恋という感情が抜け落ちても、君にいつかこの想いを届けたい





 「ここは……?」


 瞼を開くと、真っ白で何もない空間が広がっていた。広いのか、狭いのかもわからない、不思議なところ。


 死にたいと願ったから、神様はなんの痛みもなく私を殺してくれたのだろうか。ここは、死後の世界なのかもしれない。


 突然まばゆい光に包まれて、眩しくてきつく目を瞑った。光が徐々に消えていき、そっと目を開けると、お母さんが穏やかな微笑みを浮かべていた。


 「お母さん!」


 駆け寄ろうと足を動かそうとしても、その場に縫い止められたかのように動けない。


 お母さんは柔らかな微笑を浮かべたまま、ただ私を静かに見つめている。


 「あなたは間違ってなんかない。価値のある、素晴らしい人よ。私の娘だもの」


 「何が、大丈夫なの……」


 これ以上、耐えろというのか。もう疲れたのに。人と関わるのは疲れた。もう嫌なんだ。だから。


 感情を失っても、構わないと思った。全て失っても、いいと思った。


 海音と話しているとき、感情があるかのように見えたかもしれない。それは正しい。だって、私がそう望んだから。


 途中から気がついたことがある。この病気は。


 自分で全てを、決められる。


 感情は心、脳と繋がっているから。感情を失うか、失わないかは自分の意思で選ぶことができる。


 初めは失いたくないと思った。でも、私の心が弱いせいで、もうひとつの考えに囚われてしまった。


感情をなくせば、傷つくことはないんじゃないかと。


 そうこうしてるうちに心が弱くなって、感情が奪われていった。


 「わたしもね、あなたと同じ歳の頃、同じ病気に罹ったことがあるのよ」


 それは初耳だった。


 「お母さんが死んじゃったのってもしかして、この病気のせい?」


 「それは違うわ。わたしは元から身体が弱かったから。でもあなたみたいに途中で全てを諦めようとは決してしなかった」


 そこには確かな強さがある。踏まれても、どんなにつらいことが起ころうとも決して諦めない、母の姿がある。


 「わたしはね、決めたの。あなたみたいに途中でこの病気の治し方に気がついたとき、強くなろうって。もちろん、再発しそうになったことは何度もある。でも、わたしは変わることができた」


 お母さんは自分の弱さを誰かのせいにして傷つくんじゃなくて、その弱さごと変わろうとしたんだ。


 私なんかとは全然違う。強くて温かな光に包まれている。


 「わたしが変われたのはね、あなたのお父さんのおかげなのよ」


 「お父さんが……?」


 「そう、わたしの初恋の人」


 初恋。


 その言葉に胸がぎゅっと締め付けられた。どうしてだろう。


 「病気になって、自信がなくなっていたとき、あなたのお父さんと出会ったの。お父さんはわたしに優しく接してくれて、大事にしてくれた。それで、恋に落ちた。わたしは大好きな人と共に人生を歩んでいきたくて、変わろうって決意したの」


 誰かのために変わる決意。それなら私でも、できるような気がする。


 「わたしにとっての恋はね、誰かを心から大切に想うことなの。お父さんがわたしにしてくれたようにね。夕愛にとっての、恋は?」


 恋が自分を変えてくれる。恋は感情のひとつかもしれない。だけど、好きな人がいないと感じることができない、特別なもの。


 傷つくこともある。苦しいこともある。それでも、その弱さをバネにして、起き上がって、また歩き出す。


 実ることはないかもしれない。頑張ったって無駄かもしれない。でも、私はまだ想いを伝えられていない。


 自分で自分を諦めるには、まだ早い。


 「一緒にいてあげられなくてごめんね。夕愛がつらくて苦しい思いをしていても、わたしはあなたをお空で見守っている。愛しているわ、夕愛」


 お母さんから確かな愛情を受け取って、私のボロボロで隙間だらけだった心が次第に埋まっていく。今がつらくても、いつかはお母さんのように幸せだと言える未来が来るのかもしれない。そう考えるだけで、なんだか心が軽くなったように感じた。


 大好きな人と言われて真っ先に思い浮かんだのは、海音の顔。


 幼稚園の頃、海音に粘土で作った青色の貝殻を渡したことがある。あの時の貝殻はまだ海音の部屋にあった。今日までずっと大切にしてくれていたんだ。


 身近にある小さな幸せと愛情に気づくことができていなかった。


 海音は私のヒーローで、優しくて、かっこいい。もちろん人間なんだから、嫌いな部分だってある。


 お母さん、私、見つけたよ。胸を張って自分にとっての恋が何かを言える。


 「私にとっての『恋』はね……」




 *





 重い瞼をゆっくりとこじ開けると、見慣れない天井があった。目だけを動かして周りを見回すと、ベッドのそばに座って私の手を握り込む海音の姿がある。その顔は涙で濡れていて、瞼の下には青白い隈がくっきりと浮かび上がっている。


