恋という感情が抜け落ちても、君にいつかこの想いを届けたい





 今日は夏祭り当日。3日間夏祭りは開催されているが、夕愛の体調を考慮し、今日1日で満喫することになった。


 珍しく夕愛の具合が良さそうで行けるようになって嬉しい。


 彼女は美容院で髪を整えてから来るらしい。俺が今いる鳥居の下で待ち合わせだ。


 実は、夕愛の病気が治った。医者がそう言っていたから間違いない。今日はそのためのお祝いでもある。


 楽しみすぎて、30分前にここに着いてしまった。


 デートみたいだななんて、そう意識してしまったら居ても立ってもいられなくて、夕愛を待たせないようにと早めに来てしまった。


 「それにしても、早すぎたよなぁ……」


 髪を念入りにセットして、ずっと待って。何だか俺だけ必死になっていて恥ずかしい。


 「海音、お待たせ。ごめんね、来るの遅かったかな」


 声のした方へ振り向く。長くて綺麗な髪をお団子結びにし、薄く化粧をした夕愛が立っていた。動くたび後れ毛がフワリと舞い、俺の選んだ紺地の金魚柄の浴衣がたおやかに揺れる。髪には綺麗なガラス玉がついた簪が刺さっていて、屋台の光を受け、柔らかく光っていた。


 「結構待った?」


 「いや、全然。今来たところ」


 いつもより大人びた夕愛の姿にドキドキしてしまって、嘘をついてしまった。でも、彼女に待たせて申し訳ないと思わせてしまうかもしれないから、これで良かったのかもしれない。


 「じゃあ、行こっか」


 「ちょっと待って」


 夕愛を呼び止めた俺は自然にその小さな手を握った。


 「夕愛のお父さんと医者からさ、夕愛が迷子になったら一大事だって言われて。手を繋いでおいてほしいって」


 「あ、そうなんだ。わかった」


 握り返された夕愛の手はほっそりとしていて、柔らかい。自分の少し汗ばんだ手が気になってしまう。夕愛に嫌われたりしないだろうか。手を繋ぐ前に、軽く拭いておけばよかったと後悔した。


 「行こう。私何か食べたい」


 先に歩き出した夕愛に置いて行かれないよう、慌てて彼女の隣に並んだ。


 少し歩いただけで、屋台がたくさん並ぶところに着いた。焼きそば、わたあめ、クレープに焼き鳥といった王道なもの。10円パン、タピオカドリンク、けずりいちごといった最近流行ったもの。冷凍パイン、肉巻きおにぎり、おでんといった変わり種のものまで、いろいろな食べ物で溢れている。奥の方では小さい子たちがヨーヨー釣りや射的、くじ引きを楽しんでいた。


