める前の束の間の静寂。私はその静寂の中でじっと天井の木目を見つめていた。
昨夜も眠れなかった。目を閉じるとこの夏に起こった出来事がとりとめもなく浮かんでは消えていく。初めて彼に腕を掴まれた体育館裏の感触。映画館の暗闇で感じた彼の気配。夜空を彩った花火の光と私の頬をかすめた彼の指先の熱。それらは偽物だと分かっていてもあまりにも鮮やかで甘美でそして今はひどく痛ましい思い出だった。
奇妙なことに私の心は凪いでいた。あれほど私を苛んだ絶望や自己嫌悪は嵐が過ぎ去った後のように今は静まっている。それは諦観にも似た感情の死だったのかもしれない。今日すべてが終わる。結末が分かっている物語を読むのはとても楽なことだ。もうありもしない期待に心を揺さぶられることもない。ただ定められた最後のページに向かって自分の役を完璧に演じきるだけでいい。死刑執行を待つ囚人の朝はきっとこんな感じなのだろうと場違いなことを思った。
ゆっくりと体を起こす。軋む関節、鉛のように重い四肢。まるで自分のものではない体を無理やり操っているかのようだ。シャワーを浴びるためにふらつく足でユニットバスへ向かう。蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく飛び出しタイルを打つ音が狭い空間に響き渡った。その冷水を頭からかぶり昨夜の熱っぽい絶望を無理やり洗い流そうと試みる。しかし冷たさは肌の表面を滑っていくだけで心の芯で凍りついた感情を溶かすには至らない。むしろ感覚を麻痺させていくようだった。それでいいと私は思った。感情などない方がいい。これからの私には邪魔になるだけだ。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら鏡の前に立つ。そこに映っていたのはひどい顔をした女だった。泣き腫らした目は赤く血の気の引いた唇は青白い。目の下には深い隈が影のように刻まれている。これではダメだと私は首を振った。こんな顔では彼に同情されてしまう。私が欲しいのは同情ではない。私が演じなければならないのは物語の結末を静かに見届ける名もなき観測者なのだから。
私はクローゼットを開けた。そこには先日アカリが「最後のデートだから」と言って半ば強引に置いていった華やかなワンピースがいくつか掛かっていた。しかし私はそれに目もくれず一番奥に押し込んでいた一枚のワンピースを手に取った。白に近い薄いグレーの何の飾り気もないシンプルなワンピース。私が持っている服の中で最も色が無く最も「風景」に近い服。これは私の弔い服だ。この夏ほんの少しだけ色づいてしまった心を殺し元の灰色の壁紙に戻るための決意の儀式だった。
それに袖を通しバッグに荷物を詰めていく。いつも読んでいる文庫本。財布とハンカチ。そして机の上に置いてあったペンギンのぬいぐるみをそっと手に取った。このぬいぐるみはこの夏の嘘で塗り固められた出来事の中で唯一彼が「私自身」を見てくれた(と私が愚かにも勘違いした)瞬間の証だ。この恋の始まりから終わりまでを最後まで見届ける義務がこの子にはあるような気がした。私はその小さな体をバッグの奥深くにしまい込んだ。
玄関のドアノブに手をかける。ひやりとした金属の感触。その向こう側には今日の運命の舞台が待っている。本当に、行くのか?今からでも引き返せる。この部屋に閉じこもってすべてが終わるのを待つこともできる。私の心の中で臆病な自分が最後の抵抗を試みる。しかし私はその声を振り払うようにゆっくりとドアノブを回した。行かなければならない。この目で結末を見届けなければ私はこの夏を永遠に終わらせることができないだろうから。
扉を開けると夏の生温かい空気が私の肌を撫でた。じりじりと肌を焼く太陽の光がやけに眩しい。今日この世界で一つの恋が終わりそして一つの恋が始まるのだ。その壮大な物語の中で私はただの名もなき観測者に過ぎない。
電車に揺られながら窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。住宅街が過ぎビルが並び子供たちの声が響く公園が見える。夏休みの家族連れ楽しそうに笑い合うカップル。そのすべてが私とは違う世界の住人のように見えた。私は透明な壁で隔てられた水槽の中から外の世界を眺めている深海魚のようだった。
私の頭の中ではこの夏休みの記憶が痛みを伴いながら次々とフラッシュバックしていた。カフェの窓から見えた街路樹が今日の景色と重なる。あの時彼は私の好きな本を知っていると言った。それは彼ではなく「みゆ」が知っていたことだったのに。水族館へ向かう時に見た海が車窓の向こうに広がる。あの時「静かな場所がいい」と言ったのはきっと私にではなく思い出の中の「みゆ」に語りかけていたのだろう。夏祭りの夜の喧騒が今日の電車の静寂の中で幻聴のように蘇る。花火の光に照らされた彼の横顔。あの時彼は私の向こうに誰を見ていたのだろう。
