夜明けに、君を手放す


他人に興味がなかった。

どうせ裏切られる。人との関係なんてそんなものだ。そう思って誰とも深く関わることなく、日々を過ごしていた。自分が傷つかないように、誰かに依存しないように、心の中で無意識に距離を取っていた。

話しかけられれば適当に返事をして、すぐにその場を離れる。

そうしているうちに、気づけば誰も私に話しかけなくなっていた。

みんながどう思っているかなんて気にしていなかった。私にとって、それが一番楽で、傷つかずに済む方法だったから。


高校2年の二学期。

クラスのグループはすっかり固定され、私は自然とひとりになった。
誰も私に期待していないし、私も誰にも期待していない。
それが、一番楽だった。

――のはずなのに。

陽葵(ひまり)おはよー!」

朝、教室に入ると、いつもと変わらない明るい声が響いた。
私は一瞬だけ視線を向けて、読んでいた小説に意識を戻す。

「おっ、昨日読んでたやつ、もう読み終わったのか?......ってまた難しそうな本読んでんな。面白い? 面白かったら俺にも貸してよ。なぁ、陽葵」

私が返事をしないからか、蒼太(そうた)の会話はいつも独り言みたいになる。
朝の教室には、私と彼の二人だけ。彼の朝は意外と早いらしい。

「......あんまり、名前呼ばないで」

集中が途切れた私は、わずかに苛立ちながらそう返した。

「なんで?」

彼は不思議そうに首を傾げる。

「陽葵って、みんな向日葵みたいな明るいイメージでしょ。私、そんなのと全然違うし......だから、自分の名前嫌いなの」

「そんなことねぇよ!」

即答だった。驚いて顔を上げると、蒼太は真っ直ぐにこちらを見ていた。

「俺は知ってるから。本当は陽葵が優しいの」

思わず息が止まる。
そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

最初はただの挨拶。「おはよう」と言われるだけ。
私が冷たくあしらっても、蒼太は変わらず毎日話しかけてきた。

正直、最初は面倒だった。

でも――何度も何度も繰り返されるその言葉に、少しずつ心が動かされていた。

蒼太はクラスの人気者だった。誰とでもすぐに打ち解けて、どんな時も楽しそうで、悩みなんてなさそうに見える。容姿も良くて、どこか無邪気な雰囲気があって、自然と人が集まるタイプ。

そんな彼が、なぜか毎日、私に「おはよう」と言い続ける。

気づけば、彼の声を待つようになっていた。
朝、教室の扉が開く音がするたびに、ふと期待してしまう。

今日も、いつものように「おはよう」と言ってくれるだろう。

そう思っていたのに。

蒼太は、教室に来なかった。

チャイムが鳴るまで待っても、蒼太の姿はどこにもない。
なんとなく、胸の奥がざわつく。
昨日まで当たり前にあったものが、急に消えてしまったような、そんな感覚。

何かあったのだろうか。

担任の先生が、静かに口を開いた。

「みんな、静かにして聞いてください。......昨日、蒼太が事故で亡くなりました」

その瞬間、教室が凍りついた。

空気が張り詰める。
時間が止まったように、誰も動かない。

耳に入った言葉を、頭が理解しようとしなかった。

――蒼太が? 亡くなった?

意味がわからなかった。
朝、いつものように「おはよう」と言ってくれるはずだったのに。
ただ、それだけのはずだったのに。

「え......?」

誰かが、小さく声を漏らした。

「嘘......だろ?」

「え? なんで?」

「蒼太が......?」

クラスのあちこちで、戸惑いの声が上がる。
笑い飛ばそうとする子もいた。

「いやいや、冗談だよな?」

でも、その声は震えていた。
ぎこちない笑顔のまま、誰も言葉を続けられない。

――嘘だ。
――そんなわけがない。

けれど、先生の沈んだ表情が、それを許さなかった。

蒼太の席を見る。
いつもなら、そこに座って、無邪気に誰かと話しているはずなのに。
でも、そこには誰もいなかった。

突然、現実がのしかかる。

教室の隅で、誰かが泣き出した。
嗚咽が、静かな教室に響く。
他の子も次々と顔を伏せて、涙をこぼした。

......でも、私は泣けなかった。

私たちは、特別仲がよかったわけじゃない。
たまに言葉を交わすくらい。
たったそれだけの関係だった。

でも、朝の「おはよう」を待っていた。
それが当たり前になっていた。

――もう、聞けない。

それがただ、少し寂しいと思った。

私だけ、時間が止まってしまったみたいだった。
周りの悲しみがどんどん広がっていくのに、私はその場で立ち尽くすことしかできなかった。

蒼太が亡くなって、早くも四日が過ぎた。

彼がいなくても、世界は当たり前のように回っている。

いつものように朝が来て、授業が進み、昼休みになり、放課後になって、家に帰る。

クラスの雰囲気は少し静かになったような気がするけれど、それでも日常は続いていた。

昨日の葬式には、私は行かなかった。

そもそも、誰も私と蒼太がどんな関係だったか知らない。クラスの皆にとって、私たちはただの席が隣同士になっただけの関係で、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。

