「……うん、読み終わったよ。橘さんの書いた脚本」
狭い部室の中、私は読み終えたA4の原稿用紙をとんとんと机の上で揃える。読み終えたのは、新歓公演用の短い演劇の脚本だ。原稿用紙は赤字で細かく修正され、脚本家の頑張りと真剣さが伝わってくる。
「ずっと考えて書いたんだね。ただ――」
読み終えた率直な感想を言わせてもらうと――。
「全然、だめっ!」
私は、ぐしゃりと原稿を丸めると、隅のゴミ箱へと勢いよく放り投げた。
「ごめん、正直全然面白くない。ねえ、どんな気持ちで私にこの脚本出してきたわけ? 本当にこれを新入生の前で演じるつもり? 新入生が魅力を感じると思う? というか、こんな多人数の高度な演技ができると思ってる? ぜ~んぶ書き直してください!」
思いを全て吐き出して、私は机の上に倒れ込む。
「まったく……本当に駄目だよ。こんなつまらない脚本を書くようじゃ~……私!」
脚本を書いたのは、私――橘音葉自身だった。
行われていたのは自分で自分を叱責する下らない茶番だ。
だめ、全くだめ!
悩みに悩んで、昨日の夜にようやく完成させた、新歓公演用の脚本。それを今日になって、改めて読み返したけれど、正直全く面白くない! 昨日の夜は確かに面白いものが書けたと思ったのに! 「現代のシェイクスピア降臨!」とか布団の中で一人ニヤついていたのに!
ぶわりと、窓の外で大きな風が吹く。
桜の花がばあっと部室の中へ飛び込んできた。窓から外を見れば、グラウンドからはサッカー部の掛け声、吹奏楽部の練習音が流れてくる。どこの部も新入生の勧誘で気合が入っているようだ。
私立蒼穂学園高等学校――『自主・創造・協働』を理念に掲げる県内でも指折りの進学校だ。運動部や吹奏楽部は県大会常連、部活動目当てでこの学校へは行ってくる生徒も多い。
「いいな~、他の部は……」
でも、この演劇部は違う。昨年まで三人いた先輩たちは卒業し、今、部員は二年生の私一人きり。
なんとかして、新入生を部活に誘い込みたい。二日後には、新入生への文科系部活の紹介活動があり、演劇部は20分の公演時間を用意されている。
その脚本を用意していたのだけれど、破り捨てたのがついさっき! 公演は二日後に迫ってるのだし、もうその脚本を演じればいいのだろうけど――。
「だって、面白くないんだもん……」
部員が一人ということは、必然的に私が私が主演を務めることになる。書いた本人すら面白いと思えない脚本を、自分で演じるなんて――無理だ。
……というか私、脚本を書くのは好きだけど、そもそも演じることはそんなに得意じゃないし。なのに、書いてしまったのは技巧的で難しい役柄だし! 準備間に合わないし!
「うぁ~どうしよ、どうしよ、どうしよ~……」
と頭を抱えていると、部室の扉がノックされる。
「あっ、は、はぁい!」
奇声を聞かれてやしないかと、慌てて取り繕った声を出す。
「おいっす。橘、ちょっとだけいい?」
顔を出したのは演劇部の顧問、仁科先生だ。先生は無精ひげを撫で、丈の合わない白衣をずるずると引きずりながら部室へ入ってきた。
「今年の演劇部、君一人だよね」
「あ、はい……」と私は頷く。
「橘も知ってると思うけどさ。うちの高校って部室が不足してるんだよね」
「あ、はは……そうですよね……」
この高校では続々と新しい部活が認められている。嫌な予感がしてきた。
「それでさ、今ね、女バド部が部室を広げたいって言っててさ」
仁科先生は、演劇部と女子バドミントン部の顧問を兼部している。この高校の女子バドミントン部は強豪、特に今年の副部長はシングルスで全国大会にも出場経験があり、先生たちからの注目度も高いらしい。
「……」
「んで、職員会議で、部室の見直しもあって。新入生の勧誘がうまくいかない場合、せめて二人部員が入らなければ、部室の継続使用は難しいかなって言われててさ」
静かに突きつけられた終わりの気配。
先生は悪くない。これが学校にとって合理的な判断ということは分かっている。
「……わかりました。がんばってみます」
「うん。いや、俺としても応援したいけど学校側の判断だからな。君の脚本、俺は好きだよ。昨年の『籠の中の鳥』、かなり良かったし」
「あ、あはは……。ありがとうございます~」
先生が出て行ったあとで、私は大きな溜息を吐いた。
「……『籠の中の鬼』だよ、先生」
去年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』。タイトルにも深い意味を込めた、大切な作品だった。それを顧問に間違われるなんて、あまりにも――。
「く、や、し~~~……!」
大声で叫び地団太を踏んで、机に向き直る。
文句を言ったって始まらない。
まず私がしなければいけないのは、すっごい脚本を書き上げること。新入生がばんばん入って、部室もそのまま存続させて、先生にも名前を覚えてもらえるような!
