美しい花には、毒がある。同じように、綺麗事の裏には、醜い本音が潜んでいる。
「そういや、もうすぐ体育祭だっけ?」
十月初旬。風の冷たさに秋を感じながら、隣を歩く友人が発した言葉に顔をしかめた。
「嫌なこと思い出させんなよ……」
「あれ?政貴って運動苦手だっけ?」
人好きのする顔が俺を覗き込む。笹原志郎。俺とは小学校からの腐れ縁だ。
「運動の得手不得手と、体育祭の好き嫌いは関係ないだろ」
俺は拗ねたように呟く。そばに立つ街路樹が葉を散らした。幹の根本には動物の足跡のような形の紅葉が降り積もり、色鮮やかな小山を作っている。
秋は嫌いだ。体育祭をはじめ、面倒臭い学校行事がやたらと多い。
「だったら俺に運動神経ゆずってくれよ。俺だって一生に一度くらい女の子からの黄色い声援浴びたいっての!」
笹原が羨ましそうに言った。いや、別に俺もそんな声援浴びたことないぞ。
「でもまあ、いつものごとく西条さん張り切るだろうなぁ」
笹原が頭の後ろで手を組む。俺はその名前を聞いて軽く鳥肌が立った。
西条海鈴。俺と笹原のクラスの学級委員長。才色兼備のお嬢様で、品行方正とか公明正大とかの四字熟語が似合うTHE・優等生。ちなみに、俺が一番嫌いなタイプの人間だ。
「そうだな……しかも今日、ホームルームあるし。嫌な予感しかしない」
黒板の前で意気揚々と体育祭について話す西条を想像する。……なんか急に足が重たくなってきた。
溜息をして顔を上げる。俺たちの通う美保高校の正門が、冷たい秋風を通すように口を開いていた。
「それでは今から、競技内容の発表に移ります!」
大きな瞳を輝かせて、西条海鈴が呼び掛けた。
四限目のホームルーム。やはり議題は体育祭だった。教壇に上がった西条によると、体育祭は来週末に行われ、俺たち二年は全部で五つの競技に出場するらしい。そして今、西条がその競技名を黒板に書き込んでいる。俺は少しでも楽な種目がある可能性に賭けて、白い文字の行方を追っていた。やがてカッと小気味の良い音が響き、西条がチョークを止めた。クラス中の視線が黒板に集中する。神よ、どうか俺に慈悲を……!
「……嘘だろ?」
書き込まれた文字を見て、失意の底に突き落とされた。借り物競争、玉入れ、騎馬戦、クラス全員大繩跳び、そして、選抜メンバーによる代表リレー。最初の二つはいいとして、後ろ三つがダルすぎる。クソ、一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。
「みんな聞いて。知っての通り、美保高の体育祭では毎年、学年ごとに順位を決めるわ。つまり、私たち四組は、同じ二年生の他四クラスと優勝を争うわけ」
長い黒髪を揺らして、西条が俺たちを振り返った。鼻筋の通った顔には、底知れぬ自信が漲っている。うわ……またいつものアレだ。
「体育祭なんてかったるいと思っている人も、中にはいるかもしれない。けれどね、一期一会という言葉があるように、私たちが同じクラスになったのは奇跡だと思うの。だから私は、ここに居るメンバーで絶対に優勝を掴みたい。そして、みんなで最高の思い出を創り上げるの。さあみんな、優勝目指して頑張りましょう!」
西条が高々と拳を掲げた。が、彼女に倣う者は誰もいない。みんな呆然と口を開いている。
これが西条のお決まりパターンだ。独りで綺麗事を宣って、周囲の人間を置き去りにする。はっきり言って、もうウンザリだ。
「すみませ~ん。リレーは誰が走るんですかぁ?」
微妙な空気の中、一人の女子が訊ねた。リレーという単語に、俺の心臓がキュッと縮む。
「そうね。リレーのメンバーは、各クラス男女五人ずつで選出します。立候補したい人がいれば、ぜひ手を挙げてくれますか?」
西条が挙手のポーズを取る。当然誰も手を挙げない。
「誰もいないのね……。じゃあオーソドックスに、体力テストの短距離のタイムを参考に決めます」
