俺たちのバンドは「スライムキッズ」という名である。一応大学のサークルである。サークルとして登録すると何がいいって、大学内の練習室を使える事だ。スタジオを借りれば金がかかる。その点、学内の練習室は無料でありがたい。時々学内に入れない時もあってスタジオを借りる事もあるのだが。入試のシーズンとか。
 俺たちスライムキッズにはファンがいる。まあ10人くらいだけど。それでも毎回ライブに来てくれて、ライブ後には取り囲まれたりする。他のメンバーには、
「涼介、もっと愛想良くしろ」
と言われる。だが、よく知らない女が、
「リョウスケー!」
などと言って来るのは多少抵抗がある。まあバンド内での俺はRyosukeという事になっているから、そうなるのも仕方ないのだが。ただ、俺たちは単独ライブではなく、ライブハウスのイベントに参加させてもらう事が多いので、アウェイ感を感じる場所もあるわけだが、そんな時にファンの人達が来てくれるととても安心する。だから、ありがたいとは思っている。
 そして春休みのライブ当日である。会場は、渋谷の外れにある地下の小さいライブハウスだ。駅前で待ち合わせたバンドメンバー4人は、揃ってこのライブハウスにやってきた。
「ここ、初めてだね」
俺が言うと、
「そうだな」
メンバーの1人、ドラムのシオンが言った。ベースのシュリは、
「狭いのかと思ってたけど、けっこう広いじゃん」
と言った。シオンもシュリも俺と同じ2年生だ。
 楽屋はあるが、出演者全員は入り切らないので、荷物を置いたら客席にいる。リハーサルを順番にさせてもらい、それが終わると客が入ってくる。
「あっ、いた!リョウスケ~来たわよ~」
数人の女性が入って来て、俺たちの方へ寄ってきた。ありがたいファンの方々だ。
「うちのバンド、ビジュアル系バンドじゃないのに、よくファンが集まるよな」
「ほんとだよな」
シオンとシュリが小声で話してクスクスと笑っているのがすぐ後ろで聞こえる。だが、ファンの方々は俺にプレゼントを渡すのに夢中らしく、2人の会話は聞こえていないようだ。
「ありがとうございます」
どういうテンションでもらえばいいのか、俺はアイドルでもスター選手でもないのでよく分からない。どうもギクシャクする。
「やあ、いつも来てくれてありがとね」
そんな俺に代わって、神田さんが彼女たちの相手をしてくれる。結局話術では神田さんの方が彼女たちを夢中にさせているのだ。また神田さんに「お前は顔だけ」と言われそうだが。
 俺たちの出番が回ってきた。前のバンドが引き上げてから、自分達の楽器の用意をする。俺はマイクの準備。あと一応サイドギターを弾くのでその準備もする。ギターを持って歌うのだが、実は半分も弾けていない。だって歌いながら弾くとか無理なんだけど。だからまあ飾りのようなもんだ。歌の無い所ではちょこちょこっと弾いているけれど。
 客席の明りが消え、ステージのみが明るい状態になった。そして曲が始まる。こうなると客の顔は全然見えない。途中ミラーボールが点いてうっすらと見えるようになった。そこですかさずファンサービス。俺はなぜか、面と向かってのリップサービスは出来ないのだが、ステージと客席に分かれていると割と大胆なファンサービスが出来るのだ。一人一人を指さしてウインクしたりとか。
 客席からキャーキャーという悲鳴が上がり、満足する。そして神田さんのMCが入って2曲目になった。今度は割と客席が明るくなった。すると……。
 自分の目を疑った。目の前に雪哉がいたから。客席には椅子があり、後ろにはバーがある。そのバーのカウンターのところに立っている客もいる。もちろん、この中には出演者も混ざっているわけだが。雪哉はカウンターと客席との間に立っていた。ほぼセンターに立っていた。荷物を持たず、上着のポケットに手を突っ込んで、こちらを見ていた。

 自分達の歌を3曲やって、俺たちはステージを下りた。ギターを片付け、楽屋に荷物を取りに行く。その時に俺は雪哉を目で探した。さっきはセンターに立っていたのに、あっという間にどこかへ消えたのだ。
 探していたら、出入り口近くに立っている雪哉を見つけた。俺は思わず走り寄る。
「雪哉、来てくれたの?」
「うん」
雪哉はやっぱりニッコリしてくれる。会いたかった、ずっと会いたかった。俺は今ものすごく感動している。でも……俺、ライブの事知らせたっけ。ああ、神田さんがスキー部のグループLINEに宣伝流していたか。
「今日も、良かったよ」
ちょっと歯切れが悪い。社交辞令ならもっとさらっと言いそうなものなのに。
「ありがと。あのさ、これから」
と言いかけた時、ダーッとファンの方々が押し寄せてきた。
「あ、俺荷物取ってくる!」
俺は慌ててそう言うと、楽屋へ一目散に逃げ込んだ。神田さんがいないと、ファンの方々とは上手くつき合えないのだよ。
 楽屋から荷物を出して来て、メンバーみんなでライブハウスを出た。もう俺らのファンや雪哉も外へ出ていた。ファンの方々にはそれなりにおしゃべりにお付き合いし、帰ってもらった。
「んじゃ、今日は解散かな」
