翌朝、目覚ましが鳴るより前に目が覚めた。見慣れない天井に一瞬思考が停止する。ああ、そうだ。リゾートホテルの寮だった。そして、ふと隣のベッドへ視線を向ける。そこには愛しい雪哉が眠っていた。
 そっと起き上がり、足下の井村を確認する。井村は向こうを向いて眠っている。よし、これはチャンス。雪哉がこちらを向いて眠っているので、俺は静かに顔を近づけ、そうっと口づけをした。すると雪哉がパチッと目を開けた。口を開きかけた雪哉に、俺は指をしっと立てて制する。そして、井村の方を確認しようとしたら、
「あーあ、もう朝?」
井村が伸びをしながら起き上がった。危なかったー。
 1日の仕事が終わり、部屋に戻った。雪哉がシャワーを浴びている時の事。
「あのさあ、ミッキーとユッキーってつき合ってるの?」
井村が突然そう聞いてきた。
「え!?いや、違うけど」
何だか慌ててそう返す。
「でもほら、今朝の……」
井村はそう言って、俺たちのベッドを指さした。ああ、今朝のあれを見ていたのか。やっぱり。
「それは……参ったな」
俺は頭をかく。
「正直に言えよ。他のやつには黙ってるからさ」
「うん。いや、でもつき合ってはいないんだ。雪哉には恋人がいて、俺とはつき合えないって。でも、俺は諦めてないっつうか」
「へえ、そうなのか。ハハハ、ワッシーとマッキーが知ったら泣くな」
笑い事でもないけどな。
「でも、あの感じだと、ユッキーもまんざらじゃ無さそうだよね、ミッキーの事」
井村が言う。
「え、そう思う?やっぱり?」
つい嬉しくなる。
「まあ、ミッキーはイケメンだからなぁ。好かれて悪い気はしないんじゃないの?ユッキーがそういうキャラかどうかは知らんけど」
「そういうキャラって?」
「つまり、軽いキャラなのかどうか」
軽いキャラなら、ちょっと見てくれの良いやつに言い寄られたらフラフラっと行くけれど、雪哉がそうでないなら、そう簡単じゃないぞという訳か。雪哉は、軽いキャラ……ではないだろうな。そこが良い所なわけだし。あの可愛い顔とのギャップというか。
 そこで、俺の電話が着信した。画面を確認すると、友加里からだった。
「あ、電話だ。ちょっと話してくる」
俺はそう言って部屋を出た。ちょうど雪哉がシャワールームから出てきたところだった。
 廊下に出て、電話に出る。
「どう?雪哉くんとは上手くやってる?」
友加里が言う。
「まあ……そこそこ」
歯切れの悪い返事しかできん。
「私の方はね……」
なんと、友加里はまだ神田さんの事を諦めてはいなかった。作戦を続けていたのだ。作戦と言っても、もう俺の為の作戦ではない。自分が神田さんをモノにしようという大作戦に移行されていた。
「慎重に行く事にしたのよ。そんでね、今日2人で飲みに行く事になったの!前みたいに色仕掛けとかはナシで……」
色々と作戦を話してくれた。そうか、地道に頑張ってるんだな。派手な見た目な友加里が意外なところを見せたら、そのギャップで男はイチコロなのかも?俺にはよく分からんが。頑張れ、友加里。その間に俺もこっちで頑張るぞ。
 待てよ。そうか……ギャップねえ。俺の見た目って、きっと軽いやつなんだろうな。俺も、いつも攻めてばっかりじゃなくて、もうちょっと地道に好かれる努力をしてみるか……。よし、決めた。しばらく雪哉に手を出さないぞ。
 部屋に戻ると、雪哉がチラッとこちらを見た。何か言いたげな様子。だが言わない。
「ん?どうした?」
俺が声を掛けると、ちょっと迷った後、
「電話、してたの?」
と聞いてきた。何々?俺に興味があるのかい?
