太陽くんとましろちゃん

 気が進まない。あれから太陽のことが気になって仕方なかったし、これ以上学内という太陽がいつどこで見ているかわからない場所で「ましろちゃん」になることは果たして良いことなのだろうかと、自問自答はまだ続いていた。しかも最悪な形でバレたばかりだ。あの格好で再び会うことを決めたのは自分。結果的に俺が嘘を重ねてあいつを騙したのだ。先輩達は何も悪くない。全部自分が悪い。こんな気持ちになるのなら、さっさと全部話して互いにとっておかしな思い出として、笑い話にした方がマシだった。だけどもう、全部遅い。後悔して、今更猛省した。彼の気持ちを踏みにじったことに胸が痛い。毎日、あの日の太陽の楽しそうに笑う顔が浮かんでは苦しくなった。何度か連絡を試みたが、そんなことをして余計に傷つけてしまったらと思うと気が引けた。本当はただ謝りたいというわけじゃない。彼のあの嬉しそうな顔が崩れてしまったことがショックで、何度も何度も関係を修復したいと願ってしまった。そんなことを思う権利は俺にはないというのに。スマホのメッセージアプリを開いて、何度目かの溜息を吐く。下手したら一日中繰り返していた。
 あぁ、もう……どうかしている。
 数日前はどう回避しようか困惑していた相手に、四六時中思いを寄せている時点でどうかしている。それも相手は男だ。新しい恋をして振られたことを吹っ切るはずの合コンに行き、結果的に何故か新しく知り合った男のことばかり考えている。
 それもこれもこの罰ゲームで始めた女装のせいだ。人を傷つけた行為なのだ、もうそこで辞めれば良いのにそれでも約束は約束だからと、サークルのために馬鹿正直に姉さんからメイクを教わり、姉さん程上手くは出来ないが一人で準備が出来るようにまでなってしまった。我ながら本当に飽きれてしまう。
「おーい、美人が台無しだぞ」
 部室の鏡の前で大きな溜息を吐くと、背後から青木先輩が覗き込んできた。
「うわー。やっぱお前この方が良いわ。マジ可愛いって。この格好でずっといてくれるなら全然付き合えるわ」
 青木先輩は真剣な顔をして言っていた。この人のやること言うことは全て冗談だ。本心で俺と付き合う気は毛頭無い。俺と付き合いたいって言った男は後にも先にも太陽だけだろう。
「うん、ほんとすごいよ……。青木もやれば良いのに。化けるかもしれないよ?」
 青木先輩の横で、手伝い要員として駆り出された黒崎さんが立っている。ここ最近よくサークルにこの顔を出すが入部希望者ではないらしい。新入生より、まずこの人を口説き落とすべきだろうが。
「こんな美人が既にいるんだったらやる意味無いだろ?こいつの顔見てみろよ、今日で学内一付き合いたい女子に昇格間違い無しだぞ」
「青木の女装が見れるって言うから手伝いに来たのに……」
「残念だったな、この物好きが」
 嫌味ったらしく青木先輩が黒崎さんに言った。
「あいにくですけど、俺は空気の読めない方とお付き合いは無理ですね」
「まだ怒ってんのかよ。謝ったじゃん。それに相手は男だったし、寧ろ助けてやっただろ?」
 今度は先輩が大きなため息をついた。オーバーな動きまで見せるから少し腹が立つ。それに助けてやったなんてのは思い上がりだ。
「だからだっての」
 仕上げにグロスを塗って、立ち上がった。今日はワンピースを着ていた。姉さん曰く、スカートなら男性体型が綺麗に隠れるらしい。セミロングの髪を耳にかけて、カチュームをつけた。まだ肌寒いから、今朝自分が着てきたデニムのジャケットを羽織ると、青木先輩は「カレジャケかよ」と軽くツッコミを入れた。
「男避けっすよ」
 鼻で笑ってやると、二人は苦笑いを返す。冗談で答えてやったが、半分は本気だ。また変な気を持ったやつが現れても面倒くさい。
「さて、そろそろ外行きますか」
 俺はサークルの勧誘ビラの入ったダンボールを持ち上げようとした。だが、しゃがみ込んだところで黒崎さんに止められた。
「一応、今は女の子ってことだからね」
 そう言って、中に入っていた束を少しだけ手渡され、後は任せろと箱を持って先に出て行く。青木先輩はダンボールには目もくれず、部室にあったパイプ椅子を二脚重ね持つと、俺と黒崎さんの後ろにくっつく形で部室を出た。
 イベ部の部室は三階にあり、今日は一応スニーカーではあったが、準備で忙しくする人が行き交うためワンピースがふわりと浮かぶ。ゆっくり歩いて行かないと、捲れて最悪なことになりかねない。慎重に、なるべく早く、確実に一段ずつ降りていく。ゆっくり歩く俺にしびれを切らした青木先輩は先に行くと言って、パイプ椅子のぶつかり合うガチャガチャ音を立てながら数段飛ばして階段を降りて行った。
「焦ってもまだ新入生来ないぞ」
「わかってるって」
 黒崎さんから注意を受け、若干不機嫌な顔を見せたが、直ぐに鼻歌混じりに歩き出す。
 この浮かれ野郎め……。
 勧誘期間に変なテンションの先輩がいたというマイナスイメージを新入生に与えるのだけは勘弁してほしい。俺の不機嫌な表情を読み取ったのか、隣にいた黒崎さんは苦笑いをしていた。
 前から思っていたが、本当にこの人は青木先輩の何なんだろう。気になった上に目があって、口を開きかけた時、先程軽快なリズムで階段を降りていったはずの青木先輩の大きな声とガシャン、というパイプ椅子の落下音が階段に響いた。
「やっぱり。やると思った……」
 呆れた俺をよそに、ダンボールを持ったまま黒崎さんは早足で階段を下っていく。それを見て慌てて後を追うと、青木先輩は部室棟の出入口で人とぶつかっていた。
「まったく……浮かれすぎだよ、何してんだ」
 ダンボールを置いて黒崎さんが呆れながら青木先輩に駆け寄った。
「こっちもボーッとしてて」
 ぶつかった相手と青木先輩はどうやら出入口を出る手前でぶつかってしまったらしい。先輩は、「こいつが急に振り返ってきた!」と、腰をさすりながら言う。
「注意散漫な先輩も悪いでしょ……」
 思わず溜息混じりに呟いた。しゃがみ込んで、ぶつかった相手に手を差し伸ばし、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 すると、その相手の顔を見て俺は息を飲んだ。
