臆病なきみに綴る彩りの言葉

「これが手紙の真相」

 先輩が力なく言った。

「家で生徒手帳がないことに気付いて、正直かなり焦った。もう学校は開いてなかったから、翌朝誰よりも早く行って落とし物も確認したけど届いてない。盗られたか、ろくでもないやつに拾われて、手紙のことが学校中に広まる可能性も考えた。そしたら、昼休みに来てくれるんだもんな」

 うさぎの遊具がぎこちなく軋む。そこに軽く腰掛ける先輩は色が変化し始めた冬の空に攫われてしまいそうだ。
 向き合うかたちでパンダの背に乗る私は口を開くことができなかった。先輩にしては珍しく、伏し目がちに語られた過去の出来事。それがこれまでの先輩の行動一つ一つと紐づいていくにつれて、私の胸を締め付けていったのだ。
 臆病な私の手を引いて、背中を押してくれた人。
 その頼もしさの裏にこんなにもつらい過去が隠れていたなんて。そんなことも知らずに私は先輩にひどい言葉をたくさんぶつけてしまった。あのとき先輩は一度も口を挟まなかったけど、一体どんな気持ちで耳を傾けていたのだろう。
 外見に恵まれている人のほうが苦労は少ないに決まってるなんて、そんなはずがないことは莉央ちゃんの近くにいた私なら知っていたはずなのに。それすらも忘れてしまうほど私は過去の経験に囚われて、自分の殻に閉じこもっていたんだ。
 こんな自分が心の底から情けなくて、悔しい。
 だって、想像すらできなかった。あの日、カフェで小林くんと会ってから、先輩はずっと——

「……あの……聞いてもいい、ですか?」
「ん?」
「どうして『手紙が一番大事』なんて……」
「ああ……」

 先輩はおもむろに黒いダウンのポケットから左手を出した。そこには久しぶりに見る紺色の生徒手帳が握られている。
 遅れて出された右手も使って裏表紙を丁寧にめくると、弓なりにしなる本体の紙に逆らうようにピンと立つ紙が現われた。四つ折りだというのに、押し花のようにぺったんこになっている。

「一つは、戒め」

 その紙を——便箋をそっと抜き取って、枯葉に触れるような手つきで開いていく。

「俺が余計なことしなければ、手紙があんな風になることもなかった」
「でも、それは——」
「もう一つは、希望」

 私の言葉を遮ってでも伝えたかったのだと、その揺るぎない口ぶりが言っている。

「き、ぼう……?」
「見限られても勉強をがんばってたのは、両親に見てもらいたかったから。自分を悪だと責めたのは、あいつらの血を引いてると実感して絶望したから。俺はどう足掻いてもあいつらから離れられない。そう思ったんだ。でも、『ここで言わなかったら、ずっと変われない』。あのときのあの子の……出井の言葉と声が忘れられなかった」
「え……?」
「めちゃくちゃ震えてんのに覚悟決まってるもの聞かされて、影響されないわけないだろ」
「そっ……えっ……?!」

 優しい笑顔に、ほんの少し照れくさそうな雰囲気を添えて、夜空でもっとも明るい月のような声に包まれた言葉は、冬の寒さで冷え切った耳や頬にみるみる熱を集めていく。
 あわあわと視線を泳がせる私に「ふっ」と小さく噴き出した先輩は、やがて懐かしむような表情で続けた。

「正直、卒業式から数日はかなり落ちてた。でも、頭ん中で出井の言葉を繰り返してて気付いたんだ。“変わる”ってなにも打破するだけじゃない。一歩引いて、自分に降りかかってくるものを、上手く躱してもいいんじゃないかって」
「躱す?」
「周りからの、特に親と異性からの要求全部に向き合う必要も、応えられないことにいちいち傷付く必要もない。これだけやって上手くいかないなら、ただ合わないだけで俺の良し悪しの問題じゃないだろって思った。それからは親のために勉強するのも、恋愛に時間を割くのもやめた。自分の心に従って、やりたいことしかやらない。出井の手紙は、いや、あの告白も全部だな。俺にそう気付くきっかけをくれた。だから、一番大事」
「…………っ」

