「ねぇ、聞いてるー?」
よく手入れされた艶々の爪で私の額を軽く押し付け、彼女は笑った。
私は寝ているふりをやめ、彼女の腕を軽くどけた。
カーテンの隙間から差し込む、春の柔らかな光が私の頬を明るく照らし出す。眩しすぎず、かといって暗すぎない柔らかな光。あたたかい光をそっと、指ですくい上げた。
「早く漢字のプリント貸してよー」
しつこくねだる彼女を横目にまた寝たふりをしようと考えたが、後々機嫌が悪くなるのは嫌だと思い直し、素直にプリントを手渡した。
「サンキュー!じゃ、後で返すー」
彼女はへらへらと笑いながら他クラスへと戻っていった。馬鹿らしい。たいして仲の良い友達というわけではないのになぜ構ってくるのだろう。正直、鬱陶しい。
教室内には誰ひとりいなくて、ガランとしている。いつもは笑い声や話し声がひっきりなしに耳に届くが、始業時間から30分も前なので、今は誰もいない。
ため息を深くついても誰にも聞かれないし、咎められもしない。
でも、ここにいてもいいことは何もない。私は、お気に入りの場所に行くことを決めた。
教室から廊下に出れば、閉め切っていた空気が開放され、窓から清々しいそよ風が吹いてくる。廊下の奥、誰にも使われることのない旧館へ踏み入れると、埃が一気に舞い上がった。
旧館にある扉へ手をかけ、ギシギシと音を立てながら開くと、真っ白な階段がそこにある。
誰にも使われていなくて真新しいけれどなんだか頼りない階段を少しずつ踏み歩けば、前方に扉が見えてきた。
扉には錆がこびり付いていて、ドアノブを上手く捻ることができない。勢い任せにこじ開けると、屋上が姿を現し始めた。
この場所は授業以外には使うことがないので、立ち入りが禁止されている。立ち入ったことがバレたら、反省文を書かされるだろう。それでも私は、この場所を選ぶ。
空の青と雲の白がマーブル模様になって散りばめられていて、屋上を今にも飲み込んでしまいそうなところが好きだったから。ひとつだけ、ぽつんと置かれている小さなベンチに腰掛け、また空を見上げた。
お店で買ったあまり美味しいとは思えないチョコバターサンドを開け、口いっぱいに頬張る。
空を見ながら食べるサンドは砂糖がジャリジャリしているし、バターが口にベタついて好きじゃない。でも、これがいちばん大きくて安いから買ってしまう。本当は好きなものを食べたいけれど、食べようと思う気力が失せてしまうのだ。
ジャリジャリと砂を噛むような食感の朝食を食べ終えた。ひと息つこうと持参した水筒に手を伸ばしかけたが、ふと止める。私の目線の先にはフードを目深に被った男の子がいた。
この高校の制服を着ていて、パーカーから出ている足はスラリと細長い。スタイルの良さが際立っている。
「どうしてこんなところにいるの」
4月初めからここを見つけてずっと気に入っていたのに、まさか先客がいたとは気が付かなかった。
男の子は私の様子を窺うように黙りこくっている。私はこの場所を取られたくないという一心で口を開いた。
「そっちこそ。ここは私の場所」
語調を強くして彼に躙り寄ると、ため息をついて私の隣に座り込んできた。
私の言葉に苛ついたのか、フードのせいで前が見えなかったのか、さっきよりも大きなため息をついてフードを脱いだ。
瞬間的に男の子だと思った。顔が全く見えていなかったが、今は露わになっている。切れ長の目に黒ガラスのような瞳。髪は風を受け、サラサラと泳いでいる。ひと目見れば印象に残りそうな顔立ちをしている。でも、全く見たことのない子だった。
「俺はずっとここでのんびりしてた。後から来たのはそっちでしょ」
男の子は面倒くさそうな顔でひらひらと手を振った。
間違いなく、感じの悪い子だ。気に障るが、こんなことでこの場所を譲りたくはない。変な対抗意識を燃やし、わざとらしく鼻を鳴らした。