「あ、うん。友達から掛かってきて」
だが、さりげない様子で返す。今、井村がシャワールームにいるようで、シャワーの音が聞こえていた。もうすぐ出てくるだろう。
「あ、そう」
目を泳がせた雪哉。誰からか聞きたいのだろうか。でも、何を気にしているのだろう。俺が雪哉にぞっこんなのは既知の事実なのだし、俺が誰かと話していたからって、何も気にする要素はない気がするけどな。
 1週間のバイトがもうすぐ終わろうとしている。だいぶ仕事に慣れたと思ったら終わりだ。しかし、我が家に早く帰りたいという思いは強い。とにかくゆっくり寝たい。
 最後の夜。仕事が終わって部屋に戻ってくると、井村が俺にこっそりと言った。雪哉がシャワー中に。
「今夜2人きりにしてやるよ。俺はワッシー達の部屋で寝るから」
「マジで?でも、あいつらがそれを認めるかな」
鷲尾と牧谷が、俺と雪哉の2人きりを許すとは思えないが。
「この部屋にまず呼んで、酔わせてから俺が2人を送っていって、そのまま戻って来ないってのはどうだ?」
「ナイスアイディア」
俺は親指を立てた。
 事は順調に運んだ。鷲尾と牧谷は、こっちに呼べば当然来る。雪哉がいるからな。そして、あいつらは酒に弱い。
「お前ら、そろそろ自分の部屋で寝ろ。しょうがねえなあ、俺が連れていってやるよ」
井村はそう言うと(ちょっとわざとらしい気がしたが)、2人の背中を押して部屋を出て行った。サンキュー井村。恩に着るぜ。
 さて、俺と雪哉は2人きりだ。ベッドは隣同士。この間誓った通り、俺はこの数日雪哉に手を出さないようにしてきた。普通の友達として接した。それでも、毎日同じ部屋で寝起き出来たので、俺は満足だった。
 俺たちは缶ビールを飲んでいた。それぞれのベッドに腰かけて、向かい合っていた。
「もっと飲む?缶ビール買って来ようか?」
俺が言うと、雪哉は首を横に振った。
「もう十分。3缶目でしょ、飲み過ぎなくらいだよ」
「可愛い事言うじゃん」
俺が笑って言うと、雪哉の顔の赤みが急に増した気がした。
「あ、あのさ」
「何?」
「涼介、最近あんまり……何て言うか。何もしてこないよね」
雪哉は、ちょっとろれつが回っていない感じだ。
「何もって、何を?」
「またまた~、とぼけちゃって。前は2人きりになれば、すぐに色々してきたでしょ」
「色々って、例えば?」
意地悪く、俺は聞く。
「例えば~、手をこう、ぎゅっとしたりぃ、頭をポンポンってしたりぃ、あとぉ、チュウとかぁ」
目が半分据わっている。こりゃ後で記憶がないやつだな。
「して欲しいの?」
俺は笑いながらビールを飲む。
「そ、そういう訳じゃないけどぉ、急にしなくなるとぉ、嫌われたのかなぁとかぁ、思ったりぃ」
「え?」
笑っても居られなくなる俺。俺が諦めたのだと思われては元の木阿弥。努力の甲斐無しだ。我慢した意味が無くなる。
「そんな事ないよ。俺は、雪哉の事が好きだよ。好きだから、もっと大切にしようと思ったんだ。でも、雪哉がして欲しいなら、もちろんしてあげるよ」
俺はビールを小机に置き、雪哉の片手を両手で掴んだ。
「雪哉は?俺の事、好き?」
じっと雪哉の顔を見る。今や真っ赤な顔の雪哉。
「僕はぁ、涼介の事……好き……になっちゃいけないからぁ」
ぐさっ。マジか。俺は手を離した。すると、雪哉は明らかに悲しそうな顔をした。そして体ごと横を向き、足を抱えてお山座りをした。
「涼介はぁ、モテるじゃん。もう彼女とか出来たのかなーって、電話も掛かって来てたしぃ。それに支配人なんていっつも涼介の事見てるしぃ、涼介がもし誘ったら絶対にOKしそうだしぃ、だからぁ……」
「雪哉?何言ってるんだ?」
電話って何の事?支配人が何だって?
「だからぁ、僕の事なんてもう辞めたのかと思ったんだよ。涼介は、その気になればいくらだって恋人作れるしぃ、僕なんて……」
雪哉は片手に持っていたビールをグビグビっと飲み干し、空の缶を小机の上に手を伸ばして置いた。その後、雪哉はお山座りの膝小僧に顔を埋めた。なんだか可愛そう。俺の事で悩んでいたのだろうか。俺ならいつだってOKなのに。それでもやっぱり、神田さんに恩義を感じているのか。どっちなんだよ雪哉。俺の事が好きなんだろう?違うのか?