蒼太の両親にしてみれば、私はただのクラスメイトのひとりに過ぎない。突然現れて「実は生前、毎日話しかけられてました」なんて言ったところで、どうにもならないだろう。

彼のことを思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなる。

あんなに毎日「おはよう」と言ってくれたのに、もうそれが聞けない。

あの明るい笑顔も、もう二度と見ることはできない。

「......バカじゃないの」

私は小さくつぶやいて、机に突っ伏した。

けれど、その直後――

「おいおい、俺の悪口か?」

唐突に聞こえたその声に、私はびくっと身体を強張らせた。

「......」

「おーい、無視すんなって」

聞き慣れた、ちょっと軽い感じの話し方。

顔を上げるのが怖かった。そこに、いるはずのない人が、いるかもしれない。

ゆっくりと顔を上げる。

そして、私は目の前に立っているその存在を見て、凍りついた。

「よっ! 俺のこと、忘れた?」

にかっと笑って手を振る蒼太。

私は目を疑った。

「......え、なにこれ、ホラー......?」

思わず後ずさる。

「いやいや、ホラーってひどくね?」

「ちょ、待って待って、だって......あんた、死んだじゃん......!」

「うん、そうなんだけど」

「『うん』じゃない!!」

私は慌ててあたりを見回した。教室には私しかいない。いや、正確には――

私と、幽霊の蒼太しかいない。

「やば......私、ついに幻覚見るようになった......」

「ちげーよ、ほんとにいるんだって」

蒼太は腕を組んで、まるでそこに生きているかのような態度で言った。

「まぁ、理由は俺にもよく分かんねぇけどさ、気づいたらこうなってたんだよね。で、陽葵だけが俺のこと見えてるっぽい」

「は?」

「てことで、俺の未練を一緒になくしてくれ!!」

「はぁぁ!?」

人生最大級の混乱に襲われながら、私は思わず頭を抱えた。

「なんかさ、人って死んだらスーッとあの世に行くもんだと思ってたんだけど......どうも俺、まだ成仏できねぇんだよな」

「......つまり、未練があるってこと?」

「そう!やっぱ成仏できないってことは未練があるってことだろ? お決まりのパターンだよな」

蒼太は、ふわっと宙に浮きながら両手を広げた。

「だからさ、陽葵、俺の未練を消すの手伝ってくんね?」

「......なんで私?」

「いや、陽葵にしか俺が見えないみたいだし」

私は、じっと蒼太を睨んだ。

――めんどくさい。

ただでさえ静かに過ごしたいのに、なんで死んだはずの男子に振り回されなきゃいけないんだ。

「......断ったら?」

「俺、ずっとついて回るけど?取り憑いてることになるんかな?」

「......」

私は再び頭を抱えた。

私はしばらく黙っていた。気になる気持ちもあるし、何だか蒼太に頼まれると、どうしても断れない気がした。それに、何より――

「蒼太、ほんとに、成仏できるの?」

私は小さく呟いた。

「もちろんだよ!だから、頼む!」

蒼太は、また勢いよく手を振った。

私は深呼吸をしてから、ゆっくりと頷いた。

「......分かった。でも、どうやって?」

「まずは、俺が死ぬ前にやりたかったことを整理しなきゃな」

蒼太は少し考え込みながら言った。私は少しだけ肩の力を抜いて、蒼太を見つめた。

「そのために、私がどうするの?」

「それは、俺が教えるからさ、ちょっとだけ待っててくれ」

蒼太はにっこりと笑った。

私はその顔を見て、また少しだけ心が軽くなった気がした。でも、これが本当に現実なのか、それともただの夢なのか、まだはっきりと分からない自分がいた。

帰り道、私は蒼太の後ろを歩きながら、あまりにも不思議な状況に頭が追いつかず、何度も自分に問いかけていた。あんなに元気だった蒼太が今、幽霊になっている。

しかも、私と一緒に帰るなんて――

「おい、陽葵。ちゃんと歩けよ?」

蒼太が後ろから声をかけてきた。振り返ると、いつもと変わらない笑顔がそこにあったけど、なぜかその笑顔が少し切ないものに見えて、私の心に突き刺さる。

「うるさいわね」

私は振り返って、軽く答えたが、どうしても普段のようには言えなかった。

「幽霊ってこんな感じなんだなって思ってるだろ?」

蒼太が歩きながら、ぼんやりと話し始めた。

「こんな幽霊いないよ。実際、まだ信じてるのか自分でも分からないし」

私がそう答えると犬の散歩をしていたおじさんが不思議そうにこちらに視線を向ける。

「周りからしたら陽葵がひとりでしゃべってように見えてるんだろうな」

「えっ!やだ、恥ずかしい」

そんな私をよそに颯太は他人事だと思って、呑気に笑っている。でも本当に私にしか見えてないんだ。

「幽霊って、意外と便利なんだぜ」

蒼太は言うと、足元を見つめながら続けた。

「お腹が減ることもないし、疲れねぇから寝る必要もない。誰にも見えないからやりたい放題!」

こんなポジティブな幽霊がいていいのだろうか。

「それじゃあ、どうして私には見えるの?」

私は歩きながら、無意識にその問いを口にした。

「うーん、分かんない。でも、きっと陽葵が特別なんだろうな。もしかしたら、何かの縁ってやつか?」

「特別?」

私は少し驚きながら蒼太を見たが、特に真剣な顔ではなさそうだった。

「うん、まあ、気にすることじゃないだろ」

蒼太は肩をすくめて、すぐに笑顔に戻った。

「あっ、やっぱり人に触ったりはできないの?」

「あー、どうだろ。まだ試してなかったな」

蒼太がニッと笑って、手を差し出してきた。

「じゃあさ、実際に触れるか試してみようぜ」

「......え?」

思わず足を止めて、彼の手を見つめる。確かに、見た目は生きていたときと何も変わらない。

「ほら、遠慮すんなって」

「遠慮とかじゃなくて......」

躊躇しながら、私はそっと自分の手を伸ばしてみた。指先が蒼太の手に触れようとした、その瞬間――

「――っ!」

スッと、何の抵抗もなくすり抜けた。まるで、ただの空気を掴もうとしたみたいに。

「......やっぱり触れないんだ」

当たり前といえば当たり前なのに、実際に試してみると妙にショックだった。

「まぁ、そうだよな〜。俺、幽霊だし」

蒼太は悪びれもせずに肩をすくめようとして、なぜかその動作を途中で止めた。

「でもさ、不思議なんだよな。触れないけど......なんか、温もりみたいなのは感じる気がするんだよ」

「......温もり?」

「うん。例えば、陽葵の手がすり抜けたとき、一瞬だけど“何か”に触れた感じがした。まぁ、勘違いかもしれないけど」

そう言いながら、蒼太は軽く自分の手を見つめていた。

「......へぇ」

私は曖昧に相槌を打ちつつ、もう一度そっと手を伸ばしてみた。でも、やっぱり指先は空を切るだけ。

「うーん、やっぱ無理かぁ」

「そりゃそうでしょ」

「でもな!こう念みたいなのを送ると少しものが動いたり、冷気みたいなの出せるんだよ!まだコツが掴めてないんだけど」

そんな会話をしながら家に着くと、私は玄関のドアを開けながらちらりと隣を見る。

「じゃあ、私ここだから」

蒼太はまだそこにいた。だけど、私が靴を脱ぐのを見届けると、急に「行きたいとこあるから、また後でな!」と軽く手を振って、どこかへ行ってしまった。

幽霊って、そんな自由に移動できるの?
いや、そもそも幽霊が現実にいること自体がおかしいんだけど......。それでもなぜだか、蒼太が死んだと言われるよりも幽霊になったと言われた方が信じれた。