「あなたが先にここへ来たんでしょうけれど、私は4月からずっとここを知っていたの。あなたが帰ってくれない?」
悪女スマイルをプラスして、不敵に笑ってみせた。我ながら完璧だと思う。
「俺は始めて……」
男の子の呟いた言葉の先は、チャイムの音でかき消された。強い南風があたりに吹き付ける。
さすがに授業に遅れたら、後で大目玉を食らいそうなので、急いでもと来た道を翻した。
階段を急いで下りて、教室にそうっと入ると、先生が教卓に立っていなかったのでバレなかった。しれっと席に座る。
ほうっと息をついて急いで教科書とノートを取り出し、机の上に広げる。あの男の子の言いたかったことはなんだったのだろうと気になったが、もうどうでもいい。
どうせ、関わることもないだろう。きっと、クラスが違うから見たことがなかったということだ。
もう始業のチャイムは鳴っているはずなのに、教科担任が来る気配がない。最初のうちはクラス中静まっていたが、時間が経つにつれ、教室中にどよめきが広がっていく。
「なぁ、先生呼んできてもよくねぇ?全然来ないし……」
我慢できないと言わんばかりにお調子者の男子生徒がひとり、立ち上がった。そこから好奇心の芽は広まっていく。さっきの2倍の音量で全員が口論し始めた。
静かに待っていればいいのに、なぜこういう言い争いをしなければならないのだろう。さっぱりわからない。話しているだけ、時間の無駄なのに。お調子者達が段々と立ち上がり始めた。男子たちは面白がって笑いだし、女子もふざけ始めた。
うるさいのが耳障りになり始め、具合の悪いふりをして、保健室へ行ってしまおうかと思ったそのとき、教室の扉が盛大に音を立てて開いた。
さっきまでの勢いをなくし、しんと静まり返るクラス。すたすたと黒板の前に出てきたのは、あの屋上にいた男の子だった。
「おー、遅れてすまんなー」
重たそうなお腹を揺すりながら、教科の先生も続けて入ってきた。相変わらずの口調の軽さに、少しイラッとする。
「こいつはー北高から来た転校生なー」
北高はここよりも遠くにある名門校で、頭が良い人達が集まっていることで有名だ。周りの人もそのことに驚いた、あるいはそのカッコイイ容姿に惹かれたのか。数人の女子が騒ぎ始め、男子は尊敬の眼差しを送っている。
「こいつの席は……どうしようか。じゃ、森内の隣な」
はいと短く応えた男の子は、真っすぐ向かって来て、私の隣の席に座った。
注目を浴びそうだし、羨ましそうな目で見られる日々が続きそうだと容易に想像できる。正直面倒だけれど、我慢するしかない。
「よ、よろしくネ……」
「うん、よろしく」
無愛想な見た目だと勝手に判断していたけれど、案外そうでもないらしい。
「あー、自己紹介は後にして授業始めるぞー教科書12ページ」
多数の人が授業がつぶれると思っていたらしく、一斉にブーイングを始めた。一気にうるさくなったのを気にも留めず、先生はチョークを手に取る。
小気味のいい音が響き始めると、生徒の反対の声も段々と小さくなっていった。
とりあえず、授業には無事に入れた。でも、大勢の人の視線が私の隣の席に注がれていて、妙に居た堪れない。自分が注目を浴びているわけではないと頭ではわかっているのに。その視線はひとつたりとも私に向かっているわけではないのに。本当に自意識過剰すぎる。
ため息をついたら自分の負けのような気がして、ぐっと堪えた。ふいにちらりと隣を見ると、彼の横顔がはっきりとわかる。
切れ長の瞳に、きゅっと固く結ばれた唇。顔は吹き出物ひとつなく滑らかだ。手は意外と綺麗で細長くて。まるで、女の子のような手。
「どうかした?」
