紙切れをもう一度眺めて呆然としていたら、いつのまにか12時になってしまっていた。慌てて次の日の準備をし、ベッドに入って寝ようと努力したけれどなかなか眠れなくて、いつもより1時間寝坊してしまった。
空はどんよりと重たい灰色の雲に覆われていて、今にも雨が降ってきそうだ。天気のせいで髪はまとまらないし、片頭痛が酷い。目覚めが悪かったせいか、いつもより身体中が疲れているような気がする。
具合があまりよくないからといってダラダラしていると授業に遅れてしまうので、超高速で準備を済ませ、朝食も食べずに家を出た。
昨日から降り続いた雨は今は止んでいるけれど、水溜まりは乾いていない。水面を見つめながら、重い足取りで学校までの道のりを歩く。水溜まりに映る私の顔をひとつひとつ壊しながら歩いていたら、スニーカーがぐしょぐしょになってしまった。靴下も濡れてしまって気持ち悪い。
綺麗な水面に映った私の顔があまりにも醜くて、汚らわしいものにしか感じられない。私が壊しながら歩くと、自分の顔がさらに歪んで見えなくなる。自分だとわからなくなる。自分の顔を見なくて済むのなら、靴が濡れるのなんて気にしない。
「おはよ、夕愛。どした?ひでー顔だぞ。天気と同じような顔してる」
元気のない私を励まそうとしたのか、海音が冗談めいた口振りで茶化してくる。彼を一瞥し、何も言わずに歩き出す。
朝からこんなハイテンションに付き合える心の余裕がない。空気を読んでくれないだろうか。
私の願いも虚しく、海音は隣に張り付いてひとりで話し続ける。一昨日お笑い番組を見た、昨日綺麗な花を見つけた、今日の朝食が美味しかった。そんなくだらない話ばかり。興味がないのに、何ひとつ反応しないのに、私に話しかける意味なんてあるのだろうか。
「あ、もしかして昨日のことでなんか怒ってる?俺が昨日言ったことは嘘じゃない、本気だよ。夕愛を笑顔にしてみせるって」
「それとも、雨っぽくてジメジメしてて、低気圧で頭痛がーっていう感じ?それなら俺、夕愛の荷物持つよ」
ベラベラと一方通行な会話を繰り広げる海音に、私は驚きを隠せない。いつも穏やかな笑みを浮かべて、私の話を静かに聞いてくれるのに、どうしたんだろう。
「どうしたの?今日めっちゃ喋るじゃん」
思わず口に出してから、気がついてしまった。でも、もう遅い。
「やっとこっち向いて話してくれた。良かった。顔色も割と良さそうだな」
甘くて優しい笑みに、心臓が大きく跳ねる。血液が体中を一瞬で巡って、身体がすごく熱い。
「別に、いつもと同じだけど?」
いつもの声のトーン、表情、口角を意識しながら、無理やりにでも笑う。相手に私の不安を見透かされていそうで怖い。
「やっぱ、疲れてんだな」
海音は私の渾身の嘘をあっというまに突破して、核心を突く。何をしても、どうしても海音は騙せない。騙せた試しがない。
でも、海音に心配されたくない。そんな思いがあって、今日も笑顔を取り繕う。
「んー、ちょっと疲れてるけど、全然平気だよー。大丈夫」
「ならいいんだけど……あんま無理すんなよ」
柔らかく笑う海音を見ていると、胸の絡まり合う糸がするすると解けていくような気がする。不思議と安心して、心地いい。
さっきまで自転車を漕いで学校に向かっていたのに、自転車を降りて、私のペースで歩いてくれている。案外、海音はお人好しなのかもしれない。
「夕愛が具合悪くて倒れたら嫌だから、一緒に行こう」
「えと、うん。ありがと」
こうやってたまに女の子扱いするのが妙に気恥ずかしくて、こそばゆい。
私が無理をしているのを察して心配してくれるのが嬉しい。そして、そういうところが彼らしいとも思う。
こういう彼氏がいたら、きっと楽になって、楽しくて、幸せな日々が送れるんだろうな。
私は何を考えているのだろう。
急におかしくなった思考についていけなくて驚いた。海音を恋愛対象として捉えたことなんて一度もない。好きだと感じたことがない。でも、海音のことをどう思っているか、私達の関係はなんだと聞かれたら、答えられないような気がする。友達とも違うし、他人だと関わりのない関係だと思われる。かと言って適切な言葉は見つからない、名前のない関係。