「おう。またな」
俺たちはそれぞれ帰る事にした。だが雪哉は俺たちを待っている。俺がちらっと雪哉の方を気にすると、神田さんが、
「涼介、ちょっと飲むか?」
と俺に言った。
「え?雪哉は?」
俺が言うと、
「もちろん、雪哉も一緒だ」
と言って笑う。俺は心の中でガッツポーズ。
「じゃあ、俺も行くよ」
だが、すましてそう言った。にやけるのを必死に堪えて。

 雪哉と神田さんと3人で居酒屋へ行った。端っこの席にしてもらって、角の壁にギターを2本立てかけた。そして生ビールで乾杯する。
「乾杯~!」
ジョッキをカチンと合わせ、ぐっと一口飲んだ。そして、
「雪哉、ライブどうだった?」
と聞いてみた。
「うん、今日も良かったよ」
事も無げに言う。
「今日もって、前にもライブに来てくれた事あるの?」
俺が驚いて雪哉の顔を覗き込むように言うと、雪哉はちょっと照れたように笑った。
「あるよ」
そう言った。知らなかった。
「じゃあ、俺の事見たことあったんだ。スキー場で初対面かと思ってた」
何だか腑に落ちない。俺も雪哉を見た事があっただろうか。いや、こんなイケメン一度見たら忘れないのに。それにしても、演芸会で紅蓮華をやったのも、実は雪哉には目新しい物じゃなかったのか。何だか色々恥ずかしいな。
「ちょっとトイレ行ってくるな」
神田さんが席を立った。俺と雪哉ははす向かいに座っていた。何となく2人きりになるのは照れる。実は初めてかもしれない。いや、周りに知らない人はいるんだけども、知っている人が見ていないのは初めてかも。
「僕、実は……ファンなんだ」
雪哉が何か言ったが、最後は小さすぎて聞こえなかった。
「何?ファンとか言った?」
と俺は雪哉に聞いた。
「あ、うん。あのね、僕ずっと涼介のファン、だったんだ」
そう言うと、雪哉は畳んだおしぼりで顔を隠した。
「!」
呼吸が止まったかと思った。ファンだと言われる事はたくさんあったけれど、今までとは全然違うものを感じる。喜びというか、衝撃というか、動悸息切れ、興奮……。
「ゆ、雪哉!俺、俺さ、雪哉の事が好きなんだ。好きに、なっちゃったんだ」
思わず勢いで言ってしまった。すると雪哉がおしぼりをポタッとテーブルに落した。ああ俺たち、もしかして両想い?そうなの?
 と、興奮している所へ神田さんが戻ってきた。忘れちゃいけない、今は2人きりのデートではないのだ。
「どうした?なんか……緊迫してないか?」
神田さんが言う。俺は一度唾を飲み込んだ。落ち着け、まずは落ち着こう。そして、闇雲にビールをグビグビっと飲んだ。
「すいません!お代わり!」
俺がジョッキを上げて店員に向かって言うと、
「あははは、お前が大きい声出すと目立つよな。無駄にイケメンだからよ」
神田さんが俺を見て笑う。そして隣に座っている雪哉を見る。雪哉が黙ってうつむいているので、神田さんは雪哉の頭に手を置いた。
「どうした?何かあったのか?」
そう雪哉に声を掛け、次に俺の顔を見る神田さん。むう。なんと言えばいいのやら。何も言わない方がいいのやら。俺が目を泳がせていると、
「まさか……」
神田さんの目が、急に鋭くなった。俺と雪哉を交互に見る目が。
「え、何?」
たじろぐ俺。
「涼介、お前まさか、雪哉を口説いていたり、しないよな」
「え……」
そこへビールがやってきた。
「お待たせしましたー!」
俺たちは店員がいなくなるまで黙っていた。動きも止まっていた。今のうちに何か考えようと思ったのに、あっという間に店員はいなくなった。
「口説いてるって言うか、まあ、告ったっていうか」
ごまかしや嘘が言えない俺。バカ正直に言うと、神田さんは雪哉の肩に腕を回し、自分の方へぐっと引き寄せた。
「悪いな涼介。雪哉は俺のもんだ。お前にはやらないよ」
って!真面目な顔をして言う。嘘だろ?いや、その雰囲気は嘘じゃないような。俺は口をぱくぱくさせたが、何も言葉が出てこなかった。雪哉はやっぱり黙っていた。でもさっき俺のファンだって……。俺の頭は混乱した。そしてビールを飲み干すと、一人で店を出たのだった。
 生ビールを一気にあおったので、足下がふらつく。担いだギターに振り回され、余計に体がフラフラした。まさか神田さんと雪哉がつき合っていたなんて。ショックだ。雪哉には恋人はいないと聞いていたのに。ん?そうじゃないな。女の影がないと言われたんだ。そりゃそうだ、つき合っていたのは女ではなく男だったんだから。
 そうか。逆にこれは喜ぶべきなんじゃないだろうか。雪哉が男とつき合う気がないのなら、俺がいくら頑張っても無理だ。しかし、男とつき合う気があるならば、俺にもチャンスがあるではないか。酔っているから気が大きくなっているのかもしれないが、俺は決心した。必ず雪哉を手に入れてみせる。神田さんから奪ってやる。
 ふと、合宿中に2人が言い争っていた事を思い出した。今思えば、迫っている神田さんを雪哉が拒絶していたようだった。だとすれば、最近あまり上手くいっていないのではないか。いや、それは余りに都合良く解釈しすぎかな。