少し考えたものの、蒼太がどこへ行くのか気にしても仕方ないので、とりあえず家に上がることにした。

リビングへ行くと、母がキッチンで夕飯の準備をしていた。

「ただいま」

「......おかえり」

母は私をちらりと見たが、それ以上何かを言うことはなかった。私も特に話すことはなかったので、そのまま部屋へ向かう。

前からこうだ。必要最低限の会話しか交わさないし、お互い踏み込まない。

そんな関係が、私は少しだけ息苦しく感じることがある。

私はお風呂にご飯、明日の準備をすべて終わらし布団に飛び込んだ。

はぁ、疲れた。ありえないほど疲れた。
今日は早く寝てしまおう。
そう目を閉じて、少しでも休もうとした――そのとき。

「よっ!」

「うわぁぁぁ!?」

突然、耳元で声がした。私は慌てて飛び起き、目の前にいる人物を見て絶句する。

「蒼太っ......! なんで勝手に入ってくるの!?」

「え? だって幽霊だし? ドアとか関係なく通れるんだよね」

蒼太はヘラヘラと笑いながら、私の部屋をきょろきょろと見回している。

「いや、だからって勝手に入ってこないでよ! プライバシーの侵害!」

「プライバシー? そんなの幽霊にはないぜ」

「あるから!!!」

布団を掴んで投げつけようとしたが、当然すり抜ける。

「くっ......!」

私は悔しさで歯を食いしばった。

「つーか、陽葵の部屋、思ったよりシンプルだな。もっと本とか積み上がってるかと思った」

「片付けてるだけだし」

「ふーん。でも意外とかわいいクッションとか置いてんだな」

「見るな!!」

私は慌ててクッションを抱きしめる。

「いやぁ〜、これ幽霊の一番の特権かもな」

思わぬ侵入者に私はげっそりしながら、改めて思った。

幽霊との生活、想像以上にストレスが溜まりそうだ......。

「で、なんで来たの?」

「あぁ、未練を考えてみたからちょっと紙にまとめてもらおうと思って。ほら、俺、もうペンとか持てないじゃん? だから陽葵が書いて」

「......はぁ、わかったよ」

私は渋々ノートを開き、ペンを手に取る。
そして蒼太が言ったことを書き留めた。

蒼太の未練リスト

1 友達に借りてたものを返すx3
2 喧嘩したままの親友に謝りたい
3 夏祭り行きたい
4 試合に出たかった
5 親に気持ちを伝えたかった
6

「次は?」

「......」

急に黙る蒼太。

「ん?」

「いや、最後のやつは......まだいい」

珍しく真剣な顔をしている。だから私も無理に聞かず、ノートを閉じた。

「で? これ、どうやって叶えればいいの?」

「さっき、これは持ってきたから明日から早速取りかかろうぜ!」

そう言って指さす方に視線を向けると床には何冊かの漫画とノートが勝手に置かれていた。死んでもしっかり返すなんて律儀な幽霊。

「この漫画が晴人(はると)ので、こっちが結月(ゆづき)で、このノートが美優(みゆ)ちゃんの」

「......」

「どうした?」

陽葵は漫画とノートを見つめたまま、口をつぐんだ。

「......誰?」

「は?」

「晴人? 結月? 美優ちゃん? そんな名前の子、いたっけ」

蒼太は呆れたように頭を抱えた。

「おいおい、クラスメイトだろ? さすがに名前ぐらい覚えとけよ」

「興味なかったから知らない」

「うわ、はっきり言うなぁ......」

蒼太は腕を組んで考え込み、すぐにニッと笑った。

「これ、陽葵がクラスに馴染むチャンスでもあるし、一石二鳥じゃね?」

「いや、馴染む気は――」

「決まり! てことで、明日よろしく!」

「勝手に決めるな!」

陽葵の抗議は虚しく、蒼太は満足げに頷いていた。

翌日。

私は教室の隅で、自分の席に座ったまま、机の中に隠した漫画をちらりと見た。

「斜め前にいるのが晴人だぞ。お前、こんな席近くて名前知らなかったのかよ」

私の隣で、幽霊の蒼太がひそひそ声で言う。もちろん、私にしか聞こえない。

机に肘をついて話していた男子――晴人。短めの黒髪で、どことなく落ち着いた雰囲気がある。

「よし、行け陽葵!」

「......いや、今話してるし」

「話が終わるの待つ気か? そんなの悠長すぎるだろ」

「だからって割り込めと?」

「そうだ!」

「無理」

私は目立たないよう小さな声でそう言った。蒼太がため息をつく。

「しょうがねぇなぁ......じゃあさ、そこのプリント、わざと落としてみろよ」

陽葵はちらりと自分の机の端に置いたプリントを見る。

「拾ってもらったついでに、『そういえばこれ』って漫画を見せるんだよ」

「わざとらしすぎない?」

「ほら、さっさと!」

蒼太に急かされ、陽葵は小さくため息をつきながらプリントを机の端までずらした。狙いを定め、何気なく落とす。

パサッ。

晴人の足元に落ちた。陽葵が気づかないフリをしている

「......あ」

陽葵が気づかないフリをしていると、晴人がプリントを拾い、こちらに差し出した。

「落としたぞ」

「......ありがとう」

受け取りながら、一瞬迷う。蒼太の視線を感じる。

やるしかない......。

意を決して、陽葵はそっと机の中から漫画を取り出した。

「それ......」

晴人が漫画に気づく。

「こ、これ、蒼太が借りてた漫画だから返すね」

「おぉ、ありがとう」

陽葵は漫画を差し出す。晴人は一瞬きょとんとした顔をした後、手を伸ばして漫画の表紙を確認した。晴人が漫画を受け取った後、不思議そうに陽葵を見た。

「でも、なんでお前が持ってたんだ?」

……しまった。

陽葵は一瞬固まった。蒼太も「おっと」とでも言いたげに口元を引き締める。

「えっと......」

適当な言い訳を考える。だが、焦れば焦るほど何も出てこない。

私は一瞬考えた後、冷静を装って口を開いた。

「......蒼太のお母さんに頼まれたんだよ。蒼太が借りてたものだから返しといて欲しいって」

晴人は少し驚いたように目を丸くした。

「お前、蒼太とそんな仲良かったのか?」

「いや、別に私が仲良いってわけじゃなくて......うちの母親と仲がいいから、子どもの頃に何度か会ったことがあるってだけ」

「へー、全然知らなかったわ!なんか意外だな」

適当に流したつもりだったが、晴人は納得したように頷いた。私は心の中で小さく息を吐いた。

「おー、ナイス機転!」

蒼太が横でニヤニヤしながら親指を立てる。
晴人は少し黙り込んだあと口を開いた。

「蒼太っていきなり突拍子もないことするからよ。なんか今にも『よっ』とか言って出てきそうなんだよな」

「わかる!」

私も苦笑いしながら頷いた。

「幽霊になってものんきに満喫してるし......あっ、してそうじゃない?」

「あはは、絶対そうだな。しかも『まあ俺、こういうのもアリかなって』とか言いながら普通に馴染んでそう」

晴人は勢いづいて、さらに続けた。

「あとさ、めっちゃ長々話したくせに、最後は語彙力なくなって『まあとにかくヤバいってこと!』で締めるの笑うんだけど」

