「ねえ、なんで急に小野寺くんのこと忘れちゃったの?同じクラスで私の彼氏だった小野寺啓哉だよ!」
「莉奈、朝から変なこと言ってるけどまだ寝ぼけてるの…?夢でも見てたとか…」
「夢じゃないよ!なんでみんな覚えてないの!?」
なぜか凛々ちゃんだけでなく、クラスメイトも担任ですら小野寺くんを知らないと言う。
昨日まで普通に同じ教室で授業を受けて、みんなから囲まれていたはずなのに、本当に夢だったんじゃないかと思ってしまうくらい小野寺くんの存在だけが消えてしまったのだ。
「莉奈、大丈夫?体調悪いなら保健室に…あ、莉奈!」
凛々ちゃんの言葉を遮って、教室を飛び出す。
何度も小野寺くんに電話をかけるけど、出ないどころか“この電話番号は現在使われていません”と無機質なアナウンスが流れてくるだけ。
ひたすら学校中を探し回るけど、それでも小野寺くんの姿はどこにもなかった。
–––「突然消えたら、そもそも本当に存在していたのかすらわからなくなる。イマジナリーだったんじゃないかって、疑ってしまうかもな」
そう言っていたくせに、どうして小野寺くんは私の前からクラゲのように突然消えてしまったの…?
小野寺くんの存在がイマジナリーだったんじゃないかって、嫌でも考えてしまう。
それとも私は長い夢でも見ていたのかな…。
小野寺啓哉という存在は私が作った幻…イマジナリーだった?
–––「じゃあ行こうよ、歓迎会」
いつかの小野寺くんに言われた言葉を思い出し、ふとまだ探していない場所が一つあることに気づいた。
私たちが、出会った場所。
自分の気持ちを押し殺して苦しんでいた私を小野寺くんが見つけてくれた始まりの場所…。
「…見つけた」
花壇の前で花を見下ろしていた小野寺くんに目の前まで歩いていき声をかけようと口を開くと、とっくに気づいていたかのようにゆっくりと小野寺くんが私を振り返ってきた。
「よかった、やっぱり消えてなんていなかった」
小野寺くんがもうどこにも行かないように、両手をぎゅっと握りしめる。
「みんながおかしいの。なぜか小野寺くんのことを忘れているみたいで、誰に聞いても知らないって顔されて…。あ、どうして今日教室に来なかったの?ずっと、ここにいたの…?」
何かが変だと薄々私でも気づいてきているのに、なんとなくそれを認めたらいけない気がして核心には触れないように質問を重ねる。
「…莉奈。時間が来たみたいなんだ」
「…え?何を、言ってるの…?」
「俺と莉奈は最初から出会ってなんていなかったんだよ。だからこの世界から俺は消えないといけない。…それは莉奈も同じだよ」
小野寺くんの言っている意味が全然わからなかった。
「どういうこと…?消えないといけないって…出会っていなかったって、なんでそんなこと言うの…?」
「思い出して。この世界は、莉奈が作り出した世界なんだ。いつまでもここにいてはいけないんだよ」
「…私が作り出した世界?何を言ってるの…?仮にそうだったとしても、私はこの世界で、なりたい自分に変わることができて、友達もできて、小野寺くんに出会うことだったできた。ずっとここにいたっていいじゃん。私はこの幸せな日常を、世界を、壊すことなんてできないよ…」
ぎゅっと握りしめていた手に力が込められた。
「俺だって本当に莉奈のことが好きなんだ。離れたくないに決まってる。…だけど、偽りの世界でこのまま生きていくのは莉奈にとってもよくない。莉奈を待っている人がいるから。たとえ、俺と離れることになっても、今の莉奈だったら本当の世界でもきっと強く生きていける。莉奈の日常から俺が消えるだけだよ」
「待って、だからさっきから何を言ってるのか…」
ぐらりと視界が揺れたかと思うと、私の体は地面に横たわっていた。
「起きて、莉奈。本当の世界に戻るんだ。俺のことは忘れたっていいから、この世界で莉奈と出会えて恋をして幸せだった。それでもう十分だから」
「嫌だ…。忘れたくなんて…ない…っ」
私の意思とは反対に体は言うことを聞かず、眠くもないのにひどい倦怠感に襲われだんだんと瞼が閉じてくる。
小野寺くんとの別れが近づいていた。
ずっと気づかないふりをしていた。
この世界が私の生きている本当の世界じゃないことに。
小野寺くんは私が生み出したイマジナリーな存在なことに。
だって、現実は死にたくなるほど辛くて、いいことなんて何一つなくて想像することだけが唯一の楽しみだったから。
それなのに、どうして小野寺くんはこの世界を壊してしまったの…?
