晶《あきら》はMRIの映し出した映像に釘付けになった。死亡したのは三十半ばの大学准教授。先日、やっと昇進したという若者だった。

 突然死だった。運び込まれた時には、すでに心肺停止状態だった。事実上、何の治療も施すことなく、死亡の断定をするだけだった。

 それから死亡原因を手分けして探っていた。晶は脳のMRIを見て、体中から脂汗が湧きだし、ゾッと寒気を覚えた。体中の毛が逆立ったようにも思う。

「なんだこれっ」

 隣にいる先輩医師である横井《よこい》が吐き出すように口にした。

「脳が膨張しているとしか思えませんね。でも……こんな映り方は異常ですよ」

 黒か白かで映し出される映像。しかし脳の内部ははっきりしないグレーのように映り、うねっている。そして頭蓋骨いっぱいに広がっている。いや、広がりすぎて頭蓋骨を押し、わずかにズレが生じている。

 あり得ない現象だ。

「解剖しましょうか。実際に目で見ないことには、判断できませんね」

 横井が慌ててくれたおかげで、晶は冷静さを保つ事ができた。

 取り乱した者を見た時の反応として、それに同調してしまうケースと、逆に冷静になるケールがある。恐怖や悲しみ、あるいは喜び、それらの感情が、周囲に共鳴を起こすか、感情をクローズさせるか、影響を与える。

 晶も場合は後者で、冷静に慣れた。誰よりも先になにかを発していたら、恐らく取り乱して横井たちに叱責されていただろう。

「すぐに取りかかりましょう。横井先生、いいですか?」
「…………」
「横井先生」
「あ、あぁ。そうだな。すぐに取りかかろう」

 準備を整え、すぐに解剖に取りかかった。
 そして、間もなく。

「うげぇぇ!」

 横井が口を押さえて洗面に駆け寄った。そして苦しそうに吐いている。解剖を手伝っていた看護士たちの一人はその場に倒れ込み、もう一人は蒼い顔をして壁に凭れて座り込んでいる。

 晶はただジッと死体の脳から出てきたモノを見つめていた。そしておもむろに脳の中からソレを取り出し、ゆっくりと引っ張った。
 青々しいソレ。

 どこからどう見ても――

(植物の、蔓)

 小さな葉が所々から生えている。遺体の頭蓋骨の中にはギッシリと蔓がはびこっていた。それだけではない。脳の中にも入り込み、膨張させていたのだ。

 蔓によって絡み込まれた脳は、その機能を完全に失ったのだろう。おそらく息もできず、苦しみ悶えて息絶えたと考えられるが、その時間はわずかだったはずだ。

 晶はその植物の蔓を丁寧に取り出し、綺麗に巻いて箱に入れたのだった。


 それからが慌ただしかった。家族に「植物に殺されました」などと言えるはずもなく、心不全として説明することになった。もちろん警察も動いている。しかし事件性が極めて低いため、病死とされ、表向き手を引いた。

 晶もそれが妥当だと思い、この奇怪な出来事を理性的に処理しようと考えた。しかし現実は違っていた。警察はこの出来事を調査するため、決して口外することなく、内々で協力するように言ってきたのだ。しかも、挨拶したのは警察庁の刑事局だというのだから驚きだった。

 晶はイヤな予感がした。それはなんとも言えない気持ちの悪さだった。虫の知らせとはこういうものか、などと茫然と考えた。

「研究室の端にアマヅラという植物が飾られていまして、それが脳に入り込んでいたモノと一致しました」

 眼前の男は岸野《きしの》と名乗った。まだ若い刑事だ。三十になったばかりの晶より若いだろう。しかしその顔つきや口調はしっかりしていて、さすがに警察庁の人間、キャリアだと思わざるをえなかった。

「あなたは死因がアマヅラ以外に考えられないと?」

 晶の問いに岸野が力強く頷く。

「では大澤《おおさわ》先生、それ以外の死因を考えられますか?」

 晶は一瞬沈黙した。それから首を左右に振った。

「身体に異常はありませんでした。あの植物がなければ、起こらなかった事故だと思います」

 晶は慎重に言葉を選んで続けた。

「事故?」

 と、岸野が聞き返す。片側の口角が吊り上がっている。口元には笑みがあるが、目は笑っていない。

「植物が人間を殺したなど、口にしたくはありませんが」
「救急隊の話では、駆け付けた時、患者の体に一本のアマヅラの蔓が絡んでいたそうです。隊員がそれを手で千切ったと証言しています」
「…………」
「実は、これが初めてではないのです」

 晶は蒼い顔をしてその言葉を聞いた。

「完全には把握していませんし、実際、隠す病院もあるんですが」
「刑事さん」
「我々は怪奇現象と言って片付ける気はありません。その為に協力していただきたいのです。すでに院長の許可は取っています」

 晶は項垂れた。

「横井医師は不適任と判断しました。看護士のお二人も無理だと思われます。今回のケースでは大澤先生だけにお願いしたいのです」
「なにを?」
「なにを?」

 晶の力ない問いに、岸野は怪訝な顔をして反復した。

「なにを協力するんですか? 私は医者です。植物が人間を襲う理由も、植物の進化も、それらから身を守る術も知りませんし、調べる立場でもありません。せいぜい身体に与える影響ぐらいです」
「わかっています」
「植物を研究している機関に行かれた方が早いんじゃないですか?」

 岸野は小さく吐息をついた。

「死者はすでに多数出ているんです」
「え?」
「多数」

 岸野は睨むように晶を見つめた。

「もう相当数出ているのです。しかし事が事で、軽率な行動はできません。パニックは絶対に避けねばなりません。横井医師が不適任と言ったのはそのためです。決して他には漏らさず、冷静に対応できる方に協力いただきたいのです。大澤先生、なんらかの影響によって植物が進化し、我々の敵になろうとしています。それを調べなければなりません。関係機関への働きかけは済んでいます。あとは人材確保だけです」

「警察は……それを調べて、すでに動いていると?」

 岸野は頷いた。

「今騒がれているどんなウイルス感染よりも、遙かに上回る新たな脅威が発生していると思われます」

 晶は天を仰いだ。
 敵が〝植物〟であれば。


 それからなにがどうなったのだろう。晶は忙しい傍ら、岸野に応じて警察庁に出向き、植物によって死んだ人間の状況や、遺留品を見る日々を送った。しかし不思議と犠牲者は人間だけで、動物の被害例は耳にしなかった。

 日を追うごとに犠牲者の数は増えて行った。そしてとうとう事件が明るみに出る日がやってきた。マスコミが嗅ぎつけ、報道を始めたのだ。その過熱ぶりは異様なほどで、人々の恐怖を煽る結果となった。

 観葉植物を置く人や企業はなくなり、植物に対して異常な嫌悪感や恐怖感を抱く者が増加した。植物を見ると、所構わず放火して回る輩も到る所で現れた。また植物を置いている家に押しかけて暴力沙汰に発展するケースも激増した。

 だが皮肉なことに、テレビで流れれば流れるほど、恐怖が掻き立てられる程、その犠牲者は猛烈な勢いで増え始めた。毎日、数千人単位で死者が出ていた。そして騒がれる程に、植物達は爆発的に増殖していった。

