夏休みが終わり、新学期が始まった。
 1学期の不登校ぶりが嘘のように、私は学校に通えるようになった。

 天笠原村を離れ東京の自宅へと帰ったあと、両親と改めて話をした。高校受験のための塾はすべて辞め、大学受験を見すえた実用的な英会話スクールに通うことになった。スクールの頻度は週に2回、時間は2時間、宿題はなし。
 休み時間に勉強をすることを止めたら、自然と友達はできた。授業が終わったあと教室でおしゃべりをしたり、休みの日に映画を見に行ったりする友達だ。凜、と気軽に呼んでくれる。

 私の塾通いがなくなると家計にも余裕ができたようで、母は仕事を変えた。残業がなく休みも取りやすい大手の税理士事務所だ。一緒に晩ご飯を作ることもある。ソファで並んで流行りのドラマを見ることもある。たまに「高校受験がないからって気を抜かないでよ」と釘を刺される。そんな私が望んでいた親子関係だ。
 父は相変わらず忙しそうだが、冬休みには3人で旅行に行こうかなんてことを口にする。北海道の函館市に行ってみたいらしい。冬に行ったら凍えるくらい寒いんじゃないのかな、と不安になってしまう。

 藍のことは――私なりに少しずつ消化した。お別れこそ言えなかったが、藍と過ごした日々が消えてなくなることない。藍と出会えたことは私にとって奇跡だった。だから私も前を向かないと。

「あれ、真柴さんじゃん」

 1人で駅前を歩いていると、知り合いに声をかけられた。以前、同じ塾に通っていた女子生徒だ。見知った顔が何人かそばにいるから、学校の授業が終わり、塾へと向かうところなのだろう。
 社交辞令の挨拶をして、すぐに別れた。背中越しにあざ笑うような声が聞こえてきた。

「私のクラスの講師がさ、『真柴みたいにはなるな』って言ってた。受験のプレッシャーに耐えられなかった負け犬だってさ」

 わざと私に聞こえるように話しているようだった。
 負け犬、の言葉に胸がちりついた。小さな棘を刺されたみたいに。

 でもすぐに前を向いて胸を張った。負け犬の何が悪いんだ、と心の中で叫んだ。

 私は負けて潰れたからこそたくさんの物を見ることができた。
 あなたたちは知らないでしょう。青々とそびえる白岳連峰の美しさを。古びたクッキー缶に詰め込まれたビー玉の奥ゆかしさを。人気のない神社の境内で走り回ることの楽しさを。疲れ果てて見上げた空の青さを。絶え間なく薫る木々の香りを。
 奇跡のような出会いに導かれた甘く瑞々しい一夏を。

 私は青を忘れない。
 前を向いて生きていく。
 fin.