定時で仕事を上がり、とりあえず腹ごしらえしようということになった。
と言っても先輩は夜は殆ど食べないから、たいがい僕一人が食べることになる。
行き先は地下鉄で二駅ほど行った先のいつもの居酒屋だ。
電車内は適度に混んでいて、僕らは入口近くに場所を決めた。
降車駅に着くまで先輩に問われるまま、今までの彼女とのやり取りをざっと話したら、めちゃくちゃ食いついてきた。
「あの美人の彼女だろ」
そうだ、一度社屋前で鉢合わせたことが会ったんだ。
「学生の分在で、年上の彼女ってだけでもウラヤマなのに」
この野郎と、持っていたカバンで僕を小突く。
何羨ましがってんですか。そっちはヨリドリミドリでしょうが。
「1年近く付き合ってたんだろう。いくつだっけ、その彼女」
「30前後かな。見た目はもっと若いから実際は分からないっス。役職考えたらその辺じゃないかと……」
駅につき、目的の店に向かう。改札を出て、交差点を渡った先のアーケード街へ向かう。
店に入ると威勢の良い店員の声が出迎えてくれた。
何時来てもこの店は明るい雰囲気で、店員同様出される料理のネタも新鮮で活きが良い。
空いてる席にどうぞと案内される。
今日はどっちだと先輩が聞くから、電車と答えたら即座に店員に向かって「生を2つ」と告げ中央左手の座敷に席を決めた。
座敷と言ってもテーブル下に足を下ろせるスペースがある、いわゆる掘りごたつ様式の奴だ。
向かいに陣取った先輩を見たら、ニコちゃんで大ごきげんだ。
愛想笑いを返し、店内を見回したら今日はアジがおすすめとある。
タイミングを合わせたように、お通しと一緒にジョッキが運ばれてきた。
先輩は上着を脱ぎ、脇によけたブリーフケースの横に軽く丸めて置いた。
僕もジップアップパーカーを脱ぎ丸めて、下げてきたボディバックを包む。
ビールを飲みながら前を見たら、先輩がさも美味そうに喉を鳴らしてビールを飲んでいる。それにつられた僕も一緒にグラスを空けてしまった。
喉が渇いていたからたまらなく美味かった。思わず口から息が漏れる。
前を見たら、さあ続きを話し給えとでも言いたげな先輩と目が合ってしまう。
外見と学歴だけの、何の取り柄もない僕の話がお気に召したようで何よりです。
「日向さ、自分が女受け良いの、知らないだろう」
「僕がですか、まさか。先輩じゃあるまいし」
「けっこうな秋波送られてるの、気付いてないもんな」
軽くジャブを返したら、スルーされた。
それより、何ですかそれ。秋波というところで、両手の指をウニョウニョ動かしてキモチワルイ。
「最初の一杯は美味いっスね」
色目とか、マジ勘弁なんだが。
「そんなに嫌そうな顔をしなさんなっって」
顔に出てました? と思ってたら先輩がお代わり頼むかとジョッキを掲げる。
「お代わりくださーい」
先輩がオーダーを叫ぶので僕も合わせてお代わりを頼んだ。
「ウーロンハイ、ジョッキで」
「はーい、喜んで!」
お通しはナスの揚げ浸しで、味が程よくしみ美味かった。
食べ終わったら先輩が自分の分を僕の前に出してくれたので、遠慮なくそれも頂く。
僕がお通しを食べている間に、お代わりの生とウーロンハイ、串焼きの盛り合わせが届く。
揚げ物はもう少し待ってくれという。先輩が適当に串をとりわけ、残りを器ごと僕の方に差し出した。
酒を呑む時ほとんど食べない先輩は、酒にめっぽう強い。
空きっ腹にあの勢いでジョッキを空けても素面でいられるんだから驚きだ。僕はもう頬が火照ってきたというのに。
店内も満席状態になって、賑やかさを増してきた。先輩は届いた生をまた美味そうに飲んでいる。半分ほど空けたところで、なにか思いついたのか身を乗り出して聞いてきた。
「社内で気になる子とか居るか」
「は?」
今度は何だ? 気になるって言われても全く思いつかんぞ。知ってる女性社員って経理と総務の人くらいだし。
「知ってる人は経理のえっと、生方さん。後は諏訪さんくらいしか思いつかないっす」