 「夕愛は何かしたいことある?それとも、何か食べる?」


 「えーと、私は何か食べられればいいよ。後は海音が決めて」


 穏やかに微笑む彼女を見て、やっぱりまだ完全には感情が戻ったわけではないのかなと思ってしまった。


 「やっぱり、焼きそば食べたいかも」


 キラキラとした瞳が大筆で力強く描かれた看板に向いている。本格的な焼きそばのようで、ソースから手作りしているらしい。


 「じゃあ、焼きそば買おう。今日は俺が奢るから」


 「本当?ありがとう」


 焼きそばの味をどれにするかで悩み始めた夕愛を見つめていると、ふいにこちらを向いてにこりと笑いかけてくれた。不意打ちの笑顔に心臓が大きく高ぶる。


 焼きそばを焼いていたおじさんは俺達の様子を見て、にこやかに話しかけてきた。


 「へいらっしゃい。今なら大サービスでカップル割にしちゃうよー」


 営業スマイルで商売をされたら普通は嬉しいだろうけれど、状況が状況だ。俺達は別に付き合っているわけではない。


 俺は別に気にしていないが、夕愛は嫌がるんじゃないかと横目で彼女を見ると、目を瞬かせてぽかんとしている。数秒混乱していたが、頬に手を添えていつもの笑みを見せた。


 「はい、カップルです。えと、目玉焼きのせ焼きそば、ひとつください」


 「はいよ!」


 思わず財布を落としてしまった。慌てて拾い上げ、ばら撒かれた数枚の小銭を拾って戻したけれど、その手は震えている。


 「どうしたの海音。行くよ」


 俺の代わりに焼きそばを受け取った夕愛は俺を引っ張り、ベンチまで誘導してくれた。


 「さっきはごめん。カップル割のほうが安かったし、奢ってくれる海音に負担かけないかなって」


 「え?じゃあ、あれは……」


 「ごめん、嘘ついちゃった。でもあのおじさん、否定しても恥ずかしがるなとか言ってきそうだからいいかなーって」


 からからと笑う夕愛に唖然としつつも、ようやく冷静さを取り戻す。


 でも、動揺はおさまりそうになくて。勘違いしていた自分が恥ずかしい。


 「あ、夕愛が先食べていいよ。俺さ、家で少し軽食摂ってきちゃったから腹減ってなくて」


 「ありがとう。じゃあ、半分こしよっか」


 袋を覗くと、目玉焼きののったつやつやと輝く焼きそばが入っていた。おじさんが気を遣ってくれたのか、割り箸がふたり分ある。夕愛は器用な手つきでパックの蓋に焼きそばを半分入れると、俺に差し出した。


 「いただきます。ん、美味しい!やっぱり、屋台といえば焼きそばだよね〜。この太麺が好き」


 いつにも増して美味しそうに食べる夕愛を見て、連れてきてよかったと笑みが溢れる。


 ふたりで楽しく話しながら食べてしまうと、焼きそばはあっというまに胃袋に消えてしまった。


 「はー美味しかった。海音、ありがとう。ご馳走様でした」


 「こちらこそ。さっきボーっとしてた俺を引っ張ってくれてありがとう」


 「あ、海音。止まって」


 理由を聞く前に突然ウェットティッシュを頬に当てられ、そっと拭き取られた。


 「ソース、付いてたよ?」


 心臓がまたもや大きな音を立て、身体が芯から熱くなっていく。


 夕愛は不思議そうな顔をして顔が赤いと指摘してくるけれど、もうそれどころじゃなかった。ずっと見て見ぬふりをしようと思っていたが、限界だ。


 今日の夕愛と俺の距離間はずっとおかしかった。手を繋いでいるときはまだしも、ふたりで座るときなんか、肩が触れ合っている。近すぎる。普段の夕愛なら、拳ひとつ分以上は離れて座るのに。


 「どうかした?熱でもある?」


 しまいには、夕愛が額を俺の額にくっつけてきた。思わず叫んでしまいそうになったが、すんでのところで呑み込み、彼女をぐいと引き離す。


 「ちょ、夕愛。いつもより、距離近くないか?」


 「え?普通でしょ。それより本当に大丈夫なの?」


 その顔には一切の照れがなく、心配で仕方がないという感じだった。俺のことをたぶん異性として意識していないのだろう。だからこんなにも距離が近い。意識させてみたい。自分の中で夕愛への想いが高まっていく。


 今がいいタイミングなのかもしれない。夕愛に伝えるチャンスだ。


 「あのさ、夕愛。聞いてほしいことがあるんだ、俺……」


 意を決して開いた口を遮るように、夕愛の荒い呼吸音が響く。


 「ま、まって、ちょっと、まっ……」


 上下に肩を震わせ、夕愛は苦しそうにしている。胸に手を当てて、苦しそうに喘いでいる。


 さっきまで輝いていた瞳は光が失われ、唇の血色も悪くなっている。


 ポケットからスマホを取り出し、救急車と夕愛の父親に連絡して彼女に呼びかける。


 「おい、夕愛!!しっかりしろ、夕愛!!!」


 その身体をそっと抱き上げ、彼女の口に手を当てた瞬間、背筋が凍りついた。


 息を、していない。


 「到着しました!」


 呼吸の有無を確認した直後、救急隊員が来た。思ったよりも早い到着で少し安心する。でも、


 「夕愛、息をしていないんです!お願いします。助けてください……」


 弱りきった彼女の身体を隊員に預け、夕愛は運ばれていった。


 「君!早く乗って!」


 救急隊員に連れられ、急いで救急車に乗り込む。


 2回目だ。夕愛を守ってあげられなかった。


 力なく横たわっている夕愛を見つめながら、ただ、祈り続ける。俺に今できることは、それだけだった。


 お願いします。夕愛を守ってください。


 今まで親なんか、神なんか信じたことないのに。


 父さん、母さん、お願いします。夕愛を、いや、夕愛だけは。


 世界でいちばん大事な女の子を、失いたくない。


 そっちに連れて行かないでくれ……




 *





 両親が亡くなったのは、俺が身体を壊して入院していた時だった。


 親の死に目には立ち会えなかった。


 当時幼稚園に通っていた俺はそこで、ひとりの少女と出会った。


 人と関わろうとしないその姿勢に興味が湧き、話しかけようとした。周りからは、あの子は意地悪だから近寄らない方がいいと何度も言われた。でも俺は、その子と話がしてみたかった。


