恋という感情が抜け落ちても、君にいつかこの想いを届けたい





 「ただいま……」


 大嫌いな家の玄関の扉を開け、大きな欠伸を空中に逃がす。


 「遅かったわねぇ……いったい何をしてたのよ?まさか、遊んでいたわけじゃないでしょうね?」


 案の定、膨れっ面の継母が立ちはだかっていた。私を見下ろして馬鹿にしたような顔をしている。


 遅くなってしまったのは申し訳ない。だけど、遊んでいたわけじゃない。だって、自転車ふたり乗りで先生に見つかって、放課後にこっぴどく叱られていたから。おかげで朝は遅刻をしなかった。


 それとも、朝に急に出て行ってしまったから、そのことについてまだ根に持っているのかも。でも、かといってそれほど酷い行動をしてしまっていただろうか。


 継母に見下されながら、小人ってこういう気分なのかもとどうでもいいことを考えて、ぼんやりとしてしまった。急に継母が私の首を掴んで、思い切り揺さぶってきた。


 「聞いているの!?いっつも、いっつもわたしのこと馬鹿にして!何様のつもりよ!?」


 いつも?馬鹿にしているのは継母の方だ。私は馬鹿にしているわけではなく、ただただ継母が嫌いなだけ。


 ぷつんと何かが切れたような気がした。私の壁が剥がれ落ちて、視界がクリアになっていく。脳が、目の前の人は最低だと認識していた。


 「あなたの方が馬鹿にしてる。それに、邪魔もしてるよ。私とお父さんに割り込んできたくせに。なに調子乗ってるの……」
   

 吐き捨てるように言ってから、しまったと後悔した。でも、もう遅い。


 赤く染まっていく顔を見ながら、衝撃に耐える体勢をとる。


 すぐに平手打ちが飛んできて、私は近くの壁にもたれかかった。


 右頬が、焼けるように痛い。痛みがジンジンと悲鳴を上げているかのようだ。冷まさないと赤くなってしまうだろうけど、今はそれどころではない。


 ワナワナと唇を震わせて、継母が私に怒声を浴びせてくる。


 「わたしはいっつも我慢しているのよ?あんたが目障りなの!親をなんだと思っているの……」


 怒りに支配された継母には、もう私の声は届かない。私は何度も何度も叩かれ、殴られ、蹴られる。


 それらは頭に、首に、腕に、お腹に、足に当たって、私を傷つけ続ける。床にうずくまって必死に痛みから耐え続けるしかない。


 「わたしを馬鹿にしたのに、謝罪の言葉もないの?この薄情者!」


 鋭い痛みがして、頭がクラクラする。頭を床に強打したせいで、軽い脳震盪になっているんだと思う。


 継母は私を傷つけるのをやめようとせず、ずっと殴り続けてくる。こうなってしまえば、もう止められない。


 我慢して衝撃から耐え続ける。金切り声が鼓膜に何度も響いてうるさい。頭がおかしくなってしまいそうだ。4、5歳の幼児じゃないんだから、きちんと言葉で伝えてほしいのに。


 「あんたはどうしていつもそうなの?お父さんの前で、変な素振りを見せるなって言ったわよね?わたしが気づいてないと思った?」


 ……これが性格なんだから仕方ないよ。気づいていないとか、気づいてるとかそんなのはどうでもいい。


 「何か言いなさいよ」


 ……言ったら、怒るでしょう?


 「出ていけ!この家から!」


 ……どうして、どうしてそんなこと言うの。


 声にならない思いが心にあって、私は声に出したくてたまらないのに。どうしていつも言えないんだろう。なんどこんなに弱虫なんだろう。


 「本当、あんたなんて、いなくなればいいのに」


 その言葉を耳がキャッチした瞬間、目の前が真っ黒になった。フツフツと煮えたぎる炎に巻かれているような感覚。全身がとても熱く、呼吸をするたびに胸が軋む。


 「あんた!あんたのせいでっ!めちゃくちゃだよっ!私とお父さんのふたりでだけの生活のほうが、今よりずっと、ずっと楽しかったのに……」


 自分で、壊してしまった。継母のことはずっと我慢していた。ずっとお父さんに黙っていた。積み上げてきた継母との関係性があっというまに崩れていくのを感じながら、一気にまくし立てる。


