風呂に入ろうと準備していた時、スマホの着信音が鳴り響いた。
「もしもし?」
『天川君、深夜に申し訳ないが、すぐに病院に来てほしい。夕愛が、目覚めそうなんだ』
「本当ですか!?すぐに行きます」
通話を切った後、持っていたバスタオルを投げ出し、近くにあったバッグと家の鍵、自転車の鍵を持って家を飛び出した。
自転車の鍵を穴に挿し込み、またがって勢いよく漕ぎ出す。
ライトを点けて全速力で夕愛の元へ行く。
早く、会いたい。今度こそ俺は彼女に、伝えたいことがあるから。
*
病院の駐輪場に自転車を置き、受付を済ませ、病室に駆け込んだ。
「天川君、夜遅いのに来てくれてありがとう。迎えに行けなくて申し訳ない」
「俺が夕愛に会いたくて来たので、全然大丈夫です。あの、夕愛は……?」
ベッドの方へ視線を向けると、彼女の瞼がぴくぴくと動いているような気がした。
「さっきからこんな感じで動いているんだ。天川君、呼びかけてみてくれないか」
ベッドのそばにある椅子に腰掛け、夕愛の手を強く握った。もう二度と離さないように、強く。
「夕愛、起きてくれ。俺、ずっと伝えたいことがあったんだ。頼む、頼むよ……」
やっぱり、俺の声は届かないかもしれない。俺じゃ、だめなのかもしれない。そんな不安に襲われて、どうしようもない。だけど……
「俺は夕愛がいなきゃ、だめなんだ」
ずっと君に救われてきた。あの笑顔に、声に、大好きなその人柄に。
「夕愛と過ごした日々がとても楽しかったよ」
「君が笑ってくれるのが嬉しかったんだ」
「頼ってくれるのが嬉しかった」
「身勝手だけれど、君の、笑顔を、守りたいんだっ……」
夕愛の父親がいるのにも構わず、ふたりだけの思い出を彼女に聞かせる。あの頃は楽しかったはずだ。ただの思い込みかもしれないけれど、夕愛にとって息をつける場所だったはずだから。
「出会い方は最悪だったけれど、一緒にあの後、遅咲きの桜を見たよな」
桜よりも夕愛が綺麗だった。
「雨の日にふたりで水溜まりを見つけて遊んだよな」
ころころと笑う姿が愛らしくて。
「夏の初めなのにとても暑い日があって、一緒にコンビニでアイス買って食べたよな」
その目に俺は、映っていたのだろうか。
「また、たくさんいろんなことをしたい。楽しいことを、ふたりで」
伝わらないかもしれない。伝えられないかもしれない。それでも、俺は。
「君に、笑っていてほしいよ……」
項垂れた俺の手から、夕愛の手が滑り落ちる。
その瞬間、清らかでか細い声が、俺の鼓膜を揺らした。
「海音?」
瞼をゆっくりと開き、俺の手を弱々しく握ったのは。
「夕愛!!」
その細くなった身体を抱きしめる。さっきまで冷たく、固く強張っていた身体に少しずつ、人間らしい温かさと柔らかさが戻ってくる。
小さいけれど、力強く脈打つ心臓が夕愛が生きていることを知らせてくれる。
「よかった……目が覚めて。もうだめかと思った。一生、目を覚まさないかと……」
「あの、どうかしたの?私、どうしちゃったんだっけ」
すごく軽い口調にはどこか違和感がある。安心しきっていた俺の気持ちは、再びかき乱されていく。
そばにいた医者が夕愛の体調を確かめ、力なく項垂れた。
「この症状、間違いありません。森内さんは感情を、完全に失いました」
何を、言っているのだろうか。俺は、知らない。
次々と説明される内容に頭が追いつかなくて、吐き気がする。脳が現実を知ることを、拒否しているみたいだ。
「何日か前に一度、森内さんはこの病院に来て、感情を失いつつあるという診断が下されています。その時担当したのが私です」
「娘がこの病院に来ていた?近くの小さな病院で風邪薬をもらっただけで、この大きな総合病院に来ていたなんて、聞いてません。何かの間違いではないですか」
「間違いではありませんよ。ほら、カルテもありますから」
そこには夕愛の病名と状態について細かく書いてあった。
「彼女の症状が改善されないまま、脳が一度シャットダウンされたため、意識を失ったのでしょう。恐らくそうだと思います。無意識に心を守ったということです」
カルテにもう一度目を走らせると、発症は3か月前だという予想がされていた。
俺と過ごしていた時間の中で、夕愛は感情を奪われていた?あんなに楽しそうに、嬉しそうに話していたのに。苦しげな表情や、悲しげな表情だってちゃんとあった。
夕愛はそれすらも偽って過ごしていたというのか?
