神田さんから雪哉を譲ってもらう事はできなかったが、1つ大事な事を知り得た。神田さんはゲイではないらしい。つまり、可愛い女の子が現れて神田さんに迫っていったら、もしかしたら浮気が成立するかもしれないのだ。よーしその線で行こう。とは言っても、誰かこの作戦に乗ってくれる女子なんているのだろうか。最近女子を敵に回してばかりいる俺。希望の光が見えたとは言え、その線も難航しそうだ。

 俺の元カノに、同学年の清水友加里という女がいる。法学部だ。元カノとは大抵疎遠になっているが、友加里だけは今でも友達だった。そういうサバサバしたやつなのだ。
 たまたま学食で俺を見かけた友加里が、俺に声を掛けてきた。
「涼介、ずいぶん噂になっているわね。今度は涼介の方が誰かに惚れたんだって?お相手が羨ましいわ」
「ああ、でも……いろいろあって上手く行ってないんだ」
「わぉ、珍しい。涼介が恋愛でしくじるなんて!」
ふと思った。魔が差した。友加里に神田さんを誘惑してもらったらどうなるか……。もしかしたら、神田さんでもフラフラっと浮気しちゃうのでは。いや、そんな事はないか。あの雪哉を恋人に持っているんだもんな。そんな簡単にフラフラっとだなんて。
「何ぶつぶつ言ってんのよ。何か力になってあげるわよ。私暇だから」
友加里が事も無げに言う。
「お前、今彼氏いないの?」
「うん。涼介と別れてから誰もいない」
「なんで?」
「さあね。これと言ってつき合いたい男がいないのよ」
「それなら……」
俺は、雪哉の事はあまり語らず、つまり男だとは言わず、大体の今の状態を友加里に話した。すると、
「つまり、私がその相手の彼氏を色仕掛けで堕とせばいいのね?」
と、けっこう乗り気な様子。
「いいのか?」
けっこう罪悪感。友加里にもそうだし、神田さんにも。作戦を思いついた時点では感じなかったのに、何だか実際にやるかと思うと気が重い。
「無理しなくてもいいぞ」
かなり尻込みしている俺に、
「大丈夫。無理はしないわよ。とりあえず私が堕とす相手を教えてよ」
友加里はさっさと立ち上がる。今すぐにでも行動に移そうとしている友加里。色々と心配なんだが。

 神田さんは金曜日に大学に来る。その日に授業を取っているからだ。なので、バンドの練習を金曜日に入れた。友加里には、金曜日に神田さんが来る事を伝えた。
 金曜日の3限の時間。昼休みが終わり、授業が始まる時間になると食堂はだいぶ空いてくる。食堂はまだ稼働しているので、遅めに昼飯を食べている学生もいる。神田さんは4限に授業があるので、昼休みの終わり頃に大学に来て食堂で昼飯を食べ、授業が始まるまでここで時間を潰す。いつもそんな感じなのだ。
 今日も神田さんがやってきた。就職活動をしてきたようで、スーツ姿だった。上着を腕に掛け、歩いてくる。俺と友加里は食堂の端っこに座っていた。
「ほら来た、あの人だよ」
予め写真は見せていたが、一応友加里にそう教えた。すると、友加里は自分が飲んでいた紙コップのコーヒーを持って立ち上がった。そしてつかつかと歩いて行く。
「え?ちょっと、友加里?」
小声で呼ぶが、友加里は止まらない。神田さんめがけて歩いて行ったかと思うと、なんとコーヒーを神田さんの胸にぶっ掛けた。
「きゃっ!ごめんなさい。どうしよう、シミが」
友加里は両手で口を覆う。
「あ……いいよ、今日はもう就活もないし」
髪を後ろに束ねた神田さんが、一瞬困ったように自分の胸を見たが、友加里の方を見て笑って言った。
「ダメですよぉ。そうだ、これすぐ脱いでください。私洗って来ます!」
友加里が言う。あまりにすごい剣幕なので神田さんは気圧され、結局ワイシャツを脱いでいた。友加里はそのワイシャツを持って走って行った。
 その様子を立ち上がって見ていた俺を神田さんが見つけ、こちらへやってきた。
「なんか変な事になっちゃったよ」
神田さんが笑って言う。なんだか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「あの、さっきの子、俺の友達なんすよ。なんか、すんません」
「そうなのか?そっか。なら安心だな」
本当は安心していてはダメなのだが、神田さんはそう言った。そして俺の前の席に荷物を置き、食べ物を買いに出かけた。
 ワイシャツを洗ってきた友加里。シミは取れたが、濡れているので今すぐには着られない。神田さんは白いTシャツ姿で飯を食った。
「あの、お詫びにご飯奢らせてください」
神妙な顔つきで友加里が言う。
「え?そんなのいいよ。乾けば着られるし」
「じゃあ、カラオケ奢らせてください」
よくわかんないけど、友加里は真剣に言う。
「カラオケ?いや別にそんなのいいけど……まあ、行ってもいいけど」
おっとぉ?
