恋という感情が抜け落ちても、君にいつかこの想いを届けたい





 「……あ。ゆうあ」


 ああ、お母さんだ。私の、大好きなお母さん。


 「今日は何をして遊んだの?」


 今日はね、鬼ごっこをしたんだよ。お母さん。


 「あなたとずっと一緒にいたいなあ……」


 私も、私もだよ……


 「ご……めんね、わたし、あなたのために何も、してあげられなかった……」


 ここは、どこだ?病室?お母さんが、点滴に繋がれている。


 「ごめん……ごめ……」


 「お母さんが悪いんじゃないよ。私が悪いの。ごめんなさい、幼稚園の頃からずっと乱暴者で」


 お母さんは弱々しく首を横に振り、私の頬を優しくなぞる。その手はとても冷たい。


 ぎゅって握ってあげるから。だから、お母さん、お母さん。


 もう一度、笑って……


 お母さんの手が滑り落ちる。その瞼は少しずつ、少しずつ閉じていく。


 一定のリズムを刻んでいた電子モニターが光を失い、止まる。


 後に残るのは、何もない、無音の世界……




 *




 「っはあっ……はあっ……」


 ここは、ここは、海音、家……?


 さっきの夢は何だったのだろう。思い出したくない記憶を無理やりこじ開けられ、再生されたことの気持ち悪さに吐き気を覚え、口を抑えた。


 つらくないと自分に言い聞かせれば、いつも心は自然と穏やかになる。でも、今日はとても心を宥める余裕なんてなくて、自分の弱さに負けてしまいそうだった。


 「おーい夕愛?いつまで寝てんだー?」


 扉をノックする音とともに、隔たれた隙間から海音のくぐもった声が聞こえてきた。


 「んー今行くー」


 頬をペチペチと叩き、夢と一緒に心の弱さを振り払いながらベッドから飛び降りる。


 一応持ってきておいた服をリュックの奥底から引っ張り出し、袖を通して、部屋にあった鏡を見る。涙の跡とボサボサの髪を手で整えたら準備完了。


 深呼吸2回、自分の胸に手を当て、瞼を閉じる。私は大丈夫だというおまじないをしたら、扉をそっと開く。


 「朝飯できてるぞ。行こう」


 私がゆっくりと寝ていたせいで、海音は朝食まで用意することになってしまったのか。いつもなら早く起きて家族の分まで用意しているのに、うるさい継母がいないせいか、安心して熟睡してしまった。


 「ごめんなさい、お手伝いできなくて」


 「そんなに気にしなくていい。俺がしたくてしただけだから」


 「でも、」


 そこで一度口を噤んでしまった私を励ますような視線が頬に刺さる。海音の柔らかだけど真剣な瞳が教えてほしいと訴えているから。


 「私毎朝、ご飯を用意してるから、今回全部任せきりにしちゃったのが申し訳なくて」


 海音にじっと見られるのが怖くて、慌てて話題を逸らし、明るく笑った。


 「ご飯の前に洗面所借りて、顔洗ってくるね!」


 「……おう」


 なんだかまだ納得していなさそうな海音の視界から消え、急いで洗面所に駆け込んだ。


 水を勢い良く流してバシャバシャと顔に浴びせる。蛇口を捻ってさっと顔を上げたら、私の顔の輪郭がさっきよりも色濃く表れた気がした。


 リビングへ戻ると、海音がすでに朝食を準備してくれたようで、ハムと目玉焼きののったトーストが真っ白な皿に置かれていた。


 「冷めないうちに。いただきます」


 ふたりで椅子に座って、まだ湯気の立つトーストに齧り付く。じゅわっと卵の黄身が溢れて、白身の隙間からちらりと顔を覗かせた。


 「なあ、夕愛」


 汚れた指をティッシュで拭いながら、海音は視線を向けてくる。


 「今さらだけど、昨日なんで夜中に家出してたのか、教えろよ」


 口いっぱいに頬張っていたトーストを慌てて飲み込んだら大きくむせた。水を1杯流し込み、思わず大声で叫ぶ。


 「どっ、どうしよう!ほぼ何も言わずに出てきちゃった……」


 継母には一応言ったけれど、伝わってないかもと青くなりながらスマホを取り出し、恐る恐るメールを開いてみる。メールが100件以上来ていて、電話もずっと着信しているようだった。どちらも全てお父さんからだ。


 「お父さん極度の心配性だから、お母さんの言うこと聞いてないのかも」


 「親なんだから、わかってくれるだろ」


 海音のそっけない物言いにカチンときてしまった。私の親のことを何も知らないくせに、どうしてそんなに身勝手なことを言えるのだろう。継母はいつも私の言動にイライラして、暴言ばかり吐いてくるし、お父さんはニコニコと笑っているだけで、きっと私に興味なんてない。ただ周りから最低な親と思われないよう、こうやって心配性のフリをしているだけだ。


