七美、夏休みの最終日に突然お邪魔してごめんね。
今日は夕方から大雨の予報だから、話が終わったらすぐに帰るから。
お父さんとお母さんはお仕事? あぁ、その時間なら、挨拶せずに帰ることになっちゃうな……。後でよろしく伝えておいてほしいな。
ごめん、その番組観てないや。「愛で地球を救う」ってやつだよね? え? 「愛で」じゃなくて「愛は」? へー、そうなんだ。今年のテーマは「誓い~一番大切な約束~」? その番組は嫌いだけど、誓いなら今の僕にも当てはまるかもしれないな。僕は覚悟を持って、ここへ来たから。何で嬉しそうなの。そんな、明るい話じゃないよ。
どうしても今日、七美に話しておきたいことがあるんだ。
これから話す内容は、誰にも話さない方がいい内容なんだ。
でも、誰かに打ち明けて、僕の何もかもを一度捨て去りたいんだ。
きっと幼馴染の七美だったら、僕を理解してくれると思って。
いや、理解してくれなくていい。ただ聞いてくれさえしたら、僕はもう満足だよ。
七美も知っての通り、僕は昔から人とかかわるのが苦手なんだ。
幼稚園の時から外で遊ぶよりも、室内で絵を描いている方が好きだったし。
皆、晴れた日には園庭に出て、鉄棒をしたりブランコをしたり、鬼ごっことかドッジボールとか、身体を動かして遊んでいた。七美も、休み時間には真っ先に外に出て、友達と遊んでいたよね。
そんな中、僕はいつも一人で自由帳に絵を描いていた。
動物を描く時があれば木や花を描く時もあったし、明確な物体ではない、抽象的なものを描く時もあった。
頭の中にあるイメージを、感じるままに紙に描いていくのが、何よりも楽しかったんだ。
だから、一人ぼっちで何かをするのも、周りに誰もいないのも、全く苦じゃなかった。
いつも一人でいるから、先生達にはよく話しかけられていたけど、正直、放っておいてほしかったよ。
葉っぱと木なら緑色じゃないかな。太陽は青色じゃないと思うな。動物はこんなにカラフルな色してないよ。なんて口出しをされるのが、とても鬱陶しかった。
僕はただ、頭の中に広がるイメージを、世界を描いているんだから。
僕の思う通りに描きたかっただけなのに。
それの何が悪いのか、理解できなかった。
僕が創る世界に、勝手に踏み込んで欲しくなかった。
唯一、七美だけは違った。
陸の描く絵は他の人と違ってキレイだね。カラフルなのに優しい色がいっぱい。あたしは陸の絵、大好き。屈託の無い笑顔でそう言ってもらえて、素直に嬉しかった。
小学生になっても、僕は一人で絵を描き続けた。だから体育の授業なんて、いつもボロボロだった。組分けをして対戦する時は、いつだって疎まれた。「コイツがいたら絶対に負ける」そんな視線を向けられるんだ。
図工の時間だけ、皆の僕を見る目が変わった。僕の描く絵を見て、目を見開いて、称賛してきた。同じ紙、同じ絵の具を使っているのに、完成した作品は自分で見ても、明らかに他の人達と違っていた。
この時間だけは、皆が僕を認めてくれた。
文化部の活動に力を入れている御影中に行きたいと思ったのは、小学四年生の時だっだ。中高一貫だし、最初は高校も御影に通うつもりだったんだ。
そんな早くに私立受験を決めていたのに何で一言も言ってくれなかったの、って……。僕の進路だし、いちいち七美に報告する必要無いと思ったからだけど……。話、続けてもいい?
その頃には、使う画材は水彩絵の具になっていた。水に溶けて広がっていく色が好きなんだ。絵の具の量や水の量で色の濃さや広がり方が変わって、色と色が混ざりあって思いがけずいい色合いに仕上がったりするところが、凄く面白いんだよ。
僕は僕の世界に、より没頭するようになった。それに比例して、七美以外の人との距離はどんどん広がっていったけどね。
それを苦だとは思わなかったのは、普段は邪険にするクセに絵のことになるとチヤホヤすり寄って来る人達に、嫌気が差し始めていたからなんだ。
晴れて御影に合格した僕は、迷わず美術部に入った。そこで僕の絵は顧問の先生に絶賛されて、春のコンクールに作品を出すことになったんだ。
このコンクールは、新入生は参加しないみたいなんだけど、先生の勧めで一年生の中で一人だけ、僕も参加することになってね。締め切りまで時間も無かったんだけど、家でも制作を進めて、なんとか完成した作品は、自分でも満足する仕上がりになった。
だけど、コンクールに参加するのは上級生ばかりだし、他校からも多くの人が参加するから、僕の作品が何か特別な評価をされるなんて、思ってもいなかった。ただ、入学の記念に作品を一つ完成させた。そんな気持ちだったんだ。
僕のその作品が最優秀賞を受賞したって知ったのは、五月も終わりにさしかかった頃だった。
部室の隅で絵を描いていた時に、顧問の先生からその話を部員全員で聞いて、一気に視線が集まった。
僕は一人隅で過ごす日陰の人で、その日陰が心地よかったのに。コンクールに参加しただけで少し一目を置かれていたけど、最優秀賞を取って、確実に、そして急速に、強い日の当たる場所へ投げ込まれたんだ。
同級生や先輩達に、凄い、と言われたのは、嫌ではなかった。
だけど、その言葉とは真逆の、嫉妬を孕んだ目は、見ていて不気味だった。
一年生のクセに。ちょっと評価されたからって調子に乗りやがって。根暗で気遣いもロクに出来ない奴が。
そんなことを言いたそうな視線を送られながら、上辺だけの祝福をされた。
その本音がぶつけられるようになるまで、時間はそうかからなかったよ。
ある日部室に行くと、僕が普段使っているスケッチブックが裂かれていたんだ。鋭利な刃物で切られたみたいで、中身までズタズタになっていた。描いている途中のものもあったのに、見るも無残な姿になったスケブをただただ眺めることしか出来なかった。
そんな僕を見てニヤニヤした顔を向けていたのは、数日前に僕を取り囲んで口々に褒め讃えた先輩と同級生だった。
その日はそのまま、私物をまとめて家に帰った。どうせ、筆も絵の具も駄目になっていたしね。 それから一週間ほど部活を休んで、退部届を出した。美術部に入っていないと絵を描けないわけではなかったし、周りの目を気にせずにいられる空間の方が集中できるから、退部するのに抵抗は無かった。唯一、コンクールに出場して、他の人の作品に触れたり、自分の作品と比べたりする機会が無くなったのは、残念だって感じたけど。せっかく御影に入った意味が、無くなっちゃうからね。