一つ一つの思い出を私は心の中で丁寧に冷徹に「殺して」いく。そうしなければ私は今日のこの残酷な結末を正気で見届けることができないだろうから。
駅からお寺へと続く長く急な坂道を一歩一歩踏みしめるように登る。心臓がまるで鉛の振り子のように重くそして大きく揺れていた。蝉の声がまるで耳鳴りのように頭の中で反響している。じっとりとした汗が首筋を伝いワンピースの襟を湿らせた。風に乗って線香の匂いが微かに鼻をかすめた。死と再生の匂い。今日という日にあまりにもふさわしい。この坂道はまるで私の恋心の断頭台へと続く道のようだった。
境内に到着したのは約束の時間の三十分も前だった。お盆の日曜日ということもあり境内にはちらほらと墓参りに来た人々の姿があった。私は誰にも見つからないように墓地全体を見渡せる大きな銀杏の木の影にそっと身を潜めた。ここが私の「最後の観客席」。ここからなら墓地へと続く一本道がよく見える。太い幹に背中を預けるとごつごつとした樹皮の感触が薄いワンピース越しに伝わってきた。土の匂いと木々の葉が揺れる音だけが私の周りの世界を構成していた。
時間がひどくゆっくりと流れていく。一秒が一分のように長い。心臓の鼓動だけがやけに大きくそして早く私の耳の奥で鳴り響いていた。何度ももう帰ってしまおうかという衝動に駆られた。こんな残酷なショーをわざわざ最前列で見届ける必要などない。でも足は地面に根が生えたように動かなかった。私はこの物語の結末を見届けなければならない。それが「完璧な代用品」としての私の最後の任務なのだから。私は物語の結末を見届けるためのただの語り部に過ぎない。
そして正午。お寺の鐘がごおんと重々しく鳴り響き時間の到来を告げた。その瞬間私の心臓も鐘の音に合わせて大きく脈打った。
彼が現れた。
白いシャツに黒いスラックス。いつもよりずっと大人びて見えるその出で立ち。彼は墓地へと続く道の入り口に立ち落ち着かない様子で何度も腕時計を確認したり道の向こうに視線をやったりしている。彼が腕時計を見るたびにその長い指が夏の光を反射してきらりと光る。彼は無意識に自分の髪を何度もかきあげていた。それは彼の緊張と期待の表れなのだろう。彼がどれほどこの再会を待ち望んでいたか。その純粋な想いが痛いほどに伝わってくる。
時間が一分また一分と過ぎていく。彼は次第に焦りの色を顔に浮かべ始めた。もしかしたら彼女は来ないのかもしれない。そんな考えが私の頭をよぎる。もしそうなったらこの物語はどうなるのだろう。彼の初恋は永遠に思い出のまま完結しないのだろうか。それは彼にとって幸せなことなのだろうかそれとも…。
その時だった。
道の向こうから一人の女の子がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
白い風に揺れるワンピース。陽光を反射して艶やかに輝く長い黒髪。肩には小さなショルダーバッグをかけている。間違いない。写真で見た鈴木みゆさんだ。
彼女はどこか儚げで知的な雰囲気をまとっていた。しかしその足取りはしっかりとしており凛とした佇まいは彼女がただのか弱い少女ではないことを示している。私にはないもの。私が持ちえなかったもの。そのすべてを彼女は持っているように見えた。彼女こそが「本物」なのだ。
彼女も誰かを探しているようにきょろきろと周りを見渡している。やがて彼女の視線が月島くんの姿を捉えた。彼女の目が大きく見開かれる。足がぴたりと止まった。
「……蓮くん……?」
か細いしかし凛とした声が風に乗ってここまで聞こえてきたような気がした。
月島くんも彼女に気づいた。彼は息を飲んだまま固まっている。
「……みゆ……?」
時が止まった。蝉の声も風の音も墓参りに来た人々の話し声もすべてが消え去ったようだった。世界にはただ二人だけしか存在しない。
二人は吸寄せられるように互いに歩み寄っていく。そして数メートルの距離で足を止めた。
何を話しているのかは聞こえない。
でも私には見えた。
彼の顔が今まで私には一度も見せたことのない心からの魂が解放されたような表情で綻んでいくのを。それは学校で見せる完璧な王子の笑顔でも読者モデルとして作るプロの笑顔でもそして私といる時に時折見せた悪戯っぽい少年のような笑顔でもなかった。まるで失われた半身を見つけ出したかのような絶対的な安堵と純粋な喜びに満ちた本当の笑顔。
彼女の顔も同じだった。驚きと懐かしさとそして再会できたことへの喜びがその表情をきらきらと輝かせている。
二人の周りだけ空気が違う色をしていた。物語の中の奇跡のワンシーンのようだった。王子様とお姫様の再会。完璧なハッピーエンド。
ああやっぱり彼の本当の居場所はあそこだったんだ。
私がいた場所なんて最初からどこにもなかったんだ。