 翌日、昼まで寝ていた俺は、初めて恋の苦悩とやらを味わっていた。雪哉に会いたい。でも気まずい。話したい。でも何を言ったらいいのか分からない。悶々と夕方まで考えていて、とうとう我慢出来なくなり、俺は雪哉に電話を掛けた。
 ところが、雪哉は電話に出てくれなかった。時間を置いて何度か掛けてみたが、やっぱり出てくれなかった。翌日、掛け直してくれるかと期待して待っていたが、それも叶わず。LINEで「話したい」とメッセージを入れたが、それも既読スルー。どうやら避けられているようだ。それか、神田さんが監視していて、俺と連絡を取るのを禁止しているとか?いや、神田さんはそんな陰湿な人じゃない。と、思う。

 スキー部の合宿がもう一度あるという話だった。今度は検定が受けられるらしい。けれども、急に言われても金がないし、そもそもスキー板やブーツを買わないとレンタル代が高くつく。と言って、買い揃えるにはやっぱり金がないしで、行く事が出来なかった。きっと雪哉は行ったのだろう。行けば会えたのに。会って、気持ちを確かめたい。俺とつき合ってくれなくても、少しでもチャンスがあるのかどうか、せめてそれだけは教えて欲しい。
 4月が訪れ、3年生になった。新カリキュラムになり、最初の授業を受けに大学へ向かった。社会心理学の授業を受けに、校舎2階の教室を探して入って行った。どこに座ろうかと入り口付近で立ち尽くしていると、後ろから急いで入って来た人物と肩がぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
と言われて振り返ると、なんとその人物は雪哉だった。俺たちはお互いあっと驚いた顔をしたものの、声も出なかった。だが授業開始時間が迫っているので、とにかく席に座らなくてはならない。俺が窓際の一番後ろの席を指さすと、雪哉は黙って頷いた。そして2人でその一番後ろの窓際の机に並んで座った。
「まさか同じ授業があるとは思わなかったよ」
座ってから、俺は言った。
「そうだね。心理学に興味があるの?」
雪哉は意外に明るい声で言った。ずっと俺を避けて来たなんて事は、全然感じさせない。
「経済を語るには、社会心理を勉強するべきだろ?」
真面目な事をちょっとおどけて言って見せた。雪哉はニッコリ笑った。そう、これだよ。俺がずっと見たかったのは。
 授業が終わって、教授が去って行った。学生たちもパラパラと立ち上がり、教室を出て行く。このまま昼休みなので、学食や売店に向かうのだろう。雪哉も立ち上がろうとしたが、俺はそれを制した。腕を掴んで。雪哉はパッと不安そうな顔をした。
「ちょっとだけ、話せない?」
俺が言うと、雪哉は目をうるうるさせている。
「約束、あるの?」
もしかして神田さんと待ち合わせをしているとか?だが、雪哉はフルフルと首を横に振った。雪哉は観念したようで、腕の力を抜いた。俺も腕を放した。
「雪哉さ、俺の事避けてた?」
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。でもなんで?神田さんに何か言われたから?」
雪哉は何も答えなかった。つまりイエスだな。
「神田さんとは、本当につき合ってるの?」
「……うん。びっくりしたよね」
雪哉はそう言って、ちらっと俺の目を見た。
「まあ、そりゃあね」
ぶったまげた何てもんじゃないけどな。
「雪哉は、俺のファンだって言ったよね?それは本当の事?それとも冗談?」
「冗談なんかじゃないよ、本当だよ」
良かった。胸のつかえが少し下りた。
「それは、好きなのとは違うの?」
「え?」
「雪哉は、俺の事が好きなの?」
ちょっと迫ってみる俺。心なしか体も迫っていく。雪哉は大きな目を俺にまっすぐに向けた。
「あ……憧れ、って言うか」
言って、雪哉は視線を落した。俺はパイプ椅子を雪哉の方へ更に寄せた。雪哉の椅子は窓辺の壁にぴったりとくっついている。だから逃げ場がない。
「俺が雪哉を好きだって言ったのは、ちゃんと覚えてる?」
壁に片手をつき、雪哉の顔を覗き込む。
「涼介は女の子とつき合ってたし、まさかそんな事になるなんて思ってなかった」
雪哉は顔を背けるようにして言う。
「俺の事、知ってたのか」
「文学部では有名だったよ。涼介が彼女を取っ替え引っ替え作ってる事。梨花ちゃんが涼介と付き合い始めたのだって、僕は元々知ってたんだ」
梨花にスキー場で会った時、今初めて知ったような事を言っていたはずの雪哉。
「俺ってそんなに有名なの?」
「そうだよ。経済学部でバンドマンのイケメンだって。チャンスがあれば誰でもつき合ってもらえるって。しょっちゅう話題に上ってたよ」
なんかショック。
「今は誰ともつき合ってない。俺が、雪哉以外の誰ともつき合う気がないから。雪哉、俺の事好き?」
「ちょっと、涼介!」
雪哉が俺を押し返そうとするが、俺は止まらない。もう片方の手も壁につき、腕の中に雪哉を閉じ込めた。じっと目を見つめると、雪哉も俺の目を見つめ返した。
「俺の事、好きだろ?」
雪哉の瞳は揺れ、何も言わない。
「俺は、雪哉の事が好きだよ」
