それから、時間は早く流れていった。蒼太の未練を消すために、いろんなことをした。夏祭りに行ったり、誠也が出てるサッカー部の試合の応援にも行った。さらには新たに追加されたリストをこなした。
「これで本当に成仏できるのかな」
私はふと立ち止まり、心の中で問いかける。蒼太の未練は残りひとつ。けれど、私の気持ちは晴れなかった。どれだけ楽しんでも、心のどこかで蒼太のことが引っかかっていた。
「おい」
この未練がなくなれば、蒼太は―――
「おい!」
「わぁッ!」
私は思わず後ろに跳ねて、そのまま驚きの声をあげた。目の前には、逆さまに浮いている蒼太がいた。
「何回も呼んだのに、大丈夫か?」
私はようやく我に返り、息を吐いた。
「ごめん。ちょっとぼーっとしてた。で、どうしたの?」
「だからやっぱり家の話はなかったことにしてくれ」
蒼太は真顔で言った。
「えっ、どうして」
今日は最後の未練である『親に気持ちを伝える』ために蒼太の家に来ていた。
「とりあえず今日は一旦帰ろう。あっ、ほら俺他にも未練が」
「ちょっと蒼太!」
家から遠ざかっていく蒼太を追いかける。
「よく考えたら母さんは葬式にも来てくれてたし、これ以上未練は......」
蒼太はそう言いながら、ふっと視線を落とした。
でも、すぐに気づいた。
――嘘だった。そんなはずなかった。
本当はまだ、心の奥に引っかかっているものがある。分かっているのに、それを認めたくなくて、言葉にしてごまかそうとしている。
私はそっと息を吸った。深く、静かに。胸の奥にたまったものを吐き出すように。
蒼太の横顔を盗み見る。ふとした瞬間に見せる寂しそうな表情も、彼がごまかすように浮かべる笑顔も、ずっと見てきた。だから、気づいてしまった。
「蒼太、いつも夜の8時になると、どこかへ行っちゃうよね。最初は気にしてなかったけど……でも、気づいたんだ。たぶん、その時間にお母さんが帰ってくるんじゃないかって」
私がそう言うと、蒼太は何も答えなかった。
「本当は何よりも気になってるじゃないの?」
静かに問いかけると、蒼太の表情が一瞬、揺れた。
「......そんなことねぇよ」
絞り出すような声だった。
「俺は、もう死んでるんだぞ。今さら家に帰ったって、意味なんか――」
「意味ならあるよ!」
思わず叫んでいた。
「だってッ」
私が言いかけたその瞬間――
「......あのー、うちに何か用ですか?」
背後から、不意に女性の声がした。
私はびくっとして振り向く。
言われなくてもわかった。玄関の前に立っていたのは、蒼太のお母さんだった。
キリッとした雰囲気の中に滲む、どこか柔らかな目元が蒼太にそっくりだ。
疲れているのか、少しやつれた顔。それでも、どこか優しさを感じさせる表情をしていた。
「すみません......あの......」
言葉に詰まる私をよそに、蒼太は一歩も動かない。
いや――動けないんだ。
蒼太は、お母さんをじっと見つめていた。まるで、今にも消えてしまいそうな顔で。
「えっと......」
私がどう答えようか迷っていると、お母さんはふと小さく笑った。
「もしかして、蒼太の友達?」
蒼太が――息をのむ音が聞こえた気がした。
「......はい」
私は思わず頷いていた。
「そっか。ごめんね、こんな時間に。よかったら、中に入っていく?」
お母さんはそう言って、玄関の扉を開ける。
私は、ちらりと蒼太の方を見た。
蒼太は、ただ立ち尽くしたままだった。
今なら、伝えられるかもしれない。
彼がずっと言えなかった言葉を。
私は、静かに息を吸った。
「......蒼太のこと、お母さんと少しお話ししたくて」
そう言って、お母さんの家の中へ、一歩踏み出した。
蒼太の家に入ると、ふわりと懐かしい匂いがした。
木の温もりを感じるリビング。カウンターには湯気の立つマグカップが置かれ、その横には、小さな写真立て。
そこには、小学生の蒼太とお母さんが並んで笑っている写真があった。
「座っててね、お茶入れるから」
お母さんはそう言ってキッチンへ向かった。
私はふと蒼太の方を見た。
蒼太は、静かにその写真を見つめていた。
「蒼太......」
私がそっと名前を呼ぶと、蒼太は小さく息を吐いた。
「……母さん、女手ひとつで俺を育ててくれたんだ」
ぽつりと、蒼太は言った。
「父親はいない。物心ついた時からずっと、母さんと二人だった」
「うん......」
「仕事も忙しくてさ。でも、どんなに疲れてても俺のために晩飯を作ってくれて、運動会にも来てくれて……すげぇ、頑張ってた」
蒼太の声が震えた。
「......俺、ちゃんと恩返しできなかった」
私は、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。
「バイトして、大学に行って、ちゃんと働いて......それが当たり前にできると思ってたのに」
「......蒼太」
「結局、俺は何もできないまま死んだんだ」
蒼太はぎゅっと拳を握った。
「俺がいなくなって、母さんをひとりにしちまった」
「......そんなことないよ」
私は、精一杯の声で言った。
「......っ」
蒼太が顔を伏せた、その時だった。
「ごめんね、お待たせ」
お母さんが戻ってきた。
「あの......」
私が緊張しながらも口を開くとお母さんはふっと微笑んだ。
「蒼太は、学校ではどんな子だったのかしら?」
少し寂しそうなその問いに、私は迷わず答える。
「蒼太は、本当にみんなに好かれていました」