彼のあの笑顔を見た瞬間私がこの夏必死に築き上げてきた覚悟の壁は音を立てて崩れ落ちた。堪えていた涙が堰を切ったように静かに頬を伝っていく。感情を殺したはずなのに体は正直に反応していた。涙は熱くそしてしょっぱかった。
もう見ていられなかった。
胸が張り裂けそうだった。
私の役目は終わった。これ以上ここにいてはいけない。シンデレラは魔法が解ける前に舞踏会を去らなければならないのだ。
私は誰にも気づかれないようにそっとその場から踵を返した。木の幹を伝うように音を殺してゆっくりと。
涙で視界が歪む中お寺の長い石段を駆け下りる。下駄ではないのに足がもつれて何度も転びそうになった。
さようなら月島くん。
さようなら私の嘘つきな夏休み。
そう心の中で何度も何度も別れを告げた。
どこへ行くあてもなく私はただバス停で最初に来たバスに飛び乗った。窓の外を流れていく景色を涙で濡れた瞳でただぼんやりと眺める。気がつけばバスは市立図書館の前に停まっていた。そうだここが私の聖域。私の本当の居場所。ここでならまた元の壁紙に戻れる。
閲覧室の一番奥の席。私の定位置に亡霊のように静かに座る。バッグからあのペンギンのぬいぐるみを取り出しぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿だな私……」
声にならない声で呟いた。
期待なんてするんじゃなかった。本気になんてなるんじゃなかった。
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて机の上に小さな染みを作っていく。もう彼が私を見つけてくれることはない。これで本当に本当に終わりなんだ。
私の夏は今日この場所で静かに終わった。
あとは灰色の日常がまた始まるだけだ。
そう思っていた。
その瞬間までは。
※
目の前にみゆが立っていた。
何年も何年も夢にまで見た光景。俺の記憶の中のあの俯きがちだった少女が少し大人びた顔立ちになってそこにいた。白いワンピースが夏の強い日差しを反射して彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。
「……蓮くん……?」
その声は記憶の中のそれよりも少しだけ低く落ち着いていた。でも間違いなく彼女の声だった。
「……みゆ……?」
俺は自分の口から掠れた声が出たのを聞いた。心臓が早鐘を打っている。やっと会えた。この夏俺がずっと追い求めてきた俺の初恋の亡霊に。
私たちはぎこちなく歩み寄り数メートルの距離で立ち尽くした。何を話せばいいのか分からなかった。あまりにも長い時間が私たちの間に横たわっている。
「久しぶり。元気だった?」
先に口を開いたのはみゆの方だった。
「ああ。……みゆも」
「うん。……大きくなったね蓮くん。背すごく伸びたんじゃない?」
「まあな。バスケやってるから」
「そっか。バスケ続けてるんだ。すごいね」
彼女は昔と変わらない穏やかな笑顔でそう言った。その笑顔を見た瞬間俺の心の中に温かいものがじわりと広がるのを感じた。そうだ。俺はこの笑顔に会いたかったんだ。
私たちは近くの木陰に並んで腰を下ろしぽつりぽつりと失われた時間を埋めるように話し始めた。彼女が引っ越した後のこと、新しい学校でのこと、そして今彼女がどんな夢を持っているか。彼女は俺が知らない間にたくさんの経験をして強くそして美しい女性になっていた。
俺も自分の話をした。バスケのこと、学校のこと。そして親との確執のこと。誰にも話したことのなかった俺の心の奥底にある息苦しさをなぜか彼女の前では素直に話すことができた。
「……そっか。蓮くんも大変だったんだね」
みゆは静かに相槌を打ちながら俺の話を聞いてくれた。その優しさがひどく心地よかった。
しかし話せば話すほど俺は心の中に奇妙な違和感が生まれているのを感じていた。
目の前にいるみゆは確かに俺がずっと探していた女の子だ。でも何かが違う。俺の心は再会の喜びに満たされているはずなのにどこか冷静でそして満たされない部分があった。目の前の彼女と話していても頭の片隅で別の誰かの顔がちらつくのだ。いつも困ったように眉を下げてでも芯の強い目で俺を見るあの横顔が。
その答えは不意に全く別の形で俺の前に現れた。
「そういえば蓮くん」
みゆが不意に言った。
「さっきあそこの木の陰に女の子がいなかった?蓮くんが私に気づく前にさっと隠れたみたいだったけど」
「え……?」
その言葉に俺の心臓はどきりと大きく跳ねた。まさか。そんなはずはない。
「白いグレーっぽいワンピースを着てて……。髪の長いすごく儚げな感じの子。蓮くんのお友達?」
上野さんだ。
なぜ彼女がここに?
その問いが遅ればせながら雷のように俺の頭を撃ち抜いた。
俺に会いに来たのか?違う。俺は彼女を呼んでいない。
まさか。
まさか彼女は俺がみゆと会うのを知っていてここに来たのか?