雪哉が何か言うかなと、唇を見た。けれども雪哉は何も言わない。何も言ってくれない唇を見ていたら、吸い寄せられた。俺は、雪哉の唇を奪った。
 唇が触れた瞬間、雪哉はびくっと体を一瞬震わせた。だがそのまま体の動きを止めた。俺の心が震える。しかし、唇を放した途端雪哉は俺を思いっきり押して立ち上がった。
「ダメだよ、ダメ。僕みたいな人間は一生恋人なんて出来ないって思ってたのに、神田さんが救ってくれたんだ。だから僕は神田さんを裏切れない」
「俺だって神田さんには感謝してるし、あの人はいい人だよ。でもそれと、恋愛とは別だろ?感謝とか、恩義とかで愛し合うのは違うだろ?」
俺がそう言っても、雪哉は首を横に振り、そして鞄をひっつかんで教室を出て行った。
 梨花とは無事に別れる事が出来た。梨花から会おうという連絡が来ても頑なに断り続け、とうとう梨花の方が諦めたのだ。
 俺が梨花と別れたという噂は、どうやら学内に広まっているらしい。そして今までと同様、知ってる子知らない子、色んな女子がやたらと俺に会いに来る。
「三木涼介さん、私とつき合ってください!」
通りすがりにいきなりそう言ってプレゼントを渡されたり、
「三木くん今フリーなんでしょ?今度は私とつき合おうよ!」
と腕を捕まれたり。
 いつも早い者勝ちで「彼女」にしていたから、こんな風に大勢から言われる事はなかった。だが、今の俺は以前とは違う。
「ごめん、君とはつき合えないんだ」
と通りすがりだから、それだけ言って去る。
「えー!なんでー!」
と大抵キレられる。だが俺の知った事ではない。俺が誰とつき合おうが、俺の勝手だ。

 「聞いたぜー、涼介。お前今、彼女いないんだって?彼女途切れたことなかったのに、なんと2ヶ月もフリーだなんて。やっぱりスキー部にいい人がいるのか?」
同じ授業を取る事の多い、腐れ縁が続く篠崎。新学期に会って早々これを言われた。
「何それ」
俺が素っ気なく言うと、
「噂になってるぞ。お前がスキー部の女子に惚れて、いきなりスキー部に入ったって」
篠崎が言う。そんな話になっているのか。困ったな。スキー部の女子は少ないのに、そんな噂が立ったらかなり迷惑をかけているのではないだろうか。
「なあ鷲尾、お前スキー部だよな。涼介の好きな人って誰なんだ?知ってるんだろ?」
篠崎が、すぐ前に座っている人物の肩をポンと叩いてそう言った。その人物が振り返った。
「あ、ワッシーじゃん」
俺は驚いて声を上げた。
「おぉ、ミッキー!久しぶりだね!」
鷲尾も驚いた様子でそう言った。俺らはずっと近くにいたのだろうが、知り合いになり損ねていたらしい。スキー部に入った事で、やっとお互いを認識したのだ。
「鷲尾、どうなの?涼介の好きな人、知ってるんだろ?」
篠崎はしつこく聞く。
「好きな人?いや、知らないけど」
鷲尾はそう言った。
「そうなのか?でも、心当たりくらいはあるんだろ?」
いや、篠崎しつこい。鷲尾は俺をじっと見た。その様子を見て篠崎が、
「あ、やっぱり心当たりあるんだな?誰?何年生の人?」
と迫る。
「心当たりは、あるにはあるけど」
おいおい、鷲尾。
「誰、誰?」
篠崎が更に迫るが、
「多分俺と同じ人だから、言わない」
「マジ?マジかあ。そんなにモテる人なのか。ますます興味持っちゃうなー。俺もスキー部に入ろっかなー」
頼むから辞めてくれ、篠崎。だが、鷲尾はやっぱり心当たりありか。そして、それはバッチリ正解だよ。
「そうだミッキー、今日部活あるけど行く?」
鷲尾は俺にそう言った。
「え、うそ!スキー場行くの?」
俺はびっくり。
「何言ってるんだよ、そんなわけ無いだろ。階段でトレーニングだよ。週に一度トレーニングがあるんだ。そろそろLINEに集合時間が入ると思うよ」
「そ、そうか。びっくりした。トレーニングね。うん、行くよ」
とにかく雪哉に会えるのは嬉しい。

 校舎の1階、階段近くの廊下で集合したスキー部。きっといつもは少人数でひっそりと行っていたのであろう。なのに、何だか今日はギャラリーがざわついている。それぞれジャージ姿などで集合した俺たちを、普通の私服を着た人達、主に女子が遠巻きに見ていた。
「なんか、やりにくいな」
部長の山縣さんが言った。山縣さんは4年生で、そろそろ部長を引退するらしい。次の部長をどうするか、夏休みには決めるそうだ。俺たち3年生の中で。
 俺らは準備体操をし、階段を1階から5階まで10往復走った。スピードはゆっくりだが、階段なので相当きつい。因みに女子は5往復だった。雪哉はいたけれど、俺の事はやっぱり避けていて、近づく事が出来なかった。
 女子が先に終えて1階で休んでいるのを、俺ら男子は横目で見ながらまた階段を上がって行くわけだが、何だかギャラリーの女子たちがスキー部の女子にズリズリと近寄っているように感じた。気のせいかと思ったが、俺が10往復して戻ってきた時には、そのスキー部内外の女子が混じり合っていた。ちょっと興奮気味な声も聞こえる。
「あれ、どうしたの?」
先に到着していた井村に聞いてみた。すると、
「君の事を話していたみたいだよ」
と言われた。何だって?
