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 闇バイトが社会問題になっていた。それによる強盗や詐欺があちこちで多発している。
 殺す相手を探すこと以外でSNSを使用することのない彼には、どこか遠い話のように思えた。余裕があるとは言えないが、これと言って困窮しているわけでもないからかもしれない。
 簡単な作業で、楽な仕事で、尚且つ日給が何万や何十万など、明らかに怪しいと言わざるを得ないのに、それでも応募してしまう人は多いらしい。そこには様々な事情や経緯があるのだろう。見れば見るほど胡散臭いそれに応募するなどあり得ない、と何も知らない第三者が一方的に馬鹿にするわけにはいかなかった。自分は引っかからないと慢心するのは危険である。
 もし自分が血迷って応募してしまったら。上から強要される強盗や詐欺を働くことに前向きにはなれないが、その要求が殺人であれば、自分は意気揚々と実行してしまうに違いない、と彼は闇バイトについて書かれた雑誌の記事を眺めながら思った。組織の捨て駒であることは少し癪だが、与えられた仕事が強盗でも詐欺でもない殺人なら喜んで引き受けてしまう自信がある。
 しかしながら、誰かに人を殺させるのであれば、いくら金がかかってもその道のプロである殺し屋に依頼するだろう。金を奪うことが目的である強盗や詐欺とは違うのだ。よって、闇バイトで殺人を要求される率は低いのではないか。
 彼は記事を流し読みする。現在進行形で仕事中だったが、今の時間は客が一人もいなかった。日付が変わって数時間が経過した深夜である。明かりがついている家はほとんどないと言っていい。
 店内清掃や棚整理などの一通りの仕事は終わり、朝までに出す必要のある商品が納品されてくるまでは、しばらく暇な時間が続く。一緒のシフトである店長もレジで暇そうにしている。店長がそうなのだから、少しの立ち読みくらい許してもらわなければ割に合わない。難癖をつけて、彼はページを捲った。
 強盗殺人についての記載があった。闇バイトに応募した若者複数人が実行役として高齢者の自宅に押しかけ拘束し、暴力を駆使して金銭の場所を吐かせ、奪い、挙げ句の果てには殺害した胸糞悪い事件である。
 犯人は逮捕されたようだが、実行役に指示した上役以上の者からすればそれは想定内だろう。やはり捨て駒なのだ。組織に金を上納してくれさえすれば、実行役が逮捕されようが取るに足らないことなのだ。組織そのものを摘発しない限り、いたちごっこである。
 見えない場所で警察が日々闘っているのだろうが、未だ進展はなかった。闇バイトとは別で、彼自身が犯している罪に関しても同様で、現時点では警察に接触されるようなことはなかった。
 警察は危険な職の一つだ。刑事にでもなれば、狂った思想や狂った性癖などを持った凶悪な犯罪者や、裏社会の暴力団組織、麻薬組織、詐欺組織などを相手にすることもあるのだから、心休まる日などないのではないか。危険と隣り合わせであると分かっていながら、その職に就こうとする人たちは尊敬に値する。人を助けることよりも殺すことが好きな時点で、正義感の欠片もない彼には不向きすぎる仕事だった。警察官や刑事になりたいなどと憧れたこともなかった。
 相手に了承を得て殺害したことが判明しても、それに目を瞑ってくれるはずもない警察関係者は、彼にとって漏れなく全員警戒すべき敵と成り果てていた。怪しまれないように、疑われないように。しがないコンビニ店員を演じ続ける。
 いつまでそうしていられるかは判然としないが、できるだけ長く、誰からもスポットライトを浴びずに、影でひっそりと生きていきたい。何の取り柄もない自分には、それが合っている。それが普通である。
 例え複数の殺人を犯していようとも、社会に溶け込めていれば、変に浮くことはない。挙動不審になることなく堂々としていた方がいい。様子のおかしい人間は、嫌でも目立ち、記憶にも残り、誰からも忌避されてしまうのだ。
 レジでぼんやりとしている店長と二人きりの店内に、客の来店を知らせる曲が響いた。雑誌コーナーは出入り口のすぐ近くだ。
「いらっしゃいませ」
