恋という感情が抜け落ちても、君にいつかこの想いを届けたい





 私は小さい頃、超がつくほどの乱暴者だったらしい。幼稚園に通っていた頃がいちばん酷かったそうだ。友達の物を取り上げて、友達を叩いたり、蹴ったりしていた。


 お母さんへ毎日、幼稚園から電話が掛かってきて、そのことで毎日毎日怒られていた。その頃はお母さんに優しくしてもらった記憶がないくらいだった。


 幼稚園でもずっと、ひとりぼっち。誰からも好かれないし、必要とされない。でも、それが心地いいと感じた。ひとりでいるほうが楽だと思った。


 そんなある日、私は変わった。


 「みんなー!新しい子を紹介するよー!」


 ピンク色のエプロンが似合う、私達のまゆみ先生。とても気さくで話しやすいと親からも評判がいい先生だった。


 「さがわかいとです。これからよろしくおねがいします」


 突然、転園生がやって来た。この幼稚園では、転園生が来るのがとても珍しいことだった。


 小さいけれど、手足はすらっと細長い子だ。みんなが顔を輝かせ、うっとりとその子を見ているあたり、きっとイケメンの部類に入るのだろう。


 それから、かいと君はみんなの人気者になった。みんなのことを率先して助けたり、手伝ったりするうちに、自然とそうなっていた。


 まゆみ先生みたいだとみんなが口を揃えて嬉しそうに言っていた。


 キラキラと輝く姿はあまりにも自分とはかけ離れすぎていたから、距離を置くことにした。素敵な彼を、自分が汚すわけにはいかなかった。


 かいと君が来てから半年くらいが経った、冬の寒い日。屋内でずっと本を読んでいた私を、かいと君が外で遊ぼうと誘ってきた。


 「わ、わたしと?」


 なぜ、嫌われ者だった私と遊ぶ気になったのか。それは未だにわからない。


 私達の会話を聞き、かいと君の友達がぞろぞろと列を成して集まってくるのが視界の端に映り込んだ。


 「かいとくん、やめておいたほうがいいよ。そのこ、わたしがいつもたいせつにしてたぬいぐるみ、こわしたんだよ」


 「ほんばかりよんでいるのがたのしいんだよ。じゃましないように、わたしたちとあそぼう」


 私は、力が強かった。そのせいで、周りの人を傷つけた。


 周りから、憐れみの声や同情の眼差しなど見下す様子が矢のように降り注いでくる。本当は、可哀想なんて思っていないくせに。普通じゃない異常者を憐れんで、楽しんでいるくせに。みんなと仲良くなるなんて、無理なんだ。


 こういった悪口は数えられないくらい聞いてきた。今さら、反論する必要もない。私が異常者として振る舞うしかないんだ。


 「まってよ」


 凛とした声が、私の鼓膜を揺らした。人の声が聞きたくなくて、顔を俯けていた私は反射的に顔を上げた。


 周りの子が口々に私の悪口を言っても、彼は自分の決意を揺るがすことはなかった。


 「ぼくは、このことあそびたいんだ。みんなわるぐちはいっちゃだめだよ」


 冬の寒い日のかいと君の笑顔は、真夏でも懸命に花を咲かせ、太陽のほうへまっすぐに成長していく向日葵のようだった。


 「なかまでしょ?」とかいと君はさらに晴れやかな笑みを見せた。


 どうしてこんなに、心が温まるのだろう。温かくて、優しい光が私を照らしてくれているように感じた。


 『幼稚園』というこの世界の中で、かいと君がいちばん輝いて見えた。


 幼いながらも私は、彼に生まれて初めて恋をした。早すぎる、と思う人もいるかもしれない。でも、私はかいと君の輝く姿を見て好きになったのだ。輝いているだけじゃない。誰かの苦しみ、悲しみを消し去るような温かい光を彼は持っていた。


