一生懸命に勉強して受験を終えて、僕達は同じ高校に進学できた。
でもやっぱり、僕は陽太とすぐに離れるべきだったんだろうな。勿論嬉しかったよ。陽太と、また一緒に学校生活を送れると思うと、胸が弾んだ。
まさか、七美も同じ高校に進学してたなんて、予想外だったけどね。教室で七美と会った時は驚いたよ。
……怜奈ちゃんとは、中学からの友達なんだっけ? 七美の友達の中でも、珍しいタイプの人だな、って思うよ。七美はいつもクラスの中心にいるような、目立つ人達と一緒にいたからさ。怜奈ちゃん、綺麗だけど、おとなしい人でしょ? 七美がああいう人と仲良くなってるの、初めて見たよ。
……陽太は、いつから怜奈ちゃんが好きだったんだろうね。
それを直接聞く勇気は無かったし、今では確かめようとも思わない。
僕は陽太と、七美は怜奈ちゃんと一緒にいたけど、次第に四人でいるようになったよね。
そしていつからか、陽太と怜奈ちゃんが二人でいるところを見かけるようになった。教室の端で窓の外を見ていたり、放課後に昇降口で何か話してたり。そういう姿をよく見かけるようになった。何を話していたかはわからない。聞くのもいけない気がした。
よく、同級生の女子達が話してたよ。陽太君と高嶺さんお似合いだよね、高嶺さんが彼女じゃなかったらチャンスあったのに、高嶺さんじゃ諦めるしかないよね、なんてさ。
その気持ち、何となくわかる気がする。だって、怜奈ちゃん、同い歳の女の子とは思えないくらい綺麗だったから。テレビなんてそんなに観ない僕ですら、芸能人にいそう、なんて思ったし。
そんな彼女が陽太と並ぶと、まさに美男美女だった。〝お似合い〟って言葉は、こういう時に使うんだろうな、って。とても納得したのを覚えてる。
正直ね、怜奈ちゃんが、羨ましかったんだ。
陽太とあんな風に並んで居られて。
僕は、陽太と手を繋いだことなんて勿論無いし、触れたことすら無かった。
いや、触れられなかった。
体育の着替えの時間なんて、ある意味地獄だったよ。何の躊躇いも無く服を脱ぐ陽太から視線を反らすので精一杯だったし。
あはは、こんなこと言われたら、引くよね。わかってる。いいんだよ、僕はどう思われようとも。それだけのことを言ってるんだから。でも、これが陽太にバレるのはさすがに嫌だな……。
できるなら陽太にも僕と同じように、友達以上の感情を持ってほしいけど、それはさすがに無理だって、僕も理解してるよ。
だからせめて、この想いがバレないようにして、隣に居るのを許される存在で在りたかった。
いつの日だったか、陽太に聞かれたな。男の人を好きになる男をどう思うか、って。
女子の間で人気だったドラマで、そういう登場人物がいたみたいなんだ。「俺はホモじゃない!」って叫んでは、同性を好きになった自分を否定してたんだって。その描写が毎回コミカルに描かれていて、かなり人気のくだりだったみたいなんだ。結局、その人が好きになった相手は男装した女の子で、つまり、ちゃんと異性を好きになっていて、悩む必要も隠す必要も無かったらしいんだけど。そのドラマを陽太も観ていたみたいで、毎回毎回、面白かった、って話してくれたんだ。
陽太は、いったいどういうつもりであんな質問をしてきたんだろう。
もしかして、実は僕の気持ちはバレてたのかな? 気持ち悪かったから、遠回しに伝えるために、あんなこと聞いてきたのかな。
僕がその質問に対してどう答えたか? 肯定するわけにもいかなかったし、かといって否定もできなかったな。そんな大したことは答えてないと思うよ。だって、僕が同性に、ましてや陽太本人に恋愛感情を抱いているなんて、バレるわけにはいかないからね。
僕一人が変な目で見られるのはまだいいよ。昔に戻っただけ、って考えれば済む話だから。でも、こういうのは絶対、相手も巻き込まれるんだよ。冷やかしの対象になって、笑い者にされる。そんなことに彼を巻き込みたくなかった。陽太までホモだと罵られて、卒業までずっと馬鹿にされ続けるなんて。ただ笑うためだけの、憂さ晴らしの玩具にされるなんて。
なにより、陽太に嫌われたくなかった。
男に好かれて嬉しい男って、いると思う?
僕はそうは思えない。
だって、明らかに異常だよね?
それくらい、僕にもわかるよ。自分はオカマなのかな、って思った時期もあった。
でも、好きになってしまったんだ。
陽太とはただの友達なのに。
バレたら間違いなく、嫌われる。
陽太と怜奈ちゃんの仲は、月日が経つごとに親密になっていったよね。遠くで二人の姿が見えて、口が動く。何て言っているのかはわからないけど、お互いを慈しむように微笑んで……。
あんな風に話せるのは、やっぱり男と女だからなんだ、って痛感させられた。男女のカップルだから、端から見ても嫌悪感なんて沸かないし、むしろ和やかな空気が、二人っきりのあの空気感が、とても魅力的に見えた。
怜奈ちゃんの手の甲に陽太が手を重ねて、何か話しておかしそうに笑っていた姿も見た。恋人っぽいな、って思ったよ。
僕達じゃ、あんな風になれない。僕と陽太が両思いだったとしても、堂々と恋人として振る舞うのは許されない。
手を伸ばしても伸ばさなくても、報われない。
誰かを好きになるって、こんなに苦しいんだね。
あぁ、違う。同性を好きになった僕が悪いのか。
『さくら』には、自然と足が向かなくなっていった。今年から、花凛さんはフランスへパティシエの修行に行っちゃったし、花凛さんがいなくなっちゃったから晴実さんもたまにしか来なくなっちゃったし、調子が悪いから、ってピアノを弾かなくなっていたし。それに、七美が一緒に帰ろうとするから、特に寄り道すること無く、家に帰るようになったな。
どうして、って……。あそこは僕と陽太の大切な場所だと思ってるからだよ。他のお客さんもいたんでしょ、って? いや〝僕と陽太の〟って、そういう意味じゃないよ。物理的な話じゃない、もっと精神的なことだよ。心の繋がりというか……。意味が分からない? わからなくてもいいよ。どっちみち、七美と行く予定は無いから。
四人で過ごした時間も勿論楽しかったよ。生まれて初めて、あんなに大勢の人と一緒に過ごしたからね。四人が大勢だなんて、七美にとってはそんな人数って思うかもしれないけど、僕にとっては凄いんだよ? 昼休みに陽太以外の人ともいたり、両親と陽太以外の人の連絡先を携帯に登録したり。昔の僕じゃ、考えられない生活だよ。
だけどね、陽太と二人で過ごす時間が減って、時々無性に哀しくなったんだ。
陽太が僕以外の人に笑顔を向けていたり、他のクラスメイトともメールをしてるって知った時だったり、陽太の演奏を随分と長い間聞いていないって気付いた瞬間だったり。
