(虚構症候群……)
帰り道、自転車のペダルを踏みながらも、私の頭ではその言葉がぐるぐると回り続けていた。虚構症候群――耳にしたことはある。テレビで特集されていたし、確か映画にもなっていた。けれど、それはあくまで遠い世界の話。まさか自分の生活圏にその患者がいるなんて。
リビングでは妹の宙羽がソファに寝ころびタブレットを弄っていた。キッチンにはエプロンを付けたお父さんが立ち、鼻歌交じりにフライパンを振っている。
「あ、お姉ちゃん。お帰り~。夕飯、ハンバーグだって! ハンバーグ!」
「はは、今日のはかなり上手くいったぞぉ」
「……うん、ただいま」
「……お姉ちゃん?」
自室へ行きベッドに制服を脱ぎ捨てると、私はパソコンを立ち上げた。「虚構症候群」と検索をかける。Wikipediaの記事がヒットする。
「ええと、概要は……」
存在認識障害症候群(Existence Recognition Deficiency Syndrome, 以下ERDS)は、特定個体に対する他者からの認識機能が進行性に低下することを特徴とする、稀少性神経伝達異常症候群である。本症は主に記憶保持機構とは独立して、対人関係構築および維持に関与する記憶表象系の障害を基盤と――。
「だ、だめだ~。全然よく分かんない……!」
専門用語がずらずら並ぶ文章に、私は早々にお手上げした。私は生まれながら(?)の文系だ。もっと、高校生にも分かる日本語で書いてくれればいいのに。
「なんか、もっと簡単なのないかな……」
溜め息をつきながら、さらに検索を続けると、別の記事に目が留まった。
「綾瀬凛花事件……」
聞いたことのある名前だ。概要を見るに、世界的に虚構症候群を知らしめた事件であるらしい。起こったのは、今から二十年前。
「えっと……人気女性歌手の綾瀬凛花が、全国生放送の音楽特番に出演。しかし歌唱の直前になって、共演者とスタッフ全員が彼女を『誰か分からない不審者』として認識し、番組の進行を停止した。綾瀬本人は自身の名前を叫びながらステージから排除さる――」
さらに下へスクロールすると、当時の映像クリップが残されていた。荒い画質だが、一人の女性がマイクを握り締め、必死に訴えているのが分かる。
『なにこれ!? ドッキリ!? 私です、綾瀬ですよ!!』
慌てふためく司会者。
困惑した顔の共演者。
スタッフに無理やり、舞台袖へ連れ出される彼女。
「いや、何か手違いがあった模様です。しばらくお待ちください」
と司会者がコメントし、画面は突然CMに切り替わった。
当時のネットの反応として、掲示板の書き込みが残されていた。
『生放送中に変な女が乱入してたw』
『今日の番組、マジでドッキリか何かだったの?』
『司会者も困惑してたけど、結局あれ何だったんだろう?』
まるで、綾瀬という歌手の存在そのものが、なかったことにされたみたいだ。
(あり得ない……本当に、こんなこと、あるの?)
パソコンの画面を見つめながら、私はふと、背筋が冷たくなるのを感じた。生放送の特集とあるし、綾瀬という歌手は相当な人気だったに違いない。でも、周囲の人々は彼女を完全に忘れている。本人が名前を叫んでも、何も思い出さない。
(そんなことって……)
「お姉ちゃ~ん!」
「わわわ!?」
突然背後から呼ばれ、私は盛大に椅子からずっこける。
「ご、は、ん!」
「そ、宙羽ちゃん……。そんな、いきなり叫ばないでよ!」
「もう何度も呼んだよ! お姉ちゃんのハンバーグ、私が食べちゃうからね!」
「え? 今日ハンバーグなの?」
「……なんか今日、本当に大丈夫? お姉ちゃん」
宙羽は呆れた目で私を見ていた。もし、私が虚構症候群にかかったら、こんなふうに、妹が当たり前に呼んでくれることもなくなるのだろうか。一瞬、胸の奥がぎゅっと痛んだ。でもそれを顔には出さず、宙羽の後を追ってリビングへと向かう。ハンバーグの香ばしい匂いが漂ってきていた。
お母さんの分を取り分けて、私たち三人は食卓に着く。平時休日を問わず、お母さんが早い時間に帰ってくることはほとんどない。
「どうなんだ、音葉。演劇の脚本は。悩んでたけど出来たのか?」
向かいのお父さんが、ふんわりとした笑顔で問いかけた。
「え? あ、うん……まあ、頑張ってる……」
書き上げた原稿は部室のゴミ箱に突っ込みました! ……なんてもちろん言えない。
「楽しみだなあ。お父さん、早引きして観に行こうかな。二日後なんだろ?」
「な、なに言ってるの。新歓用だし親は来れないって、もう……」