「ん…」
「…莉奈?起きたのね、莉奈!」
目を覚ますと、つんっと消毒液の嫌な匂いが鼻をつき、腕には管がたくさん取り付けられていた。
見慣れたこの光景、ずっと忘れていたこの光景。
「…お母さん?」
「そうよ!よかった、やっと目を覚ましたのね…!」
涙目になりながら私を覗き込んできたお母さんに、ぼんやりとする頭で「戻ってきたんだな」と実感する。
私がさっきまでいた世界、夢から覚めてしまったのだと。
「手術が終わってから半年くらいずっと昏睡状態だったのよ。でも本当によかった…!待っててね、今人を呼んでくるわ」
パタパタと慌ただしく駆けていったお母さんの後ろ姿を見送りながら、はあと天井を見上げる。
…思い出してしまった。
私は小学生の頃から心臓が弱く、入退院を繰り返していた。
学校にもたびたび休んでいたため、友達を作ることも苦手でいつからか人と関わることすら苦手になっていった。
体育を休んだり気を遣われたりと周りに迷惑をかけることの方が多かったから、周りの目を気にするようになりいい子でいようと自分の本当の気持ちすらうまく言えなくなったのだ。
それでも思い出に残るような学校生活を経験したいという気持ちを諦められず、自力で頑張って高校受験も合格したというのに入学式の日に大きな手術が決まり参加すらできなかった。
成功する確率は低いけど、もしも成功すればもう苦しむことなく高校生活を謳歌することができるのだ。
医師からの提案に私は迷うことなく手術を受けることを選んだ。
お母さんとお父さんは心配していたけど、今のまま高校に行ったってまた入退院の繰り返しで苦しい日々は死んでるようなものだから、たとえ手術が失敗してしまっても構わないと考えていた。
お母さんが言うには昏睡状態だったけど今こうして起きられたということは、手術は無事成功したのだろう。
念願の高校生活を送れるのだ。
「桂木さん、起きたんだね。さっきそこでちょうど桂木さんのお母さんとすれ違って起きたこと教えてもらったの」
「…え?凛々ちゃん…?」
凛々ちゃんは小さな花束を抱えて病室に入ってくると、怪訝そうに首を傾げていた。
「あ、えっと…学級委員長の高峰さん、だよね?なんで、ここに…?」
この世界の私と凛々ちゃんは今初めて会うのだ。
名前呼びでいきなり呼ばれたら怪訝に思うに決まっている。
「同じクラスなんだから、お見舞いに来て当たり前でしょ?クラスメイトたちも早く桂木さんに会いたいっていつも言ってるよ」
ふと、前までは寂しかった病室に綺麗なたくさんの花が飾られていたり千羽鶴が置かれていて、クラスメイトたちや凛々ちゃんがこの世界でも気にかけてくれていた事実に胸が温かくなる。
「私は…入退院ばっかりの繰り返してで今まで友達もまともに作れなくて、寂しい病室で一人“もしも私が元気な体だったら”って想像してたの。…高峰さんと友達になる想像もしてた」
あの夢は、きっと私の願望だったんだ。
もしも元気な体で高校に入学できていたら、こんな私でも大切な友達ができて、好きな人ができて自分を変えることができるんじゃないかって…そう思った。
「手術は成功して、こうして無事起きることもできたんでしょ?それならこれから一緒に高校生活を楽しもうよ。桂木さんが見た夢、現実にすればいいんだよ」
「…え?」
夢の中と同じ笑顔で凛々ちゃんは笑った。
「時間はたっぷりあるからさ、これからゆっくり友達として思い出を増やしていこう」
「うん…うん…っ!高峰さんと友達になりたい」
するりと素直な気持ちを言葉にして伝えることができ、自分でも驚く。
夢の中での経験が今の私も変えてくれたんだ。
「あのさ、同じクラスに小野寺啓哉くんって男の子、いたりしない…?」
「小野寺啓哉…?そんな名前の男子はうちのクラスにいないし、他クラスでも聞いたことないと思うけど」
「そっか…」
やっぱり、小野寺啓哉という人物は夢の中で私が作り出したイマジナリー的存在だったんだ。
もう二度と会うことができない…。
「そろそろお母さん戻ってくるだろうし、私はもう行くね。また学校で」
「あ、うん…!来てくれてありがとう」
泣きそうになるのを必死に堪えながら、なんでもないように凛々ちゃんに手を振り返す。
初めからわかっていたことだけど、小野寺くんがいないこの世界で生きていくなんて苦しい。
忘れていなかっただけまだマシだけど、たとえ夢の中だったとしても私の支えだった存在であることに代わりはない。
小野寺くんはどうして無理矢理幸せだった私の夢を壊してしまったんだろう…?
この世界で昏睡状態の娘に目を覚ましてほしいと願っていた私のお母さんとお父さんのため?
まだ一回も行けていない学校で待ってくれている優しいクラスメイトたちのため?
理由はなんにしても、小野寺くんは誰よりも優しいから、甘い夢の中に堕ちて二度と戻ってこれなくなりそうだった私をきっと苦しみながらも助けてくれたんだ。
幸せなことにも私を待ってくれていた人たちがこの世界にはたくさんいたから。
君だけがいないこの世界に…。
「そんなの意味がないじゃん…っ」
無邪気に笑う顔、なんでも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれるところ、私を引っ張って連れ出してくれる強くて逞しい性格、私を見つめる優しい眼差し。
こんなにも愛おしい気持ちを知ってしまって、私はこれからどう生きていけばいいの…?
小野寺くんという存在を失った私にとってこの世界は残酷だ。
「…あ、目が覚めたっていうの本当だったんだ」
懐かしい大好きな声に、ハッと顔を上げる。
「…泣いてるの?」
涙で歪む視界の中、確かに君が…小野寺くんが私の目の前に立っていた。
「…小野寺くん?」
「え?俺の名前知ってるの?…もしかして、話しかけてたの聞こえてた?」
どうして。どうして小野寺くんがこの世界にいるの?
「最近この病院に病気の母さんが移ってきて、よくお見舞いに来ていたから俺と同い年くらいの女の子が入院してるって聞いたんだ。誰でも面会はしていいことになっていたから、母さんの見舞いついでに君に会いに来てた。一方的にずっと話しかけていたんだけど、届いてたのかもな。ずっと直接話したいと思ってたんだ」
そっと涙を拭ってくれた小野寺くんが、優しく笑った。