でもさ、僕はもっともっと、ただ絵を描いていたかったんだ。
前の自分では描けなくて、これからの自分にしか描けないものを、たくさん描いていきたかったんだ。
将来絵で何がしたいとかどうなりたいとか、そういうのは考えられなかったけど。それでも、絵を描き続けたい、って気持ちだけは、確かだったんだ。
絵なんて、人生には必要の無いものだ、って言われるかもしれない。でも、人が生きていくために、ご飯を食べたり寝たりするでしょ? 僕にとって絵を描くっていうのは、それと同じなんだ。こう言ったら七美にも伝わるかな? そんな例えが無くてもわかってる? やっぱり七美は、僕を一番わかってくれるね。
そういうわけで、少しでも平穏に描き続ける道を選んだ僕は、帰宅部として学校生活を送り始めたんだ。
その生活は決して穏やかじゃなかった。美術部の人が同じクラスに何人かいて、ソイツ等を中心に、僕はクラスで無視されるようになったんだ。
もともと友達もいなくて、必要最低限しかクラスメイトとは話さなかったから、そんなに支障はなかった。そうやって平気な顔して過ごしている僕が気に入らなかったのか、梅雨入りした頃に、悪化していったんだ。
朝学校に行ったら上靴が無くなっていたり、机に水がかけられていたり、体操着がボロボロに切り裂かれていたり、ちょっと席を外したらその隙にペンケースを隠されたり、教科書やノートに落書きをされたり。
誰がやっているのかはわからなかったけど、中心になっていたのは美術部の奴等だってすぐにわかった。ニヤニヤしながら僕を見ている顔は、酷く醜かったよ。
悪意は僕の心を蝕んでいった。
好きでもない人からどう思われようが、何をされようが、何も感じないと思っていたけど、僕はそこまで無神経になれなかったみたいなんだ。心の柔らかい部分がズキズキと痛んで、苦しくなった。
それでも飽き足りなかったのか、直接的な暴力を受けるようになった。もうとっくに制服も半袖になっていたけど、肌が露出している部分を巧妙に避けて殴られたり蹴られたり……。身体がね、嫌な音を立てて軋むんだ。骨の芯まで届く鈍い痛みに対して、抵抗する前にまた、違う場所が悲鳴を上げる。本能的に藻掻いたよ。いつだって、死が頭を掠めていた。でもそんなこと、奴等にはどうだっていいんだよね。だって、僕が苦しめば苦しむほど、愉快そうに笑っていたんだから。
どうしていじめられてること言ってくれなかったの、って言われても……。七美に話したところで、何も変わらないじゃん。
人が傷付いたり苦しんでいる姿を見て快楽を得る人って、どういう神経してるんだろうね? あぁでも、アイツ等がこれから先、僕よりも苦しみながら生きたらいいって思ってる僕も、大した人間じゃないね。えっ……、そんなこと言ってくれるんだ。七美はいつだって僕の味方してくれるね。
唯一心が休まる瞬間は、休日だった。学校に行っていない時が、行かなくてもいい日が、一番安心できた。朝起きて、絵を描いて、空腹を感じたらご飯を食べて、眠くなったら寝て。そんな退屈とも孤独とも言われそうな時間が、大好きだった。絵を描いている瞬間が、何もかもを忘れて、自分の世界に没頭出来た。
それでも、残酷に時は過ぎて、月曜日がやってくる。長い夏休みが終わって、二学期が始まる。風が冷たくなり始めた頃には、冷えた肌がより痛覚を研ぎ澄ませるようになった。
もうね、地獄だったんだよ。アイツ等は、僕を人間だとは思っていなかった。人の形をして人と同じ神経を持った、蟲か何かだとでも思っていたんだ。じゃないと、あんなこと、笑いながら出来るとは思えない。あの時の僕には、人権なんて無かった。人として扱われていなかったんだから。
二年生に進級して、クラス替えが行われることだけが希望だった。僕をいじめの標的にしている奴等とクラスが離れたら、普通に学校生活を送れると思っていたから。
だけど、そんな希望も登校して数秒で、脆くも崩れ去った。昇降口の掲示板に貼り出されたクラス表を見ると、奴等の名前が僕と同じクラスの枠内に書かれていた。
教室に行くと、ドアを開けた前方にある窓に寄りかかるようにして、奴等は立っていた。獲物を見つけた蛇のような目で捉えられて、その場から動けなくなった。これから一年間、またあの日々を繰り返さないといけないのかって思うだけで、胃がキリキリと痛んだ。
「ドアの前で立ち止まるなよ」後ろからそう声を掛けられて、僕の肩は跳び跳ねた。「そんなに驚かなくていいだろ。……あれ? 君、もしかして、一色陸くん? ほら、去年の春のコンクールで賞を取った絵、図書室に飾られてたよね? あれ描いたのって、君だよね?」って、一気に言われた。
御影では、賞状や受賞作は、数カ月図書室に飾られることになっていて、僕の例の絵も、一時期飾られていたんだ。
初対面の人に話し掛けられて困惑している僕を気にせず、彼は続けた。「俺、あの絵、すっごく好きなんだ! どこか光に満ちていて、優しい温もりに包まれるような……希望を感じたんだ!」
それは、僕がテーマにして描いたものだった。皆、「春」をイメージして描いたものだと思ってたみたいだけと、僕がテーマにしたものは、「希望」だった。そんな、謝らないでよ。作品を持ち帰った時、七美も確かに「春」みたいだ、って言ったけど、僕、別に怒ってないよ。
それよりも、僕は嬉しかったんだ。絵を褒められたことは勿論だけど、会ったことも話したことも無い人に、作品に込めたものを言い当てられたのが。
だけど、手離しで喜べる訳でもなかった。だって、そう言ってきた彼は、僕とは明らかに住む世界が違ってた。
モデルをしていると言われても納得するくらいに顔が小さくて、背もそれなりに高くて。目鼻立ちがはっきりしていて、アイドルみたいな甘い顔立ちをしていて……。
どうしてこんな人が地味な僕に声を掛けたのか、理解出来なかった。
僕の絵が好きだって言うけど、本心なのかは確かめようがないし。もしかしたら、僕をいじめている奴等が、僕をからかうように仕向けたのかもしれない。そう思うと、この喜びを外に出してもいいものなのか、躊躇われた。
