台風の明けた七月の真夏日には、彼方此方で蝉が鳴き声を奏でていた。
「あぢぢぢぢ……」
太陽が眩しい光をアスファルトに照りつける晴天の下、白い道着に白袴をはいた杏はコンビニを出た。袋の中にはアイスが二つ入っている。
「まったく、桜のやつ、姉使い荒いんだからぁ。ジャンケン負けたからってアイス買いに行けだなんて……」
自分からアイスジャンケンしようと言い出したのに、彼女は妹の桜の所為にして、文句を言いながら歩く。
この自由奔放な彼女は春山 杏。こう見えても、地区最強の中学剣士だ。
アスファルトの照り返す中、街路樹の下を道場へ向かった。その時だった。
「稔、神妙にいたせ!」
「成敗じゃ、成敗じゃ!」
道中の脇手にある公園から、時代劇で出てきそうな言葉が聞こえてきた。
「何、何? 時代劇ごっこ?」
杏は時代劇が大好きだ。あわよくば自分も混ざろうと、心踊らせながら公園へ寄り道した。しかし、何やら不穏な空気。
「ありゃあ。大人の世界じゃ、それはリンチっていうのよ」
小学三年生くらいだろうか。三人の少年が、フェンスの際に追い詰めた一人の少年を棒っきれで叩いていた。
「ったく、あの子も男なら、やり返しゃいいのに」
杏は、呆れていじめられっ子の方に目をやった。
白い肌をした、少女のようにあどけない少年が、苦痛で顔を歪めている。
「か弱い子羊ちゃん……。そりゃあ、あんなんじゃいじめられるわ」
杏は、溜息を吐いた。しかし、何やら違和感を覚えた。
「何がおかしいんだろう?」
杏は、子羊ちゃんをよく見た。
「そうか、目線だ。あいつ……」
杏は、いじめられっ子に興味を持った。
「どうだ、稔。参ったか!」
「成敗完了じゃ!」
いじめっ子達は好き放題言って去って行く。いじめられっ子の少年はトボトボと公園のブランコに座った。
「よっわむっしくーん!」
杏は袋入りアイスで軽く少年の頭を叩いた。
「お姉さん……誰?」
振り向いた少年は一瞬頬を赤らめたが、すぐに眉を顰め怪訝な顔をした。
「私? 私はね……か弱い子羊ちゃんを慰めてあげる、正義のお姉さまなのだ!」
杏のいつものテンション。しかし、免疫のない少年はいよいよ怪訝な顔をしたので、杏は慌てて言った。
「冗談よ。アイス食べな。美味しいよ」
杏は少年の隣のブランコに座った。
ブランコに座りながら、『山口 稔』という少年はアイスを食べている。
「ねぇ、あんた。何であんなに叩かれてたのにやり返さなかったの?」
「しょうがないよ。あいつら、クラスの一軍だから」
「ふーん」
杏は切れ長の目を細め、悪戯な顔をした。
「でも、あんた。あいつらの棒っきれ、躱そうと思えば全部躱せたでしょ」
「えっ?」
「だって、あんたの目線。一度も瞑らずにあいつらの棒っきれを全部、追っていた。いいえ……見切ってた」
急に真剣な顔で真っ直ぐ見つめると、稔は目を逸らした。
「どうして、躱さなかったの?」
「だって、しょうがないよ。あいつら、一軍だし」
「しょうがない、か」
杏は少し上を向いた。
「でもあんた、あいつらを『一軍だから』とは言うけど、『強いから』とは言わないわよね」
目を細めて向き直ると、稔は下を向いた。
「ま、いっか」
杏は目線を宙に浮かした。いつもの公園の風景……青々とした街路樹に、セミの鳴き声が響き渡る。
しかし、何を思いついたのか、またすぐに稔に目を移した。
「ところであんたさぁ、ホントに強い奴に会ったことある?」
「ホントに強い奴?」
「そう」
杏は、くすりと笑みを浮かべた。
「何なら今日、会わせてあげる」
そう言うと、杏はブランコを軽やかに降りた。台風明けの公園には長い棒がゴロゴロ転がっている。その中で、一米くらいの棒っきれを二つ拾った。
「はい」
「はいって?」
「勝負よ、勝負。その棒っきれで思い切り私を殴りなさい」
杏は、フッと笑った。
「殴れるもんならね」
呆気にとられる稔に、杏は続けた。
「あんたが勝ったら、そうね……アイス、もう一つ上げる。その代わり。私が勝ったら、私の言うことを一つ、何でも聞くこと」
「えっ、そんな……僕、お姉さんを殴れな……」
「ほーれ、ほーれ、どっからでもかかってきなさーい」
ブランコを降りて狼狽える稔を前に、棒をブラブラさせてふざけた。
でも……杏は突如、切れ長の美しい瞳で稔を睨む。
悪ふざけは、ここまで。両手で棒っきれを持ち中段に構えた。
突然の空気の変化を感じた稔は戸惑う。
「ドゥアア……」
公園の空気が震え始めた。さっきまで聞こえていた蝉の声が全て鳴き止む。
「アアァ、ヤアアアーッ!」
杏は、稔を正面に凄まじい気迫を発した。周囲の空気がビリビリと振動し、その全てが稔を刺す!
杏の気迫。道場の有段者達でさえ、気圧されて動けなくなるほどの鬼神の如き気迫。
そこらの小学生ならば、ちびって泣き出してしまうだろう。杏自身も、どうして自分が一人のいじめられっ子相手にこんなことをしているのか分からなかった。ただ……この稔といういじめられっ子の中に、何か……自分の引き出したい『何か』を感じ取っていたのだった。
すると、稔は……クワっと見開いた目で棒っきれを振り上げ、向かって来たのだ。形こそ出鱈目、全くもって剣の体を成すものではないが、真っ直ぐ、杏の方へ……。
杏は、瞬時に体を右に捌いて棒っきれを紙一重で避けた。全力の棒っきれが空ぶった稔は、前のめりになる。杏は捌くと同時に振り上げた棒を電光石火の如く稔の脳天へ振り下ろす! 稔は、強く目を瞑る!