本当に、ふとした時に、陽太との間に見えない距離ができた気がした。
僕の心は満たされていくと同時に、別の場所に穴が空いて、その穴から今までの大切なものが、少しずつ少しずつ、流れ出ていった。
陽太、って彼の名前を呼ぶのすら抵抗を感じる時もあった。
僕は、彼を名前で呼んでもいいような存在だったか。親し気に話し掛けてもいい仲だったか。自分だけが、彼と仲が良いと思っているだけなんじゃないか。疑うことすらおかしくなるような、そんなことが頭の中を駆け巡って。次第に、ねぇ、って話し掛けるようになって。そうしているのは僕なのに、余計に寂しさを感じるようになった。
馬鹿だよね。本当に。
でももし僕が陽太を好きになっていなかったら、こんな不安を抱えなくてよかったのかなとも思ったんだ。
一学期の終業式のことなんだけどね。放課後、僕は美術の先生に呼び出されたから、七美達には先に帰ってもらうように言ったよね。その後陽太にも先に帰っておいてほしいって伝えたら、そんなにかからないだろうから待ってる、って言って、彼は教室に残ったんだ。最近陸とあんまり話せてない気がするし、久し振りに二人で帰ろう。そうだ、『さくら』にも寄らないか? そう言っていた。
陽太を残して職員室に行くと先生は、美大に行こうと考えてる人なら一度は憧れる、朔風美術大学の過去問をくれた。僕が中学の時にコンクールに出した絵を知っていたみたいで、もし興味があれば、って用意してくれたんだ。予備校の紹介もしてくれて。気が早いと感じたけど、悪い気もしなかった。
正直、絵を描いてどうしたい、とかは、やっぱりまだ全然明確に思い浮かばない。
だけど、もし、陽太がバイオリニストになって、その時僕がイラストレーターになっていたりしたら、CDジャケットのデザインを僕が制作できるのかな。そんな考えが頭を過ったんだ。
一通り先生の説明を聞いて職員室を出た時には、昼下がりの時間になっていた。こんな時間まで陽太を待たせてしまった。
急いで教室に戻ると、教室には陽太しかいなかった。窓際だけど、丁度柱で窓が無い自分の席に座って寝ていた。柱に頭を預けるようにして寝ていて、よくバランスが保てているな、なんて感心しながら彼に近付いた。
声を掛けてみたけど、起きなかった。なんだか起こすのも申し訳なくなって、窓から差し込む光の陰で熟睡している彼を、少し観察した。
細くて綺麗な髪、長い睫毛、緩やかなアーチ状の整った眉毛。少し高い鼻に、綺麗なフェイスライン。短い爪と、細長い指。なのに白い首には喉ぼとけがあって、彼の性別を如実に示していた。きめ細やかな肌は女子よりも美しく、薄い唇は今にも消えそうなピンク色をしていた。
あんなにまじまじと陽太を見たのは、多分初めてだ。彼が綺麗なのは知っていた。でも、改めて近くで見ると、触れることすら許されないような、だけど、独り占めしたいという欲求に駆られる美しさだった。
目が離せなかった。
このまま起こさずに、少しの間、見ていたいと思った。僕はもう一度陽太を眺めた。頭の先から視線を下に動かして、少し開いた唇で、目が留まった。
その時自分が何を思ったのか、今ではわからない。
気付いたら、引き込まれるように自分の唇を重ねていた。
このままではいけないと思って離したけれど、僕はもう一度、さっきよりも深く唇を合わせてしまった。
どのくらいそうしていたのかはわからない。理性を手繰り寄せて引き剥がした。
自分自身が怖くなって、少し離れた席に座って、陽太が目を覚ますのを待った。
彼が目を覚ましたのは、それから約二十分後。僕が帰って来ていると気付いて慌てていたから、今戻って来たところだからって伝えた。
そしてそのまま、中学の頃みたいに二人で下校して『さくら』に寄った。花凛さんが海外修行に行っている今、店主のフランス人のおじいさんと、その奥さんがカウンターに立っていた。
奥さんが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。
どこまでも黒くて底が見えないコーヒーが、昔はなんとなく怖かったんだ。どこが美味しいのかなんて、全くわからなかった。
今ではその黒さも苦さも平気になったし、むしろ美味しいと思うようになった。こんなことを言うのも変だけど、少しだけ大人になった気がするよ。
陽太とは、終業式の日以来、会っていない。
本当はもっと会いたい気持ちもあるんだけど、これ以上陽太に会ったら、僕の気持ちは歯止めが利かなくなりそうで怖いんだ。
陽太に嫌われないように、傷付けないようにするには、距離を取ることしか思いつかない。
傷付けない、なんて、寝てる相手に勝手にキスするような自分が言えることじゃないんだけどね。
この事実を知ったら、確実にショックを受けるよね。
男にキスされたなんてさ。
だから、これでいいんだ。
僕、明日引っ越すんだ。
父さんの転勤が決まってね。ちょっと遠いから、勿論学校も変わる。
しばらく陽太を忘れられないだろうけど、でも、新しい土地では上手くやっていくために、携帯電話の番号もメールアドレスも、新しくしたんだ。あと、連絡先も、両親以外削除した。ごめんね、七美もだよ。
こっちの知り合いと連絡取ったりしたら、絶対陽太が今どうしているのかが気になるし、会いに来ちゃうかもしれない。だから、彼に繋がるものは全部、断ち切りたかったんだ。
初恋の相手が、友達に、男になるなんて、想像もしてなかった。
でもきっと、それだけ陽太は僕にとって特別だったんだ。
陽太以上に好きになる人が、向こうでできるかわからない。
もう誰も恋愛的な意味では好きになれないかもしれない。
だけど、もし次陽太に会う時は、絶対に嫌われない、陽太に相応しい、綺麗な人でありたいんだ。
その時は、陽太は有名なバイオリニストになっていて、僕は彼のCDジャケットのデザインを担当できるようなイラストレーターになれてたらいいな。
そんな日がくるかもわからないし、連絡先もわからなくなった今、再会できるかもわからないけどね。
これから先、一生会えなかったとしても、この広い空の下のどこかで、陽太が笑顔でいられるなら、それでいいとも思う。
そろそろ雨が降ってきそうだね。ごめんね、長々と付き合わせちゃって。しかも気持ちの悪い内容だったよね? 急にこんな話してごめんね。でも、引っ越す前に一度気持ちを全部吐き出したかったんだ。両親に打ち明けるわけにはいかないし、陽太本人には絶対に話せないし、怜奈ちゃんはこんな話できるほどの仲じゃないし……。話せる相手が七美しかいなかったんだ。聞いてくれてありがとう。七美がいてくれてよかった。おかげで少し心が軽くなったよ。傘? 持って来てるからいいよ。