「あ……」
「ま、ましろちゃん……?」
 ぶつかった視線が何かを貫いたかのように、身体が動かない。青木先輩がぶつかった相手は太陽だった。しかし、こんなのところで会うとは思わなかった。いや、会うかもしれないけれど、素顔は知らないはずだからと勝手に安心していた。まさか同じ日に部室棟で出会うとは思ってもみなかった。
 しかも、寄りによってこんな格好の日に……。
 ガチャガチャとパイプ椅子とダンボールを持ち直した先輩達は、俺に何かを言っていたようだが、全く耳に入らない。すべての神経が太陽に向いていて、それ以外の世界が遮断されていた。
「ひ、久しぶり……」
 視線がぶつかったまま、俺から口を開いた。何が久しぶり、だ。どのツラ下げて言っているのだろうか。自分が嫌で嫌で仕方ない。
「……久しぶり」
 数秒の間があき、小さな声が返ってきた。全く相手にされないと思っていたからか、嬉しくて思わず手の甲で口元を隠す。
「怪我は……?」
「だ、大丈夫っ」
「そっか……。じゃ、急いでるから……」
 鳴り止まない心臓音が太陽に聞こえないように、ついさっき駆け寄った時にばらけてしまったビラを掻き集めた。それを見ていた太陽も一緒になってビラを掻き集め始める。
「いいよ、お前も急いでるんだろ」
 太陽は無言で束を整える。そんなに時間はかからないことなのに、すごく長い時間が過ぎているような錯覚に陥った。
「これ……」
 恐る恐る束を渡してきた太陽は、以前よりも俺の方を見ないようにしていた。あからさま過ぎて何も言えない。嫌な痛みが胸を刺した。
「……どうも」
 俺は束を受け取り、自分の拾った分と合わせた。
「それじゃあ……」
 そう言って太陽は部室棟の中へ戻って行った。たった少しだが会話ができたことに喜んでいた自分とは別に、二度と会いたくない相手に再会してしまった彼のことを考えると、また胸が痛む。それもこれも全部自分が悪い。彼を傷付けたのは間違いなく俺だ。今更許されるのは虫が良すぎる話だろう。不思議に込み上げた悔しさに鼻の奥がつうんと痛むのを感じた。奥歯を噛み締め、俺はビラを抱えて先輩たちのところへ戻った。

 
 逃げるようにその場を離れた。心臓がおかしなほど高鳴っていてどうにかなりそうだ。焦燥感よりも高揚感のが近い。何故だろうか、あんな嘘をつかれたというのに、あの人にまた会えたという気持ちが昂ぶってしまう。
 もう会えないとばかり思っていたのに……。
 部室にビラの入ったダンボール箱を取りに行った時だった。すでに他の部員がブースへ運び出した後だったと言われ、仕方なしに踵を返していると、部室の机にスマホを置いてきてしまったことに気がついた。慌てて振り向いたため、真後ろに人がいたことに気がつかなかった俺は、そのまま勢いよくぶつかってしまったのだ。しかもそのぶつかった相手は、つい最近あのパスタ屋で見かけた「ましろちゃん」の知り合いだった。俺が急に立ち止まって振り向いたのがいけない。互いに怪我はなかったものの、ぶつかった時に相手がパイプ椅子を手放したため大きな音が響いてしまった。おかげで、階段からはパスタ屋で見かけたもう一人の男の人と、俺がずっと会いたくて焦がれた「ましろちゃん」が降りてきたのだ。
 折角再び会えたというのに、俺は驚きと気まずさで何も言い出すことが出来ず、逃げるようにその場を去ってしまった。
 あのデートの日、何も言えなかったことをずっと後悔していたのに。なんでまた、逃げたんだよ……。
 そうは言っても、本当は怖くて仕方なかった。きっと自分の中で「ましろちゃん」は、まだ好きで、好きで好きでたまらない存在なのだろう。最初は見た目だけに惚れたのかもしれない。だが、連絡を取ったあの数日間も凄く楽しかった。ここ数日は毎日浮かれていたし、自分の関わるもの全てに花が咲いたような気がした。騙されていた、全部嘘で同性でした、と本人からそうはっきりと言われても、それでもこんなに考えてしまうし、なんならさっきもう一度会っただけでこんなにも心臓がうるさい。
 こんなに胸がざわつくことなんて、他にあっただろうか。
 慌てて部室へ戻ると、中にいたサークルの先輩達に驚かれた。
「あ、やっぱ戻ってきた。ほら、スマホ忘れてんぞ」
 大した段数の階段じゃないのに、息が荒くなっていて、呼吸を整えながら先輩からスマホを受け取った。
「何、慌ててんだよ。見られちゃいけないデータでも入ってんのか?」
「ち、違いますよ」
「ふーん。ま、アレだろ。さっき下に見たことない可愛い子いるってメッセきたから、アドレスでも聞き出そうとして取りに来た……ってそんな感じか?」
 先輩がニヤニヤと笑いながら言うと、窓を開けて下を覗き込んだ。
「ほら、あの辺人多くないか?」
先輩が言った方向には確かに人が多く見えた。でも、二階の窓からだと全体を見渡すのは少し無理がある。 しかし、その見たことない可愛い子というのは、何となく誰だか分かっていた。
「お、新情報キタ!」
 もう一人、窓辺で見知らぬ美女を探していた先輩が、スマホの画面を見ながら言った。どうやら、下の中庭にいる誰かから連絡を受けたらしい。
「イベ部の人らしいぞ。誰かの手伝いかもな。あのイケメン黒崎の近くにいるのを見たって聞いたけど、あいつの彼女かも?」
「でも黒崎に彼女がいるなんて聞いたことないけど?」
「マジか。じゃあ俺、声かけに行ってこようかな」
「ちょ、待ってください、それはダメ!」
 咄嗟に出た大きな声に。自分でもビックリして慌てて口を塞いだ。冗談混じりだったが、その先輩の目が本気に見えて思わず叫んでしまった。
「どうしたんだよ、急に」
「もしかして、お前の知り合い?」
 窓の方を見ながら先輩達が言った。知り合いと言えば知り合いだが、上手く説明ができない。
「す、すみませんっ、俺、手伝いあるのでっ」