『コツン』
杏は、棒を稔の頭へ軽く当てた。
「目を瞑った時点で、あんたの負ーけ」
元の悪戯な笑みを浮かべた。
しかし、稔は青ざめた顔で小刻みに震えている。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
棒っきれを放り捨てた杏は、まだ動けないでいる稔に向き直った。
「あんた、あの悪ガキ達には一切手を上げなかったわよね。なのに、どうして私にはあんなに全力で向かってきたの?」
「そ、それは……」
稔は震えながらも声を振り絞った。
「お姉さんが……強いから」
「強いから?」
「だって、お姉さん、メチャクチャ強いんでしょう? 僕がどんなに全力で向かって行っても、擦りもしないと思ったから」
杏は、切れ長の目を丸くした。しかし、
「プッ」
思わず、吹き出した。
「変なヤツ。全力で向かって来ても擦りもしない相手だったから、全力で向かって来たの?」
「そうだよね、おかしいよね」
稔も、初めて純粋な……少女のような笑顔を浮かべた。
「あ、いけない! つい、時間食っちゃった」
杏は慌ててブランコの椅子へ向かった。しかし、アイスを取って思い出したように言う。
「そうだ、あんた!」
公園の出口へ向かう彼女は、顔だけ稔に向けた。
「土曜日の十時。あの角を曲がった突き当たりの『剣信館』ってトコ来なさい」
「えっ?」
「だって、あんた、『負けた』でしょ」
杏は白い歯を見せて、公園を後にした。
「ありゃあ、完全に液体化してる。こりゃあ、桜に怒られるわ」
杏はアイスの袋を見てベロを出した。
「でも……」
道場への道を急ぎながら二の腕を捲った。
「全力で向かって行っても擦りもしないと思ったから、かぁ」
二の腕には……躱し切ったと思っていたのに、僅かに稔の棒が擦ったすり傷が付いていた。それを見て、小悪魔な笑みを浮かべる。
「鬼になれそうな子羊ちゃん、みーっけ」
笑顔の杏は、浮き足立って道場へ帰っていた。
翌日。教室の窓から黄金色の眩しい日差しが降り注ぐ窓際の席。稔は、授業も耳に入らずぼんやりしていた。昨日の出来事が反芻し、頭の中を何度も通り抜ける。
声を掛けられて振り向いて、正直少しドキッとした。
透き通るような白い肌に、薄紅色の唇。クールな切れ長の目に、長い睫毛。中学生くらいだろうか。すごく綺麗なお姉さん。
でも……彼女の変なテンションを思い出す。ちょっと変なお姉さん。
だけども……。あの瞬間を思い出した稔は、ゾクッと鳥肌が立った。
……物凄く、強い人。
棒を持って構えた途端、人が変わった。というより、『自分の知らない世界』の人になった。
掛け声と共に、あの人の気迫が自分の周りの空気を振動させて、自分に向かって容赦なく突き刺さった。
自分の本能が、あの人の圧倒的な強さを感じ取った。
でも……何故か逃げようという気は起こらなかった。稔はワクワクして、いつの間にか勝手に体が動き出して、全力で彼女へ向かって行ったのだ。
身震いする怖さを感じたのは、ほんの一瞬だった。
自分の脳天に、棒が振り下ろされた瞬間。ただの棒だと分かっていたのに、それを絢爛と光る日本刀のように錯覚し……『斬られる』と思った。
『死ぬ』、そう感じた瞬間、目を瞑った……。
『キーンコーンカーンコーン』
授業終了のチャイムが鳴り、中間休みになる。結局、授業内容が何一つ頭に入らなかった稔は、教科書とノートを机の中にしまった。
その時、
「おい、稔。ちょっと来いよ」
クラスの一軍の三人……勝、相太、豊が机にやって来た。稔はうんざりする。
「今日は、お前に剣術を伝授してやるよ」
校庭の隅。木の陰へ追いやられた稔を見て、勝はニヤニヤしている。
「伝授……キラーン!」
お調子者の相太と豊は、棒っきれを持って囃し立てた。
いつもの三人。クラスのリーダーの勝とその手下の相太、豊。三年生になるのに、クラスに『馴染めていない』稔は、いつもこの三人に『いじめられる』。
こいつらが『強い』からいじめられるんじゃない。『馴染めない』自分がリーダーに刃向かうのはクラス内でのタブー……だから、『いじめられる』のだ。
三人が棒っきれで稔を殴る。稔はその棒を全て目で追い……自分にとって最もダメージの少ない部分で棒を『受けて』いた。
「躱そうと思えば全部躱せたでしょ」
昨日のお姉さんの言葉を思い出す。
こんな奴ら、強くも怖くもない。僕は昨日……『本当に強い人』に会ったんだから!