どうして。
いや違う。俺が彼女をここに連れてきてしまったのだ。俺の初恋の物語の残酷な結末をその目で見届けさせるために。
血の気がさあっと引いていくのが分かった。全身の毛が逆立つような悪寒が走る。
あの海での最後のデートの光景が脳裏に鮮明に蘇る。
『契約は最後まで。それが私たちの約束ですから』
そう言って悲しいくらいに完璧な笑顔で俺を突き放した彼女。あの時俺は彼女の心の奥にある悲鳴に気づかないふりをした。自分の弱さから目を逸らした。彼女のあの言葉は俺を気遣っての最後の優しさだったのだ。俺が罪悪感なくみゆとの再会を果たせるように。
俺はなんて馬鹿なことをしたんだ。
彼女はどんな気持ちで俺とみゆが再会するのをあの木の陰から見ていたのだろう。彼女の優しさを俺は土足で踏みにじったのだ。
「くそっ……!」
俺は自分の髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
すぐにスマホを取り出し履歴から『上野栞奈』の名前を探す。指が震えてうまくタップできない。三度目の試みでようやく発信ボタンを押した。
耳に当てたスマホから無機質な呼び出し音が響く。
一回。
二回。
頼む出てくれ。
三回。
四回。
ぶつりと音が切れ留守番電話サービスに接続されたことを告げる冷たいアナウンスが流れた。
「ちくしょう……!」
もう一度かける。結果は同じだった。
メッセージアプリを開き必死で文字を打つ。
『どこにいる?』
『さっきは悪かった』
『話がしたい。頼むから連絡してくれないか』
送信ボタンを押すがメッセージの横にはいつまで経っても「既読」の文字がつかない。彼女は俺からの連絡を完全に拒絶している。
その事実が俺の焦りをさらに煽った。
俺は境内をむやみやたらに走り回った。本堂の裏、手水舎の陰、駐車場。しかしあの儚げなグレーのワンピースの姿はどこにもなかった。蝉の声がやけにうるさく聞こえる。夏の熱気が今はひどく息苦しい。じっとりとした汗が背中を伝っていく。それは暑さのせいだけではなかった。
どうすればいい。彼女はどこへ行ってしまったんだ。
このまま彼女を失ってしまうのか。
あの静かな瞳もはにかむような笑顔も俺だけに見せてくれたあの不器用な優しさも。すべて。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その時俺の脳裏に一つの名前が閃光のように浮かんだ。
佐藤あかり。
彼女のたった一人の親友。彼女なら何か知っているかもしれない。
俺はバスケ部のマネージャーに無理を言って聞き出した彼女の番号を震える指で呼び出した。これが最後の望みだった。
数回のコールの後電話は繋がった。
『もしもし?』
警戒心に満ちた快活な声。
俺はぜえぜえと切れる息を整えながら叫ぶように言った。
「月島だ。佐藤さんか?上野のことなんだが……!」
『……あんたが栞奈に何の用?』
電話の向こうで彼女の声が一瞬にして氷点下にまで下がったのが分かった。
「いなくなったんだ!さっきまで近くにいたはずなのに!どこに行ったか知らないか!?」
『はぁ!?』
アカリさんの声が怒りで震えている。
『あんたのせいでしょ!全部!あの子がどんな思いであんたの茶番に付き合ってたかあんたに分かるわけないよね!代用品にされてボロボロになるまで傷つけられて!それでもあんたのために健気に振る舞って!そんな子をあんたは最後の最後まで踏みにじったわけ!?』
「代用品」。
その言葉がアカリさんの口から明確な非難として突きつけられた瞬間俺は自分が犯した罪の重さを本当の意味で理解した。俺は彼女の存在そのものを自分の都合のいいように利用し踏みにじったのだ。
俺は何も言い返せなかった。アカリさんの言う通りだったからだ。
「……悪かった」
俺の口から漏れたのはそんなありきたりな言葉だけだった。
「俺が全部馬鹿だった。だから……だから会って謝りたいんだ。それだけじゃ許されないって分かってる。でも伝えなきゃいけないことがあるんだ。頼む。あいつが一人でいそうな場所どこか心当たりはないか……」
俺はプライドも何もかも捨てて彼女に懇願した。
電話の向こうで長い長い沈黙が流れた。アカリさんが葛藤しているのが伝わってくる。
やがて彼女は深いため息と共に吐き捨てるように言った。
『……あんたみたいな自己中男に本当は教えたくないけど…』
「……」
『あの子が本当に独りになりたい時に還る場所なんてもう一つしかないじゃない。あんたがズカズカと踏み荒らしたあの子のたった一つの聖域よ』
聖域。その言葉に俺は息を飲んだ。
『……図書館。市立図書館の二階の一番奥の席。……もうあんたのせいでそこも聖域じゃなくなったかもしれないけどね!』
ガチャンと一方的に電話は切られた。
俺はスマホを握りしめたままその場に立ち尽くした。
アカリさんの言葉が脳内で何度も反響する。「聖域」「踏み荒らした」。
そうだ。俺は彼女の世界に土足で踏み込んだのだ。彼女が必死で守ってきた静かで穏やかな世界を。
後悔が津波のように押し寄せてくる。でも今はそれに浸っている時間はない。
図書館。
その言葉だけを道しるべに俺は再び走り出した。
お寺の石段を二段飛ばしで駆け下りる。
待っててくれ上野さん。
俺がどれだけ愚かで馬鹿だったか。そして俺の本当の気持ちがどこにあるのか。
今から伝えに行くから。
絶対に君を一人にはしない。
アカリさんのその言葉だけを道しるべに俺は全力で走り出していた。お寺の長く急な石段を二段飛ばしで駆け下りる。足がもつれて転びそうになるのも構わずただ前へ前へと体を押し進めた。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱気。肺が焼け付くような痛み。心臓が肋骨の内側で狂ったように暴れ回っている。バスケの試合で走り込むのとは訳が違う。あれは勝利という明確な目標に向かうための計算された疾走だ。しかし今の俺はただ焦燥と後悔に突き動かされるまま無様にがむしゃらに走っているだけだった。