言葉にすると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「私、ずっとひとりだったんです。でも、蒼太は毎日話しかけてくれて......本当はすごく嬉しかったんです。蒼太のおかげで、嫌いだった自分の名前が好きになって、毎日が、楽しくなったんです」
お母さんは静かに目を伏せた。
「......蒼太、優しい子だったでしょ。あの子が生まれてすぐ、お父さんが事故で亡くなってしまったのだけれど......あの優しさは、きっとあの人譲りね」
ゆっくりと言葉を紡ぐお母さんの指が、ぎゅっと膝の上で握られる。
「そんなふうに蒼太のことを思ってくれて、ありがとう」
その一言に、蒼太の肩が小さく震えた。
「蒼太はね、いつも私のことを気にかけてくれていたのよ。小さい頃なんて、お手伝いもたくさんしてくれて......」
「......母さん」
蒼太が、今にも泣きそうな声でつぶやく。
だけど、その声はお母さんには届かない。
「私ね、毎日考えるの。もし、あの子が生きていたらって」
お母さんの声が、少しだけ震えた。
「もっと一緒にいてあげればよかった。もっと甘えさせてあげればよかったって、何度も思うの」
蒼太は俯き、ぎゅっと歯を食いしばる。
「でも......きっと、蒼太は向こうで元気にしてるわよね」
そう言って、お母さんはそっと目尻を拭う。
「だから、私も前を向かないと......」
お母さんの手が、そっと写真立てに触れた。
そこには、屈託のない笑顔を見せる蒼太の姿が映っていた。
しばらくの沈黙が流れた。
「......蒼太っ」
ぽつりと、その名前がこぼれる。
「蒼太......蒼太......」
震える声が、徐々に大きくなる。
「ごめんね......ごめんね!」
お母さんの肩が揺れたかと思うと、次の瞬間、彼女は崩れるように膝をついた。
「蒼太......会いたいよ......っ」
隠そうとしていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
嗚咽がこぼれ、震える手で写真立てを抱きしめる。
蒼太は、もう耐えきれなかった。
「母さんっ......!」
震える声が漏れた瞬間、蒼太の目からも涙がこぼれ落ちた。
けれど、どれだけ手を伸ばしても、お母さんにその声は届かない。
「俺、ここにいるよ......!」
どうしようもない現実が、胸を締めつけた。
お母さんの泣き声が、静かな部屋に響いていた。
私が何を言っても、この悲しみは癒せないのかもしれない。
だけど――
「......蒼太は、今も隣にいます」
私は、そっと口を開いた。
お母さんは涙を拭いながら、少しだけ微笑んだ。
「ありがとね......」
きっと、励まそうとしてくれているんだと、そう思ったんだろう。
お母さんは、それ以上信じようとはしなかった。
でも、お母さんの隣には確かに蒼太がいる。
「母さん......俺だよ」
蒼太が、掠れた声で呟いた。
お母さんは、蒼太の言葉に気づかないまま、かすかに微笑んでいる。
蒼太は唇を噛みしめた。
「なぁ、母さん。俺さ、小さい頃、母さんに隠れてお菓子食べたことあったろ?」
私は、蒼太の言葉をそのまま繰り返した。
「ソファの下に隠して、夜にこっそり食べようとしたら......結局、アリがたかって大変なことになったんだよな」
お母さんの瞳が、かすかに揺れた。
「......それ、どうして?」
「母さん。俺が熱を出した時、ずっと手を握ってくれてたよな。その時、母さんが寝ちゃって」
「ふたりで夜まで寝てた」
私がいい切る前にお母さんが言葉を続けた。
「それは......蒼太しか、知らないはずなのに」
お母さんが、震える指で写真立てを握りしめる。
「本当なの......?本当に蒼太が......」
「はい。蒼太は、ここにいます」
私は、強くそう言い切った。
蒼太が、そっと微笑んだ。
「母さん、ずっと言いたかった。......ありがとう。俺を産んでくれて、育ててくれて、本当にありがとう」
私は、蒼太の言葉を、そのまま繰り返す。
お母さんの瞳から、再び涙がこぼれる。
「蒼太なの......?」
かすれた声が、震えていた。お母さんと蒼太は向き合っていた。
そして、お母さんはそっと、写真立てを抱きしめた。
「蒼太......」
その声には、もう確信が宿っていた。
蒼太の瞳が、優しく揺れていた。
「母さん――」
蒼太は、静かに微笑んだ。
「俺、母さんの子に生まれてこれて、本当に幸せだったよ」
お母さんの目が、大きく見開かれる。
そして、何かが決壊したように、崩れ落ちるように泣き出した。
「蒼太......!」
写真立てを胸に抱え、肩を震わせながら何度も名前を呼ぶ。
「そんなこと言われたら......もう、もう......っ」
蒼太が、そっとその場にしゃがみこむ。
「母さん、ごめん。俺、もっと一緒にいたかった」
蒼太の声が震えていた。
「もっと、母さんの料理食べたかったし、一緒にテレビ見たかったし……もっと、もっと……」
私の声も、涙で震えそうだった。
「......母さん、ちゃんと寝て、ちゃんとご飯だべろよ」
お母さんは、嗚咽をこらえきれずに泣きじゃくる。
「蒼太っ、あなたが私の子で本当によかったわ」
その声に、蒼太が静かに目を閉じた。
「......ありがとう、母さん」
私がその言葉を伝えた瞬間――
お母さんの涙が、ぽたりと写真立てに落ちた。