 「夕愛、よかった……」


 握りしめられた海音の手はとても温かい。私の手は冷え切って、まるで死人のようだった。


 海音はずっと心配してくれていたんだ。私の手を握って何度も呼びかけてくれた。


 「先生を呼んでくるからな」


 バタバタと慌ただしく病室を出て行った海音を見送った後、私は改めてお父さんに向き直る。


 「あの、お父さん。私ね、話したいことがあるの」


 久しぶりにしっかりと見たお父さんの顔には、深い皺が刻まれていた。愛されていないと思い込んで避け続けて、顔を合わせて会話をしてこなかったから気がつかなかった。


 今度こそ、やり直そう。またお父さんと家族の絆を育んでいくために。


 覚悟を決めて、腕の袖を捲った。二の腕の辺りには大小様々な青痣がある。まだ色の濃いもの、薄くなってほとんど見えないもの、少し赤みがかったもの。全て継母からの暴行を受けてできた傷だ。


 「これは……」


 「私ね、お母さん……継母から暴力を受けていたの」


 私はぽつぽつと今までのことをゆっくりと話し出した。その間、お父さんは何も言わずに黙って聞いてくれた。話が進んでいくに連れて、お父さんの顔はみるみるうちに険しくなり、とうとう俯いてしまった。


 「夕愛がそんなことになっていたなんて……気がつかなかった。いや、気がつかないなんて、親失格じゃないか……」


 「そんなことないっ!」


 普段出ることのない大声が、自分の口からついて出る。私は嫌われたくなくて、両親へ否定さえもしてこなかった。でも今ははっきり否定しないと、私からお父さんが大事だと、伝えないと。


 「私が気づいてなかっただけで、お父さんはたくさんの愛情をくれたから……」


 私が伝えたいことはこれからだ。でも、お父さんにまで嫌われて、捨てられてしまったら。私はどうやって生きていけばいいのだろう。


 『夕愛らしく』


 いつか海音が言ってくれた、私への、私だけの大切な言葉。


 「私、私ね……」


 大きく息を吸って、自分の気持ちを吐き出すだけだ。


 「お父さんと、私の、ふたりだけの生活のほうがよかった……」


 「ふたりでご飯を食べて、好きな映画を見て」


 「休日は近くのスーパーに行ったり、公園に行って遊んで」


 「そんな平和で、楽しい日常のほうが、もっとずっと好きだった」


 「継母が来てからはどこにも行ってない。行ったとしても楽しくないの」


 「味がしないの。美味しいと感じられない」


 「お父さんの作った料理がいい。あれが好きだった」


 ひとつひとつの言葉がお父さんだけに届いてくれる。私の思いはどこにも消えていったりしなかった。


 今までずっと無言だったお父さんが私の頭をそっと撫でて、涙を流し始めた。


 「ごめん、ごめんな……今までずっと気づいてやれなくて。母さんと雰囲気が似てるからって、そんな身勝手な思いを押し付けた。申し訳ないよ……」


 こんなふうに苦しむお父さんを見るのは初めてだった。もしかしたら、お父さんも無理していたのかもしれない。まだお母さんが亡くなった悲しみが癒えなくて、周りが見えていなかったのだろう。


 「お母さんは、俺たちの心の中にずっといる。そうだよな。これからはふたりで暮らそう。お母さんもきっと空から見守ってくれているはずだから」


 「うんっ……!」


 伝えた。伝えられた。ずっと伝えたかった思いは勇気を出せばきちんと言えた。


 もう継母と会うことはないだろう。けれど、一緒に過ごした中で私は大切なことに気がつくことができた。そう思えるようになったことがすごく嬉しい。


 もう嘘はつかない。嘘をついたところで、傷つくことは変わらない。


 自分の弱さを見せたくなくて嘘ばかりついていたけれど、弱さは悪いことなんかじゃない。彩音と夏実にも弱さを見せて、本音で話そう。素直でいい子だから、これからきっとわかり合えるいい友達になれる。


 弱くたって自分なりに強くあろうとする人が、本当の強さだ。


 自分の感情のままに生きることが大切なことだと、改めて気がつくことができた。


 「夕愛!連れてきたぞ」


 出ていったときよりも速いスピードで帰ってきた海音を見て、私は彼にもきちんと伝えようと決意を固める。


 今さら玉砕しても、しょうがない。伝えずに終わるより、この溢れ出る想いを君に伝えたいから。


 「私ね、退院したら海音に伝えたいことがあるんだ」


 私の大好きな人は、嬉しそうに笑ってくれた。




 *





 数カ月後、無事に退院することができた私は、海音とふたりきりで海にやってきた。


 お互い伝えたいことがあって、ゆっくり話したいとお父さんに言うと、感情を失っていたときに来た海へと連れてきてくれた。お父さんは私の容態が急変してもすぐに駆けつけられるよう、車で待機するらしい。大丈夫だと何度も言ったけれど、まだ心配らしい。気にかけてくれる優しいお父さんだと気がつけたおかげで、前よりもっと絆が深まったと思う。