 恐怖は日本だけに留まらなかった。植物が人間の体内に入り込み、脳を駆逐してしまう現象は世界中に広がりを見せ始めた。これによって犠牲者は毎日数万人に達しようとしていた。

 すでにパニックを起こしていた。


 RRRRRR。

 電話が鳴った。看護士が晶の名を呼ぶ。それを受け取り、晶は硬直した。

「え?」

 思わず受話器を落としかけた。そして慌てて病院を飛び出し、警察庁に向かった。

 そんな彼を待っていたのは、無残に息絶えた岸野の亡骸だった。
 外傷はない。その苦しげな様子から、世間を騒がせている例の事件だと容易に察することが出来た。

「我々は……滅ぶのでしょうか?」

 案内をした刑事が泣きそうな声で呟くように言った。

「さぁ。ですが、我々人類は、植物には勝てませんよ。仮にすべての植物を焼き捨てても、結局酸素が無くなって死んでしまうだけです」
「先日、九十になる祖母が亡くなりました。幸か不幸か、癌でした」

 晶は刑事の顔を見た。

「その祖母が今際の際に言いました。人間は地球に悪いことをしたから、罰を受けているんだって。これは粛正なんでしょうか? 私にはそう思えて仕方がありません」
「…………」

 晶は力なく頷き、その場を後にした。

 人々から笑みが消えた。世界中で起こっているのだ、逃げる場所はない。都会でも地方でも、その犠牲者は増える一方で変わりない。かつてない勢いで死者が出て、人口が激減する中、人々の生活はかつてのシステムを失い、まともな生活が送れなくなっていた。

 正常な精神状態を保てず、大騒ぎを起こす者も多い。恐怖に震えて部屋から出られなくなった者も数知れず。

 晶は病院に戻ってきた。とはいえ、患者もほとんどいなくなってきているし、医者も看護士も減ってしまって閑散としている。自分がなぜここにいて、なにをしているのか、それすらも混乱の中でわからなくなってきていた。

(俺も、頭がおかしくなってきたか?)

 茫然とそんなことを考えた。

(あの時に感じたイヤな感じ……大当たりだ)

 ふと、窓辺に目をやると、閉じられた窓の隙間から一本の蔓が入ってきていることに気付いた。

 晶の視線が釘付けとなる。

 それは見る見る伸びてきた。真っ直ぐ晶に向かってくる。文字通り音もなく忍び寄ってきた。

(背後からきたら、絶対気付かないだろうな。そうか、そういうことか)

 蔓の先がうねりながら近寄ってくる。

「そうやって人間を始末するのか? 俺たちは邪魔な存在か?」

 晶は茫然と言った。

「そうだよな。これからは……植物の世になるかもしれないな。人間の世は、終わったんだな」

 蔓の先が晶の腕に触れ、蛇のようにうねうねとうねりながら腕に巻き付いた。そして静かに登ってくる。

「もう、人類は滅びたも同然だ。生きていても仕方がない。まともな世ではなくなった。人間が人間同士で争って、殺し合っている世のほうがいいなんて思わない。けど、人間の敵が人間である時代までが、人間の栄華だったんだろう」

 呟く。

 蔓は晶の首に巻き付いた。

 いつの間にか窓は全開になっていた。爽やかな風が吹きこんでくる。優しい風を頬に受けつつ、晶はゆっくりと目を閉じた。

 明日は、来るのだろうか。
 明日は、あるのだろうか。
 それは、誰にとっての、明日なのだろうか。

 朝起きたら、レオンがいなくなっていた。

 完全室内飼いのアメリカン・ショートヘアー。つまり、猫だ。生後半年で去勢手術を終えているので、発情して飛び出したとは考えにくい。

 綾子《あやこ》は会社を休んでレオンを探すことにした。普段、熱でも出さない限りは仕事を休むことなどない。派遣社員の綾子にとって、休むことは給料に直結してくる。有休はできる限り使いたくなかった。一人暮らしの綾子にとって、不必要な有休消費は本当に大変な時に自分の首を絞めかねなかった。

 だが、家族であり癒やしであり、何よりも大切な愛猫レオンとなれば話は別だ。
捕獲用のキャリーバッグと、レオン愛用の猫じゃらし、そして猫缶を持って周辺を歩き回った。そんなに遠くに行くはずがない。

「レオンー! レオくーん!」

 部屋の周囲、その上下階、マンションの周囲をくまなく探すものの、まったく気配がない。だからと言ってあきらめるわけにはいかない。綾子は根気強く探しまわった。

「ねぇ、あなた、ペットを探しているの?」
「え?」

 突然声をかけられる。驚いて顔を上げると、中年の女が気の毒そうな顔をして立っていた。

「え、あ、はい。猫なんですが、ご存知なんですか?」

 女は困ったような顔をした。

「ごめんなさい。そうじゃなくて……実は、ここ最近、ペットがいなくなったって話をよく耳にするものだから気になったのよ」
「よく?」

「ここらの周辺だけで、猫が五、六匹でしょ。犬もいなくなったって聞くし。それからインコなんかの鳥も数羽聞くわ」
「…………」

「動物って災害を察するって言うでしょう。だから大地震でも起きるんじゃないかって、ちょっとした騒ぎになっているのよ」
「……そうなんですか」

「自治会でね、ペットがいなくなったっていう話を聞いたら、報告しようってことになったの。どんな種類?」
「白と黒の縞の猫です。アメリカン・ショートヘアーって言うんですけど」

「じゃー猫ちゃんが行方不明って自治会に報告しておくわね」
「はぁ」

 女はそのまま立ち去った。

(探すの手伝ってくれるわけじゃないんだ。それにしても……レオン、どこに行っちゃったんだろう)

 結局、一日探しても、レオンの姿はどこにもなかった。

 それから数日。

 綾子は時間を作ってはレオンを探したが、見つからなかった。次第にあきらめの気持ちが心に広がっていく。部屋に戻っても誰も迎えに来てくれない現状に、限りのない寂しさを感じ始めていた。

 そんな綾子の目に、テレビのニュースが飛び込んできた。

『最近、飼っているペットがいなくなる現象が日本各地で起こっています。毎日、同様の届けが出され、全国で数千件に上っています。これを受けて気象庁や地震の調査を行う関係各所は、災害の可能性を視野に入れ、警戒を呼び掛けています。また、ペットが行方不明になったという飼い主に、警察や保険所などに届けていただくよう呼び掛けも開始されました』

 レポーターの言葉が耳を打った。

(ウソ、そんなに?)

 綾子はふと窓の外に目をやった。

(そう言えば……最近、鳥の鳴き声を聞かなくなったような気がする)

 吸い寄せられるように窓辺に向かい、窓を開ける。あれほど飛び交っていたスズメ、ハト、カラスの姿が見えない。

(外で動物を見なくなった……これって、気のせい?)