「うんうん。結局、何がヤバいのって聞くと、『えっ』とか言って自分もわかってないんだよね」

ふたりで顔を見合わせて笑いながら、蒼太の話で盛り上がる。

「おい、お前ら!俺のことバカにして盛り上がってんじゃねぇよ!」

蒼太がむくれて叫ぶのが聞こえたけど、もちろん晴人には聞こえていない。私は肩を震わせながら笑い続けた。

「なんだ、お前、話せるじゃん」

晴人の何気ない言葉に、私はふと笑いを止めた。

「え?」

顔を上げると、晴人は不思議そうに私を見ていた。

「いや、なんていうかさ。陽葵ってあんまり人と話さないじゃん。だから、話すの嫌いなのかなって思ってた」

一瞬、胸の奥がチクリと痛んだ。たしかに私は、いつもひとりだった。けれど、別に話したくないわけじゃない。

「......別に、嫌いじゃないよ」

自分でも驚くくらい、小さな声だった。でも、晴人はそれを聞き逃さなかったみたいで、にっと笑った。

「そっか。じゃあ、これからはもっと話そうぜ」

軽い調子の言葉だったのに、不思議と胸があたたかくなる。

「......うん」

私が頷くと、晴人は満足そうに頷き返した。その瞬間、横から蒼太の声が飛んでくる。

「おー!陽葵、ちょっと成長したじゃん!」

「うるさい」

小さくつぶやくと、蒼太は「素直じゃねぇな」と笑った。

晴人が差し出した漫画を手に取りながら、私はそっと深呼吸をする。

――いつの間にか、私は誰かと笑って話していた。

それだけのことなのに、なんだかすごく久しぶりな気がして、ほんの少しだけ胸が熱くなった。



次に私は美優ちゃんのところへ向かった。

「だからこれ蒼太が借りてたノート。ありがとうって」

私は晴人くんと同じように説明してノートを差し出す。
美優ちゃんは驚いたように目を瞬かせた。

「あっ、うん! どういたしまして!」

それから、少し困ったように笑う。

「古典のノートもうすぐ提出だったでしょ?だからちょっと困ってたんだ。ありがとう」

「ごめんね、ちゃんと返せてよかった」

「ううん! ちゃんと戻ってきて助かったよ、ありがとう!」

美優ちゃんがにっこり笑うと、なんだかこちらまでホッとする。

初めて話した美優ちゃんは噂に聞いてたとおり、ふんわりと優しい雰囲気だった。意外と、普通にできるものなんだな。

なんとなくそんなことを思いながら、次は結月ちゃんのところへ向かった。



「だからこれ蒼太が借りてた漫画」

「えっ、そうだったんだ。ありがとう」

私はこれで三回目の嘘を説明し少女漫画を手渡す。

「これ面白いよね」

私は思わず呟いた。

「えっ、読んでるの!? えぇ、嘘!? 」

勢いよく詰め寄られ、思わず少しのけぞる。

「え、えっと、うん。その作者が好きで」

「これあまり知られてないから話せる人いて超うれしい!あっ、陽葵ちゃんは白銀か黒瀬くんどっち派?」

「最初は白銀だったけど、黒瀬くんが一途すぎてやっぱり黒瀬くん派かな」

想像以上の熱量に少し圧倒されながらも、私は小さく笑った。

結月ちゃん、こんなに漫画の話するんだ。

そんな新しい発見をしながら、私は頷きながら彼女の話に耳を傾けた。

「わかる!!! あの、8巻のシーン!! 黒瀬くんがさ、――」

「8巻?」

私は思わず聞き返した。

「え?」

彼女が目を瞬かせる。

「あ、私まだアプリで読んでる途中で......たぶん、そこまで行ってないかも」

「あっ、ごめん!! ネタバレしちゃった!?」

彼女は顔を青ざめさせて、口元を手で覆った。

「いや、大丈夫! 気にしないで!」

「でも、せっかくならちゃんと自分で読んでほしいし! ね、よかったら貸してあげるよ!」

「えっ?」

「うちに単行本あるから! 陽葵ちゃんが最新話まで追いつくまで、私、話すの我慢するから!!」

彼女は真剣な表情で、ぎゅっと拳を握る。

「ほんとに?」

「もちろん! だって、好きな作品を語るなら、ちゃんと読んでからのほうが絶対楽しいもん!」

その言葉に、じんわりと胸が温かくなる。

「ありがとう。じゃあ......借りてもいい?」

「もちろん! 絶対感想おしえてね!」

彼女は満面の笑みを浮かべ、小指を差し出した。

私は少し笑いながら、その小指にそっと自分の指を絡めた。

少女漫画みたいな展開に、少しだけ胸が高鳴る。

本を机に置いた瞬間、蒼太がすぐに顔を寄せてきた。

「お前さ、なんか今日すげぇ楽しそうだったな?」

「そんなことないよ」

「いや、あったね。めっちゃ笑ってたし」

「......それ、そんなに珍しい?」

私が少しムッとして言うと、蒼太は「おっ?」といたずらっぽく口角を上げた。

「お、ついに自覚した?」

「してない」

「いやいや、絶対しただろ。いいねぇ、青春って感じ!」

「......ほんと、うるさい」

私はそっぽを向いて、教室の外に視線を移す。けれど、蒼太は満足そうに頷きながら続けた。

「でもまあ、よかったじゃん。今日の陽葵、前より楽しそうだったし」

「そんなこと言って、次から何も変わらなかったらどうするの?」

「そしたらまた俺が後押ししてやるよ。つーか、お前がまた勝手に話しかけられてる未来しか見えねぇけど」

「そんなわけないでしょ」

私は呆れながら言ったけど、蒼太は「いやいや」と首を振る。

「陽葵、もう気づいてんだろ。話すの、そんなに悪くないって」

私はそれには何も言わず、本の表紙を撫でる。

「......まあね」

ほんの少しだけ、小さく認める。

蒼太はそれを聞くと、満足そうに腕を組んで頷いた。

「よし、いいね。じゃあ、次は友達と飯でも行ってみるか!」

「調子に乗るな」

私が即座に返すと、蒼太は「ちぇっ」と拗ねたふりをした。

「ま、ゆっくりでいいけどさ。とりあえず、今日は上出来ってことで」

私は静かに息を吐きながら、再び本に目を落とした。

――少なくとも、今の私は少しだけ、昨日よりも賑やかだ。



学校が終わり、私は蒼太と廊下を歩いていた。教室を出た後、急に蒼太が立ち止まり、私もその後ろで足を止めた。彼の目線が、校舎の奥の方へと向けられた。

私は、蒼太が指さす方を見て、少し目を細めた。そこで立っているのは、背の高い男子だった。

「......誠也」

「え?あいつが誠也?」

私は蒼太の言葉を繰り返しながら、少し首をかしげる。

すると、誠也がこちらを見て、無愛想に目を合わせてきた。その瞬間、私は思わず軽く息を呑んだ。

「え、怖いんですけど?」

私は思わず心の中で呟きながらも、なんとなく話しかけてみることにした。

「えっと、あの、蒼太のことなんだけど......」

私が蒼太の名前を出すと、誠也の表情がピクリと変わった。その瞬間、私はちょっと引き気味になった。

「な、なんか怒ってる?」

私は心の中で軽く笑った。だって、こんなことで怒るなんて変な感じだし。

「あぁ?」

誠也が冷たく言い返してきた。私はその声に、思わず目を丸くしてしまった。

え、怖いんですけど?