 周りの子は最初の頃、ぎこちないながらも私と遊んでくれるようになった。しかも、少しずつ私と遊んでくれる人が多くなった。


 それから毎日、私はかいと君と遊んだ。雨の日も風の強い日も。彼は私と遊ぶことを心の底から楽しんでくれた。


 ずっと、続くと思っていた。この幸せは私だけのものだし、永遠に続いてくれると思っていた。


 そう、思っていた。


 「かいとくん、きょうはなにするー?」


 「うーん、おにごっこしようよ」


 いつものように、ふたりで笑いながら追いかけっこしていた。それだけだったのに。


 「うっっっ」


 かいと君が急に、自分の胸を押さえ、呻きだした。私は何が起こったのかわからなくて、その場で呆然とし、動けずにいた。


 彼の額には大量の脂汗が滲み、呼吸は荒く、激しくなっていく。


 その場に座り込み、息を整えようと大きく息を吸った瞬間、彼は音もなくその場で倒れた。


 私は自分を奮い立たせ、彼に駆け寄った。彼は、呼吸をしていなかった。


 揺さぶっても、声をかけても全く起きそうにない。それどころか身体は冷たさを増し、顔がだんだんと青白くなっていく。


 怖くて、苦しくて、私の身体も恐怖で強張り、冷たくなり、指先が震える。声が、出ない。出せない。


 助けを呼ばなくてはいけないのに、頭がついていかない。


 誰か、誰か。かいと君を、助けて。


 「かいと君!?どうしたの!?」


 先生がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。きっと、周りの子が呼びに行ってくれたんだ。


 先生の瞳をしっかりと見つめながら、呂律の回らない舌で必死に呟いた。


 「まゆみせ、せい、かいと、んがとつぜん、たおれ」


 「もう大丈夫よ。怖かったわよね。ごめんなさい、そばにいられなくて」


 冷たくて塩辛い雫が頬を濡らした。それはあとからあとから零れてきて、止まりそうもない。


 親に叱られても、友達だと思っていた人に嫌われても涙なんて全く出なかったのに。私の目から大量の涙が零れ落ちてくる。


 すぐに救急車が来て、救急隊員の人がかいと君を運んでいっても、溢れ出す涙は一向に抑えられない。


 ずっとまゆみ先生が背中を擦っていてくれたことにも気がつかないくらいガキらしく、泣き喚いていた。


 あまりにも大声で泣く私を心配したのか、先生は瞳を怪しげに煌めかせて微笑んだ。


 「ねえ、あんまり泣いていたらかいと君、悲しむんじゃないかなー?」


 そこでぴたりと涙が止まった。頬についた涙の跡をごしごしと手で拭って、かいと君を悲しませるもんかと気合いを入れ直す。


 「うん、いい顔。ほら、幼稚園の中、戻るよ」


 まゆみ先生に手を引かれながら歩いていると、自分の中にある恐怖や不安が薄れていくような気がした。泣くのも馬鹿らしくなってきた。もう大丈夫だと根拠もないのにそう思えた。


 絶対、大丈夫。だって、かいと君は私のヒーローだから。


 きっと。きっと……?