じゃあ、バイバイ、七美。
約一カ月半振りに足を踏み入れる教室は、何だか変な感じがする。
これからまたいつも通りの学校生活が始まるのに、ちょっとよそよそしい気持ちになってしまう。三日も経てば、そんな気持ち、消えてしまうのだろうけど。
クラスでは一昨日から昨日にかけて放送されたチャリティー番組の話で盛り上がる女子の集団がいくつかあった。よく聞いてみると、番組の内容ではなく、メインパーソナリティーを務めた五人組のアイドルグループの話で盛り上がっていた。その話を聞き流しながら、自席へ行く途中、「高嶺さんおはよう」の言葉にだけ挨拶を返した。
私はいつも、四人の中では三番目に登校している。一番目は七美で、二番目が陸。
二人は幼馴染だし家も近いと聞いていたから一緒に登校しているのかと思ったけど、そうでもないようだ。七美が一緒に登校しようと誘っても、陸は「朝から誰かと喋っていないといけないのはキツい」と言って断るらしい。
でも、私が教室に来た時には、大抵七美は陸の席で何かを話している。一方の陸は、少し眠そうな目をしながら七美の話を上の空で聞いている、というのがいつもの風景だ。そこに私が加わって、陽太が来たら、女子二人に囲まれていた陸は逃げるように陽太のもとへ駆け寄って行く。これが、私達のお決まりの朝だった。
でも、今日は違っていた。
普段私よりも早く来ている二人の姿が無かった。
陽太がいつも通り、ホームルームの十五分前に到着しても、一向に姿を現さなかった。
「おはよう」
「おはよう怜奈。今日、二人はまだ来てないの?」
「そうなの。どうしたんだろう。二人揃って、遅刻?」
「まさか、陸が遅刻するはずないし……。 七美ちゃんだって、陸に合わせて早く来てるんだよね?」
「そうよね……。欠席かな……?」
携帯を開いて画面を確認しても、受信メールは一件も来ていなかった。休みだったら、連絡が入っていてもいいのに。陽太も同じように自分の携帯を開いてメールを確認している。受信メールは、一件も無いようだ。
二人が到着するのを待っている間に、ホームルームが始まってしまった。そこで私達は驚きの事実を知る。
「一色君だが、ご家族のお仕事の都合で今朝引っ越したそうだ。急なことでクラスメイトに挨拶ができなかったと――――」
途中から担任の言葉は耳に入らなかった。ざわめきが広がる教室の、窓際の後ろから三番目の席に座る陽太を見た。
そこだけ時が止まったかのように、陽太は動かなかった。
見開かれた瞳が揺れている。
私の座る一つ右隣の列の一番後ろの陸の席を見て、続いて一番廊下側の前から二番目の七美の席を見た。
「前田さんは、体調不良で今日はお休みするそうだ。始業式からクラスメイトが少し減っていて寂しいが、二学期もよろしくな」
七美が、体調不良。
このタイミングで?
どこか違和感を覚えながらも、私にはどうすることもできなかった。
ホームルームが終わると、廊下に出席番号順に並んで、体育館へ向かった。私よりも前にいる陽太の顔は見えなかったけれど、終始少し俯きがちで、陸が引っ越したことに相当ショックを受けているようだった。
わざわざ聞かなくても、彼の反応を見ていたらわかる。
あの陽太でさえ、陸が引っ越すことを教えてもらえなかったのだと。
始業式が終わって大掃除をして夏休みの宿題を提出して。夏休み明けだというのに忙しなく流れる時間に振り回されて、昼前に帰りのホームルームを終えて、部活生は準備をするために教室から出ていった。
携帯を操作して、耳に当てて、また携帯をおろす陽太。
「陽太、陸は……」
彼のもとへ行って、陸について聞こうとしたけれど、その後の言葉が続かなかった。
「……メールしたけど、宛先不明で戻って来て……。電話も、もう使われてない番号だ、って……」
その顔は、とても見ていられなかった。
クラスで見る彼の表情はいつだって輝いていた。
なのに、今の彼の表情ときたら。
大切なものを失って、喪失感に満ちた、そんな表情。
どこか不安定で、手を伸ばしても掴めないまま、消えてしまいそうな……。
こんな陽太、初めて見た。
七美はそれから一週間、二週間と学校を休んだ。
欠席理由は体調不良と聞かされたけれど、まだ残暑が厳しい季節柄、インフルエンザに罹るわけもないから、風邪の類でないとはクラスの誰もが察していた。
何らかの理由で、彼女は学校に来られなくなってしまった。
それはきっと、陸が関係しているのだと、これも皆、なんとなく察した。
陸と七美は付き合っている。
そう思っている人が大半だ。
「付き合っているの?」と問われた陸は興味無さそうに「別に」と言い、七美は「やだぁ、もう」と冗談っぽく笑いながら受け答えていた。その、満更でもない七美の顔と、はっきりと否定しない陸。二人を見て、「本当は付き合っている」と全員が勘違いしているだろう。
陸については本当に至極どうでもいい内容だったから適当に答えていただけだ。しかし七美は、その勘違いが事実になればいいと願っていたに違いない。
確信を持って言える。中学の頃からずっと、彼女の恋話に付き合ってきたのだから。
――陸はね、凄いんだよ。絵がすっごく上手くてね。ただ上手いだけじゃないの。他の人には思い付かないような独創性があって。でも、色合いはとても優しくて綺麗なの。
――無口で素っ気ないけど、口下手なだけで優しい人なんだ。
――生き方も芯が通ってて。意志が強いっていうのかな。そういうところがカッコいいの。
中学生の、あれは、いつ頃だっただろう。遠慮という空気感が漂っていた時期を通り過ぎて、信頼というにはほど遠いけれど、慣れや安心感がお互いの間に漂い始めた頃だったはず。
彼女が初めて好きな人がいると打ち明けてきた時、目の前が暗くなった。
いつかこんな日がくるなんて、最初からわかっていたのに。でも、それはもう少し先だと高を括っていた。そんな、不意を突かれた出来事だった。
私は、他の誰よりも七美の近くに居た。
でも、彼女には私と出会う前からずっとずっと好きだった人がいる。強くまっすぐに、その人だけを想い続けていた。
七美を好きだと言う男子達を、心の片隅で哀れむと同時に、私もその人達の仲間なのだという現実が、深く突き刺さった。氷の棘のように冷たくて、対照的にドクドクと生温かいものが傷口から流れた。
私の気持ちなど知る由もなく、彼女の口から弾丸のように陸の魅力と想いが絶え間なく発せられた。
彼女は、これを聞く私の気持ちを考えたことはあるのだろうか。
――……キモい。怜奈ちゃん、冗談だよね? 冗談でもキモいよ。私達、女の子同士だよ? ありえないでしょ。オカシイんじゃないの?