 先輩達に顔を覗かれた俺は、それを避けるように部室から飛び出した。勢いで飛び出した俺は、とにかく中庭まで走った。焦りすぎて足が縺れそうになり、部室棟の入口で躓きそうになったのを、なんとかバランスをとって踏みとどまる。他の準備の学生が通りすがりに変な目で見てきたが、気にしているほど余裕がなかった。
「あぁっ!もうっ」
 両脚の太ももを拳でガツンと殴り、自分に気合を入れると、俺は新入生勧誘ブースを走ってワンピースを着た「ましろちゃん」を探した。イベント部の場所がどこに設置されているかもわからない上に、この大学のサークル数は膨大で、かなりのブースが設けられていた。インカレのサークルも含めたら結構な数で、小さなスペースを詰めあって作られたエリアは、狭い中庭内では収まらず、校門へ続く通りにも広がっていた。息が上がり、四月の少し涼しい風が気持ちいいぐらいに感じる。喉もカラカラに乾き、呼びながら探すのは難しかった。ぜいぜい言いながら走っては歩き、走っては歩きを繰り返す。バスケットボールのサークルに所属しているくせして体力が殆ど無くて情けない。
 どこに、どこにいるんだろうか。
 自分は逃げた身だ。これ以上彼に付き纏っても意味がない。あっちだって迷惑だろう。気持ち悪がられるのがオチだ。追いかけても関係を発展させることなどできやしない。諦めたら楽なのは分かっているのに、何も知らない他人に、あの人を「可愛い」と言われるのが何より腹が立って、居ても立っても居られなかった。
 走るのをやめ、クールダウンがてらゆっくりと歩く。後ろポケットに入れていたスマホが鳴りっぱなしだった。きっとサークルの先輩が持ち場を離れたことに激怒しているのだろう。ここまで来たら諦めきれず、辺りを見ながら歩いた。すると、離れたところに人だかりが出来ているのを見つけた。
「え、雪弥なの、マジ?」
「うーわ、俺騙されたわ」
「めっちゃ別人だし、可愛すぎ!」
「女の私ですら嫉妬するレベルなんですけどっ」
 きゃあきゃあと騒ぐ女の子達の声が響く。手に持っている手作りの看板や服装などから推察するに、他のサークルの勧誘担当者達が持ち場を離れてとあるブースに群がっているようだった。聞こえてくる内容が気になって、そのブースを遠目から確認すると、そこは探していたイベント部のブースだった。
 人と人の間から中を覗くと、その中心に困ったように笑っているあの人を見つけた。すると、俺は人集りの開いた狭い隙間に体をねじ込ませると、咄嗟に手を伸ばして彼の腕を掴んだ。
「えっ、おまっ……!」
 目をまん丸に見開いて驚いている彼の腕を自分の方へと引く。周りの人も驚いて、俺と「ましろちゃん」から離れた。
「ちょっ、どうしたんだよ」
「どうもしない……はず、なんだけどっ」
「……何だよ。笑いに来たのか?女装癖、オカマ?否定はしないでやるよ、こんなに似合ったらモテるのが楽しくて仕方ないからな」
 震える声で皮肉めいたことを話す彼に、俺は首を強く振った。
「……笑わない、笑えるわけないっ」
 掴む腕に力が入ってしまう。彼の表情が歪んだが、この手を振り払われたらもうこれっきりだ。
「そりゃそうだよな、冗談でも笑えないよな。だっておまえ……」
「俺は本気だったんだよ!本気で、惹かれたんだよ……。誰にも渡したくないってぐらい衝撃的で、笑った顔も、俺に気をつかう優しさも。全部惹かれたんだよ……!」
 何を言ってるか、自分でもわからなかった。それぐらい必死だった。この手を離したくない気持ちが溢れて出てしまった。
 数秒の間を置いて、周りがざわつき始めた。ハッとして「ましろちゃん」の顔を見ると、今にも火を吹きそうな赤い顔で俺を睨んでいた。
「あ、そのっ……ごめ」
「クソっ……!おまえ、こっち来い!」
「ましろちゃん」が俺の腕を掴むと勧誘ブースから急足で連れ出した。
「ちょ、ましろちゃん、どこ連れてくのっ?」
 掴まれた腕が痛み、自然と眉をハの字に寄せた。
「その、ましろちゃんって言うのを今すぐやめろ。雪弥で良い」
「えっと、雪弥……ちゃん?」
「雪弥で良いって言ってんだよっ!」
 急に振り向いた彼は、目には涙をたくさん溜めていた。
「えっ!な、何で泣いて」
「バカ!お前、なんであんなとこでなんつーこと言うんだよっ!この大バカ!」
「えぇっ……!ごめん、だってなんかその、他の人に好きになられたら困るっていうか……その、必死で」
「……っとにお前……。バカでアホすぎんだろ……。そんなの、冗談でも太陽ぐらいしか言わないっつーの!」
 彼から鼻の啜る音がして、恥ずかしさのあまりに泣かせてしまったのが分かると、ぎゅんと胸を締め付ける苦しさが増し、思わずそのまま抱きしめてしまった。
「ちょ、本当なにやってんだよ!離せっ」
「やっぱり……。ましろちゃんは天使だ」
「はぁ?」
 背中をばしばしと叩かれているのに、全然痛くもない。むしろそれが心地良いぐらいだった。呆れられたのか、諦めたのかわからないが、雪弥は次第に抵抗をするのをやめた。
「……俺、冗談で人に好きとか言えないよ」
「あのな、太陽。前にも言ったけど、俺は男だぞ」
「うん。知ってる……分かってる」
「女装しておまえのこと騙したんだぞ」
「うん。でも、それがあったから会えた」
 雪弥は大きな溜息を吐いた。
「……あのなぁ……。俺がお前なら殴ってるところだぞ」
「俺は殴らないよ。だって、好きな人を傷つけられないし」
「……俺は傷つけたよ」
「あんなの、かすり傷だってば。それに、ましろちゃんが好きになってから毎日楽しかったし、全然痛くも痒くもない」
 雪弥はぎゅっと俺の背中に腕を回した。
「おまえ本当にバカだな」
 クスクスと嬉しそうに笑う雪弥の吐息が耳に触れる。さっきまでざわざわとしていた胸の違和感がさらりと消えた気がした。

「雪弥って、本当に男だったんだね」
 着替えてメイクを落とし、太陽との待ち合わせ場所に向かうと、開口一番に太陽が言った。待ち合わせ場所はあのベンチだ。女装ではない姿を見せるのがここにきて気恥ずかしくなり、着替えに少し時間をかけすぎてしまった。ベンチに座っている太陽は俺を待っている間、終始キョロキョロしていて落ち着きがないのが部室の窓からも丸見えだった。そんな彼を見ていたせいで、自分にも緊張が伝染したのだろう。