西条が少し残念そうに言った。体力テストがあったのは半年くらい前だ。だから正確なタイムは覚えてない。だが、思ったより落ちてないな、と思った記憶はある。これはもしかしたら……
「女子は私と、早瀬さんと……」
西条が再びチョークを走らせる。一人で体育祭に情熱を燃やすだけあって、彼女自身もリレーに出るようだ。女子五人の名前を書き終え、続いて男子へ。早まる鼓動を感じながら、俺はどうか自分の名前が出ないことを祈る。
「えーと……男子の一人目は、久保くんね」
呼吸が止まった。黒板にサラサラと、久保政貴、と書き込まれる。
「え?久保くんって、足はやかったの?」
前に座る女子が、意外そうな顔で振り向いてきた。
「あー……中学の時、陸上部だったから」
俺はポリポリと頭を掻いた。……最悪だ。リレーだけは二度とやりたくなかったのに。
「はい。じゃあ以上十名の人に、このクラスの代表としてバトンを繋いでもらいます」
西条がチョークを置いた。どうやら彼女としては、このメンバーで決定らしい。クラスのみんなも、わざわざ反論する方が面倒とばかりに受け入れている。
だけど、俺からすればリレーに出るなんて有り得ない。その言葉を聞くだけで、中学の頃のトラウマが蘇ってくる。ダメだ。吐き気がしてきた……やっぱり、辞退させてもらおう。
「すまん西条、俺はリレーには……」
「ケッ。体育祭なんざくだらねぇ」
俺が辞退の表明のため手を挙げた時。教室後方から、吐き捨てるような声がした。
「くだらないって……上垣くん、それはどういう意味?」
教壇の西条が眉をひそめた。
「そのままの意味だろうが。こんなの、ただのお遊戯会だろ」
教室中の視線が後ろに集まる。そこにいたのは、つまらなさそうに頬杖を突く一人の男子。側頭部を刈り上げたツーブロックに、切れ長の鋭い瞳。美保高校ボクシング部の星であり、校内では不良として有名な上垣龍牙だ。ちなみに、代表リレー走者の中には彼の名前もある。
「人が真剣にやろうとしていることをお遊戯会って、失礼だと思わない?」
「人って誰だよ。どう見てもハッスルしてんのはお前一人だろ」
上垣が教室を見回した。咄嗟に目を逸らす者がほとんどだったが、中には頷く者もいた。
「それは……現時点では、そうかもしれない。だけど、練習していく内にやる気が沸いてくるはずよ。だって、どうせやるのなら勝った方が嬉しいでしょ?適当にこなすより、本気で取り組んだ方が良い思い出になるに決まってる」
西条が負けじと反発した。しかし、上垣は嘲笑するように鼻を鳴らす。
「はっ。思い出作りがしてぇなら、みんなで体育祭サボって遊び行った方がマシだろ」
上垣の言葉に誰かが笑った。そこから波紋が広がるように、教室中がざわめき出した。
「それ普通に名案じゃね?」
「え、体育祭サボってプリとか、逆にウケない?」
茶化した笑いが飛び交う。そんなクラスの様子を見て、西条は焦ったように口を開いた。
「そ、そんなのおかしいわ!みんなで協力して何かを成し遂げるから、初めて意味のあるものになるんじゃない!」
「西条の言う通りだぞー。それにお前ら、俺の前でサボるだなんて言うな」
黒板の隅の方から声が加わる。担任の矢野先生だ。荒れ出したクラスを前に、困ったように眼鏡のブリッジを押し上げている。
「とにかく、俺は体育祭なんざやらねぇ。リレーも出ねぇ」
上垣が席を立った。そのままスタスタと歩いて出口に向かう。
「ちょっと上垣くん!まだホームルームは終わってな…」
「あーうるせぇ。うるせえのは綺麗事だけにしろよな」
上垣は鬱陶しそうに耳を塞ぎ、ピシャリと音を立てて教室から出て行った。最後の言葉にショックを受けたのか、西条は伸ばしかけた腕をダランと落とした。矢野先生は溜息を吐いて、上垣を追うべく教室から去った。チャイムが鳴るまで、生徒たちは好き勝手に喋り続けた。