「――でも」
アイデアは私の頭の中にはっきりとある。でも、それを演じられるイメージはまるでない。だって私、演技そんな上手くないし。脚本家としての理想と、役者としての現実。その落差に、何度も何度も押しつぶされそうになる。
昨年の舞台だって、全力を尽くした。先輩たちは頑張ってくれた。良い講評も貰った。それでも、私の思い描いた理想の演劇からは遠い。
私の書いた言葉を、誰かの声で響かせてほしい。
でも、そんな“誰か”がいない。
結局、原稿は白紙のまま下校時刻を迎えた。鍵を閉めて、人気のない校舎を歩く。もうこの部室にも来れなくなるのかもしれない。長年ずっと演劇部が使ってきた部室なのに。
(止めたくない。もっと演劇を、私は……)
そう心の中で呟いた、そのときだった。
ふわりと、視界に舞い降りたものがある。
――シャボン玉。
夕陽を映して、淡くきらめきながら、目の前で弾けた。
(え?)
なんでと疑問に思いながら、シャボン玉が出てきた教室を覗き込む。
部屋の中に何個もシャボン玉が浮かび上がっている。そしてその向こう、一人の男子生徒が、教室ベランダの手すりに身を預けていた。黒髪が風に揺られている。
(な、なんか雰囲気ある……)
横顔しか見えないけれど、そう思った。
彼の傍らには、ピンク色のシャボン玉の容器。手には緑の拭き具を持っている。
突然、彼は夕陽へ向けて、手を大きく挙げた。まるで何かを求めるように。
「ああ、美しい太陽よ。あの嫉妬深い月を殺してしまえ」
澄んでいて、それでよく通る、玲瓏な声。
誰に聞かせるわけでもなく、彼は続ける。
「月は悲しみのために病んで、青ざめている。
君という太陽が、彼女よりもはるかに美しいからさ。
そんな嫉妬深い月になんて仕えるな。」
その姿と声音は、あまりにも自然で様になっている。
私はただ見惚れていた。
華。
観客たちの眼を奪う、舞台の上に咲く、一凛の華。
(それに、今の台詞って……)
がたり、と。思わず手をかけていた扉が鳴った。
その音に、彼が振り返った。
「……誰?」
鋭い警戒の色を宿した視線が、私を射抜く。すっと通った鼻梁、ぱっちりとした瞳。後ろ姿から想像していた以上に整った、凛とした顔立ちだ。
「……見てたの?」
「あ、え、いや……」
咄嗟に出た私の声は、我ながら情けないほどに弱々しかった。
彼はため息を吐くと、床のバッグを拾い上げ、教室後ろの扉へ早足で向かう。
「あ、待って!」
空き教室で一人演技しているところを覗き見されたのだ。いい気分なはずがない。
でも、私は彼と別れたくなかった。だから足りない頭を必死に回して、声を絞り出 す。
「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの!」
彼の手が、後方の扉に触れたままぴたりと止まる。驚いた顔で私を見つめる。
私は彼へと手を差し出した。
「あなたのお父様を捨てて、モンタギューという名を拒んで。
それが無理なら、ただ私を愛していると誓って。
そうしたら、私はキャピュレットでいるのをやめるから……!」
私は呼吸を整えながら、少しだけ歩み寄った。
彼の瞳には、驚きと戸惑いと――そして、微かな興味が浮かんでいた。
「あ、あなたがさっき、ベランダで呟いていた言葉、キャピュレット家の庭園でロミオの台詞だよね……?」
おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの。
作品を見たことがなくとも、その台詞自体は誰もが知っているはず。ロミオとジュリエット、世界で最も有名な舞台劇の最も有名な一場面。彼の台詞は、庭園のバルコニーにおけるロミオの独白だった。だから私は、ジュリエットの言葉を返した。
彼はバッグを床に置き、私に近づいてきた。
私を見つめて、そして言う。
「もう少し聞いていようか?