 彼はマニュアル通りの挨拶をしながら、手にしていた本を閉じて棚に戻した。その後、何食わぬ顔をして仕事をしているふりをする。
 入って来た客を一瞥した。若い男である。茶色に染めた髪を無造作に遊ばせているその見た目からは、彼よりも少し年下の二十代前半に見えた。付き添いはいない。
 男はカゴを持って飲料コーナーへ向かった。ほとんど吟味することなく、適当な酎ハイを何本も入れていく。買い溜めにしても多すぎるのではないか。
 一人で飲む量とは思えなかったため、友人と集まって徹夜でパーティーでもしているのだろうと彼は推測した。年齢に大きな開きはないだろうが、男は自分よりも身長が高く、体躯もよく、飲酒をして徹夜をしても体力は有り余っていそうだった。
 横目で男の様子を窺うと、その顔が少しだけ赤く火照っていることに気づく。予想通り酒を飲んでいるようだが、飲む量のコントロールはできているのか、足取りはそれほど悪くはない。悪くはないからこそ、気になることがある。
 彼は駐車場に顔を向けて目を凝らした。見た限り、自分や店長の自動車以外で、車やバイクなどは停まっていない。流石にそこまで羽目を外してはいないらしく、テレビだったり配信された動画だったりで目にすることのある迷惑系の人間ではないようだ。
 世の中には、所謂迷惑系YouTuberという者がいるようだが、人に迷惑をかけてまで誰かに見てもらおうとするその心理が彼には理解できなかった。文字通り、迷惑極まりない承認欲求である。
 何か珍しいことがあればすぐにスマホで撮影して投稿する時代だ。酎ハイをカゴに入れている茶髪の男が飲酒運転をしていたとして、もしそれで事故でも起こせば、深夜であっても好奇心旺盛な野次馬が多数集まるだろう。スマホを向けられるのは想像に難くない。飲酒運転で事故、などとタイトル付けされた動画は瞬く間に拡散され、事故を起こした若者は誹謗中傷に晒される。顔の見えない誰かのストレスの捌け口にされる。
 悪いことをした人には、いくらでも攻撃をしてもいいというような風潮があった。客観的に見て、殺人鬼と言わざるを得ない彼もまた、起こした事件が公になってしまえばその対象になってしまうに違いない。
 こっちは死にたがっている人間の望みを叶えるために殺しているだけなのに。殺すようお願いされてから殺しているのに。相手に許可を貰ってから殺しているのに。無差別でも怨恨でもないのに。
 酒を飲んでいても判断力が低下しているほどではない男が、レジに商品を持って行く様子を彼は遠慮もなく眺めた。カゴの中には酎ハイだけでなく複数のつまみも入れられていた。
 それまで暇そうにしていた店長の表情や態度が、瞬時に客用のそれに切り替わる。丁寧な所作で商品のバーコードを通していく店長と、スマホと財布を手にして静かに待っているほろ酔い気味の男を尻目に、彼は棚の整理をしている風を装った。綺麗にしてからは、彼以外まだ誰も触っていなかった。
 会計が終わり、店長がマニュアルに沿った言葉を口にする。男はレジ袋も購入したようで、歩く度にガサガサとナイロンの擦れる音がしていた。缶が何本も入っているためかなりの重量があるはずだが、長身の男の体格がいいのもあってか、全く重そうに見えなかった。
「ありがとうございました」
 男が店を出る時に、店長と同様、お決まりの台詞を彼も声に乗せる。見送られた男は振り返ることなくコンビニを離れ、深夜の道を徒歩で帰って行った。
 やはり気持ちいい程度の酔いなのだろう。目に見えて分かるほどのふらつきはなかった。迷惑をかけない酒飲みなら、警察沙汰になることもなさそうである。
「さっきのお客さん、身長あったし体つきも良かったから、ちょっとだけ威圧感あったね」
 店内を彷徨いてからレジに入ると、緩い口調の店長が暇を潰すように雑談を始めた。仕事中に客について話すことはあまり良いとは言えないが、店内に客の姿はない。関係ない誰かに聞かれる心配はなかった。
「そうですね」
 彼はレジに置いてある椅子に腰掛けながら頷いた。そうしながら、共感して相手に気持ちよく話をさせようとする癖がここでも発揮されてしまったことに気づいたが、共感した側から否定的な返答に訂正するのも違う。頷くだけ頷いたものの、先は続けなかった。