 この最低な両親が、私を心の底から愛し、理解してくれているとは思えなかった。


 「とりあえず、よく話してみるよ」


 私が親と和解するのを完全に諦めていると悟られないよう、思っていることと真逆の返答を返し、笑顔で頷いた。


 嘘をついているのはもちろん自覚しているし、良くないことだとは理解している。でも、私の心を守ってくれるのは嘘しかないんだ。


 「今から帰って、話そうかな」


 海音の真っ直ぐな視線からすぐにでも逃げ出したくて、私はまたわざと明るい声を出し、下手くそな笑みを浮かべた。


 よくある話だ。映画でも小説でも、親から愛されない主人公が必死に元気そうに振る舞っていつか、心が耐えられなくなる話。でも絶対最後は救われて、物語の中でいちばん幸せになれる。


 現実はそんなに甘い話じゃない。誰もがハッピーになるお話なんてありえないと思ったことが何度あっただろうか。


 海音、私の嘘に騙されて。私は、そんな生き方しか知らない。


 「もう帰るんならさ、送っていくよ」


 私のリュックを軽々と持ち上げ、玄関へ向かう後ろ姿を慌てて呼び止め、さっと手から取り上げた。


 「いいよー全然大丈夫だからさ。ひとりで帰れるよー」


 「道わかんの?」


 「スマホあれば行けるよー」


 心配そうに見つめてくる海音の瞳を視界から外し、急いで玄関の扉を開いた。


 呼び止められたのも聞かず、全速力で逃げる。迷子になるかもしれないという不安はいつのまにか消え失せ、代わりになんともいえない消失感と無力さが私の心に渦巻いていた。


 気がつけば、見知らぬ公園にひとりで立っていた。案の定、道に迷ってしまったらしい。


 遊具は割とあるものの、寂れた公園で色が所々剥げていた。


 傍にあったブランコに座り込んで、ギィギィと不気味な金属音を鳴らしてため息をついた。


 何やってるんだかと呆れる余裕すらない。ただつらくて、苦しくて、涙が溢れてしまいそう。


 私もいつか、この公園のように誰からも必要とされなくなって、見捨てられて、ひとりぼっちになるんだろう。そうしたら、私は。


 「消えたいなぁ」


 死ぬのは怖いから、私をこの世から消してほしい。『私』という存在自体をなかったことにしてしまいたい。


 私がいなければ、お母さんは無理なんてしないで、長生きできたかもしれない。私自身が苦しい思いをしなくて済んだのかもしれない。


 嘘で自分の可能性を潰して、惨めになって。こんな自分になるつもりじゃなかった。大嫌いだ。こんな自分なんか。


 そう思っているのに、なんでやめられないいんだろう。自分を変えるつもりがないわけじゃないのに。


 頬に冷たい何かが触れた。とめどなく流れてくる雫をそっと拭き取って顔を上げると、灰色の雲が空を覆っている。


 優しく降り注いでいた恵みの雨は、少しずつ強さを増し、豪雨となっていく。冷たくて鋭い雨が私の身体に、心に冷たさを残す。


 あっというまにずぶ濡れになったのに、寒いとは少しも感じなかった。


 濡れた衣服や髪が身体に張り付いて気持ち悪い。重くの伸し掛かってくる圧に耐えても、いつか耐えられなくなってしまいそう。


 自ら手を伸ばさないと、光は掴めない。待っているのは、暗闇と孤独だけだから。


 でも、今の私じゃどこにも行けない。何もできない。失われてばっかりだ。砂地獄に捕らえられた蟻のようにひどく滑稽で、終わりしかない。


 「夕愛、やっと見つけた。何してるんだよ」


 頭にタオルが被せられ、そろそろと顔を上げると、海音が息を大きく弾ませながら私を見下ろしていた。


 「えっと、途中で迷っちゃってさー、スマホがちゃんと機能してくれなくてー。道も普通にわかんなかった!」


 自業自得だよねとおどけてみせる。でも、海音はただただ悲しそうな顔をしている。


 いつのまにか、雨が私に降り注いでいなくて。驚いて海音を見つめると、その手には傘の柄がしっかりと握られていた。


 私が濡れないように傘を傾けて、海音はずぶ濡れになっていく。雨で濡れて寒いはずなのに、彼はずっと穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。