調子に乗った勝は、また棒を稔に振り下ろす。しかし、稔は……さっきまでとは違う稔は容易く躱した。不意をつかれ、空振った勝は目を丸くする。稔は、冷たく……哀れむような瞳で勝を見た。
三人は、仰天した。今まで、稔に躱されたことは一度もない。でも……今日のこいつはいつもと違う。
それに、あの『目』。自分達のことを全て見透かすかのような稔の『目』……。
「あんた達、何やってんの?」
そんな四人……仰天する三人と、彼らを冷たく見つめる稔に凛とした声が掛けられる。勝達は振り返った。
「げっ、春山……」
「まぁた、下らない剣術ごっこ?」
その少女……四人と同じクラスの桜は、呆れ顔で勝の持つ棒っきれを見つめる。
「お前には関係ねぇだろ。おい、行こうぜ」
三人はそそくさと立ち去った。
「春山……さん、ありがとう」
「別に。ちょっと通りがかっただけよ」
稔が礼を言うと、クールな桜は踵を返し立ち去って行った。
「くそっ、くそっ」
勝は苛立っていた。
「しょうがないって。あいつ、春山は剣道っての、めちゃくちゃ強いらしいし」
相太と豊はフォローする。
「違うよ」
勝は、よりイライラして言った。
「あいつ……稔の目。俺の一番嫌いな目をしてた。仲間に入れないクセに、俺達のことをバカにする目。だから、俺、あいつのことが嫌いなんだ」
相太と豊は目を見合わせた。
土曜日。公園の角を曲がる稔の鼓動は高鳴った。『剣信館』と書かれた一枚板の貼られた門の前で、稔は固まる。
「あれ? あんた……山口?」
ぼぉっと佇む背後から声、をかけられた。稔は、振り返った。
「春山さん?」
白い道着に白袴……あの日のお姉さんと同じ格好をした桜が、黒い防具袋を引っ掛けた竹刀袋を担いでいる。
そして、その後ろには……
「あらぁ、小羊ちゃん。約束通り来てくれたのね!」
稔は、ドキッとした。あの日会ったお姉さんが桜と同じ格好で、やはり防具袋と竹刀袋を担いで、悪戯な笑みを稔に向けたのだ。
「小羊ちゃん? 約束?」
怪訝な顔をする桜を置いて、杏は稔のもとへ駆け寄った。
「あんたは、今日からここの門下生よ」
「門下生?」
「そっ!」
杏が少し屈んで目を合わすと、稔は赤くなって目を逸らした。
「私があんたを、最強の剣士に育てるんだから!」
「最強の剣士?」
稔は逸らした目を丸くして、再度、杏を見た。
「そ。あんたに拒否権はなし。だって、あんた、『負けた』でしょ!」
「え? 最強の剣士って、そんな弱虫を? お姉ちゃん、どういうこと?」
狐につままれる桜を置いて、杏は稔の手を引き、厳かな雰囲気を漂わせる道場へ入って行った。
「前後正面素振り、はじめっ!」
「壱!」
『メンッ!』
「弐!」
『メンッ!』
道着に防具を装着した格好の少年少女が、道場の中央へ向けて竹刀の素振りをしている。予備の道着に着替えさせられ、片隅に正座してそれをじっと見つめる稔は、圧倒されていた。
その中でも、稔の視線はやはり杏に釘付けになる。
竹刀の軌道が他の少年少女と全く違う。一切の無駄のない、最小限の軌道……。稔も、自分でも気付かぬ間に手だけ杏の素振りを真似ていた。
「黙想!」
オロオロする稔を端っこに並ばせて正座させ、練習開始前の黙想が行われた。
「やめ! 礼!」
「お願いします!」
「正面に! 礼!」
「お願いします!」
「面つけ!」
『面』をつけた少年少女は、『切り返し』から練習を始める。皆が『切り返し』をする傍ら、杏は稔の指導に入った。
「いい? 稔くん。剣道はね、礼に始まり礼に終わる武道よ。道場への感謝の気持ち、打ち合う相手への尊敬の意を込めて、練習の始まりと終わりには必ず礼をするの。その礼儀を忘れるようじゃ、本当に強くはなれないわよ」
「礼儀……」
稔は、「いいなぁ……」と思った。
スポーツは全て相手を打ち負かす、野蛮なもの。そう思っていた。でも……自分が今踏み込もうとしている世界はこんなにも清く、正しい剣の道なのだ。
「そこまで分かったら、まず、足運びからね」
杏は、稔に『摺り足』を教えた。
「うんうん、そうそう。上手、上手。やっぱあんた、私が見込んだだけのことはあるわ」
ただの摺り足に上手も何もなさそうなものだが、杏はいつまでもニヤニヤ笑って稔の足運びの練習を見ていた。
「ちょっと、お姉ちゃん! いつまでサボってんの? 摺り足まで教えたなら、いつまでもついてなくていいでしょ!」
練習の間の小休止に、桜が凄い剣幕で来た。
「ありゃあ、バレちった。だって、この時期、暑くてバテるんだもん」
杏はベロを出す。清く、正しい剣の道……。自由奔放におちゃらけるお姉さんを見た稔は、その道に一抹の不安を覚えた。
しかし、杏は稔の方に向き直り、凛とした顔で言った。
「あんた、私達の練習、見ときな。摺り足しながらでも、見れるでしょ」
この美しく真剣な顔と、さっきのおちゃらけた顔。どちらが本当の彼女なのか分からず、稔は不思議な気分になった。
「ドゥォアアァー!」
『面』を着けた杏は人が変わる。竹刀を中段に堂々と構え、威圧的な存在感を相手に放った。
「コ……」
相手の竹刀が手元を狙ったその瞬間!
「メンヤァァー!」
『バゴォッ!』
凄まじい破壊音と共に杏の竹刀が相手の『面』にめり込む。
「凄い……」
稔は、ゾクッと身震いした。『豪剣』……杏のそれは、無敵だった。杏の竹刀は凄まじい加速度とともに、どんな相手の『面』にもめり込む。
稔があの時感じた『斬られる』という感覚。今、正に目の前で杏が剣士達を真っ二つに『斬って』いる。あの時感じた、身震いするような怖さ。しかし、それ以上に稔の心の底から、震えるほどの感動が沸き起こっていたのだった。
道場の皆が雑巾がけの掃除をしている。
「どうだった?」
皆が掃除をする傍ら、杏が稔に声をかけた。
「凄かったです……」
ありきたりだが、稔の口からはその言葉しか出なかった。よく見ると、その道場には『市民大会 小学生◯年女子の部 優勝 春山 杏』と書かれた賞状がいくつも飾られており、その中には『中学生女子の部 優勝』もある。
「お姉さん、中学生ですか?」
「そ、中一」
「中一で中学生女子の部優勝!?」
「そうね。ま、この地区では男子でも私に敵う中学生はそうはいないけどね」
「すごい……」
稔は目を輝かした。
「僕……お姉さんみたいに、強くなれますか?」
「そうねぇ、それは、これからのあなた次第ね」
杏は、美しい瞳を横に細長く伸ばして、悪戯そうに笑った。
「でも。『本当に強い相手』を恐れずに向かってくる根性。『あの時』のその根性があれば、大丈夫。絶対、あんた、強くなるわよ!」
杏は悪戯な笑みを浮かべながらも、美しい瞳は真っ直ぐ、真剣な眼差しを稔に向けた。
『ドクン……』
真剣な眼差しを受ける稔は、金縛りにあい動けなくなる。
「ま、どんなに強くなっても、私には及ばないけどね」
すぐにふざけて茶化す杏に、稔の金縛りも解けた。
「ちょっと、お姉ちゃん! 掃除サボるな!」
「ありゃあ、また、バレちった」
雑巾を持った杏は頭をポリポリかき、雑巾がけをする桜達のもとへ戻りながら、稔に顔を向けた。
「水曜の六時と土曜の十時!」
「えっ?」
「その時間にここに来なさい。私があんたを、最強の剣士に育てるって言ったでしょ!」
杏は、ニーっと笑った。
「ま、私の次に、だけどね」
そう呟いて、雑巾がけの掃除に戻ったのだった。
夏休みも三日前の水曜日。教室で稔は、逸る鼓動を抑えられなかった。
今日の夕方から、自分はあの道場で本格的に『剣道』を教わることになる。
杏の『豪剣』。その凄まじさが頭から離れない。
自分も、あれ程の圧倒的な強さを得ることができるのだろうか?