「本当ですか?じゃあ、今日はどうですか?」
「今日は、スーツだしな」
「それじゃあ、明日は?」
「うーん、まあ」
「じゃあ明日!連絡先交換してください!」
友加里はちゃっかり神田さんと連絡先を交換していた。
「お前も来るんだろ?涼介」
と、いきなり水を向けられてびっくり。
「え、俺?」
俺がいたんじゃ浮気現場にならない。だが誰も見ていないところで浮気していてもダメだ。俺がいて証拠を押さえないと。
「うん、俺も行くよ」
とりあえず、そういう事にしておく。

 翌日の夕方。友加里と俺は神田さんと待ち合わせ、カラオケに行った。俺はバンドで普段から歌っているから、それほど歌いたいとも思っていなかった。神田さんが歌いたいのだろうと思っていた。そしたらなんと、
「涼介、これ歌ってみろ」
とか、
「うん、そういうジャンルも悪くないな。じゃあこれも歌ってみてくれ」
など、色々と俺に歌わせるのだった。バンドでどんな曲をやるか、考えるのが実に楽しそうだった。そんな無邪気な神田さんを見ていると、やっぱり騙すような真似をするのが申し訳なく思えてくる。だが友加里はちゃっかり酒を頼み、大して飲んでいないくせに酔ったふりをし始めた。どうやら作戦は着々と進んでいるようだ。
「私ちょっと酔っちゃったぁ」
とか言いながら、胸元をパタパタし始める。ちらっと神田さんの様子を伺うが、大して反応していない。
「俺ちょっとトイレ」
俺は席を外した。トイレに行ってきて、部屋に戻って中を覗く。友加里がぴったりと神田さんにくっついて座っているのが見える。今入るべきか否か。
 すると神田さんがちらっと小窓の方を見た。俺と目が合ったので、俺は今来たかのようなふりをしてドアを開けた。すると今度は神田さんがトイレに行くと言って席を立って行った。
「どうだった?」
俺が聞くと、
「うーん、どうだろ。反応はイマイチね。もうちょっと頑張ってみるわ。涼介、今すぐ帰って」
「え!?」
友加里はやっぱり酔ってはいないのだった。腕組みをしてそんな事を言い出す。俺は迷ったが、俺が頼んだのだから友加里の言う通りにするしかないような気がした。よって、神田さんが戻って来る前にそそくさと帰ったのであった。

 その夜、友加里から電話があった。友加里の話によるとこうだ。
 友加里は酔ったふりをして、神田さんの腕に捕まってカラオケを出た。そして、
「暑―い。私今すぐ脱ぎたーい!ねえ、どこかに寄って行きましょうよぉ。ほら、あそことか」
とラブホテルを指さした。だが、
「何言ってんの。ほら、しっかりして。今冷たい水を買ってくるから」
と、腕をほどいて自販機に走り、水を買ってきた神田さん。友加里にそれを渡し、どこかに電話をした。
 すると、雪哉が現れたそうだ。神田さんは電話で雪哉を呼んだのだ。
「ごめんな。この子涼介の友達なんだけど、酔って動けないみたいだからさ」
と、神田さんはなんと俺の名前を出して雪哉に友加里の存在を説明し、2人で友加里を送って行こうとしたそうだ。だが友加里は実際には酔っていないので、
「ああ、もう酔いが覚めたわ。神田さん、今日はありがとうございました。では帰ります」
深々と頭を下げ、つかつかと1人で帰ってきたそうなのだ。
「信じらんない!恋人を呼ぶとか、あり得る?それほど信頼し合っているってわけ?これじゃあ、こっちはピエロじゃないのよ。本来なら、あの場を恋人に見られたら浮気現場発覚なのにさ、自分で呼んだわけだから全否定でしょ。ああもう、私がやったこと全て台無しじゃないの!」
友加里は相当怒っていた。そしてそんな友加里の愚痴を聞いている俺もまた、気持ちがどんどん暗くなっていった。そうだよな、それほど2人は信頼し合っているんだよな。だから、たとえ俺に多少気があったとしても、雪哉は神田さんを裏切らないって訳なんだよな……。
「とにかく、私絶対に諦めないから。どうしても、あの人を堕としてみせるわ!」
マジかよ……友加里、メンタル強すぎ。尊敬すらするぜ。俺はメンタルボロボロなのに。考えてみたら……友加里に神田さんの恋人の存在がバレた。つまり俺の好きな人が雪哉だって事がバレたのだ。男だったのに、そこは完全にスルーなんだな。流石サバサバ系女子、友加里。
 週が明けて、また雪哉と一緒の「社会心理学」の講義の日がやってきた。雪哉に会える喜びと、避けられるかもしれないという不安と、その両方が入り交じった情緒不安定な状態で教室に向かう。
 入り口からひょいと中を覗く。学生はバラバラに、適度に間隔を空けて座っている。先週と同じ場所に座る人が多い。だから俺もまた窓際の一番後ろに座ろうかと思ってそちらを見た。すると、そこに既に雪哉が座っていた。俺を避けるつもりなら全然違う席に座るだろう。先週俺と隣同士に座ったあの場所にいるという事は、避ける気はないって事だよな。俺は嬉しくなって、にやけそうなのを何とか堪え、唇を軽く噛んで窓際へ向かった。
「おはよ」
俺が声を掛けると、雪哉は顔を上げた。
「おはよう」
いつもニコニコな雪哉とは違い、言ってすぐにうつむいた。ちょっと顔が赤い気がする。どうしたの?と聞こうとして辞めた。それよりも言わなきゃならない事がある。
「あのさ、この間はごめん。俺の元カノ……いや、女友達が迷惑をかけて」