 「もう大丈夫だから。心配しないで。濡れても全然平気だから」


 私がいくら大丈夫だと笑っても、海音は私をひとりで帰らせるつもりはないようだった。


 ブランコから飛び降りて歩き出そうとすれば、傘を私に傾けながら、隣に肩を並べようとしてくる。


 早足になろうが、やめてと手で抑えようとしようが、海音は意志を曲げようとはしない。


 不意に降りた沈黙が居た堪れなくて、口を開こうとしたものの、海音の手によって封じられた。話すなと言われているようで、見透かされているのかと少しドキリとしたが、平静を装う。


 私の額に重くかかった髪を手で流しながら、海音は声を漏らした。


 「なんで、そんなに無理するんだよ。私は平気です、大丈夫ですっていっつもヘラヘラして。そんなんで耐えられるのかよ。誰かが気づいてくれると思ってんのかよ。少しは自分のこと大切にしろよ……」


 一気にまくし立てられた言葉の数々に驚き、海音がこんなことを言うなんて、と苦しくなった。


 今までのことは全てバレていた。そして、私に呆れていた。その事実に傷ついたからだ。


 言いたいことは全て言いましたとでも言わんばかりの満足げで、でもどこか苦しげなその顔に、私の胸が引き裂かれたように痛む。


 「そ、そんなことより、私帰らなきゃ……」


 これ以上、海音の顔を見たくなくて立ち去ろうとした私の腕を、海音が力を込めて掴んだ。


 「そんなこと、なんて言うなよ」


 逃がしたくない、行ってほしくないという心の叫びが聞こえてきそうなほど悲痛な彼の表情を見れる、自信がない。


 「ずっと言いたかったけど、言えなかった。夕愛が心から幸せだと思った笑顔を俺は……見たことがない。いつも嘘をついていただろ」


 ぎゅっと唇を引き結び、掴まれた手を振り払って海音から素早く離れた。


 これ以上、私を苦しませないで。同情しないで。私が惨めみたいに聞こえて。私が可哀想に見えて。そんなことないのに。私は、私は……何も、わからないだけなのに……


 「やめ……てよ」


 わかってる。これだけはわかってるんだ。自分が最低で、生きている価値のない人間だって。


 お母さんにちゃんと親孝行できなくて、お父さんを苦しませて、継母の邪魔をして、産んでもらったのになんの役にも立てなくて、海音にこんな顔をさせて。


 周りの人を不幸にしてしまうくらいなら……いっそ。


 「死んだほうが、いいのかも」


 言っちゃいけない。これを言ったらもう終わりだと思っていたひと言が、ついに口から漏れ出していく。


 「私ってだめなんだよ。何もできないの。みんな才能があって、好きなもの、ことがあって、大切な人がいる。でも私は?私自身には何もないの。いつも誰かのおまけ。いちばんになったこともないし、特別なんかじゃないの」


 ずっと言いたかったこと、言えなかったこと。


 「普通になりたかった。みんな何かしら頑張って成長していくのに、私は何も変わらないし変われない。足手まといになって、嫌われて、蔑まれて」


 今、全部出ていってしまう。


 「もう、何もわからないの。やりたいことも、夢も。だからもう、」


 死んでしまいたいの。


 いなくなった言葉は多かったのに、まだ私の中では黒くドロドロとした感情が渦巻いている。なくならない思いを再びしまい込んで、手で顔を覆った。


 私はきっと、酷い顔をしている。海音に全部吐きつけて、放って。困惑して、私のことなんて嫌いになってしまうんだろう。その反応を見るのが怖い。


 「夕愛」


 私のいちばん落ち着く声。なんでだろうね、耳に残ってしまう。


 「生きていてほしいよ」


 この人はどうして、私のいちばんほしい言葉をくれるんだろう。


 「俺は、夕愛に、生きていてほしい。夕愛のこともっと知りたいし、一緒にいろんなところに行きたい。それに、」


 大きな手が私の顔をそっと包み込む。顔を上げるとそこには、泣きそうで、苦しそうな海音の顔があった。


 「生きている権利なんて、そんなものない。生きていていいんだよ。この世界はみんなのものだ。誰かひとりのものじゃない。みんなで分かち合って生きているから美しいんだ」


 「でも、私は、」


 「夕愛は最低なんかじゃない。周りがそう言ったとしても、俺はそれを否定する。だって、俺が見た夕愛は弱音を吐いて、苦しんで、たくさん考えて、みんなに優しい決断ができる、そんな、」