いや、できる。あのお姉さんの近くで、ずっと『剣道』を教わり続けたら、きっと……。
「稔!」
突然、声を掛けられて、驚いて振り向いた。いつもの、いじめっ子三人の声ではない。この声は……春山 桜。
「放課後、付いて来なさい」
「えっ?」
周りの少年達は呆気にとられ、稔自身も驚いていた。
この教室で、桜が稔に声をかけるなんて初めてだ。しかも、名前を呼び捨て……。
「あんた、剣道の道具、何一つ持ってないでしょ? 揃えてやんの!」
「う、うん……」
桜は、プイと自分の席に戻った。
放課後。
「ねぇ、春山さん……」
無愛想に早足で歩く桜に歩調を合わせながら声をかけた。
「桜って呼びな」
「えっ?」
「だって、いちいち苗字に『さん』付けるの面倒でしょ。あんたが剣道始めるってことで、長い付き合いになりそうなんだし」
「う……うん、桜」
かなり違和感があった。稔は今まで、女子の下の名前を呼び捨てにしたことがない。
「何?」
「どこに向かってるの?」
「私の家よ」
「家?」
「そう。お姉ちゃんのお古の防具とか、上げる。普通に買ったら、どんなに安くても五万円はするのよ」
「五万円!?」
稔にとっては目ん玉の飛び出るような額だ。
しかし、剣道は頭部に『面』、手から手首にかけて『小手』、胸部から腹部にかけて『胴』という防具を装着し、竹刀で打ち合う武道。剣道を始めるなら、防具の所有は必須だった。
「お姉ちゃんが、あんたにはどうしても剣道やって欲しいみたいだから」
「そういえば、あの人、春……桜の、お姉さんなんだね」
「そ、杏姉ちゃん。剣道は強いんだけど、妹の私でさえ、何考えてるか分からない人。全く、こんな弱虫のどこにそんな肩入れしてるんだか」
桜はぶつくさ言いながら、稔を連れて歩を進めた。
白く大きなマンションに着いた。桜は階段を早足で上がって行き、稔はいそいそと付いて行く。マンションの一室、黒いドアの前に着き、桜はインターフォンを鳴らした。
「はーい」
クリッとした瞳で睫毛の長い、綺麗な女性が出て来た。
「あら、桜。家に友達を連れて来るなんて、珍しいわね。しかも、こんなに可愛いコ」
女性がニコッと笑うと、稔はドキッとする。
「いえ、僕は……」
「お母さん、こいつ、男だよ」
桜は呆れ顔で言った。すると、桜の母は綺麗な目を丸くする。
「まぁ、桜が男の子を連れて来るなんて! しかも、こんな美少年……やったわね!今夜は赤飯ね」
悪戯な笑みを浮かべ、桜をからかうように言った。どうやら、杏の性格は母親譲りらしい。
「もぅ! そんなんじゃないし。それより、お姉ちゃんの道着と防具」
桜は母を家の中へ押し戻し、玄関口に稔を残して部屋へ入って行った。
「はい」
黒く大きなバッグと、綺麗に畳まれた紺色の道着と袴が渡される。
「まだお姉ちゃん帰ってないし、渡しとくわ。お姉ちゃんが小学生の頃使ってたやつよ。男女兼用」
桜はクールに言った。
「お姉ちゃんの見込むあんたの才能がどれほどのもんか分からないけど……夏休みは、初心者にとっては地獄よ」
「地獄……?」
「そ。まぁ、始めたら分かるわ。精々、頑張ることね。それじゃ、また後で、道場でね」
桜は、素っ気なく言ってドアを閉めた。
稔は黒いバッグ……防具袋を持つ。初めて持つそれは、ずっしりと重かった。
夕方の道場。他の少年少女が練習する傍ら、お下がり道着を着た稔は、杏から中段の構えと正面素振りを教わっていた。
「いい? 竹刀は左手で握るの。それも、力を入れるのは、小指と薬指の根元だけ。右手は添えるだけよ。それで、剣先を相手の喉元につける」
杏が稔の正面に立ち、剣先を自分の喉元に定めた。
「そう。その構えをして、相手の中心を取っている限り、絶対に打たれることはない。そこから、肘が五角形になるように真っ直ぐ振り上げて、振り下ろしてみなさい」
稔は言われた通りにした。しかし、竹刀の重さに操られて形が滅茶苦茶だ。
「ま、誰でも最初はそんなもんよ。兎に角今は、鏡を見て、真っ直ぐ振り上げて、真っ直ぐ振り下ろせるようになりなさい」
杏は道場の端の鏡を指差した。
稔は正面素振りを練習する。どうにか形になったところで、杏は左右素振り、跳躍素振りを教えた。
「そうそう、上手、上手。じゃあ、残りの練習時間。私が稽古している間、跳躍素振り百本ずつしてなさい。百本連続素振りして、休憩、それから百本連続、という風に。もちろん、振り下ろした時に『メン!』の掛け声は忘れずに。じゃあ今から、スタート!」
杏はそう言うと、『面』をつけて稽古に混じった。
「ねぇ、お姉ちゃん。まだ来てニ回目の奴に跳躍素振り百本は、幾ら何でもハード過ぎるんじゃない? あいつ、やめるんじゃ……」
小休止に入り、桜が心配そうに言った。
跳躍しながらの素振りは、腕と足の運動量が多くて体力の消耗も激しい。暑い夏には、尚更だ。
「やめる? こんなことでやめるようじゃ、最初から要らないわ」
杏はニヤっと笑った。
「それに、絶対、大丈夫。だって、あのコの中には『鬼』がいるんだから」
「はぁ? 鬼?」
桜が眉を顰める間もなく、稽古が再開される。
「メン! メン!」
稔は、杏から言われた通り素直に跳躍素振りをしていた。しかし……暑くて辛い。汗が吹き出し、喉がカラカラ。今日初めて持つ竹刀は、素振りを重ねる度に重くなってゆく。
手が……腕が、だるい。
でも……
「メントォー!」
『バクゥ!』
稔の目に、電光石火の如く竹刀で『面』を捉える杏の『豪剣』が映った。
僕は、少しでもこの人に近づきたい……!