街の風景が猛烈な速さで後ろへと流れていく。蝉の声、車のクラクション、商店街のスピーカーから流れる安っぽい音楽。それらすべてが俺の耳には届いていなかった。俺の頭の中ではただ一つの名前が何度も何度も反響していた。
上野さん。栞奈。
俺はこの夏彼女の名前を心の中で一体何回呼んだだろう。そしてそのどれもが本当の彼女を見ていなかった。
最初に駆け抜けたのは古い住宅街だった。狭い路地、日に焼けたトタン屋根、軒先に並んだ植木鉢。見覚えのある風景。そうだここは数週間前彼女と一緒にみゆの家を探して歩いた場所だ。
角を曲がるとあの公園が見えてきた。錆びついたジャングルジムと二台のブランコ。夏草が生い茂り今はもう誰も遊んでいない。
俺は思わず足が止まりそうになるのを必死でこらえた。
鮮明にあの日の光景が蘇る。
『なあ上野さん。乗ってみろよ。俺が押してやるから』
そう言って無邪気に彼女を誘った愚かな俺。
彼女はひどく傷ついたようなそれでいてすべてを諦めたような目で静かに首を振った。
『……私はいいです』
『どうして? 楽しいぜブランコ』
『……そういう気分ではないので』
あの時俺は彼女のその頑なな態度の意味が全く分からなかった。ただ少し機嫌が悪いのかなくらいにしか思っていなかった。
馬鹿だ。俺は本当に救いようのない馬鹿だ。
彼女は拒絶していたのだ。俺が彼女をみゆの「代用品」として扱おうとしたことを。彼女の最後のプライドをかけて俺の無神経な要求を全身全霊で拒んでいたのだ。その悲痛な叫びに俺は気づくことすらできなかった。
後悔が鋭いガラスの破片となって心臓に突き刺さる。ごめん。ごめん上野さん。俺は走りながら声にならない声で謝罪を繰り返した。
公園を抜け大通りに出る。息が切れ足が鉛のように重い。しかし止まるわけにはいかなかった。
ふと視線の先に大きな神社の鳥居が見えた。夏祭りの夜。あの日の記憶が鮮やかな色彩と共に脳裏に蘇る。
人混みの中はぐれないようにと咄嗟に掴んだ彼女の華奢な腕。その驚いたような感触。
慣れない下駄で歩く小さな後ろ姿。
金魚すくいに夢中になって子供のようにはしゃぐ横顔。
そして花火。
夜空に咲く大輪の光に照らされた彼女の浴衣姿。うなじに残されたおくれ毛がやけに艶めかしくて目を逸らせなかったこと。
髪についた木の葉を取ってやろうとしてその指先が彼女の柔らかい頬に触れてしまったあの瞬間。
どきりと心臓が大きく跳ねた。それはみゆへの郷愁とは全く違う未知のそして抗いがたい引力だった。俺はあの時確かに彼女に惹かれていた。でもその正体不明の感情に動揺し怖くなって咄嗟にスマホを取り出して写真撮影という「業務」の裏に隠れてしまったのだ。
『#来年も』
SNSに何の気なしにつけたあのハッシュタグ。来年なんてあるはずもないのに。俺は自分の心に芽生え始めた感情から目を逸らすために無意識にこの偽りの関係が続くことを望んでしまっていたのかもしれない。そしてその軽率な言葉が彼女をどれだけ傷つけたことか。
「くそっ……!」
俺は走りながら自分のこめかみを殴りつけた。
どうしてもっと早く気づかなかったんだ。自分の本当の気持ちに。
駅前のロータリーが見えてきた。もう図書館まではあと少しだ。
駅ビルの側面には巨大なシネコンの看板が掲げられている。初デートの場所。
あの日のことも昨日のことのようにはっきりと覚えている。
『……あれ見たいんだろ? 顔に書いてある』
そう言って彼女が見つめていたフランス映画のチケットを買った時のこと。正直俺はああいう地味な恋愛映画には全く興味がなかった。でも彼女がどんな物語を好きなのか知りたかったのだ。
映画館の暗闇の中隣に座る彼女の緊張した気配。ふとした瞬間に触れ合った腕。その度に俺の心臓はうるさいくらいに鳴っていた。
そしてカフェでのあの写真。
『……君の見てた映画。俺も原作好きだったんだ』
それは嘘ではなかった。偶然にもその本は昔みゆに勧められて読んだことがあったのだ。でもあの時俺がその事実を口にしたのはみゆの思い出を語りたかったからじゃない。ただ目の前で緊張で顔をこわばらせている彼女を笑わせてやりたかった。その一心だった。
そして俺の言葉に彼女がふと花が綻ぶように笑ったあの瞬間。
俺は生まれて初めて誰かの笑顔をこんなにも愛おしいと思った。
あの写真に写っていたのは偽物の恋人なんかじゃなかった。ぎこちなくでも確かに心を寄せ合い始めた二人の男女の姿だったのだ。
あの写真。そうだあの写真は母親や玲香を欺くためのただのアリバイ工作ではなかった。あれは俺にとっての宝物だった。スマホの待ち受けには設定できないけれどフォトフォルダの一番奥にしまい込んで夜中に一人で何度も何度も見返していた。彼女のあのはにかむような笑顔を。
そうだ。俺は最初から気づいていたのかもしれない。
彼女がただの「代用品」ではないことに。
彼女の静かな瞳の奥にある強さと優しさに。
俺はずっと惹かれていたのだ。
でも俺はそれを認めるのが怖かった。親の期待、玲香のこと、そしてみゆという過去の亡霊。それらすべてから逃げるために俺は無意識に彼女を「都合のいい契約相手」という箱の中に閉じ込め自分の本当の気持ちに蓋をしていたのだ。
図書館のガラス張りの入り口が見えてきた。
最後の力を振り絞りラストスパートをかける。
胸が張り裂けそうだ。足がもう感覚がない。
でもそんなことはどうでもよかった。
間に合ってくれ。
まだそこにいてくれ。
もし彼女がいなかったら?もし彼女がもう二度と俺の前に現れてくれなかったら?