 「あのさ、なまえなんていうの」


 「……いいたくない」


 「どうして」


 「わたしなんかとあそばないほうがいいよ。みんな、そういってるでしょ」


 「そんなのどうでもいいよ。ぼくはきみとあそびたいんだ」


 一瞬迷うような素振りを見せた少女、いや、夕愛は俺の手を握ってくれた。温かくて、優しい手だった。


 それからは夕愛と毎日遊びに行った。晴れの日は外で鬼ごっこをし、雨の日は園内でおままごとをし、本を読む。雪の日は小さな山でソリ遊びをし、雪合戦をした。


 春には、一緒に桜を見ながらお菓子を食べた。


 夏には、園のお祭りを楽しんだ。


 秋には、さつまいも掘りをした。


 冬には、初雪に目を輝かせた。


 1年間、楽しかった。1年間だけは。


 夕愛と遊ぼうと思った日に、俺は突然の心臓発作で、彼女の目の前で倒れてしまった。守ってあげると約束した、夕愛の目の前で。


 気がつくと俺は、病院のベッドの上にいた。大量の点滴を付けられて、腕には注射の跡がいくつもあった。


 両親は俺が1週間ほど意識を失っていた間、交通事故で亡くなってしまった。


 いつも優しく面倒を見てくれた大好きな両親が亡くなったという現実は、まだ4歳の幼子にとっては信じ難いことだった。


 でも、両親の葬式で火葬場に運ばれていくふたりの遺体を見たとき、俺は幼いながらに知ってしまった。


 幸せは、いつでも自分について回るわけではないということを。


 小さい頃に身体が弱かったからか、葬式が終わってからまたさらに症状が悪化し、何度も入退院を繰り返した。


 生きているのはつらいけど、死にたくても死ねない。そんな日々を過ごしていた。


 葬式に参列していた俺の祖父母が最終的に俺を引き取ることになり、祖父母の支えで俺は少しずつ病気を治していった。


 幼稚園は病気のせいでほとんど通えなかったけれど、祖父母の家の近くの小学校に通わせてもらうことになった。


 でも、周りからの同情の目は、言葉は、思いはまだ消えていなかった。


 「まぁ、4歳で両親が他界?可哀想にねぇ」「海音君、お父さんとお母さんの分までしっかり生きるんだよ」「おじいちゃんとおばあちゃんが引き取ってくれたんだから、精一杯手伝うんだよ」「ご両親が心配になるようなことをしちゃだめだよ。いい子でいなきゃ」


 祖父母に迷惑をかけるな。両親の分まで生きろ。


 幼かった俺はこの言葉を全て正面から受け止め、実行した。


 真面目、優等生、手のかからない子。そんな子でいられるようにした。それが、小学生のこと。


 「海音君、いい子ね。ご両親もきっと喜ぶわ」「海音くんって両親いないんだ……そっかぁ、ごめん変なこと聞いちゃって」「先生は嬉しいぞぉ、海音君はいい子だなぁ、真面目に勉強して偉い」「うちのお母さんはねー……あ、ごめん。海音くんの家ってどっちもいないんだよね、無神経だった」