 俺は雪哉のベッドに乗り、雪哉の後ろに座った。そして、後ろからそっと抱きしめた。
「悩ませちゃって、ごめんな」
雪哉が言うような、俺が「その気」になるなんてのは、雪哉以外には考えられないのに。雪哉だけを待っているのに。そうして、俺はいつまでも雪哉を後ろから抱きしめていた。いつの間にか眠りの淵に追いやられ、気がついたら雪哉のベッドの上に倒れていた。まだ、腕の中には雪哉の背中があった。一晩中後ろから抱きしめていた。雪哉もそのまま倒れて眠っていた。

 「お前らもしかして、ずっとその状態だったん?」
いきなり声が降ってきて、びっくりして飛び起きた。井村が自分のベッドに座ってこちらを見ていた。
「うん?あれ、もう朝?寝落ちしちゃったんだ、僕」
雪哉が目を擦りながら起き上がった。しまったー、せっかく2人きりだったのに。もう少し何かこう、ロマンティックな事が出来ただろうに。ほとんど眠っていたなんて……不覚。
「僕、シャワー浴びてくるね」
雪哉がシャワールームへ入っていった。
「まあ、そう落ち込むな。酒が入りすぎたか?」
井村が俺を慰める。慰める割に、ちょっと笑っている。俺は何も言わずに井村を軽く睨んだ。
 合宿の帰りもバスだった。今度は日中を新宿へ走る。みんな疲れが溜まっていて、バスの中ではほとんどの人が寝ていた。それにしても、やっぱり雪哉は俺を受け入れてはくれなかった。酔っていたのに、俺を好きになってはいけないと言って。雪哉は今、俺の斜め前の席に座っている。手を伸ばせば届く距離にいるのに、顔は見えない。いつも、俺たちはそんな距離にいる気がする。
 スキー部の合宿もリゾートホテルのバイトも終わってしまった。その後はバンドのライブに向けて練習の日々だった。週に1回、集まって練習を重ね、8月末の土曜日、俺たちスライムキッズの単独ライブの日がやってきた。
 リハーサルを終えて楽屋にいると、客が続々とライブハウスに入って来た。カーテンの隙間からチラチラと客席を覗く。雪哉も来るだろう。俺も声は掛けたが、チケットは当然神田さんが渡していると思い渡さなかった。立ち見の客席が徐々に混み合ってくる中、派手な女性が入って来て人目を引いていた。彼女が掛けていたサングラスを外した時、思わず声が出た。
「え?友加里?」
俺はチケットを渡していないのに、友加里が入って来た。誰からチケットをもらったのだろう。いや、俺ではければ当然……神田さんだよな。他のやつに頼むくらいなら、友加里は俺に声を掛けるだろうし。しかし、どうして神田さんが。ちょっと待てよ。じゃあ、神田さんは雪哉にも、友加里にもチケットを渡したという事になるぞ。なんか……ずるくないか?
 俺はチラッと神田さんを振り返った。神田さんは座ってコーヒーを飲みながらスマホを見ていた。
 ライブの開始時間になった。俺たちがカーテンを開けて出て行くと、拍手と歓声が沸き起こった。
「リョウスケー!」
黄色い歓声が飛ぶ。俺は手を上げてそれに応えた。ステージに出て、それぞれ持ち場に着いた。単独ライブの場合、リハーサルでマイクや楽器のセッティングは済んでいるので、ここで自分達がやる必要はない。すぐに曲を始めた。
 俺はマイクを構えながら、客席を見渡した。雪哉を探す。混み合っているし、客席が暗いのでなかなか見つからない。歌が始まる。歌に集中しろ、俺。
 いた!雪哉はやっぱり一番後ろに立っていた。飲み物を片手に、カウンターに寄りかかるようにして立っている。ミラーボールが光をあちこちに当てる。時々雪哉の方に光が当たり、顔が見えた。雪哉は俺を見ている。多分。いや絶対に。
 曲の合間に神田さんがMCを担当し、時々俺に話題を振って笑いを誘う。俺はペットボトルの水を飲みながら、そんな神田さんのMCの相手をする。そして、次の曲の為に用意した一輪のバラをこっそりしこむ。まだ紙袋の中に入っているので、客席からは中身が見えない。
 次の曲はバラードだった。アニメソングであり、ラブソングでもある歌。そのクライマックスで、俺は紙袋からバラを取り出し、手に持った。そして客席に進んでいく。元々の計画では、客席の真ん中辺りにいる客に渡すという事になっていた。誰だっていいのだ。何となくその場が盛り上がればいい。だが俺は、どうしても雪哉に渡したかった。だから一番後ろまで歩いて行った。
