大正妖精綺譚

 家に戻ると、玄関先で黒猫が待ち構えていた。

「ただいま、タビ」
「ねうねう!」

 足元へ駆け寄ってきたタビが、すり、と脚に身体を押しつけてくる。
 思い出せないけれど、この個性的な鳴き方をする猫を拾ってきたのは小姫らしい。
 もっとも、名前は父がつけたという。小姫なら、きっとあんことかおはぎとかにしただろう。

「おかえり、小姫」

 タビを抱き上げたところに、瑠生と環がやってきた。

「ただいまもどりました。……あら、それは?」

 瑠生の持っている封筒に目を向ける。

「実は、先程まで客人が来ていてね」
「客人?」
「きみに縁談話だよ」
「えぇーっ!?」

 小姫は思わず悲鳴をあげた。
 しばらくはそういった話から解放されると思っていたのに、現実は甘くないらしい。
 けれど、瑠生がいつものように断ってくれるはず。
 そう思った、次の瞬間。
 ぽん、と封筒を押し付けられた。

「えっ……?」

 反射的に受け取ってしまった封筒を見下ろし、小姫は目を瞬かせた。
 封筒を覗き込もうとするように、タビが前足をちょいちょいと伸ばす。

「つまらなそうな男だけど、悪くはないんじゃない?」

 さらりと言って、瑠生は背中を見せた。

「じゃあね」
「ちょっ……待って! 瑠生⁉」

 呼び止める声も届かないふりで、そのまま玄関先を離れていく。

「どういうこと!?」

 環へ詰め寄ると、環は少し考えるそぶりをしてから微笑んだ。

「私もお会いしましたが、誠実そうな方でしたよ」
「たま兄まで!?」
「では」

 眼鏡を押さえて一礼すると、環も瑠生のあとを追っていってしまう。
 玄関先に取り残され、小姫は呆然と立ち尽くした。

「どうなってるの……?」


     *     *     *


 見合いなど、やはり来るのではなかった。
 小姫は庭園の小径を歩きながら、そっとため息をついた。

 相手が到着するまでまだ時間がある。
 どうせなら少し気分転換でもしてこようと、席を抜け出したのである。

 池を囲むように植えられた木々は青々と葉を茂らせ、水面には初夏の陽射しがきらきらと反射している。景色だけを見れば申し分なく美しいのに、気持ちはまったく晴れなかった。

 ゆっくりと歩きながら周囲を見回すと、太鼓橋が目についた。ゆるやかな弧を描く橋と、その下に広がる池。

「ここ、前にも来たことがあるような……」

 小姫は欄干に腕を乗せ、池を覗き込んだ。鮮やかな鯉が尾を揺らし、陽光を散らしている。
 ぼんやりと眺めていると、背後から聞こえた。

水を飛び越えるもの(ウォーター・リーパー)でもいたか?」
「うぉ……、なにそれ?」

 振り返ると、背広姿の青年と目が合った。

「蛙のようなものだ」
「ここ蛙がいるの!?」

 小姫は反射的に後退った。
 青年の口元が、ほんのわずかにゆるむ。
 そのなにげない表情に、どうしてかきゅっと胸が締めつけられた。
 どこかで会ったことがあるのだろうか。
 けれど、思い出せない。
 小姫は首をかしげながら、改めて相手を見た。

「あなた、もしかして縁談の……?」
「また写真を見ていないのか」
「また?」
「なんでもない」

 なんだか妙な人だ、と思ったとき。
 ふ、と視界の端をなにかが横切った。
 小鳥ほどの大きさの影。けれど、鳥ではない。
 透明な羽根を持った人形のように見えた。

「いまの……」
「妖精でもいたのか?」
「妖精……?」

 平然と言われて、小姫は目を瞬かせた。

「あなた、ずいぶんと浪漫主義者(ロマンチスト)なのね」

 なんだか微笑ましくなってくすり笑うと、青年は少しだけ目を細めた。

「そうかもしれないな」

 その表情を見た瞬間。
 胸の奥で、なにかが音を立てた気がした。

 風が池の上を渡っていく。
 懐かしい花の香りがした気がして、小姫は思わず息を呑んだ。
 閉ざされていた扉が開くみたいに、たくさんの光景が溢れ出す。

 百鬼夜行のような幻想的な光景。
 瑠璃色の賽子に、革張りの魔導書。
 従者たち、妖精たちの笑い声。
 硝子の森。妖精王。

 そして──自分の隣に立つ、彼の姿。

「晋一朗、さん……?」

 喉からこぼれた声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 忘れてしまっていた。
 あれほど大切だった時間を。
 あれほど大切だった人たちを。
 代償となったはずの記憶。途切れ途切れだった記憶が、まるであるべき場所へ戻るようにつながっていく。