結局、その場は適当に彼の話をかわしたんだ。とにかく、この一年間を平和に過ごせれば、それでよかった。
だけど彼は、休み時間になる度に僕のところまで来たんだ。他の絵も見てみたいとか、僕の絵のどこが好きとか、そんな話をずっとされた。
それから彼についてもいくつか話を聞くようになったんだ。
たまに鞄の他に楽器ケースを持って登校していたから、何かを演奏するんだとは想像してたけど、バイオリンを弾くらしいんだ。部活動には所属していないみたいだけど、たまに練習室を借りてるって言ってた。彼は泉音学大学に行きたくて御影に来たんだって。御影は泉をはじめとした音大の合格者を多数輩出してたし、泉の指定校推薦もあったからね。
話す内容はどれもとりとめもないものばかりだったんだけど、今まで誰かとあんな風に会話をした経験が無かったから、僕にとってはその些細な時間がとても新鮮だった。
彼は女子にかなりモテていたけど、人懐っこくて明るい性格は、男子からも人気だった。
見た目だけじゃなくて、性格まで正反対の彼がなぜ僕に構うのか、全くわからなかった。
一方で、彼に声を掛けてもらえるのを嬉しく思っている自分もいた。日向にいる彼に話し掛けてもらえるのが嬉しかったのか、絵を褒めてもらえるのが嬉しかったのか、よくわからない。彼と行動を共にするようになってから、暴力を振るわれることも無くなった。物を隠されたりするのは続いていたから、いじめが完全になくなったわけじゃなかったけど、痛い思いをするよりはマシだった。
だからかな。彼と話しているうちに、僕を貶めるために演技をしているわけじゃ無い、って信じたくなったんだ。
「なぁ陸、俺、陸の他の絵も見てみたいな。図書室の絵みたいに、どこかに展示されたりしてないのか? 何かの雑誌に投稿してたりとか」そんなことをずっと聞かれていたけれど、残念ながら僕の絵は、もうどこにも展示なんてされてなかったし、雑誌に投稿もしていなかった。ブログだってやっていなかったから、インターネット上でも勿論見られなかった。
実物でしか見せられない僕の絵を、彼に、陽太に見せてもいいかと思い始めたのは、期末テストと夏休みを意識し始める頃だった。
見せる相手は陽太だけだったとしても、学校で僕の絵を見せる勇気なんてなかった。もし僕が絵を持って来ていると知られたら、奴等は絶対それを破り捨てるに決まってる。B5サイズのスケッチブックを鞄の奥に隠して、放課後まで過ごした。今日の帰りに絵を見せる、そう言うと、陽太は目を輝かせていた。陽太はずっと落ち着きのない様子で過ごしていて、その姿が微笑ましかった。
放課後、絵を見せるために『さくら』っていう喫茶店まで足を運んだ。
アンティーク調の内装と食器で統一された、カウンターの六席しかない、小さな喫茶店なんだ。店内ではクラシックが小さい音量で流れてて、カウンターの反対側の壁際にはピアノが置かれていて、大人な雰囲気があった。
コーヒーが美味しく飲めるような歳では無かったけど、学校から少し離れてるし、同級生は絶対に立ち寄らない店だったから、その店を選んだんだ。
「凄い! これ、全部鉛筆で描いたのか?」「自然が好きなのか? スケッチはほとんど植物だな」「今気付いたけど、このスケッチブックのカラーイラストは全部色鉛筆だな。図書室のは絵の具で塗ってなかったか?」「陸の使う色合い、やっぱり俺大好きだな」ってはしゃいだ様子で陽太は口々に言った。
一番奥の席には厚い紙の束を見ている眼鏡を掛けた女性が、入り口に一番近い席には陽太以上に顔の整った男性がいた。店の雰囲気に溶け込んでいる大人が二人いる中、盛り上がるのは迷惑だとわかっていたし恥ずかしくもあった。
だけど、陽太が目を輝かせながらそう言ってくれるのが、嬉しかった。彼の弾けるような笑顔に、僕は思わずはにかんだ。
それから僕達は、絵を見せる時や、二人でゆっくり会話をしたい時は、『さくら』に行くようになったんだ。いつも一番奥の席にいる眼鏡の女性と、入ってすぐの席にいる美形の男性と、一席ずつ空けて真ん中の席に、僕達は座っていた。
まだあどけなさを残した男子中学生が二人で並んで座るのは、端から見たらとても違和感があったと思う。でも、それをヒソヒソ話す客はいなかったし、『さくら』でアルバイトをしていた女子大生だって、異物を見るような目を決して向けてこなかった。「いらっしゃい。今日も来てくれたんだ」って言って、いつも歓迎してくれた。
両端に座るお客さんは、この店のイチオシメニューのコーヒーをいつも注文していた。でも、中学二年生の僕達に、コーヒーを飲もうって味覚は、残念ながらまだ持ち合わせていなかった。さすがに、オレンジジュースやコーラなんかは置いてなくて、僕達が飲めるものはココアしかなかった。だから、夏にはアイスココアを、冬にはホットココアを頼んでいたんだ。
「陸! やっぱり陸は凄いよ! 天才だよ!」陽太は、僕の絵を見ていつもそう言っていた。目をキラキラと輝かせて、スケッチブックを捲っては、感嘆の声を上げた。
そうやって、『さくら』で談笑したり、僕の絵を見せたりして過ごす時間が、大好きだったんだ。夏休みに入っても、僕達は予定が合えば一緒に映画を観たり美術館に行ったり、『さくら』で過ごしていた。二学期になっても、それは変わらなかった。
僕が陽太の演奏を初めて聞いたのも、『さくら』だった。
ある日、両端のお客さんと僕達以外の人が来店して来たんだ。
「晴実! いらっしゃい」アルバイトの女子大生が、入店した人にそう声を掛けた。物腰の柔らかそうな雰囲気のその男性は、軽く片手を上げて彼女の言葉に返事をした。「今日はなんだか賑やかだね」「最近はずっとこんな感じだよ」
そんなとりとめのない会話がされている時、男性の手に紙袋が握られていることに気付いた。A4サイズくらいの紙袋の中に、ピンクのバラと、白や赤の花で作られた小さなブーケが入ってた。
アルバイトの女性は店主のおじいさんに呼ばれて店の奥に行った。男性を見ると、目が合った。彼は優しく笑って、紙袋を握っていない手の人差し指を口元に当てた。「彼女には内緒にしててね。おじいちゃんが花屋をやってて、たまに手伝いをしてるんだ。今日は綺麗なバラが入ってね。今ブーケ作りの練習させてもらってるんだけど、練習で作った物を、彼女にプレゼントしてるんだ」少し恥ずかしそうに、だけど明るい笑顔で、彼は言っていた。