「この病気を治し、彼女の感情を取り戻すには、ひとつの方法しかありません」
僅かに目を伏せた医者の口が重々しく開いた。
「人との関わりを持たせ続け、感情を思い出してもらう。それしか、ありません」
再び降りた沈黙に耐えられそうになかった。なのに、口からは何も出てこない。
全員の視線は夕愛ただひとりに注がれている。
美しい横顔には似合わない、灰色の生気のない瞳。何を考えているのか、その顔からは全く読み取れそうにない。
俺は、夕愛がどこか遠くへ行ってしまったような虚しさを感じた。
「毎日、夕愛さんと会話してあげてください。私には、もうどうすることもできません」
「医者は無力です」と苦しそうな顔で呟いたのを見た途端、視界が弾けた。
目を擦っても、あとからあとから溢れ出してくる涙は、止まりそうもない。
なんで、夕愛なんだろう。なんで、俺の大切な人がこんな病気にならなくちゃいけないんだ。
でもだからといって、俺は何もできない。俺もただただ無力なんだ。憤ることしかできない。この手で夕愛を幸せにするって、約束したのに。
俺が夕愛のヒーローになれるかもなんて、とんだ思い違いだった。
強張った身体を、誰かが優しく包み込んだ。大切なものを扱うように本当に優しく、優しく。
反射的に顔を上げると、驚きのあまり声が出せなかった。やっとのことで出した声はひどく掠れていて、空気に溶け込んでいく。
「夕愛……?どうして……」
寄せられた瞳は冷たい。柔らかさの欠片もない。それでも夕愛は、俺を抱きしめている。
腕を上げ、俺の頭に手を置いたかと思うと、そのままぎこちなく撫で始めた。
『夕愛らしく』
いつか夕愛に向けて言った言葉を思い出した。
その言葉を彼女が覚えてくれているんだとしたら?
諦めちゃだめだと言ってくれているんだ。夕愛なりに。
「夕愛、俺頑張る。頑張るから……待ってろよ」
君の感情がまだ心の奥底に残っていると信じるから。
俺の手で必ず、夕愛の笑顔を取り戻してみせる。そして、夕愛と一緒に、日常を過ごしていきたい。
そのために俺が、できることは……
*
6月10日
今日から俺は、日記をつけることにした。夕愛のためにできることをたくさん考えた結果、夕愛の微妙な心の変化に気がつけるよう、記しておこうと決めたのだ。
外は雨が降っていて、窓に雨が叩きつけられて、ガタガタと揺れている。ベッドに座っている夕愛は心ここにあらずといった感じでボーっとしている。
一応、会話はできる。なんともない会話をすることが多い。夕愛の返事はいつも「うん」一択だった。視線も合わせてくれない。
面会時間がそろそろ終わってしまう。もう帰らないと。
また明日も来るからな。
6月16日
今日は父の日らしい。テレビのニュースで父の日特集をやっていた。
夕愛は父親に何かプレゼントするらしく、さっきから折り紙をひたすら折っていて、会話してくれない。
その手の中にある物を見ると、黃色の可愛らしいミニバラの花束があった。折り紙で作り上げてしまうなんて、さすが夕愛だ。器用なのは変わっていないらしい。
完成したはずなのに、もうひとつ作り始めている。そしてできた赤色のミニバラを俺にくれた。
相変わらずの無表情。でも、薔薇の花言葉を思い出すと、胸がいっぱいになってしまう。まぁ、ただの偶然だと思うけれど。
赤い薔薇の花言葉。それは、
貴方を愛しています。
6月31日
今日は夏至だ。夏至というだけあって暑い。これからどんどん暑くなっていくのだろう。
夕愛が入院してからだいぶ経ったけれど、俺はこの場所に慣れそうもない。注射器や点滴などが置いてあって、少し怖いイメージがあるから。
病室は一定の温度に保たれていて心地いいが、どうしようもなくアイスが食べたくて、近くのコンビニでアイスを買ってきた。前一緒に食べたときのことを思い出してくれたらという下心もある。