 いろんなことを考えるが、自分はごく普通の派遣社員で、関係各所になにか伝えるといっても、「そんな気がするんです」とくらいしか言えない。インターネットで書き込んだところで所詮その他大勢だ。綾子は特になにか行動を起こすわけでもなく、ただ不安を感じて働くだけだった。

 それから一週間ほどが過ぎた。動物の気配は完全に消えた。綾子はベランダで植物を育てているが、悪戦苦闘する虫の姿もない。それに気づいた時は、さすがにゾッとした。その時、テレビからニュースが流れてきた。動物園や、畜産業で飼育されている動物たちが暴れ出して、大騒ぎになっているというのだ。

(やっぱり、大災害でも起こるってことかなぁ。日本各地で起こっているんなら、日本全体で災害が起こるってことかな)

 綾子はスコップ片手に、ベランダからテレビを眺めていたが、ふと足元に視線を取られ、俯いた。

(あれ? なんだろう、これ?)

 ベランダのコンクリート、その至る所が緑色になっている。屈んでよく見ると、それは苔だった。

(水はけが悪くなった? やだなぁ、湿っぽくなったかなぁ)

 仕方なく、生えている苔を丁寧に取り、ベランダの掃除に勤しんだ。終わった頃には、日が傾き始めていた。

(せっかくの日曜が掃除で終わっちゃったよ。最悪……)


 翌朝、出勤前に花への水やりをしようとしてベランダに出た綾子は、「あ!」っと、声を上げた。

 ベランダのコンクリートの到る所に、苔が生えていたのだ。

(なんで……昨日、綺麗に取ったのに)

 朝から憂鬱になり、暗い顔をして出勤する。同僚たちがからかったが、それに応じる気にさえならなかった。

(レオンがいなくなって二週間くらい、ベランダの苔もまた取らないといけない……ついてないなぁ)

 仕事を終えて帰ってからベランダの掃除をする気にもなれず、結局そのままになった。

 しかし、日を追うごとに苔の占める割合が多くなり、ベランダが緑色に変わろうという勢いだ。

 やっと週末がきて、綾子は朝食を取ったらすぐにベランダに出た。

「えぇ!」

 窓を開けて絶句する。それからゾッと体が震え、総毛立った。

「なに、これ……」

 ベランダ一面が真緑一色だった。プランターも、そのプランターで咲いていたはずの花も、ベランダに置いていた台や諸々の道具も、すべて苔に埋め尽くされていた。

 綾子は飛び出し、慌てて隣のベランダを覗いた。

 隣も、その隣も、上も、下も、ビッシリと苔が生えていた。

 マンションの下では、居住者達がワーワーと悲壮な声を上げて騒いでいる。

(どういうこと? マンション中が苔に覆われてる……)

 綾子は他の住人に話を聞こうとして部屋から飛び出した。不思議と廊下や壁などは、何の変化もなかった。

(水に触れやすいところだけってこと? だけど……増殖の仕方が半端じゃないし)

 エレベーターを降り、外に出る。青ざめた住人たちが管理人を中心にして集まっている。その輪の中に入った。

「すぐに業者を呼んで除去します。苔の生えているのは外に面した水に晒される場所ばかりで、ベランダや出入り口だけじゃないですから。日程は決まり次第、エントランスに張り出します。都合の悪い方はすぐに連絡ください」

 管理人が青ざめながら、半ば怒鳴るように言っている。
 綾子はマンションを見上げた。外から見た姿は異様だ。外壁という外壁が、ギッシリと苔で覆い尽くされていた。

「昨夜、雨が降ったみたいだ」

 隣で初老の男が話している。

「駐車場からなにから、濡れている場所は苔で覆われて大変なことになっている」
「気持ち悪いですよね」
「業者ってすぐ来てくれるのかなぁ」

 さらに別のところでも、ブツブツと会話をしている者がいる。

「ここだけじゃないから……周辺のマンションから道からなにから、どこもかしこも苔でビッシリ……苔の生えていないのは、土の上だけだ」

 そう話をしているのを聞き、綾子は改めて周囲を見渡した。確かに花壇の土にはなぜか苔が生えてはいない。生えているのは、もっぱらアスファルトやコンクリート、そして石や物だった。

 綾子は気持ちが悪くなり、部屋に戻ることにした。

(世界中が苔に覆われたら……どうなるんだろう? 道路とか、線路とか……)


 翌朝、綾子は凄まじい怒声によって起こされた。飛び起きてなにが起こったのかキョロキョロと見回す。すると隣から再び怒声が轟いてきた。

「やめないか! 麻衣子《まいこ》! やめろってば!」

 声はベランダから響いてくる。飛び出して覗くと、隣の奥さんがベランダから身を乗り出して、飛び下りようとしているところだった。それを夫が止めようとしているのだ。

「放して! 死ぬのよ! みんな死ぬんだわ! 苔に覆われて、みんな死ぬのよーー!」
「麻衣子! やめろ!!」

 奥さんの目が完全にイっている。その目に綾子は震えた。だがほっておくこともできない。綾子は隣から叫んだ。

「前田さん! 死なないから、苔なんかで死んだりしないから! しっかりしてください!」

 綾子の言葉に、隣の奥さんはビクリと震え、焦点の合わない目で麻衣子を見た。

「前田さん、死んではいけないわ」

「嘘よ。だって、苔が襲ってくるんだから。私の目の前で、どんどん……どんどん増えていったのよ! 止められないわ。みんな苔に覆われるのよ。どうして死なないってわかるのよ!」

「所詮、苔じゃないですか! 根気よく取っていけばいいだけですよ! その間に、良い策が出てくるはずだもの。そんなに簡単にあきらめてどうするのよ」

「嘘よ! 嘘だわ!」

 間もなくパトカーと救急車がやってきた。誰かが呼んだのだろう。管理人が扉を開け、中に誘導した。警察や救急隊員のおかげで隣の騒ぎは事なきを得た。しかし、似たような事件が綾子の周辺は勿論、各地で起こり始め、その数は日に日に多くなっていた。

 日常の、なんのことはない生活が、少しずつ狂い始めていた。人々が蓄積していくストレスに疲労の色を濃くし始めていた。というのも、道路にはびこる苔のおかげで慢性的な渋滞や、事故が発生し、すべての事柄が遅延し始めたのだ。

 鉄道会社は線路に苔がはびこり、その除去に四苦八苦だった。その影響で全体的に速度が落ち、また止まることもあって遅れが日常茶飯事となった。物資の流通が遅れると、当然生活を直撃した。水のある所は急速に苔が増殖し、どこもかしこも緑色に染まっている。苔の除去に多くの時間と費用がかかり、人々の生活を大きく変えようとしていた。


 綾子は夜中に目を覚ました。激しい雨と風の音がする。起き上がって窓の外を見た。

「?」

 窓がなにかに覆われていて、まったく見えない。なんだろうと思って、その窓を開けた!