最初は彼の片思いなのかと思ってたんだけど、二人は恋人同士だった。高校生の時に出逢って付き合い始めて、彼女は製菓学校へ、彼は泉音楽大学へ進学したらしい。時間が合う時は、コーヒーを飲む名目で、アルバイトの女性、花凛さんに会いに来たり、バイト終わりにデートをするんだって、晴実さんは話してくれた。
晴実さんと僕達が打ち解けるのに、時間はかからなかった。いつだって温かな微笑みを向ける彼は、桜の花のようにスッと心に溶け込んだ。
彼は御影の中高を出て泉音大に入学したらしく、僕と陽太の先輩に当たる人だった。
僕の隣か陽太の隣に座って、一緒に他愛も無い話をしているうちに自然と仲良くなったんだ。花凛さんも時々会話に混じって、僕達は店の中で一番賑やかにしていた。両端に座っているお客さん達は、そんな様子を気にせず、眼鏡の女性は黙々と紙束に目を通し、美形の男性はゆっくりとコーヒーを味わっていた。
珍しく、いつもの両端のお客さんがいない、僕達三人だけの日があったんだ。来店した晴実さんは言った。「ねぇ花凛、ピアノ借りてもいい?」花凛さんは二つ返事で了承した。
晴実さんは演奏の準備を整えると、椅子に座って、深呼吸をした。息を吐ききった時、彼を取り巻く空気が変わった。そっと鍵盤に指を置き、ゆっくりと体重を掛ける。
優しい音色だった。彼の人柄を表すような、穏やかで、包み込むような温かさがあった。ダイヤモンドのように透き通っていて、ムーンストーンのように淡いピンクや緑や青色が混じっている……。そんな音だった。
しなやかに動く腕と鍵盤を流れていく指、細身だけどしっかりとした背中。僕が音楽を〝綺麗〟だと思うきっかけになったのは、彼の演奏だったと、今でも思うよ。
演奏が終わり、指が鍵盤を離れたところで、僕達は拍手を送った。「またその曲……」少し恥ずかしそうに笑いながら、花凛さんは拍手をしていた。その様子を見て、陽太は笑っていた。そして、花凛さんに言ったんだ。「俺も、一曲弾いてもいいですか?」花凛さんはすぐに了承して、陽太は演奏の準備を始めた。陽太はバイオリンを肩に置き、呼吸を整えた。次に息を吸った直後、弓が弦を撫でた。
普段陽気で明るい彼とは、一切纏う空気が違っていた。
僕は、この日の陽太の演奏を忘れられない。
弓を持つ右手は優雅に動いているけれど、左手は対照的に忙しなく動いていた。
アクアマリンみたいに爽やかで、サンストーンみたいな目映い輝きを持ったその音色は、繊細ながらも力強さがあった。
陽太の髪の一本一本が繊細に揺れて、その柔らかさを想像してしまった。バイオリンを肩と頬で挟んでいる姿を見て、彼の顔の小ささを改めて認識した。肌の白さも、バイオリンの褐色と対照的で、より際立っていた。大きな目が軽く閉じられて、睫毛は差し込んでくる光で濡れたように光っていた。普通の人よりも整った顔立ちをしているとは思っていたけれど、彼自身が芸術品のように見えた。
どこか色気さえ感じるその姿は、彼の奏でる音をより一層美しくしていたし、それに比例して、彼自身をも輝かせていた。
この時だと思う。陽太を好きになったのは。
……さすがに、七美でも引くよね。こんな、急に、僕が陽太を、恋愛的に好きだ、なんて告白されても。七美の顔がこんなに引き攣ってるの、初めて見たよ。
陽太の演奏が終わると、晴実さんが言ったんだ。「陽太君の演奏、素敵だね。ちょっと一曲合わせてみない?」そして、晴実さんと陽太の演奏が始まった。彼等が何を弾いていたのか、曲名はわからなかった。でも、どこかで聞いたことがある曲だった。
初めて音楽を綺麗だと教えてくれた人と、初めて好きになった人の演奏。目の前で彼等の演奏を見られる僕は、最高の贅沢を味わった。
その日を機に、『さくら』で時々晴実さんと陽太の演奏を聴くようになったんだ。
晴実さんは、店に僕達しかいない時に演奏しているのかと思ったけど、両端のお客さんがいても演奏していた。二人ともそれが当たり前だとでも言うように過ごしていた。晴実さんの演奏は僕達だけのものじゃないとわかって、ちょっと残念な気分になったな。でも、一曲終わるごとに、奥の女性は紙束を置いて拍手を送っていたし、手前の男性も回数は少ないけれど、手を叩いていた。二人はいつも無表情だけど、コーヒーの香りが漂って、時々ピアノの音が鳴り響くこの店が気に入っていることは、一目瞭然だった。
僕も、間違いなくそのうちの一人だった。陽太が学校でバイオリンの練習をして帰る日でも、一人で『さくら』に行くほどに。
コーヒー特有の奥深い香りと、晴実さんの心地のいいピアノの音色を聞いていると、インスピレーションが刺激されたんだ。
だから家以外では、よく『さくら』で絵を描いていたんだ。アイディアが降ってきたらすぐさまスケッチブックを取り出して、鉛筆を走らせて、絵を描いていた。
僕は、あそこで過ごす時間が大好きだった。絵を描くのも、完成した絵を陽太に見せるのも、陽太の演奏を聴くのも、陽太と話をするのも、全部全部、僕にとっては宝物だったんだ。
今まで一人で、自分だけの世界を創って、外界とは一切関わろうとしなかった。ドアも窓も締め切って、カーテンも閉ざして人工的な明かりで自分だけを照らして生きてきた。
けど、陽太と出逢って、僕の世界は変わった。
彼に連れられて外に出てみたら、水に溶かした青が頭の上に広がっていて、眩しいくらい鮮やかな緑があって、白や黄色がひらひら舞っていて、それが心弾むピンクや赤やオレンジに留まっていく。そして見上げれば、一際輝く太陽が、そこにあった。
僕が知った世界は、まだほんの一部だと思う。きっと世界は、もっともっと広くて果てしないと思う。
それでも僕は、その太陽に、手を伸ばしたかった。ずっとそこにあってほしいと願った。それだけは、失いたくなかった。だって、太陽が、陽太が居なかったら、僕の世界はずっと狭くて暗いままだったから。
僕は美しい世界を教えてくれた陽太と、出来れば、特別な関係になりたかった。晴実さんと花凛さんみたいに、手を繋いで帰りたかった。
