大正妖精綺譚

「彫刻作品なんて買った覚えはないのだけれど」
「お前の家の俥夫が壊しただろう」
「木彫りの置物のこと? あれはあなたが投げたからじゃない!」

 食事が終わり、やっと帰れると思っていたところへ、「せっかくだし、二人で少し散歩でもしてきたらどうだ」と父から定番の提案をされ、小姫は渋々、晋一郎とともに濡れ縁から庭へ降りた。
 妖精について詳しく話を聞きたいしちょうどいい、と自分の気持ちを切り替える。

 池を中心に小径が巡らされた庭園は、整えられた草花の合間に石灯籠が点在し、歩くにつれて景色が移ろう造りになっている。池の中央には小島が浮かび、そこへ太鼓橋が架けられていた。

 微妙な距離を保ちながら、二人そぞろに歩く。

「大丈夫か」
「え?」

 きょとんと首をかしげると、晋一朗が小姫の足元へ視線を落とした。

「歩きにくいだろ、それ」

 なにかと思えば、履物のことを言っているらしい。
 用意された草履は歩き慣れたものではなく、たしかに少し頼りない。けれど、庭を少し歩く程度なら問題なさそうだ。

「別に平気──っと、わっ⁉︎」

 一歩足を踏み出した途端、敷石の隙間に草履の先を取られ、ぐらりと身体が傾いた。

「きゃっ」

 転ぶ、と思った瞬間。
 反射的に伸ばした手を、強い力が引き寄せた。視界が揺れ、一瞬、身体に軽い衝撃が走る。
 気が付けば、晋一朗の顔が目の前にあった。どうやら抱きとめて支えてくれたらしい。
 至近距離で見る晋一朗の顔は凛としていて、思いのほか整ってみえる。

「……っ」

 小姫は思わず息を止めた。
 近い。意識するな、と思うほど、かえって意識してしまう。じわりと頬が熱くなるのが分かった。

「だから言っただろう」

 余裕のある声にむっとして、腕の中でじたばたもがく。

「ちょっとつまずいただけです」
「暴れるな。また衝突されたら堪らない」
「衝突って……、あっ」

 小姫の脳裏に、先日の出来事がよみがえる。

 不可思議な現象に気をとられ、不用意に振り向いた拍子に、うしろにいた晋一朗にぶつかってしまった。ほんの一瞬の、偶然の出来事。けれども、あのときたしかに、彼の唇に触れてしまった。
 一気に思い出して、顔から火が出そうになる。小姫は飛び退くように距離を取り、慌てて口元を袖で隠した。

 あれは事故、不可抗力。
 そう言い聞かせても、早鐘を打つ心臓は、なかなか静まりそうにない。

「あれは、そのっ……」

 焦りと照れと申し訳なさが、一度に押し寄せる。

「……すまない、余計なことを言った」
「えっ……?」

 見上げると、晋一朗の耳がほんのりと赤く色づいていた。自分だけが取り乱していたわけではないのだと分かって、なんだか少し安心する。

「……こちらこそ、失礼いたしました」

 それだけ言って、小姫は静かに身を引いた。

「足元、気を付けるように」
「はい」

 素直に頷いて、自分を落ち着かせるように、視線を庭の奥へ向けた。
 穏やかな陽光を受けて、池の水面がきらきらと輝いている。

「……あら?」

 中央の小島へとつながる太鼓橋──その上に、ひとつの影が見えた。

 裾を引くねずみ藤の着物に、結い上げられた艶やかな黒髪。白粉を刷いた肌は、まぶしいほどに冴えわたっている。澄んだ空気をまとって佇むその姿は、ため息がこぼれてしまうほど美しかった。

「綺麗……」

 この世のものとは思えない。
 小姫は思わず足を止めて、ハッと晋一朗を振り仰いだ。

「あそこにいるの、もしかして妖精ではない⁉︎」
「どう見ても芸者だろう」

 そのとき。
 シャラ、とビラ簪がかすかに音を立て、芸者がゆっくりと振り向いた。一重まぶたの切れ長な瞳が、すっと流し目をよこす。
 婀娜っぽい仕草に、小姫の心臓は小さく跳ねた。妖精と間違えるのも無理もない。

「そっか、妖精……」

 艶麗な芸者は、落ち着いた声でぽつりとこぼした。
 そして、ふっと視線を外して欄干に手をかけたかと思うと、ぐいっと身を乗り出した。

「わっ、危な──」
「見て。あそこ」

 白魚のような指で示された先。

 水面に浮かぶ杭の先端に、大きな泥団子のようなものが乗っていた。
 よく見れば、短い手足が生えていて、表面にはぼつぼつと疣のようなものが浮いている──蟇蛙(ヒキガエル)だ。

「ギャーッ!」

 可愛げのない悲鳴をあげて、小姫は反射的に晋一朗の腕にしがみついた。

「……爬虫類(サラマンダー)は平気だったのに、両生類(カエル)はだめなのか」

 なにが違うんだ、と晋一朗が不思議そうに首をかしげる。

「だって、なんだかぬめっとしてるじゃない!」
「そうか?」

 できるだけ池を見ないよう晋一朗を盾にしながら、じりじりと後退る。
 ふいに芸者が口を開いた。

「よく見て。あの蛙、羽が生えてる」
「羽だと?」

 池に歩み寄る晋一朗に引き摺られ、小姫もあえなく池に近付く。

「イヤーッ!」
「本当だ。羽に、尻尾まで。おまえ……きみも見てみるといい」

 芸者の前だからか、少しだけ控えめな言葉遣いで晋一朗が言った。
 とん、と肩を押され、小姫は嫌々、おそるおそる、薄目でそっと杭の上を見やった。
 褐色の胴体に、不釣り合いな薄い膜の翼。だらりと垂れた紐のような尻尾。まるで、蛙に蝙蝠の羽を無理矢理くっつけたような、ちぐはぐな姿だ。

「もしかして、あれ……」
「ああ。水を飛び越えるもの(ウォーター・リーパー)という妖精だ」

 小姫は思わず眉をしかめた。
 てっきり、妖精とは美しい姿のものばかりだと思っていたのに。

「あの種族は前にも保護したことがある。おとなしいから従者の力は必要ないが、魔導書(グリモワール)がないと封印は……」
「それなら、ここに」

 持っていた風呂敷包みから魔導書を取り出すと、晋一朗が少し感心したように目を開いた。
 外出中に妖精を見かけたら必要になるかもしれないと思い、念のため持ち歩いていたのだ。

「お姉さんたち、あれが欲しいの?」

 芸者が静かに小首をかしげた。

「え、ええ。まあ……事情がありまして……」
「そう。分かった」

 次の瞬間。
 芸者はためらいもなく欄干に足をかけ、思いっきり腕を伸ばした。