再びスキーシーズンがやってきた。夏にも繁忙期があったが、やはり冬はそれとは比べものにならないくらい忙しくなる。だから、今年もまた気持ちを引き締めなければならない。
のだが、しかし。忘れようと思ったって忘れられるものではない。雪哉が留学する時に「2年半」と言っていた。その2年半は、まさに今、経過したのだ。
つまり、それはつまり、雪哉が帰国するという事ではないか!居ても立ってもいられない俺。大学時代の知り合いに、例えば神田さんとか牧谷とか鷲尾とか井村とかに連絡しまくり、雪哉の消息を知らないか、いつ帰ってくるのか知っているかと聞いて回った。しかし、誰も知る者はなかった。
そして、今まで以上に俺の見間違いはひどくなった。毎日客の中に雪哉に似ている人を見つけてしまい、もう仕事になりゃしない。ダメだ、こんなんじゃダメだ。立派になった雪哉と釣り合う自分になっている、それが目標だったのに。
「先輩、どうしたんですか?最近どうもソワソワしてません?」
伊藤にもそう言われてしまった。
「お前にも分かるか?」
「分かりますよ。ソワソワっていうか、キョロキョロしていますね。誰かを探しているんですか?まさか、今も元彼を探しているとか?」
「いちいちうるさいよ、お前」
「図星ですね」
「あー、いや、あのな、そろそろ留学から帰ってくるはずなんだよ。でもまあ、ここに来るわけじゃないけどな」
そうだよな、俺がここに居る事さえ、雪哉は知らないわけだし。
12月からソワソワしていたのだが、1月、2月と月日が流れていき、3月になった。
「ダメかな……」
諦めの境地になってきた。
今年もまた、スキーシーズンには交代でロッジレストランの業務もこなしていた。だいぶ日も長くなって、天気の良い日も多くなってきた。冬の間はほとんど毎日雪が降るこの雪山だが、春になってくると晴れる日が増えてくる。
そんな春の日の、レストラン業務の最中の事。お昼のピークが終わり、一度ゴミ袋を店外のゴミ置き場へ出そうとした。
午後4時頃。レストランの裏口を出ると、そろそろ傾いた太陽がもろに顔に日差しを注いだ。
「うわ、眩しいな」
独り言を言って手を顔にかざした時、一瞬日差しを何かが遮った。何だろうと思って手を下ろし、目を凝らした。すると、太陽を背に、他のスキーヤーよりもすごく速いスピードで降りてくる人がいた。
「上手いな」
感心して見ていた。だが、その滑り方を見ていて、だんだんその人が近づいて来て、俺の胸がドキドキしだした。あの滑り方……まさか。
いやいや、今までにも何度もそんな錯覚を覚えた事があったではないか。雪哉じゃないか、あれは雪哉に違いない、そんな風に思って全然違った事が何度あったか。だから今回も違うだろう。けど……格好いいな。
その人は、もちろん牛柄のウエアーを着てはいなかった。レンタル品と思われる赤と白の上下。でも、そのまま仕事に戻る気になれず、もう少しゲレンデの方へ近づいていった。俺は赤い蝶ネクタイをして、黒いタキシードっぽい制服を着ていた。外はこれでは寒いのに、まだ心臓がドキドキしていて、寒さを感じなかった。
さっきの人、また降りてくるだろうか。いや、もう夕方だし、下まで行ったら今日はもう終わりにするかもしれない。
それでも、沈みつつある夕日に向かってどうしても動けずにいた。しばらくの間、雪哉に思いを馳せて佇んでいた。すると……。
また、さっきの人が降りてきた。シュッシュッとリズム良く滑る。カッコイイ。そして似ている。雪哉の滑り方に。ダメだ、俺のメンタルが持たねえ。会いたい。あいつに会いたいよ。
目の前を通り過ぎるまで、と思って見ていたのに、その人は俺の目の前でシュッと止まった。どうしたのだろう。俺が変な格好をしてじっと見ているから、変に思ったのだろうか。すると、その人物はゴーグルを上に上げた。
信じられない。自分の目を疑うとはこういう事か。目の前にいる人が、雪哉に見える。雪哉以外の何者にも見えない。ここに居るはずもないのに、どうしても雪哉に見える。
「え……やっぱり、涼介?」
「う、嘘だろ……雪哉か?雪哉なのか?」
震える足取りで近づく俺。バカだな、革靴なのに。雪山をそんなんで登ろうとして、当然こける。
「涼介!大丈夫?」
雪哉が板を脱いで駆け寄ってきた。
「本物か?本当に雪哉なのか?」
雪の上に手をついたまま、俺は見上げてそう問いかけた。
「うん、うん、そうだよ。僕だよ。涼介!」
雪哉は俺の頭を抱え込んで抱きしめた。
「何だよ、戻ってきたなら連絡しろよ。ずっと待ってたんだからな」
すごく嬉しいはずなのに、ずっと会いたかった人に会えたのに、何と口をついて出るのは文句ばかり。雪哉に手を引いてもらって立ち上がりながらも、まだ文句を言った。
「なんで連絡くれないんだよ。ひどいじゃないか。俺は、待ってるって言っただろ」
すると、雪哉は震える声で、
「待っていてくれた……の?本当に?」
と言った。
「当たり前だろ!」
更に文句しか言えない俺。
「ごめん、ごめんなさい、涼介―!」
雪哉は再び俺を抱きしめた。
「お前こそ、俺の事なんか忘れて、他の男とつき合ってるんじゃないだろうな!」
どうしたんだよ俺、文句を言うのを辞めろよ。
「そんなわけないだろ。僕は、涼介がどこかのリゾートホテルにいるんじゃないかって思って、帰国してからずっと、スキー場を回っていたんだよ」
「雪哉……。いや、俺は電話番号も変えてないんだから、連絡出来るだろうが」
まだ2人で抱きしめ合ったまま、俺たちは文句を言い合う。
「だって、そんな都合のいい事出来ないよ。待ってるなって言っておきながら、今更どの面下げて連絡できるんだよ。それに、きっと涼介にはもう恋人がいるに決まってるって思ってたし」
「俺を見くびるな。俺はな、人を好きになったのは生涯お前だけなんだからな!そう簡単に忘れる訳がないし、はい次って訳にもいかないんだよ」
「涼介~」
雪哉は俺の胸に顔を付けた。そして、泣いた。
「うえーん、ごめんよー。うう、涼介~」
いつまでも泣きじゃくる雪哉の頭を撫でていた。こんな日をずっと夢見ていた。雪哉を抱きしめる、そんな夢を。
いつまでも俺が帰ってこないので、
「あれ、三木くんどうしたの?!お客様の具合が悪いの?!」
と、レストランで一緒に仕事をしていた樹里さんが出てきて、ビックリして大声でそう言った。
「あ、いえ。知り合いに久しぶりに会ったもので。すみません、すぐ戻ります!」
と大声で返した。
雪哉はうちのホテルにチェックインした。俺はその晩、宿舎に戻らず雪哉の部屋に泊まった。絶対に会えると信じていたけれど、いつになるか分からなかった。やっと目の前に現れた愛しい人は、きっと中身は立派になったのだろうが、外見はなんら変わりない、可愛らしい人のままだった。
「雪哉、今どこに住んでるの?」
「東京」
「そのまま、ずっと東京?」
「それは……。今職を探しているところだから、まだ何とも」
雪哉はS大学を俺らと同じ時に卒業していた。留学した時、後は卒論ゼミを取って卒論を提出すれば卒業出来る状態だったので、ゼミは特別にオンラインで受けさせてもらい、卒論を提出して卒業したというわけだ。俺も、雪哉がS大を卒業したという事は人づてに聞いていた。
雪哉は頑張った。英語の勉強を頑張りながら卒論を提出し、心理学の勉強も頑張り、スクールを無事に卒業して戻ってきたのだ。
「だいたい目星は付いてるんだろ?」
ベッドに寝そべりながら、俺たちは2年半ぶりの会話をした。まずは近況報告を。いや、その前にまずは愛を確かめ合ったわけなのだが。
「まあね。上手く行けば、都内の学校のスクールカウンセラーになれるよ」
雪哉は、自分と同じような性的少数者を救いたいと言う。特に、思春期に戸惑う事が多い彼らに寄り添いたいのだとか。だから、中高生を対象にしたスクールカウンセラーを目指しているのだ。
「そっか。じゃあ俺も東京に移るかな」
俺が気軽にそう言うと、雪哉はビックリして体を起こした。
「え?どういう事?ここの系列ホテルが東京にもあるの?」
「いいや」
「じゃあ、どうやって?」
「転職だよ。このホテルを辞めて、東京のホテルに就職するんだ」
「そんな、せっかくここで働いているのに、いいの?」
「どこでだって、ホテルの仕事は出来るだろ?俺がここに居たのは、いつかお前が来てくれるかもしれないと思ったからなんだから」
働き方に縛られたくない。俺は自分の居たい所に居る。何年勤めたからとか、スキーリゾートホテルの経験がどうとかにはこだわらない。
「お前がたくさんの少年少女たちを救うには、東京にいるのが一番いいんだろ?それなら、俺はお前の側にいる。だから一緒に暮らそう?」
そう言って、俺は雪哉の目を見つめた。また、雪哉の目が潤んだ。
「なんで泣くんだよ?」
「だって」
パジャマの袖で目を擦る雪哉。お前は何でそんなに可愛いんだ?
「返事は?」
そっと、抱きしめた。
「えっと、はい」
袖を目から剥がした雪哉は、俯きながら、上目使いに俺を見て言った。
「よし」
俺たちは一緒に暮らす。2人は居たいだけ一緒に居る。
「これからは、俺の事を信じてくれるよな?」
2年半前には信じてもらえなかったけど。
「うん。信じるよ」
雪哉はそう言うと、俺の腰に手を回してギューっと抱きしめてくれた。
東京の都心にあるホテル。俺はここに勤めている。ここは従業員も多く、朝勤務、夜勤務のシフト制。相変わらず接客業が向いている俺。もうけっこうベテランで、制服のスーツもそつなく着こなす。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。こちらにお名前とご住所をお願い致します」
フロントで業務をこなす。
朝勤務なので、午後には仕事が終わり家に帰る。
「ただいまー」
「涼介、おかえり!もうすぐ僕出かけるから、涼哉をお願いね」
「おう。涼哉、良い子にしてたか?ん?」
「あーう」
「そうかそうか。よしよし」
俺は涼哉を抱っこした。
そう、俺たちの子供だ。もちろん、どちらかが産んだのではない。養子縁組をして、うちの子になったのだ。雪哉はこれから学校のカウンセラーとして仕事に行く。帰ってくるのは7時頃。でも、その後朝早く俺が出かけるまでは一緒に居られる。それなりに充実した毎日だ。子育てはとても大変だけれど、2人で協力しながらする事は、やっぱり楽しい。
そして、時々俺はライブに出る。神田さんが再び俺らを呼び集め、相変わらずアニソンバンドをやっている。30代になっても、まだ黄色い声援が飛ぶ事もある。
「リョースケー!」
って、懐かしいお姉様方も健在だ。
毎年スキーにも行く。今はスノボの方が流行っているとか言われても、気にしない。今年は涼哉を俺が見ている間に雪哉が上級コースを滑って来たり、なんと雪哉が涼哉をおんぶして、中級コースを俺と一緒に滑ったりした。
いやー、相変わらず雪哉がスキーをするとカッコイイ。歳を取ってもずっとスキーは続けて欲しいな。
ショーケースを覗くと、予想外に様々なデザインの結婚指輪が並んでいる。うーん、俺が勝手に決めてもいいのだろうか。だがあいつはアクセサリーとは無縁だし、相談しても何でもいいとかシンプルなのでいいとか言いそうだよな。
よし、最もシンプルなものにしよう。内側には2人の名前を入れて。
「これください」
「ありがとうございます。お試しなさいますか?」
「はい」
で、サイズを測ったら16号だった。
「お相手の方のサイズはお分かりですか?」
と店員に聞かれた。しまった。忘れていた。まあ、大体俺と同じじゃないかな……。
とはいえ、不安だったので、試す事にした。とは言っても内緒だ。サプライズで渡したいから。そこで俺はある計画を練った。
夜中の1時。寝たふりをしていた俺。雪哉が寝入った事を確認し、先日作った俺の指輪をこっそりと取り出す。先に俺の分だけ作ってもらった。それを雪哉の指にはめてみて、同じサイズでいいかどうかを確認するのだ。
慎重に、指輪を雪哉の指に差し込む。そうっと。ん?この指でいいんだよな。ちょっと、第二関節に引っかかる。ぎゅっと押し込めば入りそうだが。雪哉の指は細いと思っていたが、俺よりも関節が太いようだ。そうか、あいつバスケをやっていたから、けっこう突き指とかしたのかもな。
というわけで、俺の指輪よりも1つ大きいサイズにする事にした。試して良かったぜ。
「どうしたの?こんな所に呼び出して。」
おしゃれなレストラン。窓の外にはきらびやかな夜景。
「今日はさ、ちょっとした記念日だろ?」
「記念日?」
雪哉は首をひねっている。だが、
「あ、分かった。僕たちが出逢った日だ」
笑顔になってそう言った。そう、今日はあのスキー場で初めて雪哉に会った2月7日。雪哉は俺の事をその前から知っていたものの、出逢ったと言えるのはこの日だ。だから、この日に思い切って言おうと思っていた。
食事が終わり、食後のコーヒーが運ばれて来た時、俺は小箱を取り出した。例の指輪ケース。ここに2つの指輪が入っているのだ。
「雪哉、これを受け取ってくれ」
雪哉の方を向けて、ケースをパカッと開けた。
「え?」
雪哉は驚いた顔をして俺を見た。そして再び指輪へと視線を落す。じーっと指輪を見て、なんと涙を流した。
「え、え?なに?なんで泣くんだよ?」
驚かせようと思ったのに、俺の方が驚いてしまった。
「これ、どっちが僕の?」
雪哉はささっと涙を手の甲でぬぐうと、笑ってそう言った。
「はめてみれば分かるぜ」
本当は、内側に書いてある字を読めば分かるのだが。
「あ、ぴったりだ。こっちが僕のだね?」
「そうだよ」
「どうして指のサイズが分かったの?僕自身にも分からないのに」
「あははは、すごいだろう」
色々あった事は、内緒である。
「ありがとう、涼介」
「受け取ったって事は、つまりOKなんだな?」
「ん?」
「俺と、結婚してくれるんだよな?」
「……うん」
照れながら頷く雪哉。俺は雪哉の左手を両手で包んだ。指輪をちょっと触る。
「ちょっと、こんなところで」
雪哉が周りを気にする。
「大丈夫だよ。人目なんて気にするなって」
俺が優しく言うと、
「はい」
素直に返事をする雪哉。いくつになっても可愛いなあ。一緒に暮らしていても見飽きる事がない。
「じゃ、役所へ行こうか」
俺がそう言って立ち上がると、
「気が早いね」
雪哉がそう言って笑った。
「善は急げって言うだろ」
「はいはい」
今日の日付で結婚したかったんだ。指輪の内側にも今日の日付を刻印してもらったしな。
今の日本では、婚姻届は受理されないし、戸籍も一緒には出来ないけれど、区役所でパートナーシップ制度の申請は出来るから。婚姻と同等の権利が認められれば、里親になれる確率も上がると思うから。
俺たちは新たな一歩を踏み出すのだ。
雪哉の母奈美子は、息子からのメッセージを見て声を上げた。
「紹介したい人ですってー!?」
「どうしたの?お母さん」
美雪が言った。美雪は今、実家に帰省している最中である。
「お兄ちゃんが明日帰ってくるって。紹介したい人がいるから連れて来るって……。ねえ、それってつまり、あれよね。恋人って事よね?しかも結婚とか、考えてる人って事よね?」
奈美子はスマホを持ったまま、部屋の中を行ったり来たりし始めた。
「私知ってるよ。すっごいイケメンだよ。お母さんもきっと気に入るよ」
美雪はソファーに座って足の爪を切りながら答えた。
「え?そう、なの?」
「うん」
「明日……明日よね。ああ、どうしよう。何をすればいいのかしら。そうだ、ごちそうを作らなくちゃね。何がいいのかしら。えーと、えーと」
「お母さん落ち着いて」
「そうね、そうよね。落ち着かないとね。ちょっと小学校まで走ってくるわ」
奈美子はそう言うと、スマホをチャック付きのポケットにしまい込み、玄関へ飛び出していった。奈美子はいつでもランニングが出来る服装をしているのだった。
「お母さんってば。うふふ。そっかあ、お兄ちゃんもとうとう結婚かぁ。あれ?結婚出来るの?あの2人」
「ただいまー」
「早っ!どうしたの?小学校まで行くの、辞めたの?」
「行ってきたわよ」
「うっそ、速すぎでしょ」
「お陰でスッキリしたわ。うん、そうよね。雪哉の恋人はいつだって男の子だったんだし、女の子と結婚するわけないものね。イケメンを連れてきたら、目一杯祝福しなきゃね」
奈美子は先ほどまでの切羽詰まった顔ではなく、笑顔を取り戻していた。
「え、そこ?」
美雪は、とっくに雪哉がゲイだと知っている母が今その事に、つまり会わせたい人が男性だという事に動揺しているとは思っていなかったのだ。
「お母さん、お兄ちゃんの事はずっと前から分かっていたでしょ?」
美雪はソファーに座った奈美子の肩に手を置いた。まだ爪を切っている最中だった美雪である。
「分かっていたけど、ひょっとしたら……って。でもいいの。大丈夫。明日楽しみね。そうだ、雪哉の好きな海老フライを揚げよう。お寿司も取っちゃおう!」
「イエーイ!」
美雪が賛同する。
「じゃ、買い物行って来まーす」
奈美子は財布の入ったバッグをひっつかむと、そのまま玄関へスタスタと歩いて行った。
「相変わらず、フットワーク軽いなー」
美雪が呟いた。母は汗一つかいていなかったのである。いつでもカモシカのように軽やかに走る奈美子であった。
雪哉に、留学先で友人が出来た。日本から留学している田端という青年だ。田端もまたゲイであった。同じく、思春期の性的少数者を救いたいという志を持っていた。
「鈴城くんには、日本に恋人がいるの?」
2人とも忙しくしていたが、昼食の時間だけは、大学の庭へ出てのんびりとランチの時間を過ごした。
「いたけど……別れてきた」
雪哉はそう言うと、寂しそうに笑った。
「え、そうなの?なんで別れちゃったの?」
田端が驚いて聞く。
「だってさ、つき合ったまま留学したら、不安でしょうがなくって、勉強に身が入らないから」
「それだけの理由で?相手に落ち度はないのに?」
悪気はないのだが、田端は素朴な疑問を口にした。
「あいつは、すっごくモテるんだ。放っておいたらどうなるか。きっと、今頃2人目の恋人でも作っているよ」
雪哉がそう言うと、
「信じてないんだなー。もしかして、悪い人だったの?見た目だけが好きだったとか?」
田端が冗談めかしてそう言った。
「え……」
だが、雪哉は意表を突かれた。
「そんな事、ないけど。でも、すっごく女にモテて、いつでも彼女がいて、だからきっと2年半も会わずに、待てないと思って」
ほとんど、自分に言い訳をしているようだった。
「鈴城くん、君の気持ちはよーく分かるけど、でもそれだと、彼の気持ちを考えていないよね?彼は、鈴城くんの事、それほど好きじゃなかったのかな」
田端にそう言われて、雪哉は空を見上げた。青空が広がる。
「僕、自分勝手だよね。それは、分かっていたつもりだったけど……涼介の気持ち、考えてなかったな。こんなんじゃカウンセラーになんてなれないね」
ふいに下を向いてしまった雪哉の頭を、田端はポンポンと優しく叩いた。
「おっと」
スキー場のラウンジでスプーンを取りに行ったら、振り向きざまに誰かとぶつかりそうになった。
「うわ、ごめんなさい!」
とっさにそう言って目線を上げると、何とそこにはRYOSUKEの顔があった。
いやいや、こんなところにRYOSUKEがいる訳がない。他人のそら似だ。けど、だとしたら世の中には、こんなにすごいイケメンがゴロゴロ転がっているものなんだな。
「あの、大丈夫ですか?」
相手が何も言わないので思わずそう聞いたが、
「あ?ああ、大丈夫、です」
とその人は言った。声も似ているような気がするが、RYOSUKEの声は、マイクを通した声しか聞いたことがないからよく分からない。
「よかった。あ、水ですよね。あとスプーンもか」
僕は、その人がトレイにカレーを乗せているのを見て、水とスプーンを取ってあげた。こんなところでRYOSUKE似の人に会えるなんてラッキーだな。
僕はRYOSUKEのファンなのだ。RYOSUKEというのは、僕の恋人が所属しているバンドのボーカリストで、すっごいイケメンの大学生だ。ライブで見るRYOSUKEは、キラキラしていて歌が上手くて、すっごくカッコイイのだ。素人なのにたくさんのファンがいて、いつもキャーキャー言われている。僕はただ遠くから見ているだけ。本当は恋人の神田さんに、
「RYOSUKEを紹介して」
と言いたかったが、そんな事は……多分嫉妬されるから……言えない。RYOSUKEのファンだという事は誰にも言えない、胸の内に閉じ込めた僕の秘密だった。
「あ、どうも」
ただの他人のそら似だと思うが、この人と言葉を交わせた事で僕のテンションは爆上がりだった。今日は良い日だ。
すると、向こうから神田さんが歩いてきた。僕の方を見てツカツカとやってくる。あれ、なんか怒っているような。
「雪哉、何やってるんだ?おい、俺の連れに何手ぇ出してんだてめえ」
何と、神田さんは僕たちの所へやってくると、RYOSUKE似の人の肩を掴んでくるりと反転させた。まさか喧嘩になってしまうのか?
だが、予想外の展開になった。
「あ!」
「あ?お前、涼介じゃねえか。なんでこんな所にいるんだ?」
「神田さんこそ!なんでいるんですか?」
えー!どういう事?つまり、つまり、これはあのRYOSUKEなのー?
僕の胸はドキドキを通り越してバクバクし始めた。とうとう、こんなに近くで会ってしまった。あろう事か、大学からこんなに離れた山奥で(と言っても、おしゃれなラウンジだけど)。
神田さんとRYOSUKEは2人で会話をしている。僕はもう2人の会話など耳に入っていなかった。それよりも、ずっと言いたかった事が今なら言っても許されるのではないか、という考えで頭がいっぱいになる。だって、もう僕とRYOSUKEはバンドマンとお客ではなく、対等な関係でここにいるのだから。
僕は思い切って言ってみた。なるべくさらりと。
「ねえ神田さん、僕の事も紹介してよ」
すると、神田さんはちょっと渋い顔をしたものの、紹介してくれた。
「ああ、うちのバンドのメンバーの、三木涼介。それでこっちが……」
だが涼介は、僕の名前を聞かずに話を遮った。僕なんかの名前は知りたくもないの?
一瞬悲しくなったのだが、あろう事か涼介は言った。
「俺、スキー部に入部する!今すぐに」
うっそー!嬉しすぎる。
「じゃあ2人1組になって」
部長がそう言ったので、僕はドキッとしてしまった。涼介と組みたいけど、そんなあからさまな事は出来ない。恥ずかしすぎる。みんなの様子を伺っていると、
「なるべく身長が近い人同士がいいよ」
と部長が言ってくれたので、暗黙の了解で僕と涼介が組むことになった。今から対面で後ろ向きに滑る練習をする。涼介は後ろ向きで滑った事などないらしい。
「ごめん、俺出来ない」
素直にそう言う涼介はカッコイイ。出来ないのに出来るフリするより、ずっとカッコイイと思う。やっぱりカッコイイ人は内面もカッコイイよなあ。
まずは僕が後ろ向きになって滑り、次に涼介を後ろ向きにさせた。頑張っている様子がなんだか可愛い。
って、目の前の可愛い人に夢中になりすぎた!前もって離れておけばよかったのに、僕たちは小さな子供がそり滑りをしている所へまっしぐらに進んでいた。というか、両方で交差しそうになっている。
「あ、止まって!」
咄嗟にそう言ったものの、遅かった。後ろ向きの涼介が回避できるとは思えない。僕は涼介の腕を思いっきり引っ張って、わざと後ろに倒れた。
当然、涼介は僕の上に倒れた。その時、ゴーグル同士がぶつかって、そして……唇が!
幸い子供とぶつからずに済んだ。でも、僕は余りの衝撃で動けなかった。身体的衝撃ではない。心に衝撃が。
キス、キスしちゃったよ。あの涼介と、僕が……。自分の心臓の音が聞こえる。しかも、今僕の胸の上に涼介の顔が乗っかって……やばい、手足が痺れて本当に動けない気がする。腰が抜けるってこういう事か。
「あ、あの……ごめん」
涼介がそう言って起き上がった。み、見ないでくれ、僕を見ないで。
「大丈夫か?」
と聞かれたから、
「うん……大丈夫、だよ」
何とかそれだけ絞り出した。
「大丈夫か、雪哉?」
急に神田さんの声がして、ハッと我に返った。
「怪我でもしたか?」
「ううん、僕は大丈夫」
そうだ、何をやっているんだ僕は。僕には恋人がいるのに、別の男に心を奪われていたらダメじゃないか。
そう思ったら、手足は快復し、立ち上がる事が出来た。危ない危ない。うっかり堕ちるところだった。目の前にいる涼介は、あのRYOSUKEではないのだ。アニソンを歌う彼はステージにしかいないもの。僕は神田さんと上手くつき合っている。よそ見は絶対にダメだぞ。
「あの、ごめん……」
涼介がもう一度そう言った。
「涼介は悪くないよ」
今度は笑顔で言えた。僕は神田さんとつき合っている。だから、涼介を好きにはならない。でも……さっきのキスは無かった事にはしたくないような……後で何度も思い出してドキドキしそう。それくらいはいいよね。内緒の内緒。誰にも言わない。そっと1人で楽しむだけだから。