七美への非難とも陸への嫉妬とも取れる感情を抱く度に、小学生の時に言われた言葉が頭にこだまして、脳を冷やしていく。
この言葉を言った彼女の顔すら思い出せないけれど、言葉だけは鮮明に残っている。
その後自分に向けられたクラス中の冷たい眼差しと心無い言動よりも、彼女からの言葉の方が何倍も威力があった。
身体が震える程の温度を持ったこの言葉は、私を冷静にさせてくれる。
私も七美も、「女の子同士」。
そう、だから、私達がこれ以上どうこうなる希望なんて無いし、「キモい」し「ありえない」し、「オカシイ」んだ。
そうやって、冷静に現実を見つめられる。
「怜奈……、怜奈!」
陽太に呼ばれてハッとした。心配そうに見つめてくる彼と目が合う。
「大丈夫?」
「ちょっと、ボーっとしちゃった」
昼休み、彼の前の人の席を借りて、机を並べて向かい合って昼食を摂っていた。卵焼きを口に運ぶ。ほんのり甘い。卵焼きは甘い物だと思っていたけれど、それは味付けの問題で、わが家の卵焼きが砂糖多めの甘口なのだと知ったのは、中学生の頃、七美とお弁当を作って公園でピクニックをした時だった。
よく女子力強化と称した料理会をしていた。全て、いつか陸のために作るのだと言っていた。だったらせめて、その時がくるまでは、私は陸が座るはずの席に代わりに座っていたいと願っていた。
平気だと、何ともないと示すためにそのまま箸を進めたが、陽太はなおも私の様子を窺がうように見つめる。
そんな彼に気付かないフリをして……、否、そうするのが彼の視線を逸らすのに最適だと感じ、食べ進める。薄黄色のお弁当箱に詰められた、彩り豊かな食材。野菜、肉類、バランスよく入っていて、親の愛情を感じる。
両親は、私が〝普通〟じゃないと知っても、変わらぬ愛情を注いでくれるのだろうか。
それとも、やっぱり、「オカシイ」子だと思うのだろうか。
必死で病院を探したりするのだろうか。どこも悪いところなんて無いのに。
沈黙が流れる私達の間に、遠くから囁き声が聞こえて来た。「七美ちゃんと一色君がいなかったら、陽太君と高嶺さんカップルだけになるのか」「やっぱりお似合いだよね」「七美ちゃん来たら、邪魔者になっちゃうよね」「遠距離になったら別れる率も上がるしね」「三人になると、七美ちゃんがいるより、あの二人だけの方がバランスいいよね」勝手な噂話と価値観が最大限に混じったそれは、陽太にも聞こえているはずだ。
ほんの少し気まずい空気が流れるが、人との衝突を好まない陽太は、何も言葉を発さなかった。
「……怜奈、七美ちゃんの家、行ってみたら? もうすぐで一カ月経つし、さすがにこれ以上休むのはまずいんじゃないかな」
ここで、「一緒に行こう」と言わない彼が、私は好きだ。いつも一緒にいたメンバーなんだから、一緒にと誘うのが自然な流れに見えるけれど、自分が出るところ、出ないところ、微妙なラインを把握しているのか、そういう立ち回りができる。陸とは大違いだ。
「そうね。そうしてみる」
その言葉を聞いてようやく、彼も再び箸を進め始めた。
七美が欠席し始めて一カ月経った頃、休日に彼女の家に行った。いつもどおり両親は仕事でいなかったけれど、彼女の部屋でベッドに並んで座った。
ぱっつん前髪に重めのボブ。毒リンゴを食べて眠りについてしまうお姫様をイメージしてカットしてもらっているという髪はセットされておらず、所々跳ねていた。
呪いによって眠りについてしまう童話のお姫様はもう一人いる。生まれた時に魔女に呪いをかけられ、十六歳の誕生日に糸車の針に指を刺して眠ってしまうお姫様が。
でも、七美はそのお姫様よりも、毒リンゴを食べて眠りにつくお姫様が好きだった。両者共王子様のキスで目覚めるところは一致しているが、二人の姫の生い立ちを比べた時、後者がいいのだと言う。
魔女の手から逃れるために森に匿われるよりも、女王に美貌を嫉妬され、殺害を命じられた家来にも見逃してもらえ、初対面の森の動物達に愛され、小人達から親切にされて、楽しく暮らせる方がいいからだそうだ。確かに、世界的に有名な会社の初の長編アニメ作品だからか、他のお姫様に比べて困難という困難はなく、歌って踊って楽しく過ごしている様子が印象的な作品だ。
セットされていないのは髪だけではなかった。いつもならビューラーでカールさせた睫毛を透明のマスカラで固定しているのに、ただ前に生えただけの睫毛が、彼女のぼんやりとした目を縁取っていた。
抜け殻のようになった彼女は、黙って俯いていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。私の肩に額を当てて俯きながら、誰に言うわけでもなく独り言のように呟かれていく。
「陸は、陽太が好きなんだって」「陽太に絵も描いたらしいの。あたしには一枚も描いてくれなかったのに」「陽太を傷付けそうだから、引っ越しで離れられて安心したんだって」「なんで陽太なの? アイツは男じゃん」「あたしはずっとずっと陸だけを想って生きてきたのに」
ついに、彼女は知ってしまったのか。そう思った。
七美がどんなに陸を好きでも、陸は陽太が好きなのだとは気付いていた。
だって、他人にも周りの事柄にも無関心なあの陸が、陽太のことになると途端に食い付いてくるのだから。
幼馴染の七美にも人並みの興味を示さないクセに。絵のことしか考えてないクセに。
陽太だけは、別だった。
彼が関係してくると、目に光が灯るように、労わり、思いやり、執着、独占、人間らしい姿を見せた。
彼が唯一、本当の意味で認めていたのは、陽太だ。
認めていたし、友人だったし、それ以上に、彼を好いていた。
すぐにそれに気付いた。
中学で七美からたくさん恋愛相談をされてきた。その相手がどんな人なのか。会うのを楽しみにしていた。
実際に自分の目で見てみると、想像していた人と全然違った。
七美が好きになるくらいだから、相当のイケメンだろうと思っていたけれど、クラスでも目立たないを通り越す部類に入る地味な人で。素っ気ないところがあると言っていたからクールな人なのかと思っていたけれど、ただ他人に無関心なだけで。絵を描くのが上手くていつもそれに熱中していると言っていたけれど、自分が興味のあるものにしか関心を向けない、身勝手で自分本位な人だと感じた。暗い雰囲気で、勿論社交的な面も、必要最低限の愛想も無い。高身長でどこか色気のある顔立ちだけど、全く魅力を感じなかった。
七美とは、不釣り合いな人だと、強く思った。
そして、陽太とも出逢った。
男性アイドルユニットにいそうな、大きな目と綺麗なフェイスライン。背筋もスラリと伸びていて、平均よりもやや高い身長がさらに高く見えた。いつも笑顔で、誰とでもすぐに打ち解けてしまう人懐っこさ。相手が気持ちよく話せるように相槌を打てる会話上手なところも、人気の理由の一つだろう。
どちらかと言えば、陽太の方が、七美とお似合いだと思った。