だけど、それが叶わないことくらい、とっくにわかってた。
だって、僕達は男同士だから。
そんなの無理だって、理解していた。だからせめて陽太と、少しでも長く一緒に居たかった。
その年のクリスマスにね、二人でイルミネーションを見に行ったんだ。男二人でイルミネーションを見に行くなんて、気持ち悪いって思うかもしれないけど。翌年は進学試験でクリスマスには遊べないだろうから、って陽太が誘ってくれたんだ。
シャンパンゴールドの灯りが参道を彩る中、僕達は歩いた。周りはカップルばかりで、男子中学生が二人なんていう光景は、明らかに浮いてた。陽太はそれを気にせず、眩い光を楽しそうに眺めていた。睫毛と瞳をイルミネーションと同じ色に濡らしながら、彼は僕の名前を呼んだ。何? って聞くと、やっぱり何でもない、なんて言って。その姿が何だか面白くて、つい笑っちゃったのを覚えてる。
僕はね、これで充分だと思っていたんだ。絵が描けて、部屋以外の居場所が出来て、綺麗な音楽が聞けて、大好きな陽太が居る。そんな時間があるだけで、よかった。
学校ではね、息の詰まるような瞬間があった。
いじめは、陽太と一緒にいるようになってから、陰湿さが増してたから。
人の目に留まるような暴力はなくなったけれど、その分いかに巧妙に狙い撃つかってやり方に変わっていたんだ。ある時はお弁当を盗られていたり、ペンケースの中にカッターの刃を入れられていたり。ノートを千切られていたり、教科書に落書きをされることは変わらなかった。
でも、前ほど痛みは感じなかった。だって、僕の世界には、明るく照らしてくれる、太陽が現れたから。
だから、例え何をされたとしても、耐えられた。
むしろ、その状況を彼に知られる方が怖かった。こんなことをされている情けない自分の姿を、されるがままの惨めな姿を見られたくなかった。本当の自分は卑屈で根暗で、彼の思うような凄い能力を持った人でも彼の隣に居てもいいような立派な人でもなかったから。
僕が、これを上手く隠して耐えたらいい。クラス替えの時まで……、いや、もしかしたら高校進学までかかっていたかもしれない。けど、とにかく、少しの辛抱だと、そう思っていた。
どうして人生って、上手くいかないんだろうね。自分がこうなってほしくないと願えば願うほど、進んでほしくない方向に転がり落ちていく。
三学期の出来事だった。年明けの席替えで、僕と陽太は前後の席になったんだ。一番窓際の列の、前から二番目が陽太で、その後ろが僕。この席順になった時、僕は心の中で手を上げて喜んだよ。
だけど同時に、陽太に僕の置かれている状況を知られないようにするのに必死だった。
いつバレるかとヒヤヒヤしながら、ペンケースの中に入れられた刃物を取り除いて、慎重にノートを開いて、弁当が無くなっていた時には平静を装って購買に行った。
でも、そんな誤魔化しは長く続かなかったんだ。
「陸、ちょっと教科書貸してくれないか? 忘れちゃって……。後で隣のクラスで借りて来るけど、その前に見ておきたいページがあって」そんなことを言って、返事も待たずに、彼は机に置いてあった僕の数学の教科書に手を伸ばした。慌てた僕は教科書を取ろうとして、そのまま弾いて落としてしまったんだ。その拍子にページが捲れて……。その一瞬を、陽太は見逃さなかった。彼よりも先に教科書を取ろうとしたけれど、残念ながら陽太が早かった。僕は反射神経まで全く無いだなんて、もう笑っちゃうよね。
ここで僕が先に教科書を拾えてたら、少しは違う未来になっていたかもしれないのに。
虚しく宙に浮いた手を引っ込めて、恐る恐る彼の顔色を伺った。彼は教科書をパラパラと捲り、中を確認すると、氷付いた表情で呟いた。「何だよ……これ」僕に向けられた言葉なのか、一人言なのか判断はつかなかった。どちらにせよ、僕はその言葉に答えられなかった。彼が僕を見る。その視線から逃れるようにして、目を逸らした。とても、直視出来なかった。「陸、これ」いつもより低いトーンの声で語り掛けられた。
知られたくなかった。陽太には。だけど、ついに知られてしまった。
何て答えたらいいかわからず、目を逸らしたまま黙るしかなかった。
「おい! 誰だよ、こんなことした奴!」次に彼は教室にいるクラスメイトに向かって叫んだ。その声は室内のざわめきを消すには十分な音量で、その場にいた全員が陽太を見た。そして彼は、「次こんなことしたら許さないからな!」って言い放った。
彼があんな風に、僕に向けられた悪意を跳ね返そうとしてくれたのは、今思い返しても嬉しいよ。皆の前で、嫌われ者を助けようとするなんて、並大抵の覚悟じゃできない。いったいどれほどの勇気が必要だったんだろうと、今でも思うよ。
でも、僕は彼にそうさせるべきではなかった。
彼の行動を止めるべきだったし、あの時にちゃんと罪悪感を持つべきだった。
その日は、それだけで何事も無く終わった。事件が起きたのは、翌日だった。
朝教室に入ると、陽太が机を擦るような仕草をしていた。近付いて声を掛けると、彼は慌ててタオルで机を隠した。その様子に違和感を覚えて、何を隠したのか問い質した。「別に、何も」そう言って誤魔化そうとするところが、余計に不自然だった。僕は無理矢理彼を押し退けて、隠していたものを見た。
薄くなっていたけれど、僕の教科書やノートに書かれる言葉の類いが、そこにあった。陽太を見ると、顔を歪めて僕と目が合わないように視線を逸らした。どこからか、クスクスと押し殺した笑い声が聞こえる。その人達が誰だか、僕にはすぐわかった。
もう、それ以上のものは不要だった。
自分がその時どうしたのか、詳しくは覚えてない。気付いたら弾かれたみたいに身体が動いていて、奴等に飛びかかっていた。こんな力が自分の中にあったのかと思うくらいに、相手を殴っていたんだ。
あぁ、そんな顔しないでよ。確かに、僕は自分の手で生身の人間を殴った。でも、アイツ等はずっと僕をいじめていたんだ。これまでされたことを、やり返しただけだよ。
いじめられていたことを、誰かに言えばよかった? 相談すればよかった? それで本当に、何もかも綺麗に解決するの? 事実を咎められたら、今度はそれが露呈しないように、もっと卑怯なやり方をしてくるに決まってる。