「そういや、もうすぐ体育祭だっけ?」
十月初旬。風の冷たさに秋を感じながら、隣を歩く友人が発した言葉に顔をしかめた。
「嫌なこと思い出させんなよ……」
「あれ?政貴って運動苦手だっけ?」
人好きのする顔が俺を覗き込む。笹原志郎。俺とは小学校からの腐れ縁だ。
「運動の得手不得手と、体育祭の好き嫌いは関係ないだろ」
俺は拗ねたように呟く。そばに立つ街路樹が葉を散らした。幹の根本には動物の足跡のような形の紅葉が降り積もり、色鮮やかな小山を作っている。
秋は嫌いだ。体育祭をはじめ、面倒臭い学校行事がやたらと多い。
「だったら俺に運動神経ゆずってくれよ。俺だって一生に一度くらい女の子からの黄色い声援浴びたいっての!」
笹原が羨ましそうに言った。いや、別に俺もそんな声援浴びたことないぞ。
「でもまあ、いつものごとく西条さん張り切るだろうなぁ」
笹原が頭の後ろで手を組む。俺はその名前を聞いて軽く鳥肌が立った。
西条海鈴。俺と笹原のクラスの学級委員長。才色兼備のお嬢様で、品行方正とか公明正大とかの四字熟語が似合うTHE・優等生。ちなみに、俺が一番嫌いなタイプの人間だ。
「そうだな……しかも今日、ホームルームあるし。嫌な予感しかしない」
黒板の前で意気揚々と体育祭について話す西条を想像する。……なんか急に足が重たくなってきた。
溜息をして顔を上げる。俺たちの通う美保高校の正門が、冷たい秋風を通すように口を開いていた。
「それでは今から、競技内容の発表に移ります!」
大きな瞳を輝かせて、西条海鈴が呼び掛けた。
四限目のホームルーム。やはり議題は体育祭だった。教壇に上がった西条によると、体育祭は来週末に行われ、俺たち二年は全部で五つの競技に出場するらしい。そして今、西条がその競技名を黒板に書き込んでいる。俺は少しでも楽な種目がある可能性に賭けて、白い文字の行方を追っていた。やがてカッと小気味の良い音が響き、西条がチョークを止めた。クラス中の視線が黒板に集中する。神よ、どうか俺に慈悲を……!
「……嘘だろ?」
書き込まれた文字を見て、失意の底に突き落とされた。借り物競争、玉入れ、騎馬戦、クラス全員大繩跳び、そして、選抜メンバーによる代表リレー。最初の二つはいいとして、後ろ三つがダルすぎる。クソ、一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。
「みんな聞いて。知っての通り、美保高の体育祭では毎年、学年ごとに順位を決めるわ。つまり、私たち四組は、同じ二年生の他四クラスと優勝を争うわけ」
長い黒髪を揺らして、西条が俺たちを振り返った。鼻筋の通った顔には、底知れぬ自信が漲っている。うわ……またいつものアレだ。
「体育祭なんてかったるいと思っている人も、中にはいるかもしれない。けれどね、一期一会という言葉があるように、私たちが同じクラスになったのは奇跡だと思うの。だから私は、ここに居るメンバーで絶対に優勝を掴みたい。そして、みんなで最高の思い出を創り上げるの。さあみんな、優勝目指して頑張りましょう!」
西条が高々と拳を掲げた。が、彼女に倣う者は誰もいない。みんな呆然と口を開いている。
これが西条のお決まりパターンだ。独りで綺麗事を宣って、周囲の人間を置き去りにする。はっきり言って、もうウンザリだ。
「すみませ~ん。リレーは誰が走るんですかぁ?」
微妙な空気の中、一人の女子が訊ねた。リレーという単語に、俺の心臓がキュッと縮む。
「そうね。リレーのメンバーは、各クラス男女五人ずつで選出します。立候補したい人がいれば、ぜひ手を挙げてくれますか?」
西条が挙手のポーズを取る。当然誰も手を挙げない。
「誰もいないのね……。じゃあオーソドックスに、体力テストの短距離のタイムを参考に決めます」