私はちょっと戸惑いながらも、冗談っぽく続けてみた。

「あ、いや、蒼太が親友って言ってたからさ......どうしたのかなって」

彼女は軽い気持ちで言ったのに、誠也は一切の反応もなく、ただ無言で歩き去っていった。

私はその背中を見ながら、ちょっと肩をすくめてつぶやいた。

「え、怖っ。なんか思ってたのと全然違うじゃん」

「あれは怒ってるわ」

私のつぶやきを聞いて蒼太は笑いながら答えた。

「まあ、誠也はああいうやつなんだよ。根はいい奴なんだけどなぁ」

そう言いながらも、蒼太の目は誠也の背中を追い続けていた。何か言いたげに口を開きかけるが、結局言葉にはせず、そのまま息を吐く。

私は蒼太の視線を追い、去っていく誠也の背中を見つめた。

「......追いかける?」

軽く冗談めかして言ったつもりだった。

けれど、隣の蒼太は真剣な顔で頷いた。

「追いかける」

そう言うと、彼は誠也の後を追って歩き出した。

幽霊の蒼太は、どこまで行っても誠也に追いつくことはできない。

でも、私にはできた。

「......はぁ、仕方ないな」

私はため息をつきながら、蒼太の後に続いた。

廊下を抜け、校舎の隅にある部室棟へ向かう。

誠也は、そのままサッカー部の部室に入っていった。

扉が閉まる直前、私は素早く駆け寄り、中の様子を窺う。

「......は?」

不意に、近くの部室の方から、低い声が聞こえた。

私はそっとそちらを覗く。

そこにいたのは、誠也だった。

険しい表情で、部室の奥を睨みつけている。視線の先には、二人の男子がいた。

サッカー部のメンバー――いや、元メンバーか。

「別に、アイツがいなくなっても部活は普通に回るしな」

「むしろ、蒼太ってマジで真面目すぎてウザかったよな」

「そうそう、勝手に気負ってたっていうかさ」

「お前、サッカーそんなに好きか?みたいな」

「結局、自己満だったんじゃね?」

私は、思わず息をのんだ。

そして、誠也がそれを聞いてしまったことに気づき――胸がざわついた。

誠也は、静かに前へ歩き出した。

「お前ら、今、何つった?」

その一言に、空気が凍りつく。

二人が振り向くと、誠也の鋭い眼差しと真正面からぶつかった。

「せ、誠也......?」

「今の、もう一回言ってみろよ」

低い声。張り詰めた空気。

二人の男子は、気まずそうに視線をそらした。

「べ、別に......ただの冗談だし......」

「そ、そうそう。そんな本気で怒ることじゃ......」

「......ふざけんなよ」

誠也の拳が、ぎゅっと握られる。

「アイツは、そんな中途半端な気持ちでやってたんじゃねぇよ!」

言葉を詰まらせた二人に、一歩近づく。

「自己満足?気負ってただけ?違えよ。アイツは、誰よりも本気でやってたんだよ。お前らみたいに言い訳して、適当にやってたんじゃねぇんだよ」

「......っ」

「蒼太は、俺たちがサッカーを楽しめるようにって、誰よりも努力してたんだよ。それをウザいとか......」

誠也は歯を食いしばる。

「お前らに、そんなこと言う資格なんかねぇよ!」

二人は何も言えなかった。ただ、気まずそうに視線をそらし、やがて足早に部室を出ていった。

静寂が訪れる。

「誠也......」

蒼太がそう呟いた。しかし、誠也にその声は聞こえない。蒼太は悔しそうに拳をにぎりしめるしかなかった。

誠也の肩が、小さく震えていた。

私は迷った。

自分なんかが、こんな場面に踏み込んでいいのか分からない。

だけど――このまま黙っていたら、後悔する気がした。

だから、思い切って口を開いた。

「......あの」

誠也は動かない。

それでも、私は続けた。

「......蒼太は、あなたのこと、本当に親友だって思ってたと思う」

誠也の拳が、ぎゅっと握られる。

「たぶんだけど......蒼太は、感謝してると思うよ」

「……バカかよ。お前に何がわかんだ」

かすれた声で、誠也が呟く。

「俺、何もできなかったのに……」

私は、それにどう返せばいいのか分からなかった。

けれど、思うままに言葉を紡いだ。

「……それでも、そばにいたんでしょ?」

誠也の呼吸が、一瞬止まる。

「それが、蒼太にとっては十分だったんじゃないかな。だって――そういう奴だったでしょ、蒼太って」

誠也の喉が、詰まったように震えた。

目の前で、涙がぽつぽつと床に落ちる。

「ははっ、そうだな。蒼太はそういう奴だったな」

誠也が顔を伏せる。

その肩に、幽霊の蒼太がそっと手を伸ばした。

もちろん、触れることはできない。

けれど、そっと微笑みながら、小さく囁く。

「......ありがとな、誠也」

誠也の涙は止まらなかった。

私は、そっと視線を落としながら、小さく息を吐いた。

――伝わった気がした。


私は静かに歩きながら、夜風を感じた。

誠也のことを考えていたけれど、それと同時に、ふと昔のことを思い出す。

――昔、友達に裏切られた。

信じていたのに、気づけば私はひとりになっていた。あのときの冷たい空気、笑い声、自分だけが何も知らなかったあの瞬間。

それ以来、人と深く関わるのはやめた。期待しなければ傷つかないし、どうせまた裏切られるくらいなら、最初から距離を置いていればいい。ずっとそう思って生きてきた。

でも、今日――

「......なんか、違うのかもな」

私はぼそっと呟く。

誠也は怖かった。でも、本当は優しかった。蒼太のことを誰よりも大事に思っていた。サッカー部の連中だって、許せない言葉を口にしていたけれど、誠也の本気に気圧されて、最後には何も言えなくなった。

みんな、ただの「悪い人」じゃない。単純に割り切れるものでもない。

「......私、逃げてただけかも」

裏切られるのが怖くて、人のことを知ろうともしなかった。どうせまた同じことになる、どうせみんな私を置いていく。そんなふうに決めつけて、最初から避けてきた。

だけど、本当は――

「みんな、意外といい奴だろ?」

突然、隣にいた蒼太が呟いた。私は少し驚いて振り向くと、蒼太がいつものように少し肩をすくめて笑っている。蒼太の目は、私の心をよく知っているような、そんな優しさを湛えていた。

誠也も、蒼太も、周りの人たちも。私がずっと遠ざけていた世界には、思っていたよりも温かさがあった。

「......蒼太のおかげ、かな」

「俺はなんもしてないけどな。逆に助けてもらってる側だし」

私は軽く首を振る。

「それでもこんな風に思えたのは蒼太のおかげだから」

「お前は元々、人と話すのが好きなんだよ」

「なんでそう思うの?」

「お前、気づいてないかもしれないけど、会話してる時の顔、すごく楽しそうだから」

私は思わず笑みを漏らした。その言葉が、少し照れくさくもあり、心地よかった。

蒼太と歩いていると、ふと道端に咲いているひまわりが目に入った。

「なぁ、ひまわりの花言葉って知ってるか?」

私は少し考えたあと、軽く首を振る。

「ひまわりの花言葉って、『あなただけを見つめる』なんだって」

「ロマンチックだね。なんだか、太陽に向かってずっと咲いているひまわりって、誰か一人を真剣に思う気持ちが込められてる気がする」

私はひまわりを見つめながら微笑んだ。

「でも、太陽がないときって、ひまわりってどうするんだろう。咲けなくなったり、しおれたりするのかな」

蒼太は少し黙った後、穏やかな表情で答えた。

「それでも、ひまわりは咲こうとするよ。たとえ太陽が出なくても」

私は静かにひまわりを見つめながら、その言葉の意味を噛み締めた。

それから、時間は早く流れていった。蒼太の未練を消すために、いろんなことをした。夏祭りに行ったり、誠也が出てるサッカー部の試合の応援にも行った。さらには新たに追加されたリストをこなした。

「これで本当に成仏できるのかな」

私はふと立ち止まり、心の中で問いかける。蒼太の未練は残りひとつ。けれど、私の気持ちは晴れなかった。どれだけ楽しんでも、心のどこかで蒼太のことが引っかかっていた。

「おい」

この未練がなくなれば、蒼太は―――

「おい!」

「わぁッ!」

私は思わず後ろに跳ねて、そのまま驚きの声をあげた。目の前には、逆さまに浮いている蒼太がいた。

「何回も呼んだのに、大丈夫か?」

私はようやく我に返り、息を吐いた。

「ごめん。ちょっとぼーっとしてた。で、どうしたの?」

「だからやっぱり家の話はなかったことにしてくれ」

蒼太は真顔で言った。

「えっ、どうして」

今日は最後の未練である『親に気持ちを伝える』ために蒼太の家に来ていた。

「とりあえず今日は一旦帰ろう。あっ、ほら俺他にも未練が」

「ちょっと蒼太!」

家から遠ざかっていく蒼太を追いかける。

「よく考えたら母さんは葬式にも来てくれてたし、これ以上未練は......」

蒼太はそう言いながら、ふっと視線を落とした。

でも、すぐに気づいた。

――嘘だった。そんなはずなかった。

本当はまだ、心の奥に引っかかっているものがある。分かっているのに、それを認めたくなくて、言葉にしてごまかそうとしている。

私はそっと息を吸った。深く、静かに。胸の奥にたまったものを吐き出すように。

 蒼太の横顔を盗み見る。ふとした瞬間に見せる寂しそうな表情も、彼がごまかすように浮かべる笑顔も、ずっと見てきた。だから、気づいてしまった。

「蒼太、いつも夜の8時になると、どこかへ行っちゃうよね。最初は気にしてなかったけど……でも、気づいたんだ。たぶん、その時間にお母さんが帰ってくるんじゃないかって」