七美にはわからないだろうけど、学校って、教室って、異常だよ。
小さな箱の中にしか、自分の居場所が無いって錯覚するくらいには閉鎖的だし、誰かとつるんでいないと自分の価値がゼロに等しくなる。
教えてもらえるのは勉学だけで、自分の唯一無二の能力は決して伸ばしてはくれない。出る杭は打たれて、他と統一される。まるでその能力が悪いみたいに。
自らの思考も個性も何もかも切り取られて、指導者の思想と同じ形に変えられる。一日の半分以上を学校で過ごすんだから、その中で扱いやすいように組み替えられるのって、やっぱり仕方がないのかな。同じ形に作り変えられた中で疎外されるって、つまり、その人こそが、僕が、間違いなく異物なのかな。
……話を戻そう。アイツ等を殴っていた僕は周りにいた人達に取り押さえられた。女子生徒の切羽詰まった声と共に先生が駆け付けて、騒動は強制沈下させられた。
でも、その時に僕へのいじめが事件の根本にあるとわかって、奴等は生徒指導の先生に酷く叱られたようだった。殴った僕も勿論注意は受けた。腑に落ちなかったけど。だからかな。御影の高等部じゃなくて、別の高校に行こうと思ったのは。
それから幸いにもいじめはなくなったし、三年生のクラス替えでようやく僕は奴等から解放された。
だけど、陽太はあの日以来、笑わなくなった。
いや、笑っているけど、どこかぎこちないんだ。心から笑っていない、って言ったらいいのかな。無理して笑っている感じが、見ていて辛かった。
そうされる度に、頭を掠めるんだ。あの時の……痛々しく顔を歪めて視線を逸らした彼の表情が。あの時受けた傷が、今も太く鋭い針となって彼の心に刺さっているのが、耐えられなかった。
僕はいいんだ。もうずっと傷付けられていたんだから。
だけど、陽太は、傷も汚れも一つも無い、無垢な心のままでいて欲しかった。人の悪意とは無縁の、眩しいくらい真っ白なままでいて欲しかった。永遠の光であって欲しかった。なのに、アイツ等は陽太の心に、黒を落とした。奴等をこの手で裁いたところで、きっと僕の怒りは完全には収まらない。だからせめて、陽太には元の明るい笑顔に戻って欲しかった。
どうやったら彼が前みたいに笑ってくれるか、僕は真剣に考えた。
受験生なのに、勉強が手につかなくなるほどだった。考えても考えても何も思い浮かばなかった。
だから、本人に直接聞いてみたんだ。やりたいこととか、行きたいところとか、ほしい物とか、なんでもいいから何かないか、って。そしたら彼は僕の目をまじまじと見て言ったんだ。「何でも、いいのか?」僕は大きく頷いた。それを叶えられたら、陽太は元気になってくれるって、信じてたから。「……じゃあ、さ……」少し躊躇うようにして、彼は続けた。「今度コンクールがあるんだけど、見に来てよ」そして、様子を伺うように、恐る恐る言った。「……もし、優勝したら……、陸、俺に一枚絵を描いてくれないか…………?」コンクールでの演奏を見てほしかったのか、それとも僕の絵がほしかったのか、それはわからない。だけど、どちらも意外なほどに呆気ない答えだった。
僕が陽太の演奏を聴かない理由はないし、陽太のためならいつだって絵を描く。彼が遠慮する理由がわからなかった。僕は、彼に約束したんだ。必ずコンクールに行くと。そして、絵を描くと。
だけど、僕は少しだけ約束を破ったんだ。
彼は、優勝したら、って言った。でもね、彼が優勝しようがしまいが、僕は絵をプレゼントしようと考えてたんだ。僕の絵を見ると、彼は必ず笑顔になってた。僕の絵で彼が前みたいに笑えるようになるんなら、優勝を逃したとしても、せめてその笑顔だけは取り戻してほかった。だから、絵を描いたんだ。
コンクールは、夏休みにあった。タイムリミットまで三カ月と少ししかなくて、僕は早急に準備を進めた。
テーマは何にするか、モチーフは何にするか、使う色は、彩度は、明度は……。そんなことを何度も何度も繰り返し考えた。
実際に絵を描く作業も勿論大変だけど、何を描くかを考える作業が一番大変なんだ。何も思い浮かばない時は、真っ白な中に思考だけが彷徨うんだ。そして、余計な色が混ざり合って、互いを汚していく。一つ一つを見れば綺麗なんだろうけど、何の統一性もない、不規則な色達が、頭のキャンバスをめちゃくちゃにしていくんだ。僕は絵を描く時、あの瞬間が一番苦しいな。描きたいっていう気持ちがあるのに、何が描きたいのかわからなくて。
結局梅雨がきても、アイディアは思い浮かばなかった。三年生なのに、悩みが勉強や進路じゃなかったなんて、馬鹿みたいだよね。でも、あの時の僕にとっては、一大事だったんだ。陽太に絵をプレゼントするのに、何もイメージが思い浮かばないなんて。僕の心も次第に空と同じような重苦しい色に染まっていった。
だから久々に、『さくら』に行ってみたんだ。三年生になってから陽太はほとんど毎日学校に残ってバイオリンの練習をしていたし、僕も何を描くかで頭がいっぱいで、しばらく行っていなかったんだ。ほんの気分転換のつもりだった。
店内は前と変わらない様子だった。
僕を見ると花凛さんは、「あ、陸君いらっしゃい! 久し振りだね」と声を掛けてくれた。ちゃんと覚えてくれていて、少しむず痒くなった。
アイスココアを注文して、スケッチブックを広げる。十分と経たないうちに花凛さんがココアを持って来た。「陽太君は? 彼も最近来てないよね」コンクールのために練習していると告げていると、晴実さんがやってきた。「陸君! 久し振りだね。元気だった?」彼からも陽太について聞かれて、同じように答えた。彼の手には紙袋が握られていて、水色を中心とした花で作られた小さなブーケが入っていた。ブーケに気付いた僕に、彼は前と同じように、右手の人差し指を立てて、そっと口元に当てて微笑んだ。
彼の後ろに、もう一人男性がいた。「ハルが言ってたのって、この人?」といった彼は、星のように眩い男性で、仄かに金木犀の香りがした。陽太が持っている楽器ケースと同じようなケースを持っていた。彼も御影出身の泉音大生で、晴実さんの親友らしい。
「コンクールの練習で、最近は来てないんだって。律にも彼の演奏聞いてみてほしかったな」「ハルがそこまで言う後輩の演奏、いつか聞けるといいな」そんな会話をしていた。