 *




 「んあぁー」


 瞼を軽く擦り、重たくて深い場所にいた意識をぐんと引き寄せた。


 見慣れた部屋の中にあるベッドに座った私。きっと、夢を見ていたんだ。幼稚園の頃の夢。まだあの頃は、無邪気に遊んでいられた。あのときはまだ……


 「やっと起きたのね。遅いわ。さっさと支度して」


 大きな怒声とともにドアがバンとけたたましく鳴り響く。反動でドアの蝶番が擦れ合い、嫌な金属音が耳をつんざいた。


 見るからに不機嫌そうな私のお母さんは、ちっと軽く舌打ちをした。


 「いつまでベッドに座ってる気?早くしてって言ってるでしょ」


 私は唇を固く引き結び、のろのろとベッドから這いずり出た。


 小さなクローゼットから制服を引っ張り出し、手際よく着替える。


 鏡を見ながら髪を整え、制服の結びづらいリボンをしっかり結んで、とりあえず、お父さんの部屋に向かう。


 いつのまにか、お母さんはリビングのソファに座って眠そうにしていた。


 手伝ってくれればいいのにと内心イライラしながら、お父さんの部屋の扉を開けた。別に、面倒くさいわけではない。ただダラダラしているお母さんが気に入らないだけだ。


 「お父さん、起きて」


 朝に弱いお父さんは起きるのがゆっくりだが、一度起こせばあとは早い。テキパキとしていて、動きがスムーズなのが羨ましい。


 大きな影が動き、のそのそとベッドから出てきたお父さんは、優しく微笑んだ。


 「おはよう、夕愛。今日も起こしてくれてありがとう」


 「おはよう、お父さん」


 毎日のことなので別に気にしなくていいのにと思うけど、お礼を言われるのは素直に嬉しい。


 「あら、あなた。おはよう」


 妙に甘ったるい継母の声が、私の鼓膜にベッタリとこびり付く。


 私の母が亡くなってから、私があんまり悲しむものだから、新しい母親だと紹介されたのがこの継母だ。


 最初の頃はとても優しかった。でも、少しずつ私を召使いのように扱い始めるようになってしまった。


 そのことは、お父さんは全く知らない。いや、知られてはいけない。


 お父さんが継母を好きなのかは知らないが、継母はお父さんのことが好きで結婚したらしいから。


 きっと、私が邪魔で仕方がないのだろう。


 本当の、血の繋がりはないから。だから、私をこき使い、自分の人形のように扱う。これが継母の本性だった。


 「夕愛ちゃん、ごめんね。朝食、今日も用意してくれない?」


 遠回しに、早くしろと言われてしまった。お父さんは気づかないだろうけど、言葉のひとつひとつに棘がある。まあ私はちっとも痛くなんて、ないけれど。


 キッチンに立って、昨日の余り物をお弁当に詰めたあと、フライパンを手に取り、朝食を作る。


 その間、お父さんと継母は楽しそうに会話をしている。どんな話をしているかは少し距離があって聞こえないが、ふたりとも本当に幸せそうだった。


 たったそれだけのことなのに、私の心は軋んだように苦しくなる。胸の奥がチリチリと焼け焦げたように熱い。それが、血液を通じて全身に広がっていくような感覚。


 ふたりからは私など見えないかのように話すのがすごく嫌だ。


 「お母さん、お父さん。できたよ」


 胸の痛みに気がつかないふりをして笑う。でも、顔が引きつってあまり上手くは笑えないのだけれど。


 「まぁ、ありがとう!」


 運ぶわねと、また甘ったるい声を出す継母。次々にお皿を食卓に並べていく。


 そんなに必死になって手伝おうとしなくたっていいのに。そんなにこの生活を、守りたいのだろうか。


 3人で食卓を囲んで、朝食を摂り始めた。私の作った朝食は作りたてでとても温かいのに、私の心は冷え切ってしまっている。


 いつもこの家族で食卓を囲むのが嫌だ。大嫌いなのに、ひとりで食べようと思う気にもなれない。


 茶碗の音がうるさく鳴り響く、この時間が本当に嫌いだ。


 「あのさ、夕愛」


 沈黙が続いていた食事の時間を終わらせたのは、お父さんだった。


 「最近、満足に休めてないんじゃないか?顔色が悪いぞ」


 危うく、箸を落とすところだった。心配そうに顔を覗き込んでくるお父さんには悪いが、絶対に知られたくない。


 ほら、継母の顔が青くなっていってる。


 「大丈夫だよ〜!テスト勉強を夜遅くまでしてて、寝不足なだけだから」


 わざと明るい声を出してケラケラと笑う、馬鹿な私。やっぱり、顔が引きつってしまう。


 視界の端でほっと小さく息をつく、継母が見える。


 絶対に、言えるわけがない。青くなった痣が腕や太ももで強く痛んだ。その箇所をぎゅっと握れば、もう痛くない。大丈夫。


 継母に、日頃から暴力を振るわれているだなんて、絶対に言えない。


 「そ、そろそろ時間だー学校いかなきゃ」


 気まずさを振り払おうと、苦し紛れの言い訳をついた。いや、言い訳というか嘘をついてしまった。まだまだ時間はある。これ以上、自分を取り繕える自信がなかった。


 素直につらい、とか嫌だ、と言えばいいのに。でも、その上手な話の切り出し方まで、私は忘れてしまった。私はずっと、両親から逃げ続けている。


 「そうか、気をつけて行くんだぞ。テスト勉強も程々にな」


 「車に気をつけるのよ」


 本当の心配と、偽りの心配。ふたつの心配が混ざり合って、私の瞳を見透かしてくるようで怖い。


 「うん、ありがとう。行ってきます」


 ふたりの笑顔を無理やり頭から追い出しながら、私は玄関の扉を開けた。朝の輝かしい太陽が、私の目を痛めつけてくる。眩しさに目を細めながら、顔を俯けて、3段しかない家の前にある階段を下りた。