 あれから私は継母とは顔を合わせないまま、家族としての縁を絶った。お父さんが代わりに継母と話をしてくれたおかげだ。最初は離婚を承諾してくれなかったらしいけれど、裁判にかけると語気を強めたらすんなりと頷いたらしい。そんなに面倒だったんだなと考えて少し悲しく思ってしまった。


 最後まで私はあの人から愛されなかった。私も最後まで、あの人を母親だと認識することはなかった。


 お互い素直になって、本音で話ができていたら。お互いのことをもっと、思い合っていたら。なにか別の未来があったかもしれない。継母の感じていた不安や恐怖を拭うことができなかったことだけが心残りだ。考えても無駄なことを思ってしまう。


今は私とお父さんのふたりで穏やかに暮らすことができている。


 波の音が耳に心地よくて目を閉じて聞いていると、海音がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。


 「話したいこと、まず俺から話してもいい?」


 頷いてみせると、彼は安心したように笑った。


 「幼稚園の頃、夕愛と出会って、たくさん遊んで。ガキの頃の俺は夕愛を守りたくて、いつも必死だった」


 全部覚えている。海音は私を救ってくれた、ヒーローだから。


 「両親が亡くなってから、苗字を『佐川』から祖父母の苗字『天川』に変えたんだ。過去のことを思い出すとつらくなるから」


 知らなかった。海音がつらい思いをしてここに立っていたこと。苦しくても彼は前を向いて、たまに弱音を吐きながら生きてきたんだ。


 「俺さ、小さいときからずっと、夕愛のことが好きだったんだ」


 優しげに目を細める海音と私の視線が絡み合う。


 「俺が病弱だって知っても、夕愛は離れたりしないでずっとそばにいてくれた。それがとっても嬉しくてさ。今度は俺も何か返したいって思ったんだ。苦しいときそばにいることしかできないし、カッコ悪いところもいっぱいある。だけど、夕愛とずっと一緒にいたいんだ。だから……」


 そこで一度大きく息を吸い込んで、私の大好きな顔で微笑んだ。


 「俺と、付き合ってください」


 我慢していた涙が溢れた。病気になってから、涙なんて流したことがなかった。嬉しいことも、悲しいことも感じなくて心が死んでいたから。


 でも今は、心の底から、本音で嬉しいと感じる。


 「私も、話していい?」


 告白の返事をする前に、話さなければいけないことがある。


 「私の病気のこと、ずっと黙っていてごめんなさい。私、全部を諦めようとしてた。でも」


 零れ落ちてくる涙を手で拭い、言葉を紡いでいく。


 「海音がいてくれたから、私は変われたの。恋を知って、私は変われた」


 私にとっての恋。お母さんに話した、私だけの恋。


 「恋にはそれぞれあって、形がみんな違う。そう気づけたから。私の恋は、自分を好きになってあげないといけないの。自分のことが好きじゃないのに、相手にばかり魅力を感じて、好きになって、依存してしまったらよくないから」


 人は恋をするとき、自分を好きになれる。私は今まで自分のことが大嫌いだったけれど、海音のことを知るたびに、自分のいいところに気がつくことができた。前の自分よりも、今の自分のほうがずっといい。


 「自分を心の底から愛せたとき、恋という感情が生まれるんだ」


 まだ完全に私は私を好きになれたわけじゃない。自分の嫌いなところだってまだたくさんあるけれど。また自分の嫌いに埋め尽くされてしまうかもしれないけれど。


 それでも私は、彼に恋をするだろう。何度でも、ずっと。


 「これが私にとっての『恋』だよ。だからね、海音。私でよければ、ううん。私、海音と付き合いたい」


 私は海音じゃなきゃだめで、海音も私がいいと思ってほしい。ようやく私はそう思えるようになった。


 「これって、両想いってことだよな。……やった!」


 背中に腕を回され、ぎゅっと抱きしめられる。海音の体温と若葉のような匂いが私を落ち着かせてくれる。


 お母さんは眩い光の中で、また消えてしまった。その前に私は、お母さんに大好きだということを伝えられた。


 『あなただけの答えを見つけてね』


 お母さんからもらった言葉、海音からもらう優しさ、お父さんと紡いでいく家族の絆。


 目に見えるものだけじゃない。大切な私の宝物。


 答えはいつでも自分の中にあって、人はいつでもそれを探している。


 見つけたときに初めて、恋が何かを知ることができる。


 曇った瞳では真実は見つけ出せないから、いつも綺麗にしておこう。


 ひとりで磨くのが難しそうだと思ったら、誰かに助けを求めればいい。


 そうやって私達は愛おしい日常を、歩いていく。