「今日は何を描く予定なの?」いつもは陽太が座る席に座った晴実さんにそう聞かれて、陽太にプレゼントする絵を描くのだと言った。「そっか。じゃあ、邪魔しちゃ悪いね」そう言って彼は席を立ち、親友のバイオリンに合わせてピアノを演奏し始めた。
曲名はわからなかったけれど、相変わらず、どれも優しくて美しい音色だった。どこかで聞いた曲が演奏されることもあった。その度に、晴実さんの演奏の方が綺麗だと思った。
親友のバイオリンは、満天の星空のようで、タンザナイトのように深く、シトリンのように鮮やかに輝いていた。これが大学で勉強している人の実力なのか、とも思った。でも、僕は陽太の演奏の方が好きだったな。
彼等の演奏を聞きながら絵の構想を考えた。それでも、すぐにはアイディアが降りてこなかった。開いていたスケッチブックとは違う、アイディアをメモするだけのA5サイズのスケッチブックに、いたずらにペンを走らせていた。
そうして何分経ったかはわからない。演奏されていた曲の中で一曲、忘れられない音があった。
陽太の演奏を初めて聞いた時の曲だ。その曲の演奏が終わってから、晴実さんに何て言う曲か訊ねたんだ。「ヴィヴァルディの『春』だよ」彼はそう答えた。
そういえば、陽太は一年生の時コンクールに出した絵を見て、大絶賛してくれた。それから親しくなって絵を見せるようになったけど、あの時の評価を上回るものはなかった。
確かあの絵を描いた時は、憧れの学校に入れて、これから始まる生活に期待を膨らませて、希望に満ちていた。季節が春だったから、色合いもそれらしいもので揃えた記憶がある。だから、色んな人に「春」がテーマだと勘違いされたんだろうけど。
そんなことを思い返していると、ふと、頭の中に、色が広がった。
僕がテーマとして選んだのは、陽太の音楽だった。清涼感に満ちていていて、かつ、眩い煌めきを持っている。そんな彼の音楽を描こうと決めたんだ。
テーマが決まってからは早かった。イメージも固まっていたから、悩まなかったし、手は止まらなかった。だけど、平日の日中は学校に行って、家に帰ってからは受験勉強をして、睡眠もとらないといけないから、絵を描ける時間は限られていた。その中で、期限までに仕上げないといけない。これ、結構キツイんだよね。作業を進めたくても進められない時なんか、かなりジレンマなんだ。
そうこうしているうちに、あっという間に夏が来た。
夏休みに入る前、僕は初めて自分の携帯電話を手にした。まさか、こんなタイミングで親から渡されるなんて思ってなかったよ。二年の頃からよく外出するようになったし、勉強して帰る日も増えるだろうから、だって。黒色で折り畳み式のそれに、両親以外で連絡先を登録したのは、勿論陽太だった。「よかった。これでコンクールの前でも連絡が取れる」そう言っていた。今まで出かける時は、学校で待ち合わせ日時を決めるか、家に電話するかだったから、かなり連絡が取りやすくなったよ。
その時に連絡先教えて欲しかった、って言われても……。別に七美と連絡取ること、そんなに無いよね? 今は違う? たくさん連絡を取ってるって? うーん……。連絡を取っている、っていうより、七美が僕にメールを送ってきてるだけのように感じるんだけど……。
夏休みに入ってからは、勉強をしながら絵を描いていた。ラジオ体操に行く小学生の声を聞きながら取り掛かるのが日課だった。
一人だった時はずっと部屋に籠りきりの生活をしていたけど、たまに朝の涼しいうちに散歩に出かけたりもしたんだ。昼間はあんなに暑くなるのに、朝方は半袖一枚だと少し肌寒く感じるくらい涼しくてさ。夏の朝が、一年の中で一番清々しいな、って感じるよ。あぁでも、温暖化が進むとそうでもなくなっちゃうのかな。
勉強して絵を描いて、たまに散歩して気分転換をして、ようやく絵を完成させたのは、コンクールの三日前だった。絵が完成した喜びと解放感で、僕の気持ちは最高潮に達していた。
早くこれを陽太にプレゼントしたい。コンクール前に、優勝したらこれをプレゼントすると言って先に見せてしまおうか。でも、反応が悪かったらどうしよう。自分の勝手な想像で描いてしまったけど、気に入ってくれるかな……。リクエストを聞いて、好みのものを描いた方がよかったかな……。
そんな具合に、完成したはいいけど、急に弱気になっちゃったんだ。
だから、やっぱり渡す前に一度彼の反応を見ておきたくて、僕は陽太に連絡をした。彼は学校でバイオリンの練習をしていた。今から会いに行ってもいいか尋ねると、夕方まで学校にいるからそれまでならいつでも、って言ってくれた。
僕は完成した絵を木製パネルから外して、折れてしまわないように、スケッチブックに挟んでからトートバッグに入れて、制服を着て学校へ向かった。
そう言えば、学校に行く途中で七美に会ったな。覚えてる? 道端で会って絵を見せたの。あの時見せた絵を、陽太に見てもらおうとしてたんだ。
七美と別れた後学校に行って、音楽室に向かう前に教室に寄った。吹奏楽部がパート練習のために教室を開放してもらっている時があるんだ。僕の教室は誰もいなかったけど開いていて、練習が終わったのかこれから練習をするのか、よくわからなかった。いったん荷物を机の上に置いて、お手洗いへ行った。鏡を見てみると、すっかり汗だくになってしまっていて、タオルで汗を拭いた。制汗剤を買っておけばよかった、ってこの時初めて思ったんだ。オシャレな髪型っていうわけでもないけど、髪を整えて、服も整えた。何度も身だしなみを確認した。
十分も経ってなかったと思う。
教室に戻ると、陽太に見てもらうはずの絵が、ビリビリに破られていた。
目の前の出来事が信じられなくて、僕はかき集めた紙に描かれてあるものを確かめた。何度見ても、それは僕が苦しい時間を乗り越えて創った、陽太のための絵だった。
誰がやったのかは今でもわからない。
もしかしたら、美術部の奴等かもしれない。僕が学校に来たのを偶然見掛けて、いなくなっている間に絵を破ったのかも。夏休み中は確か、秋の展覧会に出すための作品を制作していたはずだから、奴等も学校に居たと思うんだ。
僕が、絵を持って行かなければ、あんなことにならなかったのに。学校に大切な物を持って来たら壊されるって、よく知っていたはずなのに。こんな簡単なことも忘れてしまっていたなんて。