 小さい頃はよくここでつまずいて転んだっけ、と懐かしく思った。あんなに高くて上りづらかった階段は、今では頑張ればひと息で上れる。


 それほどまでに、私は成長したんだ。継母に逆らいたいと思っても、勇気が出ないけど。口喧嘩では勝てる気がしない。


 都合の悪いときには働かない頭を皮肉に思いながら、ひとりきりで学校への道を歩く。


 坂道が多いから自転車はもちろん、徒歩でもキツいくらいだ。足が途中で止まってしまわないよう、懸命に上っていく。


 人生ってきっと、坂道と同じだ。楽しいときは下りでスムーズに苦労なく行けるけれど、その先には必ず、坂道がある。


 でも、私たちは歩いていかなければいけないんだ。1本道から落ちないように。自分の道の選択を間違えないように。


 1本道から落ちてしまったら、這い上がってくるのが難しいし、道を間違えれば引き返すか、間違った道をそのまま歩んでいかなければいけない。


 だから私は、失敗しないように、間違えないように、少しずつゆっくりと歩いているんだ。


 「おーい森内〜!」


 後ろのほうから今いちばん聞きたくない声が聞こえて、思わず耳を塞いだ。少し速めに歩き出した私を追いかけるように、車輪が忙しなく動く。自転車を漕ぐ音は私から離れず、寄り添うように、私を追い越さないようについてくる。


 私は面倒くさくなって立ち止まった。後ろの自転車が勢いよく急ブレーキをかけた音がした。


 「おい、なんで逃げるんだよ」


 顰めっ面の、昨日会ったばかりの転校生。こっちが聞きたい。なぜ、私に構うのだろう。こんな、面白みの欠片もない私に。


 無言で見つめ合っていたら、この人の名前を聞いていなかったことを唐突に思い出した。私が体調不良で4時限目に保健室で休んでいた間、自己紹介をしていたらしいから。


 「ねえ、名前。聞いてなかったから教えて」


 さっきまでは構わないでほしいと思っていたのに、数秒後には彼に名前を聞いているなんて馬鹿らしいけれど、仕方がない。「お前」とか「あなた」という呼び方はしたくない。


 「天川海音」


 その名前を聞いて、夢を思い出した。今朝見た、不思議な夢。確か、『かいと』と『海音』で同じ名前だったはずだ。でも、海音なんて珍しくもない名前だし、夢のかいと君の苗字とは違う。


 海音は切れ長の瞳を私に向けている。その表情は嬉しそうで、悲しそうで。どうしてそんなに切ない顔をしているのだろう。


 「あのさ、夕愛って呼んでもいいかな」


 切ない顔を一瞬で壊して、黒ガラスのような綺麗な瞳を震わせながら、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。


 全てを見透かすような目。透明で曇りのないその瞳には、灰色で濁った目をした醜い私の姿が映っている。


 自分の汚い姿に思わず息を呑んだのがバレないように、慌てて笑みを取り繕う。


 「名前呼びぃ?初めて会ったばかりだよー?早すぎないー?」


 わざと明るい声を出し、海音の顔の前でひらひらと手を振る。少しでも私の姿が見えないように、隠したかったから。きっと今私は、酷い顔をしているのだろう。彼が急に突拍子もないことを言うのは、昨日の時点でなんとなくわかった。けれど決して、空気の読めない人ではないはずだ。それがわかっているからこそ、こんなことを言ってくれたのだろう。


 心配してくれているという喜び。気遣いをされたという腹立たしさ。全てを見透かす綺麗な瞳に対しての、嫉妬。なんでも卒なく、上手く人生をここまで歩んできたのだろう。だからこそ、妬ましくて、不快だ。なんだか気持ちが悪い。