 雪哉は、俺が目の前に来たのでびっくりして、ぽかんとしていた。歌を歌いながら、俺は跪き、バラを雪哉の方へ差し出した。ヒューヒューというからかいの声が沸き上がり、拍手とか笑いとか、俄に賑やかになる。雪哉は寄りかかっていた体を起こし、飲み物をカウンターに置き、俺からバラを受け取った。その時の歌詞が、
「僕を受け入れて~♪」
だったので、バラを受け取った雪哉は、受け入れるという格好になる。相手が男だった事もあり、会場は冗談だと思って大ウケだったが……俺は本気だったんだよな。雪哉も大まじめに受け取った。でも、あれは受け取らざるをえなかっただろうな。
 ライブが終わった。相変わらずお姉様方が俺を囲み、色々とプレゼントをくれた。俺のファンの方々が帰って、帰り支度をしようと楽屋へ戻ろうとした時、客席で友加里が神田さんと話しているのが目に入った。神田さんも友加里も、楽しそうに話し込んでいる。それじゃあ、雪哉はどうしているのか。俺は雪哉を目で探した。会場内にはいない。俺は急いで会場の外へ出た。ライブ会場は地下だったので、階段を上って地上に出る。すると、やはりそこに雪哉がいた。誰かを待っている様子。
「雪哉」
声を掛けると振り返った。
「涼介。これ、ありがとう」
雪哉はそう言って笑った。これ、というのは一輪のバラである。
「ああ、そっか。今紙袋を持ってくるよ。えーと、神田さんを待ってるの?」
俺がそう言うと、雪哉は曖昧に笑った。
「ん?どうした?」
「あ、ううん。何でもないよ。一応、神田さんを待っていようかなとは思うけど……この後どうするの?みんなでご飯行くなら、僕は帰るけど」
「ああ、どうかな。ライブ前にコンビニおにぎりとかを軽く食べたし、俺らはあんまり打ち上げとかしないんで」
と言って俺は笑った。俺は実家暮らしだが、他のメンバーは独り暮らしだ。金銭的に余裕がない。飲むなら酒を買ってきて家で飲む。
「そっか」
一瞬、2人は黙り込んだ。今、神田さんは友加里と話している。そのせいで、雪哉を待たせている。
「とにかく、俺の荷物とそれの紙袋持ってくるから、ちょっと待ってて」
そう言って、俺はまた階段を駆け下りた。
 ライブハウス内に入ると、まだ神田さんと友加里は話していた。俺は自分の荷物と例の紙袋を持ち、
「それじゃあ、お疲れ!」
と、メンバーに声を掛けた。
「おう、お疲れ!」
「お疲れ~!」
シオンとシュリが言った。楽器の片付けもそろそろ終わり、彼らも帰り支度をしていた。神田さんと友加里にも声を掛けた。
「神田さん、先に帰るよ」
「ああ、お疲れ」
「涼介、格好良かったわよ」
「サンキュー。じゃあな」
神田さんに雪哉の事を話そうかと思ったが、やっぱり辞めた。そして、俺は階段を駆け上がった。
 雪哉はまだバラを一輪持って、俯いて立っていた。その姿はまるで王子様だけど、やっぱりどこか寂しげで、いたたまれない。
「お待たせ。はい、これ紙袋。この中に入れろよ」
俺は紙袋を雪哉に渡した。
「うん」
雪哉はバラを紙袋に入れた。
「なんか、神田さんはまだ帰らないみたいだから……」
どうも、それ以上は言葉に出来ない。だから、何だと言えばいいのだろう。帰った方がいい?俺と一緒に帰ろう?雪哉がどうしたいのか、俺には分からないよ。すると、雪哉はニコッと笑い、
「そっか。じゃあ、僕帰るね」
そう言った。ちょっと無理しているような顔だな。
「一緒に帰ろう。家が近いんだからさ」
「うん」
 電車に乗っても、雪哉の口数が少ない。やっぱり友加里の事がショックだったのだろうか。このまま独りで帰すのが忍びない。
「ねえ、やっぱり一緒に飲もうよ」
俺はそう言った。
「え、でも……」
雪哉が躊躇するので、
「俺が奢るって」
「そんなの……」
「コンビニで缶ビール」
雪哉の断る言葉を遮って、俺はそう言った。
「ライブ、観に来てくれたお礼にさ」
俺が呼んだわけでもないけどな。
「うち来る?親いるけど」
苦笑い。俺の部屋で飲めば、両親に邪魔はされないけれど、話し声とか多少聞かれてしまう恐れがある。それに、あまり遅くまでという訳にもいかない。
「ご迷惑でしょ?それなら、僕んちにする?」
「え、いいの?」
うぉー!来たー!興奮を必死に抑える。
「狭いけど」
雪哉がやっと笑った。俺は当然、その申し出を受ける事にした。雪哉の家の最寄り駅で降り、コンビニでビールを買い、一緒に雪哉の部屋に行った。
「おじゃまします」
マンションの一室。割と広いではないか。独り暮らしにしては贅沢な感じ。さては、雪哉の実家は金持ちだな?