 「継母なんて、大嫌いっ!」


 はあはあと肩で息をして、唇をぐっと噛む。とたんに、血と鉄の味が口腔に広がり、顔を顰めた。


 肩を揺らして静かに涙を流す継母を見て、なぜか罪悪感が込み上げてきた。私がずっと継母を睨みつけていたからだろうか。それとも、自分自身の行動について反省しているのか。はたまたそのどちらでもなく、自分が可哀想な人に見えるように、嘘泣きをしているのだろうか。


 「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 継母は何かに取り憑かれたように、何度も同じ言葉を繰り返し、その場に崩れ落ちた。顔に手を当てて、大きな声で泣いている。


 嗚咽を漏らしながら、何度も謝罪の言葉を述べている。


 わかってしまった。この人は、きっと、心が壊れているんだ。私みたいに。


 居心地が悪くて一度、自分の部屋に戻った。もう、こんなところにはいたくない。いっそ、出でいこう。


 それはかなりの名案に思えた。また何かされるかもしれない。今は距離を取っておいたほうが安全だ。


 ありったけの寝間着とお菓子をリュックに詰め込み、私はまだ継母のいるリビングに置き手紙を残し、急いで外へ出た。


 外へ飛び出したのはいいものの、何も考えずに出てきてしまったのだから、外泊の予定なんて一切ない。


 どっちにしろ、気軽に遊ぶような友達もいないのだから、家に泊めてもらうこともできない。


 何度目かもわからないため息をついて、考えが浅はかだったなと反省する。おとなしく、継母の言いなりになっていればよかったのかもしれない。


 でも、それだと私は変われない気がする。継母を責めて傷つけなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。私が、もっといい子だったら。継母とも上手くやれていたら。お母さんのような、笑顔があれば。


 傷つけた側なのに、なぜ私がダメージを受けているのだろう。本当に馬鹿だ。


 見上げれば、満点の星が私を嘲笑うかのように煌めき、月は淡い光を放っている。家に帰ったのが19時頃だったから、もうとっくに月は出ていたのか。なんだか久しぶりに会ったような月が、私の遥か頭上で微笑んでいるようにも見える。


 帰りたい。お父さんと私のふたりだけで。あの、思い出の詰まった家に。あの頃は今よりも、ずっと幸せだった。


 私は今よりも、笑えていた。


 「おい、森内。なにしてるんだよ」


 小石に足を取られて、前のめりに倒れ込んでしまった。あまりにも不意打ちすぎて声が出ない。口の開閉を繰り返し、ようやく落ち着くことができた。とはいっても、後ろから声をかけられたものだから、心臓はまだ落ち着きそうもないけれど。


 見下ろすその影は私の前にゆっくりとしゃがみ込み、そっと顔を覗き込んできた。


 「大丈夫か?ドジだなー」


 彼は柔らかく目を細め、私の手を握り、そっと立たせてくれる。天川はにこにこと屈託のない笑顔を向けていた。


 心臓が鷲掴みにされたように苦しくなり、鼓動が速くなる。どうしてここにいるの、と聞かれたらどうしようと焦っているのかもしれない。


 何か、ここにいる理由を考えなければ。怪しまれるのは避けるべきだ。


 「どうかした?」


 心配そうに私を見つめるその顔を見るのが、すごくつらい。私が正直に言ってしまえば、私は弱くて脆いガラスになってしまうんじゃないか。元の自分には戻れなくなるんじゃないか。弱さを見せるのが、怖い。人に頼れない私は、今にも溢れそうなストレスを溜め込んでしまっていると思う。


 自分が危ない状況にいても、私は人に弱さを見せられないんだ。ん、とかあ、とか声にならない言葉をもそもそと呟く。呟いていても何も始まらないけれど、言い訳が全く見つからないのだから、仕方がないと思う。いつもなら饒舌にベラベラと口が動いているのに。動いてほしいときに動かない舌を忌々しく思いながら、顔を俯けた。