 小姫は晋一朗を見つめた。
 初めて会ったときに能面みたいだと思った顔は、驚きと安堵で見る影もない。
 張り詰めていたものがほどけるように表情が揺れて、その瞳には隠しきれない喜びがにじんでいた。
 その顔を見ただけで、胸がいっぱいになる。

「……思い出したんだな」

 答える代わりにこくりと頷くと、涙が一粒こぼれ落ちた。

「ひどい」

 目尻を拭いながら言うと、晋一朗が困惑した様子で眉を寄せた。

「なにがだ」
「好きだなんて、言い逃げして」

 晋一朗が「うっ」と呻くような声をもらした。
 その反応がおかしくて、小姫は思わず笑ってしまう。

「忘れてしまうと分かっている相手に告白するなんて、ずるいのではない?」
「それについては謝罪した」
「そういう問題じゃないわ」

 即座に言い返すと、晋一朗は困ったように視線をさまよわせた。口では敵わないと思ったようだ。

「……では、どうすればいい」
「そうねぇ」

 わざと考えるように首をかしげてみせると、晋一朗は眉をひそめた。そんな反応さえ愛おしい。

「もう一度、聞かせてもらえる?」

 妖精界で告げられた言葉は嬉しかった。
 忘れてしまうのが悲しくて、どうしようもなく苦しかった。
 あのときは返事をすることができなかったけれど、今度はちゃんと受け止めたい。

 晋一朗はしばらく黙り込んでいたけれど、やがてすうっと息を吸った。まるで商談の席にでも臨むかのような表情だ。
 そして、真っ直ぐに小姫を見つめて口を開いた。

「小姫」

 名前を呼ばれただけで、胸の奥があたたかくなる。
 ほんの少し前まで忘れていたはずなのに、思い出してしまえば、その声がどれほど自分にとって特別だったのかが痛いほど分かった。

「俺はおまえを尊敬している」

 そこからはじまるのが、いかにも晋一朗らしい。
 妖精界で別れたときもそうだった。この人はいつだって、小姫の気持ちや考えを軽んじず、一人の人間として向き合ってくれる。

「人間か妖精かなど、おまえは気にしなかった。立場も身分も関係なく手を差し伸べる。危険だと分かっていても放っておけない。そういうところを、俺は何度も見てきた。……正直に言えば、何度も肝を冷やした」

 晋一朗が小さく息をはいた。

「おまえは無茶ばかりするからな」
「褒めてます?」
「褒めてない」

 すかさず突っ込んでから、晋一朗は表情をやわらげた。

「俺は、おまえが好きだ。おまえのことも、おまえの夢も守りたい」
「晋一朗さん……」
「今回の件で、帝都は深く傷ついた。復興にはまだ時間がかかるだろう。だから俺も、自分にできることをする。妖精も人間も、共に生きられる未来のために」

 両界の問題は、すべて解決したわけではない。人間界の復興も、妖精界の安定化も、これから探っていかなければならないのだ。
 けれど、晋一朗の瞳は真っ直ぐだった。いつだって理性的で、現実を見据えていて、それでも理想を諦めない。

「その道を、おまえと一緒に歩きたい。同じ景色を見ていたい。だから……、俺の隣にいてほしい」

 差し出された手が視界に映る。
 あの日と同じようでいて、少し違う。
 今度は偽装ではない。共犯者でもない。

「結婚してくれ、小姫」
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」

 あの時と同じように答えて、晋一朗の手を握る。
 その瞬間、胸の奥がいっぱいになった。嬉しくて、涙が出そうだった。

「……そういえば」
「なんだ」

 ふいに口を開いた小姫に、晋一朗が若干の警戒を見せる。

「今日のお見合い相手って、本当に晋一朗さんでいいのよね?」

 一瞬きょとんとしたあと、晋一朗は呆れたように息をついた。
 その反応がおかしくて、小姫は思わず吹き出した。
 つられるように、晋一朗も声をあげて笑う。
 初夏の風が池の上を渡っていく。
 その風に紛れるように、小さな歓声や拍手の音が聞こえたような気がした。
 思わず顔を上げると、同じ事を考えたのか、晋一朗もこちらを見ていた。

 どちらからともなく微笑んで、二人はもう一度笑い合った。