西条が少し残念そうに言った。体力テストがあったのは半年くらい前だ。だから正確なタイムは覚えてない。だが、思ったより落ちてないな、と思った記憶はある。これはもしかしたら……
「女子は私と、早瀬さんと……」
西条が再びチョークを走らせる。一人で体育祭に情熱を燃やすだけあって、彼女自身もリレーに出るようだ。女子五人の名前を書き終え、続いて男子へ。早まる鼓動を感じながら、俺はどうか自分の名前が出ないことを祈る。
「えーと……男子の一人目は、久保くんね」
呼吸が止まった。黒板にサラサラと、久保政貴、と書き込まれる。
「え?久保くんって、足はやかったの?」
前に座る女子が、意外そうな顔で振り向いてきた。
「あー……中学の時、陸上部だったから」
俺はポリポリと頭を掻いた。……最悪だ。リレーだけは二度とやりたくなかったのに。
「はい。じゃあ以上十名の人に、このクラスの代表としてバトンを繋いでもらいます」
西条がチョークを置いた。どうやら彼女としては、このメンバーで決定らしい。クラスのみんなも、わざわざ反論する方が面倒とばかりに受け入れている。
だけど、俺からすればリレーに出るなんて有り得ない。その言葉を聞くだけで、中学の頃のトラウマが蘇ってくる。ダメだ。吐き気がしてきた……やっぱり、辞退させてもらおう。
「すまん西条、俺はリレーには……」
「ケッ。体育祭なんざくだらねぇ」
俺が辞退の表明のため手を挙げた時。教室後方から、吐き捨てるような声がした。
「くだらないって……上垣くん、それはどういう意味?」
教壇の西条が眉をひそめた。
「そのままの意味だろうが。こんなの、ただのお遊戯会だろ」
教室中の視線が後ろに集まる。そこにいたのは、つまらなさそうに頬杖を突く一人の男子。側頭部を刈り上げたツーブロックに、切れ長の鋭い瞳。美保高校ボクシング部の星であり、校内では不良として有名な上垣龍牙だ。ちなみに、代表リレー走者の中には彼の名前もある。
「人が真剣にやろうとしていることをお遊戯会って、失礼だと思わない?」
「人って誰だよ。どう見てもハッスルしてんのはお前一人だろ」
上垣が教室を見回した。咄嗟に目を逸らす者がほとんどだったが、中には頷く者もいた。
「それは……現時点では、そうかもしれない。だけど、練習していく内にやる気が沸いてくるはずよ。だって、どうせやるのなら勝った方が嬉しいでしょ?適当にこなすより、本気で取り組んだ方が良い思い出になるに決まってる」
西条が負けじと反発した。しかし、上垣は嘲笑するように鼻を鳴らす。
「はっ。思い出作りがしてぇなら、みんなで体育祭サボって遊び行った方がマシだろ」
上垣の言葉に誰かが笑った。そこから波紋が広がるように、教室中がざわめき出した。
「それ普通に名案じゃね?」
「え、体育祭サボってプリとか、逆にウケない?」
茶化した笑いが飛び交う。そんなクラスの様子を見て、西条は焦ったように口を開いた。
「そ、そんなのおかしいわ!みんなで協力して何かを成し遂げるから、初めて意味のあるものになるんじゃない!」
「西条の言う通りだぞー。それにお前ら、俺の前でサボるだなんて言うな」
黒板の隅の方から声が加わる。担任の矢野先生だ。荒れ出したクラスを前に、困ったように眼鏡のブリッジを押し上げている。
「とにかく、俺は体育祭なんざやらねぇ。リレーも出ねぇ」
上垣が席を立った。そのままスタスタと歩いて出口に向かう。
「ちょっと上垣くん!まだホームルームは終わってな…」
「あーうるせぇ。うるせえのは綺麗事だけにしろよな」
上垣は鬱陶しそうに耳を塞ぎ、ピシャリと音を立てて教室から出て行った。最後の言葉にショックを受けたのか、西条は伸ばしかけた腕をダランと落とした。矢野先生は溜息を吐いて、上垣を追うべく教室から去った。チャイムが鳴るまで、生徒たちは好き勝手に喋り続けた。