 無駄じゃなかったの?
 熟考を重ねてようやくたどり着いた告白の手段も、文面も、同じ学校の生徒の目を忍んで選んだ場所も。意図した相手には一切伝わらなかったけど、それでも無駄じゃなかったっていうの?
 長らく深い闇で覆われていた失恋の記憶。そこに光を注いでもらった気がして、たまらず私は口を開く。

「後悔……してますか?」

 私とは対照的に先輩の表情はまだ晴れない。
 「先輩」じゃない「高石理世」という一個人(ひと)の過去を知ってしまったら最後、もうこれまでと同じ関係ではいられない。それをわかっていて私はこの人を公園(ここ)に呼んだ。
 でも、「全部……どんなことでも、聞きますから……」先輩と合流して第一声、そう言った私の覚悟は全然足りていなかった。小林くんの本当の顔を知るということは、そこに居合わせた先輩の気持ちをも知るということ。
 それがどれだけ深いものなのか、ここに着いたばかりの私は想像できていなかった。

「小林にやったことは後悔してない。……いや、してるんだけど、それよりも俺は……」

 不安げな眼差しが私を捉える。

「ごめんな、こんな話で。手紙だって俺がめちゃくちゃに……」

 やっぱり、そうだ。たまらず私は先輩を抱き締めた。

「いず、い……」
「なんで……なんで先輩がそんなに…………」

 小林くんと会ってから、先輩はずっと心配してくれてたんだ。
 当時、まだ赤の他人だった私の幸せを願ってくれるような人だから、うじうじ悩んでばかりだった私の話に耳を傾けてくれるような人だから。私が小林くんの話を聞いたら傷付くんじゃないかって、ずっと心を痛めてくれてたんだ。
 でも、それだけじゃない。不安に揺れる瞳の奥には、もう一つ気持ちが隠れている。

「あの告白で私が傷付いたんじゃないかって、卒業式の日からずっと気がかりだったんですか……?」

 少しの間を置いて「ああ」という声が聞こえてきた。先輩の中に居る中学生の先輩ごと抱き締めたくて、背中に回した腕にぎゅうっと力を込める。
 こんなことならロータリーで話したときに、小林くんのことも言っておくんだった。まずは私が“こう”なったきっかけをと思って五年生の失恋話から始めたけど、そのせいで小林くんのことは話せず終いになってしまったから。
 あんなかたちで手紙の送り主が私だと知られてしまうなんて悔やんでも悔やみきれない。伝えるタイミングは何度もあったのに、なにかと理由をつけて名乗り出ることを先延ばしにした私の臆病さが招いた最悪の結果だ。
 カフェで話した日の別れ際に先輩が見せた、すべてを呑み込んだような表情。今までの人生で先輩は何度あの表情を浮かべたんだろう。どれだけたくさんの感情を呑み込んできたのだろう。そう思うと、視界がにじむ。

「ありがとう、ございます……」

 袖口でそっと目元を押さえてから、「でも……」と先輩の肩に手を置いてそっと体を離す。私を見上げる先輩と目が合った。だけど、すぐに申し訳なさそうに逸らされてしまう。
 不思議だ。これまでずっとこの眼差しに射抜かれることを恐れていたのに、今は逸らしてほしくないと思っているなんて。

「確かに私の恋は報われなかったんですけど、それは絶対に先輩が小林くんを怒ったからでも、手紙をしわくちゃにしたからでもありません」

 手紙を受け取ったあとの小林くんの話なんて、確かに聞きたくなかった。でも、おかげで一つ思い出した。

「小林くん、よく莉央ちゃんと帰ってるときに私に声をかけてきたんです。でも、莉央ちゃんには挨拶するだけで、別れるまでずっと話すのは私とだけだった……。だから、安心してたんです。小林くんは莉央ちゃん目当てなんかじゃないって……」
「…………」
「今思えば、それも莉央ちゃんに対するアピールだったんですよね。私たちが仲いいのはみんな知ってたから、私の友達ポジから攻めていこう……みたいな……」