私から見た陸が魅力に欠けるだけで、七美から見たら全く違う魅力を持っているのだろうし、私が報われない七美の代わりに歪んだ捉え方をしているのかもしれない。
けれど、陸が陽太に恋しているという事実は、私からしたら一目瞭然だった。
中学の時から、ずっと彼女を見つめてきた。その時から、どうか彼女の恋は報われて欲しいと願っていた。
なのに。その願いも、彼女の願いも叶わないと思い知った記憶は、まだ新しい。
「……陽太がいなければ、あたしは陸と結ばれていたはずなのに」
「……」
七美は陸の幼馴染だし、陽太を除いて、唯一比較的まともに彼と会話ができた人物でもある。彼女の考えに同意はできないが、完全否定をできるものでもない。
「どうして皆、陽太なの……? 陸も、怜奈も……」
「え……?」
「何で皆、あたしを選んでくれないの……?」
「ちょっと待って。何で私も? 私が陽太を? いつ選んだの?」
私は七美を優先してきた。彼女が陸と話している時は邪魔をしないよう、離れて二人の様子を見ていた。陽太はそんな私と一緒にいるようにしていた。だから必然的に、陽太と一緒に居る時間が多くなっていたのは事実だ。
だって、いくら友達でも、好きな人と二人でいるところに入っていけるほど、無神経ではない。
「…………だって、陽太と付き合ってるじゃん」
少しだけ声のトーンがいつもより低い。
「……いつから陽太と付き合ってたの? 何で言ってくれなかったの?」
責められているように聞こえるのは、私が七美のこの気持ちに気付かなかったからだろうか。喉が塞がれたみたいに、声が出ない。
「ねえ、怜奈」
「――っ付き合ってない!」
顔を上げた七美と目が合って、やっとの思いで出た言葉は、自分でも驚くくらい大きかった。七美も自分自身も一瞬時が止まる。
「陽太と私は、付き合ってない。それどころか、私は誰とも付き合ってない」
今度ははっきりと、冷静に告げる。
七美と陸が付き合っていると言われ始めたのと、陽太と私が付き合っていると言われ始めたのは、どちらが先だっただろうか。
同性で一緒に居たら「友達」、大人の男性と女性と子供が一緒にいたら「家族」と認識されるように、異性で一緒にいたら「恋人」と判断するのは、自然で当たり前な思考だ。
私達が付き合っているという噂が流れていると知った時、私はその噂を曖昧に受け流した。そうするだけで、肯定したと受け取られる。私にとって、都合がよかった。
クラスの中心にいるように見えるけれど、実際は聞き役にいる陽太は、空気を読むのも距離の取り方も上手かった。七美と陸が話している時、二人から離れたところの窓から外を見て気を紛らわそうとしていたら、そっと他愛もない話題を持ちかけてくれたり、目立つのが嫌いな私に合わせて周りに聞き漏れない声で会話を続けてくれた。
陽太に試しに手を握ってみてもらったことがある。全くドキドキなんてしなくて、やっぱり私は〝普通〟ではないのだとわかり、おかしくて、悲しくて、それなのになぜか口角は上がって、笑うような表情になった。陽太も、同じような表情をしていた。
陽太とのこういったやり取りが、誤解を招いていたとわかってはいた。その上で、私は彼と一緒に居た。
まさか、良しとしていた噂が、彼女を傷付けていたなんて。彼女もこの噂を信じていたなんて。そんなつもり、なかったのに。
「……本当?」
「こんな嘘言って、誰が得するの?」
「そっか……。よかったぁ」
私の知っている、明るい声に戻る。心なしか、表情も少し明るくなった。が、そう思ったのも束の間。
「……何で、陽太なの? 何で陽太が陸に選ばれているの? 何で、いつもいつもアイツばっかり……!」
声に、明らかな憎しみが籠っていた。
七美が陽太を嫌っていることも、随分前から気付いてはいた。
彼女にしては珍しい。個人的な、マイナスの感情を露にするなんて。
相手を好いている、そういう感情は臆面もなく外に出していくけれど、誰もがあまり聞いていたいと思わない話や個人的なマイナスの感情は、内に秘めておく人なのに。
「……七美、学校はどうするの?」
「陽太がいるなら行きたくない」
即答だった。
「あんな奴、死ねばいいのに」
「……」
「だって、そうでしょ? 陸はあんな人じゃなかった。簡単に人に心を許すような、ましてや男を好きになるような人じゃなかった」
「……でも、死ねばいいは、言い過ぎよ」
「じゃあ居なくなればいい」
彼女を変えてしまったのは、いったい何なのだろう。
七美の言う通り、陽太がいなければこんなことにはなっていなかったのだろうか。
彼女は変わらずに、毒リンゴを食べて眠りについてしまうお姫様のように、純真無垢な顔で笑ってくれていたのだろうか。
誰にも相談できない疑問が、私の中だけで反芻された。
「七美ちゃん、どうだった?」
翌日、学校で陽太に訊ねられた。
「大丈夫、ではなさそうかな」
「やっぱり、陸が何も言わずに引っ越しちゃったから?」
「うん……」
それ以上は言えなかった。
いつも一緒にいたのに、実は嫌われていた、なんて……。まだ高校生になって一学期の間しか一緒に過ごしていないけど、それだけの時間を共にしていた人から嫌われていたなんて、又聞きさせるものではない。
でも……、もしそれを口にしたら、彼はどうするのだろう。そういうことならと気を回し、私から離れていくのだろうか。そしたら、七美は学校に来てくれる? ……いや、それだけでは、きっと来ない。
私はできる限り、七美の味方でいたかった。七美に協力したかった。
だから、本当は聞きたくもない恋愛相談にのってきた。絶対に私には振り向いてくれない彼女に向き合ってきた。
彼女が陸と結ばれて、幸せになるのなら。
そう思ってきた。
だけど、陽太と陸に出会ってすぐに、七美の幼少期からの淡い恋心は実らないとわかった。
長年一途に想い続けて、それでも叶わないとわかったのは当人ではなく、私だった。
七美に教えた方がよかったのかもしれない。
そしたら、彼女が陸を想った時間の何もかもが無駄だったということも、もっと早くに気付けたし、その時間を別の何かに充てることだってできたはずだ。
陸について楽しそうに話す七美は見られなくなるけれど、私はそうするべきだった。
いや、でも。
だから、言えなかった。
言ってしまったら、七美は相当落ち込むと、容易に想像できた。
ハッピーエンドの物語しか世の中には存在しないと信じているような、童話のお姫様。
それが七美だから。
彼女が、自分が報われない現実に、耐えられるなんて思えなかった。
だから……。
私は言わなかった。
知っていて、黙っていた。
七美のために……。
……本当に、七美のため?
本当は、最悪の形で失恋したら、もう陸を諦めてくれるとも思ったんじゃないの? 陸への想いが実らないとわかったら、いつも隣で支えていた私の存在に、少しでも目を向けてくれるかも、なんて期待したんじゃないの?