 雨がやんで、雲の端から虹が降り注ぐ。


 「素敵な人だ」


 どうしてそんなに、君は優しいのだろう。私に、優しくしてくれるのだろう。


 「夕愛が心から笑うなんて無理だと思っていてもいい。俺が笑顔にしてみせる。だから、これだけは忘れるなよ。夕愛はひとりじゃない。俺がそばにいるから」


 私は、ひとりじゃない。そう、思ってもいいのだろうか。


 説得力なんて1ミリもないのに、その言葉は私の中に広がっていく。


 「ありがとう」


 でもね、海音。忘れちゃいけないよ。私が嘘つきだってこと。


 私の心はもう動かない。何もわからないから。死にたい気持ちが薄まっても、またたくさんの問題があって、また生きづらくなるのなら。


 嘘をつくことが、楽だから。


 彼に負けじと両手で海音の手を握る。お互いの手の感触を確かめ合いながら、いつまでも微笑み続ける。


 私の最上級の嘘が、彼にバレたりしないように。




 *




 いつのまにか、家に着いていた。気づかぬうちに、なんて物語の中の世界にしか存在しないと思っていた。


 「着いてる……」


 海音に私がわかる通りまで送ってもらって、一応だからと傘を持たされて。彼がずぶ濡れのまま立ち去ったのをただ見ていただけなのに、家に着いている。無意識って本当に恐ろしい。


 「た、ただいま……」


 びくびくしながら、玄関をそっと覗き込むと、扉を開けた音を聞いて駆けつけてきたお父さんが立っているのが見えた。


 お父さん、と言い終える前に抱きしめられた。お父さんの指先はすごく冷たくて、身体が強張っている。本当に心配していたらしい。


 「迷惑かけて、本当にごめんなさい」


 ポツリと漏らした声に、お父さんは目を見開き、優しく微笑んだ。


 「勝手に出ていったことには怒っているが、夕愛が無事だったんだ。本当に良かった」


 ふいに後ろを覗くと継母が面白くなさそうな顔をしていた。


 でも、すぐに涙を浮かべ、私に抱きついてくる。


 「ごめんなさいね。わたしが怒鳴って悪かったわ、本当にごめんね」


 継母のキツイ香水の香りがツンと鼻にきて、吐きそうになる。近づいてほしくないという言葉を呑み込み、なんとか笑みを作る。


 「ううん、私こそ、お母さんの言うことを聞けなくて、ごめんなさい」


 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、継母は即座に身を引いた。


 私から離れると香水の香りも、変な気持ちの悪さも私の中から薄れていく。


 「今からお昼ご飯作るわね。ところで、その傘は誰のなの?」


 私の手にある黒い傘を指差し、首を傾げる継母に私は笑みを向けた。


 「これね、お友達の家に泊まったときに、雨降りそうだからって貸してくれたの」


 「でもそれ、男性用の傘よ?」


 本当に目ざといなと内心で舌打ちしながら、さらに笑みを深めた。


 「その子にお兄ちゃんがいるんだけど、その子の傘よりお兄ちゃんの傘の方が大きいからって言って、大きい方の傘を貸してくれたんだ」


 やっぱり、口から息をするようにすらすらと嘘がつける。しかも、継母はそれに納得してしまっている。私はすぐ嘘をつく、最低な人間だ。


 「そう、それなら良かった。じゃあお昼ご飯作るから、着替えてリビングで座って待っていてね」


 きっと今日はお父さんがいるから、私にさせるとおかしいと思われないように、作ろうとしてくれているんだ。


 そんな嫌な考えが頭に浮かんで、慌てて打ち消す。悟られないように、また笑みを深めていく。


 急いで着替えて手を洗った後、キッチンにいる継母に声をかけた。


 「お母さん、私も手伝うよ」


 「大丈夫よ。夕愛ちゃん、いつも頑張ってくれているでしょう?だから今日はわたしが作るから」


 いつもの表情からは想像できないような、甘い微笑み。その笑みには、余計なことは言うなよ、という脅しも含まれている。


 じゃあ楽しみにしてる、と当たり障りのない言葉を選んだ。


 お父さんは食卓の席に私が座るのを見届けた後、キッチンの戸棚から取り皿や箸を取り出し始めた。


 お母さんが亡くなって、しばらくはお父さんが家事の全般を担ってくれていただけのことはあって、手際が良い。


 一方で、継母はたまに悲鳴を上げたり、皿を落として指を切ったりと不器用さが目立っていた。


 嫌そうな顔をしながらも継母は片付けを試みるが、動きがぎこちないような気がする。


 一度は目を逸らしたものの、皿の割れる音が鳴り止まなくて、仕方なく声をかけた。


 「やっぱり私、手伝うよ」


 ため息を呑み込んで、仕方がないな、面倒くさいという思いを隠してニッコリと笑った。周りから見れば、完璧な笑顔だろう。それくらい、私は人に自分の感情を隠すのが上手い。