稔の内からエネルギーが沸き起こる!
「納め~トォ!」
稽古終了の合図がされ、稔はその場にヘタり込んだ。
結局、殆ど休まずに一時間近くも跳躍素振りを続けていたのだ。手の平はマメだらけ、足と腕は棒のようになっていた。
「お疲れさん!」
杏はニッと笑い、スポーツドリンクを差し出した。
「今日は帰ってから、よーく眠れそうね!」
稽古終わりの杏の爽やかな笑顔を見て、汗だくの稔も、少し微笑んだ。
「宿題を言うわ。次の稽古まで、毎日家で素振りの練習をすること。そんで、次の稽古。防具を持って来なさい」
「えっ?」
「次は『踏み込み』と『面打ち』を教えて、少し稽古に混ぜたげる」
杏は屈んで稔の顔を見ながら、フフンと笑った。
練習三日目で『面打ち』をするのはかなり早い。しかし、練習二日目にして一時間近くも跳躍素振りを続けた稔の中に、杏は光り輝くものを見ていたのだった。
その夜。家の玄関を出て、真夏の満月が煌々と照らす下。稔はマメのできた手の平に包帯を巻き、素振りを続けていた。
稔の目の前には、杏の残像がある。
目の前の相手を真っ直ぐ、真っ二つに『斬る』杏……。それを見る稔はゾクッとした。
それは、恐怖心ではない。言い様のない高揚感。稔の中に芽生えつつある『鬼』の片鱗……。
白く透き通る月明かりの照らす中、稔は竹刀を振り続けたのだった。
真夏の太陽が照りつけ、道場の中はサウナのような熱気が漂っている。そんな、夏休み最初の稽古の日。初めて防具をつけた稔は、防具姿で竹刀を向ける杏と対峙していた。
「さぁ、教えた通り、打ってらっしゃい!」
稔は、初めての防具におっかなびっくりする間も無い。杏が掛け声……気迫を発する!
「ドゥアヤァアー!」
『あの時』……初めて会った時と同じ、鬼神の気迫が道場の空気を振動させ、稔に突き刺さる。
稔はゾクッとした。あの時、自分の内なる『鬼』を目覚めさせた、凄まじい気迫。体の奥底から、脈々と熱いものが湧き起こる!
「ウワァア……」
稔も発する。
「アア、ヤァアー!」
クワッと目を見開き、杏にも劣らぬ気迫を発した。道場の少年少女達が、両者の気迫のぶつかり合いに驚き、こちらを見る。
稔の脳内で、幾度も身震いする程に憧れた『杏の豪剣』が明確にイメージされる。
あの強さ、真っ直ぐさ、圧倒的な迫力……
僕も、杏のように……できる! 行け!
稔は竹刀を振りかぶる!
手と足はバラバラ、基本こそ全くなっていないが、それでも、竹刀の軌道は真っ直ぐに……そして、真っ直ぐ前へ力の限り踏み込むと共に、『面』へ向けて真っ直ぐに振り下ろす!
「メェェーン!」
『バクゥ!』
稔の『面打ち』。基本も何もなっていない『面打ち』は、それでも真っ直ぐ、確実に杏の『面』を捉えた。
杏は、痺れるほどに感動した。『才能』という一言では片付けられない。基本も何も身につけていないうちから、この『キレ』、この『重さ』、この『威力』……杏は今日、確実に稔の中に『鬼』の片鱗を見た。
「稔!」
杏は振り返った。そして、残心を取る稔を見た。
「あんた、この夏休み、『基本』を徹底的に身につけなさい」
「基本……」
「そう。そして……秋季の市民剣道大会に出なさい!」
「剣道大会!?」
「そう」
杏は、真剣な眼差しで稔を見つめた。
「私があんたを、優勝させてやるわ!」
初心者を二ヵ月弱で優勝させるという、とてつもなく無謀な挑戦。しかし、杏は大真面目、本気だった。
夏休みも中盤の稽古。
「基本の面打ち、はじめ!」
「ヤァァアー!」
稽古に加わるようになった稔は、気迫を発した。
「メェェーン!」
『バクゥゥッ!』
稔の竹刀が相手の『面』にめり込む!
杏は、その『面打ち』を見る。
やはり、稔の上達は群を抜いていた。真っ直ぐで凄い威力の、天性の『面』。さらに、彼の真面目な性格に由来する基本への忠実さも加わり、一ヶ月も経たずして『面打ち』の完成度は極めて高いものとなっていた。
こいつのこの『面』は、誰にも負けない武器になる。
後は、『試合』。試合で勝てるようになるには……。
「桜、稔! この後、試合してみなさい」
基本稽古後の小休止、突如杏が言った。
「試合……」
稔は、目を丸くした。
自分が今できるのは、基本の技だけ。それを、どのタイミングで、どのように打つのか全然分からない。そんな状態で、試合……?
桜もまた、仰天していた。
桜は道場……いや、市民小学三年生の中で最強の剣士。それどころか、小学六年生までの剣士でも、まともに相手になる者はほとんどいない。そりゃまぁ、確かに稔の『基本の面打ち』が凄いのは認める。桜も見ていて、その威力に圧倒され驚いている。でもまだ、それだけ。最強の小学生剣士、桜の相手になる訳がない。
お姉ちゃん……何考えてるの?