…………きっと、全部だ。
七美のためだと、彼女のためを想っての行動だと言いながら、結局私は全部、自分のためにやっていた。
なんて、卑怯なのだろう。
いつだって、恋は私の心を醜くしていく。
私が、〝普通〟の女の子だったら、こうならずに済んだのだろうか。
じゃあ、〝普通〟じゃない私は、どうしたらいいのだろうか。
七美は最悪の形で失恋したけれど、私になんて目もくれず、陽太への嫉妬心を強くしただけだ。
少しは私を頼ったり、縋ったり、恋人でなくても、せめて、そうあってもいいのではないだろうか。友達って、親友って、そういう、親や恋人に吐き出せない気持ちを吐き出せる存在ではないのだろうか。彼女はそういう風に私を信頼してくれてはいないのだろうか。
明るくて、楽しくて、そんなお気楽な時間を過ごすだけの関係が一番平和なのかもしれない。
でも、私は恋人でなくてもいいから、心の深い繋がりがほしかった。
私には一生、〝普通〟の生活は訪れないのだから。せめて、二番でも、三番でもいいから、そういう存在になりたかったのに。
――居なくなればいい。
彼女の言葉が頭に響く。
……何も望みが無い私が少しでも彼女に振り向いてもらうためには、受け身でいるばかりではいけないんだ。
それから二週間後の放課後だ。
雨が降っていた。土砂降りと言うに相応しい天気の所為で、景色は朝から灰色だった。もう残暑は無くなっているはずの季節なのに。梅雨の時期よりもジメジメと蒸した日で、朝から不快感が身体に纏わりついていた。風もなく、息苦しさを感じた。
夏休み前までは陸と七美と陽太の四人で帰路を辿っていたのに、夏休み明けから一カ月半、今では陽太と二人肩を並べて歩いている。その姿を見て、「やっぱりあの二人お似合い」「高嶺さんと陽太君だったら仕方ないって感じ」「むしろ目の保養」なんて言葉が遠くから聞こえてきていた。その言葉を、私は今日も聞こえないフリをして当然のように陽太と過ごしていた。
同じ制服を着た人が散り散りになったところで、足を止めた。
「――あ、ごめん、携帯忘れた」
制服のポケットに手を入れながら言う。
「取りに行ってくるから、先に帰ってて」
「そんなに学校から離れてないし、一緒に行くよ」
「ううん、雨降ってるし、先に帰ってて」
その言葉を聞いて陽太は、遠慮がちに「気を付けて」と言った。私はその言葉を聞いて学校へ歩き始めた。少ししたところで振り返って、陽太の姿を確かめる。ゆっくりとした足取りだが、そのまま歩き進めていた。
私は学校へ戻り、廊下にも教室にも人気が無いことを確認して、そっと中へ入った。携帯は、鞄の中に入っていた。
雨で一日中閉ざされていた窓に、しとしとと雫が流れている。その窓に映し出された自分の姿は斑点模様で、酷く醜く見えた。酸素を吸いこもうと自然と大きくなる呼吸で、自分の肩も大きく上下する。その姿が、余計気持ち悪かった。湿気の所為でいくら息を吸っても新鮮な空気が体内に取り入れられている気がしなくて、余計に苦しくなる。
こんなところ、早く出てしまおう。
誰もいない教室で、綺麗に掃除された黒板を見つめた――。
学校を出ると、走ってもとの道を進んだ。走っている所為でローファーも靴下もずぶ濡れになったが、一刻も早く学校を離れたかった。
パシャパシャと響く足音が、誰かに追いかけられているようで、気味が悪い。その音から逃れるように、さらに足を速く動かす。追って来る音も加速した。
右手に持った傘が不安定に揺れる。無造作に傘から雫が落ちる。その雫がさらに手元と足を濡らす。雨を含んだ靴下はローファーの中でぐちゃぐちゃと音を立てている。自分の体重で水分が押し出され、行き場を失ったそれらがまた靴下に吸収される。泥水にでもはまったように、重たくて、一歩も前に進んでいる気がしなかった。
雨が、より一層激しさを増した。地面に叩きつけられる無数の粒が、花火のように轟いた。
歩道橋が見えてきた。見慣れた綺麗なシルエット。陽太だ。一段一段、ゆっくりと昇って行く。まるで私が追い付くのを待っているようだった。ズキンと心臓が痛む。
そんな彼に、せめて追い付かないといけないと思った。
横断歩道が赤になったから、一度立ち止まる。息を整えるが、喉の奥が切れたように痛い。
あと二、三段で階段を昇り切る彼の前に、人が現れた。レインコートを着て、帽子を目深に被っていて、おまけに雨で視界が悪い。顔ははっきりと見えなかった。
でも、なんとなく、彼をその場から遠ざけないといけない気がした。
走った所為で乱れた息を整えて、彼の名前を呼ぼうとした。
次の瞬間、彼は歩道橋から転落した。
雨が地面に叩きつけられる音がうるさい。彼が転落していることなど、周りの人は気付いていない。彼の手から投げ出された紺色の傘が宙を舞っている。傘が地面に落ちるよりも、彼が一番下まで転がり落ちる方が先だった。
その場で蹲る彼を見て、人が転落したと、ようやく周囲の歩行者は気付く。だが、彼に近付いて声を掛けようとする人はいない。戸惑った様子で、少し距離を取って見つめている。
「陽太!」
やっと出た私の声は、遅過ぎた。
こんなこと、私は望んでいなかった。
信号が青になった瞬間、先ほどよりも足に力を込めて、走り出した。ぐちゃぐちゃと鳴る不愉快な足元は、私をあざ笑うように、下へ下へと引きずり込んでいた。指先に僅かに残った粉っぽさを雨で落としながら、陽太のもとへ駆け寄る。彼は蹲ったまま、起き上がろうとしない。血は出ていなかった。
だが、痛みに耐えるように苦痛を滲ませながら、左手を抑えていた。
翌日彼は、左手に包帯を巻いて現れた。彼が入るなり教室は異様に静まり、淀んだ空気が流れた。包帯が注目を集めてしまっているのかと思った彼は、
「ほら、昨日雨降ってただろ? 帰りに歩道橋から滑っちゃって」
いつも通りに笑ってみせて、周りを落ち着かせようとしていた。
「手だけで他はどうもなってないし、利き手でもないからさ。多少不便ではあるけど、まぁなんとかなるよ」
彼が歩道橋から落ちて、病院まで送ったのは私だ。他に怪我した箇所はないし、脳に異常はないと、私も聞かされた。
利き手じゃないとはいえ、バイオリンを弾くには左手が必要不可欠だ。左手は技術の塊。後遺症が残るほどの大怪我ではないのが救いだが、大事な手が傷つけられたことに変わりはない。
だが、今教室にいる者に緊張を走らせているのは、彼が包帯を巻いていたからではない。
皆の反応がイマイチおかしいと気付いた彼は、ようやく黒板の惨事を把握した。
そして、言葉を失い、立ち尽くした。
【朝倉陽太は一色陸とデキていた】
デカデカと書かれたその言葉は、性質が悪かった。
二人をフルネームで書くことによって、書き手が女子なのか男子なのか、容易に想像が付かないようにされている。定規を使ったような直線的な文字は筆跡を誤魔化していて、ますます犯人がわからない。
しかも、こんなセクシュアリティな内容を書くなんて、悪意しかない。
だけど、これを書いた犯人なんて、皆にとってはどうでもよくて。陽太に対する「疑念」を抱かせるには、十分だった。