 「何か、あったんだよな。きっと。それは、この前怒らせちゃったことと関係ある?」


 あの時、振り払った手の感触。冷たい私の手を包み込む、あたたかな手を私は離してしまった。あの時だけはどうしても、素直になれなかったから。


 「もう暗いしさ。家まで送るよ」


 反射的に身体が縮み上がり、震え出した。一筋の涙が頬を伝い、口の中へと滑り込む。塩辛くて、苦い味がする。


 あんなところ、もう二度と帰りたくない。


 私の考えていることがわかったのか、天川は眉をひそめて難しい顔をした。


 しばらくの間、ふたりで黙り込んでいたが、ふいに天川が口を開いた。


 「じゃあ、俺の家来る?」


 夕飯食べに来てよ、となぜか嬉しそうな顔をしている。


 家に帰っても怒られるだけ、外にいても泊まるところがない。


 私にとっては嬉しい提案だが、天川は大丈夫なのだろうか。


 「誰かに料理振る舞いたい気分だったからさ、マジで来てよ」


 きっと天川は、私が負い目を感じないように、気にならないように言ってくれているんだ。


 なぜかそれだけで、私の心はぽかぽかとあたたかい何かで満たされていくように感じた。


 「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 天川は私の言葉に顔を綻ばせ、本当に嬉しそうな顔をした。さっきよりも嬉しそうなその様子に、私まで嬉しくなっていく。


 先に歩き出した後ろ姿を慌てて追う。しばらく彼の後ろ姿を見つめながら歩いていると、だんだんと知らない道へと導かれていくような気がした。でも不思議と、怖いとは感じなかった。


 前方にキラキラと輝く街並みが現れ始め、その全てが私に向かって光を放ってくる。眩しすぎて、躊躇してしまうくらい。


 この眩しい空間の中に、天川の家があるんだと思ったら、彼はこの光に目もくれず、薄暗い路地裏へと入っていった。狭くて細い道を猫のようにスイスイと超えていく天川を必死で追い掛ける。私はあまり運動が得意ではないから、苦しいけれど、ついていくしかない。家に泊まらせてもらう身なのだから、我儘を言ってはいけないだろう。


 ようやく路地の終わりが見え、階段を下っていくと、物静かな街が出迎えてくれた。さっきとは打って変わって物悲しく、落ち着く雰囲気の街並みに、なんだか心が洗われるようだった。


 街灯の光がユラユラと揺れ動いていて、家の明かりが灯っているだけで飾り気がない。眩しい光も面白そうなものも何ひとつないのに、私はこっちの街のほうが好きだった。輝いてなくていい。明るくなくていい。君自身を見せてよと言われているようで、心地がいい。


 前の影がふいに足を止めた。


 天川は一軒の家の前で鍵を取り出し、ドアノブをするりと捻った。


 「さあ、入って」


 「お、おじゃまします……」


 恐る恐る玄関へ足を踏み入れると、清潔感のあるリビングがそこにはあった。


 モダンな雰囲気の落ち着けそうな場所。静かすぎる街の中に、落ち着けそうな空間があるなんてなんだか不思議だ。


 天川は慣れた手つきで私の上着を受け取り、ふたり分をハンガーに掛けた。


 それからキッチンで手を洗い、ポットへと手を伸ばす。私の家のうるさい食器の音とは別物の、カチャカチャと小気味のいい音を響かせている。


 しかも、楽しそうに鼻歌を歌いながら、料理をしている。


 耳に広がる音が心地いい。水面が広がるように、身体へ染み込んでいくような感覚。初めて聞く音のはずなのに、どこか懐かしい。


 その音をしばらく目を閉じて聞いていると、コトリと小さな音が聞こえた。


 「どうぞ。あったまるから飲んで」


 ぬらりと光る銀のスプーンがついた、ホットミルク。ほかほかと楽しげな湯気を胸いっぱいに吸い込んで。ほうと息をついた。


 優しく混ぜてからひと口飲む。口に含んだ瞬間に蜂蜜と生姜のいい香りがふわりと鼻から抜け、ミルクの甘みが心を満たしてくれる。


 ただのホットミルクなのに、そのあとは無我夢中で口にミルクを運び続けた。


 最後の一滴まで飲み干すと、夢から覚めたような気持ちになった。コップをそっと机に置き、満ち足りた心をそっと胸にしまい込んだ。空腹が少しおさまり、さっきまでのイライラとした気持ちが萎んでいく。こんなにあったかい気持ちになったのは、久しぶりなような気がする。