どちらも直接お世話になっている人だ。生方さんはアラフォーの気さくなお姉さんで、先輩の出張や学会参加費など申請手続きで毎回お世話になっていた。総務の諏訪さんは学生インターンの担当でこちらもベテランのお姉様だ。准教授とは友達らしい。先輩とも仲が良く毎回夫婦漫才みたいな会話をしている。ちなみに二人共既婚者だ。
面倒くさい事務処理を全部僕に投げるから、必然的にこの二人と話すようになっただけなんだが。
「年上の人妻が好みとは知らなかった」
酒を吹きそうになる。
「既婚者に興味はないですよ」
冗談だろうけれど、真顔で言われたらビックリするワ。ムスッとして睨んだら、先輩はスマンスマンと楽しげに笑っている。
笑うと目尻にうっすらシワが寄るが、外見だけで言うと僕と同期でも通りそうに見える。何だこの若作りのバケモノは。
次々と頼んだ料理が運ばれてくる。先輩は生を空けると次はジョッキでハイボールを頼んだ。僕はまだ2杯目のウーロンハイで、届いたできたての焼きおにぎりと、これまた焼き立てでまだジュウジュウ言ってる大物のアジの干物を食べた。新鮮な干物だから臭みもなく、皮目がパリッと焼けてて、塩加減もちょうどいい。ゴキゲンで魚を食っていたら、頼んだ料理でテーブルがいっぱいになっていた。
「年上好きは置いといて、ラボにも女性は居るよ。特に香織ちゃんは理系には貴重な美形だ。受付の凜花ちゃんや友加里ちゃんは、渡された名刺でトランプができるくらい、取引先に人気の我が社のアイドルだぞ」
トランプって、そりゃすげーわ。それは知らなかった。
言われてα1とχ1の顔を思い出す。うん、確かにいつも笑顔で親しみやすい。彼女らの顔を思い出しつつ、今度はアジフライに食らいつく。
「マジで興味なさそうだな」
「だって香織さんは綺麗ですが彼氏持ちですよ。受付の人は笑顔がカワイイα1とクールビューティーのχ1で認識してます。どちらも、挨拶しかしたことがないですが」
「何だその区分分け。人を記号化して覚えてんの?」
「名前覚えるの、基本的に苦手なんですよ」
このアジフライ、うめ〜っ。
アジフライは定食にしてくれたので、大盛りご飯に小鉢と味噌汁が付いてきた。別皿にタルタルまで、ありがたい。
「凜花ちゃんも友加里ちゃんも、毎日オレの顔見ると日向くんはって聞いてくるのにさ、君は名前さえ覚えてない。アジフライに夢中ときた」
「はい。お腹空いてますからね。二匹付いてるから一匹召し上がります? マジ美味いっすよ」
じゃあ半身くれ、という先輩にアジフライの半身を取り分けたら何も付けすにかじりついた。
「本当だ。新鮮で美味いな」
それをサクサクと平らげ、残りのハイボールで流し込みまたお代わりを頼む。
僕はアジフライ定食を食べ終え、追加で鮭茶漬けを頼んだら先輩が目をむいて驚いていた。
鮭茶漬けと先輩の頼んだサワーが来るまで、少しの間が空く。
テーブルはすっかり片され、僕のウーロンハイと先輩が呑んでるハイボールのジョッキだけになった。
話題は受付嬢の話から一周回って、また紀和さんの話に戻ってくる。
痴話喧嘩がしたかったという、紀和さんの啖呵が気に入ったようだ。
「『私と寝てる間はあんたは私の男』、なんてセリフ言われてみたいっ。あーっ、カッケーその彼女」
その時髪の毛掴まれてましたけどね。何妄想してんだか。
「それより僕がホストに向いてるって、意味がわかりませんよ。先輩じゃあるまいし」
「あはは、それ良く言われる。ホストに悪いよな。こんなおっさんと一緒にされて」
カラカラ笑う失礼な先輩を睨んでたら、追加オーダーの茶漬けとレモンサワーが届いた。
先輩は待ってましたとサワーに口をつける。ひと息でジョッキ半分カラにして、よく飲めるなぁ。
「合鍵までもらってたんだぁ。あ、その鍵どうした?」
「ちゃんと戻していきましたよ。昨日確かめに行ったらマジで引っ越してたし」
「ぶっ」
ですよね〜。そりゃ吹きますよね。僕だって笑っちゃたから。