「あ……あ!」

 緑色の塊がうねるように周囲に広がっていた。ベランダやマンションの外壁は勿論、マンションの周辺、道路、周囲の家々、何もかもすべてが覆われ、緑一色に染まっていた。

 しかし、悲劇はそんなことではなかった。

 雨が綾子に降りかかる。部屋の中にわずかと降り注ぐ。その雨を追うように、苔が猛烈な勢いで飛びかかってきた。そして濡れた綾子の体と、部屋のフローリングにこびりついた。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――――――――――!」

 真夜中のマンションに、綾子の悲鳴が轟き渡った。

 噂が実しやかに流れていた。

 人間が生み出した多くの科学技術によって、突然変異の遺伝子を持つ超人が生まれる、と。

 それは最初、面白いネタとして世界中で漫画化、アニメ化、映画化され、多くの世界でもてはやされた。

 その内容も多種多様。化け物もあれば怪物もある。昆虫や動物に変身するものも。

 空想豊かな多くのクリエイターたちによって、エンターテイメント化されて世界を席巻していた。


――日本、遺伝子研究所。

「大崎《おおさき》先生、近藤《こんどう》さんとおっしゃる方からお電話ですが」

 事務員の森野が声をかけた。
 大崎《おおさき》真《まこと》――現在四十二歳。将来を嘱望されている遺伝子研究所のスタッフだ。

「あ、近藤ね。はいはい」

 手を止め、大崎は事務員の机に向かった。

「近藤? どうしたの? え? いいけど。じゃあ、今夜ね」

 そう短く答え、電話を切る。

「先生、お友達ですか?」

 森野《もりの》の言葉に大崎は微笑んだ。

「大学時代の同僚でね。放射線治療の医者なんだ」
「へぇ」
「あいつも僕と一緒で行き遅れている独身だけど、モリちゃん紹介しようか?」

 森野は笑った。

「私、彼氏いるから」

 完璧な返事に大崎は頭をかきながら笑い返した。

「じゃあ、必要ないね」

 大崎はいそいそと仕事に戻ったのだった。


 居酒屋の一角。大崎は友人の近藤と相対した。

「珍しいね、近藤から電話くれるなんて。忙しいんじゃないの?」
「それはお互い様だろ?」

 何杯か酒を交わし、食べ物を胃に収めて落ち着くと、近藤は怖い顔をして切り出した。

「実は、イヤな話を聞いたんだ」
「イヤな話は僕もテレビからいっぱい聞くよ」
「真面目に聞け!」

 近藤は一喝すると、今度は顔を寄せ、声をひそめ、大崎の顔を下から覗きこむように見た。

「突然変異だ」
「……はい?」

「俺たち人間は、来るところまで来た。遺伝子の研究をしているお前ならわかるはずだ。俺たち人類は、神の領域に達した」
「…………」

「なにもないところから人間を造り出すことができるんだ」
「……だから?」

「俺は医者だが、研究者でもある。ある放射能の一部が生物の細胞――コアを破壊し、別の細胞を生み出す。そこから生まれた連中は、俺たちの常識である自然の摂理に関係なく生きることができる」
「それで?」

「自然淘汰が始まる」
「自然淘汰」

「そうだ、自然淘汰だ。新しい生物共が人知れず生まれ、増殖し、繁栄する。ある時を境に、新生物と旧生物に分かれ、新生物は旧生物を餌にして地球で繁栄するんだ」

「近藤、どうしたの?」
「人類に限っては、モラルも秩序もない人間の顔をした化け物に食われて、新たな人類の世界が生まれる」
「近藤――」

 近藤の眼は血走っていた。

「大崎、今の研究を全部やめて、突然変異の謎を解け。手遅れになる前に」

 大崎は近藤の顔をまじまじと見つめた。
 心地よかった酒の酔いも、いつの間にか吹っ飛んでいる。それだけ近藤の顔は異常だったのだ。

「近藤」
「俺、アメリカに留学してたろ。その時にある組織に入った」
「…………」
「政府直下の極秘組織だ。今朝、そこからあるデータがきた。見ろ」

 そう言って出してきた紙に視線を落とす。

 ぎっしりと書かれた英語の文字に、大崎は一瞬目まいがしたが、視線を走らせる程に悪寒が走り、気分が悪くなった。

 それはその組織が出した研究結果で、放射能汚染、遺伝子組み換え、化学薬品等々の影響を受けた生物が、次々と特殊な姿や能力を持って生まれてきたというものだった。それはまだプランクトンくらいまでのものではあったが、もっと複雑な組織構造を持つ生物に広がってくることが示唆されていた。

「これは」
「人間に至る前に、阻止しなければいけない」
「でも……」
「迷っている余裕はもうない。奴らの増殖のスピードは、おそらく想像を絶する。パニックにならないよう極秘に、早急に行わなければ」

 近藤に腕を掴まれ、大崎は言葉を失った。

――この報告書は本当なのか?
――この組織は信用に足るものなのか?
――この男を信用していいのか?

 近藤と別れても、大崎の頭には疑問の気持ちがついては離れなかった。

 何事も、最初は信じられないものだ。人間は、ファースト・インパクトに左右されるが、そのインパクトが大きければ大きいほど、疑う目を持ち、信じようとしない。それは脳が破壊を恐れて、一度すべてを否定するからだ。

 大崎も、その一人だった。


 ようやく頭が出てきた。

「もう少しよ、頑張って!」

 とある産婦人科。若い助産婦が叫ぶように声をかける。激痛と闘いながら、母になろうとしている女は汗まみれの顔をさらに歪めて頷いた。

「肩さえ出たら」

 医者が呟く。
 苦しげな女の呻き声が響く中、ゆっくりと赤ん坊の片方の肩が産道から出てきた。

「よし」

 医者はそう言い、次の作業に移るべく、顔を横に向けた。
 その時――

「!」

 医者の真横で作業を手伝っていた中年の助産婦は息を呑んだ。
 まだ頭と片肩しか出ていない状態で、赤ん坊が目を開けたのだ。

「――――」

 助産婦と赤ん坊の視線が絡み合った。助産婦がゾッと顔を青くし、息を詰める。

 そして――

 赤ん坊がニタリと笑《え》んだ。

 その瞬間、助産婦は気を失い、そのまま後方に倒れ込んだ。


 それが、ファースト・インパクトだと、近藤なら確信しただろうか?
 さすがに大崎でも、信じただろうか?
 遺伝子は、あらゆるモノを吸収して、進化する。
 すべてが始まった。
 久美子《くみこ》はテレビの台を見て、またしてもムッとした。それからゆっくりと周囲を見渡し、深くため息をついた。
 最近、久美子を悩ませている問題が、今、眼前にあるモノだった。

――埃。

(そりゃ、一週間に一回しか掃除機かけないから、溜まるのは仕方がないけど。それにしたって汚すぎるし、こんなに溜まるかな? あー、いやいや、溜まるよね)

 フワフワのハンド・モップを動かしながら、久美子はそんなことを考えた。

 夜になり、夫の保《たもつ》が帰ってきた。いきなりゲホゲホと咳をする。

「風邪?」
「いや、違うと思う」
「でも」
「至って調子いいよ」

 久美子は少し考え込んだ。

「それよか、なんか埃っぽくないか?」
「え?」
「気のせいかな?」
「今日、目につくところはモップしたの。明日、念入りに掃除機かけるから」
「拭き掃除も?」

 刹那、久美子の顔がキッと怒りに歪んだ。

「わかってる! あなたもちょっとは手伝ってよ! 共働きなんだからさぁ!」
「ん……仕方ないなぁ」

 そう言いつつ、ゲホゲホと再び咽た。

「最近、気になるんだけど、その咳。風邪じゃなくて喉が痛くないなら、なんで咽るの?」
「知らないよ」
「結核なんじゃない? 慢性的なヤツ。いろいろ種類があるみたいだし」
「会社の健康診断では引っかからなかったけどなぁ。レントゲン、綺麗だって。俺、タバコも吸わないし」
「……そうなのよね。でもさぁ、気になるから行ってきたら? よくCMなんかもしてるし。ねぇ」

