大正妖精綺譚

 森が途切れ、視界がぱっと開けると、ふたたび一面の花畑が広がった。
 天高くそびえる銀色の巨木。その枝葉は天蓋のように空を覆い、風が吹くたび、淡く光る葉がシャラシャラと鳴った。

 樹の根元に立つふたつの人影を見つけ、小姫の心臓が大きく跳ねる。

「──瑠生!」

 気が付けば、小姫は花を踏み分け駆け出していた。
 瑠生がはっと顔を上げる。群青色の瞳が、大きく見開かれた。

「小姫……?」

 瑠生は信じられないものを見るような顔で、しばらく呆然としていたが、やがて困ったように目を伏せた。

「どうして……」
「迎えに来たに決まってるでしょう」

 動かない瑠生の代わりに、一歩前へ出た人物がいた。白金の髪が風に揺れる。

「よくもここまで来られたものだ。妖精たちが手を貸したのか」

 妖精王の声は、呆れるでも驚くでもない、淡々としたものだった。

「そうよ。みんなが手伝ってくれたの」
「うまく手懐けたようだな」
「違うわ」

 小姫は首を振った。
 妖精たちは気まぐれでわがままだ。それでも力を貸してくれたのは──

「人間界を気に入っているのよ」
「は……?」
「あの子たちは、人間界でたくさんのものを見てきたわ。ときには人間と遊んだり、こっそりお菓子をもらったり。居心地のいい場所を見つけて住み着いた子だっているでしょう。だから、壊れてほしくないのよ」
「妖精界が安定すれば、人間界への影響もなくなると言ったであろう」

 妖精王はわずかに眉を寄せた。理解できないというような顔だ。

「災害は収まるどころか、規模が大きくなっているわ」
「いずれおさまる」
「あなたの言ういずれって、いつ? 何時間? 何日? 何年後?」

 妖精王は答えない。ただ不思議そうに小姫を見ていた。
 きっと、人間にとっての一日と、妖精にとっての一日は、同じ長さではないのだろう。
 もし百年ですら一瞬の夢のように過ぎ去るのだとしたら、人間の尺度など通じない。

「何年もかかるようでは困るの。それなら瑠生をこちらに返して」
「できない。妖精界を安定させるには、この器が必要だ。これが新たな依代となれば、私の魔力は増大し、妖精界の安定につながる。それがなぜいけない」
「だからって、瑠生を犠牲にしていいわけないでしょう!」

 理屈は分かる。
 妖精界が崩れれば人間界も無事では済まないのだろう。
 けれど、そのために瑠生ひとりへすべてを押し付けるなんて、間違っている。
 胸の奥から、次々と想いが溢れてきた。

「犠牲になっていい人なんていない。私は人間界も、妖精界も、瑠生も──全部を助けたいの」
「小姫……」

 瑠生が息を呑んで顔をあげた。

「なにか他に方法はないの?」

 食い下がる小姫に、妖精王は首を横に振る。

「都合の良い方法などない」
「……探した?」
「は?」
「本当に、全部探した?」

 妖精王が言葉を失い、瑠生も呆気にとられた顔になるが、小姫はさらに一歩前へと踏み出した。

「ないって決めつけるのは簡単よ。でも、探してもいないのに諦めるのは絶対に嫌。私は諦めない」

 真っ直ぐ見上げると、藍白の瞳が小姫を見返してくる。
 やがて、妖精王は静かに口を開いた。

「……ひとつだけ方法がある」
「本当?」

 妖精王の視線が小姫の手元へと落ちる。
 握りしめていた手のひらを開くと、瑠璃色の賽子がきらりと光った。

「それを渡せ。その賽子は私の力の一部だ。それがあれば数年は妖精界を安定させられる。人間界の災害も落ち着くだろう」
「その数年の間に、真に妖精界を安定させる方法を探せばいいのね」
「ただし──」

 妖精王の藍白の瞳が小姫を射抜く。

「賽子を手放した瞬間、おまえは妖精に関する記憶を失う」
「そんな……」

 心臓がどくりと鳴り、小姫は思わず賽子を見つめた。

「これまで妖精の力を振るってきた代償だ」

 翠柳堂(すいりゅうどう)で、妖精を逃がしてしまったときのこと。
 見合いの席で、妖精を保護したときのこと。
 タビと出会ったときのこと。
 みんなで駆け回った日々。
 そして────

 小姫は静かに、隣に立つ晋一朗を見上げた。

 彼と出会ったことまで、忘れてしまうのだろうか。
 そう思った途端、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

「記憶をなくして、どうやって安定化の方法を探すというのだ」
「……俺の記憶はどうなる?」

 晋一朗が低い声で尋ねた。

「記憶を失うのは賽子の主人(マスター)のみだ。従者(ヴァレット)は関係ない」
「ならば俺が……、俺たち従者が役目を受け継ぐ」

 迷いのない声で晋一朗が答える。

「もう魔導具は使えないのにか」
「構わない。それで瑠生さんが人間界に戻れるなら」

 瑠生がわずかに目を見開いた。

「晋一朗さん……」

 小姫が思わず名前を呼ぶと、晋一朗は小さく肩をすくめた。

「……これで、婚約解消だな」
「偽装だけど、悪くない婚約者たったわよ」

 冗談めかして言うと、晋一朗もつられるようにわずかに笑った。

 胸の奥がちくりと痛む。
 忘れてしまうのだ。この人と過ごした時間も、交わした言葉も、全部。

「──なら、本当に婚約するか?」

 ふいに告げられた言葉に、小姫は息を呑んだ。
 晋一朗は真っ直ぐこちらを見つめている。冗談を言っている顔ではなかった。

「俺なら、おまえの夢ごと受け入れられる」
「こんなときに、なにを……」
「おまえが好きだ」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、鼓動が跳ねる。
 晋一朗はまぶしいものでも見るように目を細めた。

「人間も妖精も関係なく、誠実に向き合う姿勢を尊敬している」
「どうして……」

 嬉しい。なのに、苦しい。
 視界がどんどんにじんでいく。

「どうしていま、そんなこと言うの。私、忘れてしまうのに……」
「忘れられてしまう前に伝えたかった。身勝手を詫びる」

 ほんの一瞬だけ、晋一朗の表情が揺らぐ。けれど、すぐにいつもの冷静な表情に戻っていた。
 はじめて会ったとき、能面みたいだと思った顔だ。

「でも、それで決意が変わるおまえじゃないだろう?」
「よく分かってるじゃない」

 悔しいくらいに、晋一朗は小姫のことを分かっている。きっと、この胸の内までも。
 それでも止めようとせず、送り出してくれる。それが、どうしようもなく切なくて、どうしようもなく嬉しかった。

「……あとを、お願いしてもいいですか」
「ああ、任せてくれ」

 小姫の手のひらで、瑠璃色の光が静かに揺れる。
 妖精王に向けて、小姫は賽子を差し出した。

 次の瞬間。

 甘い香りとともに花びらが一斉に舞い上がり、まばゆい光が世界を満たした────