 「はい、おまたせ。あ、ごめん。食物アレルギーとか苦手なものって特にないよね?」


 首を横に振り、特にないということを伝えると、天川は作る前に聞くべきだよな、とからからと笑ってひとつの皿を私の前に置いた。


 少し濁りのある、琥珀色のお茶漬け。ほこほこと湯気が立ち上り、鰹節がくねりくねりと踊っている。


 スプーンで味の染み込んだお米をすくい、まふっと勢い良く口に入れた。はふはふと口から熱気を逃がし、ゆっくりと噛む。


 出汁の効いたお米の優しい味が口に広がり、私の胃を満たしていく。


 休むことなくスプーンを口に運び、ふうと湿った息をついた。


 私の手料理はいつも、味がしない。味が完璧だとお父さんに褒められるのに、自分ではわからない。


 でも、この料理は違った。ちゃんと、味がした。『完璧』なのかはわからない。手間をかけたわけでもなさそう。でも、あたたかな味がする。


 そんな料理だった。


 「ごちそうさまでした」


 心からの感謝を込め、手を合わせる。満たされた私の心と身体は、苦痛だと感じなくなっていた。


 「美味しかったみたいでよかった。いい食べっぷりだったよ」


 あんなに必死になって食べなければよかった、と恥ずかしく思いながら俯けていた顔を上げた。


 目を細めて笑う天川。この人が作った温かい料理。


 「私ね、家出した」


 自分でも驚いてしまった。いつもなら絶対に、暗い話なんか話題に出さないのに。


 『自分の心に、正直でいられるといいね』


 かいと君が私に与えてくれた記憶が蘇り、何だか目が潤んでしまった。でもここで泣いてしまったら、天川に怪しまれてしまう。慌てて瞬きをし、涙を奥の方へと押しやった。


 天川はずっと天井を見つめていて、ひと言も声を出そうとしない。


 私に呆れて、何も言えなくなってしまったんだ。きっと、蔑むような目をしているから、見られたくないんだ。


 自分の卑屈な考えが嫌になり、思わず立ち上がった。上着とリュックを持って、急いで玄関に向かう。


 「あの、ご飯ありがとう。また今度お礼するから。今日は帰るね」


 これ以上、天川を困らせるわけにはいかない。ご飯をご馳走になったうえに自分の愚痴まで聞いてくれたのだ。もう十分だ。


 私の様子を呆然と見つめていた彼は我に返り、手を掴み、自然と視線が交錯する。


 「あのさ、家泊まっていってよ」


 暗いし危ないよと真剣な顔で私を見据えた。


 「いや、本当に大丈夫。帰る」


 面倒くさい女だと思われるだろうが、構わない。これ以上、天川に迷惑をかけたくないだけなのに……


 わかってほしいという一心で天川の視線を正面から受け止める。


 ずいと顔を近づけている天川の真剣な瞳が、少しずつ柔らかなものに変わり、やがて、朗らかな笑みになった。


 「無理しなくていいんだよ。ありのまま受け入れてよ。正直に、自分のありのままを」


 私の、ありのまま……


 「本当は天川の家に泊まりたい……ってこと?」


 天川はゆっくりと首を横に振る。


 「それは森内が見つけることだから、教えられないかなー」


 そこまで言っておいて焦らしてくるとか、卑怯すぎる。頬を膨らませて怒ったような顔をして見せた。


 「ごめんって。ほら、泊まるんでしょ?」


 正直な気持ちを言う練習です、と天川は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 「わかった。1日だけ泊まる」


