薮の椅子が守ってくれたのか、 稜斗の「いてっ」との声を背中越しに聞きつつ全力疾走を開始した天麗に、来生 稜斗は追い付いてこない。
(ほんとは、あんまり、走りたくなんかっ、ない、のに!)
そっと、ブレザーの内ポケットの在る胸元に手を充てれば、御守りとなるエピペンの感触が返って来る。
普段あまり運動しない天麗は、既に息も絶え絶えだ。
(いざとなれば、コレをブスリと……)
刺すのは、運動誘発性アレルギーを持つ自分自身になりそうだが。
「使いたくないですねぇ。諦めてくれませんかねぇ」
呟いたのが、フラグとなってしまったのかもしれない。
「いた! おい!!」
廊下の向こうから稜斗の声が響いて来る。職員室へ逃げ込む算段だった天麗だが、転入間も無い彼女が無我夢中で駆け出した結果——今は迷子となっている。
(とにかく、人気のある所にっ!)
エピペンに手を添わせる、決死の覚悟で駆ける天麗に天が味方したのか、音が響いて来た。
ピアノの音だ。
天上からの救いの調べとなって、鼓膜を歓喜でくすぐる甘美の音色。
(誰かが合唱コンクールの練習をしてるんだ! そこに行けば来生も無茶は出来ないはず! あわよくば、先生も練習に付き合っているかも!)
美しい音色に引き寄せられて、真っ直ぐたどり着けた音楽室に居たのは、女生徒ひとり。
しかもソレは見知った顔で。
「恵利花ちゃ——」
呼び掛けた声は途中で途切れる。
「え? 誰?」
鍵盤の上に置いた手を止めて、扉に顔を向けた一色 恵利花の目には、誰の姿も映らなかった。
ぐいぐいと、爪の食い込む強さで握り締められた腕が、渾身の力で引かれる。
有無を言わせない力と、人数の不利の圧で逃げることもできないまま、意思に沿わない方向へ歩かせられる。
人気のない方へ。体育倉庫の陰へ。
「離してよっ、亜美ちゃん!」
何度目かの呼び掛けで、ようやく足が止まった。いや、目的地に辿り着いたと言うべきかもしれない。目の合った碇 亜美は、血走った目をしていた。
「おかしいと思ったのよ! 惣賀サンが編入してからアタシに悪いことばっかし起こってっ。それまでは、ホントに上手くいってたんだよ! あんたがっ、何かしたんでしょ!!」
天麗を倉庫のくすんだクリーム色のトタン壁に押し付けて、スマホの画面を向けてくる。映っているのは、あの一瞬で消えたがスクショ――学園生専用連絡アプリを介し、2年1組のクラスメイト全員に送られた画像だ。
ここまで、静かに彼女らの後ろを付いてきた稜斗が、亜美の隣に並ぶ。
「白状しなさいよ! アタシに嫌がらせしたのは 惣賀サンだよね!?」
手首に移動した亜美の手が、容赦なく天麗の肌に爪を食い込ませる。これって傷害ですよね!? と心の中で訴えるも、この場を目撃しているのは亜美の側で険しい表情をしている来生 稜斗だけだ。
けれども彼は亜美に応戦すべく、天麗の顔横に闘争を防ぐべく片手を突いている。右手は亜美の拘束。左側は稜斗からの、全く嬉しくない壁ドン。
逃げ場はない。
彼らの主張は、完全な冤罪だ。けれど、どう見ても冷静じゃない二人相手に、切り抜ける方法が見付からない。
(どうしたらいいんですか!? 薮りん! 囚われのお姫様ばっかり助けてないで、窮地の天麗を助けてくださいよぉぉぉーーーー!)
心の中で絶叫した。