その想像が恐怖となって俺の全身を駆け巡る。
失って初めて気づく。彼女が俺にとってどれだけ大きな存在になっていたか。
風景なんかじゃない。彼女は俺の世界の中心だった。
自動ドアをてこじ開けるようにして館内になだれ込む。
「走らないでください!」
受付の司書の制止の声が聞こえる。でも俺はそれを無視して閲覧室へと続く階段を駆け上がった。
二階の一番奥の席。
アカリさんが言っていた彼女の聖域。
そこに彼女はいた。
机の上に突っ伏して小さな背中をか細く震わせている。
その姿を見た瞬間俺の心は安堵とそしてどうしようもないほどの罪悪感でぐちゃぐちゃになった。
俺はこの世界でたった一つの聖域をめちゃくちゃに踏み荒らしてしまったのだ。
ごめん。
ごめん上野さん。
でももう逃げない。
俺は震える足で彼女の元へと最後の一歩を踏み出した。
一歩また一歩と彼女に近づいていく。閲覧室の静寂の中で俺の革靴の音だけがやけに大きく響いた。彼女の席まであと数メートル。机の上には読みかけで伏せられた文庫本と彼女の小さな筆箱が見える。そして彼女のバッグの中からあの俺が渡したペンギンのぬいぐるみが顔を半分だけ覗かせていた。その光景がまるで鋭いナイフのように俺の胸を突き刺した。彼女は俺が「代用品」として渡したと知っているかもしれないあのぬいぐるみをそれでも捨てずに持っていてくれたのだ。
彼女の肩が嗚咽を殺すように小さく不規則に揺れている。その背中はあまりにも華奢で頼りなくて今にも消えてしまいそうだった。俺が彼女をここまで追い詰めた。俺の身勝手な契約が俺の鈍感さが彼女の心を粉々にしてしまったのだ。
謝罪の言葉も言い訳の言葉も喉の奥で塊になって出てこない。ただ胸を締め付けるような痛みと彼女を失いたくないという本能的な恐怖だけが俺の全身を支配していた。
俺は彼女の隣に立つと震える手を彼女の肩に伸ばしかけた。
しかしその指先が触れる寸前で俺は手を引っ込めた。
今の俺に彼女に触れる資格などない。
代わりに俺の口から飛び出したのは自分でも思ってもみなかった怒鳴り声にも似た叫びだった。
「馬鹿! 勝手にいなくなるなよ!」
その声は静かな閲覧室に不釣り合いに大きく響き渡った。怒っているようで泣きそうにも聞こえるひどく情けない声だった。
彼女の背中の震えがぴたりと止まる。
ゆっくりと本当にゆっくりと彼女が顔を上げた。
そして俺は息を飲んだ。
彼女の顔は涙と絶望でぐしゃぐしゃだった。赤く泣き腫らした瞳、血の気の引いた唇。その瞳には俺の姿が映っているはずなのにまるで何も見えていないかのように焦点が合っていなかった。ただ深い底なしの虚無だけがそこにあった。
「……どうして私がここにいるって……」
か細い掠れた声が彼女の唇から漏れた。
その問いが俺の心に突き刺さった最後の理性の楔を粉々に砕いた。
「わかるに決まってんだろ!」
俺は彼女の机に両手をつき身を乗り出した。机がガタンと大きな音を立てる。
「俺が俺がこの夏ずっと見てたのは誰だと思ってんだよ!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。
「忘れられるわけないだろ! 俺が好きになったのは過去の思い出なんかじゃなくて今目の前にいるお前なんだってなんでわかんないんだよ!」
※
その必死の叫び。
それは私が今まで聞いたどんな言葉よりも甘くそして切ない告白だった。
私の頭の中は真っ白だった。
「みゆには全部話した。お前のことも俺の本当の気持ちも。そしたらあいつ笑ってこう言ったんだ。『今の蓮くんすごくいい顔してる。その子絶対に離しちゃダメだよ。昔の私じゃなくて今の蓮くんを幸せにしてくれるのはその子だよ』って」
彼は私の両肩を掴んだ。その手は熱く震えていた。
「だからお願いだ。どこにも行くな。俺のそばからいなくなるな……! 俺の隣で笑ってくれ……!」
嘘つきな彼からのたった一つの本当の言葉。
その言葉が私の心の一番深い場所にすとんと落ちてきた。
ずっと灰色の世界に一人で蹲っていた私を見つけ出してくれた。その温かい喜びに涙が溢れて止まらなかった。
「……私も」
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のままそれでも必死に彼を見て言った。
「私も蓮くんが好きです」
その言葉を口にした瞬間私の灰色の世界が一瞬にして鮮やかな色に包まれていくようだった。
「……じゃあ契約成立だな」
彼が悪戯っぽく涙の跡が残る顔で笑う。
「え……?」
「君の願い事まだ聞いてない。最後の、一番大事な契約が残ってる」
そうだ。忘れていた。契約の最後の条項。
「……じゃあ」
私は言った。私のたった一つの本当の願い事。
「私の願い事は…私が卒業するまで学校中の誰よりも私のことを見つけ出してください」
「……見つけ出す?」
「はい。私はもう壁紙じゃありません。風景でもありません。上野栞奈です。だから蓮くんが毎日私を見つけて私の名前を呼んでください。それが私の願い事です」