 保は嫌そうな顔をしたが、一理あると思ったのか、了承した。

 翌日、入念に掃除機を掛け、拭き掃除をする。貴重な休日なのに、近頃は掃除に費やすばかりだ。久美子は言いようのない不満を感じた。イライラするが、相手は埃なので仕方がない。

 やがて保が帰ってきた。

「どうだった?」
「なにもなかった。やっぱり綺麗だって」
「えーー」
「なんだよ、その、えー、は。聴診器で聞いたら、結核かどうか、すぐにわかるらしいよ」
「…………」
「ペットとか飼っていませんか? って聞かれたから、飼ってないって答えたら、ハウスダストかもしれないって。こまめに掃除して様子を見てくださいって言われたよ。お前が掃除サボってるからじゃないの?」

 その言葉に、久美子の中で積もっていた苛立ちがプチンと弾けた。

「仕方ないじゃない! 平日は夕飯作るのがやっとなんだから! その合間に洗濯とか春奈《はるな》のこととか、やることいっぱいあるのよ!」
「……そうだなぁ。でもさ、医者が言うんだから、まぁ、気をつけてよ」

 久美子は苛立ちを抑えきれず、ダイニングから飛び出してしまった。

「と、言うものの、確かに埃がすごいよなぁ」
「ママ、午前中、ずっと掃除してたよ」
「……そっかぁ。それでもう舞ってるのかぁ。この家、風の通りが悪いのかなぁ」

 保はのんびりとした声で、そう呟いたのだった。


 久美子は埃を見るたびにイライラした。

 ハンド・クリーナーを複数買い込み、各部屋に置くことにした。これなら目につけば、すぐに掃除ができる。ハンド・モップも買い込んだ。とにかく、舞う埃が憎く思えた。

 だが、不思議なことに、取っても取っても埃は減らなかった。いや、そればかりか、増えているように思う。いたちごっこのような埃との戦いに、次第に久美子は埃に関係なく、常にイライラするようになった。

「やっぱり、埃っぽいなぁ」

 思わず出た保の言葉にカッとなり、久美子は大声で怒鳴った。

「どれだけ拭いてると思ってんのよ! あんたはなにもしないくせに!」
「そんなに怒鳴らなくても……俺は事実を言ってるだけだろ?」
「うるさいわよ! わかった! 私、仕事を辞めるわ。それで綺麗にするから。あんたの少ない稼ぎだけで生活するから、来月から小遣い半分だからね!」
「えぇ!」

 保がクレームをつけるのも聞かず、久美子は夜中にもかかわらず、掃除機をかけ始めた。

「おい、こんな時間に! 近所迷惑だろ」
「関係ないわよ!」

 保は人が変わったような久美子を茫然と眺めた。


「埃?」
「あぁ」

 会社の同僚に経緯を話す。半分冗談を込めていた保だったが、同僚の顔が見る見る険しくなっていった。

「それ、笑えない」
「え?」
「俺んとこも、似たようなことになってる。つか、ノイローゼ気味で、こっちが参ってるよ」
「どういうことだ?」
「ハンド・モップを手放さないんだ。埃を見ると、取り憑かれたように掃除を始める。あれだけ教育ママだったのに、子どもにほとんど関心を示さなくなった」

 それを聞いていたのか、斜め前の同僚が口を挟んできた。

「マジ? こっちもそうだよ。親の敵のように掃除してる。でもって泣くんだ。やってもやっても綺麗にならないって」

 保は唖然としつつ、彼らの話を聞いていた。

 そんな保をさらに驚かせたのは、帰宅してからだった。久美子が人の顔を見るなり、いきなり「仕事、辞めてきたから!」と叫んだのだ。

「え? ホントに辞めたのかよ!?」
「辞めるって言ったでしょ! あんたの小遣い、半分だからね!」

 そう怒鳴ると、ダイニングに戻り、今度は春奈に向かって怒鳴っている。保は唖然としつつ、近頃久美子が笑っている姿を見ていないことに思い至った。絶えずイライラし、口を開けば怒鳴る。食事も簡素でメニューが減り、洗濯の回数も減った。手を抜いているのかと思えばそうではなく、ただひたすらハンド・モップを手に、埃を拭き取っている。

 保は会社の同僚達の話を思い出しつつ、空恐ろしいものを見るかのように、掃除に必死な久美子を眺めたのだった。

 それから久美子の様子も、会社での会話も加速度的にひどくなっていった。妻の調子が悪いと休む者が増え始めた。それが肉体的な病気ではなく、精神的に参っているというので話のタチは悪かった。

 保もその一人だ。久美子は絶えず苛立ち、すぐにキレてモノに当たった。次第に目が離せなくなっていった。埃の塊が風に舞うと、もう手がつけられなかった。病院で軽い睡眠薬や安定剤を処方してもらい、指示に従って服用させて寝かせることが増えてきた。

 この日もそうだ。起きぬけ早々からヒステリックな声を上げたので、安定剤を飲ませて寝かしつけた。保も自身の疲れを覚え始めていた。

 三時を過ぎた頃、春奈からメールが届いた。

――パパ、早く帰ってきて!

 その文字に愕然とし、上司に断って急いで家に戻ってきた。

 鍵を開け、中に入る。春奈の泣き声が聞こえてきた。靴を脱いで廊下に上がった瞬間、両側から埃が舞った。

 保は一瞬その埃に視線を取られたが、慌てて短い廊下を走り、ダイニングに飛び込んで愕然とした。

「な……な」

 部屋中が埃に埋まっていた。膝上ぐらいまで埃が積もっていた。

 保はその埃の中から覗く二本の足と、その足の傍で泣いている娘の姿を、ただ無言で見つめた。

 そんな保の目の前で、埃がはらはらと舞い、ゆっくりと積もっていく。

 どこから現れるのか、なぜそんなに舞うのか、わからない。

 ただ、そろりと舞い落ちている。
 降り注ぐ――雨、雨、雨。

 傘も乾く間がないと言いたげに、絶えずしっとり濡れている。

「鬱陶しいなぁ。ったく。あーあ、このスーツも線が取れちまってる! 濡れたところにドッカリ座れば、プレスしてんのと同じだもんなぁ~。うわ、ワイシャツも乾かないからストックがねぇや!」

 ブツブツ言いながら、出勤の準備をする。結婚などこれっぽっちも考えていない二十八歳の朝倉《あさくら》だったが、こんな時だけは嫁が欲しいと身勝手なことを考えてしまう。

 今の時代にまったくそぐわない考えであることはわかっている。だが、家事が苦手な朝倉には、それを補ってくれる〝誰か〟が欲しいのだ。

 金曜日。今日一日頑張ればいい。土曜日は一日のんびり過ごし、日曜は悲しいが家事だ。そう決めている一週間のルーティン。いつもと変りない日常を今日も送る。

 外に出ると、かなり降っていた。ずぶ濡れの傘を持って乗る満員電車も不快だ。自分もそうだが、他の乗客の濡れた傘がスーツに当たって濡れるのだ。

(ったく!)