とにかく変な考えを頭の隅に押しやりたくて、屋根に溜まった雨だれを見つめて現実逃避をする。大粒の雫が太陽の光をめいっぱいに浴びて、煌めいている。
「そういやさ、夏休みって予定とかある?」
ちらちらと視線を送ってくる海音を横目で見てから、「別に」とそっけなく答える。
本当は嘘だ。夏には、夏休み頃にはたぶん、私は感情を完全に失う。その前にお父さんへの説明、入院の準備、退学の手続きなどを少しずつ進めていかなければならない。脳死と同じようなものだと判断されたら、私は臓器提供をしようと思っている。数日のうちに死ぬか、植物状態で心臓が止まるまで一生お金がかかるのなら、臓器がなくて延命できない人の助けになれればと思ったから。
いや、本当は、誰かに迷惑をかけてまで生きていたくないから。苦しいのなら早く死んでしまいたい。感情がないまま、脳が動かないまま、何も感じないまま生きていくなんて、苦しいに決まっている。そんな状態より、早く死んで肉体にも別れを告げたほうが幸せになれると思う。
どっちみち、今の医療技術で治すことは不可能に近いだろう。もう諦めている。生きることなんて諦めたほうが楽だ。最期まで生きることができたらそれでいい。
「予定特にないんならさ、夏祭り行かない?」
「え?なんで私と行くの?海音、友達たくさんいるのに」
フレンドリーかつ、顔が良くて、頭の良い転校生なだけあって、海音に友達はたくさんいる。男女関係なく仲が良い人がいて、同学年だけじゃなく、上下級生にも人気らしい。私なんかより、仲の良い友達と行けばいいのにと思う。
「や、まぁたくさんの人に誘われたけどさ、俺、別に大勢で遊ぶのあんまり好きじゃないし、夕愛と話すの楽しいから、夕愛と行きたいなーって思っただけだよ」
今まで、友達とそういう場所へ行くことがなかったから、素直に行きたいと思った。友達からお祭りは、値段が異様に高いものの、やっぱり出来立ての焼きそばやフランクフルトは美味しくて、何より夜空を彩る大輪の花火が綺麗だとよく聞いていた。
でも行きたいなんて、親には言ったことがなかった。小学生の頃は、お母さんのこともあってそんな余裕なんてなかった、というのもある。お母さんのせいではない。私があまりにも他のことに興味がなく、植物のように無気力に生きていたから。私は子供がよくする、よく行くもののやり方、場所を知らずに育ってしまったから。海音と一緒に行ったら、きっと楽しいんだろうな。
「うん、行く。行きたい」
海音が珍しく目を輝かせ、弾ける笑顔を私に近づけてきた。
「なら、メールのアドレス交換しておこう。祭りのこといろいろ話したいし」
「いいけど……私、家族以外の人と連絡先交換したことないから、登録の仕方わかんない……」
「え、マジで。夕愛、彩音とか夏実とかと仲良いから交換してると思ってた」
意外という顔をされて、居心地が悪くなってしまった。あまりそのことについては、触れてほしくない。
曖昧な返事をして、海音にスマホを手渡す。
「ちょっと時間かかるかもしれないから待ってて。すぐ終わらせる」
海音が私のスマホを操作し始めたので、青く青く、どこまでも広がる空を見つめ、夏実達のことを思い浮かべる。
夏実はいつも私のノートやプリントを借りてくる。勉強はできるほうなのに、真面目にコツコツやらないせいで提出の時に困っているらしい。そのせいで、いつも私が貸す羽目になる。アニメと漫画が大好きで、オタク気質。それなのに頭が良いだなんて、羨ましい以外の言葉が見つからない。自分は頭が良いと自覚しているので、人を見下すような発言が絶えない。
一方で彩音は、おしゃれでとても可愛い。陰キャの夏実とは裏腹に社交的で、声もかけやすい。ただ、成績は下の下で、声が大きくて本当にうるさい。絡み方が面倒で、自分のことが大好きなんだと伝わってくる。