 今度は私が力なく笑う。
 すると先輩は手紙を畳んで生徒手帳に挟むと、そのまま右手を私の左手に伸ばしてきた。私にしては冷たい手をもっと冷たい手がそっと包む。
 もう涙は出ていないのに泣いているのがバレた気がして、平静であることを伝えるためにきゅっと握り返した。先輩も中学時代の私に思いを馳せてくれているのかもしれない。
 強がりではなく、小林くんに対する気持ちは微塵も残っていない。カフェで見下ろした小林くんは私の知っている彼ではなかったから。きっと、あれが本当の姿なんだ。
 だけど、やっぱり心のどこかに悲しみの気配がする。私の名前を呼びながら、その先に莉央ちゃんを期待していた。その事実は純粋に悲しい。わかってはいたけど、それを笑い飛ばせるほどの強さは私にはまだない。

「小五の失恋からずっと男子が苦手で、克服のためにと思い立った告白でした。結果は散々だったし、苦手意識も悪化したけど……。でも、先輩が大切にしてくれてたって知って、ちょっと報われた気分です。それに、あの告白はちゃんと自分で決めたものだから、そこは誇ってもいいことなんだって思えるようになってきた」
「はっ。なんだよそれ。もっと怒れよ」
「怒るなんて……。むしろ、感謝のほうが伝えきれてません。先輩の指摘がなかったら髪を切るなんてしなかった。莉央ちゃんを目指すことが本当にゴールなのか、考え直そうとも思わなかった。生徒手帳を拾ったのは偶然だけど、先輩と出会えてよかったって、先輩のおかげだって思ってるから……」

 その先に続く言葉が見えそうで見えなくて、一瞬言葉に詰まった。

「……えっと、本当は生徒手帳を返したときに、手紙のことも伝えて返してもらうつもりだったんです。でも、言えなくてよかったのかも。あのときの私だったらすぐに手紙なんて捨てちゃってたし、渡した後のことだって知れなかった」

 とはいえ、あのとき言えていたら先輩をここまで追い詰めるようなこともなかった。
 結局、物事のすべてを後悔なく終えるのはとても難しいことなのかもしれない。そう言ったら、「俺もそう思う」と意外な答えが返ってきた。

「えらそうなこと言ったけど、俺だって納得できないことはある。むしろ、納得できない状況の中で少しでも納得できる答えを探すほうが、実際は多いのかもな」
「それは……」

 お家のことですか——踏み込んでいいのかわからなくて、口にできなかった。
 だけど、きっと顔に出ていたのだろう。先輩がふっと小さな笑みをこぼして、「俺にとって、世界一居心地の悪い場所があの家」と言った。

「……っ」

 必死に言葉を探したものの、正解を見つけるより先輩が口を開くほうが早かった。

「だから、極力家に帰らなくていいように生きてきた」
「えっ?! い、家出……みたいな……?」
「できればいいんだけど。近くに頼れる人もいないし、夜はさすがに帰ってた。でも、夕飯はバイト先でお世話になってたな」
「あのカフェで?」
「あそこ十八時に閉まるんだけど、あるとき会話の流れで家に居づらいことが知られてから、まかないだって言ってオーナー夫婦が夕食に混ぜてくれるようになった」

 ネットで読んだ口コミでもオーナー夫婦の人柄に触れるものは多かった。
 私がテスト明けに公園で待ちぼうけを食わされたのも、オーナー夫婦の食事の席に混ざっていたからということらしい。
 もしかするとロータリーで話したときに先輩がもりもり食べていたのは、夕飯前の軽食ではなく本当に夕飯だったのかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。

「そういえば、どうしてあそこで働いてるんですか? ちょっと……ていうか、かなり高級なカフェですよね?」
「ああ。最初は高校の最寄駅にあるファミレスで働いてたんだけど……」

