風に乗って、風を越えて、自転車は長い急勾配の坂道を下った。
 残像になって置き去りになってく風景の中で、実里の後ろ姿だけがくっきり目に焼き付けられる。
 「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 足を広げて跨る実里の後ろで、荷台と彼女の肩を握って俺は必死に掴まった。
 実里の髪がぶわっと、向かい風で波打って逆立つ。スローモーションみたいに揺れ動いた。車体は縦に震えて、焦げた匂いが鼻を突いてくる。聞いたこともない回転音が車輪の連結部から響いてる。
 心臓は五十メートルも後ろに落としてしまったみたいだ。
 「待て待て待てまてまって、実里! みのっ、ブレーキ!」
 「そんなの使ったことなかったじゃ~ん」
 「ガキの頃とは重さも速度もちがっ……って、揺らすなって! 転ぶ転ぶころぶ!」
 いつにもまして実里の破天荒さが弾ける。身をよじったり、サドルの上で跳ねたり。小さな荷台に俺がしがみつくように座ってることを忘れてるんじゃないかとさえ思う。考えなしに二ケツしてしまったさっきの自分を蹴飛ばしたい。
 下手に止めることもできず、俺は自転車の速度に翻弄されるまま下る。空を舞う鳥を追い越す速さで、車体は坂を駆け降りた。
 更に一回、蹴るように実里はペダルを一蹴させる。
 「行くよっ、カズ!」
 「本当に、まっ――――」
 車体は坂の終わりを前にした時、突然ふわっと浮かび上がった。
 坂の途中にある小さな盛り上がりにタイヤが触れ、ジャンプ台の要領で自転車は飛んだのだろう。ゴムタイヤの凹凸はアスファルトから手を離す。
 舗装された道を越え、短い草が生い茂る空き地目掛けて落ちていく。重量がほんの一瞬だけ働くことをやめて、世界の景色だけが落ちていく。肌に触れる風がそれを教えていた。

 蒼空に浮かんだ入道雲へ、吸い込まれるみたいに身体は舞った――

 ※

 焦げた鉄の臭いがまだ漂う自転車は横倒しのまま草の上で転がった。雑草の青臭い匂いが鼻の中に充満する。それほどまで俺の呼吸は乱れていた。
 息を吸い過ぎてチカチカする視界。降り注ぐ空の蒼さを浴びて、草のチクチクした感触を背中で感じて安堵する。まだ体は浮遊感が残っていたが、もう地面なんだとゆっくり知らせる。
 飛んだね~、なんて実里は呑気に笑う。
 「はぁっ、はぁっ、死ぬかと思ったぞ!」
 開けた道だったから良かったものの、何かにぶつかりでもしたら大惨事だった。まだ心臓がうるさい。バクバク波打って、口から飛び出そうになる。
 俺の幼馴染の破天荒さは思春期に入ってなりを潜めたと思っていたが、それは盛大な勘違いだったのかもしれない。むしろ無謀さに拍車がかかってる気がする。
 そんな気も知らないで、実里は顔を覗き込んだ。
 「あははっ。で? なにか思い出せた?」
 「そんな急に言われても――――あ」
 文句を返す猶予もなく、唐突に記憶が蘇った。

 それは既視感のある記憶。実里の後ろに座り、自転車で山の坂道を駆け降りた。
 実里の背丈はまだ小さく、周りの風景もよく見えていた。自転車の速度は今より緩やかだったが、怖くなった俺は悲鳴を上げながら実里の服を掴んでた。同じぐらいの背中だったのに、やけに広くて頼もしかったような気がする。自転車から投げ出されても実里を掴んでいれば大丈夫と、勝手な信頼があったからかもしれない。
 世界がまだあんなに大きかった頃の思い出が、数秒に満たない時間で回帰する。
 「そうだ! 昔も全く同じことやらされたっ!!」
 「おおっ、思い出せたね~!」
 「今回はホントに死にかけたけどな!!」
 「効いたでしょ? ショック療法」
 「荒療治過ぎて記憶より命が危ないわ」
 記憶を遡る旅の一発目にしては、刺激の強すぎるイベントになった。おかげで記憶を呼び覚ますついでにトラウマで上塗りされる始末だ。
 けど思い返してみれば、あの日はもっと酷かった。たしか実里が調子に乗って自転車を漕いで、二人とも派手に転んだ。受け身もロクに取れなかったから、体のあちこち擦り剥いたっけ。子どもの肌は柔らかいから、血と泥であちこち汚れてた。
 それでも怪我は大したことなかったけど、痛くてしばらくはその場で泣きっぱなしだった――
 「あれ?」
 「どしたの? 他にもなにか思い出せた!?」
 「いや、これ以上は特に……」
 記憶の蛇口はそれ以上開かず、また固くバルブを閉められてしまった。
 だからこれは気になっただけだ。ただ純粋に疑問が湧いた。擦り剥いて血だらけになったあの記憶の、その先のこと。

 二人して怪我をした俺達はあの日、どうやって家に帰ったのだろう。と――