ふたりのことが嫌いなわけではないが、正直苦手だと感じる。
真面目な夏実、社交的な彩音、嘘つきな私。どう考えても馬が合うわけがない。お互い、好きなものも嫌いなものも、推しも違う。それはふたりもわかっているはずだ。それでも、私たちの関係は付かず離れずのままだった。
「……い。夕愛。夕愛?」
「はいっ、痛っ」
ばっと勢い良く頭を上げたせいで、私の後頭部と海音の額が激しくぶつかり合ってしまった。
「夕愛、大丈夫か?ぼーっとし過ぎだって……気をつけろよ」
海音は顰め面をしながらも、私のことを気にかけてくれる。どこまで優しい人なのだろう。今のは完全に私が悪いのに。
「ごめんね」と謝って、私はなんでもないふうを装った。考えていることを見透かされそうで怖かった。それくらい、海音は心配そうな顔をしていた。
スマホを返してもらい、お礼を言ってからメールを開く。海音とのトーク画面を見ると、私宛にスタンプが送られてきていた。
彼らしくないクマの可愛いスタンプで、大きなうるうるとした目のクマがピースサインをしている。
「海音ってクマ好きだったんだね、意外」
「待って、そればあちゃんが買ってきたやつ押し付けられただけで、俺が好きなわけじゃないから。変な勘違いはするなよ」
くすくすと笑う私に、海音は赤くなった顔を手で隠しながらあたふたしている。動揺している海音を見るのは初めてだ。
こうして海音と何気ない会話をするだけで、私の心の中にあるモヤモヤとした気持ちが薄れていくように感じる。
海音といると、気持ちが楽になって、本当の自分でいられる。毎日が楽しくて、景色がより一層輝いて見える。
「あ、もうこんな時間。急がないと遅刻するぞ」
バタバタと慌ただしく自転車にまたがって漕ぎ出した後ろ姿を追い駆けながら、私は満面の笑みを浮かべて言った。
「私を変えてくれて、ありがとう」
ばっと振り返った海音が「何か言ったー?」と首を傾げるが、私はそれをわざと無視する。
深く濃い青空へと駆け出した足を休めることなく、前へと突き出して走って、走って、走る。決して速いわけではないし、体力もないのに足はどこまでも跳んで行けそうなほどに軽い。
「おい、待てよ!気になるんだけど!」
後ろから追いかけてくる自転車を振り切って走りながら、彼の方に振り向いた。
サラサラと髪が揺れ、耳にかかる感触がむず痒い。
「内緒。知りたかったら、自分の足で追いつけば!」
とびっきりの笑顔を見せつけて、また前を向いて走り出す。
私が、彼に抱くこの感情を知りたい。だけど、わからない。ずっと気になっていた。彼へのこの想いは何?むず痒くて、幸せで、塩辛くて、甘くて、酸っぱい、この感情は。
私が嘘をついても、私が苦しんでいることを見抜いた彼ならわかるかもしれない。だけどなぜか、彼に話すことを躊躇う。
だから、この感情を知るすべがない。
もし、自分でいつかこの感情の名前を見つけて。胸を張ってこの感情に名前をつけてあげられたら。
海音に、この想いを届けたいと願う。
*
遅刻寸前の私達は息を切らしながら、教室に駆け込んだ。
もう先生が教卓の前に立っていて、時間ギリギリだと怒られた。
ギリギリならセーフじゃないかと怒ってむくれていると、海音もそう思っていたらしく、ポロリと本音が漏れ出ているのを先生に聞かれ、さらに怒られた。
1分で良かった説教を10分くらいにされた。海音、まじで許さん。
「夕愛、機嫌直してくれ……」
やっと授業が始まってそれなりに集中していたのに、私がむくれながら板書をしていたせいか、横から謝罪が飛んできた。いつか諦めて静かにしてくれるだろうと思い、全て無視している。
「夕愛、本当にごめん。なんでもするから許して……」
「……」
「ごめん……今日新発売したクレープ奢るから。な?」
「……」
「じゃあ、パフェ!パフェ山盛りも付けるから!頼む、何か言って!」
構ってちゃんかというくらい話しかけてくる海音。テンションがおかしい。そして私、そこまで食べられない。そんなに食べたら胸焼けする。