私がそう言うと、蒼太は何も答えなかった。

「本当は何よりも気になってるじゃないの?」

静かに問いかけると、蒼太の表情が一瞬、揺れた。

「......そんなことねぇよ」

絞り出すような声だった。

「俺は、もう死んでるんだぞ。今さら家に帰ったって、意味なんか――」

「意味ならあるよ!」

思わず叫んでいた。

「だってッ」

私が言いかけたその瞬間――

「......あのー、うちに何か用ですか?」

背後から、不意に女性の声がした。

私はびくっとして振り向く。

言われなくてもわかった。玄関の前に立っていたのは、蒼太のお母さんだった。

キリッとした雰囲気の中に滲む、どこか柔らかな目元が蒼太にそっくりだ。

疲れているのか、少しやつれた顔。それでも、どこか優しさを感じさせる表情をしていた。

「すみません......あの......」

言葉に詰まる私をよそに、蒼太は一歩も動かない。

いや――動けないんだ。

蒼太は、お母さんをじっと見つめていた。まるで、今にも消えてしまいそうな顔で。

「えっと......」

私がどう答えようか迷っていると、お母さんはふと小さく笑った。

「もしかして、蒼太の友達?」

蒼太が――息をのむ音が聞こえた気がした。

「......はい」

私は思わず頷いていた。

「そっか。ごめんね、こんな時間に。よかったら、中に入っていく?」

お母さんはそう言って、玄関の扉を開ける。

私は、ちらりと蒼太の方を見た。

蒼太は、ただ立ち尽くしたままだった。

今なら、伝えられるかもしれない。

彼がずっと言えなかった言葉を。

私は、静かに息を吸った。

「......蒼太のこと、お母さんと少しお話ししたくて」

そう言って、お母さんの家の中へ、一歩踏み出した。

蒼太の家に入ると、ふわりと懐かしい匂いがした。

木の温もりを感じるリビング。カウンターには湯気の立つマグカップが置かれ、その横には、小さな写真立て。

そこには、小学生の蒼太とお母さんが並んで笑っている写真があった。

「座っててね、お茶入れるから」

お母さんはそう言ってキッチンへ向かった。

私はふと蒼太の方を見た。

蒼太は、静かにその写真を見つめていた。

「蒼太......」

私がそっと名前を呼ぶと、蒼太は小さく息を吐いた。

「……母さん、女手ひとつで俺を育ててくれたんだ」

ぽつりと、蒼太は言った。

「父親はいない。物心ついた時からずっと、母さんと二人だった」

「うん......」

「仕事も忙しくてさ。でも、どんなに疲れてても俺のために晩飯を作ってくれて、運動会にも来てくれて……すげぇ、頑張ってた」

蒼太の声が震えた。

「......俺、ちゃんと恩返しできなかった」

私は、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。

「バイトして、大学に行って、ちゃんと働いて......それが当たり前にできると思ってたのに」

「......蒼太」

「結局、俺は何もできないまま死んだんだ」

蒼太はぎゅっと拳を握った。

「俺がいなくなって、母さんをひとりにしちまった」

「......そんなことないよ」

私は、精一杯の声で言った。

「......っ」

蒼太が顔を伏せた、その時だった。

「ごめんね、お待たせ」

お母さんが戻ってきた。

「あの......」

私が緊張しながらも口を開くとお母さんはふっと微笑んだ。

「蒼太は、学校ではどんな子だったのかしら?」

少し寂しそうなその問いに、私は迷わず答える。

「蒼太は、本当にみんなに好かれていました」

言葉にすると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

「私、ずっとひとりだったんです。でも、蒼太は毎日話しかけてくれて......本当はすごく嬉しかったんです。蒼太のおかげで、嫌いだった自分の名前が好きになって、毎日が、楽しくなったんです」