それとも、声をかけてしまおうか?」
私はそれに、自然と応える。
「敵はあなたのそのお名前だけよ。
たとえモンタギュー家の人でなくとも、あなたにお変わりはないはずだわ」
私たちは互いに、言葉を紡いでいく。
観客はいない。でもこの瞬間、空き教室は紛れもなく私たち二人の舞台だった。台詞はところどころ曖昧だったけれど、不思議と流れは止まらない。ほんの数分だったけど、私たちは教室でロミオとジュリエットの一場面を演じきった。
演技を終えた瞬間、私は思わず、その場で大きな拍手をしてしまう。
「す……すごい! びっくりした! なに、なになになに? どういうこと!?」
今のエチュードで分かった。彼の演技力は並外れている。私自身、よく舞台を観に行くから分かるけれど――私がこれまで見てきた高校演劇の枠を軽々と超えていた。こんな子がこの高校にいたなんて、思いもよらなかった。
「間違いなく舞台経験者だよね!? 何かやってたの!?」
「いや……ちょっと、近いんだけど」
「え? わ……ご、ごめんなさい!」
気がつくと私は彼の鼻先まで迫っていた。慌ててばっと飛び退くと、彼は口元に手を当ててくすりと笑う。幼く見える笑顔だった。
「いや、そんな焦らなくてもいいと思うけど」
「あ、あははは……。ご、ごめん。私、落ち着きなくて。あ、えっと、自己紹介が遅れたけれど、私は演劇部で脚本やってる――」
「橘音葉さん」
「え」
「昨年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』、君の脚本でしょう?」
「えええ!? な、なんで知ってるの?」
「県大会見に行ったから。いい演劇だった。暗い中盤からのラストの爽やかな情景。個人的には、優秀校にも引けを取らない作品だったと思う」
「あ、ありがとう……!」
驚きと嬉しさで胸がいっぱいになる。
私の演劇を知っていてくれてるとすれば話が早い。
「だ、だったら! ね、演劇部に入ってくれない!?」
それを言った瞬間、彼の笑顔が、ふっと消えた。
「……ごめん。それは無理」
「えっ? どうして? ……あ、もしかして、もう他の部活に入っているとか? 校外の劇団とか? だ、だったら、週1とかでもいいし――」
「ううん、違う。君とのやり取りは楽しかった。でも、僕は、演劇はできないから」
彼は床に置いたバッグを拾い上げ、私に背を向けてしまう。
「あ……! た、確かに、私の演技力はあなたと比べて低いけれど! 部員もいないし! で、でも私は脚本や演出担当で……!」
「違う、そういうことじゃない」背を向けたまま彼は言う。「病気なんだ」
「……え?」
「虚構症候群の患者なんだ。だからどうあがいても演劇は出来ない」
彼はそのまま教室を出ていった。私は慌てて後を追い、後姿に話しかける。
「あ、あの、名前! あなた、何組!?」
「教えても意味ないよ。だって、君も僕を忘れてしまうんだから」
それだけ言うと、彼の姿は階下の奥へと消えていった。
西日の差しこむ廊下に私はただ一人残される。
「虚構症候群……」
そう、彼は言った。その言葉が信じられなかった。だってそれは、テレビやネットでしか聞かない。私たちの日常からはかけ離れた言葉だ。
それは、世界を震撼させた病。自身ではなく周囲に影響を及ぼす病気。その人に纏わる記憶が、その周囲から徐々に失われていく――そんな病気だ。
階段を降りる中、私は踊り場に生徒手帳が落ちているのを見つけた。さっき会った彼の学生証が挟まっていた。
「2年の……久遠透」
私はまだ、この病の重さも、彼の苦しみも、ちゃんと分かっていなかった。
でもこの日、私は確かに思った。
――彼と一緒に、舞台をつくりたい。
狭い部室の中、私は読み終えたA4の原稿用紙をとんとんと机の上で揃える。読み終えたのは、新歓公演用の短い演劇の脚本だ。原稿用紙は赤字で細かく修正され、脚本家の頑張りと真剣さが伝わってくる。
「ずっと考えて書いたんだね。ただ――」
読み終えた率直な感想を言わせてもらうと――。
「全然、だめっ!」
私は、ぐしゃりと原稿を丸めると、隅のゴミ箱へと勢いよく放り投げた。
「ごめん、正直全然面白くない。ねえ、どんな気持ちで私にこの脚本出してきたわけ? 本当にこれを新入生の前で演じるつもり? 新入生が魅力を感じると思う? というか、こんな多人数の高度な演技ができると思ってる? ぜ~んぶ書き直してください!」
思いを全て吐き出して、私は机の上に倒れ込む。
「まったく……本当に駄目だよ。こんなつまらない脚本を書くようじゃ~……私!」
脚本を書いたのは、私――橘音葉自身だった。
行われていたのは自分で自分を叱責する下らない茶番だ。
だめ、全くだめ!