 リビングではなく、ベッドのある寝室に通された。ベッド脇にある小さいテーブルの上にビールや、今し方買ってきた唐揚げやポテトなどのつまみ兼夕飯を並べ、ベッドに並んで腰かけて乾杯した。しかし、ビールを飲んでも、2人ともどうも楽しく酔える感じではない。俺は雪哉のちょっと憂いを帯びた様子が気になって酔えない。
「やっぱり気になるよね、友加里の事」
俺がそう言うと、雪哉は俺の顔をチラリと見て、また視線を落した。
「神田さんは、もうあの娘の方がいいのかな。僕なんかよりも」
「そんな事ないだろ。俺が雪哉をくれって言った時、神田さんは絶対にやらないって言ってたし。そんな簡単に乗り換えたりしないだろ」
「それ、友加里ちゃんと出逢う前でしょ」
「う、まあ、そうだけど。でも、神田さんはゲイなんだろ?」
一応聞いてみる。
「ううん、バイセクシュアルなんだって」
「そうなのか」
やっぱり。
「あんな綺麗な女の子から好かれたら、誰だってそっちになびくよね。仕方ないよ」
「もしそうなら、むしろ好都合じゃん。神田さんとはきっぱり分かれて、俺のものになれよ」
俺は、雪哉の手を握った。これはチャンスだ。友加里が作ってくれたんだけど。
「雪哉、俺とつき合おう?神田さんとはちゃんと分かれて」
じっと返事を待つ。これはもう、OKしかないだろうに。何を迷うんだよ、雪哉。
「ダメだよ。僕は、神田さんと別れられない」
嘘だろ……。
「なんでだよ。神田さんは浮気してるんだろ?いや、もしかしたら向こうが本命なんだろ?」
「………」
雪哉が黙る。
「俺じゃダメなのかよ。雪哉」
重ねた手を揺らす。
「俺は、お前の事が好きなんだよ」
更に、言い募る。
「僕は、涼介が考えてるような人間じゃないよ」
雪哉が静かに言った。
「どういう事?」
「もっと汚くて、いやらしくて、打算的で、サイテーなんだ」
ずいぶん自虐的だな。
「そうなのか?それでもいいよ」
「きっとがっかりするよ、涼介」
「しないって」
「でも僕は、神田さんに捨てられたら困るんだ。恋人がいなくなったら……」
「だから、俺がいるだろ。俺がお前の恋人になるよ」
「でも……。でも、涼介は僕を抱けないだろ?」
思いも寄らぬ言葉が出て、びっくりした。
「え、今なんて?」
「だから、涼介は僕を抱けないだろ?元々女の子とつき合ってたんだから」
「だ、抱けるさ!」
「実際無理だよ。僕、男だよ」
「分かってるよ!」
俺はカッとなった。無理だと決めつける雪哉に、ではなくて、男とか女とか、元々二つやそこらには分けられない物を、真っ二つに分けてしまう世の中に。そして、俺は少し乱暴に雪哉にキスをした。舌を絡ませる。そのまま、ベッドに押し倒した。
 今まで、神田さんと雪哉がどんな風に愛し合っているのか、考えたくなかったけれど、つい何度も想像してしまっていた。自分が雪哉と愛し合う妄想も、していなかった訳ではない。実際にその場になったらどう感じるのか、不安がなかったわけでもない。だが今、俺の手によって雪哉を快楽の淵へといざなう事に、極上の喜びを感じている。自分がどうかなんて関係ない。愛する人がどう感じているのか、それが一番大事な事なんだ。
 「ほらね、抱けただろ?」
息切れしながら俺は言った。すごく、満足げに。
「………」
雪哉の返事を待っているのに、雪哉は何も言わず、唇を噛んで俺を見上げている。でも、さっきまでの暗い顔ではなく、ちょっと嬉しそうな、微笑んでいるような顔をしている。俺は思わず雪哉を抱きしめた。
「可愛いな、お前」