謝らなくてはならない。
「ああ、その事か」
雪哉がおでこを片手でちょっと押さえた。
「その……なんて言えばいいのか。彼女にはもちろん悪気があった訳じゃなくて、俺の為にっていうか、その」
なんと言い訳したらいいのか分からず、俺が言い淀んでいると、
「ひどいよね神田さん。女の子と2人で遊んでたのにさ、困ったからって僕を呼びつけるなんて。僕の事何だと思ってるんだか」
えー!どういう事だよ。全然「信頼し合って」いやしないじゃねえか。俺は驚愕した。神田さんはちゃんと雪哉に説明していないのか。神田さんとしては、雪哉と信頼し合っていると思って皆まで言わんという事なのだろう。これはチャンスなのか?友加里の作戦が思った以上に上手く行ったという事なのか?ここで、神田さんの事なんてふって俺の恋人になれと言えば、万事上手く行くのだろうか。
 だが、それで本当にいいのだろうか。そうしてつき合ったとして、俺は雪哉と「信頼し合える」間柄になれるのだろうか。雪哉は、可愛いからちょっと付き合ってみるか、というような相手ではない。こんな風に騙して、手に入れて良い訳がない。
「神田さん、もう僕に飽きたのかな。本当は女の子の方がいいのかな。涼介どう思う?これは浮気、なんだよね?」
狼狽えている雪哉。俺のせいで悩ませてしまった。可愛そうに。このままではやっぱり寝覚めが悪いや。
「いや違うよ。神田さんは浮気なんてしてないよ」
そう、神田さんにだって申し訳がない。雪哉を奪う事と、濡れ衣を着せる事とは全然違う。勝負に勝つにしても、相手の尊厳を踏みにじる訳にはいかない。
「どういう事?」
「あの日、俺も一緒だったんだ。3人でカラオケに行ったんだよ。俺が先に帰っちゃっただけなんだ」
本当の事を伝えるしかない。
「それなら、涼介を呼び戻せばよかったじゃないか。僕をわざわざ呼ばなくても」
まあ、それはご最もだけどな。俺はちょっとおかしくなった。
「神田さんは雪哉の事を見せつけたかったんだよ、きっと。俺には恋人がいるからダメだよって」
俺が笑いながら言うと、
「なんで?」
雪哉がきょとんとして言う。
「彼女、友加里って言うんだけど、友加里が神田さんを堕とそうとしたからさ。それも俺が頼んだんだ」
「へ?」
「俺が、神田さんに浮気してもらおうとして仕組んだんだよ。友加里がすっかり乗り気になって酔ったふりしてくれたんだけど、神田さんはわざと恋人である雪哉を呼んだってわけ。つまり神田さんには全く浮気をする気はないし、何も悪くないんだ」
「涼介……。それ僕に言っちゃうんだ」
雪哉がちょっと呆れた風に言った。
「え?」
「黙っていれば、上手く行ったかもしれないのに」
そう言って雪哉は笑った。あ、やっぱり笑うと可愛いなあ。いや、今笑われたんだぞ、俺。
「だってさ、神田さんは騙しても、雪哉の事は騙したくないから」
そう言って、俺が肘をついてぐっと真横の雪哉の顔を下から覗くように見つめると、雪哉は一瞬黙って俺の目を見つめ、
「もう、何言ってるんだよー」
と言って、俺の肩を片手でバンバン叩き、もう片方の腕で顔を隠した。うーむ、何て可愛い仕草なんだ。ちょっと俺の肩は痛いけど。
 それから俺と雪哉はけっこう仲良くなった。告白して、ふられてから仲良くなるなんて、世の中へんてこな事もあるもんだ。
 スキー部のトレーニングの時も、雪哉と笑い合いながら。ああ、たとえ階段の上り下りだとしても、雪哉を見ながら走るのは、なんて楽しい行為なんだ。
「夏休みには合宿があるんだよ」
トレーニングが終わって、みんなで着替えている時に3年生のメンバーに教えてもらった。
「マジ?オーストラリアにでも行くのか?」
俺がそう返すと、
「なーに言ってんだよ、この金持ちが!」
「バカも休み休み言え!」
なぜか、とても怒られた。
「そうじゃなくって、日本の、しかも関東近郊の山でグラススキーをするんだよ。そんで、リゾートホテルでバイトもするんだ」
雪哉が優しく教えてくれた。
「ああグラススキーか。なーるほど」
ワイングラス、とかじゃないんだよな。俺だって知っているさ。草だろ、草。
「今は人工芝とか、もっといい物を使っているところもあって、けっこう良い感じに滑れるんだぜ」
と井村が教えてくれた。へえ。

 俺ら、3年生同士仲良くなったので、俺は思いきってみんなで飲みに行こうと誘った。いつもなら自分から誘ったりしないのだが、何せ俺は今、雪哉と一緒に飲みに行きたい。けれども2人で行こうとすると断られる。だから5人でならいいだろう、という訳なのだ。
 せっかくなら遊ぼうという事になった。みんなはあまり行った事がないと言うお台場へ。俺は子供の頃にも行ったし、高校生の時にも集団デートで行ったりした東京ジョイポリスへ。男ばっかりで行くなんて、子供の頃でさえなかった事だが。
「海だー!」
「海だー!」
って、みんな東京湾を見て感激している。ゆりかもめに乗りたいと言うので、新橋で集合して乗ってみた。子供に交じって一番前に陣取る俺たち。すっかりお上りさんだ。
「この2年、東京に住んでたんだろ、みんな」
俺が言うと、
「だけどよ、こういう所に遊びに来る事はなかったんだよ。渋谷とか、新宿には行ったけど」