 一果たちと行ったファストフード店と同じビルに入っている店舗のことを言っているのだろう。あの駅はうちの高校の他にも近隣の大学の最寄駅になっているから、あのときも満席で入れなかった。

「顔も知らない女子から声かけられることが多くて気味悪いから、ファミレスの店長の知り合いの店を紹介してもらった。あのカフェなら学生が入れる価格帯じゃないから、平和に働けるだろうって」
「店長さん、いい人ですね」
「だな。短い間だったけどお世話になったし、尊敬してた」

 それから少し他愛ない話で盛り上がった。
 ファミレスのどのメニューが好きだったとか、もっとも恐怖を感じたお客さんとのエピソードとか、どれも雑談の範疇を超えないものばかりだったけど本当に楽しかった。希望的観測かもしれないけど、先輩も同じに見えた。
 だけど、いよいよ本格的に夜の匂いが漂い始めた。
 このまま別れるわけにはいかない。あと一つ、私にはどうしてもやらなくてはいけないことがあるのだから。

「…………」
「…………」

 私が急に黙ったからか、空気が少し重苦しくなった。
 気付いたけど、かろうじて口は開けても、どうしても声にならない。言わなくちゃ。訊かなくちゃ。訊いて、私の気持ちを——……
 焦りだけが募る私を見兼ねたのかもしれない。冬の空気のような澄んだ声が耳に届いた。

「俺、転校する」

 欲しかった話題のはずなのに聞きたくなかった。そんな矛盾した思いが駆け巡る。
 だけど、きっと先輩はわかっている。私が転校の話を知っていることも、それを口にできなかったことも。それなのにこのまま黙っていてはその気遣いを無駄にしてしまう。
 切り替えるように、「……聞きました。どちらに……?」と続ける。平静を装えたかどうか自信はない。

「関西。父方の伯父のところにお世話になる予定。三学期から」
「さん、学期って……」

 もうあと数日しかない。

「二学期の終わりに、しばらく会えないって言っただろ? あれ、兄が警察沙汰を起こしたからなんだけど」
「えっ」

 一果が言っていたのは、このことだろう。

「両親は俺にとって厄介な存在だったけど、俺の兄——智広はよくわからない人間(ひと)だった。優秀なのは傍目にも理解できるけど、人間性を知れるほど仲が良かったわけでもないから。なんて言うか、俺のことをずっと敵視してる感じだった」
「それは……好ききらいとは、ちがうんですか?」

 「きらわれてると言えば、そうなんだろうけど……」先輩が頭を捻る。

「もっと激しい感情……憎悪に近い雰囲気だった気がする。学校帰りに遭遇したときはすごい形相で睨んできたし、小学生のときにバレンタインにもらったクッキーは踏みつけられて粉々になったし」
「ええ……」

 思わず素直に反応してしまったけど、人様のご家族であることを思い出して「すみません」と謝った。だけど、「俺も同じ感想だから」と笑われてしまう。

「今思えば、クッキーの件が初めて智広の本性が垣間見えた瞬間だった。それまでは出来の悪い俺を庇うことも、両親と一緒に蔑むこともしなくて、ただ遠巻きに見てるだけだったから。当時は両親の関心を一身に受けてるはずなのに、俺のなにが気に入らないんだろうって思ってたんだけど……」
「けど……?」
「でも、警察沙汰になってやっとわかった。智広は他人との意思疎通がことらさ苦手で、友達と一緒にいる俺に嫉妬してたんだって」
「そ、れは……」

 嫉妬心の一言でまとめるには、かなり強い感情のように思えてしまった。
 先輩の言う通り計り知れない憎悪が含まれていたのだとしたら、それほどまでにお兄さんは人との繋がりを求めていたのかもしれない。
 私も友達に恵まれない期間が長かったから、孤独によって焦燥感や不安を煽られたことは何度もある。特に人気者が近くにいればいるほど、自分には魅力がないのだと暗に突きつけられているみたいで惨めな気持ちになった。