 俺が廊下に座りこむと、スキー部の女子が俺の元へやってきた。
「三木くん、ちょっといい?」
威圧的な声。
「はい?」
座ったまま4年生の女子の先輩を見上げると、
「迷惑なんだけど。私が変に疑われているみたいで」
と言われた。
「は?何ですか?」
「三木君を取るなとか?ハッキリしろとか?何だか訳わかんない事言われるのよ。つまりあれでしょ、三木君の好きな人がスキー部にいるという噂が流れていて、つまり私たちの中にいると思われてるんだよね?でも、どう考えても違うよね?全然そんな素振りは見せないし。三木君、ちゃんとハッキリ言ってやってよね。好きな人はスキー部の女子じゃないって」
ごもっとも。
「はい。ご迷惑をおかけして、すみません」
俺は小さくなって頭を下げた。
「頼むわよ」
先輩はそう言って俺の元を去った。何のしっぺ返しなのか。女を甘く見ていたせいなのだろうか。ないがしろにしていたからだろうか。
「しかし、どうやって……」
言ってやってと言われてもね。聞かれれば違うと言えるけれど。ああ、でもスキー部に好きな人がいるのかと聞かれたらノーとは言えないぞ。スキー部の女子かと聞かれたら違うと言えるけれど。
 「はあ」
授業が始まる前、机に突っ伏して思わず溜息をつく。雪哉と仲良くなりたい。今思えば焦りすぎた。いきなりキスまでしちゃってさ。もっと普通に友達として仲良くなって、一緒に出かけたりして……。もう遅いけどな。
「どうしたん?溜息なんてついて」
ここにも出没する篠崎。
「俺、恋愛経験がなさ過ぎてダメだ。どうしたらいいんだか」
思わずそう呟くと、篠崎は珍しく何も言い返さなかった。不思議に思って顔を上げると、篠崎は固まっていた。3秒後に動き出した篠崎は、
「お前ねえ。恋愛経験がないだと?どの口が言うんだか」
と、やはり悪態をついた。
「いや本当にさ、ちゃんと人を好きになった事がなかったから」
「ふうん。つまり、今は好きな人が出来たってわけだな。どうして告白しないんだ?」
篠崎は、誰なのかとは聞かずにそう聞いた。
「したさ」
俺はそう答える。
「で、ダメだったわけ?」
「うーん、俺の事は好きなんだと思うんだけど、既に恋人がいるからダメだって」
「はあ、なるほどねえ」
篠崎は感慨深げに言った。
「どういうことか何となく掴めたぞ。そうか、相手は律儀な人なんだな」
律儀か。
「なんかいい方法ないかなあ」
「あるぜ」
篠崎が自信ありげに言うので、驚いた。
「なに?どんな方法?」
つい前のめりになる。
「相手の彼氏に浮気をさせればいいんだよ。そうすれば彼女は彼氏を捨て、お前の元に来られるじゃないか。罪の意識を感じずに」
「なるほど……。とはいえ、どうやって浮気をさせるんだ?」
「可愛い子を差し向けるとか?」
篠崎はいい加減な事を言っておどけた。そう簡単にいくかよ。ましてや可愛い「男の子」を差し向けなければならないとなったらハードル高すぎだろ。可愛い男の子なんて雪哉以外にいないし。

 だが、方向としてはなかなか良い。神田さんが浮気をしてくれたら、雪哉は俺の元に来てくれるに違いない。神田さんも、後ろめたさから俺たちを咎められないだろう。何か、神田さんに浮気をさせる手はないだろうか。
 何かを調べるとなれば、ネット検索するしかない。男を堕としてくれる男の子を、見つけるのだ。うっわ、ダメだ。いかがわしいサイトしかない。それに「男を堕とす」というワードで、多くは「女が」という前提でヒットしてしまう。あまり意味が無い。困ったな。やっぱり無理かな。

 神田さんは就職活動を始めていた。スキー部の活動にも出てこなかったし、バンドの練習も最近はなかった。だが、ようやくバンドの練習が出来る日が来て、大学内の練習室にバンド仲間が集まった。神田さんは髪を切らずに、後ろで1つに結んでいた。
「神田さん、髪切らないんですか?」
俺が言うと、
「当たり前だろ。短髪の黒髪じゃあ、ロックに似合わねえ」
「流石ですね」
他のメンバーが言って笑う。バンドの練習は和やかに終わり、シオンとシュリが帰った後、神田さんが俺を止めた。
「涼介、ちょっといいか」
「うん」
俺たちはそのまま居酒屋へ行った。前回はほとんど一緒に飲めなかったから、飲み直しだ。
「カンパーイ!」
ジョッキを合わせてそう言うと、俺たちはビールをグビグビっと飲んだ。
「くわーっ、うめえ」
神田さんは豪快にジョッキを空け、もう一杯頼んだ。俺のビールはまだ半分以上残っている。
「涼介どうした。進んでないな」
「話があるんだろ?……雪哉の事?」
遠慮がちに言うと、神田さんは腕組みをした。
「お前、本当に雪哉に惚れたのか?」
「悪いけど、そうなんだ」
「そうか。ワンチャン、お前は男には興味がないんじゃないかと思ったんだけどな」
「俺もそう思ってたよ。でも」
「分かってるよ。雪哉は特別だよな。俺も同じだ」
つまり、神田さんも元々男が好きなわけではないという事か?