陽太は、陸と一番仲がよかった。誰にも何事にも興味を示さない陸も、陽太にだけは関心を寄せていた。クラスの誰が見ても明白だった。
一色君って、七美ちゃんと付き合ってたんじゃないの? 陽太君、高嶺さんは? 二人して七美ちゃんと高嶺さんを弄んでたの? 前田さん、陽太の所為で学校来てないわけ? なんだよ、アイツ等、ホモかよ。ホモを隠すためにあの二人と付き合ってたのか? キモ。
本人がすぐそこにいるというのに、憚る気があるのかという勢いでヒソヒソと話し始めた。
「高嶺さん、大丈夫?」
近くにいた女子に声を掛けられる。
男同士とか、マジでキモイよね。高峰さんカモフラージュにされてたってことだよね。私達は高嶺さん達の味方だよ。
大丈夫の問いをきっかけに、周辺にいた女子に慰めと同情の言葉を掛けられるが、耳に入って来なかった。座っていたのに、立ち眩みでも起こしたかのように、今にも目の前が暗くなりそうだった。でも、私がそうなるわけにはいかない。
人の隙間から、陽太を見た。
彼は青ざめた顔で、私を見ていた。
陽太の周りには誰もいなくなった。
特に男子は必要以上に距離を取っていた。警戒するように、彼の半径一メートル以内には近付こうとしなかった。
授業中は自席につかないといけないけれど、それすら抵抗するように、陽太の前後左右の席の人達は皆、彼とは反対方向に机をずらしていた。プリントを前列から後列の人へ回していく際も、彼の後ろに座っていた女子は、彼から回って来たプリントの端を摘まむように持ち、彼が触れていた箇所を手で払い、その部分を触った自らの手も払っていた。
陽太が弁解する機会も無く、そういう行動が、徐々に蔓延していった。
男子はふざけ合っている最中にふと身体が彼に当たろうものならば、飛び跳ねるようにしてその場を離れた。何かと理由をつけて彼の側へ近付いていた女子達も、彼に背を向け、遠巻きからヒソヒソと話をするようになった。
彼を避けるのが当たり前になっていき、彼がいる空間は、誰もいないかのように空白となった。
ぽつんと自席についている彼のもとに、私は行けなかった。「被害者」と認識された私が彼のもとへ行けば、事態は好転したかもしれないのに。
その代わりに、人目を憚るようにして、放課後にファミレスでこっそり会った。
ドリンクバーとポテトを注文する高校生の男女は、店員から見たら、長居を兼ねた放課後デートにでも見えるのだろうか。水の入ったグラスを机に置く音は妙に大きく響いた。ハンディに打ち込んだメニューを復唱するやいなや、バタンとわざとらしく音を立てて閉じ、「ドリンクバーはあちらになります」とどこを指しているのかもわからない手を下ろし、早々に立ち去った。
「陽太はアイスココア?」
「俺も行くよ」
「私行くから、荷物見てて」
教室で一言も話していないのが嘘のような会話だった。彼の返事を待たずに、席を立つ。
一瞬でも彼の前からいなくなってしまいたかった。彼の視界に入るのが耐えられなかった。一、二分だとしても、彼の視線から逃れたかった。
アイスココアを彼の前に置き、ウーロン茶を自分の前に置く。彼の「ありがとう」を聞きながら、ストローを包装していた薄い紙を千切り、ストローをコップに差し込んで飲む。焦げたような味が広がった。
ドリンクを飲むのを言い訳に、二人して目を合わせず、ポテトを待っているようだった。数分後に「こちらフライドポテトになります」と言いながら真ん中に置かれた音は、やけに大きく聞こえた。油の匂いが鼻を刺激する。ドロドロドロドロと。まるで私みたいだ。
「……ごめんなさい」
なおも私は卑怯だった。
何に対して謝罪しているのかもわからない言葉を、彼に言った。
「教室ではこのまま俺に近付かない方がいいよ。怜奈まで変な目で見られちゃうから。それに、こういうのは大抵、ターゲットは一人って決まってる。庇うような態度を取ったら、怜奈が辛い思いをするよ」
その言葉でゆっくりと顔を上げた。微笑をたたえるその表情は、痛々しかった。
「噂がなくなったら、また前みたいに話そうよ」
「……無くなる、のかな」
そんな言葉を言う自分を、改めて酷く醜いと感じた。
誤魔化そうとしてウーロン茶を飲む。喉に何かが詰まっているようで、二口飲み込むのが限界だった。
陽太は、私の言葉になかなか返事をしない。
彼もわかっているのだろうか。
こういう状況になった時、真実や事実なんて、何の力も持たない。
〝正しい〟のは、〝多数派〟なのだから。
それを、私はよく知っている。
「怜奈は、何も心配しないで」
その言葉に、私は何も言えずにいた。
「ほら、ポテト、冷めちゃうよ」
皿に伸びる手だけが視界に映る。なんともない、綺麗な右手。この手で弓を持ち、バイオリンを奏でていた。御影中に通うほど、音楽に命を燃やそうとしていた。
そこまで考えて、ふと思った。
陽太と陸は、なぜ、御影の高等部に進学しなかったのだろう。
音楽も絵も、御影に行かないとできないわけではないが、環境を考えたら絶対高等部に進学していた方がよかった。
「ねぇ、陽太って何で――」
そこまで言って、再び口を閉ざした。
音楽に命を燃やそうとしていたのに、普通の公立高校に通っているんだ。
相応の理由があるに違いない。
私が無遠慮に立ち入っていい過去だとは、思えない。
「何?」
「ううん。やっぱり、何でもない」
陽太は、夢破れてここへ来ているかもしれないのに、それを暴くなんて、私にできるわけがない。
彼に倣って皿に盛られたポテトを摘まみ、口へ運ぶ。思っていたよりもしょっぱい。それでも陽太は平気そうに食べていた。
あの日から、体内に石でも詰め込まれたようにずっと重苦しかった。
このまま真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。深く暗い穴の底に。
童話に出てくる悪い狼が、こうやって死ぬ物語があった気がする。私はこの先どうなるのだろう。悪い狼のような結末を迎えるのだろうか。それならこんなに相応しい結末はない。私には、ピッタリの役だ。
夏休みが終わって三カ月目に入った。
黒のセーターだけでは肌寒いと感じるようになり、紺のブレザーを羽織って登下校するようになっても、七美は学校に来なかった。
『陽太がいるなら嫌だ』
陽太と距離を置いていると伝えても、彼女の意志は頑なだった。メールでただ一文だけ送られてきて、それがよくわかった。
陽太の左手の包帯は無事に外され、両手を使った生活に戻っていた。心なしか、表情が幾分か柔らかくなった気がする。
でも、それがよくなかった。
帰る場所を失くした捨て犬のように、俯いて椅子に座っている彼を見て満足していた人達は、それが面白くなかった。
彼の赤ペンが無くなったのが始まりだった。数学の授業中に気付いたらしい彼は、ペンケースの中をガチャガチャと探し、続いて机の中、鞄の中と探していたが、やがて諦めたように再びノートにペンを走らせていた。