笑いながら咳き込む先輩におしぼりを渡す。
呼吸を整えたかと思ったら、また思い出したように大声で笑い出した。
好きなだけ笑ってください。
「あー、笑った。その彼女、マジ最高」
笑ったせいで喉が乾いたとでも言うように、持っていたグラスを一息で空ける。もう追加しないでくださいよ。
「で、どこに泣く要素があるんだ」
今聞きますか、それ。ていうか、それが聞きたかったのか。
「ありませんよ。女と分かれたくらいで泣きますかって」
あいつの顔を思い出したからなんて言えるわけがない。
「拾ったペットが懐かなくて捨てられただけですから」
どーせ、見た目と学歴だけのオトコですよ、ええ。
「でもさ、昼間の顔は、何というか、切なげでハラハラ涙こぼして」
大げさにシナを作って泣き真似までしてみせた。
シクシクなんて泣いてませんから。乙女か僕は。
泣いてるとこ見られてたってだけで十分赤面モノなのに。ハラハラってナンですかソレ。
「あんな顔で泣くほど惚れてる相手には勝てないってか。どーりでウチの女子になびかないわけか」
そう言うと、先輩は店員へ向かって指でバッテンを作る。
「惚れてるって、止めてくださいよ恥ずかしい」
「え、違うのか」
「違って……ません、けど」
やば、認めてしまった。
何年も会ってないのに。
むしろ気持ちが強くなってる気がする。
「片思いしてるんですよ、ずーっと」
「おやまぁ、かわいそうに」
と、さっきと打って変わって心配げに眉を寄せ聞いてきた。
「ずーっとって、いつから?」
ぜんぜん可哀想なんて思っちゃいないの、丸わかりですけどね。
「今日も食ったなぁ、日向は。それにしてもそれだけ米食ってるのに太らないよな」
「若いんで、代謝が良いんですよ。先輩こそ、お酒を主食ですかってくらい飲みますね」
その内年相応に腹が出て、女の子にも相手されなくなればいい。
「主食か、巧いこと言うね。ま、アルコール代謝が高いのは確かかな。お陰で二日酔い知らず。オレの内蔵高スペックなんだよ」
店に来た時と変わらない顔でそう言うと、どれどれと伝票見て諭吉を一枚僕に渡し、先に座敷から出た。
「ションベン行ってくる」
どーぞごゆっくり。あれだけ飲めばそりゃ出るもん出るでしょ。
アバウトだが食事分を僕が、飲み代は先輩が支払うことになっている。とは言え、大半は先輩が出してくれてる。
店を出てそのまま改札まで歩いていく、さてこれからどうしよう。
さすがにもうすぐ5月とは言え、日が落ちたら肌寒いなぁ。
先を歩く先輩が地下鉄の入口を指さした。もう一件連れて行ってくれるようだ。
やったね。
「さっきの質問、実は幼馴染なんですよ、困ったことにその片思いの相手」
酒のせいで妙に正直になっている自分に乗っかることにした。
「初恋か、もしかして」
「……」
ここまで引きずるとは自分でも驚いてますよ。
初めて帰国した年だから、僕が10歳の時からかなぁ。神社の鳥居の前で始めて会ったんだ。あの日はいい天気だったよなぁ。
「それで辛くて、似た女をとっかえひっかえ」
「してませんっ。……無意識に似てる子を目で追っちゃうことはあったかもですが」
「逢えばいいじゃない。それともひどい振られ方したのか」
何で同じことを言うんだろう。
「まさか。伝えてもないのに。無理なんだって、そんなこと言えない。関係が壊れそうで」
そう言うと先輩はひどく驚いた顔で振り返り、茶化して済まんかったとなぜか謝られた。
僕らは再び電車に揺られ、良い機会だからと先輩がある店に連れて行ってくれることになった。
「家の近所なんだ、これが」
「へぇ〜」
先輩と僕は最寄り駅が同じだ。だからといって、毎朝並んで通勤することもなければ一緒に帰ることもないけど。
「南口」
「賑やかな方ですね」
そうそう、と先輩が頷く。
「会員制の店なんだが、そこに紹介したい人がいてね」
僕は会員制と聞いて少し驚いた。そんな高級店行ったことがない。秘密倶楽部みたいなもんか?