「雪哉がお前に気があるんじゃないかってのは、薄々気づいてたんだ」
「え……そうなの?」
「ああ。ライブの時にあいつを見ると、いつも俺の方を見ていないからな」
「え?」
「まあ、みんな大抵ボーカルを見るもんだから、それは自然かもしれないけども、普通恋人が出ているステージだったらよ、恋人の方を見るだろ?それが、俺の事を見ていない。雪哉は他のお客と同じように、お前の事を、目をキラキラさせて見ていたからな」
そうだったのか。いや、うちのバンドは神田さんが目立っていて、俺のファンの数人以外はけっこう俺ではなくて神田さんを見ているものだ。でも雪哉は……。
「でも俺、雪哉がライブに来てたのなんて知らなかったよ。見た事なかったと思うよ」
「そりゃあ、お前と雪哉をわざと会わせないようにしていたからな。まさかライブ会場でもなく、大学内でもなく、あんなところで出逢っちまうとはなあ。因果というか、運命というか」
そう、いつも同じ大学内にいたし、しょっちゅうライブ会場で同じ空間にいたのに、出逢ったのは東京から遠く離れた雪山だった。
「会わせないようにしてた?」
「ああ。雪哉が本気でお前に惚れちまうのを恐れたんだよ。まあヤキモチだな」
2杯目のビールをちびちび飲みつつ、神田さんはそう言った。
「神田さん、俺本気なんだ。雪哉が俺の事を好きなら、雪哉を俺にくれ。譲ってください!」
俺はテーブルに両手をつき、頭を下げてそう言った。しかし、
「ダメだ。絶対にやらないよ」
神田さんはそう言った。やっぱりダメか。真正面からぶつかるという手は消えた。
 神田さんから雪哉を譲ってもらう事はできなかったが、1つ大事な事を知り得た。神田さんはゲイではないらしい。つまり、可愛い女の子が現れて神田さんに迫っていったら、もしかしたら浮気が成立するかもしれないのだ。よーしその線で行こう。とは言っても、誰かこの作戦に乗ってくれる女子なんているのだろうか。最近女子を敵に回してばかりいる俺。希望の光が見えたとは言え、その線も難航しそうだ。

 俺の元カノに、同学年の清水友加里という女がいる。法学部だ。元カノとは大抵疎遠になっているが、友加里だけは今でも友達だった。そういうサバサバしたやつなのだ。
 たまたま学食で俺を見かけた友加里が、俺に声を掛けてきた。
「涼介、ずいぶん噂になっているわね。今度は涼介の方が誰かに惚れたんだって?お相手が羨ましいわ」
「ああ、でも……いろいろあって上手く行ってないんだ」
「わぉ、珍しい。涼介が恋愛でしくじるなんて!」
ふと思った。魔が差した。友加里に神田さんを誘惑してもらったらどうなるか……。もしかしたら、神田さんでもフラフラっと浮気しちゃうのでは。いや、そんな事はないか。あの雪哉を恋人に持っているんだもんな。そんな簡単にフラフラっとだなんて。
「何ぶつぶつ言ってんのよ。何か力になってあげるわよ。私暇だから」
友加里が事も無げに言う。
「お前、今彼氏いないの?」
「うん。涼介と別れてから誰もいない」
「なんで?」
「さあね。これと言ってつき合いたい男がいないのよ」
「それなら……」
俺は、雪哉の事はあまり語らず、つまり男だとは言わず、大体の今の状態を友加里に話した。すると、
「つまり、私がその相手の彼氏を色仕掛けで堕とせばいいのね?」
と、けっこう乗り気な様子。
「いいのか?」
けっこう罪悪感。友加里にもそうだし、神田さんにも。作戦を思いついた時点では感じなかったのに、何だか実際にやるかと思うと気が重い。
「無理しなくてもいいぞ」
かなり尻込みしている俺に、
「大丈夫。無理はしないわよ。とりあえず私が堕とす相手を教えてよ」
友加里はさっさと立ち上がる。今すぐにでも行動に移そうとしている友加里。色々と心配なんだが。

 神田さんは金曜日に大学に来る。その日に授業を取っているからだ。なので、バンドの練習を金曜日に入れた。友加里には、金曜日に神田さんが来る事を伝えた。
 金曜日の3限の時間。昼休みが終わり、授業が始まる時間になると食堂はだいぶ空いてくる。食堂はまだ稼働しているので、遅めに昼飯を食べている学生もいる。神田さんは4限に授業があるので、昼休みの終わり頃に大学に来て食堂で昼飯を食べ、授業が始まるまでここで時間を潰す。いつもそんな感じなのだ。
 今日も神田さんがやってきた。就職活動をしてきたようで、スーツ姿だった。上着を腕に掛け、歩いてくる。俺と友加里は食堂の端っこに座っていた。
「ほら来た、あの人だよ」
予め写真は見せていたが、一応友加里にそう教えた。すると、友加里は自分が飲んでいた紙コップのコーヒーを持って立ち上がった。そしてつかつかと歩いて行く。
「え?ちょっと、友加里?」
小声で呼ぶが、友加里は止まらない。神田さんめがけて歩いて行ったかと思うと、なんとコーヒーを神田さんの胸にぶっ掛けた。
「きゃっ!ごめんなさい。どうしよう、シミが」
友加里は両手で口を覆う。
「あ……いいよ、今日はもう就活もないし」
髪を後ろに束ねた神田さんが、一瞬困ったように自分の胸を見たが、友加里の方を見て笑って言った。
「ダメですよぉ。そうだ、これすぐ脱いでください。私洗って来ます!」
友加里が言う。あまりにすごい剣幕なので神田さんは気圧され、結局ワイシャツを脱いでいた。友加里はそのワイシャツを持って走って行った。
 その様子を立ち上がって見ていた俺を神田さんが見つけ、こちらへやってきた。
「なんか変な事になっちゃったよ」
神田さんが笑って言う。なんだか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「あの、さっきの子、俺の友達なんすよ。なんか、すんません」
「そうなのか?そっか。なら安心だな」
本当は安心していてはダメなのだが、神田さんはそう言った。そして俺の前の席に荷物を置き、食べ物を買いに出かけた。
 ワイシャツを洗ってきた友加里。シミは取れたが、濡れているので今すぐには着られない。神田さんは白いTシャツ姿で飯を食った。
「あの、お詫びにご飯奢らせてください」
神妙な顔つきで友加里が言う。
「え?そんなのいいよ。乾けば着られるし」
「じゃあ、カラオケ奢らせてください」
よくわかんないけど、友加里は真剣に言う。
「カラオケ?いや別にそんなのいいけど……まあ、行ってもいいけど」
おっとぉ?