最高の気分だ。

 シャワーを浴び、服を借りて着替え、今夜はここ、雪哉の部屋に泊まる事にした。
「ねえ、神田さんにちゃんと話そうよ。今、電話する?」
俺がそう言うと、
「ああ、うん。そうだね」
ちょっと気が進まなそうな雪哉。そりゃそうだよな、別れ話だもんな。
「こういう事は、早めに処理しておいた方がいいぞ」
俺が真面目にそう言うと、
「涼介の数多なる経験によると?」
雪哉が茶化す。
「まあ、そんなとこだ」
実際、俺の経験から出た言葉なのだ。
 というわけで、雪哉は神田さんに電話を掛けた。
「もしもし、神田さん?バイバイ」
は?横にいる俺がビックリ。そんな別れ方があるかい。
「僕、涼介とつき合う事にしたから、神田さんは心置きなく友加里ちゃんとつき合っていいよ。あ、今ここに涼介がいるから、スピーカーフォンにするね」
すると、神田さんの声が聞こえた。
「なにー?やっぱりそういう事になったのか。涼介め」
というセリフの割に、神田さんの声は優しく、ちょっと笑っているようだった。
「あ、えーと、涼介です。神田さん、ごめん。そういう事だから」
「涼介お前、雪哉とは今までみたいな適当な付き合い方するんじゃねえぞ」
「分かってるよ。俺、今までとは全然違うんだ。雪哉の事は本気だから。ちゃんと、雪哉の事を大切にするよ」
こんな、普段なら背中がむずむずしてしまうようなセリフを、雪哉本人の目の前で、しかも雪哉の顔を見ながら言っている俺。あー、なんかラブだな。青春だな。
「そうか。頼むぜ」
神田さんが言う。
「神田さん、今までありがとう。すごく感謝してるよ。友加里ちゃんとお幸せにね」
雪哉がそう言った。
「……泣かせんなよ。お前はやっぱり特別だよなぁ。あ、言っとくけどな。俺は浮気してはいなかったぞ。ちゃんと、節度を守っていたんだからな」
「うん」
雪哉は、返事をした後、涙を一筋流した。
「じゃあね、バイバイ」
そう言って、雪哉は電話を切った。俺も何だか切ない。涙を流した雪哉の事を、そっと抱きしめた。
 それにしても、俺と雪哉が上手く行ったのも、友加里のお陰だ。俺はこっそり友加里にメッセージを送った。
『こっちも上手く行ったぞ!友加里のお陰だ。サンキュー!そして、そっちもおめでとう!』
すると、友加里からはVサインのみの返信が来た。シンプルだな。しかし、つまりはあちらもちゃんと上手く行っていたという事なのだ。神田さんは、浮気してはいないと言ったけれど、それはまだ寝ていないという事であって、言葉の上では既に2人は出来上がっていたという事なのだろう。雪哉と神田さん、どっちが先に浮気したのか、議論になるな。いや、本人達が気にしていないのだから、いいのか。
 あー、これで万事上手く行く、と思ったのだが……また新たな試練が訪れる事に、俺はまだ気づいていなかったのだった。
 雪哉と1つのベッドで一緒に眠り、気持ちよく目が覚めた。何も憂いのない朝。幸せな朝。初めて狙って、頑張って手に入れた恋。これからは楽しい毎日が続くはず。
「おはよ」
目を開けた雪哉が微笑む。
「おはよ」
俺もそう返して、チュッとキスをする。雪哉はくすぐったそうに笑った。
 干しておいた昨日の服に着替え、とりあえず帰る事にした。
「今度泊まりに来る時は、着替えも持ってくるな」
俺がそう言うと、
「あー、うん」
何だか歯切れの悪い雪哉。だが、とにかくお別れのキスをしようとして、雪哉の顎を手で持ち上げた瞬間、突然玄関の扉が開いた。
「ただいまー」
誰かが帰ってきたよ!ビックリ!