「お前が考えてるのとは全く違うから。社交クラブみたいなところだよ」
社交クラブ? なんだそれ。もっと分からん。
改札を抜け、いつもとは違う出口へ向かう。
「ちょっと歩くぞ」
「うっす」
酔冷ましにちょうどいいや。少し先をスタスタ歩く先輩に付いていく。
「日向って帰国子女だよな」
「そーっすよ」
そういう先輩は米大の学士持ちじゃないですか。
繁華街をどんどん歩いていく。僕が住んでる側はマンションと住宅とお寺と神社と静かなところなのに、反対側はこんな賑やかなんだ。
「お前の英語キレイだもんなぁ。イギリス英語って、何と言うか上品でいいよな」
上品、僕の英語が、えへへ。
「気取ってるとか聞き取りづらいとか、よく言われてたんスよ。だから上品なんて先輩に言われたら、めちゃ嬉しいッスね」
流石先輩、分かってらっしゃる。
「僕の英語、ネイティブといえどお子様英語っすよ。14で帰国してますから」
2度目はYr10(中3年)で帰国したからなぁ。まだまだ子供だったよなぁ。
「へぇ〜、そういうもんか」
「先輩みたいに向こうの大学出た人のほうが、全然上っす。僕女性口説けませんもん」
先輩が間をおいて、鼻で笑う。
「なるほどね〜」
気がつくと繁華街を抜けていた。
「ところでただの好奇心で聞くんだが、生まれたのはどこ。あ、言いたくなきゃ……」
「ドイツです。ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフ」
繁華街の先はここも静かな住宅街になるんだ。どちらかと言うと僕の住んでる側と違い戸建てが多いな。
「デュッセルドルフか。流石に行ったことねーや」
デュッセルドルフかぁ、と言いながらブリーフケースを持ったまま両手を上げ大きく伸びをする。
「そこからフランス、イギリスですね」
「オレなんか日本の片田舎だぜ。生まれたときから世界を知ってるってすげー強みだぞ」
「だといいですが。小さすぎて、記憶にあるのはイギリスだけっすよ」
先を歩いていた先輩が振り返る。
「親が外交官って、やっぱり大変だったか。引っ越し先が異国じゃ簡単に友だちなんかできないだろうし」
「ええ、簡単じゃなかったかな。だから小学生で帰国した時できた友達は、今でも大切な親友なんですよ」
小4の春出会ったあの4人は、僕にとって生涯の親友なんだ。
「そういうことか。そりゃ、慎重になるな」
「そういうことっす」
ダラダラ歩いているうちに店に着いたようで、先輩がこっちこっちと手招いた。
え、店どこだ。入口が分からんぞ。
「そこの灯り見える?」
と、先輩が指さした先には立派な格子戸。その戸口に灯りがあった。
「灰かぶり」と毛筆の文字。
「料亭みたいっすね」
「ああ、こっちはな。オレたちが行くのはその上」
と玄関口の上を指す。
先輩の言う会員制のお店はこの料亭の二階にあった。
入口でチェックされる事もなく、普通に入れた。何だか拍子抜けだ。
「いらっしゃいませ。久しぶりね、平川ちゃん。こちらは?」
年配の着物を着た女性が出迎えてくれた。ふくよかな体形で和装がよく似合うきれいな人だ。
「ご無沙汰、ママ。あ、紹介するよ、今オレの下で働いてもらってる日向亘だ。まだ院生だが優秀だぞ」
「日向亘さん、いらっしゃいませ。クラブシンデレラのママの絹子です」
と名刺をもらう。僕も出そうと背中に回していたバッグを慌てて外した。
「お名刺は後ほど頂くから、慌てなくても大丈夫ですよ」
にこやかにそう言うと、ママはカウンターに向かって声をかけた。
「お二人様」
直ぐお席用意しますからお待ち下さいね、と僕らにカウンターの椅子を勧める。
カウンターにはおしぼりを持った女の子と、所謂黒服と呼ばれるボウタイにベストを着た若い男が立っていた。
「え?」
「あれ?」
僕とほぼ同時に立っていた黒服が声を上げる。
「わーちゃんじゃん!!」
「樹?」
破顔した樹がカウンターに身を乗り出して抱きついてきた。
先輩は女の子からお絞りを受け取りながら、何事だと僕を見る。
「知り合い?」
「ええ、幼馴染の一人」
「そうそう。わーちゃんとは小学校からの付き合いなんだ。崇ちゃんの大親友」
崇直のねぇ、などと先輩が言っている。そっちこそ崇直知ってるのかよ、その方がびっくりだよ。
仲の良さをアピールかのように興奮気味の樹が僕と肩を組む。そこへママの声が入ってきた。
「え、イギリスから来たあの坊やもしかして」
は? お会いしたことありましたっけ。
「ほら、紅緒が退院した年の運動会、みんなで一緒にお弁当食べたの覚えてないかな」
うわっ、紅緒の叔母さん!