「家族との交流とか皆無だったから、家の中がどんな状況かすら俺はほとんど知らなかったんだけど。智広は数ヶ月前に休職して以来、ずっと部屋に引きこもってたらしい」
「お仕事が上手くいってなかった、ってことですか?」
「いや、仕事は智広の得意分野だから、問題があったとすれば人間関係のほうだったって。入社当初から職場の人とはほとんど会話してなかったらしい。それが今年の春ごろに小さなトラブルが原因で悪化して、ストレスが溜まっていったんじゃないかって」

 人間関係の話といえど、バイトの経験すらない私には職場でのトラブルやそこからくるストレスなんて想像もつかない。
 でも、そういえばお母さんはよくお酒を片手に、お父さんに仕事の愚痴をこぼしてはスッキリした顔をしている。それを思い出し、私は口を開いた。

「あの、そういうストレスってご両親に相談しなかったんですか? ご両親はお兄さんには……えっと、優しかったんですよ、ね……?」

 訊いておきながら、はっきりと言葉にするのをためらってしまう。
 そんな私の様子にふっと微笑んだ先輩は私の頭を軽く撫でた。「わっ!」と大げさに反応してみせたのは、変に気を回したことを見抜かれた気恥ずかしさを隠すためだ。
 熱の残った頭に意識を持って行かれないように、「多分、あいつらはそんなことしてない」と言った先輩の声に集中する。

「俺がバイトから帰ったときにちょうど両親と智広が言い合ってて、父親が『育ててやった恩も返さずに』みたいなこと言ってたから。引きこもってからの智広は、あいつらにとってお荷物でしかなかったんだよ」
「そんな……」
「俺は関わりたくなかったからすぐ部屋に向かおうとしたけど、まさか智広が刃物持ちだすんだもんな。さすがにまずいと思って、急いで警察に通報した」
「それで、転校を……?」
「そう。伯父の提案で。最初は迷惑になるから断ろうと思ったけど、縛ってでも連れてくとか言い出したんだよ」
「えっ、し、しば?」
「さすがに冗談だけど、それぐらい本気で心配してくれてんだろうな。ずっと気にかけてくれてた唯一の身内だし。だから、受けようと思って」

 先輩に味方がいたことにホッとする気持ち。そこに紛れた否定的な感情に気付いて、自分で驚いた。「受け入れてほしくなかった」なんて、赤の他人の私が言えた立場ではないのに。

「……今はまだお家に?」
「いや、一旦ホテル。家出るために貯めてた金だから、まあ、痛手ではあるけど、手のひら返すように俺に縋ってきたやつらと一緒に居ること考えたらお釣りが来る」

 ご両親が我が子に求めていたのは、本当に自分たちに対する恩恵だけだったんだ。
 あまり先輩の身内のことを悪く言いたくはないけど、そんな環境の中で真っ直ぐに育った先輩は本当に強い人だと思う。私なんて一果や紗良、そして先輩の力を借りてやっと殻を破ることができたのに。
 私の手紙がきっかけになったと言ってくれたけど、そこから前向きな気付きを得て自分らしい生き方を見つけるなんて絶対に簡単なことじゃない。先輩はそれをすべて自分一人の力でやってきたんだ。そう思うと、また先輩に手を伸ばしそうになった。

「あの……新しい学校は……?」
「なんとか決まりそう。俺は来年受験生だし、時期的に大変だったけど」
「あ、だから学校も休んで……」
「そう。転校先探したり、試験受けたりで手一杯だったから。メッセージも返せなくてごめん。クラスのやつも連絡くれてたけど見る気になれなくて。昨日も寒い中待っててくれたんだろ? 本当にごめん」
「謝らないでください。インフルの教訓で防寒対策ばっちりですから」