お母さんは静かに目を伏せた。

「......蒼太、優しい子だったでしょ。あの子が生まれてすぐ、お父さんが事故で亡くなってしまったのだけれど......あの優しさは、きっとあの人譲りね」

ゆっくりと言葉を紡ぐお母さんの指が、ぎゅっと膝の上で握られる。

「そんなふうに蒼太のことを思ってくれて、ありがとう」

その一言に、蒼太の肩が小さく震えた。

「蒼太はね、いつも私のことを気にかけてくれていたのよ。小さい頃なんて、お手伝いもたくさんしてくれて......」

「......母さん」

蒼太が、今にも泣きそうな声でつぶやく。
だけど、その声はお母さんには届かない。

「私ね、毎日考えるの。もし、あの子が生きていたらって」

お母さんの声が、少しだけ震えた。

「もっと一緒にいてあげればよかった。もっと甘えさせてあげればよかったって、何度も思うの」

蒼太は俯き、ぎゅっと歯を食いしばる。

「でも......きっと、蒼太は向こうで元気にしてるわよね」

そう言って、お母さんはそっと目尻を拭う。

「だから、私も前を向かないと......」

お母さんの手が、そっと写真立てに触れた。
そこには、屈託のない笑顔を見せる蒼太の姿が映っていた。

しばらくの沈黙が流れた。

「......蒼太っ」

ぽつりと、その名前がこぼれる。

「蒼太......蒼太......」

震える声が、徐々に大きくなる。

「ごめんね......ごめんね!」

お母さんの肩が揺れたかと思うと、次の瞬間、彼女は崩れるように膝をついた。

「蒼太......会いたいよ......っ」

隠そうとしていた涙が、(いせき)を切ったように溢れ出す。
嗚咽がこぼれ、震える手で写真立てを抱きしめる。

蒼太は、もう耐えきれなかった。

「母さんっ......!」

震える声が漏れた瞬間、蒼太の目からも涙がこぼれ落ちた。
けれど、どれだけ手を伸ばしても、お母さんにその声は届かない。

「俺、ここにいるよ......!」

どうしようもない現実が、胸を締めつけた。

お母さんの泣き声が、静かな部屋に響いていた。
私が何を言っても、この悲しみは癒せないのかもしれない。

だけど――

「......蒼太は、今も隣にいます」

私は、そっと口を開いた。

お母さんは涙を拭いながら、少しだけ微笑んだ。

「ありがとね......」

きっと、励まそうとしてくれているんだと、そう思ったんだろう。
お母さんは、それ以上信じようとはしなかった。

でも、お母さんの隣には確かに蒼太がいる。

「母さん......俺だよ」

蒼太が、掠れた声で呟いた。

お母さんは、蒼太の言葉に気づかないまま、かすかに微笑んでいる。
蒼太は唇を噛みしめた。

「なぁ、母さん。俺さ、小さい頃、母さんに隠れてお菓子食べたことあったろ?」

私は、蒼太の言葉をそのまま繰り返した。

「ソファの下に隠して、夜にこっそり食べようとしたら......結局、アリがたかって大変なことになったんだよな」

お母さんの瞳が、かすかに揺れた。

「......それ、どうして?」

「母さん。俺が熱を出した時、ずっと手を握ってくれてたよな。その時、母さんが寝ちゃって」

「ふたりで夜まで寝てた」

私がいい切る前にお母さんが言葉を続けた。

「それは......蒼太しか、知らないはずなのに」

お母さんが、震える指で写真立てを握りしめる。

「本当なの......?本当に蒼太が......」

「はい。蒼太は、ここにいます」

私は、強くそう言い切った。

蒼太が、そっと微笑んだ。

「母さん、ずっと言いたかった。......ありがとう。俺を産んでくれて、育ててくれて、本当にありがとう」

私は、蒼太の言葉を、そのまま繰り返す。

お母さんの瞳から、再び涙がこぼれる。

「蒼太なの......?」

かすれた声が、震えていた。お母さんと蒼太は向き合っていた。

そして、お母さんはそっと、写真立てを抱きしめた。

「蒼太......」

その声には、もう確信が宿っていた。

蒼太の瞳が、優しく揺れていた。

「母さん――」

蒼太は、静かに微笑んだ。

「俺、母さんの子に生まれてこれて、本当に幸せだったよ」

お母さんの目が、大きく見開かれる。

そして、何かが決壊したように、崩れ落ちるように泣き出した。

「蒼太......!」

写真立てを胸に抱え、肩を震わせながら何度も名前を呼ぶ。

「そんなこと言われたら......もう、もう......っ」

蒼太が、そっとその場にしゃがみこむ。

「母さん、ごめん。俺、もっと一緒にいたかった」

蒼太の声が震えていた。

「もっと、母さんの料理食べたかったし、一緒にテレビ見たかったし……もっと、もっと……」

私の声も、涙で震えそうだった。

「......母さん、ちゃんと寝て、ちゃんとご飯だべろよ」

お母さんは、嗚咽をこらえきれずに泣きじゃくる。

「蒼太っ、あなたが私の子で本当によかったわ」

その声に、蒼太が静かに目を閉じた。

「......ありがとう、母さん」

私がその言葉を伝えた瞬間――

お母さんの涙が、ぽたりと写真立てに落ちた。

「もうよかったの?」

「......あぁ、大丈夫だよ」

蒼太はどこか晴れやかな顔をしていた。

「......やっぱさ、生きてるって当たり前じゃないよな。だから気持ちは言える時に言っとかねぇとって、今更だけど思ったわ」

蒼太は小さく笑った。

蒼太のお母さんには何度も感謝され私たちは家へと帰ってきた。

リビングには、いつもと変わらない光景が広がっている。食卓に並ぶ料理。テレビの音。最低限の会話だけが交わされる、静かな夕食。

私は黙々と箸を進めながら、さっきまでの光景を思い出していた。

――あんな風に、素直に気持ちを伝えられたら。

蒼太とお母さんの姿を見て、ふと、胸の奥がちくりと痛んだ。

「......ねぇ」

不意に口を開いた。

向かいに座る母が、驚いたように顔を上げる。

「......いつも、ご飯作ってくれてありがとう」

自分で言って、少し気恥ずかしくなる。

母は一瞬、呆気に取られたように私を見つめ――

「......急にどうしたの?」

そう言って笑った。

「いや、なんとなく」

気まずくなって、お味噌汁をすすった。

すると、母がふっと小さく笑いながら「どういたしまして」と返してくる。

それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「明日、何か好きなもの作ろうか?」

「......ハンバーグ」

「はいはい、わかったわよ」

何気ない会話。

だけど、今までより少しだけ、家の空気が柔らかくなった気がした。

私は自分の部屋に戻った。扉を閉めるとそこにはまだ蒼太がいた。

「成仏、できないの?」

「みたいだな」

蒼太は苦笑する。
私は考え込んだ。未練はすべて解消したはずなのに。蒼太の母親も前を向き始めた。

なら、どうして?