 「じゃあ、お願いしようかしら……」


 継母の申し訳ない攻撃を笑みひとつで返し、フックに掛けてあるフライパンをコンロに置いた。


 昨日の余り物のチキンライスをフライパンに投入し、軽く炒めて弱火で放置する。その間に卵を皿に割り落とし、砂糖と塩を適量加え溶いていく。小学生の頃、苦戦した卵の混ぜ方は今ではさらっとできるようになった。


 卵を別のフライパンに注ぎ、ゆっくりと広げながら焼いていく。本当はお店みたいなトロトロの卵がいいけれど、そんな技術を私が習得できるはずもない。というか、練習する中でスクランブルエッグにしかならないような気がして怖いというのが本音だけれど。


 弱火で焦がさないように焼き、お皿に丸くこんもりと盛ったチキンライスに焼いた卵をふわりとのせる。それを、3皿分作る。


 包まない、手抜きオムライスの完成だ。


 食卓に運んで、手を合わせた。


 「いただきます」


 継母がオムライスにそっとスプーンを入れると、とろりとチーズが溶け出してきた。短時間でチーズも入れたが、口に合うだろうか。


 継母はチーズの登場に目を見開いたものの、一瞬で不機嫌な顔に戻ってしまった。ゆっくりと口に運び、噛み締めた途端、悔しそうに顔を顰めた。その後はすぐに笑う。


 「美味しい……さすが、わたしの娘ね」


 満面の笑みで『娘』と言われ、胸がちくんと痛んだ。継母との血の繋がりはない。継母はそれがわかっているのに、わざわざ私が傷つくような言葉を口にする。ただただ苛つかせたいようにしか思えなかった。


 「夕愛、いつもありがとう。本当に美味しいよ」


 お父さんが嬉しそうに言ってくれたことも頭に入ってこなくて、思わず曖昧な笑みを返してしまった。お母さんが亡くなる前は自分で料理をして、ふたりを驚かせていたこともあった。そんなこともあったのに、今はとんでもなく不快で仕方がなかった。


 気まずい空気が流れてしまった。お父さんは不思議そうに私を見ているし、継母はスマホに目を落としている。


 モヤモヤとした気持ちをふたりに吐き出してしまいたい。けれど、継母の機嫌が前より悪くなってしまったら。お父さんが私じゃなく、継母を選んでしまったら。そんな展開が容易に想像できて、なかなか自分の思いを言葉に出せないでいる。


 「ちょっと具合悪いからもう寝るね」


 今はちょうど夕方だから朝まで起きないかもと付け足し、逃げるように寝室に入った。きちんと施錠して力なくベッドに倒れ込む。


 私の部屋には友達を入れたことがない。自分のテリトリーに入られるのが嫌だったから。いつもちゃんと鍵を掛けて、自分だけの空間で落ち着くのが好きだ。


 壁にはたくさんの写真が飾られていて、見るだけで少し心が安らぐ。


 私の部屋で撮った幼稚園になった記念。かいと君と遊ぶ写真。私が初めてひとり立ちをした時の写真。お父さんとお母さんに料理を作った時の、3人の弾ける笑顔が素敵な写真。私と両親とで撮った、家族写真。


 全て、私の大切な宝物。でもその中にはひとつだけ、悲しい顔をしているものがある。


 継母とお父さんと私の写真。本当は飾りたくないのに、いつのまにかお父さんが貼っていた。私の目元は下がり、口元は今にも泣き出しそうなほど歪んでいる。


 いつから、私は本当の笑顔を見せなくなったのだろう。いつからだろう。私が泣けなくなったのは。


 あの頃は、本当に嬉しいときは声を上げて笑い、悲しいときは顔を歪めて泣いた。海音がそばにいたら、本当の笑顔を取り戻せるかもしれないと思っていたのに、無理なのかもしれない。どうしても、嘘が抜けそうにない。


 ベッドから身を起こし、机の引き出しを開ける。震える手で取り出したのは、1枚の紙切れ。病院に行ったときに渡されたものだ。


 手遅れだと気がついたときには、もう遅かった。そんなのは物語の中だけで、自分には縁遠いものだと思っていた。でも、違ったんだ。


 当たり前を当たり前だと思ってはいけなかったんだ。


 手の中の紙が落ちて、何度目かもわからない絶望を味わう。何度見たって同じ結果なのに、夢であってくれとどこかで思う馬鹿な自分がいる。喜びや悲しみがわからないのに、絶望はまだ感じられるなんて皮肉な話だ。


 私は少しずつ、今も。


 感情を、失いつつある。