「し、失礼しました。ご無沙汰しております。近くに住んでいながら……」
慌てて席を立ち頭を下げたら、ママさんがまぁどうしましょうと走り寄ってきて僕を席に戻す。
「そんな恐縮させてしまって、ごめんなさいね。懐かしくってつい」
そう言ってママは頭を下げた。またまた恐縮してしまう。
「いえ、こちらこそ」
「むこうにお席用意できましたから、行きましょうか」
そう言って微笑む。
うわぁ、やべぇ笑った目元が紅緒そっくりだ。
「紅緒は今父と下に行ってるから、直ぐ呼びますね」
と先輩と僕に言う。
何だって? まてまて、ちょっと待って。
紅緒って言ったよな今。紅緒って。
どーゆーこと?
父って、まー爺まで来てるのか。あ、自分の娘の店なら来るか。って、それより何で紅緒まで居るんだよ。
うわっ、すげーやばい。顔が熱くなってきたぞ。あーっ、また涙出たらどうしよう。
それより、どんな顔すりゃ良いんだ。
あ、いつの間にか持っていたウエルカムドリンクが空になってる。
「わーちゃんそれ、モヒート。それも平川さんばーじょんだから、……濃いよ」
そんな呑気な樹の声にハッとなり我に返る。
「日向、おまえもそんなにテンパることあるんだ」
ふぅ〜んと先輩が鼻を鳴らし、意味深な笑みを浮かべ僕の肩を叩いた。
「先、行くな」
穴があったら入りたい。もう、消し炭だっていい。
「わーちゃん」
と樹が僕を呼ぶ。
口に手を当てて囁いた。
「紅緒も僕もカウンター専門で、ママの許可でないと外に出れないんだ」
うん、と頷く。
「まだ学生だからね。でも、平川さんは別格」
「?」
「変なことしないから」
「はぁ?」
へんなことぉ。思わず先輩を見たら背中に回した手でピースサインされた。
「あいつもわーちゃん見たら驚くぞ。嬉しくって泣いちゃうかもな」
泣くってまさか、はは。
はーーーっ。帰ってもいいだろうか。
「今夜、まーちゃんいいかな」
席に行くと先輩がママと話してる。
「どうぞ、好きなだけ使ってください」
「良かったぁ、こいつを紹介したくて連れてきたんだよ」
と僕の腕を掴み、隣に座らせる。
ママが笑顔で僕を見る。
「伝えとくわ。食べ終わったら直ぐ来ると思うから」
ゆっくりしていってくださいね、と僕にまた微笑んだ。
だから、その笑顔はやばいんですって。
座り心地の良い革張りのソファ、間接照明の柔らかな灯り。何処をどう見ても高そうだ。
ローテーブルを挟んだ向かいの席に座り直したら、先程の女の子が床に膝を付いてメニューを広げてみせてくれた。
「何になさいますか」
うおおぉ、メニューに値段がない!