「そうか、残念だな……。でも、どうだ。録画とかしてきてくれないか? 去年の県大会もすごく良かったし、本当に楽しみだ」
「……でも、県大会も賞取れなかったし」
地区予選を勝ち上がり県大会まで進めたけれど、東海大会に進むことはできなかった。今でもあの時のことを思い出すと、死ぬほど悔しくなる。
「大丈夫だよ。宙羽たちの中ではお姉ちゃんの劇がいちばんだから」
「ええ? ありがとう……」
「いいっていって。報酬はハンバーグ半分で」
「だめ!」
宙羽がすかさず伸ばしてきた箸を慌てて押さえ、私は笑ってしまう。そんな賑やかでいつも通りの家族の風景なのに、頭の片隅には久遠という子が消えないでいる。
箸をしばらく動かしたあと、私は思い切って話題を変えた。
「ねえ、お父さん。綾瀬凛花って歌手知ってる?」
納豆をごはんにかけていたお父さんが、きょとんとした顔で私を見る。
「それはもちろん知ってるけど……急にどうしたんだ?」
「あ、いや。今日、学校でちょっと虚構症候群の話題になって……。でも、私たちの世代って、あんまり詳しく知らないから。病気が流行ったのって、私が生まれる前でしょ?」
「そうだな。お父さんとお母さんが結婚したころだから、二十年前かなあ」
「ねえねえ。きょこうしょうこうぐん、ってなに? 怖いやつ~?」
宙羽が能天気に、首を傾げながら言う。
「……そうか、宙羽はまだ小学校の授業じゃ習わないか」
お父さんは、宙羽にも分かるように虚構症候群を簡単に説明してくれた。その病気にかかった人に関する記憶が、周囲の人々から徐々に失われていく病気なのだと。
「……その綾瀬凛花の事件は、よく覚えているよ。お父さんも、その生放送の番組を見てたからなあ。完全に不審者だと思ったよ」
「じゃあ、お父さんも綾瀬凛花の曲とか知ってたってことだよね。それなのに、番組で見たときは忘れてたってこと?」
「いや、知っていたどころか……」お父さんは、言葉を探すように頬を掻いた。「実はお父さん、CD全部持ってて、ライブに行くレベルで、綾瀬凛花の大ファンだったらしいんだよ」
「え……?」
らしい、とお父さんは曖昧な言葉を使った。
「びっくりしたよ。生放送の事件があった後で、ふと家のCDラックを見たら、綾瀬凛花のCDがずらりと並んでたから。ただその時、お父さんの中では綾瀬凛花なんて人物は知らなかった。完全に、別の人が歌ってるものだと勘違いしてたよ」
「ライブに行った記憶や、曲自体は覚えてるけど、その中心にいる綾瀬凛花のことは完全に忘れてたってこと?」
「ああ……確かその現象にも、前があったはずなんだけど。なんだったかな……」
お父さんが眉間を揉んでいると、
「代理記憶置換」
背後から声がした。
振り向けば、スーツ姿のお母さんが立っていた。話に夢中になっていて、玄関のドアが開いた音すら気づかなかった。
「お母さん! お帰り」と私。
「ただいま」
「お、今日はちょっと早かったな。ご飯よそうよ」
お父さんは箸を置きながら立ち上がろうとしたが、お母さんは小さく手を振った。
「ありがとう。でも自分でするからいいわ。それより今、虚構症候群の話をしてたでしょう」
「音葉に聞かれてな。こういうのは、お母さんの方が専門だもんな」
「専門というほどじゃないわよ。仕事柄少し詳しいだけ」
お母さんは、大学では記憶論や現象学を専門に教えている准教授だ。難しいことをたくさん知っているのに、それをひけらかしたりはしない。
「ねえお母さん、『代理記憶置換』って何のこと?」
「虚偽記憶って言葉は聞いたことある、音葉? 本当は経験していないのに、あったこととして記憶してしまう現象よ。認知症やトラウマの研究でもよく扱われるけれど、虚構症候群では、それが患者自身ではなくて――周囲の人間に起きるの」
「私たちが、その人に関することを忘れちゃうから……?」
「そう。虚構症候群の影響によって忘れられた部分はどうなると思う? ぽっかりと空いただけ? 違う。人間の脳は整合性を保とうと修復を試みる。自分の脳内から、代わりの人物をそこに勝手に差し挟むの」
「じゃあ……脳が勝手に綾瀬凛花の代わりを作るの?」
「そう。お父さんと私は、同じライブに行った記憶がある。でも――」
「お父さんは、浜崎あゆみのライブだと思ってたけど……」
「私は、椎名林檎のライブだと思ってたのよ。実際に行ったのは、二人とも綾瀬凛花のライブだったのに」
「ぜ、全然違うじゃん……!?」
「それが虚構症候群の怖いところなのよ。同じライブに行っていたという記憶が、私たち二人の間でいつの間にか食い違っていたんだから」
お父さんはぽりぽりと頬を掻く。