悩みに悩んで、昨日の夜にようやく完成させた、新歓公演用の脚本。それを今日になって、改めて読み返したけれど、正直全く面白くない! 昨日の夜は確かに面白いものが書けたと思ったのに! 「現代のシェイクスピア降臨!」とか布団の中で一人ニヤついていたのに!
ぶわりと、窓の外で大きな風が吹く。
桜の花がばあっと部室の中へ飛び込んできた。窓から外を見れば、グラウンドからはサッカー部の掛け声、吹奏楽部の練習音が流れてくる。どこの部も新入生の勧誘で気合が入っているようだ。
私立蒼穂学園高等学校――『自主・創造・協働』を理念に掲げる県内でも指折りの進学校だ。運動部や吹奏楽部は県大会常連、部活動目当てでこの学校へは行ってくる生徒も多い。
「いいな~、他の部は……」
でも、この演劇部は違う。昨年まで三人いた先輩たちは卒業し、今、部員は二年生の私一人きり。
なんとかして、新入生を部活に誘い込みたい。二日後には、新入生への文科系部活の紹介活動があり、演劇部は20分の公演時間を用意されている。
その脚本を用意していたのだけれど、破り捨てたのがついさっき! 公演は二日後に迫ってるのだし、もうその脚本を演じればいいのだろうけど――。
「だって、面白くないんだもん……」
部員が一人ということは、必然的に私が私が主演を務めることになる。書いた本人すら面白いと思えない脚本を、自分で演じるなんて――無理だ。
……というか私、脚本を書くのは好きだけど、そもそも演じることはそんなに得意じゃないし。なのに、書いてしまったのは技巧的で難しい役柄だし! 準備間に合わないし!
「うぁ~どうしよ、どうしよ、どうしよ~……」
と頭を抱えていると、部室の扉がノックされる。
「あっ、は、はぁい!」
奇声を聞かれてやしないかと、慌てて取り繕った声を出す。
「おいっす。橘、ちょっとだけいい?」
顔を出したのは演劇部の顧問、仁科先生だ。先生は無精ひげを撫で、丈の合わない白衣をずるずると引きずりながら部室へ入ってきた。
「今年の演劇部、君一人だよね」
「あ、はい……」と私は頷く。
「橘も知ってると思うけどさ。うちの高校って部室が不足してるんだよね」
「あ、はは……そうですよね……」
この高校では続々と新しい部活が認められている。嫌な予感がしてきた。
「それでさ、今ね、女バド部が部室を広げたいって言っててさ」
仁科先生は、演劇部と女子バドミントン部の顧問を兼部している。この高校の女子バドミントン部は強豪、特に今年の副部長はシングルスで全国大会にも出場経験があり、先生たちからの注目度も高いらしい。
「……」
「んで、職員会議で、部室の見直しもあって。新入生の勧誘がうまくいかない場合、せめて二人部員が入らなければ、部室の継続使用は難しいかなって言われててさ」
静かに突きつけられた終わりの気配。
先生は悪くない。これが学校にとって合理的な判断ということは分かっている。
「……わかりました。がんばってみます」
「うん。いや、俺としても応援したいけど学校側の判断だからな。君の脚本、俺は好きだよ。昨年の『籠の中の鳥』、かなり良かったし」
「あ、あはは……。ありがとうございます~」
先生が出て行ったあとで、私は大きな溜息を吐いた。
「……『籠の中の鬼』だよ、先生」
去年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』。タイトルにも深い意味を込めた、大切な作品だった。それを顧問に間違われるなんて、あまりにも――。
「く、や、し~~~……!」
大声で叫び地団太を踏んで、机に向き直る。
文句を言ったって始まらない。
まず私がしなければいけないのは、すっごい脚本を書き上げること。新入生がばんばん入って、部室もそのまま存続させて、先生にも名前を覚えてもらえるような!