私が無視しているせいで、相当怒っているんだと勘違いしているらしい。何度か海音の方を向いてわざとらしくため息をついたり、睨みつけたりしているのに全く伝わっていない。以心伝心する力がないのだろうか。
終わりが見えないので、適当にノートの端を引き千切り、『静かにしてくれないから怒ってる、今日クレープ食べに行きたい』と書いて机に投げた。
丸めた紙はコロコロと転がって海音の手元で止まり、彼は丸められた紙を丁寧に伸ばして読み始める。
やっと静かになったなとほっとしつつ、前へ向き直った直後、丸めた紙が戻ってきた。
広げると、ルーズリーフの切れ端に申し訳程度に小さな、綺麗な文字で『嬉しい、楽しみにしてる』と書かれていた。海音の字ってこんなに整っているんだと驚いた。それと同時に、放課後に海音とクレープ屋さんに行けることを喜ぶ自分にも驚いた。
嬉しそうに微笑む海音と同じような顔をしている自分に気づかないまま、授業に集中する。
*
お昼休みになったからひとりで休憩しようと思ったのに、休む暇もなく、彩音と夏実が机を近づけてきた。
「ねぇねぇ夕愛、お昼ご飯一緒に食べよー」
「あ、うん。いいよ」
本当は今日も屋上に行こうとしていた。けど、誘われてしまったから仕方がない。諦めて、明日行くことにしよう。
「見てコレー!ちょー可愛くない?」
彩音が突きつけてきたのは、ラメやシールでゴテゴテと飾り付けられたスマホケースだった。
「ウチが作ったんだー!すごいでしょ?可愛いでしょ?」
スマホケースに見惚れる彩音には悪いが、私はそのデザインはあまり好みではない。ラメやハートは派手すぎるからあまり使わない。私のスマホケースは無色透明のケースに好きなシールを挟めてある、至ってシンプルなものだ。
「ねぇ、めっちゃいいと思わない?」
「うん、素敵だと思うよ」
また、嘘。嘘の褒め言葉は彩音を上機嫌にさせる。今度はキラキラのネイルを見せつけられ、私は可愛いと言わざるを得なかった。
本当はそんなこと1ミリも思っていないのに。思っていないことを口にしてしまう。私は本当に最低な人間だ。
「あ、夕愛?友達と飯食ってんのか……、一緒に食べようと思ったけど無理そうだな」
ひょっこりと現れた海音は残念そうに薄く笑った。
「んー、ウチらが先客だからねー。明日にしてー」
にこーっと笑って彩音は私に抱きつく。甘くてどろっととくる香りが私を取り囲んだ。
さっきからずっと無言だった夏実は、急に「天川くん……」と口を開いた。
「私も……明日、一緒に昼食摂りたいな……」
緊張した素振りを見せる夏実に少し引っかかりを覚えた。何だか妙に身体が強張って仕方がない。この違和感はなんだろう。
「あー、ごめん。別の日でいい?夕愛とふたりで食べようと思ってたから」
「え」と微かに漏れ出た彩音の声と、夏実の下唇を噛み締める様子に、私は居た堪れなくなる。夏実の肩は震えていた。
「わ、わかった。また今度ね」
心底残念そうな顔をして、またおとなしくなってしまった。
海音はそんな夏実の様子を気にも留めず、「じゃ、放課後な」と言いたいことだけ言って、立ち去ってしまった。
急に降りた沈黙が重たい。夏実の視線が痛くて目を逸らす。
「あ、ねぇっ夏実って、天川のこと好きなの?」
その言葉を聞いた途端、夏実は首筋まで真っ赤に染まった。急に慌て出す夏実を見て、彩音は色めき立つ。
「え、そういうことなら早く言ってよもーっ全然気づかなかったぁ」
夏実が海音を無理やり昼食に誘ったこと、私と海音が話すのを羨ましそうに見ていたことも理由がわかってすっきりした。
「だから、夕愛が羨ましいなーって」
「確かに仲良いよねーふたり。夕愛ももしかして、海音のこと好きなの?」
「え?別に」
少し堅苦しかったかもしれないが、違うと即答した。ここできちんと誤解を解かないと、後で痛い目を見る。
「そっかぁ、てかさ、さっきの夏実めちゃ乙女だったよねー笑える。ウチらと話すときとは別人じゃん」
「うるせーよ。マジ、黙れ」