「だから言っただろ。俺は男だって」
 えへへと笑う太陽は、あの日のデートの時よりも余裕があって嬉しそうだった。
「それから俺は年上だ」
 そうだったのかと太陽は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐさま笑顔に戻る。
「なら、俺の好きな人がたまたま年上の男の人だったってだけ、ですね」
 こいつ、どんだけお花畑なんだよ……まったく。
 急に改まって敬語を使われると調子が狂う。俺は短い溜息を吐くと、太陽の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「敬語は禁止。たった一歳なんてどうでも良いただろ。ったく……。さっきまで普通に話してきてただろうが。急にヒヨってんじゃねぇよ」
「うぅ……、だって」
「だってじゃなくて。ほら、呼んでみろよ」
「えぇ……それじゃあ……雪弥」
 改めて呼ばれるとこっちが照れてしまう。
「ゆ、雪弥さん」
 なんと返したら良いのが分からず、俺が黙り込んでいると、何を勘違いしたのか太陽が不安そうな声で俺の名前を呼んだ。
「さんって……まぁ良いや。ほら、置いてくぞ」
「えっ、ちょっと待って!行くってどこに?」
 慌てて俺の横に並び、自然と手に持っていた着替えやメイク道具を入れている大きな荷物を俺の手から受け取る。
「良いよ、重くないから」
「これぐらいやらせて欲しいんだ。ほら、えーと……カレシの特権……?」
 真っ赤になりながらも格好つける。台無しとは言わないが、やはりしまらない。
「あのな……太陽」
「なに?」
「俺、まだお前と付き合うなんて言った覚えないから」
「えっ、えええっ!だ、だってこの流れって普通はっ!」
「あははっ」
 真っ赤だった顔から一気に熱が引いて行くのがわかり、ころころと変わる表情が少し可愛く見えた。

「俺と、付き合ってくださいっ!」
 突然、太陽の声が店内に響き渡った。慌てて口を塞ぐと、泣きそうな目で俺を見る。
 なんだよ、その目は……。今のは明らかにお前が悪いだろ。
 今日は以前のような小洒落たパスタ店ではなく、サラリーマンや男子学生で混み合うラーメン屋に来ていた。先ほどの太陽のどでかい一言に、店中のラーメンを啜る音が一瞬ピタリと止まり、俺たちの座るカウンター席に視線が集中して肝が冷えた。
「お前な……時と場所を考えろ」
 小声で嗜めると、太陽は口を尖らせながら唸る。膨れた頬は赤く染まり、子供っぽく不貞腐れている。思った事をすぐに伝えようとする真っ直ぐな性格は嫌いではないが、少々厄介だ。今みたいな唐突な告白はしょっちゅうで、先週は授業終わりに廊下でやられたばかり。同性同士のカップルが珍しくなくなってきたとは言え、人前で、しかも学内でやられる身にもなってほしい。ただでさえ、新入生勧の学内イベントで目立つような事をしたのだ、俺にだって羞恥心があるって事を良い加減わかって欲しい。
 そう何度言っても聞く耳を持たない太陽に呆れて溜息を吐く。見ているだで何か文句を言ってしまいそうで、太陽から視線を逸らすと、カウンター席の向かいから店員と目が合って眉を寄せられ、思わず肩をすくめた。
「雪弥さん、俺のこと全然何とも思ってませんよね?ちゃんと見てくれたことないじゃないですかぁ……」
「見てる見てる。不貞腐れてる顔、ちゃんと見えてる」
「そういうことじゃないのに……っ!じゃあ、またましろちゃんに会わせてください!」
「じゃあって何だよ。あれはもうやらないって決めたの」
 俺はぴしゃりと言い切った。
「可愛い雪弥さんに会いたい……」
「はいはい、そうですか」
 俺の適当な返事を聞いた太陽は、そばに置かれたコップの水を一気に飲み干す。まるでヤケ酒のようにしか見えないのが面白い。
 俺と付き合いたいという太陽の気持ちはきっと本物だろう。ここ最近はほぼ毎日のように連絡を寄越し、大学内で見かければ付いて回られる。青木先輩には子分だの、ストーカー君だの言われているが、本人は全く気にしていない。というか、それに対しても「いや、俺は雪弥さんの彼氏です」と言い返す始末。まだ俺は付き合うとは一言も言っていないのに、だ。おかげでイベント部では年下の彼氏を捕まえたと揶揄われることが増え、鬱陶しさに呼び出しがない日は顔をあまり出さなくなった。
「この間、良い感じになったじゃないですか」
「寝言は寝て言え。いつだよ、お前の妄想の中だけだろ」
「なぁんで忘れちゃうんですか。中庭で抱き合ったのに」
 大人気もなく足をバタバタと揺らして悔しがる。少しだけ可愛いと思うが、本人に言うと付け上がるのが目に見えているため何も言わない。というか、抱き合ったとか変な事を頼むからこれ以上外で言わないで欲しい。
 そうこうしている間に、先程頼んだ味噌ラーメンが二つ俺たちの前に運ばれた。
「そうだ、今日俺バイトだから。これ食べたら解散な」
 割り箸を太陽に手渡しながら言った。
「えっ、俺の話、まだ途中ですよ?今日こそはっきりさせたいって言ったじゃないですか」
「聞いてるって。ほら、ラーメン伸びるぞ」
 不貞腐れる太陽に早く食べろと促すと、しぶしぶと黙って割り箸を割って麺を啜り始めた。
 正直言って、太陽の気持ちは嬉しい。騙して弄んだのも事実なのに、全てを引っくるめて俺を好きだと言ってくれた。今もこうやって真っ正面からぶつかってくれている。それは以前の太陽からは想像もつかないことだし、勇気のいる行動だというのも重々分かっていた。だからこそ引っかかってしまうのが、太陽の中の「ましろちゃん」だった。
 太陽が一目惚れして、一番最初に付き合ってくれと言ったのは俺だけど、俺ではなかった。俺が女装した姿の「ましろちゃん」にだった。それはきっと今も同じだろう。以前、こいつの部屋に遊びに行った時も何もなかったし、むしろいつも以上に静かだった。意中の人を招いているという意識が募り、緊張のあまり何もしてこなかったのかもしれないが、それにしてもいつも以上に度胸がない。人前で好きだ、付き合って欲しいという勇気はあるくせに、部屋に連れ込んだ途端これだ。太陽のことだから、俺の気持ちをはっきりさせないまま、部屋で事を起こすのが不安なのもあるだろう。