ふたつくっついたアイスを割って夕愛にひとつ渡すと、無表情で食べ始めた。夕愛はアイスが好きだから、嬉しそうな顔をしてくれると思ったんだけどな……残念。
一定のスピードで食べ進めるから、冷たさも感じなくなったんじゃないかと少し疑ってしまった。
夕愛は食べ終えるとすぐに眠ってしまった。まだ昼なのに。今日はいつにも増して具合が悪そうだったからな……よし、もう帰るとしよう。また明日も来るよ。
おやすみ、夕愛。
7月1日
今日から7月。通りにいたおじさんからもらった1枚のチラシには、『夏祭り開催のお知らせ』と書いてあった。
夕愛に見せても、もちろん無表情。でも、一応手に取ってはくれた。
花火と食べ物の写真が大きくプリントされてあって、去年よりも多くの屋台を出すみたいだった。
夕愛の顔色は、日に日に悪くなっている。目が覚めた次の日はまだいくらか気分が良さそうだったのに。
夏祭り当日に体調が良さそうだったら、行ってもいいと許可をもらった。行けたら行こうな、夕愛。
7月15日
今日は待ちに待った海の日!ということで、今海に来ている。夕愛、夕愛の父親、俺、医者の4人。
医者は夕愛の体調が急変すると大変だから、という理由の付き添いだ。
俺も本来はいなくてもいい人なのだが、夕愛の父親に頼まれ、同行させてもらうことになった。俺のほうから行かせてほしいとお願いしようと思っていたから、喜んで同行を承諾した。
今は医者が日差し避けのテントを立てていて、夕愛の父親がバーベキューの準備をしている。
夕愛は肌の露出が少ない水着を着て、レジャーシートに暑そうに座り込んでいる。白の布地にさくらんぼが散りばめられた可愛らしい水着だ。暑そうだけれど、涼しげなビキニとか着られたら俺が困る。夕愛、ナンパされそう。
準備の間、俺は夕愛を連れて海に入る。
水のかけ合いをしたり、浮き輪で浮いてみたりといろいろしているけれど、夕愛はいつも通りの無表情。
雲ひとつない空から降り注ぐ光を目いっぱいに浴びて、煌めく海はとても綺麗だ。夕愛が海に入っている姿と一緒に写真を撮りたい。でも彼女が嫌がるかもしれないから、今はまだ無理だろう。
バーベキューを囲んで肉を食べ始め、大人もお酒がどんどん進んでいくのに、夕愛は食欲がなさそうだった。
医者が暑さで夏バテ気味なのかもと冷たい素麺を夕愛にあげると、すぐさま食べ始めた。
バーベキューを終えて、片付けを始める。
夕愛は眠そうにうつらうつらとしている。夕愛の父親を呼んでこよう。
じゃ、おやすみ。
7月23日
夏祭りが8月にあるので、夕愛と浴衣を買いにショッピングモールにやってきた。
今、夕愛は自分の好みが曖昧なので、以前好きだと言っていた柄や色の中から、俺が似合いそうだと思うものを選ぶことにする。
最近、夕愛の表情が明るくなってきていて、医者はいい兆しだと言っていた。俺の目には、無表情からただ穏やかな顔に変わっただけのように見えたが。
浴衣の候補が絞れてふたつで迷っていると、夕愛が急に袖を引いてきた。
感情を失ってから初めての行動だと内心驚きつつ夕愛を見ると、男用の茶色の浴衣を持ち、柔らかな微笑を浮かべていた。
思わずその浴衣を受け取ると、夕愛は笑顔を保ちながらそっと呟いた。
「これ、海音の。似合うかなと思って」
言い終わった途端に無表情に戻ってしまった。美しい笑顔をいつまでも見つめていたかったのに。
そんなことより、夕愛が俺のために選んでくれたという事実に胸がいっぱいだった。
夕愛の感情はまだ奥底に眠っているんだと思っていた。でも、本当は違ったんだ。
もうすぐそこにある。手が届く場所に。
これはいいことだと思い、病院に戻ってみんなに知らせようと急いで浴衣を買い、店を出る。
夕愛、俺の選んだ浴衣を気に入ってくれるだろうか。
夏祭りが、待ち遠しい。