「本当ですか?じゃあ、今日はどうですか?」
「今日は、スーツだしな」
「それじゃあ、明日は?」
「うーん、まあ」
「じゃあ明日!連絡先交換してください!」
友加里はちゃっかり神田さんと連絡先を交換していた。
「お前も来るんだろ?涼介」
と、いきなり水を向けられてびっくり。
「え、俺?」
俺がいたんじゃ浮気現場にならない。だが誰も見ていないところで浮気していてもダメだ。俺がいて証拠を押さえないと。
「うん、俺も行くよ」
とりあえず、そういう事にしておく。

 翌日の夕方。友加里と俺は神田さんと待ち合わせ、カラオケに行った。俺はバンドで普段から歌っているから、それほど歌いたいとも思っていなかった。神田さんが歌いたいのだろうと思っていた。そしたらなんと、
「涼介、これ歌ってみろ」
とか、
「うん、そういうジャンルも悪くないな。じゃあこれも歌ってみてくれ」
など、色々と俺に歌わせるのだった。バンドでどんな曲をやるか、考えるのが実に楽しそうだった。そんな無邪気な神田さんを見ていると、やっぱり騙すような真似をするのが申し訳なく思えてくる。だが友加里はちゃっかり酒を頼み、大して飲んでいないくせに酔ったふりをし始めた。どうやら作戦は着々と進んでいるようだ。
「私ちょっと酔っちゃったぁ」
とか言いながら、胸元をパタパタし始める。ちらっと神田さんの様子を伺うが、大して反応していない。
「俺ちょっとトイレ」
俺は席を外した。トイレに行ってきて、部屋に戻って中を覗く。友加里がぴったりと神田さんにくっついて座っているのが見える。今入るべきか否か。
 すると神田さんがちらっと小窓の方を見た。俺と目が合ったので、俺は今来たかのようなふりをしてドアを開けた。すると今度は神田さんがトイレに行くと言って席を立って行った。
「どうだった?」
俺が聞くと、
「うーん、どうだろ。反応はイマイチね。もうちょっと頑張ってみるわ。涼介、今すぐ帰って」
「え!?」
友加里はやっぱり酔ってはいないのだった。腕組みをしてそんな事を言い出す。俺は迷ったが、俺が頼んだのだから友加里の言う通りにするしかないような気がした。よって、神田さんが戻って来る前にそそくさと帰ったのであった。

 その夜、友加里から電話があった。友加里の話によるとこうだ。
 友加里は酔ったふりをして、神田さんの腕に捕まってカラオケを出た。そして、
「暑―い。私今すぐ脱ぎたーい!ねえ、どこかに寄って行きましょうよぉ。ほら、あそことか」
とラブホテルを指さした。だが、
「何言ってんの。ほら、しっかりして。今冷たい水を買ってくるから」
と、腕をほどいて自販機に走り、水を買ってきた神田さん。友加里にそれを渡し、どこかに電話をした。
 すると、雪哉が現れたそうだ。神田さんは電話で雪哉を呼んだのだ。
「ごめんな。この子涼介の友達なんだけど、酔って動けないみたいだからさ」
と、神田さんはなんと俺の名前を出して雪哉に友加里の存在を説明し、2人で友加里を送って行こうとしたそうだ。だが友加里は実際には酔っていないので、
「ああ、もう酔いが覚めたわ。神田さん、今日はありがとうございました。では帰ります」
深々と頭を下げ、つかつかと1人で帰ってきたそうなのだ。
「信じらんない!恋人を呼ぶとか、あり得る?それほど信頼し合っているってわけ?これじゃあ、こっちはピエロじゃないのよ。本来なら、あの場を恋人に見られたら浮気現場発覚なのにさ、自分で呼んだわけだから全否定でしょ。ああもう、私がやったこと全て台無しじゃないの!」
友加里は相当怒っていた。そしてそんな友加里の愚痴を聞いている俺もまた、気持ちがどんどん暗くなっていった。そうだよな、それほど2人は信頼し合っているんだよな。だから、たとえ俺に多少気があったとしても、雪哉は神田さんを裏切らないって訳なんだよな……。
「とにかく、私絶対に諦めないから。どうしても、あの人を堕としてみせるわ!」
マジかよ……友加里、メンタル強すぎ。尊敬すらするぜ。俺はメンタルボロボロなのに。考えてみたら……友加里に神田さんの恋人の存在がバレた。つまり俺の好きな人が雪哉だって事がバレたのだ。男だったのに、そこは完全にスルーなんだな。流石サバサバ系女子、友加里。