「俺は秋葉原には行くけど、おしゃれな所にはさっぱり」
牧谷と鷲尾が言った。まあ、喜んでくれたなら良かった。
 ジョイポリスでは、雪哉の笑顔がたくさん見られた。他のやつらもきっと笑顔だったのだろう。気分悪くなったやつもいたけど、そんな事は記憶にも残らん。
 居酒屋に行く為に場所を移動した。観光地のおしゃれなレストランは、俺ら5人には似合わないので。新橋の居酒屋に入った。
「今日は楽しかったね」
雪哉が俺にそう言った。
「そうだな」
俺は、酔ったふりをして(お決まりの!)雪哉の肩に腕を回した。どうするかな、と思ったが、雪哉は特に嫌がりもせず、そのまま飲んでいた。
「あ、ちょっとミッキー、それはダメだよ!」
「ああ!抜け駆けはダメだぞー!」
本当に酔っているらしい鷲尾と牧谷にダメ出しをされてしまった。
「何の事かな~」
酔ったふり、酔ったふり。更に顔を雪哉の頭にギューッとくっつける。
「こら、調子に乗るな」
雪哉にペンッと頭を叩かれてしまった。無念。

 新橋駅で解散した。鷲尾と牧谷は肩を組んでフラフラしながら帰った。2人の家は近いらしい。井村は別の電車に乗り、俺と雪哉は同じ電車に乗った。俺と雪哉の家が意外に近い事が判明。俺は頭の中で地図をパパッと検索し、ある駅で降りて途中まで一緒に歩いて帰れる事を発見した。
「涼介、流石にこの辺に詳しいね。地元民だもんね」
雪哉のやつ、多少酔っているから思考力が鈍っているな。よしよし。
 電車を降りて夜道をゆっくりと歩く。夜風が火照った顔を心地よく冷やす。だいぶ酔いも覚めてきた。そして、雪哉と2人で歩いているという事実にときめきを覚える。グラススキーがどんなものか、リゾートホテルのバイトがどんな感じなのか、そんな話を聞きながら歩いた。時々手がぶつかる。気にしないふりをする。手を握りたい衝動に駆られる。小指をほんの少しだけ動かして探りを入れる。だが、そうこうしているうちに分かれ道に着いてしまった。
「ここから俺はこっち。雪哉の家はあっちね。大丈夫か?家まで送って行こうか?」
「大丈夫だよ。GPSあるし。スマホ見ながら帰るから」
まあ、そうだろうな。
「そっか」
「うん」
人気の無い住宅街。立ち止まったまま、俺たちは一瞬黙る。
「じゃあ、またね」
雪哉がそう言った。俺はつい、雪哉の腕を掴む。そしてもう片方の手を雪哉の肩に置く。顔を近づける。どうか逃げないでくれ。
 雪哉が目を閉じた。俺は、そっとキスをした。
 やったぜ!俺は小さくガッツポーズをする。雪哉は逃げなかった。キスをして、それから所在なげに瞳を揺らして走り去って行った。雪哉が見えなくなってから俺も家路へと歩き始めたが、思わず1人でガッツポーズをかましたのだ。今日はこの為に遊びを企画し、手順を踏んできたと言っても過言ではない。やっぱり雪哉は俺の事が嫌いではない。いや、きっと好きだろう。いやいや、絶対好きなんだ。俺は確信した。
 社会心理学の授業。もうお約束のように隣に座る俺と雪哉。一番後ろの席だから、教授がこちらを見ていなければ誰にも見られていない。教授がホワイトボードに文字を書いている最中、机の上にある雪哉の手の上にそっと手を乗せた。すると……。
「いで!」
思わず小さく声が出た。雪哉が反対の手で俺の手をつねったのだ。わーお、見事に爪の跡が付いて周りが赤くなった。俺はびっくりして雪哉の顔を見た。雪哉は済ました顔でノートを取っている。なんで、なんでなんだよー。俺たちは両想いじゃないのかよー。無念。
 つまり、雪哉は多分俺の事が好きなのだが、やっぱりつき合ってはくれないという事なのだろう。雪哉にはれっきとした恋人がいるから。ああ、どうしたらいいのだろう。どうしたら雪哉は俺の物になるのだろう。毎日そればかり考えてしまう。そして、あの夜交わしたキスの事ばかり思い出す。
 金曜日の放課後。バンド練習に集まった。神田さんはまたもやスーツ姿で現れた。
「就活、順調っすか?」
シオンがそう聞くと、
「まあな。1つ内々定をもらったぜ」
と神田さんが言った。
「マジっすか?どんな会社?」
俺が聞くと、
「大手レコード会社、の下請け業者」
と言って、ちょっと笑う神田さん。
「音楽関係か。ブレないっすね、神田さん」
俺がそう言うと、
「まあな。どんな会社でもいいから音楽に携わっていたいんだ」
上着を脱ぎながら神田さんはそう言った。ワイシャツの袖をまくり上げ、ギターを弾く神田さんの姿はどう見てもかっこいい。大人なんだけど、世の中の大人には染まらないようなブレないかっこ良さを漂わせている。雪哉がこの人から離れられないのは、単に義理人情の問題だけではないのだろう。やっぱりかっこいいし、包容力がある。負けられない。けど今はまだ負けている。俺が、これだけは譲れないという何かを持たないと、この人を超えられない。いや一生超えられないかもしれないけれど、雪哉に対してだけは、どうしてもこの人に勝たなければならないのだ。人生における難題だ。一体どうしたらいいのか。
「ところで涼介、お前、雪哉にちょっかい出したりしてないだろうな」
突然そう聞かれて、ドキッとしてしまった。
「な、何言ってるんだよ。ただ、友達としてつき合ってるだけだよ」