 完全に嵌められたような気がするけれど、反論したらヒートアップしそうで怖いので、諦めて泊まらせてもらうことにした。


 外泊よりも快適に過ごせるので、正直とてもありがたい。その前に天川の両親に挨拶しなければと思い立って、辺りを見回した。


 「あの、天川の両親は?」


 「あーごめん。俺ひとり暮らし」


 微かに漏れ出た吐息が空気に溶け込んだ。目の前にいる彼はさっきの笑みを保ったままでいる。


 私の動揺に気にする素振りもなく、すたすたと早足で歩き出す。慌ててその背中を追いかけ、後ろから問いを投げかけた。


 「な、なんでひとり暮らしなの?」


 「森内が聞く必要なんてないだろう」


 今まで聞いたことがないくらい冷たい声だった。さっきの柔らかくて綺麗な笑みが消えて、顔には影が落ちているように見える。


 プライベートなことまで、私に口出しする権利はないと言われているようだった。


 「ごめん、変なこと聞いて」


 とりあえず謝って、後を追うのをやめた。


 天川は何も返事をせず、黙って奥の部屋に消えてしまった。


 ただひとり、ぽつんと取り残された私。今まで誰にも嫌われないように、軽蔑の目を向けられないように気をつけていたのに。


 今いちばん、嫌われたくない人に嫌われてしまったかもしれない。


 辺りをぐるりと見渡しても埃ひとつない、ピカピカの部屋。心が綺麗な人だから、部屋も綺麗にできるんだろうな、と私は思った。


 視界の端に青いものがちらりと映った。寄ってみるとこの部屋には不似合いな、絵の具で青く色付けされた下手くそな貝殻がふたつ置かれていた。手に取ると、カサカサしていて紙粘土のような素材だった。


 なぜかこの貝殻から目が離せない。綺麗すぎるこの部屋に不似合いすぎるから?


 いや、違う。これは、私が……


 「寝室、準備できたぞ」


 びくっとはねた肩に気づかれぬよう、慌てて天川から離れ、目を逸らす。


 「ん?何見てんの?」


 そっと覗き込まれた私の視線の先には、真っ白で柔らかそうなクッションがあった。


 「い、いやー白すぎるなと思って!?」


 手に取ったクッションにはビーズが入っていて、中でシャラシャラと音がする。


 天川には怪訝そうな顔をされたが、全く問題ない。今までこんな顔をされたことなんて何回もある。私が空気を読めないせいで。


 不思議そうに目を細めた後、天川は肩を竦めた。


 「そーいやさ、森内。俺の名前、一回も呼んだことなくね?」


 「あ、あー確かに!」


 気まずさを振り払うように大きな声を上げ、大袈裟なリアクションをとる。こうでもしないと、私の嘘はバレてしまう。


 彼の前だとどうも調子が出ないせいか、いつも通りの笑顔を保つことが難しい。


 「あまか……」


 「夕愛」


 低くて甘い、天川の優しい声に私の心臓が大きく跳ねた。ドクドクと全身から鳴り響くビートがリズムを刻んでいる。


 あまりにも真剣で、私のことを大切に見るような瞳に胸がきゅっと小さく音を立てた。


 男子から名前呼びなんてされたことがなくて。そもそも私のことをこんなに大切に呼んでくれた人なんて、今までいただろうか。


 「夕愛はさ、俺のこと海音って呼んでよ」


 かいと、と心のなかで呟いてみる。男子を名前で呼ぶなんて、自分にはあまりにもハードルが高すぎる。


 今まで、たくさんの人に嫌われてきた。私は面倒くさいこの性格に、白すぎて血色の悪い肌、その上、自分勝手で馬鹿だ。嫌われて当たり前なはずなんだ。


 それなのに、なぜ海音は私と話してくれるんだろう。私のことを助けてくれるんだろう。


 「夕愛。早く呼んでみてよ」


 悪戯っ子のようなその笑みに、また私の心臓が鳴り出した。


 「か、海音……」


 かあっと頬が熱を持ち、全身が沸騰したんじゃないかというくらい、暑苦しい。意識したわけではないのにこの様子じゃ、彼の名前を呼ぶたびにこうなってしまうだろう。


 でも、なんでだろう。このあたたかくて、嬉しいような気持ちは。


 「ここ、皺寄ってる」


 ちょんと私のこめかみに触れてくるところはおちゃらけているのに、その手つきはあまりにも優しくて。どうしてそうなんだろう。言葉にし難い思いがここにある。


 サラサラと黒髪が耳に緩くかかり、目元はキュッと細められているのに、唇は弧を描いている。


 つくづく、美しい顔立ちだなと呆れてしまった。


 「もう、やめてよ。手、冷たい」


 「ごめんごめん。もう遅いからそろそろ寝ようか」


 必死に頬を膨らませる私には目もくれず、海音はスタスタと寝室の方へ行ってしまった。


 私に興味があるのか、ないのか。不思議な人だなと思ってしまった。


 寝室の扉を開ければ、そこには年相応の男子らしくない、整った部屋がある。


 薄い水色のベッドに横たわり、天井を見上げる。今日海音に助けてもらったこと。海音の新しい一面が見れたような気がしたこと。


 頭の中が海音でいっぱいになってしまうのはきっと、ここが海音の家だからで。海音のことを大事な友達だと認識しているわけではない。


 私が誰かのことを大切に思う日なんて、絶対に来ない。