その目は先生の指先に向けられていたから、私の視線と交わることはないと油断してしまっていた。ずっと見つめていたとバレないよう、自然な笑顔を作る。
「いや、なんでもないよー空が綺麗だなー!!なんて」
ちょっと、いや、だいぶ苦しい言い訳だ。でも、彼は気にする素振りもなく、「そっか」と気のない返事をした。何とも考えていないのだろう。
あの屋上であったことをまだ根に持っているのか、本当になんとも思っていないのか。
考えれば考えるだけ苦しくなる。なんで、もっと気の利いたことを言わなかったんだろう。私は失敗してばかりだ。
悶々と悩んでいる間にも、授業は驚くほどのスピードで進んでいく。板書を写さないと後で困るのは私なので、仕方なく今考えていることを頭の隅に追いやる。
そして、先生の指先に全神経を集中させるのだ。
何も聞こえなくなるように。呑み込まれていくように。
そうすれば、何も苦しくはない。
*
「じゃ、号令ー」
「ありがとーございましたー」
「よっしゃ!昼飯!」とひとりの男子が駆け出すのに、さほど時間はかからず、次々と後ろに他の男子が続く。購買で何か買うのだろう。
私は毎朝お弁当を持参して、あの屋上で食べるのが日課になっている。そして、意外と待ち遠しい時間でもある。友達からたまに誘われることもあるけれど、私はひとりで食べるのが好きだ。
鞄からお弁当を取り出し、急いで屋上に行こうと立ち上がったが、誰かに袖を引かれた。
「ねえ、一緒に食べない?」
まさかと思って振り向くと、案の定、そこには屋上で出会ったあのパーカー男子がいた。
「ひとりきりで食べたいなぁ……」
明らかに、無理ですというムードを出しておけば切り抜けられるかなという私のちっぽけな抵抗は、すぐに打ち切られた。
「別にいいでしょ?ふたりで食べたほうが楽しいし。あ、そういえば屋上立入禁止だったのになんで入って……」
「うん、いいよ。食べよー」
慌てて彼の言葉を遮り、釘を刺すようにニッコリと睨みつけた。万が一、私が屋上に何度も無断で入っていたことが先生の耳に入れば、停学処分になってしまう可能性もある。それだけは阻止せねば。
「じゃ、行こっかー」
ニヤニヤと笑う顔面を殴りつけたいくらい腹立たしいけれど、仕方がない。自分の秘密を守るためだと思って我慢しよう。
そう思い、黙って彼の後ろについていく。やっぱり視線が痛い。初日から転校生と仲が良いのか、という半信半疑な空気感。でも、森内さんならありえるという視線のほうが多いような気がする。
だって、私はこのクラスのムードメーカーなんだから。
「どうした?早く行くぞ」
憂鬱だけど、仕方がないんだ。顔は広げておくに越したことはないし。ついていく理由を心の中で明確にしながら、おぼつかない足取りで追いかける。
白い階段はふたりで乗るとさらに軋むような音がする。
目の前の扉を開くと、さっきよりも高くなった日が私の顔を照らし出してきた。ベンチに腰掛け、弁当箱を出そうと手に持っていた巾着袋を膝に置く。
ぐんと伸びをして空を見上げれば、なんだか透明な気持ちになれるような気がする。どこまでも続く青い空とその空を照らす太陽の間に、プリズムがキラリと光った。
「いただきます」
弁当箱の蓋を開け、箸でお手製の卵焼きを掴んで食べる。自分で作ったせいか、あまり美味しいとは思えない。
食べ進めているうちに、隣が気になってしょうがなくなってきた。最初のうちは見て見ぬふりをしようと思っていたが、そろそろ限界だ。
「……あのさ、座って食べれば?」
大きなお弁当を、立ちながら勢い良く食べる彼に、思わずため息をついてしまった。
「え?こっちのほうがよくない?早く食べられるし」
頬に米粒をつけながら笑う彼を見て、呆れが半分、興味が半分。