 でももしかしたら、太陽の理想は『ましろちゃん』で、俺はその代わりに過ぎないのかもしれない。そう思えば思うほど、俺は自分の気持ちを打ち明けて良いのか分からなくなった。男の自分に対して告白してくるのだから、自信を持てば良いものの、さっきのように「ましろちゃんに会わせて欲しい」と言われてしまうと、途端に自信は消えていく。これに関しては、女装して太陽を騙した自分が全部悪い。
 だからと言ってこのモヤモヤとした感情を仕舞い込み、太陽と付き合い始めても何も楽しくはない。寧ろ、自分の気持ちを押し殺して付き合うなんて太陽をさらに傷つけることになりかねない。そう考え始めてから、ずっと踏ん切りがつかなくなった。
 だが、いつまでもはっきりしない受け答えをしているだけじゃ、太陽も納得はいかないだろう。
「雪弥さん、食べないの?」
 割り箸を片手に、考え事をしていた俺を太陽が突っついた。
「食べるよ。ちょっとボーッとしてた」
 適当に返事をして、ラーメンに箸をつける。太陽にその様子をじっと見られていて、口を開けるのに躊躇した。
「食べ辛い」
「え、雪弥さん猫舌だっけ?」
「そうじゃなくて、見過ぎだっつってんの」
 そうハッキリ言っても太陽の視線は俺から離れることはなかった。結局、いつもよりゆっくり箸を運ぶ形になり、太陽の視線を浴びながらラーメンをたいらげた。

 コンビニのアルバイトを終えて帰宅すると、もう間も無く日付が変わるという時刻にも関わらず、待ってましたと言わんばかりの勢いで姉さんが部屋に入ってきた。顔は赤く、口元が緩み、鼻息が荒い。なんとなく嫌な予感がし、部屋から押し出そうと試みるが、こうなった姉さんほど厄介なものはない。
 仕方なくこちらが折れると、嬉しそうな顔で人のベッドにどかりと座った。
「何なの一体……。俺、バイト上がりで疲れているんだけど?」
 今日は大学一年生の新人バイトに品出しを教えたりと、色々と気を遣って疲れていた。もうシャワーを浴びてさっさとベッドに入りたい。睡魔は直ぐそこまで来ていた。
 欠伸混じりで机の椅子に座ると、姉さんは真剣な顔で言った。
「雪弥、明日って暇?一生のお願いがあるんだけど……!」
 姉さんの一生のお願いは結構な頻度で聞かされている。一生を付けるほどいつも大したことじゃないのだが、今日の感じはいつもと焦り方が違う。
「一応予定は何もないけど。で、今回はなに?」
 半ば強制的に付き合わされるのを見越した俺の返答に、姉さんは嬉しそうに答えた。
「あのね、本当に申し訳ないんだけど……」
 姉さんは俺の両手首を掴み、満面の笑みを浮かべながら言った。
「明日、女装して一緒に出かけてほしいの」
 ダメ?と、姉さんは猫撫で声で言う。
「……嫌ですけど」
「そこをなんとかお願い!」
 両手首を掴む力が急に強くなり、顔が引き攣った。
「……それ、女装じゃないといけないの?」
「そうなの、ダメなの!」
 食い気味に言われ、思わず仰け反る。勢いの良い声とは裏腹に、先程からずっと申し訳なさそうな顔をし続けながらジリジリと詰め寄ってくる。メイクの技術といい、我が姉ながら器用な人間だ。
「わ、わかった……」
 女装に関しては色々助けてもらったおんもあるため、俺は姉さんの頼みを断る事ができず、何も聞かされないまま明日の予定を承諾をした。

 翌日、わざわざ女装までして連れてこられた場所は、最近流行りのカフェだった。なんでも、女性同士のグループだと割引サービスがあるらしい。友人と予約をしていたが、急用が出来て断られてしまい、他にあてが無く俺に頼み込んだと言う。そうまでして入りたい店なのかと聞くと、予約したからキャンセル料発生だけは避けたいと返ってきて落胆した。
「ちょっと、可愛い顔が台無し。せっかく美味しいって人気のパフェ頼んだんだから、もっと楽しそうな顔してよ」
 俺の呆れ顔を見て姉さんが不満気に言った。
「パフェごときで俺の身体……安いなぁって思ったんだよ」
「ごときって何よ、ごときって。可愛く仕上がったからか良いじゃない」
 そういう問題ではない。言い返しても無駄なのはわかっているが、今後もこういったことに使われるのかと思うと、弟という生き物は難儀な運命だと感じた。だが、姉さんに用意された服やウィッグをつけてここに座っている時点で全て無駄な抵抗と言われても仕方なかった。今日の格好は、さくらんぼ柄のクリーム色のワンピースにデニムジャケット。髪型はましろちゃんの時と同じウィッグだ。全部、女の子が着ていたら、きっと可愛い格好だろう。
 本物の女の子なら……。
 きっと、太陽もこの格好を可愛い、天使だとか言ってくれるだろう。その本心は可愛い女の子と恋愛を楽しみたいからくるものに違いない。姉さんが着せてくれる服も、メイクも全部俺だけど俺ではない。あの日、太陽が自分を探して走り回って来てくれたことに舞い上がった。自分を騙した俺を好きでいてくれたのだと、嬉しかった。だが、今では「ましろちゃん」になればなるほど、自分に自信が持てなくなってしまっていた。
 情けな……。
 俺は深々と溜息を吐いた。姉さんが「雪弥も甘いもの好きでしょ?」と、見当違いなことを言ったのと同時に、先ほど注文したパフェが運ばれて来た。
「てっきり、合コンの人数合わせとかに連れてこられると思ってた」
「はぁ?何が悲しくて弟をそんな所に連れて行くのよ。そんなに人望無い訳じゃないし。今日はたまたまなのっ」
 運ばれてきたクリームブリュレのパフェを口に入れ、にこにこと嬉しそうな顔をしながら姉さんが言った。カスタードのふわりとした甘い香りとカラメルの香ばしい匂いがテーブルを囲う。
「ま、合コンでも良かったかもね」
 数秒前まで弟なんて連れて行けるかと言い返した姉さんは途端に手のひらを返した。
「今さっにそれは無いって言ったじゃん」