 知りたいことではあるものの私的には本題じゃない。そんな会話になってきた。
 でも、用意した言葉が喉で支(つか)えてどうしても出てこない。
 これじゃあ話がちがうでしょ。私は先輩の足を引っ張るためにここに来たんじゃないんだから。心の中で自分を叱責するけど、言いたいことが言わなくちゃいけないことの邪魔をしてしまう。
 だって、実際に目の前にいるのと家で決意するのとではわけがちがう。地球の裏側に行くわけでもなければ、今まで定期的に会っていたわけでもないのに、先輩に手を伸ばしても届かなくなる状況が不安で仕方がない。
 本題を口にしてしまったら最後、先輩がうんと遠くに行ってしまう気がして怖い。
 「行かないでください」って……言いたい。

「なあ」

 もう聞き慣れてしまった低い声。それが不安に溺れている私の鼓膜を震わせた。呼応するように下がっていた目線を正面に戻す。
 いつの間に出したのか、先輩の手にはまた手紙が握られていた。四つ折りにされたままのそれをそっとこちらに差し出してくる。

「これ、まだいる?」
「え?」
「このまま俺が持っててもいい?」
「い……りますか?」

 手を引いた先輩は優しい手つきで便箋を開いていく。それは荒れ果てた地に咲く一輪の花にそっと触れるようだ。
 そして数秒ほど眺めてから、先輩は言った。

「いる。言っただろ。これは俺の希望だから」
「…………っ」

 もう、いいや。

「先輩、これ——……」

 私はショルダーバッグの中からあるものを取り出すと、グッと両手を伸ばして差し出した。

「……手紙?」

 封筒が手から離れると同時に小さく頷く。裏面に三日月の入った紺色のデザインが先輩の手によく馴染んで見える。

「なに? 別れの手紙?」
「それは……先輩が決めてください。私の気持ちは全部そこに綴ったので……」

 束の間、先輩はじっと手紙を見つめたあと「わかった」と微笑んだ。

「先輩」
「ん?」
「私、やっぱり莉央ちゃんに憧れる気持ちは捨てられません」

 先輩の真剣な表情に変化はない。

「でも、大切な人の言葉ぐらいは信じられるようにがんばってみます」

 改めて莉央ちゃんを前にして、やっぱり憧れる気持ちは変わっていないのだと実感した。だけど会うたびに強まっていたこれまでとちがって、憧れの程度にあまり変化はなかった。
 莉央ちゃんとちがう長さの髪。今までなら絶対に嫌悪感を抱いていたはずなのに、「似合っている」というたくさんの声が心をそっと包んでくれている感覚があって、軽やかさや首元の寒さが心地よかった。
 「似合っている」という言葉自体は髪型に向けられたものだけど、不思議とそれを選んだ私の意思までもが褒められた気がしてくすぐったかった。
 先輩やお母さんみたいに自分基準ではまだいられない。でも、今の私はきっとそうなるために必要なことを学べる環境にいる。それを「私なんか」という気持ちで無駄にはしたくない。

「まだ男子に対する苦手意識も克服できてないし、外見だって好きじゃないけど……。でも、前みたいに莉央ちゃんのコピーになりたいとは思いません。だって、私が莉央ちゃんのコピーじゃなかったから、小林くんに手紙を書いて、その手紙でちょっとでも先輩のお役に立てたのかなーって……」

 調子に乗っておかしなことを口走ってしまった。
 『大切な人の言葉ぐらいは信じられるように』なんて言っておきながら、「……っていうのはただの自惚れですけど……」などと早速予防線を張ってしまいそうになり、ぎゅっと唇を引き結ぶ。さすがに目を合わせ続けるのは無理だったけど。

「じゃあ一個」
「え?」
「俺はこれからも出井のこと想ってるから。それは離れても変わらない」
「…………」
「これも信じる対象に入れてもらえると嬉しい」
「…………っ」

 頬をいくつもの涙が伝う。先輩を抱き締めたとき、せっかく気付かれないように拭ったのにこれじゃあ意味がない。
 見兼ねたように眉根を下げた先輩がそっと私の涙をすくった。