夏実は先程のしおらしさを早々に捨て、いつもの口の悪さに戻って彩音とじゃれ合い始めた。
私はそれを、外側から見ていることしかできない。内側へと入っていくことができない。
いつもそうだ。3人でいたとしても、私だけ仲間外れにされてしまう。
「あ、そうだ。今日3人でさー、駅前にできたアイス屋さんに行かない?そこで夏実の恋バナ聞こうよー」
彩音の威圧的な態度に夏実は逆らえないと判断したのか、すぐさま首を縦に振った。
私は海音との約束があるので、一緒に行けない。でも、彩音の目がキラリと光り、逃がすまいと絡み付いてくる。
「ねぇ、絶対来るよねー?夕愛」
まただ。ぐっと引き結んだ唇から、鉄の味が滲む。何度も噛み締めているから、血が出やすくなってしまっている。
私の首を締め付けてくる、この冷え切った目。蛇のように絡んで離さない、この口調。
息苦しい。つらい。苦しい。嫌だ。嘘をつかないと乗り切れない状況を作り出したのは私だ。正直に言えない自分を隠すように嘘をつき続けて。嘘に甘えきって。そんな自分が大嫌いだ。
もう、いいや。どうにでもなればいい。傷つくのは自分だけなのだから。
「ごめん。今日歯医者あるから無理だわー」
自分で自分の首を締めて、笑う。息苦しさは揺らぐことなく、どんどん強まるのに嘘をついてしまう。
「そっかー残念。じゃ、夏実とふたりで行くね」
歯医者なら仕方ないと付け加え、私の腕から夏実の腕へと移り、ぎゅっと夏実に抱きつく彩音。戸惑いを見せる夏実。
夏実、本当は嫌なくせに。顔にも出てしまっている。でも、私がそのことを夏実に言う資格なんてないのは、自分がいちばんよくわかりきっていた。
手足が震えている。頭の中は真っ白で、酸欠状態のように、息が上手く吸えない。口は開けたり閉めたりの繰り返し。餌を求める金魚のように。助けを求める醜い虫のように。
「何フリーズしちゃってんの夕愛?そろそろ授業始まるけど」
いつのまにか席を元に戻した夏実が、私の頭を軽く叩いていた。
「あ、うん。ちょっとボーッとしてて。あはは、夏ボケかなー」
「なんだそれ。ま、ちゃんとしなよ」
くるっと前に向き直った夏実に気づかれないように、拳を固く、きつく握り締める。
私が少しだけ楽になれるおまじない。力強く握れば、もう何も怖くない。
でも、今日はいつまでも楽にならず、ただ胸の苦しみと痛みが奥に広がっていくだけだった。
*
まともに授業の内容が耳に入ってこないまま、午後の授業は終わりを告げた。
ずっと待ちわびていた放課後。やっと海音と遊べる。彼と遊ぶのは楽で気負わないから好きだ。
「あー夕愛。ちょっとごめん」
帰りのHRが終わったので、海音と一緒に帰ろうと話しかけようと思っていたら、逆に話しかけられた。
「どうしたの?」
「実は、少し用事ができちゃってさ……図書室か、玄関で待っててくれない?」
「えー、いいけど……」
急にどうしたのだろう。勘違いだったらいいが、海音は焦っているように見える。私にはバレたくないという気持ちがその態度に出ている気がした。
あまり詮索するのも悪い気がして、私はすぐに頷いた。
「わかった。待ってるね」
「ありがとう。じゃ、また後でな」
「うん、また後でね」
優しく目を細める海音の姿を目に焼き付けてから、私はその場から離れた。
図書室へ向かおうと何歩か足を進めたが、胸の中にモヤッとしたものが溜まって止めてしまった。
「用事って、何なんだろ」
そんな疑問が思わず口から漏れ出て、澄み切った青空へと溶け込む。一度口にした疑問はなかなか頭から離れてくれなくて、ふよふよと漂い続ける。
少しくらい盗み見てもバレないんじゃないかという考えが唐突に頭を支配した。悪い考えを払おうとしたけれど、気になってしまって悪魔が勝ちそうになる。
気がつくと、元来た道を翻し、教室へ駆け出していた。廊下を走ったら先生に怒られてしまうけれど、この時間なら大丈夫だろう。