「アンタでイケメン釣れたかもだし?」
 ニヤリと悪びれもなく笑う姉さんは楽しそうに笑った。そういう性格だったな、と俺も苦笑いを返してやる。
「イケメンと言えばさ、さっきからこっち見てるんだよね……。あの人。雪弥狙いかな、私かな?」
 姉さんは小声で話しながらスプーンで反対側のテーブルを指した。行儀が悪い、と嗜めながら振り返って姉さんの言うイケメンの姿を確認すると、そこに座っていたのは、まさかの人物だった。
「く、黒崎さんっ」
 思わず声に出してしまい、しまったと思った時はもう遅い。黒崎さんとばっちりと目が合ってしまった。
「あ、やっぱり真城だ。似ている可愛い子だなーって思ってたんだよね。今日は何の罰ゲーム?」
 突然のことすぎて頭痛すら感じる。なんでこんな時にこの人と会うのだろうか。
「罰ゲームじゃないですけど……まぁそんなようなもんです」
 姉さんは俺と黒崎さんを不思議そうに眺めながら、パフェを食べ進めていた。まさか本当にイケメンが釣れたとか思っているんじゃなかろうか。
「ねぇ、雪弥。この人、知り合い?」
「うん。大学の先輩」
「そうなの?初めまして、姉の玲奈です」
 姉さんが軽く会釈をすると、黒崎さんはとびきりの笑顔で返事をひた。
「黒崎です」
 軽い挨拶だけでその場を離れると思っていたのに、黒崎さんは手に持っていた読みかけの本を閉じて鞄にしまい込んだ。
「なんでこんなとこに……っ」
「あぁ、家が近くて。ここ、コーヒー美味しいって有名なの知らない?」
 彼の手元にはこのカフェのロゴが描かれたマグマカップが置かれている。
 読書好きのイケメンにコーヒー。本当にいちいち勘に触る人だな……。
「真城、ちょっとこの後時間ある?」
「え、いや今姉さんと」
「行ってきていいけど。割引はちゃんとされてるみたいだし」
 姉さんはテーブルの隅に置かれた伝票を確認しながら言った。
「えっ、そこは普通断れって言うだろ」
「あはは、素直だなぁ。お姉さん、『妹さん』借りますね」
 含みのある言い方で黒崎さんは俺の手を取る。姉さんが黒崎さんを見つめ、顔を赤めたのが見えた。
「ちょ、黒崎さんっ」
「いってらっしゃーい」
 姉さんはにやりと笑いながら俺に手を振った。
 なんの想像をしてるんだよ!
 後から連絡先を教えろという算段なのか、片方の手は親指を立ててウィンクまでしていた。

 カフェを出ると黒崎さんは道路側に立ち、俺の手を引いて歩き出した。今日はスニーカーを履いてきているのに、歩くペースも俺に合わせている。身長ですら勝てないのに、男としてのレベルの差を叩きつけられている感じがして悔しくなった。
 通りすがりの人から騒がれようが、涼しい顔をしている黒崎さんは俺を連れ出してどこへ行くのだろうか。
「あの、手……。そろそろ話して欲しいんですけど……」
「だって真城、逃げそうだし」
「……逃げませんてば」
 そう言っても黒崎さんは、横断歩道の信号で立ち止まるまでそのまま歩き続けた。
「一度さ、真城とデートしてみたかったんだよね」
 車が行き交う音の中、耳元でそう囁かれる。ぞわりとして、肩がびくんと揺れると、隣でクスクスと笑い始めた。
「ごめんごめん、なんか本当に可愛くて」
「なんなんですか……」
「そう怒らない。可愛いのが台無しだよ」
「可愛いって言えば済むと思ってるんですね。俺、そんな言葉が欲しい女の子じゃないんですけど」
「あ、青だ」
 黒崎さんは俺の手をしっかりと繋いだまま歩き出した。
「どこ行くんですかっ」
「デートだってば」
「答えになってないです」
「じゃあ、デートの予行練習」
「黒崎さん」
 何を言っても適当に誤魔化す。初対面の時から距離が近くて苦手なのに、こうも読めないとなると調子が狂う。しかし、スカートで歩く俺を気遣っているのか、ずっと歩幅を合わせてくれたのはとても助かった。

 しばらく黒崎さんと俺はその辺をぶらぶらと散歩するぐらいで、特にどこへ向かうこともなかった。ずっと楽しそうだったし、とりあえず何も言わずに手を引かれるまま付いて行った。服屋に入ればメンズ、レディース問わず俺にあてては似合うと言って褒めてくれていた。
 側から見れば、彼女にべた惚れの彼氏にしか見えないだろう。店員さんには「ステキな彼氏さんですねぇ」と羨ましがられ、なんと答えれば良いのか返答に困った。
 数ヶ月前までは全部俺が女の子にやってあげたいことだった。それがこんな格好をして、される側になるなんて。ショーウィンドーに映る自分は、どこから見ても身長の高い女の子にしか見えない。それにさっきから褒めてくれるのは、何を考えているのか全く分からない先輩で、なんだか複雑だった。
「振り回しちゃったね、ごめん。少し休憩しようか」
 ショーウィンドーの前で溜息を吐いたのを見られ、黒崎さんは俺を覗き込むようにして申し訳なさそうに言った。
「いや、あの」
「ちょっとさ、言いたいことあって」
「……え、俺に?」
 黒崎さんは眉をハの字に寄せて困った表情を浮かべながら頷いた。

 手に持っていたトレーを床に落として我に返った。バイト先のレストランに来店したカップルを見て思わず手の力が緩み、カシャン!という皿の割れる音でハッとした。
「す、すみませんっ!し、失礼致しましたぁっ!」
 慌ててしゃがみ、割れた皿を拾い集める。おずおずと視線を上げ手様子を伺うと、二人組は俺に気が付いておらず、別のウェイターに席へ案内されているところだった。
 なんでここに雪弥さんが……。しかも、ましろちゃんの格好で?それよりもどうして黒崎さんと一緒に?いや、もしかしたら似ている女の子なだけで、あれは雪弥さんではないかもしれない……。
 本人にまだ確認を取っていないのに焦る必要もないだろう。でも、どう見ても相手の女の人はましろちゃんにしか見えなかった。
 もうあの格好はしないって言ってたし……。でももし、あれが雪弥さんだったら……?いやいや、やらないって言ったらやらないだろう。あの人、意外と頑固なところあるし……!でも、俺がましろちゃんを見間違えることのほうがあり得ないだろ……!