 彼は店長と違って、例の客に威圧感までは覚えていなかった。店長は大人の男性にしては小柄な体型である。男とは頭一つ分以上の身長差があった。目の前に立たれたら、相手の意図はなくとも圧を感じてしまうのは致し方ないだろう。
「お酒飲んでるなと思って警戒したけど、酔ってる人特有の面倒臭さというか、態度の悪さというか、そういうのはなかったから安心したよ。あれで変に絡まれたり高圧的に迫られたりしてたら怯んじゃいそうだった」
 そう言いながらも、店長はにこにこと笑みを浮かべている。彼に対して緊張も警戒もしている様子はない。怪しく思われてはいないということだ。
 元々穏やかな店長は彼に気を許してくれているようだが、彼自身は心を開きすぎないようにしていた。それは店長だけでなく、他の仕事仲間でも同じである。あまり踏み込まれすぎないように、ある程度の距離感を保つよう常に意識しているのだ。
「大体は優しいお客さんですが、中には店員を下に見ている人もいますからね」
「本当、すぐ見下す人は困っちゃうよね」
 笑んでいた顔が、困り顔に変わる。嫌な記憶を呼び起こさせてしまっただろうか。
 店長は責任者である。部下が対処しきれなかった厄介な客は、上へ上へと送られる。店長から見れば勤続年数の短い彼よりも、難しい客の対応をしてきたことは多いはずだ。その苦労が、ハの字に下がった眉から窺えた。
 肩書などない彼がどこにでもいる理不尽なクレーマーに運悪く当たってしまった時は、冷静に相手をしながら冷静に殺していた。上辺では下手に出ながら、頭の中では殺処分する想像をしていた。
 裏で殺人に手を染めている彼であれば実際に殺すことも可能だが、それはしない。行き当たりばったりの殺人は墓穴を掘るだけである。その代わりに、心の中で呪詛は唱えていた。
 お前みたいなクレーマーは死んだ方がいい。死ね。不運な事故にでも遭って死ね。さっさと死ね。一秒でも早く死ね。今すぐ死ね。悶絶しながら死ね。
 この客はもう手に負えないとなれば、内に秘めた殺意を振り翳して殺すのではなく、自分の上司に相談して変わってもらうことが仕事の上では正解だ。勝手な判断で勝手な行動をしてはならない。殺害するなど言語道断である。
「夜は変質者が活発に動き始める時間帯だよ。朝や昼とはまた違うクレーマーが来ることもあるから気をつけないとね」
 店長が彼に笑いかけた。一緒に働いている男が殺人鬼だとは微塵も思っていないであろう朗らかな笑みだった。
 そうですね、気をつけます、と当たり障りのない返答をする彼の素性を、店長は知らない。その変質者に、彼も当てはまることのある夜があることを、店長は知らない。
 ポーカーフェイスの裏で思いながらも、彼は店長の気分を良くさせようと従順なふりをして頷いた。
 悪く思われないように本音を隠し、彼は害のない普通の人間を演じ続ける。コンビニ店員という役を演じることで、怪しまれることなくできるだけ安全に人を殺すことができるのだ。殺すことをやめるという考えは、彼にはなかった。
 店長との雑談は長くは続かず、二人してレジに居座ったまま会話のない時間が過ぎ去った。その間に来店してきた数少ない客は、彼が責任を持って捌いた。礼を口にしてくれる良質な客だった。夜に目を覚ます変質者が訪れるようなイレギュラーは起きずに済みそうである。
 今日も平穏無事に終えられそうだと踏んだその後は、大型トラックの運転手によって運び込まれてきた商品を受け取り、淡々と陳列していくいつもの作業に取りかかった。
 彼は黙々と手を動かす。商品を丁寧に扱い、丁寧に置く。店長も別の売場で同じ作業を繰り返す。彼よりもいくらか手際が良かった。ゆるゆるしていながらも、そこはやはりベテランである。埋められない年数の差があった。
 一人の客が来店する。いらっしゃいませ、の声が店長と被ったが、珍しいことではない。いちいち顔を見合わせることはしなかった。
 彼は出入り口に目を向ける。仕事の開始時間から闇に包まれていた外に色が付き始めている。その日の仕事もラストスパートであった。
 そして、彼が自殺を志願していた女を殺害してから、彼の身には何事もなく一日以上が経過していたのだった。