「ごめん」
「え?」
「『外見なんてただの飾り』とか、本当にひどいこと言った。俺自身、なんであんなこと口走ったのかわからなくて、改めて考えたんだけど……」

 一呼吸置いて、「もったいないと思ったんだよ」とためらいがちに話し始める。

「俺の手紙みたいに、なにかきっかけがあれば踏み出せそうなのに、それが無いせいでずっと自分を責めてることが。だから、きっかけになりたかったんだと思う。まあ、完全に言葉間違えたけど」
「…………っ」

 涙で視界が見えなくなるほど込み上げる気持ちを抑えられない。
 この人はどうしてこんなに優しいんだろう。自分だってたくさん傷付いたのに、どうして素直に人のことを思えるんだろう。
 ——朝、目が覚めたときに『自分じゃない誰かになってたら』って思う?
 あれはきっと先輩自身の気持ちだったはずなのに、どうしてこんなにも強いんだろう。
 でも、だからこそ、私は伝えたい。伝えたいけど、もう時間がない。
 夕方の気配なんてとっくに消え去って寒さが強まった。これから新しい道に進む人をこんなところにとどめてはいけない。

「高石先輩」

 涙のにじむ声を弾ませて、そこに先輩の名前を乗せた。
 袖口で思いきり拭ったから目元がじんじんする。すぐに視界が歪み始めたけど、もう構っている暇はなかった。

「手紙、ちゃんと読んでくださいね」
「……ああ」
「じゃあ……私はこれで」
「駅まで送れなくてごめん。気をつけて」
「大丈夫です! バイト先へのご挨拶も大事ですから」

 入口まで一定の速さになるように意識しながら歩みを進めた。
 すぐに黄色い車止めポールまでたどり着いたけど、坂道に差し掛かってからも私は振り返らなかった。視界の端で先輩がじっと私を見送ってくれている気配がする。それだけで十分だ。

「うっ……クッ…………」

 嗚咽を漏らしながら、ただひたすらに坂を下る。
 袖口はぐっしょりと湿っていて、もはやなんの役にも立たない。
 全然潔くはなかったけど、引き止めたい気持ちを口にしなかっただけがんばったと思う。
 せめてもの餞として少しでも立派になった姿を——それが最初のゴールだった。“先”があると思っていなかったからこそ、幕引きの前になにかしらの恩返しがしたかった。
 でも、“先”があるかもしれないのなら、『このやり方が絶対』なんてものは期待できないのなら、成功確率を少しでも上げるために手当たり次第に行動するしかないんだ。先輩も、一果も紗良も、お母さんだって、みんなそうなんだ。
 だったら、まず私は頼りっぱなしの自分から抜け出さなくちゃ。どんな“先”を望むにしろ、「先輩と後輩」や「恩人」のままでは一生先輩の隣には立てない。
 でも私のことだ。スムーズに達成できるとは思えないし、達成を待っていたらその先にある望みに届くまでに果てしない時間がかかるから。

 ——ここで終わりにしたくないです。私たちの関係に名前が付くまででいいので、私にがんばらせてください。できれば隣で見守ってほしいです。

 そう手紙に書いた。
 ゴールまで私一人で向かわないといけないなんて制約はどこにもない。道を変えてはいけないなんて決まりだってどこにもない。
 だから私は先輩と一緒に道を歩きたいと思った。ゴールは変えないけど、そこに繋がる新たな道を、二人で歩きやすい道を作ってみようと思った。
 狭い公園だけど二つ並んだスプリング遊具の間には、意外と人ふたりが向かい合える程度の広さがあることだって一人じゃ気付けなかった。
 そんな発見を先輩と一緒にしていきたい。
 背中を見るんじゃなくて、隣に立って一緒に進んでいきたい。
 まさか先輩がすでに私を見守るつもりでいてくれたのは嬉しい誤算だけど、私だって先輩の話を聞いて自分の目指す先は間違っていないのだと強く確信することができた。
 これまでつらいことをひとりで乗り越えてきた先輩が、自分を悪だと言っていた先輩が私にしてくれたように。
 先輩を彩るたくさんの言葉を、これからは私が綴りたい。