「――でも」
アイデアは私の頭の中にはっきりとある。でも、それを演じられるイメージはまるでない。だって私、演技そんな上手くないし。脚本家としての理想と、役者としての現実。その落差に、何度も何度も押しつぶされそうになる。
昨年の舞台だって、全力を尽くした。先輩たちは頑張ってくれた。良い講評も貰った。それでも、私の思い描いた理想の演劇からは遠い。
私の書いた言葉を、誰かの声で響かせてほしい。
でも、そんな“誰か”がいない。
結局、原稿は白紙のまま下校時刻を迎えた。鍵を閉めて、人気のない校舎を歩く。もうこの部室にも来れなくなるのかもしれない。長年ずっと演劇部が使ってきた部室なのに。
(止めたくない。もっと演劇を、私は……)
そう心の中で呟いた、そのときだった。
ふわりと、視界に舞い降りたものがある。
――シャボン玉。
夕陽を映して、淡くきらめきながら、目の前で弾けた。
(え?)
なんでと疑問に思いながら、シャボン玉が出てきた教室を覗き込む。
部屋の中に何個もシャボン玉が浮かび上がっている。そしてその向こう、一人の男子生徒が、教室ベランダの手すりに身を預けていた。黒髪が風に揺られている。
(な、なんか雰囲気ある……)
横顔しか見えないけれど、そう思った。
彼の傍らには、ピンク色のシャボン玉の容器。手には緑の拭き具を持っている。
突然、彼は夕陽へ向けて、手を大きく挙げた。まるで何かを求めるように。
「ああ、美しい太陽よ。あの嫉妬深い月を殺してしまえ」
澄んでいて、それでよく通る、玲瓏な声。
誰に聞かせるわけでもなく、彼は続ける。
「月は悲しみのために病んで、青ざめている。
君という太陽が、彼女よりもはるかに美しいからさ。
そんな嫉妬深い月になんて仕えるな。」
その姿と声音は、あまりにも自然で様になっている。
私はただ見惚れていた。
華。
観客たちの眼を奪う、舞台の上に咲く、一凛の華。
(それに、今の台詞って……)
がたり、と。思わず手をかけていた扉が鳴った。
その音に、彼が振り返った。
「……誰?」
鋭い警戒の色を宿した視線が、私を射抜く。すっと通った鼻梁、ぱっちりとした瞳。後ろ姿から想像していた以上に整った、凛とした顔立ちだ。
「……見てたの?」
「あ、え、いや……」
咄嗟に出た私の声は、我ながら情けないほどに弱々しかった。
彼はため息を吐くと、床のバッグを拾い上げ、教室後ろの扉へ早足で向かう。
「あ、待って!」
空き教室で一人演技しているところを覗き見されたのだ。いい気分なはずがない。
でも、私は彼と別れたくなかった。だから足りない頭を必死に回して、声を絞り出 す。
「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの!」
彼の手が、後方の扉に触れたままぴたりと止まる。驚いた顔で私を見つめる。
私は彼へと手を差し出した。
「あなたのお父様を捨てて、モンタギューという名を拒んで。
それが無理なら、ただ私を愛していると誓って。
そうしたら、私はキャピュレットでいるのをやめるから……!」
私は呼吸を整えながら、少しだけ歩み寄った。
彼の瞳には、驚きと戸惑いと――そして、微かな興味が浮かんでいた。
「あ、あなたがさっき、ベランダで呟いていた言葉、キャピュレット家の庭園でロミオの台詞だよね……?」
おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの。
作品を見たことがなくとも、その台詞自体は誰もが知っているはず。ロミオとジュリエット、世界で最も有名な舞台劇の最も有名な一場面。彼の台詞は、庭園のバルコニーにおけるロミオの独白だった。だから私は、ジュリエットの言葉を返した。
彼はバッグを床に置き、私に近づいてきた。
私を見つめて、そして言う。
「もう少し聞いていようか?