「さぁ、始めた、始めた!」
訳の分からないまま、二人は試合開始線で向かい合い、蹲踞をした。
「はじめ!」
審判は、杏一人だけ。稔の初練習試合……稔 対 桜戦が始まった。
「ヤァアー!」
桜が気迫を発した。稔は、まだオドオドしている。
審判をする杏は、うっすらと笑いを浮かべていた。
「メェーン!」
桜の『面』。稔は、ギリギリ、何とか躱した。しかし、そこからの連続技。
「コテェ! メンメェーン!」
『引き小手』からの『面』の二連打。稔は防戦一方だ。
サクラが舞うような動き。桜の剣道は、華麗だ。小学生剣士は、誰もが翻弄される。勝負がつくのは時間の問題……誰もがそう思った。
しかし……打ち合っているうちに、桜は違和感を覚えた。
桜はいつも通り、稔を翻弄……桜の『技』に稔が気を取られる時にできる、一瞬の隙を狙っていた。しかし、完全に稔の隙をついたと思ったのに、躱される……。
こいつ、初心者? 確かに、こいつの体捌き、竹刀捌き、足捌き……どれを見ても、初心者だ。なのに、何故、私の『技』を見切れる?
桜は、躍起になった。
「コテ、メン、メンッ、ドォオ!」
怒涛の連続技の後、一気に間合いを遠ざけた。不意をつかれた稔の『小手』……右手首は、がら空きになる。
桜はそこへ軽やかに飛び込む!
「コテェ!」
しかし……何と、空ぶったのだ。 その瞬間!
「ドゥァアァー!」
稔が凄まじい気迫と共に振りかぶる!
桜は瞬時に体勢を立て直し、手首を返す!
「ドォオ!」
「胴あり!」
桜の一本勝ち……しかし、いつもクールに勝つ桜の息は上がっていた。
「あんた、珍しく苦戦したじゃない」
試合後。杏が目を細め口角を上げ、ニヤついて桜に言った。
「別に……ちょっと、やりにくかっただけよ」
桜はムスッとしている。
「ま、あそこで、あの『面』に反応できるのは、流石ね」
杏はしかし、不敵な笑みを浮かべた。
「でも、あんたがあそこで『面』を打っていたら……どっちが勝ってたかしらね」
悔しいが、桜は答えられなかった。『面』を打ったら負ける……そう思ったから、『胴』で応じたのだ。
すると、杏の顔から笑みが消え、真剣な顔になった。
「これから、本当にあんたの『敵』になるのは、稔のような相手。あんたのような動きができなくても……真っ向から中心をとった真っ直ぐの『面』を打つ奴。それだけ、覚えときなさい」
桜は、グッと唇を噛み締めた。
自分には、最強の小学生剣士としてのプライドがある。それが、剣道を始めてまだ半月ほどの奴に負けそうに……
「地稽古!」
小休止の後、試合形式の稽古が始まる。桜は、真っ先に稔の元へ行った。
「地稽古、お願いします!」
戸惑う稔に、桜は言った。
「さっきの試合の続きよ」
「そう!」
杏はニヤッと笑った。
稔のもう一つの武器、『目』……相手の動きを見切る動体視力は、想像を遥かに超えていた。
それに対し、桜の『剣舞』は相手を翻弄する剣。誰も捉えることのできない華麗な動きは、稽古を重ねれば重ねるほど、速さに磨きをかける。
これほど『相性のいい』組み合わせはない。
「桜の『プライド』か、稔の『鬼』か……どっちが勝つか、楽しみね」
杏はいつもの、小悪魔な笑みを浮かべたのだった。
稲の穂が金色に稔る秋。体育館で秋季市民剣道大会が開催された。
稔は、初の対外試合だ。夏休みに桜との競り合いで相当な力をつけた稔は、初心者とは思えない『豪剣』を披露した。順調に個人戦を勝ち進む小さな『鬼』。そんな彼を、杏は余裕の笑みを浮かべて観戦した。
「ヤァアー!」
掛け声を出す相手。その正面から、稔は凄まじい気迫を発した。
「ドゥウアァー!」
稔の周囲の空気が振動し、相手に突き刺さる。相手は稔の気迫に圧倒され、打ち込みを一瞬躊躇った。その刹那!
「メェーン!」
『バコォ!』
稔は、たじろいだ相手に生じた瞬時の心の隙をつく『面』を決めたのだ。
稔が『面』を決めるのを見る度に、杏は鳥肌が立った。自信満々の杏も、これほどの速度での成長は予想していなかった。
この試合に勝ったことで、稔は準々決勝へ駒を進めることになったのだ。この試合に勝つと、稔は三位以上……生まれて初めてのメダルを手にすることになる。
「いい? 稔。相手がどんな手を使ってきても、あんたは私の教えた剣道を貫くのよ。『絶対に勝て』とは言わない。たとえ負けても、あんたは『あんたの剣道』を貫きなさい」
試合前。杏は稔を真っ直ぐ見て言った。普段見せない杏の真剣な美しい表情にドキっとしながらも、稔も真っ直ぐ頷いた。
杏が『絶対に勝て』とは言わないのには理由がある。
準々決勝の相手は、角口という少年。毎回、市民大会で優勝する少年だ。
しかし、杏は決して『角口が稔より強い』とは思っていない。ただ、『勝つ』ためのテクニックに長けている少年なのだ。そんな相手のために、自分が稔に教えた『豪剣』が崩れてしまわないか……杏は、ただそれだけが気掛かりだった。
稔と角口が向かい合い、蹲踞した。
「はじめ!」
準々決勝が始まった。
「ドゥウァアー!」
稔は、気迫を充実させた。
しかし……何か、変だ。何か、違和感がある。
今まで対戦した相手は、稔の真っ向からの気迫に対し、圧倒された。しかし、この角口という相手は、稔の気迫に動じない……というか、受け流していた。
稔がじわじわと右足を前に出した。
しかし、何故か角口との距離は縮まらない。
別に、角口が怖気付いて後ずさりしているようにも見えない。構え自体は堂々としていた。ただ、僅かずつ左足を引き……遠間を保っていたのだ。高まる緊張感に、稔は痺れを切らし……遠間から飛び込む!