思い切り食べる彼を少し、ほんの少しだけ羨ましく思ってしまったからかもしれない。私はきっと、周囲の人の目を気にしてこんな食べ方はできないと思うから。
「あ、そういや自己紹介してなかったな」
いつのまに食べ終わったのか、空の弁当箱を巾着袋にしまい、ティッシュで頬を拭った彼が笑った。
「あ、えっと、私は森内夕愛」
先に挨拶しておかなければと思い口にしたが、彼が口をポカンと開けている様子から、私からではなかったな、失敗したと後悔した。
「今の流れ的に俺から挨拶する感じだったでしょ……」
口元を手で覆った彼は、次の瞬間には覆っていない方の手でお腹を抱えて笑い始めた。
その姿があまりにも滑稽で、私までつられて少し笑ってしまった。笑いが少しずつおさまると、彼はさっきとは全く違う、穏やかな表情で微笑んだ。
「やっと、笑った」
へ?という間抜けな声が私の口から漏れ出た。どういうことだろう。やっと、とは。
「なんでさ、ずっと貼り付けた笑み浮かべてんだよ。楽しくないのか」
「どうして……」
「え?だから、心の底から笑ってな……」
「そんなの、あなたに関係ない」
反射的に声を上げ、拳をキツく握り締める。心は冷えきっているのに、頭の芯はふつふつと煮えくり返っている。
「あなたに何がわかるのよ。初めてここに来た……転校生のくせに……」
何も分からないくせに。私が隠す理由を。どうしてこいつだけにバレてしまったのだろう。どうして、どうして……
声にならない思いが体中を巡り、私の心を蝕む。
「っっ……はぁっはあっ」
「おい、一旦落ち着けよ」
腕を掴まれたのを勢いよく振り払う。
「さわらないで」
はっきりと、一言一句大きく話す。今は、何も触れてほしくない。身体にも、心にも。
「ごめん」
彼は、なぜか苦しそうな、つらそうな顔をする。どうして君が謝るのだろう。悪いのは全部私なのに。
「わからなくて、ごめん」
「だから、何言って……」
「けどさ、覚えててよ」
私の反感を強く遮り、彼は悲しいような、嬉しいような顔で微笑む。
「俺は、森内の味方だから。何かあったら、話聞くよ」
「友達だろ?」とさっきよりも男らしく、白い歯を輝かせて笑った。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。味方?友達?冗談を言っているのだろうか。会ったばかりの人に、何を言っているのだろう。
この人と初めて会った時の記憶は、あの屋上でだけ。覚えていないのだから、間違いない。しかも、ほとんど会話らしい会話なんてしていないから、私の人格や性格なんて1ミリもわからないはず。
「本当に、どうして……」
「どうしてもこうしてもないだろ。こういうのは、助け合いが大切だからさ」
「本当に、どういう……」
「あー、まぁ、いいや。忘れてくれ。でも、なんとなくわかるよ。森内が努力家なの」
意味不明な言葉を並べ立てられ、私の理解が追いつきそうもない。
「とりあえず、そろそろ時間だ。戻るぞ」
どうして、私のことを知っているような口を聞くの。
「ほら行くぞ。早く」
もうこれ以上は聞くなという目つき。その目はいたって真剣で、何かを訴えかけているようにも見える。
「いったい、私に何を伝えたかったの……?」
話の意図が全く見えないし、彼のペースにもついていけないから、問うしかなかった。
「ん?まあ要するに、無理すんなってことだよ」
まただ。皮肉だけど、爽やかな笑み。ムカつくけど、今はそこまで気にはならなくなっている。
彼の後ろ姿をずっと見つめていても、どうにもならないことはわかっているのに、そこから動けなかった。
彼は待ってはくれないし、こっちを振り向きもしない。
なんて薄情なやつだと思う。でも、これが優しさなのかもしれない。
彼なりの、不器用な優しさなのかもしれない。