 朝から機嫌が悪い。仕方がないと思いつつ電車に乗り込む。さらに朝倉をイラつかせるのは、雨だと必ずと言っても過言ではない程、電車が遅延することだ。遅延証明書も一度や二度なら効力は絶大だが、頻々と遅延すると当然誰もが「わかってるんだから、早く家を出ろよ」となる。

 今日はさほどの遅れが出なかった。念の為、二本分早く家を出たこともあり、会社にはいつもより早く到着した。鞄を置き、スーツをロッカーに直すと、カフェコーナーに寄ってコーヒーを買い、窓を眺めながら飲もうとした。

(あ?)

 二階のカフェコーナーからは自他の会社を問わず出勤するサラリーマンがよく見える。そんな中で、ふと視線を取られた。

(朝っぱら、なにやってやがる!)

 ビルの陰に隠れ、高校生ぐらいの男女が抱き合ってキスをしていた。

(ったくよー、こんなオフィス街ですんなよ、学生野郎が! 羨ましいこった!)

 胸の中で毒づき、ふと思い出した。

(そういえば……)

 出勤しようとワンルームマンションを出たあと間もなく、小学校低学年ぐらいの女の子が父親に向かって「いってらっしゃい!」と元気良く言ったあと、思い切り抱きついてチュー! と愛情たっぷりの挨拶をしているのを目撃したのだ。朝倉はそれを微笑ましい気持ちで見た。が、ふとその女の子と目が合い、反射的に微笑んだ。そして歩き出した。

(父親からしたら嬉しい限りなのかもしれないけど、あの女の子、年頃になって、自分のファーストキスが父親だと知ったら落ち込むだろうな)

 などと思いながら。

 朝倉は少女のことを考えていたが、ビルの陰にいる女がこちらを見ていることに気がついた。さらにニコニコと笑っている。

(あ、やべ)

 気付いていないフリをして顔を背け、続けて体も捻って窓に背を向ける。コーヒーを飲み干し、カップを棄てるとカフェコーナーから出た。

(うーん、今日はキス日和なのかも。俺も恩恵に預かりたいなぁ)

 こうして朝倉の一日が始まった。当然ながら、彼女のいない朝倉に、キスの恩恵などはなく、ごく普通に時間は過ぎていった。


 目が覚め、時計を見ると九時だ。雀の鳴き声が響いている。カーテンを開けると太陽の光が眩しかった。

「およっ、快晴かぁ! 久しぶりの……あ!」

 どうも雨が上がったのはつい先ほどのようだ。世界は滴に濡れ、太陽の光を受けてキラキラ輝いている。さらに朝倉の目に飛び込んできたのは、大きな虹だった。

「うわぁ~、あんなにでっかくてハッキリした虹って、珍しいよな。朝からいい気分だ。なんか、良い事ありそうな気がする。いやいや、誰か困ってる人になにか役に立ちたい気分だ。……なんてね」

 一人、ブツブツ呟く。こんな時、嫁でも彼女でもいたらまた違うんだろうな、そんなことを考えた。いや、昨日の親子のような時間もいいかもしれない。

(三十過ぎるまで独身って思っていたけど、真面目に考えようかなぁ。母さんも早く孫の顔が見たいってうるさいし)

 だが、現実はまた異なる。この快晴と大きな虹に見惚れている場合ではなかった。雨と雨の間の貴重な晴れ間だ。のんびりする予定を変更して、山積みの洗濯物を片づけることにした。

 二度ほど洗濯機を回し、ベランダに干す。さらにスーツのズボンにプレスをかけ、精力的にすべきことをこなしていく。家事は苦手だが、できないわけではないのだ。

 時間が経つほどに蒸し暑くなってくる。次第に心地よい朝の一時は、不快な昼へと変わって行った。

 怒涛の掃除と洗濯を終えると、今夜の夕食を買いにコンビニへ向かった。コンビニ弁当の週末は寂しいと思うが、食べにいくのも億劫だし、一番近い食糧庫がこのコンビニだった。弁当とドリンクを買い、店から出る。見ると真っ黒な雨雲が近づいているのがわかった。時刻はそろそろ夕方に差しかかろうとしている。夕立が来ると察し、慌てて家に駆け込んだ。

(ギリギリセーフ。早く洗濯ものを!)

 全部取り込み、ホッとしたのとほぼ同時に、ポツリポツリと降り出した。が、「あ」も言う間もなく、土砂降りになった。

 窓から雨の様子を見ていると、マンションの前に二十代半ばぐらいの女が立っているのを見つけた。雨宿りをしているようだ。

(今日はピーカンだったから、傘、持ってないのも仕方ないよな。可哀相に)

 その女の服はすでにかなり濡れていた。

(やたら激しいけど、夕立だろうな。あっちの方は晴れてるみたいだから、すぐに通り過ぎるだろう。ま、ちょっとの辛抱だ)

 朝倉はそんなことを考え、パソコンの電源を入れた。

 ネットやメールをしていたが、雨音が一向に収まらないことに気付いた。時計を見ると、三、四十分ぐらい経っている。妙に気になり、再び窓の外を覗いた。

(あ!)

 さっきの女はまだ雨宿りをしていた。濡れた服が肌に密着して、寒そうにも見える。

(ずっと雨宿りかぁ……)

 雨は激しくなるばかりだ。

(夕立じゃなく、本降りだったんだ。うーん、ちょっと可哀相だな)

 人にあまり親切にするタイプではなかったが、あまりに可哀相だと思い、タオルと傘を持って部屋を出た。

「あの」

 女がこちらを向く。けっこうな美女だ。

「これ、使ってください」
「え? でも」
「安物の傘だから、返さなくていいし」

 女はニコッと笑い、礼を言って頭を下げ、帰っていった。

(なんか……照れくさいけど、良いことした後ってけっこう気持ちいい? つか、あの子、美人だったなぁ。それに……)

 濡れた服から覗いた下着のレースが伺え、妙に気持ちが沸き立った。

(ダメダメ。良いことしたんだから、そういう不純なことを考えちゃ。虹の恩恵、虹の恩恵)

 今朝見た大きくて綺麗な虹を思い出しながら、能天気な事を考える朝倉だった。


 雨は降り続く。翌日になっても、一向に止む気配がない。

 朝倉の部屋のチャイムが鳴った。

「はい」
『雨宮《あまみや》と申します。昨日の傘を返しに来ました』

 朝倉は飛び上がった。慌ててエントランスに向かった。ガラスの扉の向こうに昨日の女がいた。

「あ、いいのにっ」

 雨宮と名乗ったその女はニコッと笑い、傘とタオルを朝倉に手渡した。

「それからこれ、お礼です」

 見るからに甘い菓子だとわかる。朝倉は気恥ずかしそうに、一度はそれを断った。とはいえ、わざわざやって来て「お礼」と言って差し出した物を、相手も引っ込めることはできないだろう。仕方なく受け取ろうとして、ふと昨日、濡れた服から覗いたレースの下着を思い出した。

「あの、大したこともしていないのにお礼貰って申し訳ないから、お茶でもどうです? 菓子なら一緒に」

 そこまで言い、ハッとする。

「すみません! 男の一人暮らしの部屋に誘うもんじゃないですよね! 今のはなかったことに! これ、ありがたくいただきますっ」

 受けろうと手を出した時、雨宮が意外なことを口にした。

「では、一緒に食べましょう」
「……え?」
「ね?」

 こんなことがあるのだろうか? 朝倉はそう思いながら、心臓がドキドキと音を立てているのを感じる。

 言い出したのは自分だ。今更「やはり、ダメです」とは言えない。緊張しながら部屋に案内をした。

(昨日、掃除しててよかった!)