「メェェー……」
しかし、次の瞬間、場内がどよめいた。
角口が剣先を稔の喉元に定めた状態のまま、稔は飛び込んだ。稔が飛び込んでも、角口は稔の喉元に向けた剣先を一ミリたりとも動かしていなかった。つまり、角口の竹刀の先が稔の喉元に突き刺さったのだ。
「グハッ……ゴホッ!」
稔は咳込んだ。
「やめっ!」
試合は、中断される。
「ゴホッ、ゴホッ……」
激しく咳込んでいた。
「稔! 稔、大丈夫?」
杏は取り乱し、稔のもとへ駆け寄った。
「は……はい、大丈夫です」
喉元は赤く腫れていたが、稔の呼吸は落ち着いた。どうにか大事には至らなかったようだ。
杏は、稔を真っ直ぐ見て言った。
「いい? 今までの相手は、あんたに立ち向かってきた。だから、あんたの気迫を真っ向から受けるとビビってた。でも、あの相手は違うの。あんたが焦って崩れるのを待ってる。だから、あんたは焦るな。落ち着いて」
「はい!」
稔がいつものように元気に返事をすると、杏は安心して微笑んだ。
「もう一度言うわ。『絶対に勝て』とは言わない。あんたは、『あんたの剣道』を貫きなさい」
「はじめ!」
試合が再開される。
へぇ、まだ来れるのか……。
角口は思った。
この山口という相手、『面』は凄い。あの気迫、あの威力、あの重さ。『合い面』で勝負すると、十中八九負ける。
しかし、それだけだ。その他の『技』、体捌き、足捌き、どれを取っても初心者だ。初心者が『面』を武器に意気がってるだけ……。
角口は、稔が飛び込んだ瞬間、一歩後ろに下がれば躱せたし、竹刀で捌こうと思えば捌けた。しかし、敢えてそれをしなかった。
竹刀を動かさずに喉元を突き、恐怖を植え付けてやったのだ。これであわよくば不戦勝、もし試合が再開されたとしても、恐怖心からあの『面』の威力は半減する。角口は、『勝つ』ために、その後の流れを有利に持っていく手段を取ったのだ。
試合は続行される。でも、こいつの気迫は半減するだろう。そう思っていた。
しかし……
「ドゥアアァー!」
稔の気迫に角口は驚いた。先程にも増す気迫。
それに、先程までの焦りが見られず、落ち着き堂々としているように見えた。その瞬間!
「メントォォオー!」
突如、目の前に竹刀が現れたかと思った。角口は即座に竹刀で捌き、身を右へ開いて躱した。
しかし、危機一髪。この迷いのない『面』。こいつに恐怖心はないのか?
それに、『打つ瞬間』が分からなかった……。
「ドゥアアァヤァアー!」
角口が驚く間に振り返り、体勢を立て直した稔は、さらなる気迫を彼にぶつけた。
角口は、稔の中に『鬼』を感じ、身震いした。
もう、こいつを初心者だとは思わない。俺は、『俺のやり方』で、全力でこいつを潰す!
角口は、構えを立て直した。
「メェェーン!」
稔の『面』。角口はそれを竹刀で捌き、躱した。角口も百戦錬磨の小学生剣士。強い相手との戦い方は心得ている。
遠間に構えたまま剣先を僅かにずらし、相手が打ち込むのを誘う。相手の『打ち』は躱し続け、体力を消耗させる。そして、相手の中心をとって攻め続け、相手が崩れた瞬間を狙い……決める! その戦法を立てていた。
稔は、徐々に体力をすり減らしていた。
苦しい……。勝負から逃げてしまえば、楽になれるかも知れない。
でも……。
「あんたは、『あんたの剣道』を貫きなさい」
杏の言葉が、逃げようとする想いを封じた。
逃げてはいけない。たとえ負けたとしても、僕は、『僕の剣道』を貫く!
「ドゥォオラァアー!」
追い詰められた状況で、稔は最大の気迫を発した。それは、試合を見守る観客達を、そして、角口を驚かせた。
あの『面』がくる!
角口は、そう直感した。
『面』では敵わない……。
瞬時に、中心をとっていた竹刀を僅かに上げ、稔の右手元へ伸ばす!
「コテェ!」
竹刀は相手の右手首を捉え、体自体は瞬時に右にずらしての『小手』。
『パーン!』
稔の右手首を竹刀が打つ音が響く。稔の竹刀がかすめた角口の『面』にも、ビリビリと衝撃が伝わる。
「小手あり!」
試合終了間際の『出小手』。準々決勝は稔の一本負けに終わった。蹲踞をして戻った稔は、一気に脱力した。
試合に負けた稔は、中学生女子の決勝戦を見ていた。
「ウォォアァー!」
杏の気迫がビリビリと試合会場内の空気を震わせる。試合会場の観客、皆の視線が集まった。
「メンヤァアー!」
『バコォッ!』
竹刀が、まるで吸い寄せられるかのように相手の『面』のど真ん中にめり込んだ。
「凄い……」
稔は、何度見ても感動する。
自分も、多少なりとも迫力のある『面』を打てるようになったつもりではいた。しかし、この『面』には、まだ遠く及ばない。でも、いつか、必ず……。稔は、手をグッと握った。
試合は、いつも通り、杏と桜の姉妹が優勝という結果に終わった。
「みのーるちゃん!」
金メダルを首にかけ、上機嫌の杏は稔のもとへ駆け寄った。
「あれー、あんた、メダル取れなかったの?」
知ってるクセに、茶化す。デリカシーのなさは人一倍だ。
「ごめんなさい……三位にもなれなかったんです」
稔が本当に泣きそうな顔になったので、杏は慌てた。
「あ、いや、ごめん。そんなにヘコんでるとは……」
頭をポリポリかく。しかし、ふと何かを思いついた。
「稔。こっち向きなさい」
「えっ?」
すると、杏は稔の首に自分が取った金メダルをかけたのだ。
「私が、あげる」
杏は屈んで稔と目を合わせ、柔らかく微笑んだ。
「あんたの、初めての金メダル」
「えっ……でも」
「あんたは、負けても『あんたの剣道』を貫いた。『あんたの剣道』を貫く限り、あんたはどこまでも強くなる。この金メダルを見るたびに、それを思い出しなさい」
杏は優しく言った。その言葉に、稔の目から堪えていた涙が溢れ出す。
「お姉さん……」
稔の顔が涙でグショグショになる。
「僕、悔しい……」
杏は、稔の頭を撫でた。
「うん、うん。その悔しさを忘れるな。忘れない限り、あんたは絶対に強くなるんだから」
屈んだまま、ぐしゃぐしゃに涙を流して泣く稔を撫で続けた。その金メダルは、いつまでも、ずっと……稔の一生の宝物になるのだった。
道場へ向かう公園に立つサクラも満開になった春。
小学四年生になった稔は練習試合をしていた。相手は、門下生仲間の須藤という少年。稔より一つ上、小学五年生だ。
「ヤァァアー!」
「ドゥアアァー!」
稔は、一つ上の須藤の気迫をも飲み込む気迫を発した。しかし……稔が須藤の『面』を狙い振りかぶろうとした、その瞬間!