挙動不審になってしまった。先日のあれ(キス)は、酔っていて何も覚えていない事にしよう。
 夏休みになった。俺ら3年も就職活動の一環で、企業のインターンシップに参加する。まだどんな職業に就きたいのか分からず、手当たり次第に受けた。商社1社に何とか合格し、無事インターンシップに参加する事ができた。
 バイトもした。何せ合宿費用を捻出せねばならない。今までやっていたコンビニのバイトに加えて、ビラ配りのバイトもした。
 そうして、8月上旬にスキー部の合宿に出かけた。夜行バスで新宿を出発し、明け方に到着した先は思いの外涼しかった。山の上は涼しい。朝は特に涼しい。
「おー!涼しい!」
バスを降りて皆口々に言う。伸びをする人も。今回は自家用車では行かないそうだ。グラススキーは雪上スキーとは板なども別物で、そういった道具は全てスキー場で借りる事になっている。それに、この後そのままリゾートホテルでバイトをするので、自家用車があると厄介なのだそうだ。
 合宿は2泊3日だ。宿泊施設の部屋に荷物を置き、スキー場へ集合した。冬のスキーとは違って軽装備。Tシャツとハーフパンツという出で立ち。
 俺は初めてグラススキーというものをやった。キャタピラになっている板でガタガタ言わせて滑るのだ。止まり方などけっこう雪上スキーとは違うのだが、基本的なスキルは同じだと言う。
 そんでもって、やっぱり雪哉はグラススキーも上手い!滑る姿がカッコイイの何のって。
「はぁ、どうしてそんなに格好良く滑れるんだい?」
滑り去った雪哉に聞こえるはずもないのに、思わずそう呟く俺。だが、俺だけではない。雪哉が通った後には、部員みんながボーっと見とれている。
 スキー場はたいして広くはない。最初は遊びで滑っていたが、慣れてくると雪哉が言った。
「スキーと基本動作は一緒だから、意識して滑ろう。まずこの練習から」
そう言って見本を見せてくれた。出来ない、出来た、ああでもない、こうでもないと、皆楽しそうに滑っている。
「雪哉、もう一回見本を見せて」
俺はわざとそんな事を言って雪哉を滑らせた。とにかく雪哉が滑っている姿が見たい。
「どう?分かった?」
うっかり見とれていたら、下から雪哉に聞かれて焦った。
 4年生は就活が忙しいようで、合宿には参加しなかった。そして、新しい部長には雪哉が選ばれた。そりゃあもう、誰だって雪哉なら文句なし。こんなにスキーが上手いのだから。
 2日目の午後、自由時間になった。すると夕方から天気が悪くなり、突然土砂降りの雨が降り出した。俺たちはずぶ濡れになって集合場所のラウンジに戻ってきた。
「降りそうだとは思ったけど、ずいぶん早かったな」
「突然土砂降りだもんな」
皆、口々に言い合っている。
「全員揃ってるかな?」
雪哉がみんなに向かって言った。お互い顔を見合わせる部員達。雪哉は人数を数えた。
「あれ、1人足りないな」
数え終わった雪哉が言う。
「あ、森下がいないんじゃ?」
1年生の森下がいない事が判明した。外は土砂降り。雷も鳴っている。
「嘘だろ。こんな天気の中、まだ外にいるのか?」
井村が言った。
「探しに行こう。何かあったのかもしれない」
雪哉がそう言って真っ先に外に出ようとするので、俺は慌てて止めた。
「待て。こういう時はリーダーが動いちゃダメだ。みんなで手分けして探すから、雪哉はここに居て、みんなからの報告を待つべきだよ」
俺が言うと、
「でも」
雪哉はやっぱり出ようとする。すると他の部員達が、
「俺、探してきます!」
「俺も!」
と言って、次々に出て行った。
「みんな……無理しないでね!」
雪哉が言った。
「俺も行ってくるわ」
「俺も行くよ」
鷲尾や牧谷も飛び出して行った。俺も行こうと思ってドアに手を掛けると、
「ミッキーはここに居てやれよ。ユッキーと一緒に」
井村が言った。
「え?」
「ユッキーも独りじゃ不安だろうから」
そう言って井村も出て行った。俺はその場に残る事にした。立ち尽くしたままの雪哉。俺は雪哉の頭をポンポンと軽く叩いた。雪哉は振り返り、ほんの少し笑った。
 しばらくして、びしょ濡れになった部員達が戻ってきた。いつの間にか宿からタオルをたくさん借りてきた女子部員達が、帰ってきた男子部員に次々とタオルを渡している。
「いないっす」
「ダメだ、どこにもいない」
やはり森下は見つからない。
「……どうしよう」
雪哉は呆然と立ちすくんでいる。えーと、こういう時は。
「助けを呼ぼう。うん、それだ」
俺はスマホを取り出そうとして、ふと手を止めた。いや待てよ……。
「こういう時は110番?それとも119番?」
いつの間にか雪哉がスマホを手にしている。そしてパニクっている。
「ちょっと待て。その前にリフトの所にいる職員に伝えた方がいい。適切に連絡してくれるよ」
俺はそう言った。それを思いついた時、少し冷静になれた。そして今度は俺が、ラウンジを飛び出してリフトの所へ走って行った。
 スキー場の職員や救助隊が捜索してくれた。森下は滑落して森の中にいた。雨をしのぐためにくぼみに身を隠していたので、俺たちには見つけられなかったようだ。雪の季節ではないので幸い凍える事もなく、無事森下は俺たちの元に戻ってきた。だが、足を怪我してしまったので、その後病院へ行って手当をしてもらい、そのまま実家に帰ることになった。