 週が明けて、また雪哉と一緒の「社会心理学」の講義の日がやってきた。雪哉に会える喜びと、避けられるかもしれないという不安と、その両方が入り交じった情緒不安定な状態で教室に向かう。
 入り口からひょいと中を覗く。学生はバラバラに、適度に間隔を空けて座っている。先週と同じ場所に座る人が多い。だから俺もまた窓際の一番後ろに座ろうかと思ってそちらを見た。すると、そこに既に雪哉が座っていた。俺を避けるつもりなら全然違う席に座るだろう。先週俺と隣同士に座ったあの場所にいるという事は、避ける気はないって事だよな。俺は嬉しくなって、にやけそうなのを何とか堪え、唇を軽く噛んで窓際へ向かった。
「おはよ」
俺が声を掛けると、雪哉は顔を上げた。
「おはよう」
いつもニコニコな雪哉とは違い、言ってすぐにうつむいた。ちょっと顔が赤い気がする。どうしたの?と聞こうとして辞めた。それよりも言わなきゃならない事がある。
「あのさ、この間はごめん。俺の元カノ……いや、女友達が迷惑をかけて」
謝らなくてはならない。
「ああ、その事か」
雪哉がおでこを片手でちょっと押さえた。
「その……なんて言えばいいのか。彼女にはもちろん悪気があった訳じゃなくて、俺の為にっていうか、その」
なんと言い訳したらいいのか分からず、俺が言い淀んでいると、
「ひどいよね神田さん。女の子と2人で遊んでたのにさ、困ったからって僕を呼びつけるなんて。僕の事何だと思ってるんだか」
えー!どういう事だよ。全然「信頼し合って」いやしないじゃねえか。俺は驚愕した。神田さんはちゃんと雪哉に説明していないのか。神田さんとしては、雪哉と信頼し合っていると思って皆まで言わんという事なのだろう。これはチャンスなのか?友加里の作戦が思った以上に上手く行ったという事なのか?ここで、神田さんの事なんてふって俺の恋人になれと言えば、万事上手く行くのだろうか。
 だが、それで本当にいいのだろうか。そうしてつき合ったとして、俺は雪哉と「信頼し合える」間柄になれるのだろうか。雪哉は、可愛いからちょっと付き合ってみるか、というような相手ではない。こんな風に騙して、手に入れて良い訳がない。
「神田さん、もう僕に飽きたのかな。本当は女の子の方がいいのかな。涼介どう思う?これは浮気、なんだよね?」
狼狽えている雪哉。俺のせいで悩ませてしまった。可愛そうに。このままではやっぱり寝覚めが悪いや。
「いや違うよ。神田さんは浮気なんてしてないよ」
そう、神田さんにだって申し訳がない。雪哉を奪う事と、濡れ衣を着せる事とは全然違う。勝負に勝つにしても、相手の尊厳を踏みにじる訳にはいかない。
「どういう事?」
「あの日、俺も一緒だったんだ。3人でカラオケに行ったんだよ。俺が先に帰っちゃっただけなんだ」
本当の事を伝えるしかない。
「それなら、涼介を呼び戻せばよかったじゃないか。僕をわざわざ呼ばなくても」
まあ、それはご最もだけどな。俺はちょっとおかしくなった。
「神田さんは雪哉の事を見せつけたかったんだよ、きっと。俺には恋人がいるからダメだよって」
俺が笑いながら言うと、
「なんで?」
雪哉がきょとんとして言う。
「彼女、友加里って言うんだけど、友加里が神田さんを堕とそうとしたからさ。それも俺が頼んだんだ」
「へ?」
「俺が、神田さんに浮気してもらおうとして仕組んだんだよ。友加里がすっかり乗り気になって酔ったふりしてくれたんだけど、神田さんはわざと恋人である雪哉を呼んだってわけ。つまり神田さんには全く浮気をする気はないし、何も悪くないんだ」
「涼介……。それ僕に言っちゃうんだ」
雪哉がちょっと呆れた風に言った。
「え?」
「黙っていれば、上手く行ったかもしれないのに」
そう言って雪哉は笑った。あ、やっぱり笑うと可愛いなあ。いや、今笑われたんだぞ、俺。
「だってさ、神田さんは騙しても、雪哉の事は騙したくないから」
そう言って、俺が肘をついてぐっと真横の雪哉の顔を下から覗くように見つめると、雪哉は一瞬黙って俺の目を見つめ、
「もう、何言ってるんだよー」
と言って、俺の肩を片手でバンバン叩き、もう片方の腕で顔を隠した。うーむ、何て可愛い仕草なんだ。ちょっと俺の肩は痛いけど。