彼は一瞬きょとんとした顔をしたがやがてくしゃりと顔を綻ばせた。それは私が今まで見たどの笑顔よりもずっと素敵で本当の笑顔だった。
「……なんだよそれ。簡単な願い事だな」
彼はそう言うと私の手を強く固く握りしめた。
「約束する。毎日必ず君を見つける。世界のどこにいても」
八月三十一日。
長くそして短かった夏休みが終わる日。
私はアラームが鳴るよりもずっと早く部屋に差し込む柔らかな朝の光で目を覚ました。昨日までのすべてを焼き尽くすかのような猛烈な日差しではなくどこか優しく新しい季節の訪れを予感させるような穏やかな光だった。窓の外からはあれほどけたたましく鳴り響いていた蝉の声に代わって涼やかな風が木々の葉を揺らす音が聞こえる。
昨日の出来事がまだ夢の中の出来事のように私の意識の周りをふわふわと漂っていた。
図書館のあの静寂。司書の驚いた顔。そして息を切らし汗だくで感情をむき出しにして私の名前を叫んだ彼の姿。
『俺が好きになったのは過去の思い出なんかじゃなくて今目の前にいるお前なんだ』
あの言葉が私の耳の奥で何度も何度も優しいこだまのように繰り返される。そのたびに私の心臓はきゅっと甘く締め付けられ頬が熱くなるのを感じた。
私はゆっくりと体を起こし机の上に置かれたペンギンのぬいぐるみを手に取った。昨日までは私を縛り付ける「戒めの証」だったこのぬいぐるみ。でも今は違う。そのつぶらな瞳はまるで「よかったね」と私に微笑みかけてくれているようだった。これはこの夏の嘘で塗り固められた出来事の中で彼が初めて私自身に向けてくれたたった一つの「真実」の贈り物だったのだ。私はその小さな体をぎゅっと胸に抱きしめた。
ベッドの脇に脱ぎ捨てられた昨日のグレーのワンピースが目に入る。私の弔い服。風景に戻るための儀式の衣装。もうこの服を着ることはないだろう。私はそのワンピースを丁寧に畳むとクローゼットの一番奥にそっとしまった。さようなら昨日の私。
その時枕元のスマホがぶぶと優しく震えた。
画面に表示された『月島 蓮』の文字に私の心臓は昨日とは全く違う意味で大きく跳ねた。
恐る恐るメッセージを開くとそこには短い言葉が並んでいた。
『今日、会える?』
たったそれだけの六文字。
これまでの業務連絡のような命令形ではない。私の都合を尋ねる優しい疑問形。その単純な事実が私の心をどうしようもなくときめかせた。私たちの関係が本当に変わったのだということを何よりも雄弁に物語っていた。
以前の私ならこのメッセージにどう返信すべきか何時間も悩んだだろう。でも今は違った。私は微笑みながらためらうことなく指を動かした。
『はい。会いたいです』
送信ボタンを押した瞬間すぐに既読の文字がつき返信が来た。
『じゃあ十一時にいつもの場所で』
『いつもの場所』。その言葉が私たちの間に生まれた新しい合言葉のように思えて私はまた一人で顔を赤らめた。
支度を始めていると今度はアカリから電話がかかってきた。
『もしもーし! シンデレラはお目覚めかな!?』
電話の向こうから聞こえてくる声はいつもの太陽のような明るさに満ちていた。
「アカリ……おはよう」
『おはよー! てかもう聞いたからね! 昨日の夜月島くんからわざわざお礼と報告の電話があったんだから! 全く律儀な王子様なんだから!』
「えそうなの!?」
『そうよ! あんたのことよろしく頼むってさ! 私あんたの親友っていうか、もはやお母さんの気分よ!』
アカリは電話の向こうで泣き真似を始めた。
「ああうちの栞奈がやっと……!」
その大げさな振る舞いに私は思わず笑ってしまった。
『よかったね栞奈。本当に、よかった……!』
一転して彼女の声が涙で震えているのが分かった。
「うん……。ありがとうアカリ。今までずっと支えてくれて」
『当たり前でしょ! 私たち親友なんだから! ……で? 今日会うんでしょ?』
「うん。十一時に」
『よーっし! じゃあ今日はどんな服着てく!? 最高のやつ選んでや……』
「ううん」
私は彼女の言葉を優しく遮った。
「今日は自分で選ぶ。……ありがとうアカリ」
電話の向こうでアカリが息を飲むのが分かった。そして一瞬の沈黙の後彼女は本当に嬉しそうにこう言った。
『……うん! 行ってきなさい栞奈!』
クローゼットを開ける。そこには相変わらず色のない服とアカリが置いていってくれたカラフルな服が混在していた。私はその中から一枚の白いコットンワンピースを手に取った。それは夏休みの初めにアカリが「これなら栞奈でも着れるでしょ」と言って半ば無理やり買わされたものだった。その時は自分には似合わないと思っていたけれど今の私にはこの真っ白なワンピースが一番しっくりくるような気がした。
新しい物語を始めるのにふさわしい色だと思ったから。
約束の場所である駅前の噴水広場。
夏休みの初めに私が震える足で偽りのデートのために訪れたあの場所。
私が着くと彼はもう噴水の縁に腰掛けて待っていた。黒いTシャツにダメージジーンズ。あの日と同じ格好。でも彼の雰囲気はあの時とは全く違って見えた。