海音と出会ってから、校則を守ろうとする気持ちや正義感が薄れてしまったのかもしれないなと今さらながらに気がつく。でも、それは決して悪いことだけではなくて、自分の心を守れるくらいの余裕が生まれた。いいこともある。海音は何かに囚われていた私を守ってくれていたのだ。
走って教室に着くと、中にはまだ人がいて、誰かと会話をしているのが聞こえる。
海音はたぶんここにいる。そんな直感を信じて扉越しから耳をそば立てると、微かに声が聞こえた。
「わたしじゃ、だめですか?」
「だめではないけど……」
女子ともうひとりは、海音の声だ。女子は何だか必死そうで、海音は困ったような口調だ。その真相が知りたくて、私は聴覚に神経を集中させる。
「わたしのどこがだめか教えてください!」
「だめとかじゃなくて。ただ好きじゃないだけだよ」
「そう……ですか。でも、お試しでいいので!これからわたしのことをもっと知ってほしいです……!だから、お願いします」
声を聞いていたらもうひとりの女子がだいたい誰かわかってしまった。下級生の清水まゆちゃんだ。確か、入学初日に5人の男子から告白され、全てお断りした子。今も1日に1回は男子から告白をされていると、風の噂で聞いたことがある。
まさかそのまゆちゃんが海音のことが好きだったなんて、思いもよらなかった。きっと男子に告白したのは初めてなんだろう。声が震えていて、緊張が伝わってくる。
まゆちゃんはお試しでもいいから海音のそばにいたいんだなと思うと、彼女の恋が成就してほしい。
「ごめん、俺好きな子がいるから」
「そう……だったんですね。すみません、無理を言ってしまって。では」
こちらに誰か歩いてくる。慌ててそばにあった柱の物陰に隠れた。柱から恐る恐るまゆちゃんの方を見ると、彼女は必死に涙を呑んでいるようだった。
まゆちゃんは肩を震わせて嗚咽を堪えながら、玄関へと走り去ってしまった。
「さ、夕愛のところへ行くか……図書室かな」
海音の声の近さに驚いて、悲鳴を上げそうになったが、なんとか耐える。
海音はすでに図書室の方へと歩き始めていて、私が図書室に行くのは間に合わない。幸い、玄関は図書室と反対がわの廊下を進めばあるので、玄関で待てば会うこともないだろう。
1階まで下りてすぐそばの玄関まで来る。靴箱に手を掛け、外靴を取るとすぐさま履き替えた。
靴の踵を意味もなくトントンと床に打ち付け、切れかかっていた息を整える。
「ごめん夕愛、遅れた。結構待ったよな」
「全然、大丈夫だよ。今来たところ」
嘘は言っていない。今来た。……教室から。
「そっか。良かった。図書室にいなかったから」
「あ、うん。私図書室に行くと、読書に夢中になっちゃうから……玄関のほうがいいかなーって」
靴を履き替えた海音と並んで歩く。校門から出ると、雨がしとしとと降り始めた。少しずつ勢いを増していく雨に濡れないように、私は鞄から折りたたみ傘を取り出す。
隣を見ると、雨を全身で受け止める海音の姿があって、驚いてしまった。
「え?海音、傘は?」
「ないよ。天気予報は晴れだったから持ってきてない。別に濡れても平気だ。風邪引かないから」
最初の方はぱらぱらと降っていた雨が、本降りになってきた。傘の中が騒々しい。でもなぜか、今日は耳に心地いいと感じた。
「あの、私の傘使ってもいいよ。私は濡れても全然構わないから」
「じゃあ、半分借りる」
ひょいと傘を持ち上げられ、海音が身を寄せてきた。肩と肩が触れ合い、心臓が小さく音を立てる。
海音のほうが身長が10センチほど高いから、彼が私の方へ傘を傾けて濡れないようにしてくれている。そのせいで、海音の肩は少しずつ濡れていく。
「海音、肩濡れちゃうよ?真っすぐ持っていいから」
「だから、さっき言っただろ。俺は濡れてもいいんだ。夕愛が濡れなければ、それでいい。夕愛は?肩濡れてないか?」
「私は全然大丈夫。その、ありがとう」
海音と身体が触れ合っていて、とても近いのに、なぜか距離を感じてしまうのはどうしてなんだろう。いつにも増して、優しいから?私のことを考えてくれているから?それとも、告白されているところを見てしまったから?