 我に返ったのか、残念に思ったのか、天川はぷいと顔を背けた。


 「ごめん。やっぱり、なんでもない。でもまあ、今度名前で呼ぶよ」


 なんだかまた、嬉しそうな顔。名前呼びにしたいと思った理由はなんだったのだろう。なぜ、それほど嬉しいのだろう。完全に断ったのに。


 「どうせならさ、一緒に学校まで行こう」


 私の隣でにこーっと笑う天川に呆れながらも、私は彼の隣で歩き出す。仕方なく、本当に仕方なくだ。


 友達と登校してみたいという思いが少しだけあったことは認めておく。


 しばらく続く坂道を歩き続けながら、何気なく腕時計に目をやると、始業時間まであと10分くらいの時間になってしまっていた。


 「どっ、どうしよう、もう時間だ……」


 急に大声を上げた私をちらりと見て、天川はなぜかふっと目を細めた。


 海音と話をしすぎたのがよくなかった。これ以上何も考えていなさそうな天川を構う余裕なんて、今の私にはこれっぽっちもない。でも、頭が、回らない。焦りと不安で心がいっぱいいっぱいになってしまい、こめかみに汗がじわりと滲んだ。動揺が隠しきれず、浅い呼吸が止まらなくて、苦しい。


 私が遅刻なんてしたら、どうなってしまうのだろう。継母が許してくれるわけがない。何をされるのだろう……


 「後ろに乗れ。俺の後ろ。早く」


 いつのまに自転車にまたがっていた天川が切羽詰まったような顔で、私を見つめた。


 なんだ。天川も本当は焦っていたんだ。


 自分だけが焦って、から回っていたわけではないとわかり、不思議と冷静さを取り戻すことができた。


 でも、改めて自転車でふたり乗りをすると考えると答えはNoにしかならない。


 自転車のふたり乗りは高校で禁止されているから。たとえ、始業時間に遅れてしまうからという理由があったとしても、私が彼の後ろに乗っていいということにはならない。


 天川もわかっているはずだ。それなのに私を後ろに乗せようとしているということは、それなりの覚悟があってのことだ。


 パニック状態の頭で考えても仕方がない。生徒指導の先生に後でこっぴどく叱られるだろうけど、乗るしかない。遅刻するよりはいいだろう。


 でも、自転車の後ろにまたがって、天川の腰に腕を回して、しがみつくような体勢にならなければいけない。


 周りの人から見れば、カップルだと思われるシチュエーション。やっぱり、恋愛経験ゼロの私には無理だ。私だけ走っていけばいい。


 天川に背を向けて一歩踏み出したのに、


 「ったく。しょうがねーな」


 そう言われて。私の身体はあっけなく、フワリと浮いた。私の肩に腕が添えられ、膝をそっと曲げられ、抱えられた。そして、ゆっくりと身体が持ち上がっていく。


 「じっとしてろよ」


 耳元で囁かれた、低めの優しい声。


 お姫様抱っこをされているという事実に気がついた途端、頬に熱が集まっていくのを感じた。必死に顔を反らそうとしても、抱えられていてできそうにない。心臓の音は彼に聞こえてしまいそうなほど、大音量で私の身体の内側から音を出している。


 天川は優しく、大切なものを扱うように私を後ろの方へ乗せ、サドルにまたがった。ぐいとべダルを踏み込めば、車輪が回り出し、前へ前へと動き出す。


 風のように駆けるというのはきっとこういうことなのだろう。スカートがバタバタと煽られ、髪が右へ左へと踊り狂う。


 その間に坂道を超え、やがて下りが終わって、私の知る道へと出た。


 天川の髪は汗で額に張り付き、口からは苦しそうな呼吸音を響かせている。


 「変わる?重いよね……。ここで下ろしていいよ。もうすぐだし」


 「気にっっ……すんなっっ」


 ゼエゼエと苦しそうな息を吐くから、私は居た堪れない。


 私のために自転車を漕いでくれている。そんな自惚れたことを考えてしまう。ついでだとはわかっているけれど、こんなに頑張ってくれている。


 こんなに申し訳ないと思ったのは初めてだった。いつも素直になれないのに、彼の前では不思議と素直になれた。


 「もうすぐ着くからな」


 どうして、そんなに優しくしてくれるの?


 どうして、人のために頑張れるの?


 ただ、私のため、人のためにひたむきに漕ぎ続ける君に、心の中で問う。


 その視線が私に向けられることはなくても、ただ、問い続ける。