 「可愛そうだったけど、とりあえず一件落着だな」
牧谷が言った。俺たち3年生男子の部屋である。
「みんな、ありがとう。僕パニクっちゃって、全然ダメだったよ。部長失格だよね」
雪哉がそう言って、ちょっと俯いた。
「ユッキー何言ってるんだよぉ、そんなことないよぉ。誰だってパニクるって」
「そうだよ、ユッキーは良くやったよ。森下は無事だったんだし。ね」
鷲尾と牧谷が必死に慰めている。どさくさに紛れて、雪哉の肩をポンポンしたり、腕を掴んだりしている。むむ。
 すると、ふと雪哉が俺の方に目を向けた。何?と目で訴えかける。すると、
「あー、涼介もありがとう。いっぱい頼っちゃったね」
うっわー、可愛い。ちょっと照れた様子でそう言った雪哉に、うっかり心奪われる俺。
「意外と頼りがいがあるじゃん、涼介」
ちょっとおどけてそう続けた雪哉に、
「い、意外とは何だ、意外とは。心外だな」
俺もおどけて口を尖らせた。雪哉が声を上げて笑った。俺はにやけるのを我慢した。いや、我慢しきれていなかったかもしれない。
 3日間のグラススキー体験が終わると、部員達は近くのリゾートホテルに移動した。午前9時にホテルに入り支配人に挨拶をすると、
「S大スキー部のみんなね。よろしくね。とりあえず、いくつかのパートに分かれてもらうから。君と君、そして君は受付をお願いします」
支配人の女性は俺と雪哉、井村を差してそう言った。
「君と君は、エントランス担当ね。後のみんなはレストランの方を担当してもらいます」
鷲尾と牧谷がエントランス担当になった。
 まずは着替えて受付業務の内容を教えてもらい、午後からは本格的に仕事が始まった。宿泊客に対しチェックイン業務を行う。
「君、接客業向いてるんじゃない?なかなかいいわよ」
客が途切れた時に、支配人からそう言われた。隣にいた雪哉がふふふっと笑った。
 夜の10時頃、やっと1日の仕事が終わった。レストラン係も夕食時はずいぶん忙しかったようだ。俺たちは寮へと向かう。とりあえずの置き場に置いておいた荷物を担ぎ、隣の建物へ。部屋は、基本的に仕事内容別に分かれると言われて、俺たち受付担当3人が同室となった。鷲尾と牧谷が羨ましそうに俺たちの方を見ていた。悪いな、お前たち。
 シャワールームと3つのベッド。ホテルの客室ほどではないが、それなりに快適な部屋だった。
「あー疲れた~。仕事ってやっぱり大変だね」
井村がベッドに倒れながら言った。つまり、そのベッドを自分用にするらしい。3つのベッドは2つがほぼ並んでおり、1つはその2つのベッドの足下に横に置いてある。井村はその足下にあるベッドに寝そべったのである。
 必然的に、俺と雪哉は隣同士のベッドになった。俺は手近な手前のベッドに腰を下ろした。
「意外と楽しかったな。俺、接客業が向いているのかもなあ」
俺が言うと、
「そりゃあ、そのルックスだからね。ミッキーは接客をやるべきだよ。少なくとも若い内はね」
井村が言う。
「そうそう」
雪哉もそれに同調して、そう言った。言って、あははと笑う。
「その笑いは何だよぉ」
ちょっと唇を尖らせて言うと、
「あはは、いや、ルックス抜きでも向いていると思うよ、涼介は」
雪哉がそう言ってくれた。
 それぞれシャワーを浴びて寝ようとしたところで、井村が財布を手に取り、
「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ。先に寝てて」
と言って、部屋を出て行った。自販機はこの建物内にはなく、一度外に出ないとならない。この部屋は3階なので、それなりに時間がかかると思われる。つまり、その間俺と雪哉は部屋で2人きりというわけで……。
 こんなチャンス滅多に無いし、あんまり時間もな。俺はキッと雪哉の方を振り返った。びっくりして荷物をまさぐっていた手を止めた雪哉。俺は雪哉のベッドに両手をつき、ずいっと雪哉に近づいた。
「な、なに?」
雪哉がちょっと身を引く。何って、決まってるだろう。
「ダメだよ」
雪哉が言う。
「何が?」
俺は言いながらじりじりと近づいていく。雪哉は俺の両肩に手を置き、押し返してくる。それでも俺は片方の膝もベッドに乗せ、体重を徐々に雪哉の上に乗せる。
「ちょ、ちょっと。涼介ってば」
だんだん倒れていく雪哉に覆い被さろうというその時、
「ただいま~」
「ユッキーお疲れ!」
「飲み物買ってきたよ~」
ハッとしてその場で凍り付いた。入り口を振り返ると、入って来た3人も固まっている。
「な、にをやって……?」
鷲尾がこっちを指さして震える声で言う。俺は雪哉をベッドに押し倒した状態だった。
「わっ!」
とにかく立ち上がった。
「いや、何もしてないよ」
苦し紛れの言い訳。いや、言い訳にもなっていないか。
「まさか、ユッキーを襲ってたなんて事は……」
牧谷も震える声で言う。
「ま、まさか。そんな事するわけないじゃん。あはは、やだなあ。すぐに井村が帰ってくるのに、変な事しないって」
俺が空笑いをして言い訳すると、
「そうだよなぁ、俺はただ自販機へ飲み物を買いに行っただけなのに」
井村が助け船を出してくれた。でも、ずいぶん早かったじゃないか?