何かのタイミングで失くしたのだろう、と彼は言っていた。その日は、担当教員の都合による科目変更で、教室を移動して行う授業が四つもあった。その時に落としてしまったのかもしれない、と彼はなるべく気に留めないように言っていた。
その、たった一本から始まり、マーカー、消しゴムと、ペンケースの中身が次々と紛失していった。物を失くすにしては、頻繁過ぎる。自分の不注意ではないと確信してからは、彼の顔色は悪くなっていった。
「また、何か失くなったの?」
ファミレスの奥の席に向かい合って座った陽太に訊ねた。窓も隣の席を遮るガラスも磨りガラスで、向こう側の景色は見えない。昼下がりの午後というには遅く、夕暮れ時にはまだ早い時間帯。客層はまばらで、店内も落ち着いていた。そんな中であっても、自然と声のトーンが落ちてしまうのは、私達の間を、妙に重たい空気が漂っていたから。
「まぁ、でも、大した物じゃないし、買えば済むよ」
それでも、私を心配させないためなのか、彼の声色は明るかった。明るい声とは対照的なぎこちない笑顔が、彼の精神状態を物語っていた。
私の視線から逃げるように、彼はココアが入ったマグカップに口を付ける。
「甘いな」
「ココアだから」
「アイスは氷でいい具合に調和されてたのかな」
その呟きを聞きながら、私はウーロン茶を飲んだ。
「同じ物でも、一回『凄く美味しい』って思う物を食べると、今まで普通に食べてた物があんまり美味しくなくなっちゃうってこと、ない?」
以前食べたポテトを思い出す。あれは、少し塩気が多かった。
「これまで食べていた物が『普通』に美味しく感じる物だったらそうでもないのかもしれないけど、『それ以下』だったって気付いた時はさ、もう前の生活には戻れなくならない?」
「……そうかもしれない」
彼は再びカップに口を付けようとしていた手を止めて、そのままココアを見つめるようにして、やがて机の上に置いた。
「満足している瞬間は幸福だけど、知ってしまうのって、時に残酷だよな」
「……」
「もう、知る前には戻れないんだよ」
「……ココアの話、よね……?」
陽太と目が合った。
「これより美味しいココアを、飲んだことがあるんだ」
大人っぽい笑顔だった。
「所詮、私達が飲んでるのはドリンクバーだもの」
私の飲むウーロン茶は、どうせ市販のものだ。そんなに味の違いはない。
「安くて手軽で、好きだったのに」
ドリンクバーのココアというよりも、ドリンクバーの味に満足していた自分自身を懐かしむような目だった。
二週間後、彼への悪意は、次第に露骨に目に見える形となった。避けられていた時の方が、まだマシだと思えるほどに、その行為は残酷だった。
おはようと挨拶をしながら彼にぶつかり、鞄を背中に当てる。どこで買って来たのか、男性同士の恋愛を描いたR18指定の漫画を彼の机に詰め込んでその反応を窺がい、机から出すために手に取ろうものなら、
お前ホモだもんな。一色もだろ。気持ち悪ぃな。
などと声を掛け、彼が漫画を手に持っている場面を携帯で写真に撮り、プリクラのように落書きされた――しかしその内容は酷く悪質なものがクラスに一斉送信された。陽気な声が飛び交っているのに、その行動は異常だった。
皆、この状況を悦しみ始めていた。日々の小さな鬱憤を晴らすように、常に誰かに取り囲まれていた華やかな彼が底辺に落ちたのを嘲笑するように、陽太を攻撃していた。
このクラスで起きていることを外部に知られないために、暴行は最小限に止め、彼の精神を確実に刺していった。
善と悪の境界線は簡単に分かって、でもふとした拍子に簡単に跳び超えられる。加害者にはいつだってなれる。それは、私も身を持って理解した。
悪質さが増したクラスの行為は、陽太の首を真綿で締めるように追い詰めていった。
顔から血の気は失せ、遅刻や授業の欠席が増えていった。
それでも、彼は登校し続けた。毎日毎日。絶対に。
同じファミレスで陽太と向かい合って座る。こうして向かい合うようになって、最初は私が彼から目を逸らしていたのに、今は彼が私から目を逸らしている。
尊厳を傷つけられた人が辿る道を、私は知っているはずなのに、いざそういう人を見ると、不思議な気持ちになった。そこまで怯えなくていいのに、と。その感情が、安全圏に居る者の優越と配慮の無さなのだろうと、この立場になって気が付いた。
席について、時間だけが随分と過ぎた。私から沈黙を破らないと、この場は何も進展しないだろう。
「陽太、ごめんなさい」
以前よりもすんなりと出た言葉。私は、口だけの謝罪をした。
「……何で、怜奈が謝るの」
それには答えなかった。
「怜那は、何も気にしないでよ」
俯いたまま言って、彼は言葉を続けた。
「でも――」
そこで言葉が区切られた。続きは待っても出てこない。
「何?」
「……やっぱり、何でもない」
そう言って、一度も手をつけられていなかったミルクティーを口にした。そして、小さく顔を歪めた。彼のミルクティーは、きっともう冷めてしまっている。温め直すなんてできないそれは、もう捨ててしまうしかない。
「学校、休んだら?」
彼がここまでして学校に来る理由はないはずだ。
こんな中、無理して通わなくてもいい。
通信制やフリースクールという選択だってある。傷付いてまで今の高校に通い続ける必要、どこにもない。
頭が痛いでも、気持ち悪いでも、何でもいいから嘘を吐いて休めばいいのに。嘘は、時として自分自身を守る。嘘を吐かないと、守れないものだってある。
「駄目だよ。それは」
「……ノートのコピーなら届けるし、テストだって保健室で受けさせてもらえるじゃない」
二年生に進級できるだけの単位はギリギリ取れるはずだ。
「そうじゃないんだ」
磨りガラスになっていない窓の上部。外で、ギリギリ枝に付いていた枯れ葉が飛ばされた。剥き出しの枝が、冬がすぐそこまで近付いていることを如実に表している。
「これは、贖罪なんだよ」
光なんて見えないその瞳の奥に、微かに希望のような灯りがあった。
「……何よ、それ。何のための贖罪なの」
馬鹿げている。彼が、いったい誰に何をしたというのだろう。
逃げる術を知らないのではなく、行使しない彼は、もうとっくに壊れていたのかもしれない。
「昔のことだよ」
力無く上げられた口角。泣いているようにも見えた。
「そんなの、意味あるの?」
「自己満足だと思う」
やけにはっきりした口調だった。
妙に、イライラした。
「自己満足でこんなのに耐えるなんて、どうかしてる」
「こんなのって?」
そんなの、今クラスで彼を取り巻いている悪意全てだ。
「ホモって言われていじめられてること?」
あえてそこだけを抜き出し言葉にされると、何も言えなくなってしまう。
「アレを書いた人は凄いよ。よくわかってる。もう、輪の中にはどうやったって戻してもらえない」
「……馬鹿、関心するところじゃないでしょ」
「ただ、さ――」
一度言葉が区切られる。彼はしっかりと私を見て、
「何が目的で書かれたのか、それがわからない」
私を咎める言葉ではないのに、まっすぐなその目を前に、私は動けなかった。