「俺、さ。女子から、告白されたんだ」
唐突に口を開いた海音は、そんなことを言った。
悲しげな瞳がふっと真剣なものに変わり、私を見据えた。
「昔からずっと、好きな子がいるんだ」
海音が話し始めたのは、彼が小さい頃の出来事だった。
「俺に付いて回って、明るく笑う子だった。その子が好きでしょうがなくてさ。ある日、その子にこう言ったんだ」
そこでひと呼吸置いて、海音は微笑を浮かべた。
「ずっと、君を守りたいって」
その瞳は切なげに揺れ、口から苦しそうな吐息を零した。
「でも、裏切った。俺はその子を守るんじゃなくて、心配かけたまま、引っ越しちまった。本当、最低だよな。俺なんて、好かれる価値がないんだよ……」
海音の心の叫びが聞こえてくる。絶望、恐怖、後悔、諦め。胸が張り裂けそうで、苦しそうで。
「でも、それでも、忘れられない。好きなんだ。好きなんだよ……」
さっきの告白を思い出した。可愛い子から告白されて、普通は嬉しいはずだ。でも、海音には好きな人がいて。だから、断った。
私はなぜか、そのことを『嬉しい』と感じた。でも、なぜだろう。好きな子がいると聞いて、海音は、その子にずっと恋い焦がれていると聞いてからは、『苦しい』と感じる。海音が、悲しそうで、つらそうで、私の、友達だから。きっとそうだ。
「だから、今探し続けている」と言って、それきり海音は黙り込んでしまった。苦しげな顔を張り付けたまま。
海音には、笑っていてほしい。そんな思いで私も、過去の話をする。
「私もね、好きな人がいたんだ」
彼の苦しみを少しでも和らげたくて、必死に口を開く。
「その人は、私のヒーローで、困っていたら、すぐに助けてくれた。でもね彼が苦しんでいたとき、何もしてあげられなかった。ただ、見ているだけ。それきり、会えなくなっちゃって。今でも、夢に見るんだ。どうして助けてくれなかったの。そう、言われているみたいで苦しい。でも、私は……」
私も今は、苦しい顔をしている。海音と同じ顔をして、傷を背負っている。でも、自分にできる精一杯の笑みを浮かべてみせた。
「あの子が、私のことを許してくれるかは、わからない。なんで、謝らなかったんだろうって。でも、後悔するくらいなら、会って、謝りたい。どうなるかは、その後次第かな」
「……お互い、苦労してんだな」
「そうだね」
思って悔やんでいるだけじゃ、私達のしたことは、後悔はおさまらない。
でも、少しでも、海音の心が軽くなればと本気で願う。
「しんみりしてるなんて、俺達らしくないよな。クレープ食べに行くか」
すぐに駆け出した海音を追いかけようとすると、ふいにこちらへ視線を向けられた。
「夕愛はさ、夕愛らしくやればいいよ。俺も、俺らしく行動し良うと思う。もう、後悔したくないんだ」
そう言ってニヤリと笑う海音の考えに、私は流石だなと思った。私には、真似できそうもない。
また駆け出した海音を追いかけながら、疑問に思うことがあった。
私らしくって、何だろう。今まで、考えたこともなかった。
嘘の私が私?それとも、素の私が私?
いくら考えても、答えは出ないまま。だけど。
心が少し軽くなるのは、なぜなのだろう。今まで、嘘の私も、本当の私も私だと言ってくれたのは、彼しかいない。
嘘でも、胸を張って私だと言っていい。そう言ってくれているようで。なんだか背中を押してもらったような気持ちになる。
「おーい、早く行くぞー」
前方で、海音が手を振っている。
いつのまにか雨は止んでいて、雨雲の隙間から青空が見えた。今日の朝の雨上がりとは違って、清々しくて晴れ渡る空。水溜まりに映る私の姿は、朝は醜かったのに、今はとても綺麗に見えた。
傘を鞄にしまって、もう一度海音を見る。青空の下でその姿は、輝いて見える。
どうして、こんなに嬉しいんだろう。安心するんだろう。苦しくなるのだろう。
この感情の名前はいったい、なんなのだろう。
雨上がりの空が、こんなにも美しくなるのは、なぜだろう。