 などと悠長に思った。

「お茶入れます」

 雨宮はおとなしく座っている。そして朝倉が出したお茶を旨そうに飲み干すと、ゆっくり口を開いた。

「私、あなたが気に入ったの」
「え?」

 雨宮は微笑んだ。

「だって、二回もキスしているの、見られたし。ま、二回目はわざとだけど」
「は?」

 その瞬間、雨宮の笑みがある笑みと重なった。

(会社の側でキスしてた女の子? でも……年が)
「それだけじゃないでしょ?」
「…………」

 さらに記憶がフィードバックする。朝倉は背筋に悪寒が走り、脂汗が滲み出るのを感じた。

(父親にキスしてた……?)

「そう、その通り。でも、父親じゃないわ。母親の恋人なの」
「あ、あの」
「あの男、美味しかったわ」
「…………」

 言葉を失い、恐怖に竦む。雨宮はますます得意げに微笑んだ。しかも、限りなく、妖しく。

 愕然とする朝倉の耳に、激しい雨音が響いていた。

「おかげさまで、立派に成長できたもの。どう?」

 言い様、雨宮はブラウスのボタンを外した。豊かなバストが露わになった。しかし白い肌は、逆にさらなる恐怖を呼んだ。

「……な、なに」
「何者? ふふふ。安心して、私、単なる雨女なだけだから」
「あ、雨女?」
「そうよ。雨を呼ぶだけだから。もっとゆっくり成長するつもりだったのだけど、あなたと目が合って気が変わったの」
「…………」
「微笑んでもらって嬉しかったし、素敵だったわよ? うふ。一目惚れなの」

 朝倉は硬直しながらも後ずさった。同じ分だけ、雨宮がにじり寄る。

「早く大人になって、一緒になろうって決めたのよ。だから適当な男から精力貰って成長を早めたってわけ」
「き、決めたって、ちょっと……」
「大きな虹を見て良いことありそうだとか、良いことしようなんて、単純な思考だけど、可愛らしくて、なかなかそそられるわ。まぁ私、雨女だから、虹は大嫌いだけど」
「あ、の」

 雨宮の微笑みは、すべてお見通しとでも言いたげなものだった。いや違う。すべてお見通しなのだ。

「だから、早く行きましょう」

 雨宮はさらににじり寄り、そしてとうとうその体に触れた。首に両腕を回して抱きついた。

「い、行くって……どこに」

 再び、微笑む。

「決まっているじゃない。妖しの世界よ、愛しい人」
「あやし、の、世界?」
「そうよ。この世には人間以外の存在がいろいろ存在しているの。知らないのは、人間だけ」

 そんなこと、信じられない――そう思うのに、体が強張って動かない。

 四方八方から、叩くような激しい雨の音が響く。その音を聞きながら、圧し掛かってくる雨宮の体重という現実を感じた。

「私のものになるのよ」
「!!!!!!」

 唇が重なりかけたその瞬間、朝倉はなにか叫び、無我夢中で雨宮を振り払った。そして駆け出す。靴も履かず、マンションを飛び出した。

 土砂降りの雨!

 まだ日は落ちていないが、暗い。そんな中を何度も転び、ビショ濡れになりながら走った。だが、振り返ると、一定の距離を保って雨宮が追いかけてくる。必死に走る自分とは対照的に、ゆっくり歩いて――否、足は動いてはいなかった。道路の上を滑るように進んでいる。

 朝倉は狂ったように叫び、助けを求めた。しかしまだ夜とも言えない時間にもかかわらず、人の気配がない。

(助けて!)

 やがて体が悲鳴を上げ、道路に転がった。

「無駄よ。雨の中にいる以上、逃げられないわ。私たち二人だけの世界よ。うふふ。さ、行きましょう。ずっと一緒に過ごすのよ。愛しい人」

 完全に捕まったと自覚した。抱き締められて唇にキスを感じた瞬間、目の前が真っ暗になった。もう、ここがどこかもわからなかった。ただ、激しい雨に打たれつつ、その音だけが耳に轟いていた。


 今日も、雨――
 雨が降っている。
 比沙子《ひさこ》は夏が嫌いだった。暑いからというわけでなはない。

 暑い夏のある日、幼稚園に行く道中、目の前で人が車に跳ねられたのを目撃した。以後、その時の事がずっと忘れられなかった。

 乗用車に弾き飛ばされた自転車と人間。紙きれのように吹っ飛び、地面に叩きつけられ、血だまりを作って救急車に運ばれていった。幼かった比沙子には、その被害者がどうなったのか、結末は知らない。

 だが、幼稚園児だったとはいえ、あまりの強烈な事故は、熱転写のカーボン紙のように熱く鮮明に焼き付き、どうしても忘れられなかった。

 あの血だまりの中に倒れる人を――その顔を、忘れる事ができない。

 だからというわけでないが、どうも夏に良い思い出がない。いや、嫌なことはすべて夏に起こるのではないかと錯覚するぐらい、夏に不快な記憶が多い。

 暑さが人を苛立たせるのだろうか。妙に人に絡まれたり、不運が続いたりと、比沙子の心をなにかにつけて暗くした。

 また夏が訪れた。

 そんな時、比沙子の会社に転職してきた女がいた。

 比沙子より二つほど年上のこの女は、見た目はそれほど美人ではなかったが、妙に色気があって、男たちの気を引いた。当然ながら同性の社員には受けがよくない。しかしだからと言って、女を武器に仕事をしている様子は微塵もなかった。比沙子は所謂「生まれつきのもの」と片付け、気にしなかった。とはいえ仲良くする気もなかった。

 ところがある日、残業が重なった。そろそろ帰ろうとしていた比沙子に、その女が声をかけてきた。せっかくだから、食事をして帰らないかと誘ってきたのだ。断る理由もなく、応じた。

 少々酒が入り、気も緩んだのか、比沙子は誰にも話したことのない例の事故の話をした。するとその女は、比沙子の名を紙に書き、生年月日など諸々聞いてきた。言われるままに応えると、一言言い放った。

