「道花、どう?」

 その声にはっとなる。現実に引き戻されて観客席を眺め、夢から覚めたみたいにぼうっとして、そのまま莉央のほうを見た。

「ごめん、圧倒されてた……」
「あはは」

 莉央は笑い、それから笑顔を引っ込めた。

「まあこんだけ大規模だと、会いたくない相手がいても大丈夫かもね」
「うん、思った」

 観客席はうす暗くなっていて、よほどしっかり見ないと顔なんて分からない。会っても背筋を伸ばしていたいなんて言っておきながら、気づかれないと思うとほっとした。

「でも、よかった。念のためあのへん座ろっか」
「うん、ありがとう」

 チケットは自由席だ。莉央が同じ大学らしき人たちが集まっているところは避けて、離れた端の席へ進んでくれる。椅子に座ると、ほっと息が漏れた。

「高校のウインターカップみたいな感じかと思ってた。舐めてたな。こんなに人が来てるんだね」
「あ、でも対戦カードによっても違うのかも。お姉ちゃん、今日のはもう自由席も取れないって言ってた」
「あ、え、どこだっけ」
「えーと、上城(かみじょう)大学と立誠(りっせい)大学だって」

 莉央がそう言ってチケットを差し出して見せてくれる。道花の動きは、そこでまたぴたりと止まった。

(……待って)

 本当に、頭が回っていない。
 バスケの強豪校。プロを目指す人間が、絶対に選択肢に入れる進学先。バスケの推薦で入れるのは一握りだが、道花のいた高校からも進学実績があった。

『プロ、目指そうと思ってる』

 あいつ(・・・)は、そう言っていなかっただろうか。進路をどうするのか、大学をどこに決めたのか。あの時からそんな会話ができる状態ではなくなって、結局そのあと彼がどうしたのかを、何も知らない。
 あの時から道花は彼を避け、バスケに関する情報は完全にシャットアウトした。自分の身を守るために。
 道花の胸がざわめいているのをよそに、その瞬間、大音量の音楽とともに、会場の照明がちかちかと瞬いた。
 一瞬の暗転から、直後、ドラマティックにコートが照らし出される。
 わくわくするような光と音楽の演出に、隣で莉央が「わー!」と声を上げた。

「始まるね!」

 道花の覚悟が定まる間もなく、スターティングメンバーがコートに歩み出る。その中の一人を見て、道花は、今度こそ呼吸が止まりそうになった。

(げん)……」
「えっ?」

 口から(こぼ)れた名前に、莉央がばっとこちらを向く。

「えっ、誰かいた? どこ!?」
「あそこ、に……」

 呆然と下を指差す道花に、莉央がぎょっとなった。

「コート? ええ!? 選手ってこと!?」

 道花はこくりと頷いた。
 視線の先では、記憶よりさらに体格の良くなった彼が、ぶらぶらと首や手首を動かしている。ほかの選手に引け目をとらない背の高さ。目つきは少し悪くて、でも高校からファンも多かった整った顔。

「ど、どれ?」
「六番。水上(みなかみ) 舷……」
「ええっ!? 水上選手……っ」

 なぜかおそるおそるという様子で聞いてきた莉央が、大げさなほど仰け反る。その驚き方が、まるで何かに心当たりがあるみたいな反応だったので、首を傾げた。

「知ってるの?」
「お姉ちゃんがファンでさ、水上くんと若葉(わかば)くんは目に焼き付けてきて! って言われてたんだ」
「そう、なんだ」

 ファン。推し選手。その言葉をもう一度反芻して、下に目を遣った。
 シューティングガード。高校時代から変わらない舷のポジションだ。スリーポイントシュートや、ドリブルによってディフェンスエリアに切り込み、得点を奪う。いわゆる花形ポジション。
 
 ――インカレ準々決勝。大学二年生で、強豪立誠大学のシューティングガード。

(すごすぎる)

 くらりとした。
 もう、全く別世界の人間だ。

「高校の同級生……ってことだよね?」
「うん。舷……水上くんが男バスのキャプテンで、私が女バスのキャプテンだったんだ」

 莉央がこちらの様子を気遣いながら聞いてくれているのが分かる。

「やめる時に、ちょっと、水上くんともいろいろあって」

 あの時まで、仲は良かった。一緒に帰ったことは何度もあるし、舷とバスケの話をするのは楽しかった。きっと、舷も同じように感じてくれていたと思う。
 でも、道花はぶつかった問題と上手く闘えなかった。
 舷がそんな道花をもどかしく思い、それが徐々に苛立ちに変わっていって……。
 逃げるという選択肢しかなくなった時、舷と言い争いになって、そこで、二人はもう絶対に分かり合えないことが明確になった。
 道花は弱かった。舷にそれが許せないなら、離れるしかない。

 こちらを見る、あの幻滅した目。
 それを思い出して、ぎゅうっと胸が痛くなった。
 舷のプレーを、冷静に見る自信がない。

 その時、ホイッスルが鳴った。ティップオフだ。
 審判が投げたボールに、目が吸い寄せられる。