私はベッドに腰を下ろし、ぽつりと呟いた。

「......もう、成仏しなくてもいいんじゃない?」

蒼太の目が大きく見開かれる。

「......えっ?」

「だって無理に消えなくてもいいじゃん」

私は勢いよく顔を上げた。

「それか、生き返る方法とか! 幽霊がいる時点で、なんでもありな気がするし!」

「おいおい......」

「絶対に何か方法があるよ!」

私は本気だった。

蒼太が死んだことも、幽霊になったことも、普通に考えればありえないことだった。でも、それが現実に起こったのなら――生き返る方法だって、きっとどこかにあるはずだ。

「ねぇ蒼太、生き返ろうよ」

蒼太は、私の必死な言葉を聞いて、ふっと力なく笑った。

「......そっか」

その声には、どこか納得したような響きがあった。

「え?」

私はきょとんとする。

「なんで俺が成仏できないのか、ようやくわかった」

蒼太は、自分の手を見つめる。透明な指先が、ぼんやりと揺れていた。

「陽葵が俺に未練があるんだね」

「......えっ?」

「お前だけが、俺の死を受け入れてなかったんだ」

私の心臓が、どくんと跳ねた。

「ち、違うよ! 未練があるのは蒼太でしょ?」

「だって、お前がさっき言っただろ」

蒼太は優しく、しかしどこか切なげに笑った。

「“もう成仏しなくてもいいじゃない”って。“生き返る方法があるかもしれない”って」

「それは......」

私は息を呑んだ。

「俺は、もう死んでるんだよ、陽葵」

蒼太の言葉が、胸に突き刺さる。

「でも、お前はまだ、俺がここにいることを当たり前のように思ってる」

「......違う」

「違わねぇよ」

蒼太は一歩、陽葵に近づく。

『なんか今にも『よっ』とか言って出てきそうなんだよな』

『むしろ、蒼太ってマジで真面目すぎてウザかったよな』

『誰よりも努力してたんだよ』

『もしあの子が生きてたらって』

「みんなが俺のことをもう過去として話すのに陽葵はさ。まるで俺がまだ生きてるみたいに話すんだよ」

私の胸に、ひやりとした感覚が広がる。

「......そんなわけ、ないじゃん」

ぽつりと呟くが、自分の声が妙に頼りなく聞こえた。

みんなは蒼太を“もういない人”として話している。
なのに、自分は――。

幽霊になった蒼太と、こうして話していることを当たり前のように受け入れていた。

「......私だけが、蒼太が死んだことを受け入れられていない?」

言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。

蒼太は黙って私を見つめていた。

窓の外から、ふっと夜風が吹き込む。かけていたカーテンが大きく揺れて、月の光が部屋いっぱいに差し込んだ。

蒼太の姿が、はっきりと浮かび上がる。

「......陽葵」

蒼太が、優しく私の名前を呼んだ。

夜風はさっきよりも穏やかになって、静かな光だけが私たちを包んでいる。

「俺、本当は言っちゃいけないと思ってたんだ」

蒼太の声が、微かに震えていた。

「死んだ人間が、こんな無責任なこと言っちゃいけないって思ってた。だって俺は、もういなくなるのに」

「......蒼太」

「陽葵はこれからも生きていかなきゃいけない。俺が『好きだ』なんて言ったら、陽葵を縛ることになる。そんなのダメだって、ずっと思ってた」

蒼太は、微笑んだ。だけど、その目は泣きそうだった。

「でも......やっぱり言わずにいられない」

蒼太は私の肩にそっと手を置く。

「陽葵。俺は、お前が好きだ」

心が、一瞬で張り裂けた。

「......ずるいよ。」

「ごめん。でも、これだけは言いたかったんだ」

「ずるい......」

泣きながら、私は言った。

「そんなの......ずるいよ、蒼太。私、ずっと気づかないふりをしてたのに......」

心の奥に閉じ込めていた感情が、とうとう溢れてしまう。

「私も......蒼太が好きだった。ずっと......ずっと、好きだったんだよ......!」

涙が止まらない。

「でも、言えないよ......だって蒼太、いなくなっちゃうんでしょ......?」

喉が詰まる。息が苦しいほど泣いたのは、いつぶりだろう。

「そんなの、嫌だよ......っ」

蒼太は、静かに微笑んだ。

「ありがとう、陽葵」

「......いやだ。」

「そんな風に思ってくれて、嬉しい」

「......いやだよ、蒼太、消えないで......っ」

震える声で縋る私を、蒼太はそっと抱きしめた。

あたたかい。

本当に、生きているみたいなぬくもりだった。

「俺、陽葵に出会えてよかった」

「そんなの、お別れみたいなこと言わないでよ」

「陽葵がいてくれたから、最後の最後まで楽しかった」

「やだよ......」

涙が止まらない。

「もっと、一緒にいたいよ......!」

「俺も」

「もっと、たくさん話したい......!」

「俺もだよ」

「ずっと、隣にいてよ......!」

「......俺も」

蒼太の声も、震えていた。

「もし、生まれ変わることができたら、また陽葵に会いたい」

「......っ!」

「今度は、最初からずっと隣にいたい」

私の心が、張り裂けそうだった。

「だから、待っててくれる?」

「......約束して」

「約束な」

蒼太が、優しく微笑む。

――― こんなに大好きなのに、もう触れられないのに。

胸が痛くて、壊れそうなのに。

それでも、私は頷いた。

涙を拭うこともせず、私はただ、蒼太を見つめた。





夜が深まるにつれ、私たちはずっと話していた。

他愛のないこと。思い出話。もし蒼太が生きていたらしたかったこと。これからのこと――いや、これからなんてないんだけど。

それでも、ただ蒼太と一緒にいたかった。

部屋の時計が針を進める音がやけに響く。いつの間にか、もう日付が変わろうとしていた。

「......眠くない?」

「眠くない」

嘘だった。まぶたは重く、意識もぼんやりしてきていた。

だけど、寝たら――目を閉じてしまったら、次に目を開けた時には蒼太がいなくなっている気がした。

「無理するなよ」

「無理してない......」

「陽葵って、こういうとこ頑固だよな」

くすっと笑いながら、蒼太は私の頭を軽く撫でた。

「......今日はさ、最後くらい一緒に寝よう?」

「え......?」

「眠くなるまで話して、それで、一緒に寝よう」

私は迷った。眠ったら、きっと――でも、

「......うん」

小さく頷くと、蒼太は私の手を引いて布団に入る。

ふわりとした温もりが隣にあった。並んで横になりながら、ぽつぽつと言葉を交わす。

「......蒼太」

「ん?」

「いるよね?」

「ちゃんといるよ」

優しくそう言われて、安心したようにまぶたが落ちる。

――ダメだ、寝ちゃ……

「おやすみ、陽葵」

耳元で囁かれる声に、私は抵抗できず、ゆっくりと意識が沈んでいった。

そのぬくもりを感じたまま、私は眠りについた。

陽葵に話しかけたのは、ただの気まぐれだった。いつも一人でいる彼女を見かけて、なんとなく声をかけたくなったんだ。

最初はどう反応していいのかわからなかったし、明らかに煙たがられてるのを感じた。でも、なんだか放っておけなかった。

次の日も、また声をかけた。

すると、少しだけど返事が返ってきた。最初は短い言葉だけだったけれど、徐々に陽葵の表情が変わってきた。少しずつ笑ってくれるようになった。あの冷たく見える表情が、次第に柔らかくなっていくのがわかった。少しずつ心を開いてくれる陽葵を見て、俺は思わず胸が温かくなった。

そして、気づけば、陽葵のことが無意識に気になっていた。俺だけに見せるその表情に目が離せなくなっていた。

そんなこと、陽葵は知らないだろうけど......。

――夜の静寂が、部屋を包んでいた。

時計の針は深夜を指している。

陽葵は俺の隣で、静かに寝息を立てていた。

頬に涙の跡を残したまま、まるで小さな子供みたいに、安心しきった顔で眠っている。

俺は、その寝顔をずっと見つめていた。

――こんなに近くにいるのに、触れることができない。

手を伸ばしてみても、俺の指は彼女の髪に触れることさえできず、ただ空を切るだけだった。

「......陽葵」

呼んでみても、陽葵はもう返事をしない。

当然だ。
もう眠っているんだから。

でも、それがどこか寂しかった。

俺が死んだと知っても、こうして俺を必要だと言ってくれた。
俺のことを好きだったと、泣きながら伝えてくれた。

それなのに、俺は――

もう、ここにはいられない。

陽葵は生きている。
俺は、死んでいる。

それが変わることは、絶対にない。

「......っ」

喉の奥が、熱くなった。

込み上げてくるものを、もう抑えきれなかった。


生きたかった。


本当はまだ、生きたかったんだ。


もっと陽葵と一緒にいたかった。
学校に行って、他愛のない話をして、ふざけ合って、笑い合って――そんな日々を、まだ終わらせたくなかった。

「.....ずるいよな」

声が震えた。

――俺だって、本当はもっと生きたかったのに。

気づいたときには、涙がこぼれていた。

死んだ人間に、涙なんて流せるのか。そんなこと、どうでもよかった。

ただ、止まらなかった。

悔しくて、寂しくて、苦しくて。

生きていたかった。

陽葵の隣にいたかった。
もっと、たくさん笑いたかった。
もっと、たくさん話したかった。

でも、もうそれは叶わない。

俺は、いなくなる。

それが、決まっている。

「......陽葵」

最後の力を振り絞るように、俺は彼女の名前を呼んだ。

こんな俺のことを、好きになってくれてありがとう。
俺のために泣いてくれて、ありがとう。
俺のことを忘れないでいてくれて、ありがとう。

「......蒼太......」

微かな声が、静かな部屋に響いた。

陽葵の寝言だった。

俺は目を見開く。

まだ夢の中にいるはずなのに、それでも俺の名前を呼んでくれる。

胸が、強く締めつけられる。

俺は確かに、ここにいたんだ。

陽葵の中に、俺はちゃんと存在していたんだ。

それだけで、もう十分だった。


「......陽葵、大好きだよ」


そっと呟いた言葉は、夜の闇に溶けていく。


涙が頬を伝うのを感じながら、俺は静かに目を閉じた。



飛び起きた私は、部屋を見回した。目が覚めると、蒼太が隣にいるような気がした。でも、すぐに現実が私を引き戻す。蒼太はもういない。

彼の声が、私の耳に響く。

「陽葵。俺は、お前が好きだ」

その言葉が、さっきのことのように鮮明に思い出される。

私はベッドから飛び起き、部屋を駆け回った。蒼太の姿はどこにも見当たらない。窓の外を見ても、彼の姿はない。

「蒼太!どこにいるの?」

呼んでも、返事はない。私は何度も部屋を探し続けた。無駄だと分かっていても、私はやめられなかった。

その時、昨日の夜に彼が言った言葉が再び頭に浮かんだ。

「俺、陽葵に出会えてよかった」

その言葉に、胸が苦しくなった。やっと気づいた。蒼太はもういないんだ。

「私は......」

涙が一気に溢れ出てきた。蒼太がいなくなったことが、今になってようやく本当に感じられた。

涙を拭うこともできず、ただただ泣きながら、私は蒼太が残してくれた言葉を思い出していた。

「陽葵はこれからも生きていかなきゃいけない」

彼が言った通りだ。私はこれからも生きていかなきゃいけない。でも、それがどうしてもできそうになかった。

「どうして......」

その時、蒼太の最後の言葉が、もう一度胸の中で響いた。

「だから、待っててくれる?」

その言葉を私は必死で受け入れようとしていた。泣きながら、私はその言葉を胸に深く刻み込むように心の中で誓った。

「うん」

その誓いが、私を少しだけ強くさせてくれた気がした。

蒼太が残してくれたもの、彼の愛情、優しさ、それらは私の中に生き続けている。



お花屋で買ったひまわりを手に、私は墓地の静かな道を歩いていた。鮮やかな黄色の花が、太陽の光を反射して、まるで蒼太の明るい笑顔を思い出させるようだった。その花を握りしめる手が少し震えて、胸が締めつけられる。

「これ、持ってきたよ、蒼太」

お花屋の店先で、思わず手に取ったひまわり。少し高かったけれど、どうしてもこれが蒼太にふさわしいような気がして、私は迷わず買った。
墓地に着くと、いつものように足を止めることなく、蒼太の眠っている場所に向かった。

ひまわりを墓前にそっと置く。花の香りが、どこか懐かしくて、心を温かくしてくれる。
蒼太が生きていた頃、こうして一緒に歩いた道や、ふざけ合って笑った時間が、ふと頭をよぎる。
でも今、私は一人でこの場所に立っている。

『それでも、ひまわりは咲こうとするよ。たとえ太陽が出なくても』

あの時は意味がよくわからなかったけれど、今なら少しだけわかる気がする。

太陽がなくても、ひまわりは咲こうとする。それが、どんなに辛くても、私は前を向いて生きていかなきゃいけないんだと。
蒼太がくれた、言葉。
その言葉が胸の中で響いて、ふと涙がこぼれた。

「蒼太、ありがとう」

ひまわりの花を見つめながら、心の中で何度も繰り返した。その花が少しでも、私の心を支えてくれるように願いながら。

少しの間、ただその場に立っていたけれど、やがて私はゆっくりと後ろを向いて歩き始めた。
蒼太がいなくなった世界でも、私は生きていく。ひまわりのように、どんな暗闇の中でも、少しずつでも咲いていこうと決めた。

その一歩を踏み出すことが、きっと蒼太が望んでいることだと思ったから。

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