「あなた、夏が天中殺ね」と。
「七月と八月は天中殺だから、あまり大きな事をしないほうがいいわ」と。

 意味がわからなかった。比沙子は興味が湧いて詳しく教えて欲しいと頼んでみた。

 その女の説明はこうだった。

 まず、〝天中殺〟は人によって異なるそうだ。それが大前提。そして天中殺とは、〝悪い事が起きる〟という意味ではなく、〝良くも悪くも影響力が大きい〟という意味だそうだ。

 このため〝悪い事が起こるとよくない。重大な決断はしないほうがいい〟と伝えられているという。

 さて、詳しく説明する。天中殺には〝時間〟と〝空間〟が存在する。〝時間〟は〝六〟。〝空間〟は〝五〟。それぞれに〝陰〟と〝陽〟が存在する。よって〝時間〟は〝十二〟であり、空間は〝十〟になる。

 この二つが歯車のように交互に絡み合う。当然〝時間〟が〝二〟余る。この〝二〟が天中殺なのだ。

 さらに、天中殺は〝一日〟、〝一年〟、〝一生〟と繋がっている。一年の次が一生というのは、些か時間が飛ぶ気がするものの、納得するしかない。 

〝一日〟の中で余る〝二〟は〝二時間〟であり、それが世に言う〝丑三つ時の頃合い〟だそうだ。これは区切りが小さいので、万人に当てはまる。だからこそ、『草木も眠る丑三つ時は、声を潜めて静かにしていろ』と古人は伝えたのだ。

 ここから個人によって変わってくる。

 名と、生年月日、そして出生時間など、これらを掛け合わせて調べると、その人間の〝一年〟の天中殺期間が出る。〝一年〟の中の〝二ヶ月間〟に相当する。この期間に大きな出来事が当たる人は、良い時も大きければ、悪い時も大きいというわけだ。

 そして〝一生〟。これが厄介だった。

 大きな時の巡りに当てはめる。〝年〟、〝月〟、〝日〟、〝時〟をそれぞれ調べると、まったく天中殺に引っ掛からない者もいれば、十年、二十年、あるいは六十年、一生ドップリ入っている者もいる。

 最初はなにもなく、その後天中殺に入る者もいれば、その逆もある。入って抜ける者もいる。これが広く〝運勢〟と解釈されている。

 一生天中殺に入っている者は、仮に不運が続いても、運が良くなくても、慣れてしまって気にならないだろうが、人生の後半に突入したら、さぞ影響が大きく感じることだろう。それが悪く傾けば、なおさらだ。

 比沙子は七月と八月が天中殺だと聞かされ、記憶に残るような忘れられない出来事が起こりやすく、中でも悪い思い出が多いのだろうと助言を受けた。

 同時に、こればかりは避ける事が出来ないので、静かに過ごすよう心がけ、なるべく大きな決断をしないよう勧められた。

 そういうことを毎年意識しなければならないとは少々窮屈だと思ったが、助言は助言、心当たりを思い出す間は、真摯に受け止めようと考えることにした。

 さらにその女は、早く忘れるように、あるいは記憶が薄れるように心がけるべきだと言った。「それができたら苦労しない」そう言いたかったが、どうすれば忘れられるのか? 逆に聞き返してみた。女は「であるならば、近くの神社でお祓いをしてもらい、心を清めてはどうか?」と言われた。

 自らイメージする時は案など浮かばなくても、人からなにか言われると、ふと思いつくことがある。比沙子は「それならば催眠療法にでも行った方が手っ取り早いのではないか?」と思った。

 とはいえ、生活に支障が出ているわけでもなければ、絶えず苦痛に苛まれているわけでもない。なにかにつけて思い出しはするが、忘れようと心掛けて気を反らせると退けられる。車道を進む自転車を見ないように心掛ければいい。今の状況で催眠療法をわざわざ受けに行くのもどうかと思った。

 女はもう一つ助言した。「もしかしたら、事故に遭った被害者の生死、結末を心のどこかで気にしているのかもしれない。その人がどうなったか、調べてみてはどうか?」というものだった。

 それは一理ある。

 そう思った比沙子は、決して口にしてこなかったあの事件の事を、母に問うてみた。

 母親は驚いていたが、明瞭に答えた。頭から落ち、アスファルトに叩きつけられた格好で、ほぼ即死だった、と。新聞にも載り、テレビでも流れたと教わった。

 比沙子は「やはり」と思った。同時に、女が言ったように、答えを与えられて、どこかホッとしたような気がした。もちろん、亡くなった被害者には気の毒としか言いようがないのだが。

 なんとなく心の片隅にあった棘が取れたような気がした。

 そんな比沙子は、事件の全体像が知りたくなった。世間に流れただけの真実であっても、最初から最後までの顛末を知れば、脳裏に焼きついたあの事件を片づけられるのではないかと思ったのだ。

 暑さをしのぐために入ったカフェで、ネット検索したら簡単にヒットした。

 自転車を運転していた被害者は点滅していた青信号を、スピードを上げて渡り切ろうとしていたようだ。そこへ運転免許取り立ての大学生の脇見が原因で信号を見誤り、交差点に突っ込んだ。急ブレーキを踏めるほどの余裕はなく、自動車と自転車は衝突し、自転車の被害者は即死。大学生は過失致死で現行犯逮捕となった。

 比沙子は小さく吐息をついた。長い間自分を縛っていた縄が大きく緩んだような気がした。

 そして――目を奪われた。

 加害者の名前と年齢。

 それに心当たりがあった。

――課長!

 叫びそうになった。

 子どもができて間もない四十半ばの上司は、誰からも好かれる温厚な男だった。

 それは比沙子にとって、衝撃だった。意図したことでなくても、良くない偶然の重なりであっても、毎日顔を合わせ、共に働く上司が、人を殺めていたのだ。

 いや。

 別人かもしれない。
 別人の可能性の方が高い。
 別人であってほしい。
 ただ単に、同じ名前、同じ年なだけだ。

 比沙子は自らに言い聞かすように、何度も唱えた。

 別人であって。

 心にドロリとしたイヤなものが広がった。またしても自分の体を、あの事件が絡み付いて、縛りあげようとしているような錯覚を囚われた。

 スマホのアプリを消しても、置いているマグのコーヒーを飲んでも、そのイヤな気持ちは一向に収まらない。
 触れる必要のないものに自ら触れに行ったような、不愉快さが心を満たした。

 カフェを出て、地下鉄に向かう。
 真夏の暑さがますますその不快さに拍車をかける。
 比沙子は上司の笑顔と、被害者の顔を思い出し、気持ちが悪くなった。

 どうしてこんなに気になるのだろう。
 早く忘れてしまえばいいのに。

 そう思うのに、記憶は意識を覆い尽くして離れない。まるで脳に住み着き、蔦のように蔓を伸ばして全身に絡みつき、覆い尽くしていくような気さえする。

 気になる。

 課長はどんな気持ちで今まで過ごしてきたのだろう。
 今、なにを考えているのだろう。

 あの時の記憶が、脳裏から離れない。
 ああ。

 その時、そんな比沙子の耳に、轟くような悲鳴が届いた。

 ハッとすると、視界に赤信号が見えた。その瞬間、耳を裂くようなアスファルトを滑る急ブレーキの音が響いた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア