「ちょっと、押さないでよ。キャー!」
「ヤダー!」
「痛―い!」
びっくりした。最初はコショコショ声が聞こえたと思ったら、悲鳴が聞こえて来て、ドタバタと数人が折り重なって倒れて来たから。
「何やってんだ、お前ら。大丈夫か?」
「あ、あはははは。大丈夫ですぅ」
倒れていたのは、最近入部した10名ほどの女子達。
「怪我はない?」
雪哉が問いかけると、
「はい!」
「先輩優しいですぅ」
わざとらしくキャピキャピしつつ去ろうとするので、
「ちょっと待て」
俺は彼女らを呼び止めた。
「な、何でしょうか?」
1人の女子がそう言い、全員動きを止めた。
「ほれ、見せてみな」
俺は手のひらを差し出した。
「えっと、何の事で?」
「スマホ。写真撮ってたんだろ?」
女子達は、皆スマホだけを手に倒れていた。不自然だ。
「えーと……」
だが、女子達は躊躇している。
「人の写真を黙って撮ったら、肖像権の侵害だぞ」
俺が腰に手を当てて言うと、女子達は渋々スマホを差し出した。そして俺は、そこに入っていた数々の写真を見て、これまた驚いた。
俺と雪哉の写真。2人で並んで座っている写真や見つめ合う写真、昨日やおとといの、手を一瞬つないだ時の写真や、俺が雪哉の肩を抱いている写真、などなど。
「いつの間に、こんなにたくさん?!この写真……俺にくれ」
こんな写真、見た事がない。写真の中の2人はまるで映画のワンシーンか、写真集の1ページのようで、自分で言うのも何だが、美しく写っていた。しかし、なぜにこんな写真をこいつらは撮っているのだ?
「お前達、一体何者なんだ?」
俺が問うと、
「私たち、お二人のファンなんです!」
1人がそう言うと、他の子達もうんうんと頷いた。
「俺たちの、ファン?」
俺が聞き返すと、
「はい!もう、お二人が仲良くされている姿を見るのが、三度の飯よりも好きでして」
「そうなんです!お二人のラブラブなシーンをもっと見たくて!私たち、日々努力をしているのです」
「は?」
何だって?これはもしかして、ひょっとすると、噂に聞く腐女子ってやつなのか?シッパーってやつなのか?
「僕にも見せて」
雪哉が後ろから覗き込んだので、女子達はスマホを雪哉に見せた。すると、
「な、なんで?いつの間に、こんなにたくさん僕らの写真を撮ってるの?!」
相当たまげている。疑問文がめちゃくちゃだ。理由を聞きたいのか、時間を聞きたいのか、彼自身にも分かっていないのだろう。そして次に、
「この写真、どうするつもりなの?」
と雪哉が言ったので、俺も不安になった。
「そうだよ、どうするつもりなんだ?まさかSNSでバラまいたりしないだろうな?売るのもダメだぞ」
俺が言うと、女子達は小さくなって、
「いえ、しません。ただ、私たち自身が楽しんでいるだけなんです。本当です」
「あの、この写真、先輩に送りますから、許してください!」
「見逃してください!」
女子達が揃って頭を下げる。
「うーん、どうしようかなあ。まあ、写真を送ってくれるなら……しょうがないなぁ」
俺は、女子達とスマホを突き合わせた。
腐女子の出現ですっかり話の腰を折られてしまった。雪哉の留学という、重大な話の途中だったのに。合宿中はオチオチ話もしていられないので、とりあえず保留にして、合宿を全うした。
合宿所からそれぞれ実家などへ帰る。その途中で、俺と雪哉は車を止めて話す事にした。関東は、山を下りれば雪もない。寒さもさほどではない。
俺たちは、高速道路のサービスエリアのカフェでホットコーヒーを飲みながら話をする事にした。
「留学の事、いつから考えてたの?」
俺が努めて優しく聞くと、
「考え始めたのは、涼介と出会う前からだよ。色々調べて動き出したのは、数ヶ月前から」
雪哉が言った。
「そっか。もしかして、だからお前、俺にデビューの話が来た時、かなり乗ってたのか?」
ちょうど、そんな頃だから。
「うん。涼介がデビューしてくれたら、離れていても、いつも涼介の歌が聴けるし、テレビや動画で観る事も出来るなーって思って」
それで、思わず騙されそうになったわけだな。俺も騙されかけたけど。
離れていても、か。離れて……実感が沸かない。2年間。本来なら、これから1年間は一緒にいられるはずだった。でも、その後就職したら離ればなれになったかもしれない。そうなったら、俺たちはどうするのだろう。考えた事がなかった。
「2年……長いんだろうな。何だか実感が沸かないけど……でも俺、待ってるよ。雪哉の帰りを待ってる。時々ビデオ通話も出来るし」
最初はショックだと思ったけれど、2年なんてあっという間に過ぎるような気がした。ビデオ通話すればいい、と思った。
「でも、涼介」
雪哉は静かに言った。
「涼介は、そんなに長い間、恋人が側にいなかった事なんてないでしょ」
雪哉はコーヒーに視線を落したまま、そう言った。
「え、どういう意味?」
急に胸がザワザワして、慌てて問い返した。
「涼介は小学生の頃から、恋人がずっといたんでしょ?途切れずに」
「ああ、まあ。いや、お前をゲットする前はしばらくいなかったぞ」
「あれは、半年くらい?」
「いや、8ヶ月だよ」
「そうか、すごいね。でも、なんだかんだ僕に手を出していたよね」
「え、ああ、まあ、多少はね」
キスの事かな?
「それで、これから2年もの間、側に恋人がいなくても大丈夫だと思う?」
何を言っているんだ、こいつは。
「そりゃあ、辛いだろうけどさ。たまには会えるだろ?」
俺がそう言うと、雪哉はゆっくりと首を横に振った。
「2年じゃなくて2年半なんだけど、その中にすごくたくさん詰め込んでるんだ。途中で帰国している暇はないし、涼介だってアメリカまで来るのは大変だろ?お金もかかるし」
「まあ、そうだけど」
だから、何だって言うんだ?我慢するしか無いんだろ?何を言おうとしているんだよ、お前。
「無理だよ。2年半、会わずにつき合い続けるのは」
「無理じゃないよ!何言ってるんだよ。待つって言ってるだろ」
「待たせて、無理させて、嫌われるのが嫌なんだ。勉強に集中しなくちゃいけないのに、そういう事、気にしていられないんだよ!」
雪哉は、始めは落ち着いていたのに、だんだんと激高してきた。そして、席を立ってカフェを出ようとする。俺も慌てて荷物を掴んだ。因みに、コーヒーは先払いだったので、支払いは済んでいる。
「待てって」
駐車場の車の方へずんずん歩いて行く雪哉を、俺は追いかけた。そして、車の手前で腕を掴んだ。
「雪哉、何が言いたいんだ?俺は留学の邪魔だから、別れるって言うのか?」
俺がそう言うと、雪哉は振り返った。その顔を見て、俺は驚いた。涙がポロポロと流れていたから。
「雪哉……」
思わず、その場で抱きしめた。雪哉も俺にしがみつくように腕に力を入れた。
「ごめん、ごめんなさい。僕は身勝手だ。本当は好きなのに、諦めたくないのに、でも、ダメなんだ。つき合ったまま、心配しながら留学するのは、無理なんだ」
俺の胸に向かって、雪哉は叫ぶように言った。そして、唐突に俺の事を放すと、手で涙をぬぐい、自分の車の方へ走っていった。乗り込んだかと思うと、車を発進させてしまった。俺は、置いてきぼりにされてしまった。
それから、俺と雪哉は普通に過ごした。いつも通り、雪哉から電話も来るし、週に一度会って愛し合うし、何も変わらなかった。この間の留学の話は、まるで無かったかのように毎日が過ぎた。だんだん、あれは夢だったんじゃないかと思うほどに、以前と変わらない雪哉がいた。
それでも、いつも通り会っていても、いつもと違う何かを感じる事がある。そうだ、やっぱり夢なんかじゃない。だって、そんな事絶対に言ってくれなかった雪哉が、
「涼介、大好きだよ」
なんて、突然言ってくる事があるのだから。そんな事を言われると泣きそうになる。だから黙って抱きしめる。どうか、時が止まってくれ。このまま、ずっとこのままでいたい。
だが、残酷にも時は過ぎる。
2月にもう一度スキー合宿があった。検定試験を受けられる合宿。俺も2級を取る事が出来た。雪哉はとっくに1級を取っているらしい。その合宿の最後に、雪哉が言った。
「実は、僕はもうすぐアメリカに行くので、例年よりも早いんだけど、部長を交代したいと思います」
そして、新3年生を新部長として指名していた。アメリカに行くと聞いて、部員達は驚いた様子だったが、新部長の件は了承された。そう、やっぱり雪哉はアメリカに行ってしまうのだ。しかも、もう少しで!
嘘だ、嘘だ、信じられない。いいや、そうだよ。雪哉がアメリカに行くのは本当だが、俺たちが別れるというのは嘘だったのかもしれない。大丈夫だ、2年半くらい待てる。俺には、恋人はいつもいたかもしれないが、好きな人はずっといなかったのだから。何年も探していた。ずっと待っていた。やっと見つけたのだ。そう簡単に手放せるはずがない。
4月がやってきてしまった。雪哉が出発する日の朝、空港まで雪哉を送って行った。胸が張り裂けそうになるのを必死に堪え、いつも通り、冗談を言い合いながら。
「ご家族は見送りに来ないのか?」
俺が聞くと、
「この間実家に帰ったからいいんだ。それに、夏には家族そろってアメリカに来るそうだし」
「そうなんだ。美雪ちゃんも?」
「うん。この機に乗じてアメリカ旅行出来るからね。僕はほとんど観光なんて出来ないのに」
雪哉はそう言って笑った。笑っていられるのかよ、お前は。
「雪哉、俺は……。俺はずっと待っ」
途中で、雪哉は俺の唇に人差し指を立てた。やっぱり、言わせてはくれないんだな。
「ごめん涼介。本当にごめん。僕の事は忘れて。いつか、友達として会える日まで」
穏やかに雪哉が言う。俺の目から、涙が一筋流れ出た。
「分かったよ。お前も、俺の事は忘れて勉強頑張れ」
俺はそう言って、雪哉を抱きしめた。もう雪哉は行かなくてはならない。
「じゃあ」
「ああ」
雪哉は涙を見せず、笑顔で手を振った。そして、保安検査場へと入っていった。俺はトレーナーのフードをかぶり、サングラスを掛けた。だが、雪哉の乗った飛行機が飛び立つまでは、ここから動けないと思った。
雪哉がいつ飛び出してきて、やっぱり行くのは辞めると言うか分からない。いや、行くのは辞めなくても、やっぱり自分の事を忘れないでと言いに来るかもしれない……。
そんな淡い期待を胸に、しばらく保安検査所の前を動けずにいた俺。だが、ニューヨーク行きの飛行機の出発時刻になり、掲示板の表示が消えた。しばらくしても、雪哉は当然出てこなかった。
やっぱりと言うか、あっぱれと言うか。雪哉は携帯電話の番号を変えたようだった。LINEのIDも、メールアドレスも。こちらから連絡を取ろうとしても、手段がない。美雪ちゃんを捕まえてやろうと、家に行ったらなんともぬけの殻。美雪ちゃんもどこかへ引っ越していた。
他に、何か方法はあるかもしれない。美雪ちゃんの大学で待ち伏せするとか、雪哉の実家の電話番号を調べるとか。でも、そうやって雪哉の新しい電話番号を知ったところで何になる?あいつの覚悟を尊重するしかない。
また片思いに戻ったと思えばいい。2年半、俺は日本であいつを待つ。帰ってきたら、きっと会いに来てくれる。それまで、俺もちゃんとした大人になっていよう。立派になって帰ってくるあいつに、相応しい男にならなくちゃ。
俺は大学4年になった。神田さんが卒業してしまい、バンド活動はとりあえず終了した。そのうちまた始めるかもしれないが、俺たち3人が就職活動で忙しくなるから、一旦活動休止にしたのだ。スキー部の方も、トレーニングには4年生は顔を出さない習わしのようなので、行かなかった。
一方、俺は3年でインターンをしたのとは全く別の業種へと就職活動を始めていた。交通費はかかるが、地方のリゾートホテルを回った。海も山も街も色々と行ってみたが、やっぱり山がいいと決めた。冬にはスキーが出来る場所。そこにいたら、雪哉が滑りに来てくれるような場所。そうだ、すごく難易度の高い上級者コースのあるスキー場を探そう。そして、その近くにある大きいホテルに就職しよう。立派になった雪哉が絶対に来てくれるような、良いホテルに。
朝日が雪原に反射して、眩しさに思わず目をつぶった。1つ伸びをしてホテルの入り口へ向かう。今日もまずはチェックアウトのお客様の対応の為、ホテルのフロントに立つ。
俺がリゾートホテルに就職して8ヶ月が経つ。初めてのスキーシーズンがやってきて、いわゆるかき入れ時に入った。インカムをつけ、ビシッと制服を着てフロント業務に当たる。忙しいが楽しい。俺は、この仕事がすごく肌に合っているような気がしている。
「またのお越しをお待ちしております。行ってらっしゃいませ」
きびきびとしたお辞儀をして、お客様を送り出す。笑顔を向けると、お客様も笑顔になる。
「また来ます。ありがとう」
「お世話になりました」
にこやかに、お客様がそう言ってここを出る。これからスキーで一滑りしてから帰るだろうから、行ってらっしゃいと言う。ここは、関東でも有名なスキー場。目の前のゲレンデは、お子様連れが遊べるようななだらかな斜面。歩いて行かれるところにリフトがあり、一番上まで行けば長い上級者コースを滑る事が出来る。俺も滑ったが、相当ハードな斜面だ。
チェックアウトのピークが過ぎると、クリーニング作業。午後はチェックインラッシュ。お部屋へのご案内や荷物運び、お風呂やお食事のサポート等。朝から夜まで仕事は続く。
忙しくしていると、余計な事を考えずに済むからいい。時間が出来ると、どうしても考えてしまうのだ。恋人の事を。もはや、恋人でもないのか。あいつとは1年と8ヶ月くらい会っていない。あの、空港で見送った姿が最後になるなんて。
ほら、すぐこうやってくよくよと考えてしまうのだ。
フロントに立っている時もそうだ。次々とお客様が来て忙しくしている時はとても楽しいのに、人の往来が途絶えて、ただロビーを眺めている時などはどうしようもない。ロビーを行き交う人を眺めていると、時々ハッとしてしまうのだ。
「あ、雪哉?」
似ている人を見かけて、心臓がドキンと鳴る。時にはホテルを出て行く人を追いかけて、外に出て確かめた事もあった。それで、何度違うと確認した事か。それでもやっぱり何度も見つけてしまう。雪哉の影を。
ましてや冬がやってきてしまった。スキーをしている客を見ると、切なさで胸がつぶれそうだ。それでも俺はここに、スキー場にしがみつく。ここにいたら、いつか雪哉が本当に現れるのではないか、そんな考えが頭を離れないから。何年でも待つ。ここで。
冬には、交代で系列のレストラン業務も担う。ロッジ風のレストランが、リフトの中継地にある。そこは上級者コースへと上るリフト乗り場の近くだ。
「三木くん、よろしくね!」
元気いっぱいな先輩が出迎えてくれた。彼女は主にこのレストランで働いている。冬は客が多いので、助っ人として俺などが入るというわけだ。
「氷室樹里よ。ほら」
と言って、ネームプレートを指さした樹里さん。
「何だか、樹氷を思わせるようなお名前ですね。綺麗だな」
俺がそう言うと、
「おっ?まさか初対面で口説かれるとは」
樹里さんが言った。
「え?いや、口説いてなんて、いませんよ」
俺が慌てて両手を振って否定すると、
「あははは、分かってるわよ。可愛いわねえ」
と笑って言うのだった。樹里さん、サバサバした感じで付き合い安いけど、こういう冗談はあまり笑えないぞ。
3日に1回、このレストランで働いた。チェックアウト時間が終わってから、夕食の時間が終わるまで。ここにいると、窓からスキー客の滑る姿が見える。そして、裏口からはリフト乗り場が近い。
もし雪哉が滑りに来たら、必ずこのリフトに乗るだろう。あいつの事だから、暗くなるまで滑るに違いない。ここにはナイター設備があるから、夜になっても滑っているかもしれない。
「三木くん、どうしたの?心ここにあらずって感じだけど」
「え?あ、すみません」
「これ、3番テーブルね」
「はい」
つい、窓の外を見てボーっとしてしまった。
ある日、そのレストランでの業務中の事。ゴミを裏口から出したところで、坂の上から滑ってくる人を見上げた。すると、
「あ!雪哉?」
牛柄のウエアーを見つけてしまった。俺は転げるようにして走った。その牛柄ウエアーの人に向かって。
「ゆきやー!」
俺は大きな声で叫んだ。その牛柄スキーヤーは俺に気づいて止まった。そして、ゴーグルを上に上げた。
「あの、どうしたんですか?」
雪哉ではなかった。全くの別人だった。
「あ、申し訳ありません。何でもないです。失礼致しました」
俺はお辞儀をして謝った。牛柄スキーヤーはまた滑っていった。バカだな、俺。今はまだ留学中のはずだ。雪哉がここに来るはずもないのに。日本に帰ってくる事は出来ないと言っていたじゃないか。
でも、事情が変わるかもしれない。そんな思いが頭をよぎる。どうしても、探す事を辞められない。
ホテルのフロントに立ち、業務をこなす。いつしか冬も終わり、アルバイトなどはいなくなり、少ない人数で細々と回す季節がやってきた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
しかし、訪れるお客はいる。誠心誠意おもてなしをする。
そんな、比較的余裕のある季節。また新人がやってくる。
「三木くん、教育係をお願いね」
1年後輩の伊藤千景(いとう ちかげ)という男子が俺の下についた。一緒にいて、業務を覚えさせるのだ。俺も去年は先輩について学んだ。
伊藤は物覚えは良かったが、ちょっとドジな所があった。傍目には分かりにくいのだが、よくよく観察するとしょっちゅう物を取り落とすし、膝や手をあちこちに軽くぶつけている。
「痛っ」
と小さく呟く声をあまりに多く聞くので、とうとう俺は吹き出した。
「ぷっ、くくく」
「え、どうしたんですか?」
「あ、いやごめん。余りに君がぶつけるものだから。あははは」
「あー、お恥ずかしい」
伊藤は頭の後ろに手をやって、そんな風に言った。こいつ天然か。その割にはキリッとした見た目をしていて、割とイケメンだ。
そんな具合にのんびりと、まったりと、業務を教えながら生活をしていたら、ささくれ立っていた心が少し柔らかくなっていった。
「三木くん、最近明るくなったわね。余裕が出たって感じ」
女性の先輩にそう声を掛けられた。
「そうですか?ありがとうございます」
そう返すと、
「ねえ、そろそろ私と遊んでみてもいいんじゃない?」
などと言ってくる。何度も言われている事なのだが。
「またまた、ご冗談を」
「えー、本気なんだけどなー」
そんなやり取りをして、お互い笑ってやり過ごす。多分、どちらかが本気になれば、そういう事になるのだろう。つまり男女の関係になるのだろう。
まあ、そういう女性は1人ではない。2人でもない。何人かいる。何人か、時々誘ってくるのを冗談にしてやり過ごしている。
「あの、三木先輩って本当にモテますね。すごいです」
伊藤にある時言われた。いつも一緒にいると、冗談とはいえそういう話題がちょくちょく耳に入ってしまうので。
「そうか?」
だが、こっちも冗談めかしてやり過ごすつもりだ。
「でも、先輩は女性に興味がないみたいですね。先輩、ゲイでしょ?」
持っていた書類を放り投げそうになった。
「は?いや、そういうわけではないぞ」
妙に汗が出た。
「僕には分かりますよ。僕もゲイですから」
と言われて、開いた口がふさがらなかった。
突然の伊藤のカミングアウトに、俺は何と返したらいいのか分からなかった。ただ口をパクパクさせていたら、人が来たのでその話はそこで終わりになった。
ゲイにはゲイが分かるのか?俺が雪哉を好きになったのは、雪哉がゲイだったからなのだろうか。そんなの分からない。雪哉以外の男に魅力を感じたことがないのだから。かと言って、今や女性にも魅力は感じない。その意味では男も女も同じだ。好きな人以外には興味がない。
ちょっとドジな伊藤に気持ちが和んでいた俺だが、和んでばかりもいられなくなった。自分をゲイだと言った伊藤は、それ以降も特に変わりはなかった。だから、俺も扱いを変えないようにしていた。変わらずに接しているつもりだ。だが、出来ているのかどうか分からない。
1ヶ月が経ち、新人の研修期間も終わりが来た。これからは一人前という事だ。伊藤といつも一緒に仕事をしていたが、これからはそれぞれ別々に働く事になる。
「お前もこれからは一人前だな。よろしく頼むよ」
「はい、今までありがとうございました」
伊藤が俺にお辞儀をする。そのお辞儀は、教えた通りの正しいお辞儀だった。
「よしよし、大丈夫だな。あまりあちこちぶつけないようにしろよ」
俺がそう言うと、真面目だった伊藤の態度が急にふにゃっと砕けて、
「えー、それを言いますか先輩」
俺の腕をバンバンと叩いた。
打ち上げと称して、俺の部屋で飲み会を開いた。と言っても、伊藤と2人で。
「まあ、お前のお陰で楽しかったよ。おっちょこちょいなお前のお陰で癒やされたっつうか」
俺も業務中とは違って、だいぶ砕けた態度になって言った。ビールを飲みながら、自分のベッドに寄りかかる。
「先輩、傷心ですか?ハートブレイク、失恋?」
伊藤がそんな変な事を言う物だから、思わずビールでむせた。
「ゲホッゲホッ、なんだって?ゲホゲホ」
「大丈夫ですか?だから先輩、失恋中なんですか?」
一瞬考えて、まあ隠す必要もないと思い、
「まあ、な」
認めた。
「やっぱり。その相手は男の人なんですね」
「うん、そう」
「フラれたんですか?」
「うーん、まあ、そうなるかな。あいつ、俺の事信用してくれなくてさ。あいつが留学する時に別れた。待ってるって言ったのに、連絡もつかなくなって……」
それ以上はしゃべれなかった。言い続けたら、泣いてしまいそうだ。
「情けねえな、俺」
そう言って、切り上げようとした。
「先輩、すっごくモテるのに勿体ないですよ。元彼の事は忘れて、新しい恋を探したらどうですか?」
だが、伊藤は話を続けるらしい。
「探すって言ってもなあ。もう、誰にも興味ないんだよ。男でも女でも」
俺がそう言うと、
「僕じゃダメですか?」
伊藤がそんな事を言った。
「は?」
「僕で良ければ、元彼の代わりになりますよ。とりあえず、先輩がゲイなのかどうか、試してみましょうよ」
伊藤はそう言うと、俺にキスをした。
酒に酔っている事もあって、それほどビックリしなかった。というか、そうする事に違和感はなかった。ただ、それが嬉しいとも、もっとしたいとも思わなかった。ただただ、雪哉にもっと会いたくなった。あいつと口づけを交わしたい。それが叶わないなら、そういうのは、もういいかな。俺は。
「どうでしたか?」
伊藤が俺を見つめてそう聞いてきた。
「悪いけど、何も感じないな」
「……そう、ですか。残念」
伊藤はそっぽを向いてビールをグビッと飲んだ。ちょっと気の毒になって、抱きしめようかと思ったが、変に期待を持たせてもいけないと思い直し、辞めた。その代わり、伊藤の頭をポンポンと軽く叩いた。