彼をいつも取り巻いていた人を寄せ付けないような「完璧な王子様」のオーラが今は消えている。サングラスもかけていない。ただ少しだけ緊張した面持ちでぼんやりと噴水の水しぶきを眺めていた。その姿はどこにでもいる普通の男の子に見えた。
私が近づいていくと彼は私に気づき立ち上がった。そしてはにかむように少しだけ照れたように笑った。
それは私が今まで見た彼のどの笑顔よりもずっと素敵でそして本当の笑顔だった。
「よお。……待った?」
「ううん今来たとこ」
私たちは、ぎこちなく、そんなありふれた会話を交わした。何を話せばいいのか、お互いに分からなかった。偽物の恋人として過ごした時間は、決して短くはなかったはずなのに、本当の恋人として向き合う、この最初の数秒間は、まるで初めて会った時のように、ぎこちなくて、新鮮だった。
「……行くか」
彼が、そう言って、私に手を差し出した。
私は、一瞬ためらった後、おずおずと、その手に自分の手を重ねた。彼の大きな手が、私の手を、優しく、しかし、力強く包み込む。指が、ゆっくりと絡み合う。その温かさが、私の心に、じんわりと広がっていく。私たちは、手をつないだまま、あてもなく、歩き始めた。
私たちは、ただ、歩いた。駅前の喧騒を抜け、川沿いの遊歩道へ。
会話は、途切れ途切れだった。でも、その沈黙は、少しも気まずくなかった。ただ、隣に彼がいること、彼の手の温かさを感じられること。それだけで、私の心は満たされていた。
しばらく歩いた後、彼が、ぽつりと言った。
「……悪かったな。この夏、ずっと」
「ううん……」
「俺、本当に、馬鹿だった。自分のことばっかりで、お前が、どんな思いで俺に付き合ってくれてたか、全然、分かってなかった」
「……私も、悪かったところ、いっぱいあるよ。もっと早く、自分の気持ち、ちゃんと言えばよかった」
「言えるわけないだろ。あんな状況で」
彼は、そう言って、私の手を、さらに強く握りしめた。
「本当に、ごめん」
その声は、心からの、謝罪の響きを持っていた。私は、首を振った。
「もう、いいの。全部、終わったことだから」
「……そうだな」
彼は、そう言って、少しだけ、寂しそうに笑った。
私たちは、近くの公園のベンチに腰を下ろした。それは、夏祭りの夜に、私たちが花火を見た、あの神社の近くの公園だった。
彼は、近くの自動販売機で、缶コーヒーを二つ買ってきた。
「ほら」
渡された、微糖のコーヒー。それは、カフェで飲んだ、お洒落なパフェなんかより、ずっと、ずっと、美味しく感じられた。
私たちは、しばらく、子供たちがはしゃぐ声を遠くに聞きながら、黙ってコーヒーを飲んでいた。
「明日から、どうする?」
彼が、不意に、そう切り出した。
「え?」
「学校。……気まずいだろ、色々」
彼の言う通りだった。明日から、学校が始まる。私たちの関係は、学校中に知れ渡っている。そして、そのほとんどは、悪い噂だ。私が、蓮くんをたぶらかした、とか。どうせすぐ別れる、とか。その視線の嵐の中に、また戻らなければならないのかと思うと、正直、怖かった。
私の不安を見透かしたように、彼は言った。
「俺が、お前を見つけるから。毎日。だから、もう隠れなくていい」
「……でも」
「約束だろ? それが、お前の、新しい願い事なんだから」
彼は、そう言って、悪戯っぽく笑った。
「朝、教室まで迎えに行く。昼休みは、屋上で一緒に弁当食おう。帰りも、一緒に帰る。文句、あるか?」
「……それは、目立ちすぎるよ……」
「いいんだよ、目立って。もう、お前を、風景になんてさせてやらない。俺の彼女なんだから、堂々としてろ」
その、少し強引で、でも、不器用な優しさに、私の胸は熱くなった。
「私の夏休みは、今日で終わり」
夕日が、公園の木々を、オレンジ色と紫色に染めていく。私たちは、帰り道、もう一度、手をつないでいた。
「でも、」
私は、彼の顔を見上げて、続けた。
「私たちの物語は、今日から始まるんだね」
私の言葉に、彼は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、くしゃりと顔を綻ばせた。
「……ああ。そうだな」
私たちは、駅の改札で別れた。
「じゃあ、また明日。学校で」
「うん。また明日」
それは、夏祭りの夜の、あの切ない別れとは全く違う、温かくて、確かな、未来への約束だった。
家に帰り着き、自分の部屋の窓から、夕焼け空を眺める。
私の灰色の世界は、彼と出会って、鮮やかな色に染め上げられた。
風景だった私は、もういない。
ここにいるのは、月島蓮くんの、本当の彼女になった、上野栞奈だ。
明日から始まる、新しい物語。きっと、また、傷つくこともあるだろう。面倒なこともあるに違いない。
でも、もう、私は一人じゃない。
彼の隣でなら、きっと、どんな嵐も乗り越えていける。
私は、机の上のペンギンのぬいぐるみに、そっと微笑みかけた。
私たちの、嘘から始まった夏休みは、終わった。
そして、本当の恋が、今、始まったのだ。
永遠に、続いていく、私たちの物語が。