「み、美雪!早いじゃないか!」
雪哉も驚いたようにそう言った。
「あれ?あれあれ?すっごいイケメンじゃん。何なに?お兄ちゃんの彼氏?」
美雪と呼ばれた女子は、小走りに走ってきて、俺の腕を掴んだ。そして、下からジーっと顔を見てくる。
 うわー、この子、ものすごく雪哉にそっくりだ。髪は顎ラインのショートボブだが、それ以外はほぼ雪哉そのもの。でも、雪哉よりも小さくて、雪哉よりも……。
「ちょ、ちょっと!美雪、離れろよ!なんでこんなに早く帰ってくるんだよ」
雪哉が言う。
「えー、友達が朝からバイトだって言うからさ。ねえ、お兄ちゃんと同じ大学の人?あ、私、鈴城美雪です。あなたは?」
腕を放さず、俺に聞いてくる。
「えーと、三木涼介です。雪哉と同じ大学、です」
俺も自己紹介をする。
「へーえ、涼介さんかぁ。カッコイイなー」
「と、とにかく涼介、途中まで送るから!」
雪哉に腕を掴まれ、そのまま外へピューッと連れて行かれた。

 外に出ると、雪哉が腕を放した。並んで歩き出す。
「美雪ちゃんて、妹?」
俺が聞くと、
「そう。今年大学1年生になって、一緒に住み始めたんだ」
雪哉がそう言った。そうか、2人で住むから、それぞれ個室の寝室がある、大きめのマンションなのか。今更納得。
「雪哉、妹がいたんだ……」
改めて呟いてしまった。
「似てるでしょ。あーあ、会わせる気なかったのにな」
また、雪哉の表情が曇る。
「なんでよ。一緒に住んでるなら、いずれ会うでしょ」
「でも、神田さんには会わせた事ないよ」
「そうなの?」
もしかして、神田さんはここに来た事がないのかな。神田さんも独り暮らしだから、そっちの部屋で会ってたのか。あ……なんか今更神田さんに嫉妬してしまった。
「毎日でも会いたい。また来てもいい?」
思わず、そんな事を言う俺。
「え……。うーん、妹いるしなぁ。でも、涼介も実家だもんね」
また、悩ませてるかな、俺。
 9月に入り、大学の後期が始まった。もう雪哉と同じ講義はない。バイトもあるし、特に雪哉はたくさんバイトを入れているので、会えるのは週に1度、スキー部のトレーニングの日だけだった。
 トレーニングの後、一緒に帰りつつ、そのまま雪哉の家に行ってもいいでしょ、と駄々をこねる俺。
「分かったよ。ちょっと待ってて」
雪哉はスマホを操作した。
「あー、美雪のやつ」
「どうしたの?」
「どこかに泊まりに行けって言ったら、嫌だって」
画面を見せてくれた。あっかんべーをしたスタンプがあった。思わずくくっと笑う。
「なんだよぅ」
「いや、可愛いなと思って」
俺がそう言うと、雪哉の表情がさっと曇った。
「あれ?なんで悲しそうなの?」
「だって。可愛いって」
「可愛いって言われるの、嫌なの?」
「え?僕?」
「ん?他に誰かいるか?雪哉が可愛いって言ったんだよ。」
俺がそう言うと、
「なーんだ。」
と言って、雪哉は機嫌を直した。つまり、俺が他の人を可愛いと言ったと思った?スタンプとか?よく分からんな。でも、妬いてくれたのだとしたら、ちょっと嬉しい。
 雪哉の家に着いた。雪哉が鍵を開けて、一緒に中に入る。
「おじゃましまーす」
と、一応言ってから入る。すると、ガチャッと勢いよく部屋の扉が開いた。
「いらっしゃーい!涼介さん、こんばんは」
美雪ちゃんが飛び出してきた。小さくてチョコチョコしていて、見上げるおめめがまん丸で、すごく可愛い。まるでチワワかトイプードルのようだ。
 この間は腕を掴んできた美雪ちゃんだが、今日は雪哉が完全に俺をガードしていてそれが出来ないようだ。むふふ、雪哉の愛を感じる。こういうの、たまらんな。
「美雪ちゃん、こんばんは。またね」
雪哉に引っ張られて、雪哉の寝室に入った。そんなに引っ張らなくても大丈夫なのに。雪哉が可愛くて仕方がない、俺。
「全く、油断も隙もない」
雪哉が鼻息を荒くして言う。そして、音楽をかけた。なるほど、そうやって会話を聞かれないようにするというわけだな?ベッドは窓際にあって、美雪ちゃんの部屋側の壁には机がある。その机の上にスピーカーを置いて、あろうことか壁にスピーカーを向けて音を流す。俺たちは、並んでベッドに腰かけた。
「涼介、美雪の事なんだけど」
「なに?」
「僕に似てるでしょ。ほとんど同じ顔でしょ。それなら、女の子の方がいいよね。美雪の方が可愛いって思うよね」
「なーにを言ってるんだか。俺が雪哉に惚れたきっかけ、言ってなかったっけ?」
俺は軽くデコピンをして、おでこを抑える雪哉を抱きしめた。