「買ってきたの?」
雪哉が井村に聞くと、
「それがさ。ワッシーとマッキーが俺たちの分まで買ってきてくれたんだって。階段の途中で会って戻ってきたんだよ」
あ~だから早かったのか。ちぇっ、運が悪かったな。
「仕事の終わりには1杯のビールでしょ!」
牧谷がビールの缶を掲げた。
「おー、いいね」
俺は大袈裟に歓迎した。
「明日も仕事だから、1缶だけな」
鷲尾もそう言って、袋からビールの缶を出してくれた。
 翌朝、目覚ましが鳴るより前に目が覚めた。見慣れない天井に一瞬思考が停止する。ああ、そうだ。リゾートホテルの寮だった。そして、ふと隣のベッドへ視線を向ける。そこには愛しい雪哉が眠っていた。
 そっと起き上がり、足下の井村を確認する。井村は向こうを向いて眠っている。よし、これはチャンス。雪哉がこちらを向いて眠っているので、俺は静かに顔を近づけ、そうっと口づけをした。すると雪哉がパチッと目を開けた。口を開きかけた雪哉に、俺は指をしっと立てて制する。そして、井村の方を確認しようとしたら、
「あーあ、もう朝?」
井村が伸びをしながら起き上がった。危なかったー。
 1日の仕事が終わり、部屋に戻った。雪哉がシャワーを浴びている時の事。
「あのさあ、ミッキーとユッキーってつき合ってるの?」
井村が突然そう聞いてきた。
「え!?いや、違うけど」
何だか慌ててそう返す。
「でもほら、今朝の……」
井村はそう言って、俺たちのベッドを指さした。ああ、今朝のあれを見ていたのか。やっぱり。
「それは……参ったな」
俺は頭をかく。
「正直に言えよ。他のやつには黙ってるからさ」
「うん。いや、でもつき合ってはいないんだ。雪哉には恋人がいて、俺とはつき合えないって。でも、俺は諦めてないっつうか」
「へえ、そうなのか。ハハハ、ワッシーとマッキーが知ったら泣くな」
笑い事でもないけどな。
「でも、あの感じだと、ユッキーもまんざらじゃ無さそうだよね、ミッキーの事」
井村が言う。
「え、そう思う?やっぱり?」
つい嬉しくなる。
「まあ、ミッキーはイケメンだからなぁ。好かれて悪い気はしないんじゃないの?ユッキーがそういうキャラかどうかは知らんけど」
「そういうキャラって?」
「つまり、軽いキャラなのかどうか」
軽いキャラなら、ちょっと見てくれの良いやつに言い寄られたらフラフラっと行くけれど、雪哉がそうでないなら、そう簡単じゃないぞという訳か。雪哉は、軽いキャラ……ではないだろうな。そこが良い所なわけだし。あの可愛い顔とのギャップというか。
 そこで、俺の電話が着信した。画面を確認すると、友加里からだった。
「あ、電話だ。ちょっと話してくる」
俺はそう言って部屋を出た。ちょうど雪哉がシャワールームから出てきたところだった。
 廊下に出て、電話に出る。
「どう?雪哉くんとは上手くやってる?」
友加里が言う。
「まあ……そこそこ」
歯切れの悪い返事しかできん。
「私の方はね……」
なんと、友加里はまだ神田さんの事を諦めてはいなかった。作戦を続けていたのだ。作戦と言っても、もう俺の為の作戦ではない。自分が神田さんをモノにしようという大作戦に移行されていた。
「慎重に行く事にしたのよ。そんでね、今日2人で飲みに行く事になったの!前みたいに色仕掛けとかはナシで……」
色々と作戦を話してくれた。そうか、地道に頑張ってるんだな。派手な見た目な友加里が意外なところを見せたら、そのギャップで男はイチコロなのかも?俺にはよく分からんが。頑張れ、友加里。その間に俺もこっちで頑張るぞ。
 待てよ。そうか……ギャップねえ。俺の見た目って、きっと軽いやつなんだろうな。俺も、いつも攻めてばっかりじゃなくて、もうちょっと地道に好かれる努力をしてみるか……。よし、決めた。しばらく雪哉に手を出さないぞ。
 部屋に戻ると、雪哉がチラッとこちらを見た。何か言いたげな様子。だが言わない。
「ん?どうした?」
俺が声を掛けると、ちょっと迷った後、
「電話、してたの?」
と聞いてきた。何々?俺に興味があるのかい?
