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身体に異変を感じたのは、2、3か月前。私の日常がそれほど経った実感がなかったのは、病気のせいなのかもしれない。
そのときは笑えていたし、泣けていた。正確に言うと、どこかがおかしかった。
嬉しいときに泣き、悲しいときにはなぜか笑ってしまう。最初はただ疲れているだけだろうと2週間ほど何もしなかったのが、よくなかったのかもしれない。
手や身体が寒くもないのに震え出し、手や足の痺れや激痛が私を襲った。
継母に言っても面倒な顔をされるだけだし、お父さんに言っても迷惑をかけることになるから、ひとりで病院に行った。学校の方へ欠席の連絡を入れ、知り合いに会ったりしないだろうかとドキドキしながら病院に着いた。診察の際、医者になぜもっと早く来なかったのかと怒られてしまった。
「森内さん、残念ですが、すぐ治るような軽い病気ではありません」
どこか苦しげに告げる医者の表情に胸がざわざわとして、気持ちが悪かった。私は焦って病名や薬の処方など、自分が知る限りの病気の治し方を問うた。
でも、医者は弱々しく首を横に振るだけで、なかなか話そうとはしてくれなかった。そこで、全てを察してしまった。
もう、遅いのだと。
「あなたが絶望し、自殺を試みようとしないのならば、お教えしましょう。以前にそのようなケースがありましたので、こちらとしては不安なのです」
やっと口を開いたと思ったら私の身を案じる発言に、少しだけ腹を立てた。
生きているんだから、自殺なんて試みるわけがないだろう。どこかの授業で習った、尊厳死というものを唐突に思い出した。
自分の命が助かる見込みがもうなくて、苦しみから解放されたい人が、治療をせずにそのまま自然に死を待つというものだ。今の日本ではそれが認められていて、本人に決定権がある。でも、生きることを手放すことはすべてを諦めるようなものだ。私はまだ何も足掻いていない。逃れられそうもない運命に背いてもいない。そんな私が頑張った人達を差し置いて、尊厳死を選ぶなんてよくないと思う。
お母さんとお父さんがくれた命を、私が放棄するわけにはいかない。最期まで生きていたい。
「絶対にしないと約束します。だから、教えてください」
私の顔をじっと見つめる医者に言い放った。医者は迷いのない目で頷き、そばにあった資料に手を伸ばした。
「病名はまだ詳しくはわかりませんが、あなたは今も現在進行系で、感情を失いつつあります」
パラパラと紙を捲りながら医者は重々しく告げた。
途中から何を言われたのかわからなかった。自分の呼吸が荒いせいか。それとも、緊張しているせいか。違う、これは、命の重みを知ったからだ。
感情が失われるなんて、冗談でも笑えない。ドクドクと脈打つ心臓が、私に何かを訴えかけている。
「治る……んですか?」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「残念ながら現在、治す方法は見つかっていません。私もここに先代の医者が残したカルテがあるから知っているだけで、初めて見ましたから」
説明された内容を自分の中で反芻する。この病気はだいぶ昔のものらしく、外国から渡ってきたらしい。感染力はなく、菌というより、精神的な病気によるものらしい。普段からストレスを溜めていたり、自分の気持ちを押し殺していたりする人が稀に発症する。心当たりがありすぎるが、なんで私なんだろうと理不尽に感じた。
運が悪いじゃ済まされないほどの病魔の恐ろしさに、いよいよ深刻だと気づかされた。
もし私が感情を失い続けたら、いつか死んでしまうのだろうか。
胃のあたりがぐるぐると回って吐き気がする。
「……ありがとうございました」
重い腰を上げて出ていこうとした私を医者は呼び止めた。
「森内さん、ひとつアドバイスがあります。こうすれば……」
医者の考えは、私にとっては苦行だ。でも、これ以外にいい案が思いつかない。
「では、失礼します」
これからの未来がお先真っ暗なように、私の心も黒く塗り潰されていく。
医者と約束したのに、もうすべてが嫌で、消えてしまいたくて。
死んでしまえたらいいのに。
*
気がついたら、もう家のドアノブに手をかけていた。
どうやって帰ってきたのかも、覚えていない。
口腔は乾ききってカサカサしていて、頭は内側から殴りつけられたかのように痛む。
「ただいま……」
私の小さな声は、ただっ広い玄関に吸い込まれるように消えた。それだけでなんだか悲しくなって、顔を俯ける。
改めて深呼吸を繰り返し、洗面所へ行って、冷たい水を勢い良く流す。
手で掬い上げて顔に押し当てれば、水のきんと刺すような冷たさが顔の輪郭を取り戻してくれるような気がする。
ふんわりとしたタオルに顔を埋め、そっと顔を上げれば、鏡に映る私は笑っている。私が、私に大丈夫だよと語りかけてくるように。
「夕愛、帰ったのか。急にどうしたんだ。欠席したと学校から連絡があったぞ」
心配そうな表情をするお父さんは、私の頭を優しく撫でながら言葉を続ける。
「やっぱり、最近元気がないんじゃないか?病院に行っていたんだろう?食欲もないし……」
お父さんと食事をする機会はあまり多くないので、バレないだろうと思っていたがどうやら安易な考えだったらしい。継母から聞いたのだろう。継母はわざわざ私のことを報告しないだろうと油断していた。
「えっと、私最近ダイエットしてて、ちょっと食事の量とか減らしすぎちゃってたんだよねぇ。お医者さんに怒られちゃったよー次から気をつけるね」
世の年頃の高校生が、父親にダイエットの話なんて躊躇なく話せるものなのだろうかと思ったが、それ以外にいい言い訳が思い浮かばなかったので、咄嗟に嘘をついた。
ニコニコと笑う私を見て、心配そうな顔をしながらもお父さんはそれ以上追求してこなかった。
「そうか。やり過ぎはよくないからやめるんだぞ。何かあればいつでも相談しなさい」
淡々とした口調で述べ、呼び止める間もなく去ってしまった。悩みなんてないと言えなかったけれど、追いかけてまた言うのは逆に不自然かもしれない。
鏡には今、私だけが映っていて、さっきの笑みは消えていた。暗くて、何の光も宿していない、死んだような重たい瞳がそこに映っている。まるで、感情がないかのような。
すぐそばに、私を蝕んでいる病魔を目の当たりにしたような気がして、背筋がぞくりと泡立つ。
ぐっと手を握ると、冷たくて、微かに震えている。その手をもう片方の手で包み込んでも、冷たさは解れない。
そっと手に胸を当てると、心に巻き付く無数の糸が、私の心を締め上げるかのようにギシギシと痛んでいた。
壁に掛けられた時計はコチコチと一定の音を刻む。なぜかその音が耳にこびりついて離れない。
もう、あまり時間がない。
そう、告げられているかのようだった。
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