「痛ってえ。きっかけ?スキー場のラウンジでぶつかりそうになった、あれでしょ?」
「違うよ。スキーをする雪哉を見て、惚れたんだ」
格好良かったなぁ、スキーをする雪哉。
「言っとくけど、美雪もスキーが上手いよ」
「え?」
そうか、そうなのか。名前からして、親御さんもスキーが好きだったりするのだろうなぁ。家族でスキーが上手いというのは、当然ありだな。
「でも、雪哉は雪哉じゃんか。まだ美雪ちゃんの事はよく知らないけど、雰囲気というか、性格が全然違うみたいだし」
それに、俺の大好きな笑顔が違う。雪哉は媚びたような笑顔じゃなくて、心から楽しそうな、いい笑顔をするんだ。
「みんな、最初はそう言うんだけどさ、いずれ変わるんだよ」
雪哉がそんな事を言った。表情が曇る。
「過去に何かあった?」
雪哉は、過去の事を話してくれた。
 小中学生の頃、2つ年下の妹の存在は隠しようがない。雪哉が人を好きになって、何とか頑張ってその気になってもらえたようでも、相手は妹を見ると、同じ顔なら女の子の方が……と、妹の事を好きになってしまったのだそうだ。
 高校生の時には、雪哉の事を好きになってくれた男子がいた。雪哉もその男子を好きになって、つき合う事になった。そして、その彼氏が雪哉の家に遊びに来たのだが、美雪ちゃんを見て、すっかりそっちにのぼせ上がってしまったとか。同じ顔をしていながら、より小さくて華奢な美雪ちゃんの存在は、ゲイである雪哉にとって、脅威でしかないのだそうだ。だから、大学生になって神田さんとつき合うようになっても、決して美雪ちゃんには会わせようとしなかったというわけだ。
 だが、俺とつき合う事になったら、即日俺と美雪ちゃんが出逢ってしまった。しかも、美雪ちゃんが俺を気に入ってしまったらしい。雪哉は、最後には涙を流しながら話していた。俺は、そんな雪哉を抱きしめ、背中を優しく撫でた。
 それにしても、雪哉の周りにはひどい男しかいないな。顔しか見ていないのかよ。そりゃ、雪哉の顔はとびきり可愛いけれども、それ以外に良いとこがたくさんあるじゃないか。運動神経だっていいし、いつも笑っていて……あ、スキー部のあいつらもそんな事を言っていたよな。そうだ、あいつら、鷲尾と牧谷に美雪ちゃんを見せたらどうなるだろう。実験してみたい、などと思ってしまった。
 雪哉と愛し合って、一緒に寝て、翌朝。雪哉は講義があるので早く起きて出かけて行った。今日、俺の講義は午後からしかないので、雪哉が出かけてもまだ眠っていた。本当は雪哉と一緒にここを出るつもりだったのだが、どうも起きられなくて。
 美雪ちゃんはまだ大学1年生だから、毎日朝から講義があるのだろう。雪哉よりも先に家を出て行ったようだった。だが……。
 俺が起き出して、一応他人の布団だからと思って整えて、寝室から出ると玄関が開いた。またびっくり。美雪ちゃんが入って来た。
「あ、どうしたの?早いね」
「あれ、涼介さん、まだいたの?」
「うん。授業は?」
「今日、午後の授業が休講だったの。バイトまでの時間が空いちゃったから、一度帰ってきたんだ。でも、涼介さんがいたなら、帰ってきてせいかーい!」
美雪ちゃんはそう言うと、チョコチョコッと走ってきて、俺に飛びついてきた。
「え、ちょっと」
美雪ちゃんは俺に抱きついて、上を見上げる。ああ、やっぱり雪哉にそっくりだなあ。
「ねえ、お兄ちゃんいないし、今の内にイイコトしない?」
美雪ちゃんは、幼い容姿からは想像できないような、きわどい事を言う。
「は?何言ってんの。ダメだよ」
「えー、どうしてー?ここには誰もいないんだし、バレないよ?」
「そういう問題じゃないの。っていうか、申し訳ないけど、君と何かしたいとは思わないし」
「ひどーい」
美雪ちゃんは腕を放した。
「じゃあ、帰るね。おじゃましました」
手をバイバイっと振って、玄関を出て……と思ったら、腕を引かれた。倒れそうになって、思わず壁に手をついた。すると、
「な、に、やって……」
男の声がした。男?え?
 玄関の方を向くと、そこには雪哉が立っていた。雪哉が険しい表情でこちらを見ている。俺は、自分の現状を把握しようと、自分の格好を見た。すると、俺は壁に手をついていたのだが、俺と壁との間には美雪ちゃんが挟まっていたのだ。背丈が違うから、顔がそれほど近いわけでもないのだが、完全に「壁ドン」というやつになっている。
「え、いや、誤解だよ!違うんだ。今、転びそうになって手をついただけで」
俺がそう、言い訳をほざいている最中に、雪哉は外へ飛び出して行ってしまった。