 やめてほしい。そんな、同情しないで。


 そんな声は届くことなく胸の中に溜まり続けた。それが、中学生のこと。


 祖父母は俺のことをいつも心配していたが、ぎこちない顔で大丈夫だと笑ってみせた。


 佐川という苗字から天川と名乗り始めたのは、俺の祖父母の苗字が天川だったから。


 これが、幸せになるための方法だと思った。苗字を変え、両親の死を忘れ、本音を隠して取り繕う。これが、俺に用意された幸せな生き方なのだと。


 それから高校受験をする歳になり、両親が通っていた高校を志願した。決めた理由はもちろん、周りが勧めてきたからだ。


 俺は周りから敷かれたレールに沿って生きるしかなかった。でも、今回はそれが幸運だった。


 そこでまた、夕愛と出会うことができたから。


 あの頃よりもずっと大人びた顔で笑う彼女にまた、恋の痛みを覚えた。


 でも、笑い方があの頃とは違っていた。苦しみながら、笑っていた。かつての俺と同じように、本音を取り繕っていた。


 すぐにわかってしまった。今の俺では、夕愛を救えない。笑顔にできない。当然だ。自分を幸せにできないやつが他人を幸せにできるわけがない。


 今の自分にできる唯一のことは、夕愛のそばにいてあげることだけだった。


 そばにいたとしても、彼女の不安、人に対しての憎しみ、恐怖、苦しみは取り除けなかった。


 やっぱり俺は。


 ヒーローになんて、なれなかったんだ。俺は意識をなくした彼女に対して何ができる?呼びかけることくらいしかしてあげられない。


 でも、こんなカッコ悪い俺でも、まだ夕愛のそばにはいられる。


 もし夕愛がまた目覚めて、俺の大好きな人とこの世界で共に笑い合える日が来たなら。


 君に、好きだと伝えたい。




 *





 痛い、苦しい、つらい、憎い、許せない、疲れた、もう死にたい。そんな毎日を送っていた。


 私のことを操り人形のように扱って、気に入らないと殴る継母が憎い。私の悪口を陰で平然と言っていたのに、彩音と夏実が許せない。


 本当は知っていたんだ。たまたまだと思うけれど、ふたりの会話を聞いてしまったから。


 『夕愛って本当にウザいよねー。先生の前でいい子ちゃんぶって、成績上げたいのかな?まじ無理なんだけど』


 『え、わかるー。夏実もそう思ってたんだねー、一緒じゃん。なんか、あなた達とは違います。みたいな雰囲気出しちゃってさー』


 違うと言いたかった。でも、言えなかった。怖かったから。


 先生の前でいい子ぶっていたわけではない。私はただ、先生を尊敬していたから。


 あなた達とは違いますなんて、一度も思ったことなんてない。でも、この人達にはどこか遠慮している部分があったから、そう思われてしまったのかもしれない。


 陰口を言われているのに、このふたりと外面では仲良しでい続けた。気づかないふりをして。憎悪をひた隠しにして。気づいて声を荒らげれば、すぐにいじめの対象となって、ひとりぼっちになってしまう。そんなのは嫌だった。


 幼稚園の時も、私はいじめられていた。私が乱暴になってしまったのは、あのことがきっかけだったから。


 ずっと仲良くしていた女子ふたり組に、私は彩音達と同じようなことを言われた。


 ウザい、いい子ぶりっ子、真面目ぶってる、気持ち悪い。


 中学校の時も、私はいじめられていた。愛想のいい自分を演じながら、友達のことを気遣って、努力していたはずなのに。


 八方美人、調子乗ってる、優等生かよ、気持ち悪い、死ねよ。


 その言葉達で私は傷つき、友達なんか必要ないと思い込んだ。いや、友達は必要だ。でも、心の底から友達だと呼べるような人はいなくてもいい。何も頼るな、信じるな。自立しろ、前を向くんだ。


 そうして、『私』が出来上がった。物わかりのよくて、使いやすくて、優等生で、仕事のできる優秀な自分。


 本当の私は弱虫で、誰も信じられなくて、寂しくて、心細くて、死にたいのに。


 傷つくのが怖いから。傷つくくらいなら、嫌われておいて、人の印象に残るほうがマシだから。そんな矛盾した考えを持ちながら、精一杯生きてきたつもりだったのに、また失敗してしまった。上手く立ち回っていたつもりだったのに、全部無駄だった。


 私に価値なんてない。


 いたって意味がない。


 何もできない。


 足手まとい。


 親にも必要とされない。


 本心を打ち明けられない。


 可愛げがない。


 痛い、痛い、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい。


 死にたいと言ってても、結局は怖くて死ねない。


 怖い、怖いよ、こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。


 生きるのがつらい。


 嫌だ、嫌だ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。


 消えてしまいたい。


 死ね、死ね、しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。


 もう、もう、疲れてしまった。全部全部、どうでもいい。もう何も、考えたくない。


 私は頑張ったはずだ。ここまでよく感情を壊さないでいられた。


 このまま廃人になってしまえばいい。何もわからなくなれば、悲しさも嬉しさも感じない。楽になれる。


 ああ、でも、その前にひとつだけ。ひとつだけでいいから。


 最期に、お母さんに会いたい。