 視線をゆっくりと上げ、もう一度まじまじと二人が座った席を見る。
 やっぱり。あれは絶対、雪弥さんだ……。
 似ているというものではない。あれは正真正銘雪弥さんで、ましろちゃんだ。
「痛ッ……」
 苛立ちと焦りで力んでしまい、指先を割れた皿の破片で切ってしまった。最悪だ、調子が狂う。再び破片を集めようと手を伸ばすと、後ろから店長に声をかけられた。
「赤澤くん、あとはやるから上がって良いよ」
 腕時計に目をやると、もうすぐシフトの終わる時間だった。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫、大丈夫。帰る前にちゃんと手当てしてもらいなね」
 店長は箒と塵取りで手際よく掃除すると、レジに立っていた女の子に俺の手当てをするように言った。

 バイトを退勤した俺は、すぐさまスマホを取り出して雪弥さんの連絡先を開いた。いつもならなんの躊躇もなくすぐに押せる通話ボタンなのに、今日はすんなりと押すことができない。じっと画面を見つめたまま、奥歯を噛み締める。店内に乗り込むことも考えたが、バイト先でトラブルに発展するのは避けたい。それに、直接二人を見るのが嫌で仕方なかった。手当てをしてもらった指先の傷は大して深くないのに、じんじんと熱を帯びている。
 俺って、こんなに勇気がなかったっけ……。
 あんなに付き合って欲しいと、必死になっていたはずなのに。誰よりも好きな自信があって、誰よりも側にいたいって思っていたのに。毎日呆れられるほど気持ちを正面からぶつけていた。 はぐらかされても、それが愛情の裏返しだとか勝手に解釈して。毎日かわされても、雪弥さんは小悪魔系だから俺を焦らしているだけなんだと、そう自分を言い聞かせてチクチクと突く痛みを緩和させていた。それがなんだ、急におかしなぐらい自信が無くなってしまった。以前はスマホの画面で名前を見るだけで高揚したというのに、今はその名前を見るだけで心臓のあたりがやけに痛み出す。喉元は苦しくて、飲み込む唾が張り付いて気持ちが悪い。今朝まではこんな症状はなかったし、すんなりとメッセージを送れていた気がする。
 もしかして……今まではぐらかされていたのは、別に相手がいたから?
 不安が募って嫌な事ばかり浮かんでくる。さっさと本人に聞けば済む事なのは重々分かっているのに、自分にも雪弥さんにも苛立って上手く状況の整理がつかない。かと言って話を聞く勇気も、聞き入れる心の広さも持ち合わせていない自分が一番ムカついた。
「くっそ……」
 舌打ちをし、ぎゅっと強く目を瞑る。俺は深呼吸をし、一縷の望みをかけて画面の通話ボタンを押した。

「今日はごめんね」
 コーヒーを二つ頼んだ黒崎さんはあれからずっと申し訳無さそうな顔をしっぱなしで、だんだんと迷惑がっているこちら側にも非があるような気がしてきた。
「いえ、パフェの件は姉さんが食べたかっただけだし。結果的にちゃんと割引も出来ていたから良いんじゃないですか?」
 俺の返答にクスクスと笑った。少しだけ張り詰めた空気が緩和される。
「嫌がらせをしたかった訳じゃないんだけどさ、露骨に迷惑そうな顔はするし、しまいには泣きそうな顔でお店に入るし……」
 黒崎さんは大きなため息をつきながら言う。
「泣きそうって……大袈裟じゃないっすか?」
「なに、無自覚?」
 揶揄うように言われて、腹が立った。分かったような口振が余計にむしゃくしゃする。泣きそうな顔に見てたとしても、この人に話す筋合いはない。
 怪訝そうな顔をしたせいか、黒崎さんはまた吹き出して、肩を震わせながら話をし始めた。
「本当はさ、さっきみたいなデートをしてみたかったんだ」
 コーヒーが二人の前に置かれる。黒崎さんはカップにミルクを入れてマドラーをゆっくり回した。
「それって、黒崎さんの好きな人とってことですか?」
「んー、まぁそうだね」
「じゃあ、なんで俺なんかと」
「別に。真城は可愛いから連れ歩きたくなっただけ」
 この大嘘つきめ。
 俺の眉間に皺が寄ったのを見て、黒崎さんは肩をすくめた。
「……俺も、言ってどうこうなる間じゃないんだよ」
 黒崎さんはカップに口を付ける。
「気持ちを伝えたら崩れる関係かもしれないって思うと、動くことすら怖いんだ」
 妙に腑に落ちる言葉だった。黒崎さんはソーサーにカップを置くと窓の外を眺めていた。合っているかは分からないが、なんとなく黒崎さんの想い人の顔が浮かぶ。きっと物凄く鈍感で、黒崎さんの気持ちを知らないことを良いことに、振り回すだけ振り回している人だろう。誰とは言わないけれど。
「言わないとわからないこともあるとは思いますけど……」
「それは真城も、だろ?」
 痛いところを突かれて、俺は口を噤んだ。そりゃ、俺だってあいつのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、自身が持てないのだ。この姿の俺を好きだとあいつに言われたらと思うと怖かった。怖くて、自分から一歩進むことを拒み続けているのは事実だった。
 俺が余程難しい顔をしていたのか、黒崎さんはまた吹き出して笑い始めた。
「ごめんごめん。その、羨ましくてね。君たちが。だからちょっと突いてやろうかなって。ただのお節介」
「羨ましいって……俺らが?」
 黒崎さんは頷いた。
「二人の気持ちって一方通行じゃないだろ?相手を信じてしまえば楽だって、真城は分かっているんじゃない?」
「う……」
「何がそんなに気に入らないのかは知らないけどさ。赤澤くんのこと、本当は大好きなくせして遠ざけてるよね」
 図星を突かれてまた何も言えなくなる。この人の言いたいことって、太陽のことかよ……。
「……別に、黒崎さんには何も関係ないでしょ」
「それはそうかもしれないけど、君達を引き合わせたのは俺と青木だし、拗れさせちゃったのも俺らだし。色々と気にしちゃうんだよね」
 関係ないとは言わせない、と言っているようだが、青木先輩の名前が出てくるとどうしたって面白がっているとしか思えない。どうこの場を凌ごうか考えながら、コーヒーのカップを持ち上げると、バン!と大きな音が店の入り口から聞こえた。