教室の外を見渡しても、誰の姿もなかった。僕はかき集めた紙切れをバッグの中に入れて、教室の窓を開けた。生温い風が、髪を揺らした。顔周りの髪が顔にくっついたままで、少し気持ち悪った。風に乗って、バイオリンの音色が聞こえてきた。陽太だ、ってすぐにわかった。何の曲を演奏していたのかまではわからなかったけど、いつ聞いても、消えちゃいそうなくらい綺麗な音色だった。目を閉じて、彼の姿を想像した。
細い髪に、白い肌、長めの睫毛に、アーモンド型の大きな目、弓と繋がるしなやかな腕に、弦に触れる繊細な指。想像の中でも、彼は美しかった。
その彼に渡すはずの絵は、無残な姿になっている。
……彼は今でもこんなに素晴らしい音色を奏でているのに。
僕は、何も渡せるものがなくなってしまった。同じ物を創ろうとしても、到底間に合わなかった。時間があったとしても、全く同じ物なんて、創れない。アナログ、ってそういうことなんだよ。
結局、僕は陽太に行けなくなったって連絡して、そのまま家に帰ったんだ。
だけどね、どうしても、陽太に渡す絵を諦められなかった。どうにかして絵を渡したかった。残った時間で何が描けるか、頭をフル回転させて考えた。
そしてふと降りてきたものは、陽太と、ヒマワリだった。
太陽のような陽太と、太陽のようなヒマワリ。
僕は、頭の中に思い浮かんだイメージを、夢中で紙に映していた。着色をする時間がなかったから、鉛筆で描いただけの絵になっちゃったけど。鉛が擦れてしまわないように定着スプレーをかけて、完成させた。
コンクール当日、少し光沢のある黒いスーツ姿でステージ上に立つ陽太を、客席から見つめた。他のどの人が演奏するよりも、僕にとっては彼の演奏が史上最高の音楽だった。スポットライトに照らされる彼も、また美しかった。本当に、どうして僕なんかが彼の傍に居られるのか、改めて不思議に思ったよ。光に照らされて大勢の観客の前で、堂々と演奏している。僕にはそんな世界、これからも無縁だよ。
そもそも、自分自身が表に出るのは、好きじゃない。目立ったって、良いことないし。人目に触れるのは、自分自身じゃなくて、絵がいい。
そんなことは置いておいて。陽太はそのコンクールで、二位の成績を修めた。会場の入り口で待ち合わせして、陽太におめでとうと言うと、気まずそうに笑った。「ありがとう。でも、優勝は逃しちゃった……」残念そうに笑う彼に、僕は描き上げた絵を渡した。「これ……っ! 俺、優勝してないのに……。陸の大事な絵、もらえないよ……!」どっちみち、絵は陽太にプレゼントするつもりだったから、って言うと、彼の目は少し潤んだ。「……勉強だってあるのに……。大変な時期なのに、ありがとう……! 俺の宝物だよ。一生大切にする」そんな大げさな。そう思ったけど、彼の声が少し震えていて、口に出せなかった。
二学期が始まってから、僕達はようやく受験生らしくなった。
正直、高校は御影以外ならどこでもいいと思ってた。絵はそういう環境に身を置いていないと描けないというわけではないって、この三年でよくわかったし。何より、将来絵でどうしたいっていうのが、明確に思い浮かばなかったから。陽太もあの一件以来高等部への進学は悩んでいたらしくて、別の高校を受験しようって二人で話してたんだ。
陽太の志望校は僕と同じで、一緒に勉強をして帰るようになった。『さくら』で絵を見せる時間が勉強の時間になって、お金が無い時は図書室で勉強して放課後を過ごすようになった。
今までバイオリン一筋で生きて来たらしい彼なら、推薦で他の有名な音楽高校に進学できただろうに、普通科の高校に進学するなんて、って思ったけど、その疑問はずっと言わないままでいた。陽太の将来を考えたら、ちゃんと言っておくべきだったのに。
僕は、彼を手離したくないって思ってしまったんだ。
彼のこれからの音楽人生よりも、僕は彼と過ごす目先の数年を優先してしまった。僕って本当に、汚い人間だね。
彼が苦手な化学を熱心に教えて、二人で合格できるように頑張った。こうやって振り返ると、僕はいつだて自分のエゴで動いてるね。誰かのため、なんて、陽太に絵をあげたあの一回きりじゃないかな。……いや、もしかしたらあれも、自分が陽太に絵をあげたかっただけで、根本的には自分のためだったかも……。つくづく、駄目な人間だね、僕は。
『さくら』で勉強していると、花凛さんが透明な使い捨てのコップに入ったケーキをくれた日があったんだ。
イチゴと生クリームとカットされたスポンジ生地が層になっていて、丁度コップがいっぱいになったところで、生クリームがソフトクリームのみたいに絞られていた。そこに半分にカットしたイチゴを貼り付けるように載せられていて、小さなイチゴパフェみたいになっていた。
「学校で考えた試作品なんだ。よかったら感想聞かせてよ」そう言っていた。両端のお客さんを見てみると、二人も同じ物を食べていた。ショートケーキをカップに詰め込んだようなそのケーキは、甘さが控えめで、最後まで飽きずに食べきれた。それを花凛さんに伝えると、嬉しそうに笑った。「美味しいですよ! カップに入ってるから食べやすいし、軽い味わいだから、息抜きに食べても眠気が気にならなさそうです」陽太のその言葉を聞いて、花凛さんはさらに顔を崩して笑った。
そして、彼女の勧めで僕達は初めてコーヒーを飲んだ。深い香りの黒い液体を前にして、僕達は一度目を合わせた。恐る恐るカップに口をつけて、飲み込んだ。口の中に広がる苦味。でも、嫌いじゃなかった。口の中に残っていたケーキの甘さと混ざって、苦味がより奥深く感じられた。甘い物とコーヒーを一緒に食べる理由が、ようやくわかった気がした。
花凛さんのケーキを食べたのは、それが最初で最後かな……。凄く美味しかったから、店で商品として出してもいいんじゃないかと思ったんだけど、「ここはあたしの店じゃないから」だって。「いつか自分の店開いてそこであたしのケーキを売るから、その時はたくさん食べてね」ポニーテールにした長い髪を揺らしながらニッと笑って、彼女は言った。もし店がオープンしたら、陽太と一緒に行きたい。その時は、そう思っていたんだ。