「好きなの頼んでいいよ」
「好きなのって」
「あ、ウイスキーダブルで」
そう女の子に言うと、こいつはロックでと勝手にオーダーされた。
「会員のゲストは基本ドリンクはフリーなのよ」
カラカラと音がして樹が何やら乗ったワゴンを押して来る。
「これ、まー爺のね」
といってワゴンからマッカランのボトルを取りテーブルに置く。
続いて慣れた手つきでグラスにアイスを入れ、山崎の12年ものでロックを作ってくれた。
「わーちゃんはこっちね。平川さんはいどーぞ。チェイサーは麦茶持ってきました」
むぎちゃ? ウイスキーのチェイサーに麦茶。麦に麦ってか。
「いっちゃん気が利くなぁ。ありがとう」
「かんぱーい」
と陽気に先輩が言う。ウイスキーを二口ばかり喉に流しこみ、チェイサーの麦茶をコレまたうまそうに飲む。
「わーちゃんも、これ美味しいからどーぞ」
そんじょそこらの麦茶じゃなんだよと、樹が入れてくれた麦茶のグラスを先輩が僕の前に置いた。
グラスを持つと煎りたてのような麦の香りが漂ってきた。
なんだコレ、香ばしくて。
「うまっ」
「職人さんが焙煎した本物の麦茶だぞ。それをちゃんとやかんで煮出したから色も違うだろ」
確かに。珈琲と見紛う濃さだ。
3人で麦茶談義してたら、カウンターの方が何やら賑やかになってきた。
「おっといけない。たぶんまー爺だ。平川さん、行ってきます」
げっ。
トイレに逃げようとしたら、出迎えに行った樹がまー爺を連れてきた。
はえーよ、樹。
「平川ちゃん、ごめんごめん。急いで食ってきた。まだ紅緒はデザート食ってるが」
そう言いながらこちらに歩いてくる。良かった、まだ来ないんだ。
来る前に挨拶して帰ろっと。
先輩が立ち上がったので僕もコレ幸いと立ち上がる。
「あれ、日向くんじゃないか。何だ、平川ちゃんが言ってた人って君だったのか」
と僕の方へ歩いてきた。
「まーちゃん、日向をご存知だったんですね」
先輩が自分の席をまー爺に譲ろうとする。
「平川ちゃん、わしはホスト側だよ。やだよ、上座なんざ」
と笑いながら、僕を先輩の隣に促す。
「さて、じゃ改めて」
とまー爺が名刺を僕に名刺を渡してきた。
笠神ビルの名刺をもらう。肩書きに驚いた。
いっつも家に居て、よく遊びに連れて行ってもらってたけど。
「どうだ、驚いただろう。これが必殺遊び人の名刺だ」
「遊び人の名刺、初めていただきました」
捧げつつで名刺を頂くと、まー爺はえっへんと、おちゃめに胸を張り僕を見上げた。
「わしが名刺を渡すまでになったんだねぇ。大きくなったねぇ」
僕は苦笑いを浮かべた。
ええ、見てくれだけは大きくなりました。
僕も会社からもらった名刺をまー爺に渡す。
「ほー、インターンねぇ。見習いみたいなもんか」
「そうです。平川先輩の付き人ですよ」
ほれ、座ってと言われ僕らはソファに腰掛けた。
笠神不動産って紅緒のばーちゃんの会社だよな。まー爺が役員って大丈夫か。
「必殺遊び人って」
不思議そうに先輩が僕とまー爺を見る。
「だってわしの仕事って昼間暇じゃない。だから」
「実際遊んでたじゃん、ね」
そう言いながら樹がマッカランのロックを作り、まー爺に渡す。
「そのお陰で、おまえら色んな所へ連れて行ってやったろうが」
確かに、長期休みや週末なんかよく連れ出してくれたっけ。
子供ぞろぞろ引き連れて、面倒見のいい人だよな、今だにお世話になってます。
おっといけない。帰るんだった。
「まー爺、会って直ぐで悪いけど、僕そろそろ……」
そう言って席を立ちかけたら聞き覚えのある声が響いてきた。
「居たーーーーっ」
「あ」
紅緒がわずか数メートル先に立って、こっちを指さしている。
何だかとても怒ってるようだ。
ツカツカと歩いてくるが、次第に足早になり。
うっそ。
勢いよく僕に抱きついてきた。
屈んだままの僕に紅緒が抱きついてきた。
受け止めた僕にとってもう抱きとめるというよりこれは抱擁に近いんじゃね?
こんなに華奢だったっけ。
こんなに頭、小さかったっけ。
めっちゃ泣いてるじゃん。
こなに泣き虫だったっけ。
「わーちゃん。何してたんだよう」
ここで僕の意識はぶっ飛んだ。