 俺だけではなく、黒崎さんも周りの客も入り口へ視線を向けた。誰かが店の扉を力任せに開いたようだった。座っている席からは壁が邪魔で、どんなやつかはよく見えない。まぁ、見えたところでどうせ迷惑な客だろう。嫌なタイミングだ、と思った時だった。
「あれ?」
 黒崎さんが呟いたと同時に、こちらへ足音が近づいてくる。その足音の主が誰だったか気がついた時には息を飲んだ。
「……太陽?お前、何して」
「雪弥さん、ちょっとお話があるんですけど」
「……はぁ?」
 すると、力強く手首を掴まれた。
「ちょ、痛っ」
 優しく掴まれた記憶がある半面、こんな強さは初めてで、下っ腹あたりがざわついた。おまけにいつもより鋭い目付きで俺を見ている。
「なにすんだよっ」
「良いから、立ってください」
「強引だよ、赤澤くん。腕に痕が残ったらどうするの」
 黒崎さんの一言で、力を緩めた太陽は俺から手を離すと深呼吸をしてから小声で謝った。その指先を見ると、絆創膏が貼られていて赤黒い血が滲んでいた。
「おまえ、その手どうしたんだよ」
「別に。どうでもいいでしょ」
「良くないって、ほら貼り替えるから」
 俺は鞄をファスナーを開けた。姉さんに借りた小さな鞄には、靴擦れをしてからは絆創膏を入れるようにしていた。
「いいってば。それより、俺、ずっと連絡入れていたんだけど」
 太陽はテーブルの上に伏せて置いていた俺のスマホを指さした。そういえば全然スマホを覗いていないことを思い出し、画面を確認すると数件の着信履歴が表示されている。
「悪い……気がつかなくて」
「そりゃ、楽しいデートですもんね」
「…………は?」
 太陽は目を逸らして続けた。
「俺と会うときはそんな格好もうしないって言ってたくせに。そうやって他の人の前ではやれるんですよね。美男美女でお似合いカップルですよ」
「何言ってんだよ。これは成り行き上の問題で……」
「誰でも良いんでしょう。自分がチヤホヤされるなら」
 棘のある言い方が胸に刺さる。太陽は俺を見ないまま喋り続けた。
「やっぱ、俺のことからかってたんスよね。結局、そういうことでしょう?」
「なっ、そんなこと」
「そんなことありますよ……!毎日毎日、そりゃしつこかったかもしれないけど!俺は常に本気だったのに!雪弥さんには何も伝わってなかったんじゃないですか!」
 店内がざわつき始めても、太陽は喋り続ける。
「太陽、俺の話を」
「人の話を聞かなかったのは雪弥さんでしょう!?」
 心臓がピタリと止まるようだった。勢いよく放たれた言葉は俺の胸を貫いて、全身に痛みが走った。目を見開いて太陽を見るが、一度も目を合わせてくれなかった。息が苦しくて、力無くその場に座り込む。何も言えなかった。言い返す言葉なんて無かった。太陽の言う通りで、俺がろくに話も聞いてやっていなかったのは事実だ。彼の気持ちと自分の気持ちの向いている方向が違うと、勝手に決めつけていた。自分だけが不安で、自信のなさに苦しんでいると思っていた。苦しんでいたのは、毎日本気の気持ちをぶつけても相手にされていない太陽だった。
「……すみません、大きな声を出したりして。お邪魔しました」
 太陽がぺこりと黒崎さんに頭を下げた。
「雪弥さんも。今までしつこくしてすみません。俺、もう辞めますから」
「……え?」
「雪弥さんを好きになるの、辞めます」
 心臓がギュッと締め付けられた。冷ややかな太陽の目は、俺の方を一切見ようともしない。何か言わなくてはいけないと、そう思うのに身体が動かなかった。覇気のない太陽の声が頭の中でこだまして、声が出せない。
「赤澤くん。それ、本心じゃないよね?」
 黒崎さんは立ち去ろうとしている太陽に声をかけた。
「さぁ……もう、何かよく分からないっスね」
 太陽は下を向いたまま、俺のことを見ることなく店内から出て行ってしまった。

 太陽に掴まれた手首は、熱く熱を持っていた。冷たい水を持ってきてもらって、コップを当てて冷やしたが、胸の騒がしさは全く落ち着かなかった。自業自得だった。あんなに怒るとは思っていなかったが、怒らせたのは間違いなく俺だった。太陽の優しさに甘えていた自分が撒いた種だ。よく考えれば分かることなのに、何でそれが出来なかったのだろう。自分のことばかり考えていて、本当に情けない。
「赤澤くんてさ」
 黒崎さんが口を開いた。
「まっすぐで良い子だと思うよ」
「…………知ってますよ」
 じゃなかったらあんなに鬱陶しくつきまとわれても平気な顔なんてしていられない。
「さっきのはきっと、少し気が立ちすぎただけだって。俺もタイミング悪かったね。また拗らせてちゃってごめん。でも、真城も自分の気持ち、これでハッキリしたんじゃないの?」
 黒崎さんの言葉が重たくのしかかった。そんなことは言われなくたって分かっていた。気持ちなんて、とっくのとうにハッキリしていた。俺はただ、自分に自信がなかっただけだ。
「ハッキリしたというか……。ちゃんとあいつから聞き出さないといけない気は……しました」
「へぇ。何を?」
 黒崎さんが足を組み直した。
「あいつが、本当に俺のことが好きなのか……。それとも、この姿の俺が好きなのか」
 不貞腐れたように答えると、黒崎さんは急に吹き出して大きな声で笑った。
「あっはっはっは!なんだよそれ!あははっ」
 お腹を抱えてテーブルを軽く叩き、ヒィヒィ言いながら笑っている。
「そんなの聞かなくても分かってるくせに?」
「でも、あいつ、事あるごとにこの格好して欲しいって言ってくるし……」
 溜息が聞こえ、黒崎さんを見ると目が合った。
「真城、俺はお前がどっちでも好きだよ」
「…………は?」
 黒崎さんは、笑いすぎて出た涙を拭いながら、頬杖をついて俺をじっと見ている。その視線に苛立って、思わず小さな舌打ちをした。
「俺はアンタのことずっと苦手ですけど」
「ふふふ。知ってるよ。さてと……。俺は言いたいこと言ったから用事は済んだ。真城にもこの後用事できたみたいだし、今日はお開きにしよう」
 黒崎さんは伝票を片手で攫うと、急に立ち上がってレジへ向かった。
「今日は俺の奢りだから、さっさと用事を済ませに行ってこい。ついでに、今度謝りに行くって彼氏に言っといて」
 片手でひらひらと手を振って笑っている。余計なことを言われた俺の心臓は、またも破裂しそうなぐらいに早く鼓動していた。