「それでなあ、当時はそれがもとで、ちょっとした修羅場に……」
「あなたが妙に焦ってたからよ。私は浮気を疑ったもの」
お母さんがさらりと言ってのけると、お父さんは「はは……」と苦笑いした。
「記憶の改変って自分では中々気づけないの。人は自分の記憶を正しいと思い込んでしまう。聞くところによれば、綾瀬凛花の関係者たちの記憶は、めちゃくちゃだったらしいわ。脳内はありもしない虚構の記憶に塗れる。だからこそこの病気は通称こう呼ばれているの。虚構症候群って」
「……患者と関係が深いほど、偽物の記憶がいつの間にか作られちゃうんだ」
お母さんの解説で、私はことの深刻さを理解し始める。
(周囲の人から記憶が消えるって、ただの孤独じゃないんだ。社会そのものが、歪んでいく……)
「綾瀬凛花の場合は、彼女が有名なタレントだっていうのも大きかったよな」お父さんが言う。「有名人はテレビに出る機会も多いから、より多くの人に影響を与える。だからあんなに社会が混乱したんだろうな」
「あ……」
私はそこで、久遠くんの言葉を思い出す。
――虚構症候群の患者なんだ。だからどうあがいても演劇は出来ない。
演劇は大勢の観客の前に立たなければならない。二日後の新歓公演だって、一年生全員が来る。舞台に立てば、その観客たちの記憶に久遠透という存在が刷り込まれる。でも、その彼の記憶はいずれ消え、別の人物に置き換わってしまうかもしれない。三百人近い人間に影響を及ぼすのだ。
「今、罹ってる人ってどれくらいいるの?」
「全国で百人程度。ただ、虚構症候群は早い段階で顕在化することは少ないわ。綾瀬凛花だって、彼女がステージⅣに進行するまでは気づかれなかったんだから」
「やだ、なんか怖いよ」宙羽が泣きそうな声で呟いた。「もし私が罹ったら、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、宙羽のこと忘れちゃうの……?」
「大丈夫!」お父さんはどんと自分の胸を叩く。「お父さんは皆が罹ったって、絶対に忘れない自信があるぞお!」
「そんな簡単なものじゃないと思うわよ」
とお母さんはすげなく言った。
「癌を気合いで乗り切る、と言っているのと同じよ。実際問題、病気としては存在しているんだから。簡単に乗り越えられるものじゃない」
「……うう」
お父さんはしゅんと小さくなってしまう。楽天家なお父さんと違って、お母さんはどこまでも現実主義者だ。
「でも、例外はあるらしいわ」とお母さんは続ける。「強い記憶は、虚構症候群でも消えないこともあるらしいの。それに、なくなるのはあくまで記憶だけよ。誰かに忘れられても、その人が残せるものだってある。だって現にお父さんもお母さんも、綾瀬凛花の歌は覚えてるから」
「……あ!」
その言葉を聞いて、私の頭の中に何かが走った。
(いや、だとすれば――)
私は目の前のご飯を勢いよくかっ込んで、平らげる。
「……お母さん、ありがとう!」
「ん? 音葉、どうしたの?」
「……うん。なんか靄が晴れた気がする! ごちそうさま!」
お皿を下げて、すぐに二階の自室へ駆け上がる。
机の引き出しから原稿用紙を引っ張り出しペンを握る。キーボードでなんて打ち込んでられない。いますぐに、頭の中を全部、原稿用紙の上に書き殴りたい。
(……私のやりたいこと)
お母さんたちの話を聞いて、少しだけ分かってきた。虚構症候群という病気がどんなに深刻なのか。いや、きっとまだ、病状の深刻さなんて露ほども理解していない。
それでも、私のやりたいことは明確に見えた。
(私は、久遠くんと一緒に演劇をやりたい!)
だから私は、書き上げることにした。
彼のための、彼がまた舞台に立ちたくなるような、そんな脚本を――。
……。
どれくらい時間が立っただろうか。
目の前には、脚本が完成していた。
「……できた」
スマホを見てぎょっとする。時刻は既に0時近くなっていた。いつもこうだ。脚本を書くとき、人から話しかけられたりしても全く気付かないことがある。気付けば朝になっていたなんてこともざらだ。
リビングへ行くと、お風呂上りのお母さんがホットミルクを飲んでいる。お父さんと宙羽はもう寝てしまったらしい。
「お風呂、先に入らせてもらった。音葉、声かけても気づかなかったから」
「ごめん、ちょっと夢中になっちゃって……」
「夢中になると昔からそうだったものね。それでどう? いいのできたの?」
「うん。できた」
「そう、よかった」お母さんが微笑んだ。
脚本は完成した。
あとはこの舞台を開くだけだ。
彼――久遠くんと。