「コテェ!」
『パァン!』
須藤の竹刀が稔の『小手』を捉えた。
「小手あり!」
試合を観る杏は腕を組む。
「うーむ……」
須藤は、弱い相手ではない。寧ろ、『小手』を得意として、大会でも入賞することのある、強い部類に入る少年剣士だ。
でも、杏は須藤を『強い』とは思っていなかった。ただ、器用に『小手』を決め、『勝つテクニック』に長けている剣士……稔が昨秋戦った、角口と同じタイプの剣道をする。
稔の成長は目覚ましいものに見えた。しかし、成長が早ければ早いほど、挫折も早く訪れる。
『面』で勝負する稔は、悉く『出小手』に負けるのだ。その挫折の時期に、稔は須藤と仲良くなった。どうも、嫌な予感がする。
「稔!」
稽古後、杏は稔を呼んだ。
「今は勝とうなんて思わなくていいから。あんたは『自分の剣道』をやりなさい」
「でも……」
稔は何だか煮え切らない。その時。
「おい、稔。帰ろうぜ」
須藤が呼ぶと、稔は逃げるようにそちらへ行った。
「あ、ちょっと……」
杏が呼び止めようとした時には、稔は須藤と共に道場を出ていた。
「うーん……」
杏は腕を組んだ。
「子供に反抗される親って、こんな感じなのかな」
帰り道。
「なぁ、稔。お前、どうして『小手』を打たねえの?」
須藤が尋ねた。
「えっ?」
「『小手』打てるようになると、勝つん楽だぜ。動きも少なくて済むしよ」
「でも……『面』が僕の剣道だから」
稔の頭の中を、杏から貰った金メダルがかすめる。
「あぁもう、そんなんに拘るなって。お前も、試合で入賞したいだろ? まぁ、でも俺は、今のままの方が、楽にお前に勝てるから助かるけどな」
須藤が嫌な笑みを浮かべながら言うと、稔は下を向いた。
次の稽古でのことだった。
「ドゥアアァー!」
「ウゥァアァー!」
稔と杏が地稽古をしていた。
剣先のギリギリ触れる間合いでの攻め合い。
張り詰める緊迫感……の筈だった。しかし、その日に限って杏はお腹の調子が良くなかった。
いてて……昨日、アイス食い過ぎたかなぁ。
その刹那!『面』ごしにジッと杏の目を見ていた稔は、その刹那の心の隙を見逃さなかった。
竹刀が瞬時に杏の手元へ伸びる!
「コテェ!」
『パァン!』
杏の右手首を竹刀が打つ音が響く。
杏は驚いた。百戦錬磨の自分が稔に負ける筈がない。他のことを考えていても、即座に反応できる筈だった。でも、今のは……本当に、稔が『小手』を打つ『瞬間』が分からなかった。
稔も驚いた。杏は、今までひたすらに憧れ……天の上のような存在の剣士だった。それが、『小手』を狙ったら、一本取れた……。
「くそっ!」
杏はすぐに体勢を立て直した。
それからは、一本取れたのが嘘のよう。稔がどれだけ『小手』を狙っても、すりあげられ、抜かれ、返され、ボロボロに何本も取られた。
しかし……まぐれで杏から『取れてしまった』この一本が、稔のこれからの剣道に大きく影響を与えることになったのだ。
サクラの花びらが舞う春季市民大会。決勝の舞台に稔はいた。
「ヤァァアー!」
「ドゥアアァー!」
気迫の掛け合い。やはり、稔の気迫は同学年の剣士の間では群を抜いている。しかし、狙うのは『面』ではない。
相手の呼吸は一定。攻撃の警戒に切り替わることはなく、攻め合いながら一定の呼吸を続ける……。
その刹那!
「コテェ!」
『パァン!』
消えた!
恐らく、相手はそう思った。微動だに、反応ができなかった。稔は、完全に相手の一定の状態の『瞬間』を裂く『小手』を決めたのだ。
「小手あり!」
稔の春季大会決勝は『小手』での二本勝ち。剣道の大会での初優勝を飾った。
「やったじゃんか、稔。やっぱ言った通り、『小手』を打ったのが良かったな」
試合後、須藤がニヤニヤしながら来た。
「うん……」
稔が杏の方を見ると、まるで無関心に、自分の試合の準備をしている。稔は下を向いた。
「ったく、『勝つテクニック』なんて覚えやがって」
杏はブツブツ言っていた。
「確かに、あいつは打つ『瞬間』が分からない。その『瞬間』の分からない『小手』は物凄い脅威ね」
眉間に皺を寄せた。
「でも、相手とぶつかり合わずに『勝つ』……そんなの、私の『信念』に反するんだよなぁ」
震える口角を上げ、怒りにも見える笑みを浮かべた。
その日の中学女子の部では、杏はかつてないほどの早さで剣士達をなぎ倒して優勝した。そのことが、『怒りにも見える笑み』の意味を物語っていた。