「あ、うん。友達から掛かってきて」
だが、さりげない様子で返す。今、井村がシャワールームにいるようで、シャワーの音が聞こえていた。もうすぐ出てくるだろう。
「あ、そう」
目を泳がせた雪哉。誰からか聞きたいのだろうか。でも、何を気にしているのだろう。俺が雪哉にぞっこんなのは既知の事実なのだし、俺が誰かと話していたからって、何も気にする要素はない気がするけどな。
 1週間のバイトがもうすぐ終わろうとしている。だいぶ仕事に慣れたと思ったら終わりだ。しかし、我が家に早く帰りたいという思いは強い。とにかくゆっくり寝たい。
 最後の夜。仕事が終わって部屋に戻ってくると、井村が俺にこっそりと言った。雪哉がシャワー中に。
「今夜2人きりにしてやるよ。俺はワッシー達の部屋で寝るから」
「マジで?でも、あいつらがそれを認めるかな」
鷲尾と牧谷が、俺と雪哉の2人きりを許すとは思えないが。
「この部屋にまず呼んで、酔わせてから俺が2人を送っていって、そのまま戻って来ないってのはどうだ?」
「ナイスアイディア」
俺は親指を立てた。
 事は順調に運んだ。鷲尾と牧谷は、こっちに呼べば当然来る。雪哉がいるからな。そして、あいつらは酒に弱い。
「お前ら、そろそろ自分の部屋で寝ろ。しょうがねえなあ、俺が連れていってやるよ」
井村はそう言うと(ちょっとわざとらしい気がしたが)、2人の背中を押して部屋を出て行った。サンキュー井村。恩に着るぜ。
 さて、俺と雪哉は2人きりだ。ベッドは隣同士。この間誓った通り、俺はこの数日雪哉に手を出さないようにしてきた。普通の友達として接した。それでも、毎日同じ部屋で寝起き出来たので、俺は満足だった。
 俺たちは缶ビールを飲んでいた。それぞれのベッドに腰かけて、向かい合っていた。
「もっと飲む?缶ビール買って来ようか?」
俺が言うと、雪哉は首を横に振った。
「もう十分。3缶目でしょ、飲み過ぎなくらいだよ」
「可愛い事言うじゃん」
俺が笑って言うと、雪哉の顔の赤みが急に増した気がした。
「あ、あのさ」
「何?」
「涼介、最近あんまり……何て言うか。何もしてこないよね」
雪哉は、ちょっとろれつが回っていない感じだ。
「何もって、何を?」
「またまた~、とぼけちゃって。前は2人きりになれば、すぐに色々してきたでしょ」
「色々って、例えば?」
意地悪く、俺は聞く。
「例えば~、手をこう、ぎゅっとしたりぃ、頭をポンポンってしたりぃ、あとぉ、チュウとかぁ」
目が半分据わっている。こりゃ後で記憶がないやつだな。
「して欲しいの?」
俺は笑いながらビールを飲む。
「そ、そういう訳じゃないけどぉ、急にしなくなるとぉ、嫌われたのかなぁとかぁ、思ったりぃ」
「え?」
笑っても居られなくなる俺。俺が諦めたのだと思われては元の木阿弥。努力の甲斐無しだ。我慢した意味が無くなる。
「そんな事ないよ。俺は、雪哉の事が好きだよ。好きだから、もっと大切にしようと思ったんだ。でも、雪哉がして欲しいなら、もちろんしてあげるよ」
俺はビールを小机に置き、雪哉の片手を両手で掴んだ。
「雪哉は?俺の事、好き?」
じっと雪哉の顔を見る。今や真っ赤な顔の雪哉。
「僕はぁ、涼介の事……好き……になっちゃいけないからぁ」
ぐさっ。マジか。俺は手を離した。すると、雪哉は明らかに悲しそうな顔をした。そして体ごと横を向き、足を抱えてお山座りをした。
「涼介はぁ、モテるじゃん。もう彼女とか出来たのかなーって、電話も掛かって来てたしぃ。それに支配人なんていっつも涼介の事見てるしぃ、涼介がもし誘ったら絶対にOKしそうだしぃ、だからぁ……」
「雪哉?何言ってるんだ?」
電話って何の事?支配人が何だって?
「だからぁ、僕の事なんてもう辞めたのかと思ったんだよ。涼介は、その気になればいくらだって恋人作れるしぃ、僕なんて……」
雪哉は片手に持っていたビールをグビグビっと飲み干し、空の缶を小机の上に手を伸ばして置いた。その後、雪哉はお山座りの膝小僧に顔を埋めた。なんだか可愛そう。俺の事で悩んでいたのだろうか。俺ならいつだってOKなのに。それでもやっぱり、神田さんに恩義を感じているのか。どっちなんだよ雪哉。俺の事が好きなんだろう?違うのか?
 俺は雪哉のベッドに乗り、雪哉の後ろに座った。そして、後ろからそっと抱きしめた。
「悩ませちゃって、ごめんな」
雪哉が言うような、俺が「その気」になるなんてのは、雪哉以外には考えられないのに。雪哉だけを待っているのに。そうして、俺はいつまでも雪哉を後ろから抱きしめていた。いつの間にか眠りの淵に追いやられ、気がついたら雪哉のベッドの上に倒れていた。まだ、腕の中には雪哉の背中があった。一晩中後ろから抱きしめていた。雪哉もそのまま倒れて眠っていた。

 「お前らもしかして、ずっとその状態だったん?」
いきなり声が降ってきて、びっくりして飛び起きた。井村が自分のベッドに座ってこちらを見ていた。
「うん?あれ、もう朝?寝落ちしちゃったんだ、僕」
雪哉が目を擦りながら起き上がった。しまったー、せっかく2人きりだったのに。もう少し何かこう、ロマンティックな事が出来ただろうに。ほとんど眠っていたなんて……不覚。
「僕、シャワー浴びてくるね」
雪哉がシャワールームへ入っていった。
「まあ、そう落ち込むな。酒が入りすぎたか?」
井村が俺を慰める。慰める割に、ちょっと笑っている。俺は何も言わずに井村を軽く睨んだ。
 合宿の帰りもバスだった。今度は日中を新宿へ走る。みんな疲れが溜まっていて、バスの中ではほとんどの人が寝ていた。それにしても、やっぱり雪哉は俺を受け入れてはくれなかった。酔っていたのに、俺を好きになってはいけないと言って。雪哉は今、俺の斜め前の席に座っている。手を伸ばせば届く距離にいるのに、顔は見えない。いつも、俺たちはそんな距離にいる気がする。