それとも、声をかけてしまおうか?」
私はそれに、自然と応える。
「敵はあなたのそのお名前だけよ。
たとえモンタギュー家の人でなくとも、あなたにお変わりはないはずだわ」
私たちは互いに、言葉を紡いでいく。
観客はいない。でもこの瞬間、空き教室は紛れもなく私たち二人の舞台だった。台詞はところどころ曖昧だったけれど、不思議と流れは止まらない。ほんの数分だったけど、私たちは教室でロミオとジュリエットの一場面を演じきった。
演技を終えた瞬間、私は思わず、その場で大きな拍手をしてしまう。
「す……すごい! びっくりした! なに、なになになに? どういうこと!?」
今のエチュードで分かった。彼の演技力は並外れている。私自身、よく舞台を観に行くから分かるけれど――私がこれまで見てきた高校演劇の枠を軽々と超えていた。こんな子がこの高校にいたなんて、思いもよらなかった。
「間違いなく舞台経験者だよね!? 何かやってたの!?」
「いや……ちょっと、近いんだけど」
「え? わ……ご、ごめんなさい!」
気がつくと私は彼の鼻先まで迫っていた。慌ててばっと飛び退くと、彼は口元に手を当ててくすりと笑う。幼く見える笑顔だった。
「いや、そんな焦らなくてもいいと思うけど」
「あ、あははは……。ご、ごめん。私、落ち着きなくて。あ、えっと、自己紹介が遅れたけれど、私は演劇部で脚本やってる――」
「橘音葉さん」
「え」
「昨年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』、君の脚本でしょう?」
「えええ!? な、なんで知ってるの?」
「県大会見に行ったから。いい演劇だった。暗い中盤からのラストの爽やかな情景。個人的には、優秀校にも引けを取らない作品だったと思う」
「あ、ありがとう……!」
驚きと嬉しさで胸がいっぱいになる。
私の演劇を知っていてくれてるとすれば話が早い。
「だ、だったら! ね、演劇部に入ってくれない!?」
それを言った瞬間、彼の笑顔が、ふっと消えた。
「……ごめん。それは無理」
「えっ? どうして? ……あ、もしかして、もう他の部活に入っているとか? 校外の劇団とか? だ、だったら、週1とかでもいいし――」
「ううん、違う。君とのやり取りは楽しかった。でも、僕は、演劇はできないから」
彼は床に置いたバッグを拾い上げ、私に背を向けてしまう。
「あ……! た、確かに、私の演技力はあなたと比べて低いけれど! 部員もいないし! で、でも私は脚本や演出担当で……!」
「違う、そういうことじゃない」背を向けたまま彼は言う。「病気なんだ」
「……え?」
「虚構症候群の患者なんだ。だからどうあがいても演劇は出来ない」
彼はそのまま教室を出ていった。私は慌てて後を追い、後姿に話しかける。
「あ、あの、名前! あなた、何組!?」
「教えても意味ないよ。だって、君も僕を忘れてしまうんだから」
それだけ言うと、彼の姿は階下の奥へと消えていった。
西日の差しこむ廊下に私はただ一人残される。
「虚構症候群……」
そう、彼は言った。その言葉が信じられなかった。だってそれは、テレビやネットでしか聞かない。私たちの日常からはかけ離れた言葉だ。
それは、世界を震撼させた病。自身ではなく周囲に影響を及ぼす病気。その人に纏わる記憶が、その周囲から徐々に失われていく――そんな病気だ。
階段を降りる中、私は踊り場に生徒手帳が落ちているのを見つけた。さっき会った彼の学生証が挟まっていた。
「2年の……久遠透」
私はまだ、この病の重さも、彼の苦しみも、ちゃんと分かっていなかった。
でもこの日、私は確かに思った。
――彼と一緒に、舞台をつくりたい。
